島袋百恵・画「山田真山」




私は一宮市図書館で戦前の写真集を見た。仏像三体の写真があるではないか、しかも阿弥陀仏は戦後バラバラにされ公園に放置されていたのを犬山成田山の裏山に安置したこと、脇仏は岐阜県の谷汲山華厳寺山門前に安置したことが記されていた。早速、現地に赴いたのはいうまでもない。犬山成田山では当時誰が寄贈したのかは教えられないと言う。そこを、芸術研究で是非とも知らないと困ると交渉するとしぶしぶ教えてくれた。しかも電話番号まで。(木村さんという人だが今はネットで姓名も明らかになっている)
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山田真山の彫刻のあゆみは村田保像、帝国劇場の孔雀の彫刻、1919年の帝展出品の「審判の来る日」が入選したころ山田真山後援会が出来て彫刻作品などが頒布された。那覇市が購入したのはこのときのものであろう。1920年の第二回帝展に彫刻「自覚」が入選。1936年に愛知県一宮市公園の阿弥陀仏、勢至観音、観世音菩薩の原型を夫婦で赴いて製作したが、これを新たに原型から作り始めて鋳造完成させたのは木村鐵工所主の木村小佐衛門である。1938年には琉球新報社長の太田朝敷像も手がけた。
真山作品が那覇市民ギャラリーで公開されたとき、私は説明文「9メートルの幻の大仏」も書いた。日本画家の金城安太郎さんに師の山田真山について話をきいたことがある。『山田先生はよくチージへ行かれ酔えば安来節で踊り、空手の突きなどを連発して周囲を辟易させておられた。今回、那覇市が購入した作品は大変珍しいもので、私も当時の作品は目にしたことはありませんが、彫刻については那覇・開洋会館にあったダバオ開拓の父といわれた大城孝蔵像は先生の作品で私も手伝いました。また先生から教わって仏像を作ったこともあります』、ちなみに現在チージにある獅子頭とミルク面は安太郎さんの作品である。

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山田真山「極楽」(部分)

山田真山
1958年3月 「沖縄戦跡 平和慰霊観音像建立趣意書」







1960年4月6日ー阪本勝兵庫県知事がコザ市など視察、夕方山田真山画伯の平和慰霊像を見学した。

阪本勝 さかもと-まさる
1899-1975 昭和時代の政治家,評論家。
明治32年10月15日生まれ。大阪毎日新聞記者をへて昭和17年衆議院議員。尼崎市長から29年兵庫県知事に当選。革新知事として知られ,2期後東京都知事選にでたが敗れた。のち兵庫県立近代美術館館長。昭和50年3月22日死去。75歳。兵庫県出身。東京帝大卒。著作に「洛陽飢ゆ」など。(→コトバンク)



山田真山 サエラ(携帯080-1533-3859)所蔵