さて、NYを訪れた一番の目的は、現代美術を見ることでしたが、それも含めて4つの美術館を見学しました(初心者はメジャーなところから)。「メトロポリタン美術館」、「Moma(近代美術館)」、「ホイットニー美術館」、「グッゲンハイム美術館」。他にも、ラテンアメリカ美術館(エル・セル・ムセオ・デル・バリオ)や、ユダヤ人美術館など、気になる所もありましたが予定が合わず、この4館の見学となりました(残念)。メトロポリタンは全世界の美術や工芸品などが見れます。ここでの目当てはイスラム美術でした。イスラム美術の細かな装飾やガラス、モザイクタイルなどを見ました。ホイットニーは、ナンゴールディンの映像作品を覚えています。本当はここでライアン・マッギンレーという作家の写真が見たかったのですが、この時は展示されていませんでした。Momaは一番良かった。ピカソ、ゴッホ、ルソー、マチスなど、有名どころの作品が多くありました。いままで、あまり関心がなかったのですが、ゴッホのスケッチが一番印象的でした(本物を見てみるものだ)。膝を抱えて顔もうなだれている女性の図(sorrow)ですが、ゴッホの印象が変わりました。グッゲンハイムは、建物の造りから面白いです。そろそろ沖縄に帰りたいと思い始めていた時にフラッと行ってみたのですが、入口でチケットを買ってすぐ、インスタレーション(空間)が始まり、現実を忘れた感覚になりました。館全体(内部)が特殊な空間になっていて面白かったです。ジェームス・タレルの作品だったかと思います。彼の作品は瀬戸内海の地中美術館でも見れるかと思います。純粋に面白いです。彼の作品については全く詳しくはありませんが、ある環境における人間の五感の変化(特に視覚)?のような感じです。うまく表現できません。


ワールドトレードセンター跡地。グラウンド・ゼロと呼ばれています。グラウンド・ゼロとは、「爆心地」という意味があり、原爆を落とされた広島や核兵器の実験場などを指すそうです。この場所がグラウンド・ゼロと呼ばれるのは、それを連想させることから来ているようです。仕切りで中の様子はよく見えませんが、「NY9.11」後、復興して、現在は1つのタワー(ワン・ワールド・トレード・センター)が完成しています。この敷地には全部で7つの施設があったそうですが、今回もまた同じように7つ建設するそうです(ガイドの方いわく)。やはり、そのような事があった場所なので、復興に対し批判的な意見もあったようです。また、建物の中に入る店舗が決まらないと建設が進まない(工事の中断もある?,地価に伴い家賃も高い)、9.11から来るその場所に対する不安などもあるようです。

グラウンド・ゼロ向かいの教会。そこは9.11の際、レスキュー隊の休憩場所として使用されていたとのこと。今でも当時レスキュー隊へ各国から送られてきたメッセージや、日本からの千羽鶴などが展示されていました。観光客や修学旅行生?も多く訪れていました。


チェルシーマーケット。色んな食の店舗が入っています。NYで動き始めた初日は、旅行社の半日ツアーに参加したので、そのコースに入っていました。私は旅先での食事に関しては一人で食べても味気なく、また食欲もそれほどわかないのであまり食べません。この日はツアーのメンバーがいたお陰で、最初で最後のNYでの楽しい食事でした。ロブスターは大・中・小あり。小(約20ドル)ですが、充分すぎる量です。





セント・トーマス教会。この近くにもうひとつ、セント・パトリック教会があります。日曜はセント・パトリック教会に参加しました。地元の人々や観光客、大勢の人が聖堂に集まりました。先唱者の歌声が驚くほど良かったです。

ウィンターガーデン劇場。ミュージカル自体は言葉が聞き取れなくても曲とあらすじを知っていたので楽しめました。ベテラン俳優たちの歌がすごく良かったです。

ブルーノート。ジャズクラブです。日曜はサンデーブランチといって、お酒とランチを食べながらライブが見れます。1時間半程度。30ドルくらいでした。
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アップルストア。スティーブ・ジョブスの自伝が面白かったので、ここも楽しみのひとつでした。

■参考○1924年3月、関西沖縄県人会機関誌『同胞』「米国に於ける移民禁止の布告が発せられて以来は、其の過剰人口を専ら内地に送る事になって、今や京阪神地方だけでも約1万5千人以上を算する」□移民禁止法がなければNYには今の数倍も沖縄人が居たかもしれない。○ウィキペディアー排日移民法(はいにちいみんほう)は、1924年7月1日に施行されたアメリカ合衆国の法律の日本における通称である。正確には1924年移民法(Immigration Act of 1924)、またはジョンソン=リード法(Johnson–Reed Act)であり、日本人移民のみを排除した法律ではない。この法律では、各国からの移民の上限を、1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者の2%以下にするもので、1890年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限することを目的としていた。特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられ、当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることになり、アメリカ政府に対し日系人移民への排斥を行わないよう求めていた日本政府に衝撃を与えた。