2013年10月14日『沖縄タイムス』『琉球新報』「那覇大綱挽」



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久茂地小学校の生徒たち・下は久茂地小学校
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写真・真栄田静子さん





 2010年2月28日、生長の家(光明会館)で「とまり会生年祝並びに新百歳合同祝賀会」があって、家の母(新城敏子)も85歳で呼ばれた。私の家(中之橋食堂)も泊共有地管理委員会の会議(1963年)会場に使われていたことがある。私の息子は『泊誌』発刊年の1974年に大阪市住吉区で生まれた。私の母校は前島小学校(翁長市政のとき久茂地小学校と共に消失)であるが、息子や娘は東大阪市から那覇へ移転の際、読谷生まれの妻が手続きし、かつ那覇市の担当者のミスで泊小学校に通うようになって同校を卒業し那覇中学校に進学した。
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歯科医師でありながら、なおかつ違う道での権威二つ以上の才能に恵まれた人達がいる。山城正忠をはじめ、『英彦のよもやま話』(1979年)の著がある友寄英彦、生長の家の久高将旺。写真家の山田實さんの長兄・山田有勝は東京丸ビルのバトラー歯科院の歯科医で詩人でもあったが、その末弟・保氏は特攻の生き残りで歯科医である。『陸軍嘱託歯科医の沖縄戦:』(1979.10)の著がある平良進。沖縄のチャップリンと云われた舞天こと小那覇全孝,救らい運動の上原信雄などが居る。

1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「久高将旺」


那覇市泊の光明会館(生長の家沖縄県教化部)の蘇鉄
○生長の家は、大本で機関紙の編集主幹をしていた谷口雅春が起こした教団です。生長の家は岡田茂吉の系統と違い、大きな分裂もなく現在に至っています。この教団の特徴は、設立の経緯が同人雑誌だったので現在でも機関紙を定期購読することが信者の勤めとなっていること、またメディア・マスコミには非常に敏感です。マスコミの取材に対してまともに答えを出さない(出せない)新宗教団体が多い中、生長の家だけは毎度ながらもっとも丁寧に回答を出します。生長の家のホームページにも、教義から組織から歴史から沿革その他にいたるまで、丁寧に解説されています。(はてなキーワード

 「沖縄女性遺棄の抗議大会、公明党は不参加の意向」とアベ機関紙・読売新聞 6月11日が報じていたが、2016年6月11日(土)の朝日新聞によれば、宗教法人「生長の家」は9日、安倍晋三首相の政治姿勢に反対し、参院選で与党とその候補者を支持しないとする方針を発表した。方針は、安倍政権を「民主政治が機能不全に陥った時代の日本社会を美化するような主張を行っている」などと批判。「日本を再び間違った道へ進ませないために、明確に『反対』の意思を表明する」とした。沖縄「生長の家」は近所にあって色々と思い出があるが、宗教団体としては旧式に留まっているイメージがあったが今回の方針は「生長の家」が純粋にこの国の未来を憂う「愛国心」に突き進むということだろう。それと、遠因としてアベ政治の補完勢力、公明党バックの宗教法人創価学会の存在もあるだろう。
 
 創価学会の1970年発行の『折伏教典』(池田大作監修)の「外道および民間信仰の実態ー5、生長の家」を抄出する。□教祖・谷口雅春は「生命の実相」のなかで生長の家の雑誌や著書を読むならば、生活に幸福が実現するし、肉体も健康化する。読まなくても、ただポケットに入れておくだけでもよいと説いている。また読者をふやすことが教団の使命で、誌友(読者)増加に尽くすものにはかならず報い(良いこと)があると、しきりに販売拡張の要を説く。しかも、出版、配本、印刷を日本教文社、世界聖典普及会、光明社などと株式会社組織をつくって株主に信者を入れるという用意周到ぶりである。およそ本を読んだり、本をポケットに入れておくだけで、人間の不幸や病気が解決するなどとは、人をバカにした話である。不幸も病気も、過去にその因があって現在に結果としていろいろな不幸や病気が起こるのである。その原因をなんら取り除かず、また、消しえないのに現在の結果に変化が起こるわけがないではないか。(略)健康とか病気とかは肉体の状態であり、貧富は環境の問題で、しかも、それにはそうなった過去の因もある。それを、いまの心の問題として片づけようとするのは、現実の姿に目をつぶらせる現実逃避という以外ない。
  
 因果の理法を無視した、生命の真実の姿を説きえないキリスト教①と、きびしい因果律に立脚して無始無終の永遠の生命を明かし尽くした仏法とはたがいにまったく相反するものであって、なんらそこに共通点もなければ、類似点もなく真っ向から教義が相対立する。それを無理やり同一視しようとする生長の家の論議は、コジツケと、宗教に対する研究不足な偏見の所産でしかない。(略)教典と称する「甘露の法雨」を読誦する。この甘露の法雨は「なにか書きたくてたまらないときに、しぜんと霊感的に出てきたものである」という。その内容は仏教とキリスト教の考えをめちゃめちゃに引用してデッチ上げたものにすぎない。①キリスト教は、唯一絶対神がすべてをつくったと説く。もしほんとうに完全な神が人間をつくったとすると、生まれながらの不平等や、一生、不幸の宿命に泣く人々の存在など、いったいどう説明しようとするのであろうか。キリストの贖罪愛で、いっさいの罪は消えたはずなのに、地上の悪事はふえこそすれ、いっこうに減らないで複雑多元化していく現実である。