2013年11月22日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー宮城新昌/宮城昌康」


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牡蠣王・宮城新昌

1963年9月ー『琉球のあゆみ』志良堂清英「この人と一時間ー国造り60年のあゆみ セオドル・ルーズベルト大統領と会見 カキ養殖王 宮城新昌翁と語る」
□アメリカのピユーリタンに根ざすところの、ハリマンの開拓精神も、陽明学に出発した日本の武士道精神も、蔡温の治山治水の経世思想も帰するところ、国威を発揚する基本的な考え方においては、私はおなじだと思うね。アメリカという国は、建国の初めに先ずインディアンと戦い、次に猛獣と闘い、西へ西へと進んで遂に太平洋沿岸に達した。

先進国が未開の民を手なずけて鉄道を敷き、その周辺の民衆を啓蒙し、文明の恵沢に浴せしめる。ハリマンはこの手段によって、五大鉄道を成し遂げ、太平洋沿岸に到達した。パナマ運河は開通し、大西洋の水は太平洋に注ぎ込もうとしていた。当時ハリマンはこの五ツの鉄道をまとめて、ドイツの3B(ベルリン、バグダッド、バンコック)、イギリスの3C(ケープタウンその他)に匹敵する3A(アメリカ、アラスカ、アジア)を結ぶ線を計画し、満鉄に手を出そうとしたけれど、これは失敗に終わった。

アメリカのニューフロントニアにしても、開拓精神にしろ、今日と雖も厳固として変わることはあるまい。根本的精神は西へ進んで太平洋を越えてアジアと提携し、共存共栄を目的として太平洋上に共同の平和文化国家を打ち樹てようというのが、基本的な考え方である。寧ろこれが極く自然な順路で、アメリカ人の考え方は、これがアメリカに課せられた使命であるとすら信じている。(以下略)



ハリマン【Edward Henry Harriman】
1848‐1909
アメリカの著名な鉄道業者。14歳からニューヨークのウォール街で事務員として働き,株式取引所仲買人を経て,1883年イリノイ・セントラル鉄道の経営に参加する。93年恐慌のなかでユニオン・パシフィック鉄道の再建に成功し,のち社長となった。セントラル・パシフィック鉄道,サザン・パシフィック鉄道にも影響力を伸ばし,1901年にはシカゴ・バーリントン・クインシー鉄道の支配をめぐってJ.J.ヒルと対決した。さらに極東にも目を向け,05年南満州鉄道の買収を試みたが,日本政府の反対により失敗した。(→コトバンク)




1934年11月ー大宜味朝徳『養蠣界の偉才・宮城新昌氏奮闘録』南島社(東京市本郷区駒込蓬莱町5)

1943年1月18日ー『沖縄新報』「沖縄県産業高度工業化一大革新齎す研究 酵母による化学処理へ/夢ではない年産5億万円 宮城新昌氏は語るー世界の牡蠣王とまで称えられた国頭郡大宜味村出身、現農林省水産試験場嘱託宮城新昌氏は旧臘蛋白の化学的処理実際家として知られる桂正一郎氏、薬草研究家の森氏を初め6名の技術者を引具して帰郷し那覇市天妃町に沖縄資源化学研究所を設け理研及び阪大産業化学研究所等の指導協力を得て鋭意県内資源の開発とこれが処理に化学的メスを入れているが、これは本県産業経済に一大転換と飛躍を齎し、(略)同氏の企画は県内の資源即ち甘藷、甘蔗、蘇鉄、琉球松その他総ての産物の化学的処理と言うことにあるがー」