比嘉太郎さんに、『移民は生きる』の出版祝賀会で「おきなわは沖縄の誇りです」と書いてもらった。

1816年 イギリス軍艦アルセスト・ライラ号が琉球を訪れ6週間滞在。後に同艦の乗組員だった退役軍人ハーバード・J・クリフォードが中心となり、琉球海軍伝道会を創設、ベッテルハイムを派遣することになる。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社

1818年1月 バージル・ホール『大琉球 韓国 西海岸航海記』ロンドン(再版2010年 ジェネラルブック テネシー州メンフィス)□スポルディング『日本遠征記』、オズボーン『日本への航海』の中でこの本について述べている。

天保12年(1841年)、14歳だったジョン万次郎は仲間と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号によって助けられます。

1844年4月28日 フランス人ジャン・バチスト・セーシユ提督率いる5隻の東洋艦隊麾下のフォルニェル・デュプラン大佐の軍艦アルクメーヌ号を琉球へ分遣。宣教師テオドール・オーギュスト・フォルカードと清国人伝道師オーギュスタン・高を那覇に残して5月6日に出帆。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社




 『ニューヨーク・タイムズ』は1851年にニューヨーク市で発行していた、ニューヨーク・トリビューン紙に対する高級新聞というスタイルをとり、創刊された。当初は、優れた体裁が人気を集め、順調に発行部数を伸ばしたが、南北戦争後に、南部に対する寛大な論調が反感を呼び、一時低迷した時期もある。その後20世紀に入ると、世界各地に取材網を張り巡らせ、ワシントン・ポストやウォール・ストリート・ジャーナルと並ぶアメリカを代表する高級紙としての地位を確立した


□講談社の『日本写真年表』に「1853年(嘉永6)年、5月アメリカのペリー艦隊の従軍写真師Eブラウン.Jr琉球を撮影する」とあり、また那覇のニライ社から刊行された『青い眼が見た「大琉球」』の中にその撮影状況の石版刷りが掲載されている→□1934年3月30日『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ぺルリ艦隊来航記念号」、沖縄日報主催「ペルリ日本来航八十記念祭」で神田精輝、島袋源一郎が講演。/1934年7月30日、昭和会館で沖縄郷土協会評議員会、郷土博物館の建設と、ペルリ提督上陸記念碑建設のため協議。

1853年6月ーペルリ、首里城訪問□→1926年10月ー神田精輝『ペルリ提督琉球訪問記』/1935年3月ー土屋喬雄『ペルリ提督日本遠征記』弘文荘(沖縄県立図書館所蔵本は国吉真哲寄贈)/1947年2月ー大羽綾子『ペルリ提督遠征記』酣燈社/1962年6月ー外間政章『対訳ペリー提督沖縄訪問記』研究社/1985年10月ー金井圓『ペリー日本遠征日記』雄松堂/1994年4月ー大江志乃夫『ペリー艦隊大航海記』立風書房


安政元年(1854)幕府はアメリカとの間に和親条約を終結し下田と箱館を開港(箱館に於ける小開港)することになった。条約上、箱館の開港は翌年3月であったが、4月15日ペリー艦隊の船3艘が箱館に来航し港内の測量を始めた。更に同月21日には2艘(ポーハタン号、ミシシッピー号)が入港した。ポーハタン号に乗船していたのがペルリ(ペルリとはオランダ発音)こと東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイズ・ペリーである(函館ホテル旅館協同組合)

1858年7月29日ー日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)調印。日米修好通商条約は徳川幕府が日本政府を代表して調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」の署名がなされている。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ。→(ウィキ)

 1859年、ペンシルベニア州西部で石油が発見され、1849年のカリフォルニアのゴールドラッシュを再現する「オイルラッシュ」が起こり、南北戦争の前夜には有用な資源であることが確認された。原油は有用な燃料油を抽出するための蒸留精製が必要なので、直ぐに石油精製がその地域の主要産業になった。しかし、このペンシルベニアの産油地域は田園と山岳であったので、産地での精製経済性や抽出した油の鉄道による輸送効率が悪かった。1865年からは産油地と鉄道あるいは製油所とを繋ぐパイプラインが建設され、この地形的な障害を緩和したが、数多い樽類製造者や荷車運搬手を失業させた。送油パイプライン網が拡がるに連れて、鉄道や電信系統とも一体化され、生産、計画、値付けなどで大きな連係が図られた。。→ウィキ

1860年ー万延元年遣米使節は、江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のためにに派遣した使節団。1854年の開国後、最初の公式訪問団であった。

 1862年、ジョージ・オプディクはウッドを下して市長になり、彼はリンカーン支持者に後押しされ州軍よりも合衆国軍への支援をより強めた。また南北戦争によるウォールストリートの経済的混乱を未然に防いだ他、移民を徴兵する制度の見直しも図った。合衆国議会とリンカーン大統領は近く多くの兵士の軍籍期間が満期になることを懸念して徴兵制度の可決に踏み切った。ニューヨークの徴兵日は7月中旬でリンカーンはミリシアと志願兵を市を統制するために送り込んだ(中にはゲティスバーグの戦いを終えて間もない者もいた)。アイルランド人を中心とした暴動が数千人にも及び、他の都市でも小規模の暴動が起きた。ニューヨーク徴兵暴動は共和党とアフリカン・アメリカンにその矛先が向けられた。

 南北戦争後のニューヨーク市はタマニー協会①による汚職で堕落の一途を辿った一方、メトロポリタン美術館(1872年に開館。その後は基金による購入や、さまざまなコレクターからの寄贈によって収蔵品数は激増し、関係者達の努力の結果、現在では絵画・彫刻・写真・工芸品ほか家具・楽器・装飾品など300万点の美術品を所蔵。全館を一日で巡るのは難しいほどの規模を誇る、世界最大級の美術館のひとつとなっている)、メトロポリタン歌劇場、アメリカ自然史博物館(1869年の設立当初はセントラルパーク内のアーセナル・ビルディング (Arsenal building) に置かれていた)。1874年には、マンハッタン・スクエアの大部分を占めている現在の施設が起工された。、ブルックリン美術館(1895年開館。ニューヨークで2番目に大きな美術館で、150万点の作品を所蔵していると言われている。エジプト美術が充実し、アジア・アフリカ・オセアニア美術も常設。また、多数の浮世絵を所蔵していることでも知られている。1997年から2004年にかけてはBrooklyn Museum of Artと称していた)など現在名のある施設も創立された。またジェームズ・ゴードン・ベネット、ジョーゼフ・ピューリツァー、ウィリアム・ランドルフ・ハーストなどを始めとした記者が書く新聞はニューヨークのみならずアメリカ全土で読まれるようになった。

①タマニー・ホールTammany Hall
アメリカ合衆国,ニューヨーク市の民主党執行委員会の俗称。ニューヨーク郡または市の民主党の組織をさすこともある。 1789年に,民主的な主義と行動,土着の精神をもつ国家的団体がアメリカインディアンの名称をとって聖タマニー協会として創設され,その後約 30年間,中産階級を代表して活躍した。 →コトバンク

サミュエル・ロビンス・ブラウン、(Samuel Robbins Brown、1810年6月16日-1880年)、1869年に女性宣教師メアリー・キダーを伴って再来日して新潟英学校の教師に就任した。しかし、翌年日本政府から横浜に責任を持つようにとの依頼があり、1869年(明治2年)7月17日に横浜に到着して横浜の修文館の教頭兼英語主任に任命された。1873年1月に高島学校を併合して、横浜市学校藍謝堂と改称した。1873年3月の火災により、野毛山の新校舎に移転して、市中共立修文館と改称した。1876年に3年任期の契約切れでブラウンは修文館を去った。修文館の教え子の元桑名藩藩主松平定敬、養子の松平定教、家臣の駒井重格、元会津藩士井深梶之助らがブラウンの私塾の開設を懇願した。ブラウンは要請に答え、松平親子、駒井、井深らの助けによりブラウン塾を開校した。ブラウン塾は1877年開学の東京一致神学校を経て1887年開学の明治学院に発展した。→(ウィキ)

チャニング・ムーア・ウイリアムズ(Channing Moore Williams、中国語: 維廉、1829年7月18日-1910年12月2日)は、米国聖公会の宣教師。日本聖公会初代主教。サンフランシスコを出港し横浜を経由して上海に到着したウィリアムズは、休む暇もなく中国各地を視察した。そんなとき、日本で大政奉還が行われたことを聞きつけたため、大阪に居を移すことにし、川口居留地に建物を得、英語塾を開いた。呼び寄せた宣教師を迎えるため東京に伝道の拠点を移したウィリアムズは、1874年、築地居留地に立教学校を開く。婦人教育を行うことも必要だと考えたウィリアムズは、1872年に女学校を設立する構想を提示し、1877年にはブランシェーにより湯島に立教女学校が設立される。1882年、立教学校はジェームズ・ガーディナーを校長に迎え、立教大学校と名前を変える。→(ウィキ)

1871年11月12日(陰暦)ー岩倉使節団(津田梅子、山川捨松、永井繁子、吉松亮子、上田悌子・・・・・)は米国太平洋郵船会社(英語版)の蒸気船「アメリカ」号で横浜港を出発し、太平洋を一路カリフォルニア州 サンフランシスコに向った。その後アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、1872年3月3日、グラント大統領、アメリカを訪問した岩倉使節団と会見した。 アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。 使節団はキュナード社の蒸気船オリムパス号に乗船して、1872年8月17日にイギリスのリヴァプールに到着した。ロンドンから始まり、ブライトン、ポーツマス海軍基地、マンチェスターを経てスコットランドへ向かう。スコットランドではグラスゴー、エディンバラ、さらにはハイランド地方にまで足を延ばし、続いてイングランドに戻ってニューカッスル、ボルトン・アビー、ソルテア、ハリファクス、シェフィールド、チャッツワース・ハウス、バーミンガム、ウスター、チェスターなどを訪れて、再びロンドンに戻ってくる。1872年12月5日はウィンザー城ではヴィクトリア女王にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。
 ヨーロッパでの訪問国は、イギリス(4か月)、フランス(2か月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(3週間)、ロシア(2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの12か国に上る。帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)への訪問も行われたが、これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものとなった。 当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に、太平洋郵船の「ゴールデンエイジ」号で横浜港に帰着した。留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節帰国後に明治六年政変となった。
 元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。一国の政府のトップがこぞって国を離れ長期間外遊するというのは極めて異例なことだったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。




写真ー1878年(明治11年)10月ー太政官少書記久米邦武編修『特命全権大使米欧回覧実記』 御用刊行所 東京銀座四丁目 博聞社(所蔵・新城良一氏)・〇第7代アメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンの騎馬像ーアメリカ合衆国の軍人、政治家で、1812年の米英戦争のときのジャクソンがモデルになって1853年に建てられた、インディアン、アルカトラズ島も描かれている。

1871年ー西園寺公望は大村益次郎の推薦によって明治3年12月、官費でフランスに留学のために出国。フランス行きの船内では、地球が球体であることを得心したり、白人少年に別れのキスを求められて戸惑うといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。経由地であったアメリカではユリシーズ・グラント大統領と面会している。翌明治4年2月(1871年)にパリに到着した。 その間、後にフランスの首相となる8歳年上で急進党の政治家クレマンソーやレオン・ガンベタ、留学生仲間の中江兆民・松田正久・光妙寺三郎らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。→ウィキ

1874年、新島襄がアメリカでの修行と勉学を終えて帰国。故郷の群馬県安中に一時帰郷した。そこでアメリカ文化やキリスト教の話を若者たちにした。その中に16歳の湯浅半月も居た。1875年11月、新島襄は山本覚馬、J・D・ディヴィスと協力して「同志社英学校を」を設立した。1877年、半月は同志社に入学。1885年に渡米しオハイオ州オペリン大学神学科やエール大学で学んだ。1891年、帰国し直ちに母校同志社の教授。1899年に平安教会の牧師。1901年に新設の京都帝大法学部講師となり大学附属図書館事務にも従事した。


2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会
浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)は再度アメリカに帰った後は、文久2年3月2日(1862年3月31日)にブキャナンの次代の大統領エイブラハム・リンカーンと会見している。同年10月13日(12月4日)に再び日本に赴き、再び領事館通訳に職に就く。文久3年9月30日(1863年11月11日)に領事館通訳の職を再び辞め、外国人居留地で商売を始めた。翌元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。慶応4年8月7日(1868年9月22日)、18年ぶりに帰郷。明治2年(1869年)6月には大阪造幣局の創設に尽力した。その後は大蔵省に務めて国立銀行条例の編纂に関わったり茶の輸出、精米所経営などを行なった。明治30年(1897年)12月12日、心臓病の為東京の自宅にて61歳で死去。日本人に戻る法的根拠が無かったことから死後、外国人として青山の外国人墓地に葬られた。尚、国籍法が制定されたのは明治32年(1899年)のことであった。→(ウィキペディア)

1873年□ 1856年、チェンバレンは母親エライザ・ジェインの死によって母方の祖母とともにヴェルサイユに移住した。それ以前から英語とフランス語の両方で教育を受けていた。またフランスではドイツ語も学んだ。帰国し、オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した。1873年5月29日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌1874年から1882年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。1882年には古事記を完訳している(以下略)。前出の『チェンバレンの交友』には「日本を広く世界に紹介した人というと、ハーンをあげるものが多い。少し前ならシーボルト。ところが西洋ではシーボルトの次はチェンバレンである。」とし、友人としてサトウ公使、アストン、小泉八雲、門弟の和田万吉、岡倉由三郎(註)らとの交友を紹介している。

岡倉由三郎 生年慶応4年2月22日(1868年) 没年昭和11(1936)年10月31日 英語学者。天心の弟
出生地神奈川・横浜 学歴〔年〕東京帝大文科選科
経歴東大選科でチェンバレンに言語学を学ぶ。東京府立一中教諭、七高教授を経て明治29年嘉納治五郎校長の招きで東京高師教授。新村出らと「言語学雑誌」を発刊、35年から独、英に留学。大正15年に東京高師を退官するまで英語科の主任を務めた。その後、立教大学に奉職。開始当時のNHKラジオの英語講座では巧みな話し方で人気を集め、外国語教育、基礎英語の普及に大きな功績を残した。ヘボン式ローマ字の採用を主張したほか、昭和8年出版された「新英和大辞典」は岡倉辞典といわれ、一般に広く用いられた。→コトバンク
岡倉天心の長男の岡倉一雄は朝日新聞記者で、岡倉覚三の伝記をまとめた。孫(一雄の子)の岡倉古志郎は非同盟運動にも関わった国際政治学者、曾孫(古志郎の子)長男の岡倉徹志は中東研究者、玄孫(徹志の子)長男の岡倉禎志は写真家、玄孫(徹志の子)次男の岡倉宏志は人材開発コンサルタント、西洋史学者の岡倉登志は天心の曾孫にあたる。→ウィキペディア/ラングドン・ウォーナー(一八八一〜一九五五)は、ハーバード大学で考古学を専攻。卒業後、五浦で岡倉天心の薫陶を受け日本美術を研究。


明治12年7月 アメリカ前大統領グラント将軍(左から2人目)が日光満願寺(輪王寺)に滞在し、陽明門裏側にて撮影したもの。□国賓として日本を訪れた。グラントはアメリカ合衆国大統領経験者で、訪日を果たした初の人物でもある。浜離宮で明治天皇と会見した。増上寺で松を植樹、上野公園で檜を植樹した。また日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなった。

武藤山治1885年(明治18)より3年間、和田豊治、桑原虎治とともにアメリカに留学し、帰国後、佐久間から武藤に改姓。アメリカでは葉巻煙草製造工場の見習職工として、皿洗い・庭師・日雇い労働者として働いた。
1887年9月ー武藤山治『米國移住論』丸善商社書店□余我ガ國人ノ北米聯邦ニ移住スルノ利アルヲ信ズル事久シ。


1895年、大見謝恒昌が渡米。後に北太平洋鉄道会社に勤める。
1897年11月20日、比嘉統熈、北京丸で横浜出航。12月4日にサンフランシスコ上陸。→1996年4月北加沖縄県人会『沖縄県人サンフランシスコ移住百周年記念誌』

1899年12月、当山久三の斡旋で第一回ハワイ移民。

1901年4月3日、長崎在住の安仁屋政修(琉球新報通信員)渡米。→1903年2月13日『琉球新報』安仁屋政修「アメリカだより」
1902年、湯浅半月(44歳)はアメリカへ図書館事業調査のため旅立った。アメリカではシカゴ大学図書館学校、オルバニー市の図書館学校で貸出の必要性と児童室の必要性を学んだ。1904年、半月は京都府立図書館長に就任。京都府は09年に岡崎公園内に工費15万円を投じ、図書館本館を完成(□→武田五一)。そこには日本最初の児童閲覧室が設けられた。また半月はM・デューイの「十進分類法」を取り入れ「和漢図書分類目録」(美術工芸編、歴史地誌編等10分類全16冊)を刊行した。このときの蔵書は現在、京都府立総合資料館にある。因みに京都府立図書館の一部と、奈良県立図書館(http://www.library.pref.nara.jp/index.html )の建物は移築され今も残っている

1907年9月14日『琉球新報』比嘉統熈「本県人の世界徒歩旅行」

□1952年12月6日『沖縄タイムス』山田有登「50年前の野球ー捕手以外は空手・潟原で最初の米琉試合」
1903年2月25日  アメリカ艦ビッグ・スバーグ号が那覇に寄港、アメリカ水兵と沖縄中学生が潟原で親善野球試合/乗組員が首里城見学の途中、偶然沖縄中学の野球練習を見て、びっくり。翌日、沖縄県を通じて試合の申し込みをした。沖縄中学チームに沖縄野球の父といわれる山田有登選手も参戦、有登によれば「米兵たちは人力車で乗り込んできた。みんな6尺豊かな大男。言葉が通じないので要領を得ず、英語担任の先生が3人がかりでルールの説明を聞き・・・」。沖縄中学チーム対アメリカ水兵の対戦は3日後の28日にも行われた。 

1904年8月、アメリカ人・レブンウォース来沖→1905年『琉球島』刊行。

1905年5月 浦崎康久(浦崎康華の父)移民で渡米するも騙されてメキシコで炭鉱夫。後に脱出しアリゾナ州フェニックスで沖縄人が共同経営する農園に参加していたが1912年11月に腎臓病のため死去。

1905年11月 宮城新昌、アメリカに渡航□1908年ワシントン園芸学校を終えオリンピア牡蠣会社で牡蠣養殖を研究。

1906年、宮古の比嘉財定が第五高等学校を終え東京帝大法科大学に入学した。在学中、柳田國男に出会い、比嘉は柳田に「比嘉村の話」をする。比嘉は10年7月に東京帝大を卒業。農商務省勤務を経て1915年にアメリカ留学。17年にカリフォルニア州立スタリント病院で死去。/小橋川惣吉(小橋川秀男の父)メキシコ炭鉱より逃亡、北米へ(1917年、アリゾナ州フエニックスで秀男誕生)


1984年11月 H・B・シュワルツ著/島津久大、長岡祥三 訳『薩摩国滞在記ー宣教師の見た明治の日本ー』新人物往来社□原書は1908年アメリカで出版。
米国メソジスト監督教会宣教師のH・B・シュワルツが沖縄地区責任者として沖縄・鹿児島間を往復。1907年にシュワルツ一家は那覇区安里に移住する。同年の7月、伊波普猷は那覇区久米の沖縄美以教会で「古宇利島の神話」と題し講演、弟の伊波普成は英文聖書の講義をした。同年12月に本多庸一が来沖すると、伊波普猷は本多の感化を受け禁酒運動に取り組む。

1908年1月の首里小学校での首里禁酒会発足を皮切りに、2月に松山小学校で美山寛一の禁酒演説会、5月にはシュワルツの娘による英語、聖書の研究会もはじまった。1984年に発行された『薩摩国滞在記ー宣教師の見た明治の日本』(新人物往来社)にはシュワルツ一家の写真がある。1908年にバプテストの善隣幼稚園が那覇区に開園した。同年10月には首里メソジスト教会で禁酒会、伊波普猷、佐久原好伝らが演説をする。クリスマス。メソジスト沖縄中央教会で村井牧師のクリスマス祈祷。伊波普猷の新旧聖書朗読、シュワルツ一家のオルガン合奏でクリスマスを祝う。

1909年8月、伊波普猷は3週間にわたって鹿児島、山口、大阪、京都、奈良の図書館を視察する。そこで伊波は財政的規模を奈良図書館に求め、運営に関しては湯浅半月京都図書館長のアドバイスを受けた。1910年5月、伊波の友人、八重山の岩崎卓爾が図書館に新渡戸稲造『英文武士道』など、漢那憲行が薄田泣菫『二十五弦』ほか、浦添朝忠は『資治通鑑』など700冊を寄贈。6月には末吉麦門冬が『俳句の研究』『蜀山人全集』などを寄贈している。かくして琉球学センターとも云うべき沖縄県立沖縄図書館は8月1日、那覇の南陽館で開館式を迎えた。折りしも8月22日は「日韓併合」があった。沖縄図書館の児童書は「中学世界、少女世界、少女之友、少年之友、日本少年、少年、少女、幼年之友、幼年画報」などがあった。

1909年2月28日『沖縄毎日新聞』「合衆国の東洋政策(4)」連載
1909年3月16日『沖縄毎日新聞』「米国石油販売広告ー紐育スタンダード石油会社① 鹿児島米油組合委託販売所/沖縄県下特約販売店・濱田平畩(那覇区字東市場角)、山下分店(那覇区字東町端)、富士丸支店(那覇区字西八十八番地矢野店隣) 」
①紐育スタンダード石油会社1911年にシャーマン法(反トラスト法)違反で解散を命じられ33の独立会社に解体されるまで、アメリカの石油産業を支配していた巨大トラスト。1897年にはニュー・ジャージー州法人の持株会社として再編成された。しかし、1911年、この持株会社もシャーマン法違反として解散を命じられ、ニュー・ジャージー・スタンダード石油(後のエクソン)、ニューヨーク・スタンダード石油(後のモービル)、カリフォルニア・スタンダード石油(後のシェブロン)はじめ33の独立会社に解体された。[佐藤定幸]→コトバンク

1909年3月17日『沖縄毎日新聞』「オペルク氏の沖縄観察談ー私は瑞典(スウェーデン)人でありまして英語で御話する事は随分困難な業ですけれど其英語は私に取っても外国である。また諸君に取っても外国でありますから同じ者同士で暫く御静聴御願いします・・・」

1909年3月19日『沖縄毎日新聞』「燈用石油の話/(略)世界に於ける石油の主産地ー北米合衆国露西亜ガリシア、ルーマニヤ、東印度諸島印度日本などで此の中で最も盛んなのは合衆国及び露国である北米のペンシルバニヤは實に最初に石油業が発達した土地で此地に石油が多いということは・・・・・」

1909年3月23日『沖縄毎日新聞』迂齊「米国便ー来て見れば聞く程もなし富士の山で米国の文明も故国にて思った程に結構なものには無之候愈々真相を知るに従ひ却て感心ならぬ處も多に有之候・・・・」
1909年4月29日『沖縄毎日新聞』「内外新聞記者恊会発起会」
1909年11月、アメリカ人・ウォーナー①来沖。

1991年5月30日『琉球新報』松島弘明「文化ノート/ウォーナー資料を追え」
1996年5月17日『沖縄タイムス』「ワーナー資料沖縄の民芸品 米博物館が保存」
 ①ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881年8月1日 - 1955年6月9日)は、アメリカの美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされるが異論も多い。マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903年ハーバード大学卒業。卒業後ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣された。1910年にロンドンで開催される日本古代美術展の準備をしていた岡倉らを手伝い、3冊の詳細な出品カタログ『日本の寺とその宝物』の英訳に協力した。帰国後東洋美術史を講義、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長を務めるなど、東洋美術の研究をした。1946年、米軍司令部の古美術管理の顧問として来日。朝河貫一とは親交が深く、数々の書簡を交わしたりウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。→ウィキペディア
○日本各地にはウォナー記念碑が6か所もある。最初の法隆寺の碑から、最後はJR鎌倉駅前の碑。