父が作成した系図メモ/新城良一氏作成/クミーオジー和服に丸に日の紋。平敷慶久さんに聞いた家判にもあった。

1968年10月 琉球大学民俗研究クラブ『沖縄民俗』第15号「報告 粟国村西部落 上本部村具志堅部落」

墓前で先祖を供養する清明(シーミー)




クワディーサーとは和名ではコバテイシやモモタマナという樹木。うるま市屋慶名には「屋慶名クワディーサー」という有名な民謡があるのでそれをマンホールのモチーフにしたのではないかと思われる。→「DEEokinawa」


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1953年4月5日に慶福翁が門中総代として神御清明祭で次のように祭文を読み上げている。「曹氏第11代 島袋慶福 謹んで墓前に於いて呈します。(略)平敷慶隆様が検地のため粟国島に御出張になり同地御滞在中(約半ケ年)に粟国にも御子供が出来て現在でも大へん子孫繁昌してをるように聞きます。・・・」


平敷慶隆
1972年11月 外間守善『おもろ語辞書』角川書店

1982年9月 池宮正治『近世沖縄の肖像 上 文学者・芸能者列伝』「平敷慶隆」

1983年5月 『沖縄大百科事典』池宮正治「平敷慶隆ー実務的官僚としてもすぐれ、本土文芸の教養もあり、書も達者だったことがわかる。1702年には内裏言葉并女官糺中取に任ぜられ、『混効験集』や『女官御双紙』の編集に関与した。」

1993年2月 『真境名安興全集 第三巻』「備忘録(昭和6年)/28、曹氏の墓の副葬品ー曹氏浦添筑登之慶白の墓の副葬品に短刀と『カミサシ』とあったようであるが、『カミサシ』は『イチュビガ』金にて茎は銀であったと、その裔孫(島袋慶福)の人の話である。家譜によると此人は尚清王時代に唐船改奉行となって唐に渡られたことがあるけれども年代は伝わらない。36才で死んだようである。又この人の子孫に内裏言葉の編纂にたずさわった人がある。」

島袋源一郎の弟子にあたる林清国(郷土史研究家)は源一郎の指示で「按司系図」を参考に郷土史研究を進めてきた。島袋慶福翁は仲田朝好所蔵の「按司系図」を見て曹姓家譜には無い神世時代の先祖の研究を進めていた。もちろん「必要の分だけ写し取る、疑義の点数多くあれど之により研究を進めて見る」としている。□天帝子ー阿摩彌久・志仁礼久ー天孫氏王ー後裔大里思金松兼王命天孫氏ー4男 西原王子ー恵祖世主ー英祖王ー湧川王子ー湧川按司ー長男 今帰仁按司ー長男 今帰仁城主ー今帰仁城主ー仲宗根若按司ー長男 今帰仁子ー8男 伊覇按司ー3男 玉城世主(先玉城按司の跡をつぐ)ー。家譜ら伝承では以下の通りである。

曹氏・浦添筑登之慶白ー 古波倉筑登之親雲上慶京ー 瀬底親雲上慶均ー平敷親雲上慶隆ー粟国島・島袋ー糸洲三良ーカンジャーヤーー○ー糸洲ー新城樽ー蒲ー三郎-栄徳ー江

粟国島ー糸洲(イシンチジ)のトートーメー/新城家(ニーブー)のトートーメー
□同門の島袋慶輔氏と同行し、港川人を発見した大山盛保氏の事務所を訪ねたことがある。→2007年11月ー沖縄県立博物館新館開館記念展「人類の旅ー港川人の来た道」

母方の玉寄は

粟国島ー母方のトートーメー
護佐丸・・・・・粟国・ヤッチー大ヤー玉寄ー玉寄ー玉寄蒲ー玉寄加那ー玉寄松ー敏子ー新城栄徳

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1940年10月 『國民精神文化』第六巻第十號 河村只雄「粟國・渡名喜紀行」
〇粟国・・・私が見た門中墓も相当大きなものであった。「シルヒラシ」のところには洗骨前の棺が既に6つも並べてあった。ことに極めて最近入れられたといふ棺がある為であらう。夥しい蠅がウヨウヨして居た。私はつくづく琉球に於ける洗骨廃止の急務を痛感せずには居られなかった。/洗骨の問題・・・私はかうした洗骨の風習は早急に改廃すべきものであると思ふが、何でもかんでも「琉球のもの」といふならばあこがれをもつ一部の琉球文化の研究家の中にはこの洗骨を賛美してそれの保存を主張するのもがある。



粟国の墓/内部

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→(おきぐる)

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2007年11月ー沖縄県立博物館新館開館記念展「人類の旅ー港川人の来た道」 かつて同門の島袋慶輔氏と同行し我が家からすぐの、港川人を発見した大山盛保氏経営OK給油所内の事務所を訪ねたことがある。入口には「翁姓門中会」の看板があった。大山氏は翁姓で、最近亡くなられたジーミー創業者の稲嶺盛保氏も同じ翁姓門中である。ちなみに翁姓門中の現在の代表者は稲嶺恵一氏。大山盛保氏は沖縄の歴史と文化に大きな関心を寄せる市民研究者でもあった。購入した粟石の中に動物化石を見つけ、「動物がいたならば人間もいたはずだ」と考えた大山氏は港川で発掘調査を始めた。約2ヶ月半後、地表から約12mの部分で人骨を発見、その後も多くの動物化石や人骨を発見した。


2010年8月27日『琉球新報』

慶応大学の学生たちのブログに□最初の生命は約40億年前、地球誕生から6億年たった頃の海の中で誕生したと考えられている。材料となった基本的物質は原始大気中の成分:メタン、アンモニア、二酸化炭素などの無機物であった。これらにエネルギーを加えることによって、生命の素材は作られたのである。エネルギーは太陽光、雷の放電、放射線や熱、紫外線などによってもたらされたものである。

こうして生命を構成する基本的な物質、生命物質を合成した。アミノ酸、核酸塩基、糖や炭水化物などの有機物である。反応が起った場所としては、エネルギーが十分に与えられたと考えられる海底熱水噴出孔や隕石の落下地点などが注目されている。こうしてできた生命物質は雨によって原始の海に溶け込み、原始スープを形成した。原始スープにごちゃごちゃになって海の中を漂っていた。その中でこれらの物質が反応することによって、初めての生物は生まれたのである


平敷家の墓がある近隣の慰霊塔




金毘羅宮は1935年2月に沖縄糖商同業組合が建立されたもので今では知る人も少ない。
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1935年3月11日 三重城金比羅宮鎮座奉祝祭並竣工式


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1938年3月『沖縄日報』「沖縄糖商同業組合」(上右から2番目に平敷慶福の砂糖委託商)□平敷慶福の子が平敷慶久


1939年 『日報の沖縄人名録』沖縄日報社
□金比羅会ー会長・平敷慶福/副会長・儀間光裕/副会長・森新太郎

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右から二人目が平敷慶久

同期生ー平敷慶久(琉球中央倉庫社長)、仲村清栄(第一相互銀行頭取)、野崎真雄(南西火災海上保険社長)子息に野崎真明氏も保険業。久髙唯栄(琉球銀行業務部長)、宮島長純(沖縄工業高校校長)

1958年4月


1960年 琉球中央倉庫株式会社ー前列右から3人目が平敷慶久


1966年 沖縄タイムス社『現代沖縄人物3千人』平敷慶福の子・平敷慶久

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