2007年10月、第4回沖縄コレクター友の会合同展示会が9月25日から10月7日まで西原町立図書館で開かれた。会員の照屋重雄コレクションの英字検閲印ハガキが『沖縄タイムス』の9月29日に報道され新たに宮川スミ子さんの集団自決証言も報道された。10月4日の衆院本会議で照屋寛徳議員が宮川証言を紹介していた。重雄氏は前にも琉球処分官の書簡で新聞で話題になったことがある。

照屋重雄さん

合同展の最終日は読谷の義父の米寿祝いがあった。途次、息子の運転で母も連れ合同展を見た。上原会長、翁長副会長、宮城図書館長に息子を紹介した。米寿祝いは読谷「体験王国むら咲むらククルホール」であった。友の会副会長の翁長良明氏は36年間「芸大」近くで、なるみ弁当を営んできたが2007年に車道拡張で立ち退きを迫られ廃業に至った。本人は至って意気軒昂で古美術商の免許も取り第二の人生スタートと張り切っている。10月放送の「なんでも鑑定団」に出演したが10月3日の『沖縄タイムス』ダーヴァにテレビ出演の予告と「戦中のお宝ざっくざっく」と題してコレクションの一部が紹介された。10月5日の『琉球新報』に翁長氏は「戦後の象徴『石川』(東恩納博物館)」を書いた。

 ここで沖縄コレクター友の会の歩みを示す。
 1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。

 同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。

  2002年2月、会員の真喜志康徳氏が南風原文化センターで「真喜志康徳の世界展」を開いた。5月には会員の上原実氏が糸満中央図書館で復帰30周年特別記念展として「上原実コレクションに見る沖縄の人々と祖国復帰」を開いた。同月、リュウボウ沖縄広告協会創立20周年記念事業「沖縄の広告展」には会員5名がコレクションを出品した。2003年に会員の伊禮吉信氏が運営する諸見民芸館で「懐かしのガラスビン展」が開かれた。

 2004年8月、会員の翁長良明氏が宜野湾市立博物館で「世界のお金展」、沖縄県立博物館で友の会の第一回合同展「沖縄歴史を綴る秘宝展」、壷屋焼物博物館で翁長氏出品の「沖縄の酒器・沖縄の古陶コレクション」が相前後して開かれた。2005年5月、新城栄徳、上原実出品「琉球弧の雑誌展」が沖縄タイムスロビーで開かれた。6月、諸見民芸館で「あの時、あのころ、なつかしのレコード展」、8月には西原町立図書館で第二回の合同展「コレクター収集資料展」、10月に琉球新報本社で真栄城勇、上原実出品「号外に見る沖縄戦後60年」が開かれた。

 2006年2月、宜野湾市立博物館で伊禮吉信出品「パッチーの世界」、8月の宜野湾市立博物館の「あわもり展」には会員5名が出品した。9月には沖縄市立郷土博物館で第三回の合同展「私のコレクション」を開催した。12月、名護市立中央公民館で翁長氏の講演「私のコレクション」があった。

 沖縄コレクター友の会の新城栄徳は、1988年の緑林堂書店発行『琉球弧文献目録』No.6に「沖縄出版文化史ノート」を書き諸見里朝鴻、佐々木笑受郎、宮田倉太の顔写真も入れた。緑林堂店主の武石和実さんの紹介で新城は、古書店の業界誌『彷書月刊』(1990年2月)に「沖縄に来た画家たち」、「全国古書店案内65沖縄那覇・宜野湾」を2006年5月に書いた。後の古書店紹介では、古美術・観宝堂(TEL:098-863-0583)と諸見民芸館(TEL:098-932-0028)も取り上げた。諸見民芸館館長の伊禮吉信さんは沖縄コレクター友の会のメンバーである。

 2007年のコレクター友の会の例会に県立芸大の粟国恭子さん、浦添市美術館の岡本亜紀さんが参加し「沖縄の金細工展実行委員会」にコレクター友の会も参加を要請された。8月、浦添市美術館での「沖縄の金細工ー失われようとするわざ・その輝き」に会員有志が出品した。

 沖縄コレクター友の会副会長の翁長良明氏は、2008年9月13日~23日まで沖縄市・沖縄こども未来ゾーンのワンダーミュージアムでふるさと園ちゃーがんZOOまつりの一環として「沖縄のお金、世界のお金展」の開催に協力した。翁長氏は首里の雨乞森にあったテレビ塔を持っている。無論、鉄骨全部の保存となると部屋いっぱいになる。肝要な部分と、写真、内部文書を所蔵している。それらのモノは生きた沖縄放送史の証言者ともなっている。翁長氏は戦時中の伝単(宣伝謀略ビラ)や、『ウルマ新報』創刊号を始めとして、新聞人の手書きの原稿(伊江朝助、池宮城秀意)、内部文書などを所蔵している。

 那覇市の平和通りから壷屋焼物通りに抜ける界隈は古美術なるみ堂や、成美堂(TEL:098-862-0041)、琉球文化屋(TEl:090-9656-6155)などが集まっている。旧グランドオリオン通りに沖縄コレクター友の会の仲里康秀さんが「しんあいでんき」(TEL:090-3322-9908)を開いた・古いラジオ、カメラ、時計や戦前の沖縄風景写真が並んでいる。仲里さんに関して新城栄徳が2004年3月の『沖縄タイムス』・「うちなー書の森 人の網」に書いた。「先月、沖縄コレクター友の会ドゥシ真喜志康徳氏と共に南風原町の仲里康秀氏宅へ遊びに行った。古いジュークボックスなどに囲まれた部屋で1968年の『知念高校卒業アルバム』を見た。恩師の当間一郎、山内昌尚、饒平名浩太郎、津留健二。卒業生の物理・放送・無線クラブの仲里康秀、社会クラブ大城和喜、上江洲安昌、宮平実、高嶺朝誠らの諸氏の顔が並ぶ」。


尚育王「書」/任熊「画」



伊禮吉信さん(諸見民芸館館長)ー沖縄市諸見里3-11-10 ℡090-9789-9289


仲里康秀さん「しんあいでんき」(TEL:090-3322-9908)には古いラジオ、カメラ、時計や戦前の沖縄風景写真が並んでいる。

東恩納寛惇は自分の郷土研究を「琉球学」とし、後世にも誇れる琉球文化を追求した。金城朝永が書く「負の文化」は無視したが、戦後はすこしタガを外し嫌いな辻(遊郭)にも行き、料亭松乃下で「家在芳旬舎盡過」と記した。松乃下は映画「八月十五夜の茶屋」でしられている。料亭の入り口の守礼門は金城安太郎さんが考証したもので、料亭の玄関のすぐの所に金城さんが描いた「ジュリ馬」が掲げられていた。辻町の守り神「ミロク」と獅子も金城安太郎さんの作品で、那覇三大祭りの一つであった二十日正月におこなわれるジュリ馬にも登場し、今も在る。東恩納寛惇は戦前の沖縄の図書館と博物館にふれて「郷土芸術と郷土文献とをあれほど豊富に蒐集している点で、博物館と図書館とは日本一であろう。郷土博物館に行ってその蒐集の範囲の広汎なると、逸品の集まっているとには一驚を喫する。(略)そしてこれ等の品物が島袋源一郎君の頭と脚とによって集められたものであるとは驚嘆に値する。折口(信夫)博士は島袋君を評して鋸働きと云ったそうで、これは往復共に働くと云う意味であるらしい」と書いた。

東恩納寛惇は、続けて「図書館の文献は伊波普猷・真境名安興等諸君に依ってその基礎を置かれたものであって、必ずしも島袋全発現館長の功績のみに帰することは出来ないかも知れないが現代に至って新たに追加されたものが亦決して少なくはない。少なくとも従来集められたものを整理しその足らざるを補って完璧に近いものとしたのは全発君の力である。二館二島、蓋し現代郷土文化の重鎮といえる」と書いた。戦前のコレクターについて東恩納寛惇は「(尚順男爵の)紅茘山房の秘庫は奥深くして測知る事は出来ない。山口全則・原田二氏を以て民間蒐集家の双璧としたい(略)なほ二氏に雁行する者に金城増太郎君があるが今のところ二氏とは相当の距離があるように思われる」と書いている。

 1969年、山里永吉編集で『松山王子尚順遺稿』が刊行された。中に藤田嗣治が「紅茘山房の茶室の前には、琉球の古珊瑚礁の奇怪なる形の石を集めてあり、群青色の古池の石灯籠も雅趣に富んでいる。昆布蘭、気狂い茄子、虫取り草、獅子蘇鉄、おじき草、紅型の染料になるという紅花、一夜かぎりを咲いてはしぼむ月下美人の数々-、庭は行けども行けども果てしがない。毒蛇のハブも飼ってある(略)満谷国四郎、藤島武二両画伯の絵が不調和に壁面に浮かび出ている。今宵、とくに蒐集品から選び出された紅型の六枚の女衣裳が、欄間にかけつらねて、一段と光彩を放って優雅」と記した。

私の愛蔵している本に浦崎永錫さんの『日本近代美術発達史[明治篇]』がある。中に「本邦美術の海外進出の端緒を造ったものは各国博覧会への出陳である。慶応三(1867)年のパリ万国大博覧会は日本美術の海外進出の濫觴となった」とある。このパリ万博に佐嘉藩から派遣された佐野栄寿(常民)は、藩主に次のように報告「会場内の日本陳列所にありて、出品の準備をなしたりしに、薩摩藩の岩下佐次衛門より示談ありて、該藩にては薩摩兼琉球藩王の特派使と称し、国内にても薩摩及琉球国と標榜し、日本の旭旗と該藩の旗章とを交叉し、とくに丸に十字の紋を揚げて、此の万国人の衆観を利して、徳川氏と同じく日本天皇の下に独立国たることを欧米列強の公衆に示し、以て国体を明らかにすべく、よりて当藩も亦同式に取り計れよとのことなりしによりと、肥前国とし薩摩にならった。」と記されている。

『日本近代美術発達史[明治篇]』は図版も豊富である。慶応3年パリ万博派遣の徳川幕府一行、薩摩藩一行の写真、明治6年ウィーン万国博覧会派遣の一行、日本陳列場、同国内展示場の図、同年の京都博覧会の図、明治10年工部大学正面、明治六年の国立博物館、フォンタネージ持参のモデル人形、フォンタネージの送別写真、美術家の顔写真などが掲載されている。明治28年の第4回内国勧業博覧会での黒田清輝の裸体画「朝妝」や、それを風刺したビゴーの漫画もある。1972年に田中穣『日本洋画の人脈』が新潮社から出ている。同書の「明治美術の”生き字引”浦崎永錫」に「浦崎は明治元年から45年までの新聞、雑誌や、官報の美術記事に可能な限り目をとおし、必要な個所を切り抜き、写しとったりした。現在カード式といわれる学習法をこの人は40年も前に思いつき実行していた。」とある。

『オキナワグラフ』元旦号に、新都心の”夜明け”と題して沖縄県立博物館・美術館を中心に読谷、嘉手納、北谷、浦添、西原を遠望した上空写真が掲載されている。博物館に隣接する公園の左奥が曾ての麦門冬・末吉安恭家の墓があった所で、折口信夫が戦前、麦門冬の墓参りに訪れた場所でもある。2008年に、沖縄県立博物館・美術館の県民ホールで國學院大学の「折口信夫と沖縄」展があった。少し話しが横道に逸れたが、先の上空写真に住宅地図をかぶせれば建物の名称は特定できる。古い写真でも住宅地図と証言舎で大体の検討はつく。

2009年1月3日、「沖縄文化の杜」の謝花さん、金城さん、仲里さんと同行し末吉宮に参詣。末吉公園入口で画家の山元文子さんと出会う。末吉宮は自然林に囲まれた一角にある。かつては琉球八社の一つで、国宝であった。石造階段は戦災で破損したが、1971年に復元、県指定の文化財でもある。本殿も戦災に遭ったが、72年に史跡として国指定の文化財となり復元された。参詣の帰途、宮里朝光氏、後田多氏を訪ねたが留守。かつてのニシムイ美術村の入口にある麦門冬・末吉安恭家を訪問した。