1912年6月-山田有幹、嘉手川重利、山城正忠が同人雑誌『アソビ』創刊。
1914年11月-仲吉良光、嘉手川重利、山城正忠、、末吉麦門冬、山田有幹と『五人』を創刊。

写真左からー仲吉良光、末吉麦門冬、嘉手川重利、山城正忠、山田有幹
1924年12月13日 山城正忠「麦を弔ふ」
○おい!麦どうしたんだ、頑健そのもののような図体をしていたのに、何と言ふ態だ。しかし僕はどうあってもまだ信ずる事ができない。酔ふたらきっとあの丸太のような腕を捲くり上げて、腕相撲を挑んだり、布袋のやうな下ッ腹突き出して、思ふ存分鉄拳をあてて見ろなぞと、豪語していた君の体が、さう脆くつぶれとは・・・・・・・・誰だってさうだろう。おい!莫 ほんとうにキミは逝ったのか。さうしてもう、われわれ仲間の集まりに、面白い話材を提供してくれないのか。そんならよろしい。誰が二度と頼むものか。逝け、逝け。しかしさうはいふものの何だか寂しい。たより無い僕はキミの永遠の寝床が静かに銘刈の霊屋に置かれたといふ。その晩は、したたか酒をのんだ。ああもう止そう。書くのも嫌だ。泣きたくも、今は涙が出ない。おい!落紅、三十九年はあまりに短い夢だったね。夢ならさめる時もあるが、きみの深い眠りは、もう永劫にさめる時がない、しかし考へて見ると、短いながらも、きみの生涯は、尊い生命の流れであった。その灌漑によって、琉球文化の荒野が、如何に濕されたか沃にされたかを思ふ時、今更敬虔の瞳に伏せて、きみの芳魂を弔はずにはおられない。きみの眠りは万人の惜しむ所である。君のからだは土にかへっても、きみの蒔いた種は、今に芽を吹き、花を咲かせ、実を結ぶであらう。それが無限の生命となって、きみの功績を拡げて行くであらう。きみ また以て冥すべしである。おい!末吉安恭、もうこれでおわかれしやう。左様ならを言はう。僕はここでしばらかの希臘神話にある、リアンダー①や、シークス②の青ざめた幻影を透して惨しいきみの最後を偲ぶ夜がつづくであらう。

□へレスポントス海峡(今のダーダネルス海峡)に面する街、セストスで愛の女神、アフロディティ(ヴィーナス)を祭る神殿の巫女をしていたヒーロー(ヘロ)は、ある祭典の日、海峡を挟んだ対岸の町、アビュドスからやってきた青年、①リアンダー(レアンドロス)と出会い、恋に落ちました。ダーダネルス海峡神殿の塔に住むヒーローは毎夜、明かりをともし、リアンダーはその明かりを目印にして海峡を毎夜泳ぎ渡ってきて、二人は逢瀬を重ねました。しかし、ある夜嵐となって、風はヒーローのともす明かりを吹き消し、海は荒れ、リアンダーは目標を失い、溺れ死んでしまいます。海岸で息絶えたリアンダーを見つけたヒーローは絶望のあまり、塔に駆け上って恋人の後を追って身投げしてしまいました。→「バラ咲く庭の物語」/テサリ王①シークスは妻のハルサイネが「この航海の嵐は激しく、風の衝突によって火を吹く」と述べて航海を思いとどまらせようとしたがシークスは出航した。船は目的地半ばで強い東風の中に突入、波濤の轟き、雨は空と海が一つになったように奔流となって降った。マストに落雷し、こなごなに、舵はこわれ波に呑まれた。

1925年1月 沖縄県教育会『沖縄教育』山城正忠「絵を描くある男との話ー師走のある日、午后のこと」
○・・・それに死んだ麦門冬のことを思ひ出して、さらでだに、心が晦くなっている矢先ですから、そういへば、末吉さんはほんとにお可哀想なことしましたね。全くです。つまらんことをして呉れました。これからがほんとうに、彼の生命の、ぐんぐん延びるところでした、だが一面から考へて見ると、彼らしい最後を遂げたとも言えます。『ねがはくは花の下にてわれ死なん』といふ句を、套句のやうに讃仰していましたからね。なるほど。そんなことがあったとしたら、彼が生前に讃仰していた、涅槃にはいったわけですね。そうです。・・・

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歯科医・山城正忠


山城正忠

写真左から山城正忠、国吉真哲、糸数祥運、宮城長順/扁額「護国寺」は汪楫(1621頃~1689尚貞の冊封正使。字は舟次。安徽省休寧県の人。冊封時の官は翰林院検討。1683年に林麟とともに来琉した。『中山沿革志』『使琉球雑録』『冊封疏鈔』を著す)の書



1949年 沖縄文藝家協曾(山城正忠会長)