2014年12月12日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー新垣筑兵衛/嘉手納憑武」

1924年12月発行の藤田親義『琉球と鹿児島』に麦門冬・末吉莫夢は「薩摩関係の琉球五異人」と題し、新垣筑兵衛を紹介している。12月16日は「紙の日」と上記に言う。麦門冬も首里の自宅近くの製紙業の変遷で大見武憑武にも触れている。
1919年9月8日『沖縄時事新報』麦門冬「首里の製紙業ー其の隆替と変遷」
▲首里区の製紙業を改良せしめ、元始的製造法より文明的製造法に代らしめやうと云ふのは、極めて必要なことである。今同区にある所の製紙業の幼稚なことたら実にお話にならぬものだが、それでも長い歴史を有するから面白い、而して今の同業は却て往昔のものの退化したものであることを認めざるを得ない。 
▲沖縄で初めて紙製造をやったのは尚貞王の18年我貞享3年(西暦1686)で即ち今を去ること二百三十四年前である。那覇の人関忠勇大宜味(●大見武の誤記)筑登之親雲上憑武と云ふ者が薩摩に往って草野五右衛門と云ふ人に就て学び、其製法を伝へ帰った。それが8年後の元禄7年政府より造紙主取と云ふ職を授けられ、官営の製紙業が設けられ、彼はその主任となって経営に任した。而して大見武筑登之は功により宅地を首里金城村大樋川辺に賜りそこにて盛んに紙を製した、製紙の種類はわからないが、國用に供したとあるから、今の紙などよりは遥かに上等な紙であり其製法も進歩したものであったらうと思ふ。
□(略)天保11年(1840)即ち今より80年前、政府は儀保の寶口に家屋を建て紙製造所となし、比嘉親雲上を主任として官営で出来たのは百田紙であった。弘化3年(1846)即ち今より74年前、比嘉親雲上が寶口で始めてより7年後のことである。那覇泉崎の人豊氏金城筑登之親雲上順應が先年薩州に赴き製紙の法を学び来るにより、試みにこの年彼を召し紙座に於いてその所伝の紙を漉かしめ見るに、上紙、下紙、百田紙、美濃紙、宇田紙、杉原等諸紙の紙を漉いて杉原の外はすべて見事に出来上がった。是により製紙界の革命児たる金城は直ちに登用せられ紙座の主任となり盛んに製紙業を開いた。(以下略)


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宝口樋川ー「宝樋」碑、近くに「紙漉所跡」がある。


大正13年12月 藤田親義『琉球と鹿児島』末吉莫夢「薩摩関係の琉球五異人ー鄭迵謝那利山/薩摩関係の異人として、私は先ず第一に鄭迵謝那親方利山を挙げる。彼は慶長役の時の三司官の一人で、琉球に於いて最も勢力を振い、遂に対薩摩外交を誤り、其身も薩摩に於いて戮された人であるが、琉球の歴史に於いては出色の人物である。」