○本土で既に廃れた言葉でも、沖縄にはまだ現存して居るのが幾何もあるされば古語の語原の分からぬのでも沖縄の言葉で考える即ぐに解釈がつく伊波文学士なども頻りに其学を研究して居らるるが是は実に有益の研究で沖縄人が日本人種と同一人種であると云ふ立証が明にさるると共に沖縄語の日本語研究の管鍵として沖縄の価値を高め一概に沖縄を以て蛮音訣舌として軽蔑する者流の誤見を訂正するに足るのである。私はフト幸田露伴①氏の蝸蘆雑談と云ふ文章を見て感づいたことがある。其の文章は神武天皇の東征史実を論じて露伴一流の綿密なる考証と穏健なる論断がされてあった。私の特に其中で発見したのは長髓彦②の名に就いての考証である。氏の説によると長髓と云ふのは邑の名で、彼の別名登美彦といふ。登美が地名なると同一で本名ではない本名は記録には見えない、記には長髓は是邑の本の号と見えている。それから髓といふのはずね土の義にして本居宣長③などは骨中の脂の借字ならんと疑へりとある。この説は実に穏当である。長髓が「すね土」即ち骨中脂で、其土地の地質から命名した地名として其の土地に生まれた豪族の名となった、と云ふことは如何にも能く肯かれる、それを猶、吾々沖縄人が見るとこの説が一層有力なることを証明される。
 
 これを如何と云ふに本土では今や長髓を以て姓名とする者はなけれども、沖縄ではまだ長髓姓がある。怪しむ勿れ、長髓は即ち仲宗根である。本県には仲宗根の知名と人名が未だに現存するのである。人名は地名から来たものである。人名には仲宗根清などの如き紳士もあり、又仲宗根朝信といふ人も居る。これ等は皆長髓彦彦と同名の人である。或は何か縁故があるかも知れぬ。恁麿な訳で本土に廃減した語名称が沖縄には今日流布通用していると云ふことは実に面白いではないか。本居宣長や幸田露伴の長髓彦考は沖縄に来て始めて立派な照明を得たと云ふても過言ではない。若し仲宗根清君朝信君が露伴氏の蝸牛庵へでも訪づねて、私はナカゾネと申す者でと名乗り出たら2千年前の長髓彦の再来かとばかりに氏を叱驚させるに違いない。又屹度歓待するに違いない。

 戯談は廃して私は露伴氏の説に依りて沖縄では、仲宗根の「ゾネ」が何の意味だか分からぬのを「ずね」といふ義なることを教えられたことを感謝すると共に、一つ感付いたことがある。それは本居氏も幸田氏もナカズネを地名とし本名にあらずとする迄はよいが、別に本名が記録にないと云って不足らしく且つ本名が有る様に云はれたのは何かと思ふ。私の考えでは長髓彦には別に本名なんと云ふものは無かったらう、彼は長髓邑の長であって丁度謝那の大主が謝那村の地頭であると同格の者ではなかったらうか姓名を称ぶのは後世のことで太古はそんな面倒なものは必要としないツイ近頃まで辺鄙の地方に行くと本名のない人民がいたのでも判る。能登半島の何とか云ふ部落には明治以前には住民は本名がなかったが明治になってから戸籍上不便だと云って皆な名をつけさせたそれも戸籍吏が一日につけてやった為め出鱈目に海産物の名をクッつけて色々可笑しな名が沢山あるとのことだ。長髓彦時代も其麼な有様であって地名を本名とするに止り別に本名なんと云ふ者を必要としなかったであろう。

1912年6月24日『沖縄毎日新聞』笑古(真境名安興)「ス子の解」
○過日紙上に御掲載相成候麦門冬君の「ナガスネヒコ」考は面白く被読候。仲宗根といふ地名に付きては余も宿説有し「スネ」が果たして「土」の義なりと本居翁始め我が古学者の申されしは兎に角この「スネ」は普通の「土」の義なりや或は特殊なる「土」を意味せしやは考究の余地有之候。余は沖縄にて「スネ」といふは魚類の群棲する箇所を指せしものにて(今も然り)即ち海峡の一角が海底の隆起或は陥落して魚族の保護上の好適所か若しくは餌食の豊富なる箇所かと愚考致候。然ればこの「土」は普通の土にあらずして河海の作用にて出来上がりし沖積地の如きものの土地を指称せしものにては無之候哉。余は沖縄の仲宗根なる地名の語源は従来「中ノスネ」或は「長ノスネ」と解せり。昔時にありては海底にありて魚族の群棲せし箇所が時代の推移と天然力の作用に依りて陸地と化し遂に村落を形造りしものが今にその名称に残りしものならんと考証致候。亦一面より観察するも魚族の群棲する箇所は原人の部落を造るに好適の土地柄歟と被存候。先は貴説を読み感想に浮かびし一端を御参考迄に一言致し申候。敬具


①長髄彦
ながすねひこ
『古事記』『日本書紀』に登場する大和地方の族長。『古事記』には登美能那賀須泥毘古 (とみのながすねびこ) と記される。神武天皇の東征に抵抗し,大いに悩ましたが,天皇の弓に止った金色のとびに目を射られて敗退。 →コトバンク


②幸田露伴
小説家・随筆家。東京生。名は成行、号は蝸牛庵。電信修技学校卒業後電信技手として北海道へ赴任するが、文学への思いやまず帰京。『露団々』『風流仏』などの作品によって理想派の作家として文名を確立、写実派の尾崎紅葉と人気を二分した。代表作に『五重塔』『一口剣』等。芸術院会員。文化勲章受章。昭和22年(1947)歿、80才。 →コトバンク

③本居宣長
江戸後期の国学者。伊勢松坂生。号は芝蘭・春庵・鈴屋。初め堀景山に儒学を学び、のち賀茂真淵に入門。国学四大人の一人。『古事記伝』『玉くしげ』等著書は多く、全国に多数の門人を雍した。享和元年(1801)歿、72才。→コトバンク



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1916年7月11日 大正劇場潮会「金色夜叉」/貫一お宮の像→熱海市観光協会
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熱海市 お宮の松/貫一お宮の像→川端康成研究家・深澤晴美さん撮影
  尾崎紅葉 慶応3-明治36(1867-1903)。作家。明治18年(1885)山田美妙らと日本近代文学史上初の結社となる「硯友社」を結成し、同人誌の『我楽多文庫』を発行。その後『二人比丘尼色懺悔』(ににんびくにいろざんげ)によって認められ、東京帝国大学在学中に小説記者として読売新聞に入社しました。『金色夜叉』『多情多恨』など数多くの人気作品を発表しますが、明治36年に35歳の若さで世を去りました。
港区とのかかわり 紅葉山を愛し、「紅葉館」で文豪たちとの交友を深める.芝で幼少を過ごしたことに誇りをもち、ペンネームは増上寺の紅葉山にちなんで「紅葉」としました。明治期、芝公園内の紅葉山には会員制の高級料亭「紅葉館」がありました。創立者の1人が読売新聞初代社長の子安峻だったことから、読売新聞の祝宴の場として利用されることが多く、それがきっかけとなって尾崎紅葉を筆頭に硯友社の文士たちが出入りするようになりました。紅葉館は尾崎紅葉の死後も文豪たちの出会いの場でしたが、昭和の東京大空襲のときに焼失し、跡地には東京タワーが建てられました。→港区ゆかりの人物データベース

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1957年12月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書7』「尾崎紅葉 落合直文 齋藤緑雨 原抱一庵 小泉八雲」昭和女子大学光葉会