麦門冬妹ウト/貞とパーパー

null
佐渡山安治御夫妻、二宮忠男・貞御夫妻、末吉麦門冬長女・石垣初枝さん/二宮貞さん

2016年8月18日3時 伊佐眞一氏と首里の万松院通夜室に同行/伊佐氏と共同で作った『琉文手帖』麦門冬特集と、『日本古書通信』「バジル・ホール来琉200周年」をお土産にするという。

2016年8月19日12時 いなんせ斎苑で荼毘 

「貞心妙寿信女」 遺族、参列者

2016年8月19日15時 万松院で納骨式


“一握の土”(握り地蔵プロジェクト)二宮貞さん(92)参加


二宮貞の姪であり、麦門冬の孫にあたる石垣市在の、石垣米子詠む
  今は亡き 面影しのびつ 捧げなむ
               伯母安らかにと 祈る朝夕
今年は二宮貞の姉であり、且つ末吉麦門冬の長女、石垣初枝の25回忌に当たり、その夫である石垣長夫の27回忌を併せて、法要を執り行うとして、麦門冬弟の末吉安久長男で、陶芸家の末吉安允に、法要のお返しとして、お地蔵さんを注文した。そのお地蔵さんを見て米子詠む
   おつむなで お顔なでては ほっこりと
                合掌地蔵に 心なごめり

末吉安允作「合掌じぞう」/石垣米子・詠 城谷初治・書


2017年8月16日11時 万松院で「二宮貞1周忌」



2014年12月5日 首里の末吉安允宅で、安久作成「麦門冬著作・資料」を見る
『琉文手帖』麦門冬特集に富島壮英氏が、麦門冬特集を祝すで「東恩納寛惇の著作・論文などのカード目録を作成していた頃、東恩納文庫の戦前の新聞切抜き帳や各種の目録類に麦門冬の著作・創作などを散見して、彼への関心をもちだしてから10年余になろうか。その頃、元気な宮里栄輝先生から戦前の図書館のこと、研究者のことなどを拝聴している時も麦門冬の話がしばしば出た。このように形成された、おぼろげな麦門冬像は、東恩納寛惇の『野人麦門冬の印象』と相俟って、ますます増長される一方、未知の不思議な人物像の魅力へとつかれていった。7,8年前、麦門冬の末弟の故末吉安久氏が著作集を出すというので、数度東恩納文庫に足を運ばれ、若干の著作のコピーもさし上げたが、ついに日の目を見ずに今日に至っている。おそらく、麦門冬が著作の発表の場とした明治・大正期の雑誌や晩年の30代の新聞が殆どないために、収集に困難をきたしたものと思われる。(後略)」


鎌倉芳太郎が1975年11月、八重山に遊び麦門冬の娘・初枝さんと感激の再会。翌年の元旦に詠んだものを書いて石垣市の初枝さんに贈ったもの。

左から折口信夫(複製)短冊ー麦門冬の娘・初枝さんに贈ったもの。/山城正忠/鎌倉芳太郎短冊ー麦門冬のことを聞いた新城栄徳に鎌倉氏が贈ったもの。娘の嫁ぐ日に詠んだ歌だが、その娘の名が恭子さんであるのは偶然なのか。




高嶺朝光「末吉麦門冬の思い出」
□末吉安久氏が高嶺朝光『新聞五十年』(沖縄タイムス社1973年から麦門冬について抜き書きしたもの。

○沖縄朝日の「大弦小弦」を最初に担当したのは、たしか末吉麦門冬さんだった・・・と記憶をたどっているうちに、麦門冬さんが亡くなった痛ましい事故を思い出した。それは三銀行が破綻して経済危機に沖縄中が狼狽していた対象3年12月に起こっている。12月25日ともいわれるが、正確ではないようだ。

その日の夕方、麦門冬さんは、かつての沖縄朝日の同人で那覇通堂の砂糖委託商組合の専務理事だった小橋川南村さんを訪れた。末弟の安久君によると、早く夫人を亡くした麦門冬さんは後添えがきまって、結婚費用の借金を相談するのが目的だったという。話がついて麦門冬さんは「では・・・」と席を立ち、南村さんは戸締りもあるので「あとで行くから」と何処かで会う約束をして残った。その時、相当酒が入っていたという。

2,3日後、三重城と若狭町海岸の間に男の水死体が漂着し、身元不明のまま無縁仏として葬られた。さらに数日後、「麦門冬がいない」と南村さん、当真嗣合さんら友人があわて出し「もしや・・・」と麦門冬さんの娘さんも一緒に行って水死体を確認した・・・・当真さんの話である。通堂の電車の終点から砂糖委託商組合などのある桟橋地帯へ、通堂橋という石橋と、そばに鉄道用の鉄橋がかかっていた。麦門冬さんは鉄橋を渡ろうとして(石橋だと錯覚したらしい)落ちたとみられた。その夜は風があって、船一隻も停泊していなかったという。ときに麦門冬さん39歳。

当真さんらと共に沖縄朝日を創刊した麦門冬さんの名前も顔も私は前から知っていた。知っていながら接触するようになったのは、麦門冬さんの沖縄タイムス主筆時代である。主筆の麦門冬さんは家で原稿を書いて社から取りに来させた。ある夕方、珍しく麦門冬さんが編集局をのぞいたら、若い記者が疑わしそうに近寄ってきて「あんたは誰ですか・・・」「イヤ、参った。主筆も知らんとはね」と麦門冬さん、頭をかいた。

麦門冬さんの首里の書斎から首里城が見えた。大正12年の1月、何気なく首里城の方向に目をやったら、驚くべし、工事人たちが屋根ガワラの取り外し作業中。首里市議会が首里城取り壊しを議決して作業がはじめられていた。麦門冬さんは沖縄タイムスの上間朝久編集長に連絡して工事の中止を訴えた。そのうち女子師範の鎌倉芳太郎教諭が伊東忠太博士に電報をうち、博士が文部省に働きかけて取り壊しを中止させた。そのころ私の父①は首里市長だったが、市としては財政的に首里城を維持する力がなく持て余していたようだ。


①高嶺朝教


宴席の麦門冬さんは興に乗じて25貫もある身体の上半身ハダカになり「まだ、きみたちに負けないよ」と、私たち後輩記者にコブシで胸を突かせて、目を細めた。朴訥、太っ腹・・・・お相撲さんのような風貌でいて文章がうまく小説や戯曲を書き江戸文学、漢籍に造詣が深かった。和歌山の世界的な博物学者で大英博物館の日本部主任などをつとめた南方熊楠と盛んに文通し、南方が
麦門冬さんの書いた沖縄の動植物や民俗に関する研究作品に感心して中央雑誌にも紹介した。麦門冬さんの死後、膨大な蔵書と原稿が散逸して、今日では殆ど残っていないという。惜しまれてならない。

麦門冬は植物の「ジャのひげ」のことで号、本名は安恭。その弟の安持(詩華)は与謝野鉄幹、晶子らの『明星』の同人として才能を認められた詩人だった。明治40年、徴兵検査を受けに帰郷する直前、酔って下宿に帰り、うたた寝している間にランプの火が燃えひろがって火傷を負い、病院で死亡した。鉄幹は『明星』で「薄命なる青年詩人であった」と悲しんでいる。東恩納寛惇さんは「その天才と、その数奇の運命と、両末吉何ぞよく相似たり」と嘆息したという。末吉兄弟は首里王府の系図座につとめていた父安由氏から漢籍の指導をうけ、アルファベットも教えられたと安久君は話している。かなり進歩的な一面もあったようだ。


2014年12月20日 泊小学校