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吹田市の吉田芳輝氏や飯倉照平氏から送られた『日本及日本人』の安恭資料


1918年6月 『日本及日本人』南方熊楠「右から左」/麥生「琉球の鬼餅」


1918年9月 『日本及日本人』麥生「琉球王子飴餅の詩」



1918年12月 『日本及日本人』麥生「東洋の死刑に弓矢を用ひし事」/「天蓋」


1920年3月 『日本及日本人』麥生「石蒜の歌」/「酒迎」


1920年11月 『日本及日本人』南方熊楠「大本といふ神號」/麥生「薩人の虐殺」〇雪嶺先生の著「大塊一塵」の中に露國人は我が薩摩人と其の性格類似の點があると云はれた。私も其の卓見に当時敬服」した一人である。尼港事件で露人の残虐性を知った私は薩人にも又似たやうな残虐性をその過去の歴史から発見した。薩摩人には少々憚ることだが雪嶺先生も嘗て言はれたことだから参考の為めに引張出さう。それは慶長14年島津氏が琉球を討った時薩摩の兵が非戦闘員なる琉球の土民を虐殺したことである。その虐殺を試みた当人の書いたものだからこれ程慥かなことはあるまい。中山國幷大島徳之島永良部島喜界島責取日記と云ふににある。曰く「御手之士6人7島勢240人那覇之方へ御超被成候3月の事なれば老若男女麥畠の草取に集り居り候が此人々之風情を見て驚ふるひはなき麥畠の中に随居候を美濃守殿(樺山資高)より7島詰船頭之内願作へあの者引出し一々切捨可被仰付候に付皆引出し切捨申候。私刀は前方被ト候備前にて候が十二三人程切候得共少も痛不申候與申候」云々。薩摩バルチザンの得意想ふべきである。





1922年6月 『日本及日本人』麥生「大琉球國」