仲程昌徳氏の近著『雑誌とその時代』ボーダーインクの帯に昭和十五年八月十五日創刊した『月刊文化沖縄』表紙を飾ったのは「琉球の姫」と題した美人画(金城安太郎)だった、とある。画人・安太郎さんは挿絵画家で著名であるが、沖縄最初の挿絵画家でもある。私と安太郎さんとの出会いは、暦の研究で知られる首里の当間諭さんから安太郎さんの健在を聞き、安里のお宅を訪ねたのが1982年ごろのことで、その友人、具志堅以徳さんもそのころ面識を得、お二人の話を軸に沖縄の近代美術史の資料を収集し年表を作り、出来たのが1984年4月『琉文手帖』1号の安太郎さんの特集であった。

 『琉文手帖』1号は表紙絵も含めすべて安太郎さんの画でまとめた。題字は天野鉄夫さん。津野創一元『青い海』編集長が序文に「ぶらりとやって来ては、貴重な資料を発掘した話などをして驚嘆せしめ、コツ然と消えるーそんな不思議な友人・新城栄徳君が、いよいよ文庫スタイルのムックを出すという。十余年前からこの企画をあたため、今日あるを期していたことを知るもののひとりとして、その熱意と執念には、ただただ畏敬の念を抱く。”出版落ちこぼれ”の私としては、ひたすら新城君の健闘を祈りつづけるのみである。チバリヨー!」と記してくれた。1号編集で作成した資料年表は沖縄タイムス『沖縄美術全集』に収録した。

 『琉文手帖』1号は安太郎さんが描いた小説の作家たちも紹介している。田幸正英、山里永吉、本山裕児、新垣美登子、石川文一、嘉陽安男、石野径一郎、富名腰尚武(春尚之介)、大浜英祐(葦間れつ)であるが、これらの人物特定の作業が1991年発行『沖縄近代文芸作品集』に繋がる。収録した作家は上里八蔵、上間常三郎、山城正忠、平良盛吉、上間正雄、摩文仁朝信、山田有幹、末吉麦門冬、池宮城積宝、上里春生、屋良朝陳、神山宗勲、山里永吉、與儀正昌、宮城聡、石野径一郎、石川文一、宮里政光である。当然ながら表紙は安太郎さんの挿絵をあしらっていて、ビジュアルに「アルバム・麦門冬と正忠ー近代沖縄文壇の二大山脈」も巻頭に付している。

 安太郎さんは那覇垣花尋常小学校の頃から新聞雑誌、『日本美術全集』の絵を模写するのが好きな少年であった。1926年、恩師の田幸正英(護道院英)の「角を切られた鬼共」の新聞の挿絵を描いたのもこの頃である。田幸の親友の山里永吉は前衛画家で知られ、東京の山田真山宅にも住んでいた。安太郎さんも同年、沖縄県の講習会で貝彫刻を学び、県主催の品評会で悲母観音を出品、2等賞を受賞。安太郎さんが絵の道に進むことに絶対反対だった通堂仲士の親方の父(松)を新垣金次郎、田幸正英らが説得し、安太郎さんは上京することができた。張子人形などの工場などで働き、傍ら画家の斎藤朝治から墨絵を学ぶ。やがて脚気で帰郷。1930年に再上京し山田真山に師事。

真山作品が那覇市民ギャラリーで公開されたとき、私は説明文「9メートルの幻の大仏」も書いた。日本画家の金城安太郎さんに師の山田真山について話をきいたことがある。『山田先生はよくチージへ行かれ酔えば安来節で踊り、空手の突きなどを連発して周囲を辟易させておられた。今回、那覇市が購入した作品は大変珍しいもので、私も当時の作品は目にしたことはありませんが、彫刻については那覇・開洋会館にあったダバオ開拓の父といわれた大城孝蔵像は先生の作品で私も手伝いました。また先生から教わって仏像を作ったこともあります』、ちなみに現在チージにある獅子頭とミルク面は安太郎さんの作品である。

山田真山の彫刻のあゆみは村田保像、帝国劇場の孔雀の彫刻、1919年の帝展出品の「審判の来る日」が入選したころ山田真山後援会が出来て彫刻作品などが頒布された。那覇市が購入したのはこのときのものであろう。1920年の第二回帝展に彫刻「自覚」が入選。1936年に愛知県一宮市公園の阿弥陀仏、勢至観音、観世音菩薩を夫婦で赴いて製作した。1938年には琉球新報社長の太田朝敷像も手がけた。

● 山里永吉は自伝に、大火で辻にあった貸家は全部まる焼け、保険金は一文もかけていない。それで父は農工銀行を辞めて年1月『沖縄朝日新聞』「一向宗法難記」だった。2作目が「首里城明け渡し」で大当たりに当たった。●


1984年4月17日『琉球新報』松島弘明「沖縄コンビの新聞小説・さしえ/これが第1号だ」
 1933年4月、琉球新報に永吉は「熱帯魚」という小説を書いた。挿絵は今のように写真版がないので、安太郎さんが毎日一日がかりに木版を彫ったもので余り長続きはしなかったが50回は続いたという。1936年2月、永吉は新聞小説「夏雨王女節」、挿絵は安太郎さん。あらすじは、ある日にわか雨が降ったので首里城南殿の軒下に逃げ込んだ庭師の幸地里之子犬太郎という美青年がいて、それを簾の中から見ていた王女(真加戸樽金)が犬太郎に花染めのてさじを投げてやったところから愛が芽生え、身分の違う愛は許されぬ中、沖縄本島北部の安和岳に二人は駆落ちするが、やがて犬太郎は捕えられ犬太郎は死罪、王女は後を追って首里城の石垣から飛び降りるという悲恋血涙の物語である。それらが芝居で演じられると安太郎さんは舞台絵や小道具も作った。




その新聞小説が63回で終わったころ、ガジャンビラの安太郎さんの自宅へ、旧知の上間正雄が人力車を用意して迎えに来た。尚順が会いたいとのこと、さっそく松山御殿へ伺い応接間で待っていると尚順が入ってきて、うしろ手で襖を閉じ安太郎さんを見つめながら座る。上間が「この青年が安太郎です」と紹介すると「若いねぇ子どもみたいな顔をしている」と話に入り暫くして琉球料理が出された。尚順が「王女の挿絵の最後の方の、王女が身投げして打掛(ウッチャキー)が城の石垣に残っている場面は非常に良いのだが、あの石垣は首里城ではなく、海の石垣ではないか?」と言われて、安太郎さんはびっくりした。そのとおりで時間が無かったので家の近くの屋良座森城の石垣を描いたのである。尚順は古美術品を見せながら「これからも頑張っていい絵を描いてくれ」と激励した。戦後、小説「夏雨王女節」のヒロインを描いた安太郎作品を前に、上間は激烈な恋心と、城中の掟に対する挑戦みなぎる全身の緊張が王女の顔に好く表れている」と評している。



左ー表紙ー旗頭1959年「今日の琉球」7月号の表紙依頼を受けたが、編集者の要望は旗頭を描いてもらいたいとのことであった。そこで私としてはも表紙にするには先ず西、東、の旗頭を現したいと思って、戦前の豪華な那覇の綱曳きにみられた24年前の事を想いだそうとしたが、容易に想いだせないマッチ箱を手にして模型を考えているうちに、ふと安慶名氏の所に模型があった事を思い出して、それをスケッチさせてもらった次第である。私の父は当時垣花の旗持ちで幼児の頃、私を綱曳行列の法螺貝吹きに参加させるため、毎晩旗ちの青年に旗の持ち方を指導しながら、法螺貝吹きの衣裳、頭飾(コウダテ)等を自ら作り又、衣服を縫ったりしたものだ。父としては子供の私を行列に参加させてはくれたが、夜の綱曳を見る事は許してくれなかった。そのため残念にも姉と共に家に帰ったが何時までもあの旗頭を忘れる事が出来なかった。昭和10年住吉町の一番旗を私は手伝いしたことがあった。波之上宮参百年祭記念綱曳に当って住吉町一番旗、垣花町二番旗の制作に携わったが、亡くなった父を想いだしながら、「今日の琉球」の表紙を描きおわった次第である。金城安太郎  

右ー1936年10月

2009年6月21日 沖縄県立博物館・美術館「旗頭演舞」