一億総懺悔とか、戦争責任とかという言葉は、今や安倍麻生・公明党政権のために死語となっている。かつてオキナワでも沖縄戦のことを語ると「不幸を語るのはお前ひとり」とNHKで歌ったアホ歌手も居たようだ。沖縄慰霊の日、原爆忌にも安倍はいつものコピペ挨拶をするのか楽しみである。それにしても「死の商人内閣」とか言われている安倍首相は何のかんばせあって御霊にまみえんや。

「語られなかった歴史にふれる」

新聞を見ると、高齢化うんぬんで消費税引き上げ、年金改悪を「塩ジィー」が検討しているという。「老人が老人をイジメる」図には何か意図があるのか。それを機械的に垂れ流す通信社も問題だが原因、責任の一端はこのような社会を築いたウトゥスイにもあると思われる。そこで普通に語られてこなかった歴史にふれる。

大阪に住んでいた新婚のころ、近所の年配のウチナーンチュの家で戦友会誌を見た。その中に、中国人の生首の山をバックに軍刀を手にした隊長らしき人物を中心に兵隊20人(?)が並んだ「記念写真」があった。生首にウジが蠢いているのも分かる異様なものだった。数年後、複写しようと訪ねたら引っ越して不明。それ以来「戦友会誌」を気にしているが写真はまだ出てこない。

戦前のことを『沖縄美術全集』の年表に「1941年8月、沖縄文化連盟結成。42年12月、朝日新聞社主催『大東亜戦争美術展』に渡嘉敷唯信、名渡山愛順入選、『新文展』に大嶺政寛入選」と書いた。かつて、新報、タイムスに程近い場所に「沖縄物産センター」があった。そこで杖をついたセイクァン画伯が私を見て「良いところに来た。チビを押してくれ」というので、2階の画廊まで腰を支えたのが2,3回あった。

画廊のロビーでセイクァン画伯が豊平良顕氏、上間正諭氏も交えて歓談するのを側で聞いていた。ある日、画伯に戦争中の文化人の戦争協力のことを聞いてみたが、「君に話すとあとあと残るので正確を期すため家に帰って記録を調べてから」とはぐらかされた。豊平氏にもぶっつけたが氏は潔癖性ゆえか頑強に否定された。上間氏は豊平氏を敬愛されて「沖縄の偉人だ。記録してほしい」と言われた。ぼちぼちと集めた豊平資料は真久田巧記者によって『戦後沖縄の新聞人』に収録された。

1943年2月 月刊『文化沖縄』
名渡山愛順「扉絵ー那覇の千人針(大東亜戦争美術展覧会出品)」 新崎盛珍「編集後記ー名渡山愛順氏が大家名家に伍して、戦地に赴き、彩管を揮ふべく選定されたことは周知の事実だが、氏の昨秋の文展に出した作が、或権威ある批評家から推賞されたことを附言するのを欣幸とする。」

1943年6月 月刊『文化沖縄』
大嶺政寛(春陽会々友)「洋画寸史ー(略)春陽会の一部の画家によってここに日本の油絵もほんとの日本の油絵にしなくてはいけないといふ大きな理念のもとに発足しここに21年の歴史を経た我が洋画界も今や充分採るべきものを採り来った今日大東亜戦を迎へ決然として日本の油絵を建設して行く大きな環道が国を挙げて興っている。我々は皇軍の勇士が飛行機に乗り米英の飛行機を撃ち落し、無敵海軍の随所に於ける敵撃滅の優秀さを示しているにかんがみ、油絵をして眞に日本的な油絵にし何処の国にも劣らぬ日本の絵を建設して行き度いと念じているものである。今や美術報国は全国一萬の画家に依り結成され国を挙げて美術報国に邁進する事の出来るのを心から喜ぶものである。」

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2001年5月 写真・共同通信社/解説・荒井信一『母と子でみる53 20世紀の戦争 太平洋戦争』草の根出版会