1897年  東京美術展覧会に「登庁賀正図」「醉後納涼図」を出品

 左ー山口瑞雨「醉後納涼図」/「群雀啄花図」
1897年12月『琉球教育』「山口本県師範学校助教諭心得は予て同中学校助教諭心得をも兼務せられしが先頃東京美術展覧会に向て旧藩時代の風俗画として登庁賀正図、並に醉後納涼図の二種を出品せられしに其中、醉後納涼図は今十月二十八日を以て忝くも 宮内省の御用品として御買上げと為りし・・・・」
1898年  東京美術協会に「群雀啄花図」を出品


左ー山口瑞雨「運天港図」/「首里中山門図」
1899年  東京秋季美術展覧会に「運天港図」出品


山口瑞雨「沖縄婦人図」(左)/「沖縄上流婦人図」
(山口善丸氏提供)



1910年沖縄県師範学校卒業記念 本校職員ー前列左から三島訓導、園山民平、山口瑞雨、松下之基、古田先生、高橋清次郎。古田の後ろが島袋源一郎


1912年2月15日 沖縄県庁倹徳館で太平洋画会・石川寅治、吉田博、中川八郎の「琉球写生画展覧会」油絵60余点、水彩画20数点  

1912年  沖縄県師範学校退任。この頃の 首里区当蔵村伊江朝永方に居住。第6回文展に「琉球藩王図」を出品

この藩王図については夏目漱石が「橋本雅邦の竹を見た。この竹の向こう側には琉球の王様がいた」と朝日新聞に書いた。13年、瑞雨は沖縄を離れる。
1923年4月 浮世絵師 水野年方①の顕彰碑を鏑木清方らと神田明神に建立。裏面に山口米庵の名が記されている。

1924年8月26日ー第13回丹青協会絵画展覧会



江戸時代の出版から明治時代の新聞雑誌
 外様大名の島津家久が徳川家康の許可を得て、琉球王国に出兵し支配下に置いた。1610年の尚寧王の江戸参府に倣い、34年に江戸上りが始まった。清朝から琉球久米村の程順則が持ち帰った『六諭衍義』が、1719年、島津を介して徳川吉宗に献上、幕府により出版され、庶民教育の教科書として広く普及した。それが江戸文学発生への遠因ともなり、滝沢馬琴のベストセラー小説「椿説弓張月」(北斎挿絵)にもつながる。

葛飾北斎 かつしか-ほくさい
1760-1849 江戸時代中期-後期の浮世絵師。
宝暦10年9月23日生まれ。勝川春章に入門し,勝川春朗と号して役者絵を発表。のち狩野(かのう)派,住吉派,琳派,さらに洋風銅版画の画法をとりいれ独自の画風を確立。70年間にわたり旺盛な作画活動をつづけ,画域は風景・花鳥・美人・戯画とひろく,錦絵,版本挿絵,肉筆画にすぐれた作品をのこした。奇行で知られ,生涯に93回も引っ越しをした。嘉永(かえい)2年4月18日死去。90歳。江戸出身。姓は川村,のち中島。別号に画狂老人,戴斗,為一(いいつ),卍など。作品に「冨岳三十六景」「北斎漫画」など。
【格言など】九十歳よりは,又々画風をあらため,百歳の後に至りては,此道を改革せんことをのみ願ふ(「絵本彩色通」)(→コトバンク)

ベストセラー小説『椿説弓張月』

江戸後期の浮世絵の一派に歌川派がある。歌川豊春が始祖、歌川国芳の弟子に月岡芳年、川鍋暁斎が居た。芳年の弟子に右田年英、水野年方。年方の弟子に鏑木清方、その弟子に川瀬巴水と、後に新聞雑誌で活躍する画人たちが輩出した。1887年に東陽堂から銅版印刷の草分けとされる美術専門誌『絵画叢誌』が刊行された。絵画部主任は平福穂庵であった。翌年に穂庵の門下生の寺崎広業も編集に加わった。89年に東陽堂は『風俗画報』を創刊。同年、沖縄県勧業課長の石沢兵吾が東陽堂から『琉球漆器考』を刊行した。

1893年、大阪の光村利藻が慶應義塾に入学。渡部(大橋)音羽、巌谷小波と交友を結ぶ。95年に平福百穂の友人、佐藤義亮が上京し秀英社の職工。96年に風俗画報臨時増刊として『沖縄風俗図会』が出ている。1901年、宮武外骨が大阪で『滑稽新聞』を創刊。同年に百穂が佐藤義亮の新聲社に入社し『新聲』に挿絵を描く。


山口瑞雨は1868年10月21日に生まれる。日本画を水野年方、佐竹永湖、平福穂庵に学ぶ。ちなみに村松梢風『本朝画人伝』の平福穂庵伝のところに瑞雨は門人として出てくる。1896年12月に沖縄県師範学校兼中学校に図画教師として赴任。

水野年方【みずの・としかた】
生年: 慶応2.1.20 (1866.3.6)
没年: 明治41.4.7 (1908)
明治期の日本画家。江戸神田生まれ。通称粂次郎。14歳で月岡芳年に入門し浮世絵を学ぶが,その後一時陶器画を描く。20歳からあらためて芳年に師事。また柴田芳洲に南画,渡辺省亭に花鳥画を学び,有職故実も研究した。明治20(1887)年ごろから『やまと新聞』に挿絵を描き始め,尾形月耕と並ぶ人気挿絵作家となる。また日本画会,日本美術院の設立に参加,各種展覧会で活躍した。門下に鏑木清方,池田蕉園らの美人画家が輩出したが,彼自身は,浮世絵画派出身の,武者絵などの歴史人物画家として活動している。
(佐藤道信) →コトバンク

佐竹永湖 さたけ-えいこ
1836*-1909 幕末-明治時代の画家。
天保(てんぽう)6年12月生まれ。鳥取藩の絵師沖一峨(いちが)に土佐派,狩野(かのう)派をまなぶ。のちに佐竹永海の養子となった。維新後は内国勧業博覧会などに出品するかたわら日本画会の審査員をつとめた。明治42年7月23日死去。75歳。江戸出身。本姓は加藤。名は金太郎,のち子璋。作品に「雲中西王母図」など。→コトバンク

平福穂庵【ひらふく・すいあん】
生年: 弘化1.10.18 (1844.11.27)
没年: 明治23.12.11 (1890)
明治期の日本画家。羽後国角館(秋田県)生まれ。名は芸,通称順蔵。郷里で初め武村文海に円山四条派の絵を学ぶが,以後,ほぼ独学を通した。文久1(1861)年から京都に遊学し,師につかず風景写生や古画の模写に専念,慶応2(1866)年帰郷する。明治維新後,各種の博覧会で受賞,「乞食図」「乳虎図」(いずれも個人蔵)など,すぐれた描写力を示した。また明治5(1872)年北海道に旅行し,以後アイヌの図を多く制作,また自ら一時勤めた荒川銅山を「荒川鉱山全景」として描くなど,社会派的な意識と行動が認められる。同17年東洋絵画会学術委員となる。平福百穂 はその子,寺崎広業は弟子。 (佐藤道信) →コトバンク


1913年4月25日~11月22日『大阪毎日新聞』菊池幽芳「百合子」挿絵・鏑木清方


1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。

鏑木清方【かぶらぎ きよかた】
1878〜1972(明治11年〜昭和47年)【日本画家】江戸浮世絵の技法に近代的な息吹を与えた。 清楚な美人画は秀逸。明治〜昭和期の日本画家。東京都出身。本名健一。水野年万(としかた)に師事し、1901年(明治34)烏合会、1916年(大正5)金鈴社を結成。文展・帝展で受賞を重ね、粋な江戸文化の遺風漂う気品ある美人画・風俗画・肖像画の分野を開拓した。第8回帝展で帝国美術院賞を受賞した「築地明石町」は、近代日本画の代表的美人画として評価が高い。帝国美術院会員・帝室技芸員。文化勲章受章。「こしかたの記」など随筆集も多い。(→コトバンク)