1983年8月31日ー『琉球新報』新城栄徳「落ち穂『未病を治す』」
東洋医学を実践している病院で、調理師を8年やっていたので『素問』①とか『傷寒論』②という古典はある程度知っているつもりである。『素問』(もとのものを引き出すという意味)のなかに、黄帝が天師(岐伯)に「今時の人は50歳になると、よぼよぼしてくるのは何故か」と。
これに対し岐伯は「昔の人で道(宇宙自然の法則)を知っている人は、陰陽(自然環境としての変化)によく対応し術数(次々に連なり、おこってくる変化の順序法則)によく調和するように自分の行動を規制している。ところが今時の人は酒はガブガブ飲むし、生活のリズムも失っている。色欲にかられて自制もなく欲望のままに精根を使いはたしている。健康に生きてゆくためには一定の緊張が必要であり、節度が大切であるのに、こうしたことを知らないまま、その時その時の欲望のままに生活しているために、人生の本当の楽しみ、生きてゆく喜びを求めようとしない。これでは50そこそこで衰えるのは当たり前である」と答える。
病院の医師らが中心となって山紫水明の土地、名張市赤目に「赤目健康学園」を計画したのが1977年であった。しばらくして私も長男・江と「山の家」づくりに参加するようになった。東洋医学のなかに「身土不二」(その人の生活する土地でとれる食物を主に食べる)と、「一物全体」(生物である食物を丸ごと全部、不必要なアクぬき、皮むきをしない)という二つの原則があるが、赤目では農作業を通じて実践している。農業を行うことによって食物についての知識と考えを深めることができる。
増大する一方の医療費の抑制は一部の連中の主張するように自個負担を増やすという安易なケチな方法は考えるべきではない。予防と軽症のうちに生活・習慣を見直して治療するという古くて新しい方法をとるべきだ。しかも根本的にはこれしかない。

①『黄帝内経』(こうていだいけい、こうていだいきょう、こうていないけい、黄帝内剄)は、現存する中国最古の医学書と呼ばれている。古くは『鍼経』(しんきょう)9巻と『素問』(そもん)9巻があったとされているが、これら9巻本は散逸して現存せず、現在は王冰(おうひょう)の編纂した『素問』と『霊枢』(れいすう)が元になったものが伝えられている。黄帝が岐伯(きはく)を始め幾人かの学者に日常の疑問を問うたところから『素問』と呼ばれ、問答形式で記述されている。『霊枢』は『鍼経』の別名とされ、『素問』が基礎理論とすると、『霊枢』は実践的、技術的に記述されている。 →ウィキ

②3世紀の初めに長沙(湖南省)の太守(知事)であった張仲景が記したとされている『傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)』は、古来より散逸と発見を繰り返し、現在では、2部に分かれ、傷寒(急性熱性病)については『傷寒論(しょうかんろん)』、雑病(慢性病)については『金匱要略(きんきようりゃく)』として伝わった。『傷寒論』では、傷寒の病態を三陰三陽(六病位)と呼ばれる6つのステージに分け、それぞれの病期の病態と、適応処方を記している。『金匱要略』では慢性病の治法を論じ、その中には循環器障害、呼吸器障害、泌尿器障害、消化器障害、皮膚科疾患、婦人科疾患から精神疾患までの疾病が含まれている。なお、現在、中医学では『傷寒論』の六病論を経絡と結びつけ、六経説としてとらえている。 『神農本草経』、『黄帝内経』とともに中国医学における三大古典の1つに数えられる。(2007.10.11 掲載) →日本薬学会

1997年5月ー三谷和合『続保険歳時記』木津川厚生会
□念仏踊は、夏季、お盆を中心に災厄退散、また亡魂鎮送のため、太鼓、鉦を打ちならしながら、踊躍歓喜する踊りの総称です。念仏を口中に唱えながら踊ることから、この名があります。
平安時代、空也上人が念仏の功徳を庶民に知らせる方便として始められたのが起源といわれています。しかし、踊りの形態に仏教的な雰囲気は全くなく、基本的には在来からあった原始宗教的な行動を示したものといえます。つまり、古くから行われていた村々の祭の行動に、念仏信仰が加わったものです。

□私が勤めていた病院の三谷和合院長は「漢方の正しい健康保険の適用をすすめる準備会」の丸山博会長、相沢秀一副会長らと親しく一緒に運動していた。丸山会長は桜沢如一を師と仰ぎ衛生学を専攻。相沢副会長は京大で河上肇に学んだ最後の学生で、大阪市大、立命館大、大阪経済法科大の教授を歴任。

○WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、次のように定義しています。
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. 健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが 満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)

より健康な生活を
石塚左玄、桜澤如一、丸山博、三谷和合らに共通するのは「未病を治す」ということで、現実を把握し予防医学の重要性を説いている。丸山は「現在の社会体制の中において、いわゆる西洋医学が一体どういう生き方をしておるかという事を、私たちは日常知っているわけです。そして医療の形態が、大変お金がかかるようになっております。そして、お金は私たちの不健康、不幸の上におとされているわけです。何故それを防ぐ事の方に使われないのだろうか。病気になってしまうまで、病人たちを作りだす原因を放っておいて、病気になった人たちだけを問題にする医療、ここに問題がある」と1978年2月の民族医学講演会で述べている。
○大阪も沖縄も、官僚・タレント知事の流れが今も続いているが、水面下では世界と連携する革新勢力もマグマとなって渦巻いている。人間は「より健康的な生活」を希求している。ましてや子孫の世代もそうありたいと思っている。東北の母親たちの怒りが文部省の放射能対策を撤回させたように。健康破壊の諸悪の根源・原発や核の傘は廃棄すべきものだ(ただちに廃棄と云っていない)。「食は命なり」で知られる桜澤如一は『食養学原論』(1928年)で「西瓜に赤いインキを注射し、梅ぼし、紅生姜に色をつけ、漬物にも色をつけ、煮豆にはサッカリンを用いマグロは遠洋もの、カツオ節はメキシコの舶来、シュークリーム、ビスケ、その他洋菓子には支那玉子や貯蔵卵を平気で用いています。全く恐ろしい世の中です」と述べている。昔から官僚が運用している法律は不備だらけであることが分かる。
○2011年9月8日『しんぶん赤旗』□在日米軍の兵士や軍属らが引き起こした事件・事故が、1952年度から2010年度までに21万件近くにもおよび、日本人の死者は1088人にのぼっていることが7日までに明らかになりました。昨年も死亡事故を含め573件発生します。現行の日米安保条約の原型である旧安保条約の調印(1951年)から8日で60年を迎えますが、現在でも米軍による犯罪・事故が後をたちません。→米軍の犯罪・事件・事故についての琉球新報記事一覧
○知人の名護宏英氏(劇作家)、仲宗根幸市氏(民謡・民俗研究家)が相次いで交通事故で亡くなった。□交通事故の死者数は、昭和27年に4,000人台となってから、以降年々増加し、昭和45年には16,765人と過去最多を記録しました。それ以降減少し、昭和51年には1万人を下回りましたが、昭和63年には再び1万人を上回りましたしかし平成8年には9年振りに1万人を下回り、平成14年には過去最多であった昭和45年の死者数の半減を達成しました。その後、平成15年には7,000人台に、平成19年には5,000人台になり、平成21年以降4,000人台となっています。【平成26年中の交通事故死者数の特徴】1日平均の死者数は11.27人で、2時間08分に1人が交通事故で死亡しています。死者数の多い都道府県は、愛知県の204人、神奈川の185人、千葉県及び兵庫県の182人、埼玉県の173人などでした。反対に死者数が最も少ない都道府県は、島根県の26人、徳島県の31人、鳥取県の34人、沖縄県の36人、秋田県の37人などでした。→全日本交通安全協会
CNN2016-2-10○ 米国人の平均寿命が他の先進国の国民よりも低いことが、このほど調査結果から明らかになった。早死にする原因として薬物や銃の使用、頻発する自動車事故などが挙げられている。→日本人の主な死因の死亡数は、第1位悪性新生物 37 万人、第2位心疾患 19 万 9000 人、 第3位肺炎 12 万 3000 人、第4位脳血管疾患 11 万 3000 人と推計される(厚生労働省2016-1)。日本の自殺率は、世界的に見ても高い水準にあります。OECD諸国の中では第2位、G8の中では日本の自殺率はロシアに続き第2位 となっています。これは、アメリカの2倍、イタリアやイギリスの3倍という数値です。WHOの発表でも、日本の自殺率は先進国の中で トップクラスだという報告があります。→自殺者統計|自殺対策支援センターライフリンク


□私は『近代社会運動人物大事典』に銘苅正太郎について「1904年に医師免許を得て福島県や山梨県の病院勤務をへて、16年に東京市麻布に耳鼻咽喉科「長生医院」を開業、医院名は親交があった後藤新平が付けた。医院経営が安定すると「ソテツ地獄」で苦しむ故郷伊是名島や沖縄のために援助活動をつづけた。正太郎は「沖縄の貧困は地理的条件に左右されている」といい、長男の進は「社会が変われば沖縄も変わる」といった。進は戦後、全国最初の民主診療所である東京自由病院の初代院長をつとめた」と記した。



三谷和合

1977年11月 此花区四貫島・此花区民ホール「第三回おんど~れ祭り」。新城栄徳は安藤昌益①を演ずる。
 ①安藤昌益の思想は、42歳頃から約15年間を過ごした八戸で誕生したといわれ、主著『自然真営道』101巻93冊も八戸で書かれたことが分かっています。そのきっかけとして考えられるのが、飢饉の頻発です。この地方特有の冷たい東風(やませ)により、当時の八戸では凶作と飢饉が猛威をふるっていました。中でも大豆生産のため焼き畑を繰り返したことで猪の大発生を招き、多くの餓死者を出した通称「猪飢渇」いのししけがじ(「けがじ」=八戸弁で「飢饉」の意味)は、昌益に大きな衝撃を与えたと思われます。
 刊本『自然真営道』「大序」には、「非命にして死せる者のためにこれを記す」、つまり、不幸にして天寿をまっとうできなかった人たちのためにこの書物を書くのだ、と書かれています。食物を生産する農民たちの多くが命を落とし、支配階級である武士たちには大きな被害がないという現実。この社会の矛盾を目の当たりにしたとき、昌益は、町人の身体を診る町医者から、社会全体を診る思想家へと変貌を遂げたのではないでしょうか。八戸で書き上げたとされる主著『自然真営道』には、昌益の思想が体系的に記述され、「大序」巻、24巻「法世物語」、25巻「良演哲論」では、厳しい社会批判が展開されています。
 昌益は、武士が支配する封建社会を「法の世(ほうのよ)」として批判し、貧富の差も支配関係もない平等な社会を「自然の世(しぜんのよ)」と名付け、理想の社会として掲げています。自ら生産労働をせず搾取することを、「不耕貪食(ふこうどんしょく)」と称して批判し、その対極にある、自然の循環の中で自ら正しく農耕を行う生活を「直耕」と名付け、このような労働の中にこそ、人の人たるゆえんがあるという主張をこめました。江戸時代に幕藩体制や身分制度を明確に否定したのは唯一昌益思想のみであり、しかも、江戸から遠く離れた八戸でこの著作が誕生したことに、大きな意義があります。→「安藤昌益資料館」所在地: 〒031-0086 青森県八戸市八日町3 時間: 本日営業 · 11時00分~16時00分
電話: 0178-20-8109



1987年3月 たばこ総合研究センター『談№37』「<農>学知の射程」

2010年6月 吉田徳寿『安藤昌益 直耕思想いま再び』東奥日報社

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三谷和合の本

2012年2月 『味の味』編集兼発行者 太田公一/東京都麻布台1-1-20麻布台ユニハウス409
2012年2月1日、粟国の先輩・仲里正雄氏の所に遊びに行くと、粟国島・沖縄海塩研究所の小渡幸信所長が見えていた。小渡所長から『味の味』№559を頂いた。それには「いのちは海からー粟国島だより77/食はバランス」を小渡さんが書かれていた。「今から40年ほど前、私は子供の頃から病弱だったので、体質改善のためヨガ道場に通うようになり、その中で自然食療法やマクロビオテック健康法(正食)を学び、実践しているうちに塩の力というものを実感するようになり、それが私の塩作りの研究を始めるきっかけとなりました」と、塩作りの動機を記されている。帰り「粟国の塩」「粟国の塩カレンダー2012」も頂いた。