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上田正昭さんが沖縄に来られたとき写真に収まってもらった。ご本人の著書は1971年末からの付き合いである。

 京都丸太町の古書店で『立替え立直し』(1971年5月)を買う、梅棹忠夫・上田正昭の対談「出口王仁三郎における変革の思想」が載っていた。上田正昭は何かと大本には縁がある。当時、京都で発行されていた『日本のなかの朝鮮文化』の執筆常連でもあった。沖縄との関わりも深い。私も朝鮮文化社にはよく遊びに行き、編集室奥の部屋で鄭詔文さんのコレクション、李朝の白磁などの陶器を見せてもらったりした。このコレクションが後の高麗美術館とつながる。
 前出の『立替え立直し』の発行は亀岡の大本本部天恩郷で、ちょうどそこには沖縄から金城ひろこさんが奉仕活動に来ていることを京大付属病院保健課の大城敬人さん(現・名護市会議員)の話で知り訪ねた。都沖青の一環で亀岡の渡文や大本亀岡本部はよく訪ねた。本部から離れたところに王仁三郎の生地瑞泉郷がある。大本本部の大本資料室で王仁三郎の沖縄訪問時の資料、王仁三郎扮する七福神や神々の写真パネルを見た。王仁三郎手製の楽焼の茶碗も見た。本部では茶道、八雲琴の演奏なども聴いた。
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『日本のなかの朝鮮文化』朝鮮文化社(鄭 詔文)

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1973年3月ー『琉球の文化』第3号□広告に朝鮮文化社がある。


1974年1月『東アジアの古代文化』創刊号 大和書房 江上波夫+鈴木武樹「辰王朝に倭国王の出自を探る」/国分直一「南島古代文化の系譜」/佐々木高明「南島根栽農耕文化の流れ」〇歴史雑誌。鈴木武樹が創刊を提案し初代編集長をつとめたが、多忙のため4号で降板した。鈴木武樹は1934-1978 昭和時代後期のドイツ文学者,社会運動家。昭和9年8月11日生まれ。38年明大講師,50年教授。小田実(まこと)らと交遊。ベ平連などの平和運動,プロ野球選手のための生活相談所開設,東アジアの古代文化を考える会などの市民運動にかかわる。昭和53年3月27日死去。43歳。静岡県出身。東大卒。訳書に「ジャン=パウル文学全集」(1,2,6巻)など。→コトバンク /1974年、近鉄沿線の駅で鈴木武樹さん、鄭貴文さんと会う。


備仲臣道『蘇る朝鮮文化ー高麗美術館と鄭詔文の人生』明石書店〇著者はあとがきの末尾に「1941年、日本の植民地朝鮮の大田に侵略者・日本人の息子として生まれてしまった私の、本来なさねばならぬ仕事のほんの一部がいま出来たという思いのほかになにもない。」と記している。/1966年3月 鄭貴文『民族の歌』東方社/1987年3月 『日本の中の朝鮮民芸美』朝鮮文化社〇1963年3月、東京で鄭貴文主宰で『朝陽』が創刊された。その第二号には霜多正次が「学生時代の金史良」を執筆。この雑誌は総連の圧力で廃刊となった。



1975年1月『青い海』40号 上田正昭「先島の神々」