図師 利佶 さんからコメントがあった。

「気まぐれに兄の名前(図師 巌)で検索したら「2中緑樹会」の写真に当たりました。投稿なされた方に厚く感謝申し上げます。図師 巌は大正5年那覇市で生まれ2中に進んでいます。平成13年東京で死去しました。戦後は映画監督して数本の作品を残しています。弟の小生(図師 利佶)は昭和2年生まれ、那覇尋常小学校に昭和13年まで在校しましたが両親の死亡により宮崎に移り戦火を免れました。小学校校時代の友達を懐かしく思い出すこともあります。当年85歳です。07/28 19:05:58 」

1938年1月26日ー『琉球新報』松村竹三郎/圖師巌・絵「連載小説・武士松茂良46」(~47,48,51,52,53,56,60,63回・2月15日)
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図師 利佶 さんからの続報

兄、「図師 巌」と私は11歳も年齢差があり、往時の記憶も確かではありません。兄が二中在学当時の私達家族は「那覇市久米町1丁目10番地」に居住していました。お隣は画家の「大嶺政寛」さんでしたので個人的な指導も受けていたと思います。2中時代は又。水泳の選手で、「波の上プール」に応援に行った思い出もあります。1939年、「東宝撮影所」に在職中「都城23連隊」に召集され爾後約7年間軍役、戦後は「東宝砧撮影所 演技課係長」の折、1948年「東宝大争議」に巻き込まれ「反日映演」の第2組合委員長で頑張っていましたが撮影所は閉鎖・・・その後「日活」で映画監督として数本時マゲものなどを撮ったようです。(gooで検索でできます)その後は映画界の衰退で脚本を書いたりしつつも回生ならず、2001年武蔵野市の養老院で死亡しました。私は1933年那覇尋常小学校幼稚園に入り1938年宮崎に移りました。同級生数名の名前は今も記憶していますがあの戦禍でどうなったでしょうか、今も気になります。兄は「許田君」に会いたい・・と言ったことがありましたが、写真を見ますと、二人おられますね。どのような運命を辿られたことでしょうか?。