上原信雄 うえはら-のぶお
1897-1987 昭和時代の救らい運動家,歯科医。
明治30年4月15日生まれ。昭和13年から沖縄のハンセン病療養所国頭(くにがみ)愛楽園につとめる。戦後,沖縄らい予防協会(のち沖縄県ハンセン病予防協会)の創立につくし,救らい運動を展開した。32年沖縄学徒援護会を創立。昭和62年2月7日死去。89歳。沖縄県出身。東京歯科医学校(現東京歯大)卒。

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写真左から二人目の立っているのが山城正忠、その下が上間正雄、4人目の立っているのが末吉麦門冬、その下の真ん中が渡嘉敷唯選。庭で左端に立っているのが池宮城積宝

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1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)新城栄徳「沖縄近代文芸略年表」

 1991年1月発行の『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)には「アルバム 麦門冬と正忠ー近代沖縄文壇の二大山脈ー」がある。また正忠の文芸四作品、麦門冬の文芸一作品が収録されている。1997年1月発行の『近代日本社会運動史人物大事典』の「山城正忠」は私が担当した。山城正忠の研究は、2000年7月発行の大西照雄『啄木と沖縄』、2008年6月発行の渡英子『詩歌の琉球』(砂子屋書房)などで進んでいる。前著には「『沖縄の啄木享受の歴史』の探究はここで終わりにしたいと思います。以後は沖縄の戦前の文学・芸術などあらゆる分野で愚直なまでの資料収集を行い、国吉家とも深い交流のある新城栄徳、また学生の頃から啄木の研究を続け、生前の国吉真哲と親しく、国吉の唯一の歌集『ゲリラ』の出版にかかわった宮城義弘などの研究が公にされることを期待したいと思います。」と記して私に宿題を残してくれている。最近では屋部公子さんや真栄里泰山氏が石川啄木と正忠関連で『岩手日報』の取材を受けている。

 2015年5月に沖縄タイムス1階ロビーで開かれた「琉球弧の雑誌展」を監修した。その図録に、その他の雑誌と題し次のように記した。
 本編に解説出来なかった雑誌にふれておく。山里永吉の『月刊琉球』(1937年5月創刊)に1938年、本山豊が入社した。『月刊琉球』第2巻第4号は「観光沖縄号」の特集である。その本山が1940年8月に石川文一、金城安太郎を同人にして『月刊文化沖縄』を創刊している。1944年の10・10空襲、1945年の沖縄戦で、多くの文化遺産と同様に、戦前に刊行された雑誌の多くも失われた。現在は確認できない現物も多いため、本展では雑誌にかかわる人物も柱の一つに位置づけた。戦前の人脈を見ると、雑誌と新聞は密接に結びついており、人間のつながりはまた、雑誌の性質を物語ってくれる。人脈の流れの一つにジャーナリストで俳人でもあった末吉麦門冬と、同じくジャーナリストで歌人の山城正忠を置いた。沖縄では『アソビ』や『五人』などの雑誌で文芸活動を行った山城正忠は、歌人の与謝野鉄幹、晶子の弟子であり、また石川啄木の友人でもあった。山城正忠を文学の師匠と仰いでいた国吉真哲は、山城の夢だった「啄木歌碑」建立を戦後に実現した。今回はその経緯も分かるように展示している。と、書いて戦時体制下の『月刊琉球』や『月刊文化沖縄』の解説は気が重くてふれなかった。

 日本敗戦直後の東久邇稔彦内閣は〈一億総懺悔(ざんげ)〉による天皇への敗戦の謝罪を唱え,また国民の多くも敗戦の悲惨と戦後の苦境をもたらした軍部,官僚など戦争指導者を怨嗟(えんさ)する敗戦責任論に共感した。丸山真男は天皇を頂点とした「大アジア主義」が、日本が第2次世界大戦を起こした名分だと指摘した。大アジア主義とは、天皇が追求する正義を日本のほかのアジアと世界へ伝播しなければならないという論理だ。こうした概念が日本のナショナリズム・軍国主義とかみ合い、韓国・中国・東南アジア国家に対する侵略を正当化させたという。 広島市の原爆死没者慰霊碑に刻まれた有名な碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」主語がはっきりせず、まるで日本人が「原爆を落とされるような悪いことはもうしません」と言っているかのようにも読める。絵画でも「戦争画」が負の遺産を考えるとして藤田嗣治「アッツ島玉砕」などが東京国立近代美術館で展示公開されている。以上の矛盾は昨日「戦争法案」が強行採決され成立に向かっているので、今や日本国民の間では戦争責任は死語となりつつある。私も戦時体制下の沖縄の雑誌を紹介するに理想的環境になった。ではなく問題は、最低でも次の総選挙で間違いなく自公を壊滅させることだ。



1930年8月12日『琉球新報』「写真館・とまりー親泊興夫、有銘光、国吉真鉄」
1930年11月  沖縄から初めて日本歯科医師会総会に楊長積(永井長積)出席 
1931年7月9日『琉球新報』馬天居士「馬天堂川柳」
1931年11月  日本歯科医師会総会に今井小四郎が出席 

1933年11月  日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 
1934年5月  竜田丸で来布せし洋園時報社招聘の唐手師範宮城長順は今朝移民局より上陸、九州屋旅館に宿泊(~1935年1月)
1934年11月  日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 


1935年4月20~24日 下村海南、飯島曼史来沖
○短歌新聞沖縄通信員・名嘉元浪村□文芸レポ・中央歌壇に報告された沖縄地方歌壇一年ー隣県の鹿児島歌壇に比較してあまりに淋しい沖縄である。本年も相変わらず短歌誌一つ出現せず、当地日刊三新聞並びに「沖縄教育」誌の文芸欄に時たま発表される短歌を通じてのみ、いはゆる歌壇的命脈を支へているにすぎない状態である。かつては新詩社の逸材であり本県歌壇の大先輩である山城正忠氏 歌壇の低調を見くびってか、独り高く安楽椅子にふんぞりかへって後輩指導の熱意なきかに見受けられ一層の寂寥を感ぜしめている未来性を待望されている新進気鋭の原神青酔、国吉真起、泉国夕照の力作も散見されたがもっと積極性を発揮して貰ひたかった。但し原神青酔の旅の歌(琉球新報所載)は本年度に於ける逸品であらう。中央結社歌誌に籍を置くことのうすい本県歌人群の中にあって桃原邑子が「詩歌」の新人欄に前進し「アララギ」に勉強中の比嘉俊成が本県師範学校に転任した事は歌壇に一縷の光明を与えた。
 四月二十日、下村海南博士を迎へたるも来県早々講演行却に東西奔走の多忙を極めたために歌人としての博士に対し一夕の歌迎歌会すら催す事の出来なかったのは県歌壇にとって痛恨事とされている。同じく四月二十日、新詩社出の山城正忠氏に依って与謝野寛追悼歌会がはるかにオキナワ、ナハで催され沖縄歌話会員多数出席し海南博士をして奇異の目を瞠らしめた事は特記すべきであらう。十二月下旬、県教育会の招聘で折口信夫博士が来県され「萬葉集に現われたる日本精神」に就いて講習会が開催され、冬眠期の県歌壇にとって強き刺戟であった。   
1935年8月6日『琉球新報』馬天居士「六菖記(2)」
1935年9月26日『琉球新報』山里永吉「鮫丸物語(15)」金城安太郎 絵
1935年11月   日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 

1936年1月28日 大阪堺筋の明治商店で宮城長順・大日本武徳会沖縄県支部常議員「唐手道について」と題し講演
1936年10月14日『琉球新報』古波鮫弘子「女の気持ちー馬天居士へ送る文」
1936年11月8日『琉球新報』古波鮫弘子「颱風」
1936年11月11日『沖縄朝日新聞』鳥小堀浄・文/西條寛・絵「首里風景ー弁ケ岳」、糸数幸緒「歓楽極まりて」


1936年11月26日『琉球新報』山里永吉「百日紅」84 金城安太郎絵/馬天居士「八方雑記(22)」
1936年11月   日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 
1936年11月28日『琉球新報』馬天居士「八方雑記(24)」
1938年11月   日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 
1939年11月   日本歯科医師会総会に友寄英彦が出席 
1940年9月 井上友一郎が『琉球新報』に「新体制と文学」と題し書いている。
1941年7月  美術雑誌30数種が廃刊、新たに『新美術』『國畫』『國民美術』『畫論』『季刊美術』などが創刊された。

1941年9月『月刊文化沖縄』義村仁斎「自傳武道記」
1941年12月8日 真珠湾攻撃
1942年1月    日本民藝協会『民藝』編集後記「いまや史上空前の大戦が展開しつつある。日本民族の優秀性と強大さを世界に示すときが来た」
1942年2月    日本民藝協会『民藝』「大東亜戦争の発展とともに、国民の気持ちは実に明るくなった。」
1942年5月    日本民藝協会『民藝』<満州建国十周年>
1942年7月    月刊『文化沖縄』第三巻第五号(編集兼発行人・馬上太郎)は革新号とし主幹に山城正忠、編集に新崎盛珍を迎えた。表紙題字は尚順、表紙絵は山城正忠である。編集後記に新崎が「他人から何か頼まれると、大抵の事なら断りきれない性分を有って居る私は、とうとう本誌の編集を引き受けて了った。・・・」、正忠は「時節柄寸分の余白でも出来得る限り利用するのが奉公の途だと思ひ、国民精神を作興するに足るべき名歌名詩並びに標語を記入することにした。・・・」と記した。



1942年8月 月刊『文化沖縄』第三巻第六号 宮城長順「法剛柔呑吐ー空手雑藁ー」

1943年1月    月刊『文化沖縄』仲村渠「魚雷の歌 ・・・魚雷なり 美しき魚雷なり 頬あかき空の兵ものの 『命中たのむ』と念じ給ひし魚雷なり /」クワンタン沖 真珠湾 スラバヤ沖 珊瑚海よ 目をつぶれば 頬あかき空の兵ものの かの御姿のうかぶなり・・・」

1985年11月『歌人・山城正忠』(琉文手帖3号)

1943年2月    日本民藝協会『民藝』「いよいよ決戦の年が来た。国力をあげて戦争の目的完遂につくさねばならぬ」
1943年10月    月刊『文化沖縄』第四巻第十号 新崎盛珍「時局と科学」○時運の進展と共に、科学は戦争に於いて死命を制する一因となった。日露戦争には火薬、第一次欧州大戦には内燃機関に於ける研究の勝敗がやがて戦争の勝敗を決定したと謂はれて居る。年来有り余る財力を利用して、諸外国の高名なる科学者を招聘することに力めて居た米国は、今次の大戦が勃発するや、逸早く科学振興局を中心とする大統合を行ひて、あらゆる部門の研究機関とあらゆる科学者を総動員し、之を推進力となして戦力の増強を計り、数に於いて我を圧迫しようと意図して居るやうである。
  我が政府亦曩に「科学研究の緊急整備方策」を決定し、之が遂行に就いて各大学、各専門家に呼び掛けて居る。今や勝ち抜くための色々の主張の中、科学振興に対する叫びは、最も声高く、力強いものとなって来た。由来我が国に於いては、学者の研究と日常生活とは相乖離して居る憾があった。今後銃後の生活を拡充して戦力の増強を図らんが為めには、学者の実験室に於ける研究の結果が、翌日は日常生活の上に反映するやうにせねばならぬ。
  新崎盛珍「編集後記」○雑誌の経営に深い経験を有する山里永吉氏が此度入社することになった。之に依って本誌は一層光彩を放つことであらう。
1944年3月 全国の新聞の夕刊が廃止。11月には朝刊も2頁になる

1944年7月、山城正忠疎開。
この頃のことを1949年12月発行の『うるま春秋』創刊号(編集・仲村渠致良)山城正忠「香扇抄」に書いている。
 抑々、勇吉は男として、世のつねならぬ、臆病者であった。沖縄に米軍上陸が予想され、学童疎開の噂が出ると、俄かに度を失い、瞼の裏には、行住座臥、うづまく赤い風と山成す豚の丸焼がこびりついてはなれず、いくら丹田に力をいれてみても、はらえぬ状態になっていた。思い余って、妻に疎開の意嚮をもらしたが、てんで受け付けず、再三押してゆくと、しまいには、そんなにこわければ、あなた一人で、勝手な行動をおとりなさいと、ついに、われとわが最後のほぞをかため、昭和十九年七月の疎開船に投じ、途中、魚腹を肥やすことなんか考える余裕もなく、ひたすら、本土安穏に一すぢにひかれて行った。
 幸、今まで多くの生霊をのんだ、魔の海もつつがなく航り、鹿児島の埠頭に吐き出された途端に、一時、おこりのおちたような感激を覚えたが、ここでもまた、いろいろな流言飛語にただならぬ火気が感じられてくると、一刻も安まらずいよいよあわただしい行程をたどりつつ、播州龍野、備中高梁、寧楽の三輪と転々するうちには、一人旅の気散じが、彼をくつろがせ、果ては、日ごろ自らたのむ殉情の使徒としての太陽を、心の空にあおぐゆとりができていた。
 そこへ、十十空襲の報がつたわり、那覇市の灰滅とともに、家族との連絡が絶たれ、爾来、ようとして、生死のほどもしれずにいたら、あくる年の一月の末に一家無事、九州に疎開すとの急電に接し(龍野の住所を知らせてあったので、そこから転送された)さすがに肉親の絆は絶ちがたく、思い出ふかい、三輪のねぐらを忍びて立ち退き、ここH村の家族に合流したのである。
1946年10月 帰郷し玉城村堀川に居住。



1927年9月  山城正忠、同人雑誌『珊瑚礁』山里永吉「人間は居ない」→1935年3月『海邦』山里永吉「佐伯氏夫妻」→1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)収録。モデルは佐山明(歯科医)
○1985年11月『歌人・山城正忠』(琉文手帖3号)国吉真哲「珊瑚礁のころ(同人たち)ー佐山明(歯科医)、菊地亮(沖縄刑務所教誨師)、糸数三武郎(訓導)、川俣和(沖縄二中教諭)、型谷悌二郎(国吉真哲)」

1929年8月8日 『琉球新報』本山夢路「再び放浪の旅へー放浪の旅への力附けをして下さいました、山城正忠、川俣和、向井文忠氏 奥様、根尾耳鼻科部長(県病院)花城清用、国場道平諸先輩に心から感謝します・・・」/川俣和「前線を歩む人々(15)眞なるが故に新なり」


1930年8月12日『琉球新報』「写真館・とまりー親泊興夫、有銘光、国吉真鉄」
1930年11月  沖縄から初めて日本歯科医師会総会に楊長積(永井長積)出席 
1931年7月9日『琉球新報』馬天居士「馬天堂川柳」
1931年11月  日本歯科医師会総会に今井小四郎が出席 

1933年11月  日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 
1934年5月  竜田丸で来布せし洋園時報社招聘の唐手師範宮城長順は今朝移民局より上陸、九州屋旅館に宿泊(~1935年1月)
1934年11月  日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 


1935年4月20~24日 下村海南、飯島曼史来沖
○短歌新聞沖縄通信員・名嘉元浪村□文芸レポ・中央歌壇に報告された沖縄地方歌壇一年ー隣県の鹿児島歌壇に比較してあまりに淋しい沖縄である。本年も相変わらず短歌誌一つ出現せず、当地日刊三新聞並びに「沖縄教育」誌の文芸欄に時たま発表される短歌を通じてのみ、いはゆる歌壇的命脈を支へているにすぎない状態である。かつては新詩社の逸材であり本県歌壇の大先輩である山城正忠氏 歌壇の低調を見くびってか、独り高く安楽椅子にふんぞりかへって後輩指導の熱意なきかに見受けられ一層の寂寥を感ぜしめている未来性を待望されている新進気鋭の原神青酔、国吉真起、泉国夕照の力作も散見されたがもっと積極性を発揮して貰ひたかった。但し原神青酔の旅の歌(琉球新報所載)は本年度に於ける逸品であらう。中央結社歌誌に籍を置くことのうすい本県歌人群の中にあって桃原邑子が「詩歌」の新人欄に前進し「アララギ」に勉強中の比嘉俊成が本県師範学校に転任した事は歌壇に一縷の光明を与えた。
 四月二十日、下村海南博士を迎へたるも来県早々講演行却に東西奔走の多忙を極めたために歌人としての博士に対し一夕の歌迎歌会すら催す事の出来なかったのは県歌壇にとって痛恨事とされている。同じく四月二十日、新詩社出の山城正忠氏に依って与謝野寛追悼歌会がはるかにオキナワ、ナハで催され沖縄歌話会員多数出席し海南博士をして奇異の目を瞠らしめた事は特記すべきであらう。十二月下旬、県教育会の招聘で折口信夫博士が来県され「萬葉集に現われたる日本精神」に就いて講習会が開催され、冬眠期の県歌壇にとって強き刺戟であった。   
1935年8月6日『琉球新報』馬天居士「六菖記(2)」
1935年9月26日『琉球新報』山里永吉「鮫丸物語(15)」金城安太郎 絵
1935年11月   日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 

1936年1月28日 大阪堺筋の明治商店で宮城長順・大日本武徳会沖縄県支部常議員「唐手道について」と題し講演
1936年10月14日『琉球新報』古波鮫弘子「女の気持ちー馬天居士へ送る文」
1936年11月8日『琉球新報』古波鮫弘子「颱風」
1936年11月11日『沖縄朝日新聞』鳥小堀浄・文/西條寛・絵「首里風景ー弁ケ岳」、糸数幸緒「歓楽極まりて」


1936年11月26日『琉球新報』山里永吉「百日紅」84 金城安太郎絵/馬天居士「八方雑記(22)」
1936年11月   日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 
1936年11月28日『琉球新報』馬天居士「八方雑記(24)」
1938年11月   日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 
1939年11月   日本歯科医師会総会に友寄英彦が出席 
1940年9月 井上友一郎が『琉球新報』に「新体制と文学」と題し書いている。
1941年7月  美術雑誌30数種が廃刊、新たに『新美術』『國畫』『國民美術』『畫論』『季刊美術』などが創刊された。

1941年9月『月刊文化沖縄』義村仁斎「自傳武道記」
1941年12月8日 真珠湾攻撃
1942年1月    日本民藝協会『民藝』編集後記「いまや史上空前の大戦が展開しつつある。日本民族の優秀性と強大さを世界に示すときが来た」
1942年2月    日本民藝協会『民藝』「大東亜戦争の発展とともに、国民の気持ちは実に明るくなった。」
1942年5月    日本民藝協会『民藝』<満州建国十周年>
1942年7月    月刊『文化沖縄』第三巻第五号(編集兼発行人・馬上太郎)は革新号とし主幹に山城正忠、編集に新崎盛珍を迎えた。表紙題字は尚順、表紙絵は山城正忠である。編集後記に新崎が「他人から何か頼まれると、大抵の事なら断りきれない性分を有って居る私は、とうとう本誌の編集を引き受けて了った。・・・」、正忠は「時節柄寸分の余白でも出来得る限り利用するのが奉公の途だと思ひ、国民精神を作興するに足るべき名歌名詩並びに標語を記入することにした。・・・」と記した。



1942年8月 月刊『文化沖縄』第三巻第六号 宮城長順「法剛柔呑吐ー空手雑藁ー」

1943年1月    月刊『文化沖縄』仲村渠「魚雷の歌 ・・・魚雷なり 美しき魚雷なり 頬あかき空の兵ものの 『命中たのむ』と念じ給ひし魚雷なり /」クワンタン沖 真珠湾 スラバヤ沖 珊瑚海よ 目をつぶれば 頬あかき空の兵ものの かの御姿のうかぶなり・・・」

1985年11月『歌人・山城正忠』(琉文手帖3号)

1943年2月    日本民藝協会『民藝』「いよいよ決戦の年が来た。国力をあげて戦争の目的完遂につくさねばならぬ」
1943年10月    月刊『文化沖縄』第四巻第十号 新崎盛珍「時局と科学」○時運の進展と共に、科学は戦争に於いて死命を制する一因となった。日露戦争には火薬、第一次欧州大戦には内燃機関に於ける研究の勝敗がやがて戦争の勝敗を決定したと謂はれて居る。年来有り余る財力を利用して、諸外国の高名なる科学者を招聘することに力めて居た米国は、今次の大戦が勃発するや、逸早く科学振興局を中心とする大統合を行ひて、あらゆる部門の研究機関とあらゆる科学者を総動員し、之を推進力となして戦力の増強を計り、数に於いて我を圧迫しようと意図して居るやうである。
  我が政府亦曩に「科学研究の緊急整備方策」を決定し、之が遂行に就いて各大学、各専門家に呼び掛けて居る。今や勝ち抜くための色々の主張の中、科学振興に対する叫びは、最も声高く、力強いものとなって来た。由来我が国に於いては、学者の研究と日常生活とは相乖離して居る憾があった。今後銃後の生活を拡充して戦力の増強を図らんが為めには、学者の実験室に於ける研究の結果が、翌日は日常生活の上に反映するやうにせねばならぬ。
  新崎盛珍「編集後記」○雑誌の経営に深い経験を有する山里永吉氏が此度入社することになった。之に依って本誌は一層光彩を放つことであらう。
1944年3月 全国の新聞の夕刊が廃止。11月には朝刊も2頁になる

1944年7月、山城正忠疎開。
この頃のことを1949年12月発行の『うるま春秋』創刊号(編集・仲村渠致良)山城正忠「香扇抄」に書いている。
 抑々、勇吉は男として、世のつねならぬ、臆病者であった。沖縄に米軍上陸が予想され、学童疎開の噂が出ると、俄かに度を失い、瞼の裏には、行住座臥、うづまく赤い風と山成す豚の丸焼がこびりついてはなれず、いくら丹田に力をいれてみても、はらえぬ状態になっていた。思い余って、妻に疎開の意嚮をもらしたが、てんで受け付けず、再三押してゆくと、しまいには、そんなにこわければ、あなた一人で、勝手な行動をおとりなさいと、ついに、われとわが最後のほぞをかため、昭和十九年七月の疎開船に投じ、途中、魚腹を肥やすことなんか考える余裕もなく、ひたすら、本土安穏に一すぢにひかれて行った。
 幸、今まで多くの生霊をのんだ、魔の海もつつがなく航り、鹿児島の埠頭に吐き出された途端に、一時、おこりのおちたような感激を覚えたが、ここでもまた、いろいろな流言飛語にただならぬ火気が感じられてくると、一刻も安まらずいよいよあわただしい行程をたどりつつ、播州龍野、備中高梁、寧楽の三輪と転々するうちには、一人旅の気散じが、彼をくつろがせ、果ては、日ごろ自らたのむ殉情の使徒としての太陽を、心の空にあおぐゆとりができていた。
 そこへ、十十空襲の報がつたわり、那覇市の灰滅とともに、家族との連絡が絶たれ、爾来、ようとして、生死のほどもしれずにいたら、あくる年の一月の末に一家無事、九州に疎開すとの急電に接し(龍野の住所を知らせてあったので、そこから転送された)さすがに肉親の絆は絶ちがたく、思い出ふかい、三輪のねぐらを忍びて立ち退き、ここH村の家族に合流したのである。
1946年10月 帰郷し玉城村堀川に居住。

 1949年   平野萬里①『晶子鑑賞』「正忠を恋の猛者ぞと友の云ふ戒むるごと そそのかすごと 正忠は山城正忠君の事で、琉球那覇の老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも立ち寄られた。同君は古い明星の同人で、若い時東京に留学されその時先生の門を叩いたのであるから古い話だ。当時一しょに私の家などで運座をやった仲間の生き残っているのは吉井君であるが、大家を別とすれば今だに作歌を続けているのは同君位のものであらう。戦争で大分辺に逃げて来て故江南君によると単衣一枚で慄へて居られるから何か著物を送るようとの事であったが、その時は最早小包便など利かなくなっていたので如何とも致し様がなくその儘にしてしまったが今頃は如何して居られることだらうか。・・・・』と記されている。