1937年9月『月刊琉球』山城正忠「麦門冬を語る」
○けふは旧の7月13日、所謂精霊を迎える日であり、初秋の風に、盆灯篭のもの淋しくゆれる孟蘭盆である。そのために、私の心には麦門冬が今に会いにくるような気持ちになるまでに、なつかしい彼の面影がよみがへって来ている。今。麦門冬。思いがけなくも、あまりに世を早く去った彼、年齢からいふと、わたしより弟分でありながら、生意気に本を読み過ぎいささか頭のよかったキヤツ、私は無理と知り乍らも、今一度奴を現実にひき戻したくて仕方がないのだ。麦門冬。即ち』末吉麦門冬である。親のつけた戸籍面では末吉安恭。元来、麦門冬は彼の俳号であった。私の知っている範囲内で、その頃の沖縄俳壇に、名実共に俳人らしい俳人といったら、末吉麦門冬ともうひとり、これも物故したが、壷屋出身の高江洲三念であった。三念に就いては、今頃知る人も少なかろうが目下、中京名古屋の舞踊界で活躍している、南条舞踊研究所高江洲康宏君の兄である。したがって、麦と三念の間にはわれわれにもうかがひ知れない緊密な俳交があった。それから麦門冬には莫夢山人といふ号があり、それもよく随筆なぞを物していたのは、未だ記憶している人も多かろう。

その代わり、落紅といふ歌号は十中八九知らないだろうと思ふそれを特に私が知っているのは少し理由がある。といふのは例の新詩社の「明星」が百号で廃刊し、それに代わる「昴」が森鴎外博士を主格に、与謝野夫妻を顧問として、北原、吉井、茅野、大田(木下杢太郎)、平野それから一代の才人石川啄木君なぞによって発刊された、当時彼が落紅の筆名で、しばしば短歌の一般投稿欄のトップを切っていた折あたかも在京当時の私がその雑誌の同人格で果敢ない命脈を繋いでいたからである。とにかく、麦門冬といふ男はある一時、新聞記者といふ立場に於いて反対党の或政敵からは「化け者(モン)とう」といい囃された程、得体のわからない豪ら物だった。そもそも、末吉安恭が書斎から街頭に出た当初は、何の変哲もない一文学青年に過ぎなかったが、天稟と努力による彼の行くとし可ならざるは無き学殖と端倪すべからざるその才能は、いつしか県ソウコ界の寵児たらしめたのであった。おそろしく筆まめの男で、編輯締切間際になって記事が不足し、他の記者が徒に騒いでいる時でも彼は悠然として神速に、何かを書き上げてその穴を埋めていた。しかもそれが良い加減のものではなかった。酒と来たらそれこそ眼がなかった。飲むと矢鱈に煙草を吸ひその吐き出す煙で相手を巻くように能弁になり、雄弁になる彼であった。ふだんは割合におとなしかったが、酔ふとトラになって、武を演ずることが往々有った。(以下略)



山城正忠「乾闥婆城ー一名、尋牛庵閑話ー」
○崖言ー黙っているのも能ではあるまい何か書いて見たらと、灰雨①にそそのかされて、久方ぶりに、筆を執り、研に親しんでみる気になった。それだけでも、私としてはよほどの発心である。もちろん、文をつづるわざに、関心を失ったわけではないこれでも絶えず、その方面に念がけているが、人に示す程のものがかけないからといふ心に、鞭うてない例の怠りである。そこで、案に向って見たものの、これといった腹案がないため、やはりいけない。よんどころなく、筆を投じ、数年来珍蔵している、寄書屏風に対座して見た。何かそれによって、暗示でもうけたいと思ったからである。
①灰雨ー國吉眞哲

夭々たる桃花と微吟したい陽春三月の光をうけて、銀の色がややすんでいるのもどことなく落付きがあって、いいものである。そこには一面に、先輩や友人たちの芳名が録されてあり、なほ、各自の心境と気魄の横溢した、書画がひしめき合っている。数にしざっと百名を越すであらふ。すべて、茅屋に駕を枉げていただいた方々の記念に残されたサインである。こうして見ていると、おのづから、いろいろの顔が浮かんで来るし、更らに、ことなった声がきこえるやうな気がして、何とはなしに、「閑忙至楽」といふ句が思ひ出される。試みに、その中から、特に異色のあるものを拾って見やふ。

「浄華雲」、敏とあるのは、暁烏敏②(以下敬称を省く。又他意なし)である。これを見ていると、あの極度の近眼鏡と、若い夫人の品やかな手が思ひ出される。「首里の青天、なはのへきれき」とつつましく書かれているのは、折口博士の事、釈ちやう空のである。薄墨の色にも、氏の人柄が窺はれて頭がさがる。「山原船」の絵は春陽会の山崎省三③。「笊を頭にのせた女」の絵は帝展の三宅凰白。これには句が賛してある。曰く。物売りの言葉わからず梯梧散る。踊を象徴したやうな「踊」の字は石井漠④。その署名をとりまいて、圓舞するけしきに見えるとりどりの署名。八重子、洋子、みどり、静香、恵美子。因云。八重子は石井夫人である。これだけは旅館でかいてもらった。佛文はアグノエル⑤、露文はセルゲーエワ嬢。

②暁烏 敏は、真宗大谷派の僧侶、宗教家である。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。 同じ加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて加賀の三羽烏という。 ウィキペディア

③山崎省三 やまざき-しょうぞう
1896-1945 大正-昭和時代前期の洋画家。
明治29年3月6日生まれ。日本美術院研究所にまなぶ。大正5年院展に初入選。村山槐多(かいた)とまじわる。11年春陽会創立会員。昭和12年より新文展に出品。山本鼎(かなえ)らと農民美術運動をすすめた。昭和20年6月7日ハノイで戦病死。50歳。神奈川県出身。作品に「午砲の火薬庫」など。→コトバンク

④石井漠いしいばく
[生]1886.12.25. 秋田,下岩川
[没]1962.1.7. 東京
舞踊家。本名石井忠純。日本の現代舞踊の父といわれる。文学を志して上京したが,のちに石井林郎の芸名で帝国劇場付属管弦楽部員,同歌劇部第1期生となり,ジョバンニ・V.ローシーにバレエを学ぶ。 →コトバンク

⑤シャルル・アグノエルは日本・朝鮮の言語・文化を担当したパリ大学教授。1924年から八年間日本に留学し30年に沖縄を調査。沖縄に関し「琉球における死の表象の特徴について」などの論文があり、著書「日本文明の起源」(56年)が久高島の風葬などを報告した。→森田琉大学長

短冊型に輪郭をとった中に柳につばめの模様を描き、「宵闇を明るくするや、小夜楽」と句をかいたのは田谷力三。「ほのぼのと明け行く白き朝霧につつまれて着く那覇の港や」は北村季美子。紙数に制限があるから、以下友人のをぬいてみやふ。「鶏啄木」の宮城長順。「銀椀裡盛雪」の島袋全発。「喜神招福」の謝花雲石。心如水一の谷本誠。「多情無為」の上間正敏。等々。何れも其性格があらはれてほほえましくなる。その他「月橘花白ろ」の故国吉寒路。「首里城明渡し」の山里永吉、これは俳句と戯曲の題書である。一寸変わり種では石川正通の英文ゲーテの句、イブラギムのトルコ文字。ネファ。ヴアンチュウルの吉野光枝といったところ、それに島袋光裕の書と、宮城能造の絵を追加したい。大書きされて眼につくのは、時君洞の蒼勁三武郎の典雅、反対に小書きされて眼につかないのは、川俣和と藤井春洋。両氏共、国学院の出身で、折口門下であるのも、此場合、偶然の対照で面白い。
書いているうちに、紙数が尽きたから、他は割愛することにして、次回から、此欄を藉りて、私なりの考証や観察といったやふな、随筆を連載させていただく事にする。

1936年4月 山城正忠「乾闥婆城ー一名、尋牛庵閑話ー」
○一茶と琉球人ー良寛と一茶とは、私にとって、もっとも嬉しい人生の旅人であり、又、遺された句や歌を通じて、知合になったいい途連れである。しかし、ここではその一茶に就いてのみ、かきとめておく。「一茶旅日記」ーこれはその名の示す如く自ら「革命の年」と呼んでいる。彼の42歳から46歳までの5年に亘る句集を兼ねた日乗である。島崎藤村先生は、江戸の仮住居の侘しい行灯のかげなぞでその日その日に書かれたらしい心覚えの手帳だと、いみじくも追想されている、越後入村家の襲蔵に係る稀こう本で、大正13年6月18日、斯道の権威、勝峰晋風氏の解説によって遍く世の同好者に頒れたもの、私は友人川俣和氏に借覧して思ひがけない眼福を得た次第。その中から事琉球に関するものだけを抜粋して、取り敢えず手控へにしたい。左記。
     文化三年十二月十三日の条に、晴。北風。品川岡本屋にて琉球人を見る。砂明と外三人一座なり。
     同二十三日。琉球人登城。同三十日琉球人上野に入。同十二月四日。晴。行徳川岸大阪屋に泊る。琉球の医師葬。
以上。これによって、江戸上り琉球使節一行の唐人行列が、如何に江戸市民に好奇心を以て迎へられたかといふことがよく窺はれる。(以下略)

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写真左から二人目の立っているのが山城正忠、その下が上間正雄、4人目の立っているのが末吉麦門冬、その下の真ん中が渡嘉敷唯選。庭で左端に立っているのが池宮城積宝

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1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)新城栄徳「沖縄近代文芸略年表」
 1991年1月発行の『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)には「アルバム 麦門冬と正忠ー近代沖縄文壇の二大山脈ー」がある。また正忠の文芸四作品、麦門冬の文芸一作品が収録されている。1997年1月発行の『近代日本社会運動史人物大事典』の「山城正忠」は私が担当した。山城正忠の研究は、2000年7月発行の大西照雄『啄木と沖縄』、2008年6月発行の渡英子『詩歌の琉球』(砂子屋書房)などで進んでいる。前著には「『沖縄の啄木享受の歴史』の探究はここで終わりにしたいと思います。以後は沖縄の戦前の文学・芸術などあらゆる分野で愚直なまでの資料収集を行い、国吉家とも深い交流のある新城栄徳、また学生の頃から啄木の研究を続け、生前の国吉真哲と親しく、国吉の唯一の歌集『ゲリラ』の出版にかかわった宮城義弘などの研究が公にされることを期待したいと思います。」と記して私に宿題を残してくれている。最近では屋部公子さんや真栄里泰山氏が石川啄木と正忠関連で『岩手日報』の取材を受けている。

 2015年5月に沖縄タイムス1階ロビーで開かれた「琉球弧の雑誌展」を監修した。その図録に、その他の雑誌と題し次のように記した。
 本編に解説出来なかった雑誌にふれておく。山里永吉の『月刊琉球』(1937年5月創刊)に1938年、本山豊が入社した。『月刊琉球』第2巻第4号は「観光沖縄号」の特集である。その本山が1940年8月に石川文一、金城安太郎を同人にして『月刊文化沖縄』を創刊している。1944年の10・10空襲、1945年の沖縄戦で、多くの文化遺産と同様に、戦前に刊行された雑誌の多くも失われた。現在は確認できない現物も多いため、本展では雑誌にかかわる人物も柱の一つに位置づけた。戦前の人脈を見ると、雑誌と新聞は密接に結びついており、人間のつながりはまた、雑誌の性質を物語ってくれる。人脈の流れの一つにジャーナリストで俳人でもあった末吉麦門冬と、同じくジャーナリストで歌人の山城正忠を置いた。沖縄では『アソビ』や『五人』などの雑誌で文芸活動を行った山城正忠は、歌人の与謝野鉄幹、晶子の弟子であり、また石川啄木の友人でもあった。山城正忠を文学の師匠と仰いでいた国吉真哲は、山城の夢だった「啄木歌碑」建立を戦後に実現した。今回はその経緯も分かるように展示している。と、書いて戦時体制下の『月刊琉球』や『月刊文化沖縄』の解説は気が重くてふれなかった。

 


1927年9月  山城正忠、同人雑誌『珊瑚礁』山里永吉「人間は居ない」→1935年3月『海邦』山里永吉「佐伯氏夫妻」→1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)収録。モデルは佐山明(歯科医)
○1985年11月『歌人・山城正忠』(琉文手帖3号)国吉真哲「珊瑚礁のころ(同人たち)ー佐山明(歯科医)、菊地亮(沖縄刑務所教誨師)、糸数三武郎(訓導)、川俣和(沖縄二中教諭)、型谷悌二郎(国吉真哲)」

1929年8月8日 『琉球新報』本山夢路「再び放浪の旅へー放浪の旅への力附けをして下さいました、山城正忠、川俣和、向井文忠氏 奥様、根尾耳鼻科部長(県病院)花城清用、国場道平諸先輩に心から感謝します・・・」/川俣和「前線を歩む人々(15)眞なるが故に新なり」


1930年8月12日『琉球新報』「写真館・とまりー親泊興夫、有銘光、国吉真鉄」
1930年11月  沖縄から初めて日本歯科医師会総会に楊長積(永井長積)出席 
1931年7月9日『琉球新報』馬天居士「馬天堂川柳」
1931年11月  日本歯科医師会総会に今井小四郎が出席 

1933年11月  日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 
1934年5月  竜田丸で来布せし洋園時報社招聘の唐手師範宮城長順は今朝移民局より上陸、九州屋旅館に宿泊(~1935年1月)
1934年11月  日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 

1935年4月20~24日 下村海南、飯島曼史来沖
○短歌新聞沖縄通信員・名嘉元浪村□文芸レポ・中央歌壇に報告された沖縄地方歌壇一年ー隣県の鹿児島歌壇に比較してあまりに淋しい沖縄である。本年も相変わらず短歌誌一つ出現せず、当地日刊三新聞並びに「沖縄教育」誌の文芸欄に時たま発表される短歌を通じてのみ、いはゆる歌壇的命脈を支へているにすぎない状態である。かつては新詩社の逸材であり本県歌壇の大先輩である山城正忠氏 歌壇の低調を見くびってか、独り高く安楽椅子にふんぞりかへって後輩指導の熱意なきかに見受けられ一層の寂寥を感ぜしめている未来性を待望されている新進気鋭の原神青酔、国吉真起、泉国夕照の力作も散見されたがもっと積極性を発揮して貰ひたかった。但し原神青酔の旅の歌(琉球新報所載)は本年度に於ける逸品であらう。中央結社歌誌に籍を置くことのうすい本県歌人群の中にあって桃原邑子が「詩歌」の新人欄に前進し「アララギ」に勉強中の比嘉俊成が本県師範学校に転任した事は歌壇に一縷の光明を与えた。
 四月二十日、下村海南博士を迎へたるも来県早々講演行却に東西奔走の多忙を極めたために歌人としての博士に対し一夕の歌迎歌会すら催す事の出来なかったのは県歌壇にとって痛恨事とされている。同じく四月二十日、新詩社出の山城正忠氏に依って与謝野寛追悼歌会がはるかにオキナワ、ナハで催され沖縄歌話会員多数出席し海南博士をして奇異の目を瞠らしめた事は特記すべきであらう。十二月下旬、県教育会の招聘で折口信夫博士が来県され「萬葉集に現われたる日本精神」に就いて講習会が開催され、冬眠期の県歌壇にとって強き刺戟であった。   
1935年8月6日『琉球新報』馬天居士「六菖記(2)」
1935年9月26日『琉球新報』山里永吉「鮫丸物語(15)」金城安太郎 絵
1935年11月   日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 

1936年1月28日 大阪堺筋の明治商店で宮城長順・大日本武徳会沖縄県支部常議員「唐手道について」と題し講演
1936年10月14日『琉球新報』古波鮫弘子「女の気持ちー馬天居士へ送る文」
1936年11月8日『琉球新報』古波鮫弘子「颱風」
1936年11月11日『沖縄朝日新聞』鳥小堀浄・文/西條寛・絵「首里風景ー弁ケ岳」、糸数幸緒「歓楽極まりて」

1936年11月26日『琉球新報』山里永吉「百日紅」84 金城安太郎絵/馬天居士「八方雑記(22)」
1936年11月   日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 
1936年11月28日『琉球新報』馬天居士「八方雑記(24)」
1938年11月   日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 
1939年11月   日本歯科医師会総会に友寄英彦が出席 
1940年9月 井上友一郎が『琉球新報』に「新体制と文学」と題し書いている。
1941年7月  美術雑誌30数種が廃刊、新たに『新美術』『國畫』『國民美術』『畫論』『季刊美術』などが創刊された。

1941年9月『月刊文化沖縄』義村仁斎「自傳武道記」
1941年12月8日 真珠湾攻撃
1942年1月    日本民藝協会『民藝』編集後記「いまや史上空前の大戦が展開しつつある。日本民族の優秀性と強大さを世界に示すときが来た」
1942年2月    日本民藝協会『民藝』「大東亜戦争の発展とともに、国民の気持ちは実に明るくなった。」
1942年5月    日本民藝協会『民藝』<満州建国十周年>
1942年7月    月刊『文化沖縄』第三巻第五号(編集兼発行人・馬上太郎)は革新号とし主幹に山城正忠、編集に新崎盛珍を迎えた。表紙題字は尚順、表紙絵は山城正忠である。編集後記に新崎が「他人から何か頼まれると、大抵の事なら断りきれない性分を有って居る私は、とうとう本誌の編集を引き受けて了った。・・・」、正忠は「時節柄寸分の余白でも出来得る限り利用するのが奉公の途だと思ひ、国民精神を作興するに足るべき名歌名詩並びに標語を記入することにした。・・・」と記した。



1942年8月 月刊『文化沖縄』第三巻第六号 宮城長順「法剛柔呑吐ー空手雑藁ー」

1943年1月    月刊『文化沖縄』仲村渠「魚雷の歌 ・・・魚雷なり 美しき魚雷なり 頬あかき空の兵ものの 『命中たのむ』と念じ給ひし魚雷なり /」クワンタン沖 真珠湾 スラバヤ沖 珊瑚海よ 目をつぶれば 頬あかき空の兵ものの かの御姿のうかぶなり・・・」

1985年11月『歌人・山城正忠』(琉文手帖3号)

1943年2月    日本民藝協会『民藝』「いよいよ決戦の年が来た。国力をあげて戦争の目的完遂につくさねばならぬ」
1943年10月    月刊『文化沖縄』第四巻第十号 新崎盛珍「時局と科学」○時運の進展と共に、科学は戦争に於いて死命を制する一因となった。日露戦争には火薬、第一次欧州大戦には内燃機関に於ける研究の勝敗がやがて戦争の勝敗を決定したと謂はれて居る。年来有り余る財力を利用して、諸外国の高名なる科学者を招聘することに力めて居た米国は、今次の大戦が勃発するや、逸早く科学振興局を中心とする大統合を行ひて、あらゆる部門の研究機関とあらゆる科学者を総動員し、之を推進力となして戦力の増強を計り、数に於いて我を圧迫しようと意図して居るやうである。
  我が政府亦曩に「科学研究の緊急整備方策」を決定し、之が遂行に就いて各大学、各専門家に呼び掛けて居る。今や勝ち抜くための色々の主張の中、科学振興に対する叫びは、最も声高く、力強いものとなって来た。由来我が国に於いては、学者の研究と日常生活とは相乖離して居る憾があった。今後銃後の生活を拡充して戦力の増強を図らんが為めには、学者の実験室に於ける研究の結果が、翌日は日常生活の上に反映するやうにせねばならぬ。
  新崎盛珍「編集後記」○雑誌の経営に深い経験を有する山里永吉氏が此度入社することになった。之に依って本誌は一層光彩を放つことであらう。
1944年3月 全国の新聞の夕刊が廃止。11月には朝刊も2頁になる

1944年7月、山城正忠疎開。
この頃のことを1949年12月発行の『うるま春秋』創刊号(編集・仲村渠致良)山城正忠「香扇抄」に書いている。
 抑々、勇吉は男として、世のつねならぬ、臆病者であった。沖縄に米軍上陸が予想され、学童疎開の噂が出ると、俄かに度を失い、瞼の裏には、行住座臥、うづまく赤い風と山成す豚の丸焼がこびりついてはなれず、いくら丹田に力をいれてみても、はらえぬ状態になっていた。思い余って、妻に疎開の意嚮をもらしたが、てんで受け付けず、再三押してゆくと、しまいには、そんなにこわければ、あなた一人で、勝手な行動をおとりなさいと、ついに、われとわが最後のほぞをかため、昭和十九年七月の疎開船に投じ、途中、魚腹を肥やすことなんか考える余裕もなく、ひたすら、本土安穏に一すぢにひかれて行った。
 幸、今まで多くの生霊をのんだ、魔の海もつつがなく航り、鹿児島の埠頭に吐き出された途端に、一時、おこりのおちたような感激を覚えたが、ここでもまた、いろいろな流言飛語にただならぬ火気が感じられてくると、一刻も安まらずいよいよあわただしい行程をたどりつつ、播州龍野、備中高梁、寧楽の三輪と転々するうちには、一人旅の気散じが、彼をくつろがせ、果ては、日ごろ自らたのむ殉情の使徒としての太陽を、心の空にあおぐゆとりができていた。
 そこへ、十十空襲の報がつたわり、那覇市の灰滅とともに、家族との連絡が絶たれ、爾来、ようとして、生死のほどもしれずにいたら、あくる年の一月の末に一家無事、九州に疎開すとの急電に接し(龍野の住所を知らせてあったので、そこから転送された)さすがに肉親の絆は絶ちがたく、思い出ふかい、三輪のねぐらを忍びて立ち退き、ここH村の家族に合流したのである。
1946年10月 帰郷し玉城村堀川に居住。

 1949年   平野萬里①『晶子鑑賞』「正忠を恋の猛者ぞと友の云ふ戒むるごと そそのかすごと 正忠は山城正忠君の事で、琉球那覇の老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも立ち寄られた。同君は古い明星の同人で、若い時東京に留学されその時先生の門を叩いたのであるから古い話だ。当時一しょに私の家などで運座をやった仲間の生き残っているのは吉井君であるが、大家を別とすれば今だに作歌を続けているのは同君位のものであらう。戦争で大分辺に逃げて来て故江南君によると単衣一枚で慄へて居られるから何か著物を送るようとの事であったが、その時は最早小包便など利かなくなっていたので如何とも致し様がなくその儘にしてしまったが今頃は如何して居られることだらうか。・・・・』と記されている。

上原信雄 うえはら-のぶお
1897-1987 昭和時代の救らい運動家,歯科医。
明治30年4月15日生まれ。昭和13年から沖縄のハンセン病療養所国頭(くにがみ)愛楽園につとめる。戦後,沖縄らい予防協会(のち沖縄県ハンセン病予防協会)の創立につくし,救らい運動を展開した。32年沖縄学徒援護会を創立。昭和62年2月7日死去。89歳。沖縄県出身。東京歯科医学校(現東京歯大)卒。