12/22: 島田叡 しまだ-あきら
島田叡 しまだ-あきら
1901-1945 昭和時代前期の官僚。
明治34年12月25日生まれ。大正14年内務省にはいる。警察官僚として徳島・長崎県などに赴任。昭和20年沖縄県知事となる。米軍上陸にそなえ,婦女子の疎開と食糧確保につくし,昭和20年6月沖縄本島の摩文仁(まぶに)の丘付近で戦死。45歳。のち同地に島民により「島守の塔」がたてられた。兵庫県出身。東京帝大卒。→コトバンク
2013年11月27日ー那覇市松尾の城岳同窓会で、沖縄県内の野球団体で「島田叡氏事跡顕彰期成会」(事務局☎098-867-2525)が発足した。期成会では沖縄県の野球の聖地としての奥武山総合運動公園内に、島田叡氏の事跡を語り継ぎ、沖縄県を担う青少年に夢を抱かせるような施設の整備と顕彰碑等の設置を要望することを決定した。1、奥武山総合運動公園内に「多目的グラウンド」を「島田叡氏の名」を冠して整備し、少年野球のメッカとして供用することを望む。/2、奥武山野球場内(沖縄セルラースタジアム那覇)「資料館」に、「島田コーナー」を設置をすると同時に、球場正面に「顕彰碑」の設置をすることを望む。この2点をもって要望のための署名活動を展開することになった。
石川和男□みどり風通信「11月27日(水)午後4時から、城岳同窓会館で「島田叡氏事跡顕彰期成会」が開催された。いろいろな経緯から僕も参加となった。
現在も練習が行われているメサイア演奏会(今年は12月15日開催)が縁で知り合いとなった名嘉山興武氏より電話があり、署名簿の印刷を依頼された。数日後、納品の為城岳同窓会館に行きその際、名嘉山さんから最後の官選知事島田叡(あきら)氏と「野球とのつながり」を20分近くお話を聞かせて戴いた。(名嘉山さんは、那覇高校のご出身で、後本土の大学に学び教職に就かれ那覇高校校長や教育行政職を歴任、退職後は沖縄キリスト教学院でも教鞭をとられ、現在は城岳同窓会の副会長、沖縄男声合唱団員である。) 」
詳しくは「みどり印刷」ここをクリック
1901-1945 昭和時代前期の官僚。
明治34年12月25日生まれ。大正14年内務省にはいる。警察官僚として徳島・長崎県などに赴任。昭和20年沖縄県知事となる。米軍上陸にそなえ,婦女子の疎開と食糧確保につくし,昭和20年6月沖縄本島の摩文仁(まぶに)の丘付近で戦死。45歳。のち同地に島民により「島守の塔」がたてられた。兵庫県出身。東京帝大卒。→コトバンク
2013年11月27日ー那覇市松尾の城岳同窓会で、沖縄県内の野球団体で「島田叡氏事跡顕彰期成会」(事務局☎098-867-2525)が発足した。期成会では沖縄県の野球の聖地としての奥武山総合運動公園内に、島田叡氏の事跡を語り継ぎ、沖縄県を担う青少年に夢を抱かせるような施設の整備と顕彰碑等の設置を要望することを決定した。1、奥武山総合運動公園内に「多目的グラウンド」を「島田叡氏の名」を冠して整備し、少年野球のメッカとして供用することを望む。/2、奥武山野球場内(沖縄セルラースタジアム那覇)「資料館」に、「島田コーナー」を設置をすると同時に、球場正面に「顕彰碑」の設置をすることを望む。この2点をもって要望のための署名活動を展開することになった。
石川和男□みどり風通信「11月27日(水)午後4時から、城岳同窓会館で「島田叡氏事跡顕彰期成会」が開催された。いろいろな経緯から僕も参加となった。
現在も練習が行われているメサイア演奏会(今年は12月15日開催)が縁で知り合いとなった名嘉山興武氏より電話があり、署名簿の印刷を依頼された。数日後、納品の為城岳同窓会館に行きその際、名嘉山さんから最後の官選知事島田叡(あきら)氏と「野球とのつながり」を20分近くお話を聞かせて戴いた。(名嘉山さんは、那覇高校のご出身で、後本土の大学に学び教職に就かれ那覇高校校長や教育行政職を歴任、退職後は沖縄キリスト教学院でも教鞭をとられ、現在は城岳同窓会の副会長、沖縄男声合唱団員である。) 」
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12/09: 井之口政雄
井之口 政雄(いのぐち まさお、明治28年(1895年)4月28日 - 昭和42年(1967年)6月30日)は、日本の政治運動家、革命家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)
経歴[編集]沖縄県那覇市出身。1912年(大正元年)鹿児島一中を卒業、1916年(大正5年)慶應義塾大学予科に入学し、卒業。1918年(大正7年)同大学理財科に進む。在学中に、「日本社会主義同盟」、山川均らが主宰していた水曜会で活躍。1921年(大正10年)12月より翌年11月まで一年志願兵として鹿児島歩兵連隊に入隊。24年春から秋頃まで大阪の『関西日報』の記者となる。
1923年(大正12年)に日本共産党に入党。1925年(大正15年)の『無産者新聞』の創刊とともに記者・編集委員、記者としては最も長い間同紙に関係した一人である。1927年(昭和2年)から予備役の第二期召集で鹿児島歩兵連隊に再度入隊。1928年(昭和3年)の第1回普通総選挙に際して、労働農民党候補として沖縄県から立候補したが落選。三・一五事件に連座して同年10月に検挙され、治安維持法違反で懲役8年の判決を受ける。
戦後、共産党兵庫県委員会の再建に加わり、1946年(昭和21年)機関紙『アカハタ(赤旗)』関西総局責任者となった。1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙に、兵庫2区から衆議院に当選(1期)、共産党国会議員団長を務めた。(Wikipedia)