Archives

You are currently viewing archive for July 2011
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
前に島袋和幸さんから、「飛び安里」を全国に紹介した宮里良保の後輩、佐久川恵一氏のことを聞いたことがある。弟が茨木憲(恵輝)である。

1956年11月ー茨木憲『昭和の新劇』淡路書房
1989年3月ー佐久川恵一『裸足社晩春』
1991年6月ー佐久川恵一『幾山河』

7月16日ー『沖縄の軌跡』発行人で沖縄(のろし)ネットワーク連絡会の島袋和幸さんと共に首里城での烽火実験に参加した。東アジア域の黄砂と硫酸ゾルの分布もあってか烽火は見えなかった。『沖縄の軌跡』第69号は渡名喜島の遠見台に触れていて夏至風(カーチーベー)を9月としているが、これは6月23日のことである。芒種(ボーシュ旧5月)、寒露の節(旧9月)も若干混乱が交じっている。

島袋さんはこれに懲りず、来年も渡嘉敷村前島復興住民の会会長の中村文雄氏(渡嘉敷村字前島76番地 携帯090-8290-6361)と共催で「烽火上げ実験」をやるという。中村氏は20年来『前島誌』を纏める計画をもっていた。タイミング良く島袋さんは聞き書きボランティアである。本を纏めるのは得意分野で、早速に中村さんに協力を申し出た。

渡名喜や渡嘉敷が出たところで我が故郷・粟国には仲里正雄さん(まさお塾出版 〒900-0022那覇市樋川2-2-39 携帯090-9781-0089)の『御孵化果報』がある。これは仲里さんの母チヨを取巻く粟国風物詩と言えるもので、母チヨさんへの追慕録ともなっている。
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
null
写真右ー尚昌、百子夫人①

1916(大正5)年9月13日『琉球新報』「文展制作ー中川八郎『高山の月』」(写真)/「18の閨秀作家ー中條百合子」
1916(大正5)年10月4日『琉球新報』「院展出品ー小杉未醒『南島』」(写真)
1916(大正5)年10月15日『琉球新報』「竣工近き知事官舎」(写真)

1916(大正5)年10月16日『琉球新報』文展出品『琉球の女』尚昌令夫人の作ー殿様芸術家の名をほしいままにしている小笠原長幹伯の令妹。今年3月学習を卒業する迄は学校の方で洋画家の岡野榮氏③を師として主として生物(ママ)の写生をやっておられた、卒業後は専ら満谷國四郎氏について研究していた・・・」

1916(大正5)年12月11日『琉球新報』「夏目漱石氏逝く」

①伯爵・旧小倉藩主小笠原長幹妹、姉に津軽照子②。小倉藩は、譜代15万石、1632年1867年、に小笠原忠真が入封して約240年間支配したが、幕末、新式銃の長州軍と戦い敗北、長州と和議し田川郡香春に政庁移転、香春藩とした。1867年、藩主忠幹が没すると忠忱が家督相続し戊辰戦争では奥羽に派兵。1869年、藩庁を京都郡豊津に移転、豊津藩とした。忠忱が貴族院議員在職中に没すると長男長幹が襲爵。長幹は彫刻、園芸、音楽らの多方面に趣味をもち、とくに彫刻は朝倉文夫に師事、文展にしばしば入選した。→千田稔『華族総覧』講談社現代新書2009年7月

②津軽照子ー歌人。旧姓小笠原。伯爵小笠原長忱の娘。東京生。華族女学校卒。佐佐木信綱の竹柏会に入会、児山敬一と『短歌表現』を創刊、戦後『文芸心』と改題、創刊に拠り口語自由律の新短歌運動に尽くす。歌集に『野の道』『秋・現実』等がある。昭和47年(1972)歿、85才。 →コトバンク

③岡野榮ー明治13(1880)年4月~昭和17(1942)年3月21日 出身地東京赤坂 学歴〔年〕東京美術学校西洋画科卒
経歴ー女子学習院などで教鞭を執る傍ら油絵に精進。明治44年中沢弘光らと光風会を創立。明治末より児童出版物の挿絵を手がけた。巌谷小波文による絵本叢書「日本一ノ画噺」などに優れたものがある。→コトバンク

null
写真下段左に津軽照子『うら紙草子』→弘前藩は外様10万石、1590年に津軽為信が豊臣秀吉に本領安堵されて以来約280年間津軽家が支配した。維新期当主の津軽承昭は細川藩主斉護4男で、妻は近衛忠熙の娘。後は近衛家次男の英麿が相続。妻が照子で、32歳のときに夫英麿と死別。→千田稔『華族総覧』講談社現代新書2009年7月

null

漢口領事館に尚昌・百子夫妻を迎えて、右から田場外務書記、中野英光漢口駐在武官、外間政恒東亜興栄漢口出張所、津軽照子


null

null

07/09: 崔承喜

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
null

1936年10月22日ー沖縄新聞社の招待で崔承喜一行(10名)、開城丸で来沖。


1936年8月ー日本民俗協会『日本民俗』第13号□琉球古典芸能の印象ー杉浦非水「大阪第五回内国勧業博覧会で琉球踊りをみた」、山崎紫紅、森律子、上司小剣、東儀和太郎、田辺尚雄「玉城盛重、新垣松含の15年前にみた。年老いた今日ー」、兼常清佐、村山知義、、邦正美、深井史郎、伊庭孝、岡元信吉、土岐善麿

崔承喜□私が琉球舞踊に接したのは、これが最初でありますが、それが非常に優れた民俗舞踊であることに大きな尊さを覚えたとともに、それらは私の舞踊の研究の上に、最近に於いて最も得ることの多かったものであったことを喜びます。

幾分新しく様式化されて演ぜられたように思われる「天川踊り」や「鳩間節」等の作品に最も大きな感銘をもったのでありますが、この様な民俗舞踊に於ける優れた手法は、私達に取って摂取さるべき多くのものを保持して居るように思われます。

私はこれらの琉球舞踊の中で、取り入れらるべきものを取入れんとして、此頃新作のレパートリの或る種のものに試みつつありますが、琉球舞踊を見た時に強く感じましたことは、それが朝鮮の民俗舞踊やシャムの民俗舞踊に類似して居る手法を多く包含して居るように感ぜられたことです。殊に上半身の動きー肩の動きや腕の動きは、朝鮮舞踊によく似ていますし、廻り方に於ける足の動きや手首の動きは、シャム舞踊に似てはいないかと思われました。

「組踊」に於ける様式上の特殊性も、朝鮮の民俗舞踊の中で残されている代表的なものである「山臺劇」等に見いだされるようなものに共通したものをもって居るように感じました。勿論、琉球舞踊にしましても、支那、シャム、朝鮮等の舞踊にしましても、東洋の舞踊に独自な、様式上の多くの類似性をもつことは当然なことでありませう。

このような琉球のもつ優れた民俗舞踊が有能なる舞踊家の手に依って、新たに様式化され、そしてそれが成長して行く日には世界に出して誇り得るものさえももつであろうとさえ思われると共に、この様な舞踊の伝統が何故、私達舞踊家に取って左程注目されていないかと思うのであります。スペイン舞踊等に対する関心も勿論必要でありますが、このような私達の手近にある民俗舞踊への関心も、もっと重要なものではないでしょうか。

この様な東洋の民俗舞踊を研究し、それを基礎として行く時には、東洋風舞踊と洋風舞踊との距離は、私達東洋人の踊る洋風舞踊である限りに於いて、もっと縮めることが出来るだろうと思います。この様な方向は私としまして自己の舞踊の一つの方向にしたいと努めつつありますが、いづれにしましても、今度の琉球舞踊に接し得ましてことは、舞踊を専門とする私達にとりまして大きな幸福でありましたし、この様な豊かな舞踊の伝統をもつ琉球に対しまして朝鮮を故郷とする私としましては、一種の羨望さえ感じました。(1936・6・7)

» Read More