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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


1976年5月『政経情報』創刊号□「伊波普猷生誕百年記念 おもろと沖縄学の父」、沖映演劇「那覇大綱挽き基金募集特別公演・裁判劇女よ強くあれ」
1976年6月『政経情報』№2
1976年8月『政経情報』№3□「浜比嘉出身の彫刻家(金城実)本土で大気炎」「沖縄ヒューム管工業所・仲本幸智」
1976年9月『政経情報』№4□「小佐野賢治の摩手 沖縄にも延びていた」「沖縄電力の発電所建設に地元民反対」「NHK受信料徴収率最下位の沖縄」「天災と人災ー中国の地震と玉城村の陥落」
1976年10月『政経情報』№5□「毛主席の死を悼む」「防衛施設庁の態度」を糾弾せよ」、「安里徳仁ー米寿を迎えて」「(有)嘉栄産業・赤嶺嘉栄」
1976年11月『政経情報』№6□「海洋博の犠牲・琉海倒産」「大阪商人 生肉牛輸入」「国会議事堂のトラパーチンを切った粟国太郎翁の話」「暴力による組合弾圧(オリオンビール)」、島庄吉「関東地区における北山会 8年ぶりに復活ー平光雄、上間実、春山国生(夫人は岸本賀昌の二女とよ)、宮城栄昌」→№12島庄吉「うちなーんちゅ物語」
1976年12月『政経情報』№7
1977年1月『政経情報』№8
1977年2月『政経情報』№9□「観光立県に奇抜な着想が欲しい」「大阪のロンボックチーム優勝(平岡行秀)」
1977年4月『政経情報』№10□「集団就職の少年少女を守れ(がじまる会)」、屋良朝四郎「努力格差を是正せよ」「大阪便り」、仲井真元楷「狂歌雑記」、安里徳仁「琉歌」
1977年5月『政経情報』№11□「「大阪で沖縄の観光物産展/がじゅまる会総会/金城実氏の解放会館彫塑」

1977年7月『政経情報』№12□「身障者・照屋潔氏 大阪でがんばる」島庄吉「うちなーんちゅ物語」、荻堂盛進「思い出の風物ー人力車と客馬車」
大阪便りー若水会、西淀川区県人会、港区県人会、金城康子琉舞研究所発表会」
1977年10月『政経情報』№14

1977年12月『政経情報』№15□「モノレールを早く北部まで」「具志堅用高KОで王座防衛」「久茂地文庫」、大阪山原人「県外就職者について県当局に堤言(沖縄エイサー大会)」/大阪支局(島袋俊一)、横浜支局(島庄吉)

1981年1月『政経情報』№36□「みさを未亡人の仲宗根源和伝」

1981年3月『政経情報』№38□「85歳でなお燃え続ける浦崎康華の炎」
1982年8月『政経情報』№52□荻堂盛進「流転の名鐘(安国寺の鐘)」
終戦の混乱が漸く収まった昭和24,5年頃、みろく寺の檀家が集まり、戦争のため国に供出した寺鐘の代わりに新しい鐘を鋳造しようと議が持ち上がり、何処かに鐘の鋳造をしているところはないものかと皆が駆け回っていた頃、檀家の一人から広島市のある鉄工所に戦争中全国各地から供出された鐘がまだ潰されずに残っており、それを売っているところがあるとの情報を持ってきた。(略)鳥取県は県庁所在地の鳥取市が昭和27年の大火で市の大半が焼失、財政的には苦しい状況にあり、時の石破知事①が沖縄県最後の島田知事と友人であった事から死んだ友人のため出来るだけのことはしてやりたいとの友情で、当時の金で百万余の予算を計上され、昭和37年8月に沖縄を出てから約20年近くを転々流浪を続けた名鐘は沖縄に還ってきた。

○昭和三十七年〔西暦一九六二年〕
鳥取県の弥勒寺より、安國寺が保管、先の大戦で軍事献納していた天王寺の天竜精舎乃鐘が南方同胞援護会の協力により沖縄に戻り、県立博物館へ移管する。

①石破 二朗(いしば じろう、1908年(明治41年)7月29日 - 1981年(昭和56年)9月16日)は、日本の内務・建設官僚、政治家。正三位勲一等。参議院議員(2期)。鳥取県知事(第39代)。鈴木善幸内閣において、自治大臣(第28代)兼国家公安委員会委員長(第38代)。前自由民主党幹事長・石破茂の父。

1982年10月『政経情報』№54□「みんなのみんかえんー古江亮仁」、座喜味康夫「那覇病院七号室」

1988年11月『政経情報』№115□ジェームス小田「戦後、CIAは反共工作のために元ナチス、元軍国主義者を雇ってきた。殊に日本ではCIA工作は大成功」「伊良部新聞 大阪本社(元長栄)」



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Posted by: ryubun02


佐野本に、「琉米歴史研究会」の喜捨場静夫インタビューで「(真栄平房敬によると)首里の尚家には那覇市歴史博物館に飾ってあるものより、ずっと立派な王冠があったそうです。(略)」と首里の尚家にあった王冠について述べている。鎌倉芳太郎の『沖縄文化の違宝』にはその首里にあった王冠の後面、横面の写真がある。幸いなことに鎌倉芳太郎は写真撮影メモを残してくれていてそれに王冠の寸法が記されていて王冠高さが18,9cm、ヘリは20、7cm、簪は31,8cmとなっている。上の前面と合わせてほぼイメージが出来ることになる。
那覇市立歴史博物館所蔵は高さが18,4cm、長径21,8cm、簪31,8cm、重さ605グラムとなっている。

□→1938年4月21日ー『大阪毎日新聞』「紙上琉球展覧会①」にも同様な記事がある。


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Posted by: ryubun02
1967年10月7日ー「沖縄芸能協会」設立
             顧問・豊平良顕、会長・真境名由康、副会長・島袋光裕、真境名佳子、勝連盛重、宮城嗣周、企              画委員長・大嶺政寛、組踊部長・与那覇政牛、古典舞踊部長・西平守模、古典音楽部長・安冨祖
             竹久、創作部長・阿波根朝松


1968年4月ー「沖縄伝統芸能の夕」を4月23日~25日まで東京日本橋三越劇場、4月27日ー大阪中之島中央公会         堂、4月29日ー福岡市電気ホール、4月30日ー北九州小倉市民会館で、それぞれ公演した。
     11月ー第二回選抜芸能祭、沖縄タイムスと共催。   





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□2012年1月23日ーパレットのリブロをのぞくと佐野眞一氏の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』上巻の文庫本2刷があった。上記の誤植は大体訂正されているが、今帰仁家の朝和が湧川となったままである。人物索引で沖縄を代表するヤクザ界のドン・又吉世喜が正喜となったままである。

私は1969年2月、京都駅近鉄名店街の京風料理の店で働いていた。河原町の京都書院、駸々堂はよく行った。後にジュンク堂も開店。大阪には難波の吉本興業の前に一軒、梅田に二軒もジュンク堂が出来た。私が大阪に来た頃は大型書店と言えば紀伊國屋書店と旭屋書店が梅田にあった。今、私の手元に佐野真一の『だれが「本」を殺すのか』(新潮文庫)がある。カバーはJUNKUDO、大阪本店で買ったものである。中にダイエーの中内功の名台詞「戦後、神戸から出て大きくなったのは山口組とダイエーだけや」を紹介し、今はダイエーの代わりにジュンク堂をいれなきゃいけませんね、と佐野氏が云う。今回その通りになった。那覇のダイエー跡にジュンク堂が入るという。これで沖映通りに活気が蘇ると確信する。

佐野氏の本に出会ったのは沖縄出身の与座弘晴を紹介した『業界紙諸君!』(1987年)が最初である。この本には佐野氏自身のタウン紙「新宿れぽ-と」(旬刊)の記者時代に触れ「オーナーはこの街を根城にする本職のヤーさんだった」と書く。「新宿れぽーと」は1982年の時点で240号を出している。発行人は伊藤晃三郎である。伊藤は沖縄の宜保俊夫と共に東亜友愛事業組合の大幹部,『月刊友愛』も発行、1981年9月号は「沖縄本土復帰十周年記念」であった。

山口組時報の編集部員でもあった岡田龍之助(岡田興行)は時報に「人切り五郎」で知られる藤田五郎(東亜友愛事業組合常任理事)に「男の詩(うた)」を書かせている。岡田は山口組幹部の白神一朝主宰の右翼雑誌『八紘』(1975年4月)に「青春交遊録」を書き「(昭和29年)当時の新宿に白神氏が訪ねたのは、その数ある組のうち安田組幹部・伊藤晃であった。この伊藤晃こそ現在の東亜友愛事業組合常任理事の伊藤晃三郎であり、かく申す筆者の兄貴分」と、自らの「藤山寛美恐喝事件」にも触れ回想している。


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大日本印刷は3月18日、ジュンク堂と資本提携で子会社化した。大日本印刷の前身の一つが秀英社である。沖縄の親泊朝擢は1917年に秀英社から『沖縄県写真帖』を印刷した。先の『だれが「本」を殺すのか』で、ジュンク堂の社長は経営安定のため紀伊國屋との提携を標榜していたから今回の提携は計画に入っていた。




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真境名本流/島袋本流


宮城流