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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
島尾伸三氏から沖縄文化の杜の金城美奈子さん宛に展覧会チラシが送られてきた。
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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。

□ハンナ博士プロフィール
学歴ー1932年 ウースターカレッジで文学士修得/1937年 オハイオ州立大学で文学修士修得/1940年 ミシガン大学で英文学博士号修得/コロラド大学U.S.海軍日本語学校/コロンビア大学U.S.海軍学校/ワシントンD.C.国家軍事大学1953年卒業生

職歴ー1932-36年 中国 上海 杭州で英語教諭 ミシガン大学で英文学教諭/1940-41年 ミシガン州立ノーマルカレッジ(現サザーンミシガン大学)で英文学教諭/1942-46年 U.S.海軍/1945-46年 海軍教育部長(沖縄民政官として赴任)/1946-54年 U.S.国務省 マニラ文化担当調整官 /1947-52年 ジャカルタ広報部部長/1953-54年 東京広報部部長/1954-76年 (American Universitie’s Fields Staff)東南アジア専門委員会 ジャカルタ、シンガポール、マレーシア、ホンコンを基地に時事問題についての報告書を作成。また3年ごとに会員の大学で講義をおこなう。 1976年退職。その後数年間、AUFSの特別な仕事を続ける。結婚は1953年である。

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金城安太郎氏とハンナ博士御夫妻

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右から新城栄徳、金城安太郎氏、ハンナ博士

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
後田多敦氏が別件の序に論文抜刷を贈ってくれた。その一つが『地域研究』に書いたもので、敦氏は論文で同郷の作家を詳細に腑分けしていて、「素材としての史実と創作の間」と副題が付いている。このNHKで放映した・・・・・の原作本を最初にO氏が批判したが、私は電話でO氏に「逆宣伝ですよ」と言ったことがある。次はT氏が新聞投稿で「NHKは尚家を汚らしく下品な内容と同じように天皇家も描けるのか」と甚く立腹。その投稿を見て、近代史家N氏も批判した。

嘗て、姫百合部隊のことを取材し、ヒヨリミ戦記を書いたルポライターが居た。最後には伏字だらけの本になったが。沖縄人は愛国者だったと言わんばかりのマンガ本が若いものに読まれたが今は話題にするのは居ない。現実がそれを上回ってしまっている。紀要やグループ内で批判するのは良いが、新聞・雑誌、ネットで批判すると逆宣伝になり批判した相手は注目度が高まったと喜ぶ。
Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
岡留氏が小沢無罪の判決に素早く対応し、氏のブログに□待ちに待った小沢一郎公判で無罪判決が下った。権力の横暴を批判してきた小沢氏の正義が認められたことは、東京地検特捜部と10年裁判を闘った筆者としてもうれしい限りだ。恣意的な国策捜査を仕掛けた検察の完敗であり、検察審査会の不透明なやり方も今後は大いに問題になるだろう。検察というこの国の正義の砦は、いまや腐りきっているというのが、筆者の見立てだ。検察の大改革を主張してきた小沢氏の無罪判決で大慌てなのは、反小沢で固めた民主党野田執行部、霞が関官僚、自民党以下の野党、財界、大手メディア、米国政府だろう。
(略)
驚いたのは在日米軍再編の新たな共同発表が延期された時の野田政権の対応だ。米国上院議員の軍事委員長であるレビン軍事委員長らが、共同声明に待ったをかけたのは、環境問題や費用の問題がクリアーになっていないことがその理由だった。実に真っ当だ。ところが、日本政府は、予定通りの方針で行くと早々と明言。本来ならば、日本が米国政府にクレームをつけるのが筋だろう。29日の野田訪米のパフォーマンスが何よりも第一なのだ。オスプレイをどうするつもりだ!!やはりここは、メディアを含めて既得権益体制の総スカンを食うかも知れないが、日本の防衛は米国第七艦隊で十分という基本的姿勢をもっている小沢一郎の出番ではないか。筆者は自信をもってそう断言したい。とある。

小沢氏に対してはアレルギーを持っているが、ま、裏事情に精通している岡留氏のことだから根拠があってのことだろう。ここで歴代政権の沖縄に対する考え方、とくに初期の吉田茂を見てみる。1952年8月発行の東京『沖縄新報』(永岡智太郎)第16号に「去る6月6日、本土視察のため上京中の那覇市長又吉康和氏と吉田首相との会見の際『日本はまだ受入れ態勢が出来ていないからすぐに復帰ということは困る。今まで通り米国に協力して辛抱して貰いたい、米国に見離されてソ連が入って来たらどうするのか』という全琉百万同胞の悲願をふみにじった吉田首相の暴言」とある。私も積年の反米感情でどうも批判の対象をアメリカに向けてきたが、どうやら時の日本政府の「沖縄差別」が大きな問題のようである。それを許した沖縄側にも当然問題がある。それに関連して『琉球新報』に連載されている伊佐真一氏の伊波普猷批判が参考になる。

宜野湾市長選挙で話題になった真部沖縄防衛局長が沖縄の新聞でなにやら記事になっていた。米軍の兵隊には選挙権が当然ながら無いが、自衛隊員にはあるから相当罪深い。最近は与那国島にも自衛隊員が居る、創価学会票と同じく、自衛隊票は石垣パクリ市長などの票にもなっている。基地反対と言いながら安保には触れない首長が増える元となっている。基地問題に触れながらその元の安保に触れないのは大手メディアも同じだ。
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02







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1978年6月ー沖縄市文化協会(青山洋二)『文化の窓』創刊号

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Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
近頃は沖縄新聞の通信社配信の記事を読まされるとイライラが高じて頭痛がする。そのとき岡留安則氏や『しんぶん赤旗』のブログを読むとスカッとする。

岡留氏のブログに□4月某日 このブログを書いていてもネタに困ることはほとんどない。しかし、最近はあまりにも批判すべき政治の動きが多すぎて逆にうんざり感を憶えてしまう。野田総理のメチャクチャな対応ぶりを見ていると、この政権は完全に末期症状に突入したというしかない。その最大の理由は、野田総理の立ち位置が米国、霞が関官僚、財界の意向通り、全てが予定調和の方向性に集約されているからだ。すべてが政権交代を支持した有権者に対する裏切りの連続で、わざと民意の逆張りをやっているのではないかと疑いたくなるほどだ。野田政権は既得権益死守集団に完全にコントロールされているとしか思えない。そうでないとすれば、野田総理には政治センスもリーダ―シップも全くない無能う政治家というしかない。

維新の会を率いる橋下大阪市長が言う通り、「民主党政権は国民をバカにしている。民主党政権NO!である。日本の危機だから、政権を交代してもらう」というのは至極真っ当な感覚だろう。民主党と組むことはないし、対決するという打倒宣言も真っ当な感覚だ。橋下市長は危険な思想の持ち主ではあるが、こと福井県の大飯原発の再稼働に関しては、きわめてまともで冷静な判断を示している。「日本の原発は一瞬ゼロになる」という枝野経産大臣のブレまくりの本音を証明する発言も、原発停止で危機感を感じた仙谷政調会長代理の「原発停止は集団自殺に等しい」との墓穴を掘るような発言などは批判するのも馬鹿馬鹿しいほどの民意を無視した見当違いの感覚といわざるを得ない。この二人は、財界や官僚の意向に沿った発言をしているつもりだろうが、民意からは完全にずれていることにも気づいていないのだろうか。裸の王様というか、バカの王様コンビというしかない。そうでないとすれば,確信犯の謀略グループなのか。


『しんぶん赤旗』2012年4月18日(水)
消費税増税 宣伝費に8億円注入 高橋議員追及 「これこそムダ遣い」
野田内閣が消費税増税と社会保障改悪の「一体改革」を国民に押し付けるために、新聞・雑誌広告やBSテレビ特番などに2011年度だけで合計8億円も注ぎ込んだことが17日に明らかになりました。日本共産党の高橋ちづ子議員が「これこそムダ遣いだ」と衆院厚生労働委員会で追及したもの。

 女性誌『anan(アンアン)』では、4ページのイラスト入りカラー広告を掲載しています。年金削減などの社会保障改悪計画には一切触れず、「社会保障制度を守り、進化させ、受け継いでいくためにも財源の確保が求められています」と強調。「支え合い」の名でもっぱら国民に負担増を求める内容です。古川元久「一体改革」担当相(当時)が登場し、「負担の見直しや給付のあり方の見直しが必要」と訴えています。高橋氏は「障害者自立支援法による自己負担分が月4億円だ」と指摘。多額の税金を使って“金がないから”と宣伝し、消費税増税を押し付けようとするのは許されないと述べました。

沖縄の新聞でも通信社配信の怪しげなクサイものと違って、読者の「声欄」には健全な発想が多い。本日の『琉球新報』に新垣進氏(71歳)「被災地の復興優先で」と題し「財政難の国政の下で、政府による全国へのがれきの受け入れを求める新聞広告費も、沖縄県も含む遠隔地への輸送費も、とてつもない無駄な出費であり、まずは被災地復興金や原発事故被害への賠償・補償へ優先的に充てるべきでしょう。」。沖縄の新聞2紙も如何わしい通信社配信には責任を持つべし。

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
本日はひよりの誕生日、1歳である。昼、沖縄大学により宮城先生紹介で大学図書館に『青い海』創刊号と、沖縄関係資料室が載っている10号を寄贈する。帰途、那覇市歴史博物館によって、5時から久茂地・抱瓶の高橋淳子さんのお別れ会に参加。壁には淳子さんの写真が所狭しと貼られていた。アルバムには喜屋武真栄氏や西平守良さん、喜納昌吉、大田昌秀、具志堅用高、新城亘、儀間比呂志、ひさみ夫妻の諸氏らが淳子さんと収まっているのもある。私は1973年頃、高円寺・球陽書房の西平守良さんに近くの「きよ香」に連れていかれそこで淳子さんを知る。知るといってもそれが最初で最後の出会いであった。会場の抱瓶にはひさみ夫妻らが居られた。1時間半ごろ経って大田昌秀氏、岡留安則氏や沖縄大学のO教授、S氏らが参加し故人が好きだった民謡で追悼した。しばし大田氏、岡留氏と懇談する。岡留氏に東郷健の消息を尋ねた。(4月26日の新報、タイムスに同性愛者の差別撤廃運動で知られた東郷健の死亡記事が顔写真入りで報じられていた。)

岡留氏のブログに□東京高円寺で沖縄居酒屋「抱瓶」や「きよ香」など5店舗を経営して成功を収めた高橋淳子(本名=清)さんがなくなった。東京の自宅マンションの風呂場で発見されたという。死亡推定日は4月7日。高円寺の抱瓶グループは長男の貫太郎君に任せて、高橋さんは3年前から那覇市久茂地で、沖縄居酒屋「抱瓶」那覇店を経営していた。最近は元照明マンの仕事をしていた光太郎君が母親の片腕となり、親子で店を切り盛りしていた。死因は細かく聞いていないが、享年73歳だった。高橋さんの苦労人生からサクセスまでの人生は「ただ、誠を尽くして浮世を渡る」(日本社)という一冊の本にまとめられている。

筆者は高円寺の「抱瓶」にも何回か顔を出したことはあるが、高橋さんが沖縄に来てから本格的な付き合いが始まった。筆者が新宿の「ロフトプラスワン」に出演した時には長男の貫太郎君ともどもよく見に来ていたというので、沖縄での初対面以来、意気投合しての付き合いが始まった。何回も呑む機会があったが、自分の人生に自信と誇りを持っていたためか、頑固なところもあった。石垣島出身の高橋さんの早すぎた突然の死に合掌しておきたい、通夜・告別式は東京で済ませて、沖縄では「送る会」が4月19日午後5時より沖縄抱瓶2階で開かれる予定になっている。


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Category: 04-書の森
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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
2011年5月ー那覇市民ギャラリーで「宮平守光遺作展~絵画と書~」が開催されている。昔、東京の西平守良さんと宮平スポーツ店を訪ねたことがある。そのとき会話したのが宮平守光氏であった。

1950年2月ー西平守良、東京・高円寺に「球陽書房」
外間守善『回想80年ー沖縄学への道』(沖縄タイムス社2007年3月)に「1947年上京ーそんなある日、古本屋を営む沖縄師範の先輩で、復員後東京に住んでいた西平守良さんに拾われた。炊事洗濯などの家事と店番をすることを条件に西平さん兄弟の暮す家にしばらくおいてもらえることになったのだ。私が暮らすことになった古本屋は球陽書房といって中野の鍋屋横丁の近くにあった」とある。

球陽書房という名前の書店は地元沖縄にもあるが球陽堂書房となっている。西平守良氏が高円寺に店を構えたころ、大阪都島にも書籍文房具商を営む球陽堂書房(佐久本兼朗)というのがあった。

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Category: 04-書の森
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1959年12月15日 『琉球新報』関西支局「沖縄資料センター 近く東京の自由人権協会内に設置」

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法政大学の沖縄文化研究所は中野好夫の沖縄資料センターが核になって設立された。□1961年8月『資料ニュース』№1「沖縄問題に関する資料の展示と懇談の会参考資料」。1963年12月『沖縄資料ニュース』№15「沖縄資料センター資料目録」。1964年6月、島田叡氏事跡顕彰会『沖縄の島守島田叡』中野好夫「最後の沖縄県知事」。1972年3月、中野好夫『沖縄と私』時事通信社。1982年3月、『沖縄資料センター目録』法政大学沖縄文化研究所。1982年7月『法政』№324・外間守善「中野好夫記念文庫について」。1985年4月『マスコミ市民』№201「追悼・中野好夫先生」、6月『新沖縄文学』第64号「追悼特集・中野好夫と沖縄」。1985年、屋宜宣仁『沖縄の日本復帰闘争あのころ』。

□6月10日ーモノレール美栄橋駅で屋宜宣仁氏と出会う。元気そうで何よりだ。

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Category: 03-所感
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密約復帰記念日まで1ヶ月である。数日前の新報、タイムスはモロッコで今年秋にも米軍普天間飛行場に配備予定の米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが重大事故を起こしたのを当然ながら大きく報じていた。北朝鮮のミサイルより米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイのほうが沖縄県庁に、民家に、学校に墜落の確立は大きく危険だ。それこそ大きく騒ぐべきだが日本政府はダンマリを決め込んでいる、与那国島や石垣市長、カジノチジらは住民保護の名目で自衛隊に役場や県庁を貸す騒ぎだが。自衛隊機もよく墜落する。さて本日のタイムス社説「県内配備は有り得ないー日本(政府)には『対米追従』や『日米基軸』以外に外交の選択肢がないのを見透かされ、米側につけ込まれているのではないか。(略)長らく『米国の属国』と化し、思考停止を続ける日本政府」と健康的に日本政府を描いている。が、これに大手メディア(読売新聞等)も付け加えてほしい。

□V-22はアメリカ合衆国のベル社とボーイング・バートル(現ボーイング・ロータークラフト・システムズ)社が共同で開発した軍用機であり、回転翼の角度が変更できるティルトローター方式の垂直離着陸機である。1989年に初飛行した本機の愛称であるオスプレイ(Osprey、オスプリー、オスプレィ)はタカに似た猛禽類の「ミサゴ」のことである。(→ウィキペディア)

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

1976年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号 大城一史「儀間先輩とのめぐり逢い」


板良敷朝貞


昭和49年9月 『詩と版画』詩通信社(堺市)板良敷朝貞「素朴な琉球壺の産地・海の中の沖縄にはどこにでもある風景・老婆の織る首里上布」/ 昭和51年11月 「大城一史第一回個展ーすいせんのことば 版画家・儀間比呂志/沖縄の郷土月刊誌『青い海』編集人・津野創一」/1981年2月 板良敷朝貞『抽斗』□儀間比呂志「あいさつ」

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

写真右から上間常道氏、松島弘明氏、比嘉政夫氏、伊佐真一氏

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写真左から比嘉政夫氏、新城栄徳

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『琉球新報』2009年4月14日
比嘉政夫氏が死去 08年に東恩納寛惇賞         
 門中研究や村落祭祀(さいし)など沖縄・アジアの社会人類学的研究に取り組み、2008年2月に琉球新報社主催の第25回東恩納寛惇賞を受賞した比嘉政夫氏が13日深夜、入院先の病院で死去した。72歳。告別式の日程などは未定。
 比嘉氏は門中と親族に関する研究をはじめ、村落祭祀の研究や、信仰体系の研究など多岐にわたる沖縄研究の成果を蓄積した。沖縄各地にある綱引きや沖縄島北部のウンジャミなどの調査研究を基に、神観念や世界観、他界観について独自の見解を提示した。調査対象は沖縄、中国、タイ、韓国など広く、沖縄とアジアとの「比較民俗学」の方法論については、先駆的役割を果たした。沖縄大学地域研究所長などを務めた。


Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
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1972年6月『建築評論』<沖縄海洋博の証言>建築評論社(大阪市西区北堀江通1)

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04/13: 吉田東伍

Category: 01-人物名鑑
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写真ー左、吉田東吾『大日本地名辞書』「北海道、樺太、琉球、臺灣」冨山房/右、『冨山房五十年』

吉田東伍【よしだ・とうご】
生年: 元治1.4.10 (1864.5.15)
没年: 大正7.1.22 (1918)
明治大正期の先駆的な歴史学・歴史地理学者。4月14日誕生説もある。越後(新潟県)蒲原郡の旗野家の3男に生まれ,小学校卒業後,小学校教員になり,大鹿新田(新津市)の吉田家の養子となった。この間北海道に渡り,読書に励んだ成果などを新聞・雑誌に「落後生」などの筆名で投稿,特に『史海』への投書論考は,主筆田口卯吉の注目をひき,学界への登竜門となった。また親戚の市島謙吉に紹介され「徳川政教考」を『読売新聞』に連載し,日清戦争に記者として従軍。また『日韓古史断』を書いて,学界での地位を固めた。その研究は日本歴史の全分野にわたり,歴史地理学の分野で『大日本地名辞書』(全11冊),『日本読史地図』などが先鞭をつけている。社会経済史の分野では『庄園制度之大要』が,近代史の分野では『維新史八講』があり,現代より過去にさかのぼるという歴史的視野の問題を含む通史『倒叙日本史』(全12巻)もある。また『世阿弥十六部集』の発見は学界を刺激した。『海の歴史』『利根川治水論考』や,論文集『日本歴史地理之研究』の問題提起は今日でも注目される。<参考文献>高橋源一郎編『吉田東伍博士追懐録』 (松島榮一)
(→コトバンク)
Category: 04-書の森
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Category: 01-人物名鑑
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上は與清の短冊/『松屋筆記』/高田早苗述『半峰昔ばなし』(顔写真は編集した薄田斬雲)

小山田与清【おやまだ・ともきよ】.
生年: 天明3.3.17 (1783.4.18)
没年: 弘化4.3.25 (1847.5.9)
江戸後期の国学者,文人。初名は貴長,通称寅之助,高田家を継いでからは名を与清,通称を庄次郎,茂右衛門などに改めた。晩年は将曹と称した。字は文儒,号は松屋,擁書倉,知非斎などを用いた。武蔵国多摩郡小山田村(東京都町田市)の郷士田中本孝と稲の子。24歳で見沼川の運漕主事高田与成の養子となり,神田花房町の通船屋敷に居住。享和1(1801)年に江戸派国学の領袖村田春海に入門して以来,歌文と古典注釈にいそしみ,文化8(1811)年,師亡きあとは,清水浜臣,岸本由豆流と共に江戸国学の指導的な立場にいた。豊富な財産と幅広い交友に支えられた考証生活は春海に似る一方,人となり穏やかでない面もあって,浜臣との確執,山東京伝を憤怒させ死に至らしめた噂など,文壇に好話柄を提供した。蔵書すこぶる多く,その閲覧を同志に許した。天保2(1831)年の評判書『しりうごと』に登場すること自体,知名度の証しではあるが,「書きあらはすものども,ことごとく愚人をわが博覧の舟にのせて,漕ぎ賃をおほく得んと欲する卑劣心が見えて」云々と,その点数は辛い。周辺の事情をふんだんに盛り込んだ考証随筆『松屋叢話』『擁書漫筆』などや『擁書楼日記』は著名。著作の概要は,59点を集成した『松屋叢書』(写本30冊,国立国会図書館蔵)にうかがえる。 (→コトバンク)

たかたさなえ【高田早苗】
1860‐1938(万延1‐昭和13)
明治・大正・昭和期の教育者,政治家。江戸深川の生れ。1881年東大文学部在学中に小野梓と知り合い,改進党結成に参加。翌年卒業とともに東京専門学校(現,早稲田大学)創立に参画して同校の多くの講座を担当する。90年議会開設にともない衆議院議員となり通算6回当選。大隈重信をたすけて第2次大隈内閣の文相となり,1915年貴族院議員に勅選される。1900年東京専門学校学監,07年早稲田大学学長に就任,17年早稲田騒動で一時大学から引退するが,大隈没後には総長に就任,大学経営に力を注いだ。(→コトバンク)

1927年ー高田早苗述『半峰昔ばなし』早稲田大学出版部
□私は紐育から華府へ行き、珍田全権大使から種々配慮を受け、又大使自ら紹介されて白堊館にウィルソン大統領を訪れたのである。ウードロー・ウィルソン君は、其人がまだジョンス・ホプキンス大学の一教授であった時代に著した、コングレショナル・ガヴーメントという書物に依て、私は始めて其名を知り、又其所説に感服した次第である。そんなことから、私はウィルソン君が”The State”という書を著した時、其の同意を得てそれを翻訳した事がある。然ういう関係から私は両3度手紙を交換した事があったので、今度米国へ来た序に面会して見ると、能く私の事を覚えて居て、「貴君は政治家から教育家になったが、私は教育家から政治家になった」なぞという打解けた話をし、且つ日本に対して自分及び米国が好意を表して居る事を懇ろに説かれたのであった。


04/11: 日置昌一

Category: 01-人物名鑑
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日置昌一 ひおき-しょういち
1904-1960 大正-昭和時代の日本文化史研究家。
明治37年10月27日生まれ。小学校卒業後東京にでてはたらきながら,17年間上野の帝国図書館にかよいつづけて膨大な書物を読破。その博覧強記ぶりから「ものしり博士」といわれ,「国史大年表」「日本系譜綜覧」「ものしり事典」などおおくの著書を刊行。昭和35年6月9日死去。55歳。岐阜県出身。(→コトバンク)

Category: 04-書の森
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04/10: 古川成美

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1967年12月 古川成美『太平洋戦記・沖縄の最後』河出書房
□沖縄戦に戦って、まったくふしぎな生命をえた私にとって、祖国の人びとになにをおいても告げねばならぬことが三つあった。第一は、私が身をもって体験した戦いの真相を本土の人びとに伝え、戦友の最後を遺族のかたがたに報告すること。第二は、本土の身代わりとなってくれた沖縄、10万の将兵がそこで戦った沖縄のことを本土の人びとに理解してもらうこと。第三に、アメリカ人に関することで、死屍にひとしい私を救出し、ていねいな処遇と治療を加えてくれた米国第七師団の兵士たちをはじめとして、私の接した米国人は、いずれも人間的で親切で、公正であり、私はその心の豊かさに頭がさがった。 

日本は兵器の面、物量の面で米軍に敗れただけでなく、心の豊かさの面でもひけをとったと、私はそのとき痛感した。アメリカ人に対する認識を改めるとともに、日本人の世界観、人生観には外から強いられた偏狭さのあることをともに反省せねばならぬと思った。この目的を果たすため、私は昭和22年旧版『沖縄の最後』を出版した。

戦いの直後で、用紙をはじめ、検閲の問題などすべて不自由な時期ではあったが、さいわいに遺族のかたがたをはじめ多くの共感をえて、この書物は輸出されて海外の同胞にまで読まれるに至った。またこの書物が機縁となって、昭和24年には、沖縄第32軍高級参謀、元大佐八原博通氏よりまことに貴重な1000枚におよぶ手記の提供を受け、これを根本資料として、沖縄戦全般について詳述した『死生の門』を出版した。

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Category: 04-書の森
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ニューヨーク□この世の龍宮ー白波さわぐ水の彼方におぼろに霞む高楼の群こそこの世の龍宮とも見られよう。この高楼の群立こそは大ニューヨーク市の中心マンハッタン南端付近の世にも稀なる壮観で南方水上から仰ぎ見た風景である。その中央部に雄然と聳ゆるエクイタブルのビルディングもその右方のウールウオースもこの大観の一丹一碧をなすに過ぎぬ。右の端にはお台場公園の水族館が見える。

国防
□海軍ー(略)我々は少しも米国海軍を恐れては居らぬ。然し勿論戦争を望んでも居らず、少なくとも近き将来に戦争があろうとは思って居ない。戦争ばかりが海軍の仕事ではない。我々はむしろ益々日米両国の国交を厚くし今後いよいよ通商の繁くなりよく「太平洋」を文字通り太平に保つべく、両国海軍が提携してその保護の任を盡さんと希って居るのである。

□空軍と化学戦ー米軍中には化学戦部が設けられ、毒ガス、焼夷弾及び発煙弾等を用ふる化学戦の準備と研究を行っている。これがための機関として、化学戦学校とか、毒ガス工廠などがあり、実に平時よりガス第一聯隊がメリーランド州、エッヂウード工廠内に設けられ、本部と3中隊とを置いてある。その他パナマ、コロザールと、歩兵学校内と、ハワイのショフィールド兵営との3か所にも、各1中隊宛のガス中隊が設けられてある。米国の毒ガス製造の一日の量は約350トンということである。

■→米軍は米国領内のジョンストン島に毒ガス移送することを決定。1971年1月と7月の2回にわたり、美里村(現沖縄市)の知花弾薬庫から具志 川市(現うるま市)の天願桟橋までの行程で毒ガス移送が行われました。第2次移送は56日間にもわたり、移送路周辺の住民約5千人が避難しました。 (沖縄県公文書館)

1929年12月『世界地理風俗体系・第20巻・アメリカ合衆国(下)』新光社

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サンフランシスコ□水天の間に描くー金門海峡の内ぶところ。太平洋の水を静かにとり入れた入江の水と空一線の上に描く桑港の空線。それは近代文明都市の姿そのものである。ニューヨークをアメリカの正玄関とすればサンフランシスコはまさにその裏玄関に相当するところ。太平洋を渡る長い航路の旅人が絵のような桑港湾に立つて水上に浮かぶこの美しい都市の姿に接した時思わず甲板の上で歓呼し雀躍したくなるであろう。

□移民問題と在米同胞ー米国の繁栄を語るものは、東部にニューヨークの雑踏と、中部にシカゴの煤煙市と、そして西部にオレンジの花馨るカリフォルニアの富源のあることを見落とすわけには行かぬ。そして、また米国の文明を語るものは、ニューヨークの女神像と、シカゴの黒人私刑事件と、太平洋沿岸の東洋人排斥の事実とを忘れてはならない。(略)カリフォルニアのこの発展をかほどまで迅速ならしめたものは、実に20万に近い支那人の労働者と、30年間血と汗をもって開拓した、30万に近い現存日本人の努力の結果とに他ならない。
Category: 02-関西の沖縄
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Category: 04-書の森
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仲里康秀・所蔵(携帯090-3322-9908)
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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右の㌻に沖縄の写真家・山田實さん撮影の「英語で書かれた賽銭箱(金武観音寺1960年代)」が掲載されている。
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02



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撮影場所は那覇尋常小学校、撮影は昇スタジオ。前列右より飛岡隆、上間仙一郎、我喜屋勝二(富山)、瀬嵩政吉、佐久川章吉、真栄城朝潤、上里謙蔵、比嘉景常。中列右より浦添勲、百名朝健、大山隆司、山田實、天願俊貞(1982-12天願俊貞『詩集・水底の光』)、志喜屋孝信、荒木遼一、豊里友幸、国吉真栄、春成健正、具志堅以徳。後列右より又吉正雄、図師巌、百名朝成、大嶺信一、我那覇生義、国吉昇、伊差川新吉、許田、下茂門英樹(中村)、大城貞成、平良乃武。最後列右より不詳、益田、不詳、山元恵太、不詳、金城、荒木義浩、許田重吉、漢那憲正、安次嶺勇、根路銘、西銘生一。このころトーゴーカメラを入手して二中の友人の宮城健盛、大城貞成を撮影する。徳田安周も友人であった。


宮城健盛/表紙絵 1966年6月『今日の琉球』104号「ハーリー」

2012-09-11@18:36
石川和男ー 真栄城朝潤氏は私の首里中・首里高の1期先輩で今年4月まで糸満警察署長でした真栄城毅さんの父君です。この記事を読んで長く琉大の事務局長を務め、沖縄県立芸大の創立に深く関わり、初代学長の山本氏をお招きしたお仕事はここに遡るのだとしりました。



あゝ驚いた!!
気まぐれに兄の名前(図師 巌)で検索したら「2中緑樹会」の写真に当たりました。投稿なされた方に厚く感謝申し上げます。図師 巌は大正5年那覇市で生まれ2中に進んでいます。平成13年東京で死去しました。戦後は映画監督して数本の作品を残しています。
弟の小生(図師 利佶)は昭和2年生まれ、那覇尋常小学校に昭和13年まで在校しましたが両親の死亡により宮崎に移り戦火を免れました。小学校校時代の友達を懐かしく思い出すこともあります。当年85歳です。
ありがとうございました。

新城さま
先日は同文を再三投稿してご迷惑をおかけしました。
尚、通信の機会を与えて下さり嬉しく思います。
兄、「図師 巌」と私は11歳も年齢差があり、往時の記憶も確かではありません。
兄が二中在学当時の私達家族は「那覇市久米町1丁目10番地」に居住していました。お隣は画家の「大嶺政寛」さんでしたので個人的な指導も受けていたと思います。
2中時代は又。水泳の選手で、「波の上プール」に応援に行った思い出もあります。1939年、「東宝撮影所」に在職中「都城23連隊」に召集され爾後約7年間軍役、戦後は「東宝砧撮影所 演技課係長」の折、1948年「東宝大争議」に巻き込まれ「反日映演」の第2組合委員長で頑張っていましたが撮影所は閉鎖・・・その後「日活」で映画監督として数本時マゲものなどを撮ったようです。(gooで検索でできます)その後は映画界の衰退で脚本を書いたりしつつも回生ならず、2001年武蔵野市の養老院で死亡しました。
私は1933年那覇尋常小学校幼稚園に入り1938年宮崎に移りました。同級生数名の名前は今も記憶していますがあの戦禍でどうなったでしょうか、今も気になります。兄は「許田君」に会いたい・・と言ったことがありましたが、写真を見ますと、二人おられますね。
どのような運命を辿られたことでしょうか??
「琉文21」の今後のご発展をお祈りします。2012-07-31 @ 13:58ntoska514115.oska.nt.ftth4.ppp.infoweb.ne.jp

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
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山田實・撮影

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山田實・撮影


きむらいへえ【木村伊兵衛】
1901‐74(明治34‐昭和49)
戦前,戦後を通じて活躍した日本の代表的な写真家。東京下谷の出身で,京華商業卒業後,1920年台湾に渡り,同地で写真技術を習得した。24年帰国後,東京日暮里で写真館を開業するとともに,アマチュア写真クラブを組織して芸術写真の制作もはじめた。30年花王石鹼広告部に入社,生活感あふれる広告写真を撮影した。このころに35ミリフィルムを使用するライカA型カメラを自分の手足のように駆使することで,日常的な光景をスナップする独自の写真スタイルを確立している。(→コトバンク)