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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
島尾伸三氏から沖縄文化の杜の金城美奈子さん宛に展覧会チラシが送られてきた。
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後田多敦氏が別件の序に論文抜刷を贈ってくれた。その一つが『地域研究』に書いたもので、敦氏は論文で同郷の作家を詳細に腑分けしていて、「素材としての史実と創作の間」と副題が付いている。このNHKで放映した・・・・・の原作本を最初にO氏が批判したが、私は電話でO氏に「逆宣伝ですよ」と言ったことがある。次はT氏が新聞投稿で「NHKは尚家を汚らしく下品な内容と同じように天皇家も描けるのか」と甚く立腹。その投稿を見て、近代史家N氏も批判した。

嘗て、姫百合部隊のことを取材し、ヒヨリミ戦記を書いたルポライターが居た。最後には伏字だらけの本になったが。沖縄人は愛国者だったと言わんばかりのマンガ本が若いものに読まれたが今は話題にするのは居ない。現実がそれを上回ってしまっている。紀要やグループ内で批判するのは良いが、新聞・雑誌、ネットで批判すると逆宣伝になり批判した相手は注目度が高まったと喜ぶ。
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1978年6月ー沖縄市文化協会(青山洋二)『文化の窓』創刊号

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本日はひよりの誕生日、1歳である。昼、沖縄大学により宮城先生紹介で大学図書館に『青い海』創刊号と、沖縄関係資料室が載っている10号を寄贈する。帰途、那覇市歴史博物館によって、5時から久茂地・抱瓶の高橋淳子さんのお別れ会に参加。壁には淳子さんの写真が所狭しと貼られていた。アルバムには喜屋武真栄氏や西平守良さん、喜納昌吉、大田昌秀、具志堅用高、新城亘、儀間比呂志、ひさみ夫妻の諸氏らが淳子さんと収まっているのもある。私は1973年頃、高円寺・球陽書房の西平守良さんに近くの「きよ香」に連れていかれそこで淳子さんを知る。知るといってもそれが最初で最後の出会いであった。会場の抱瓶にはひさみ夫妻らが居られた。1時間半ごろ経って大田昌秀氏、岡留安則氏や沖縄大学のO教授、S氏らが参加し故人が好きだった民謡で追悼した。しばし大田氏、岡留氏と懇談する。岡留氏に東郷健の消息を尋ねた。(4月26日の新報、タイムスに同性愛者の差別撤廃運動で知られた東郷健の死亡記事が顔写真入りで報じられていた。)

岡留氏のブログに□東京高円寺で沖縄居酒屋「抱瓶」や「きよ香」など5店舗を経営して成功を収めた高橋淳子(本名=清)さんがなくなった。東京の自宅マンションの風呂場で発見されたという。死亡推定日は4月7日。高円寺の抱瓶グループは長男の貫太郎君に任せて、高橋さんは3年前から那覇市久茂地で、沖縄居酒屋「抱瓶」那覇店を経営していた。最近は元照明マンの仕事をしていた光太郎君が母親の片腕となり、親子で店を切り盛りしていた。死因は細かく聞いていないが、享年73歳だった。高橋さんの苦労人生からサクセスまでの人生は「ただ、誠を尽くして浮世を渡る」(日本社)という一冊の本にまとめられている。

筆者は高円寺の「抱瓶」にも何回か顔を出したことはあるが、高橋さんが沖縄に来てから本格的な付き合いが始まった。筆者が新宿の「ロフトプラスワン」に出演した時には長男の貫太郎君ともどもよく見に来ていたというので、沖縄での初対面以来、意気投合しての付き合いが始まった。何回も呑む機会があったが、自分の人生に自信と誇りを持っていたためか、頑固なところもあった。石垣島出身の高橋さんの早すぎた突然の死に合掌しておきたい、通夜・告別式は東京で済ませて、沖縄では「送る会」が4月19日午後5時より沖縄抱瓶2階で開かれる予定になっている。


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1959年12月15日 『琉球新報』関西支局「沖縄資料センター 近く東京の自由人権協会内に設置」

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法政大学の沖縄文化研究所は中野好夫の沖縄資料センターが核になって設立された。□1961年8月『資料ニュース』№1「沖縄問題に関する資料の展示と懇談の会参考資料」。1963年12月『沖縄資料ニュース』№15「沖縄資料センター資料目録」。1964年6月、島田叡氏事跡顕彰会『沖縄の島守島田叡』中野好夫「最後の沖縄県知事」。1972年3月、中野好夫『沖縄と私』時事通信社。1982年3月、『沖縄資料センター目録』法政大学沖縄文化研究所。1982年7月『法政』№324・外間守善「中野好夫記念文庫について」。1985年4月『マスコミ市民』№201「追悼・中野好夫先生」、6月『新沖縄文学』第64号「追悼特集・中野好夫と沖縄」。1985年、屋宜宣仁『沖縄の日本復帰闘争あのころ』。

□6月10日ーモノレール美栄橋駅で屋宜宣仁氏と出会う。元気そうで何よりだ。

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ニューヨーク□この世の龍宮ー白波さわぐ水の彼方におぼろに霞む高楼の群こそこの世の龍宮とも見られよう。この高楼の群立こそは大ニューヨーク市の中心マンハッタン南端付近の世にも稀なる壮観で南方水上から仰ぎ見た風景である。その中央部に雄然と聳ゆるエクイタブルのビルディングもその右方のウールウオースもこの大観の一丹一碧をなすに過ぎぬ。右の端にはお台場公園の水族館が見える。

国防
□海軍ー(略)我々は少しも米国海軍を恐れては居らぬ。然し勿論戦争を望んでも居らず、少なくとも近き将来に戦争があろうとは思って居ない。戦争ばかりが海軍の仕事ではない。我々はむしろ益々日米両国の国交を厚くし今後いよいよ通商の繁くなりよく「太平洋」を文字通り太平に保つべく、両国海軍が提携してその保護の任を盡さんと希って居るのである。

□空軍と化学戦ー米軍中には化学戦部が設けられ、毒ガス、焼夷弾及び発煙弾等を用ふる化学戦の準備と研究を行っている。これがための機関として、化学戦学校とか、毒ガス工廠などがあり、実に平時よりガス第一聯隊がメリーランド州、エッヂウード工廠内に設けられ、本部と3中隊とを置いてある。その他パナマ、コロザールと、歩兵学校内と、ハワイのショフィールド兵営との3か所にも、各1中隊宛のガス中隊が設けられてある。米国の毒ガス製造の一日の量は約350トンということである。

■→米軍は米国領内のジョンストン島に毒ガス移送することを決定。1971年1月と7月の2回にわたり、美里村(現沖縄市)の知花弾薬庫から具志 川市(現うるま市)の天願桟橋までの行程で毒ガス移送が行われました。第2次移送は56日間にもわたり、移送路周辺の住民約5千人が避難しました。 (沖縄県公文書館)

1929年12月『世界地理風俗体系・第20巻・アメリカ合衆国(下)』新光社

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サンフランシスコ□水天の間に描くー金門海峡の内ぶところ。太平洋の水を静かにとり入れた入江の水と空一線の上に描く桑港の空線。それは近代文明都市の姿そのものである。ニューヨークをアメリカの正玄関とすればサンフランシスコはまさにその裏玄関に相当するところ。太平洋を渡る長い航路の旅人が絵のような桑港湾に立つて水上に浮かぶこの美しい都市の姿に接した時思わず甲板の上で歓呼し雀躍したくなるであろう。

□移民問題と在米同胞ー米国の繁栄を語るものは、東部にニューヨークの雑踏と、中部にシカゴの煤煙市と、そして西部にオレンジの花馨るカリフォルニアの富源のあることを見落とすわけには行かぬ。そして、また米国の文明を語るものは、ニューヨークの女神像と、シカゴの黒人私刑事件と、太平洋沿岸の東洋人排斥の事実とを忘れてはならない。(略)カリフォルニアのこの発展をかほどまで迅速ならしめたものは、実に20万に近い支那人の労働者と、30年間血と汗をもって開拓した、30万に近い現存日本人の努力の結果とに他ならない。
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仲里康秀・所蔵(携帯090-3322-9908)
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右の㌻に沖縄の写真家・山田實さん撮影の「英語で書かれた賽銭箱(金武観音寺1960年代)」が掲載されている。
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撮影場所は那覇尋常小学校、撮影は昇スタジオ。前列右より飛岡隆、上間仙一郎、我喜屋勝二(富山)、瀬嵩政吉、佐久川章吉、真栄城朝潤、上里謙蔵、比嘉景常。中列右より浦添勲、百名朝健、大山隆司、山田實、天願俊貞(1982-12天願俊貞『詩集・水底の光』)、志喜屋孝信、荒木遼一、豊里友幸、国吉真栄、春成健正、具志堅以徳。後列右より又吉正雄、図師巌、百名朝成、大嶺信一、我那覇生義、国吉昇、伊差川新吉、許田、下茂門英樹(中村)、大城貞成、平良乃武。最後列右より不詳、益田、不詳、山元恵太、不詳、金城、荒木義浩、許田重吉、漢那憲正、安次嶺勇、根路銘、西銘生一。このころトーゴーカメラを入手して二中の友人の宮城健盛、大城貞成を撮影する。徳田安周も友人であった。


宮城健盛/表紙絵 1966年6月『今日の琉球』104号「ハーリー」

2012-09-11@18:36
石川和男ー 真栄城朝潤氏は私の首里中・首里高の1期先輩で今年4月まで糸満警察署長でした真栄城毅さんの父君です。この記事を読んで長く琉大の事務局長を務め、沖縄県立芸大の創立に深く関わり、初代学長の山本氏をお招きしたお仕事はここに遡るのだとしりました。



あゝ驚いた!!
気まぐれに兄の名前(図師 巌)で検索したら「2中緑樹会」の写真に当たりました。投稿なされた方に厚く感謝申し上げます。図師 巌は大正5年那覇市で生まれ2中に進んでいます。平成13年東京で死去しました。戦後は映画監督して数本の作品を残しています。
弟の小生(図師 利佶)は昭和2年生まれ、那覇尋常小学校に昭和13年まで在校しましたが両親の死亡により宮崎に移り戦火を免れました。小学校校時代の友達を懐かしく思い出すこともあります。当年85歳です。
ありがとうございました。

新城さま
先日は同文を再三投稿してご迷惑をおかけしました。
尚、通信の機会を与えて下さり嬉しく思います。
兄、「図師 巌」と私は11歳も年齢差があり、往時の記憶も確かではありません。
兄が二中在学当時の私達家族は「那覇市久米町1丁目10番地」に居住していました。お隣は画家の「大嶺政寛」さんでしたので個人的な指導も受けていたと思います。
2中時代は又。水泳の選手で、「波の上プール」に応援に行った思い出もあります。1939年、「東宝撮影所」に在職中「都城23連隊」に召集され爾後約7年間軍役、戦後は「東宝砧撮影所 演技課係長」の折、1948年「東宝大争議」に巻き込まれ「反日映演」の第2組合委員長で頑張っていましたが撮影所は閉鎖・・・その後「日活」で映画監督として数本時マゲものなどを撮ったようです。(gooで検索でできます)その後は映画界の衰退で脚本を書いたりしつつも回生ならず、2001年武蔵野市の養老院で死亡しました。
私は1933年那覇尋常小学校幼稚園に入り1938年宮崎に移りました。同級生数名の名前は今も記憶していますがあの戦禍でどうなったでしょうか、今も気になります。兄は「許田君」に会いたい・・と言ったことがありましたが、写真を見ますと、二人おられますね。
どのような運命を辿られたことでしょうか??
「琉文21」の今後のご発展をお祈りします。2012-07-31 @ 13:58ntoska514115.oska.nt.ftth4.ppp.infoweb.ne.jp

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