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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
斎藤 陽子(Walnut, California)1-16 ちなみにアメリカでは成人式などという祭日は無く、21歳なった誕生日に、ちょっと特別に盛大にするくらいです。今日のロスアンゼルスの気温は15℃夜間は7℃とのことで幾らか温かくなった気がしますが、カナダ国境に近いワシントン州の友人の処は明け方マイナス12℃と凍り付く気温の中で、通勤に行く前に車のエンジンを温めるのにも、ひと苦労の様です。こちらロスアンゼルスでは中国系の人口が多く、もうじき迎える旧正月を迎える準備で、中国系スーパーは一段と安売りで賑わっております。写真はサンディエゴ方面へ向かう道路沿いに、溶接で作成した実物大の本物そっくりの西部開拓時代の彫刻作品の売り物、お値段は50万円なりとのことだが、無造作に道路沿いに展示されていました。


  「くろねこの短語」2019年1月14日ー「馬鹿は死ななきゃ治らない」「馬鹿につける薬はない」「自慢高慢こうまん馬鹿ばかのうち」・・・なんて言葉ではとてもじゃないけど言い足らないほどの馬鹿がいる。言わずと知れたひょっとこ麻生だ。この男の暴言・妄言は枚挙に暇がないんだが、性懲りも泣くまたやらかしてくれたってね。ひとつは、12日に行われた成人式でのことで、新成人を前にこんなことのたまったそうだ。「二十歳を境に何が違うのか。飯が食える、たばこが吸える、酒が飲めるとかなんてどうでもいい。」「それより、皆さんがた、もし今後、万引きでパクられたら名前が出る。少年院じゃ済まねえぞ。間違いなく。」「それだけはぜひ頭に入れて、自分の行動にそれだけ責任が伴うということを、嫌でも世間から知らしめられることになる。それが二十歳だ。」寅さんが町工場の勤労青年を前にしてオダ上げてるんじゃないんだからね。いやしくも一国の副総理、財務大臣が人前で口にする言葉使いじゃありません。そもそも、森友学園疑獄における公文書改竄の責任をとらなかったような政治屋に、「自分の行動にそれだけ責任が伴う」なんて言われても、だから何?ってなもんです。
 さらに、昨日は国政報告会の場で、かつての鮫の脳みその「神の国」発言に勝るとも劣らない時代錯誤な放言をしてくれちゃいました。曰く、「2千年の長きにわたって一つの言葉、一つの民族、一つの王朝が続いているなんていう国はここしかない」論評する気にもなりません。メディアは「またしても失言」なんて報じているけど、これって「失言」ではなくておそらく「本音」なんだね。そうでなければ、ただの阿呆だ。「麻生節」なんてことでこれまで野放しにしてきたメディアのおかげで、ひょっとこ麻生は人としてどんどん壊れていっている。

  「くろねこの短語」2019年1月11日ー(前略)でもって、初老の小学生・ペテン総理はといえば、中東訪問の前夜祭ということなのだろう。昨夜は、日本橋の料理屋に取り巻きのメディア幹部と酒食に耽りましたとさ。参加したのは、曽我豪朝日新聞編集委員、山田孝男毎日新聞政治部特別編集委員、小田尚読売新聞東京本社調査研究本部客員研究員、島田敏男NHK名古屋放送局長、粕谷賢之日本テレビ報道局解説委員長、石川一郎テレビ東京ホールディングス専務、そして田崎スシローの面々。こんなことしてるから、新聞もTVもどんどん信用をなくしていくんだね。国民を舐めるのもいいかげんにしやれ!!


大濱 聡 1月9日 23:18 · ■Okinawa Medea Literacy――1月8日の報道から。
豚コレラに感染した疑いのある豚が、沖縄島中部の養豚場で見つかったことが7日わかった。地元二紙が朝刊で伝えていたので、朝のTVで最新情報を確認しようとしたが、NHK沖縄の朝一番の地域ニュース「おはよう沖縄」では扱わず、「野菜やかきなどの初荷式」他1本のノンビリしたニュースだった(9:55-10:00の特設ニュースで放送)。
■以前であれば、徹夜に近い取材をして朝一番で伝えたのだろうが、働き方改革の影響だろうか。かつて朝一だった7時前や、土日のお昼、夕方6:45からの地域ニュースも福岡発の九州・沖縄ブロックになってしまい、地元のニュースがすっかり減ってしまった。
■『沖縄タイムス』が社会面トップで報じた「八重山マラリア 克明な撲滅記録」。八重山保健所の元職員(故人)が残した撲滅までの資料や手記、写真など約200点が自宅に保管されていたことが「7日までに、分かった」とスクープ性を匂わせているが、これは昨年12月13日に放送されたNHK沖縄の「きんくる 沖縄金曜クルーズ」ですでに紹介されている。
 関連A・O- ローカルニュース枠の減少にとどまらず、NHKはニュースの中味もローカルではドンドン薄くなっていっている気がします。山梨県では、いわゆる発表ものや事件事故(これもそれを独自に追いかけるのではなく多くは警察発表)、それに季節の話題がニュースの9割を占めているような気がします。私の住んでいる地域は県の中心地を外れているので、季節ネタか交通事故でしかお目にかかれない状態。市政ではどこにでも起こりそうな重要な問題が起こっているのにそれを知るのは地域の無料ローカル紙かネットからです。働き方改革の結果でと言えばかっこいいのでしょうが、昔から新技術には金をかけるけど、人はどんどん減らしていく方向は変わりないような気がしますね。人減らしをして働き方改革をしようとすれば、手を抜くしか現場は対処しようがありませんね。市民生活にかかわる重要なニュースは頑張って伝えてもらいたいものですが。

 愛知ママの会1-9 森法相は大変重大な発言をしている。「日本では捜査機関から独立した裁判官による審査を経て令状を得なければ捜査機関が逮捕することはできない」。思い出そう。これほど厳正な手続きを経て出された山口敬之の逮捕令状の執行を中村格は取り止めさせたのだ。異常ではないか。

斎藤 陽子(Walnut, California) お正月から6日が過ぎ、ロスアンゼルスの気温は13℃夜間は7℃と、ポカポカと陽気なお天気がこの3、4日続き、わが家の庭の新春第一弾の花の開花はモクレンです。これから2月末までつぎつぎとモクレンは咲き続けて、初春を楽しませてくれるでしょう。

先週は日本領事館に半日も費やして「在留証明」なる書類を作成するために行きましたが、領事館はロスアンゼルスの下町のオフィス街の高層ビル内に在り、なんと駐車代金30分で2000円も取られ、3時間もかかりました。何のための在留証明かと言うと、日本年金機構へ年金を貰う為に、私が健在にこの世に生きている証明を届けるためのものなのです。毎年12月の誕生日には生死を明確にせよとの、年金機構から書類が送られて来るのですが、5年ほど生死報告を放置しておりました。ちなみに私の日本の年金は月額2000円になり、これをほんとの「雀の涙」というのでしょう、余りの少額に5年も放置していた次第ですが、チリも積もれば山となる日に期待し、30分2000円の駐車場代を払って、まじめに月額2000円の手続きをしに行ってきました。もしかして月額2000円の年金は最も小額な年金受給者の部類に入るのでしょう(笑)でも、年間ラーメン3杯は食べれます。ありがたや!この月額3000円の年金が、唯一 私と日本政府を結んでいる絆です。
幸いにもアメリカで勤勉に45年近く働いた、充分生活できる年金が有りますから、月額3000円を笑っても居れますが・・・・。ちなみに外務省の海外在留邦人数調査統計(最新2018年10月時点)によりますと、海外に住む日本人の総数は約139万人とのことです。海外でもアメリカ在住者がダントツ1位の44万人余りの日本人が居て、これは在外公館に届け出た数で、在外在住を届けてない人も合わせると、実際には50万人のアメリカ在住日本人がいるだろうと推定されています。なかでも最も多いのはロサンゼルス在住者の7万人余りで、次がニューヨークで5万人余りだそうです。

関連ーS・M 毎年、国民年金機構に在留証明証を提出しています。ボリビアはロスのように郵便局が信頼できるませんので、帰国時に持参するか、国際宅急便で送付するしかありません。しかし、私のように業務で帰国出来る者は良いのですが、南米から帰国するには20万円以上の経費が必要です。国際宅急便ですと約100ドルの送付料金が必要です。このインターネットの発達した時代に書類を提出するシステム自体、年金機構の時代遅れに腹が立ちます。

「くろねこの短語」2019年1月7日ー昨日の初老の小学生・ペテン総理の年頭記者会見ってのはスッカスッカの中身ゼロで、役人の作った原稿を読み下すだけなんだから、こんなにお気楽なことはない。さらに、記者の質問もこれまた温いもので、サクラ疑惑、カジノ汚職、中東問題etcとビシバシ攻めるテーマがあるだろうに、上っ面を撫でるだけの予定調和の質疑応答があるだけなんだから、どうしようもありません。
 で、何かと言っちゃあ「今後も丁寧に対応していく」で終わっちゃうんだから、なんのための年頭記者会見なんだか。こんなんだもの、今年も「忖度」報道のオンパレードになるんでしょうね。・安倍首相が年頭記者会見でIR汚職をスルー、米国、イランの名も口にせず、自衛隊の中東派遣強行だけは明言!・自衛隊の中東派遣、心配は「していない」 菅官房長官
 でもって、カジノ疑惑なんだが、沖縄基地利権王の下地君が中国企業から100万円貰ってたことを白状したってね。相手が受け取りを固辞したので領収書は発行してないから政治資金収支報告書には記載していなかった、なんて言い訳してるけど、理由がどうあれ政治資金規正法違反は決定です。
 当初は否定していたのにここにきて白状したということは、おそらくこのまま辞職して逮捕だけは免れようという魂胆じゃないのかねえ。ひょっとして、辞職でチャラってことで特捜と話がついてたりして。妄想だけど。下地君が白状したってことは、特捜の裏付け捜査が相当に進んでいるってことを意味しているんだろうから、いまは口をつぐんでいる名前の上がったシェンシェイたちはさぞかし眠れぬ夜を過ごしているに違いない。さあ、次にゲロするのは誰だ!?
■関連ー19年1月発行の「沖縄問題、解決策はこれだ!これで沖縄は再生する。」(朝日出版社)の中で橋下徹氏はこう書いている。〈(カジノの)法律が成立する前の話ですけど、僕と松井府知事と菅官房長官で話をした時に、もし沖縄が手を挙げたら、沖縄には必ずIRを認めてあげなければならないね、という認識で一致していました〉〈もし沖縄のみなさんが、IRを沖縄でやらせてくれ!と声を上げれば、大阪は喜んで沖縄のみなさんにお譲りします〉

 「海鳴りの島から」1-6 IR汚職で下地幹郎や宮崎政久、岩屋毅といった議員たちの名前が挙がっている。いずれも辺野古新基地建設を推進してきた面々だ。カジノ利権だけでなく、基地利権でも蠢いてきたのではないのか。新基地建設が長引き、予算が膨らめば膨らむほど、金が入ると笑う者たちがいる。こういう連中のために、沖縄県民は苦しめられるのだ。

 JIJI1-6日本維新の会の松井一郎代表(大阪市長)は6日、カジノを含む統合型リゾート(IR)事業をめぐる汚職事件に絡み、贈賄側とされる中国企業サイドから現金100万円を受領したことを認めた同党の下地幹郎衆院議員について「法に抵触することをすれば、議員辞職すべきだ」と述べた。松井氏は「納税者の皆さんに全く理解されない」と指摘。下地氏に馬場伸幸幹事長を通じて辞職すべきだとの意向を伝えたという。/『沖縄タイムス』1-6 衆院議員の下地幹郎(しもじ・みきお)氏は1961年、沖縄県宮古島市(旧平良市)出身。58歳。84年中央学院大学卒し、その後父が創業した会社に入社、副社長なども務めた。96年の衆院選で自民党公認で立候補し初当選。現在6期目。政界に幅広い人脈を持ち、初当選の同期には菅義偉官房長官も。菅氏とは2005年に下地氏が自民党を離れても交流が続いており、「しもちゃん」「すがちゃん」と呼び合う仲。自民党との選挙協力を沖縄でも推進している。

 2020-1-6『朝日新聞』ー米軍横田基地(東京都福生市など)周辺で有害物質の漏出の有無を調べるため、都が監視地点に定めている井戸で昨年1月、高濃度の有機フッ素化合物が検出されていたことがわかった。うち1カ所の濃度は、米国での飲み水についての勧告値の19倍の値だった。/関連2019-6-26『毎日新聞』ー米軍横田基地(東京都福生市など)で2017年までの8年間に日本側に知らされていないジェット燃料などの流出事故が少なくとも131件起きていた実態が、毎日新聞が入手した米軍の資料で明らかになった。


大濱聡■知人のKさん(本土出身・沖縄在住)にMessengerで年賀状を送ったところ、「この2-3年年賀を祝いたい感じが無くなりました。一昨年から本土への年賀は止めました。元旦を共有する気が無いのに虚礼するのは自分に赦せない感じです」との返事。元日は辺野古だったらしい。辺野古に集まった人々は「おめでとう」とは言わず、「今年も頑張りましょう」と言い合ったという。「初興し」に参加した人々には本当に頭が下がる。
■先月(12月)25日、防衛省は辺野古の総工費を9300億円(2014年明示の3500億円の約2.7倍)との試算(沖縄県は2兆円超え)を発表。工期を12年とした。しかし、まだまだ膨らむだろう。それに対し「税金のムダづかい」「福祉や教育、少子化対策にまわして」との声が。民放の正月特番で元官僚のコメンテーターが「日本にとって最大のリスクは少子化問題」と指摘していたが、何が必要で、何を優先すべきかを今一度立ち止まって考えるべきだろう。
■27日には、新基地建設に反対する人々が2014年7月に座り込みを始めて2000日を迎えた。不屈の闘いは続く。

 【立憲フォーラム通信:1653】(2020年1月4日)-共産党の志位和夫委員長は3日、米軍がイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官を空爆で殺害したことについて、「トランプ米政権による国連憲章を無視した軍事的挑発行為を厳しく非難する」とする声明を出した。志位氏は「トランプ政権に対し、軍事的挑発をやめ、イラン核合意にただちに復帰することを強く求める」とする一方、「自衛隊の中東沖への派兵は、いっそう無謀で、危険きわまりないものとなった」と指摘――と「朝日」。――日本でのカジノを含む統合型リゾート施設(IR)事業を巡る汚職事件で、贈賄の疑いが持たれている中国企業「500ドットコム」側が現金各約100万円を渡したと供述した衆院議員5人を、東京地検特捜部が昨年末に任意で事情聴取したことが3日、関係者への取材で分かった。特捜部は議員本人だけでなく秘書が受け取った可能性も含め、政治資金規正法などに抵触しないかどうか慎重に捜査している。5人は自民党の岩屋毅前防衛相=大分3区、宮崎政久法務政務官=比例九州、中村裕之元文部科学政務官=北海道4区、船橋利実氏=比例北海道=と、日本維新の会の下地幹郎元郵政民営化担当相=比例九州、と「共同。

 斎藤 陽子(Walnut, California)1-3 アメリカは元日1日だけがお休みで、お正月2日目からはアメリカの仕事始めです。今年も自宅と会社(片道51キロ)への道のりは、通勤ラッシュとの戦いが始まりました。朝夕の高速道路の片側4~5車線、上下全線(8~10車線)が、自動車で埋まってしまう混み方は、今や南カリフォルニア(ロスアンゼルス)の名物となっていいます。なにしろ南カリフォルニアは、人口2240万人という、全米第二位の大都市圏、公共交通機関は自動車が主流なので、車の台数も人口に比例して多いのです。

南カリフォルニアの高速道路は網の目の様な複雑さで、高速道路を把握できれば、あなたは確実にロスアンゼルス人と認められることでしょう。南カリフォルニアで最も歴史的に古い高速道路は、なんと第二次大戦中に敷設されたパサデナ線で、日本と戦争をしている時に高速道路と言う大工事を行っていたのを思うと、物資が乏しく、松ヤニまで燃料に使用としていた日本の当時の状況を思うと、これほどの国の違いのある国と、戦争をするなど考えさせられます。ちなみにバンクーバー(カナダ国境)からサンディエゴ(メキシコ国境)までの、高速5号線の走行距離は約2400キロ、昼夜を必死に走りまくっても、3日半はかかるでしょう。新し1年の始まり、ロスアンゼルスの車の洪水との闘いが始まりました。


2020-1-2 初詣「天久宮」/写真「出雲大社沖縄分社」

 大濱聡ー「ゆく年―」に関わって厳寒の現場で年を越した。■最初の経験は新人の頃、名古屋が担当した永平寺(福井)の第4ディレクター的立場で、雪深い外での仕事だった。1990-92年の長崎、1994-96年の沖縄はそれぞれ3年連続(地方局としては異例)で、8年間の2局勤務で6回も携わることになった。■結局、スタッフとして、あるいは立ち合い業務として8回も現場で越年したが、「ゆく年―」に関わった回数としてはおそらく会社の中で最も多かったのではないかと思っている。

  
2020-1-1『しんぶん赤旗』「絵手紙ー新基地建設よりも首里城再建を」/年賀状

斎藤 陽子(Walnut, California)-カリフォルニアの年越しそばは「沖縄ソバ」。麺はハワイ産二人前入りの生沖縄ソバ(1袋 350円)、満足な麺ではないのですが、これしかないので我慢して使い、出し汁は豚の煮込み汁と昆布だし汁に鰹節と、そば汁は気合を入れて我が家流で作りました。トッピングの3枚豚肉の煮付けは自家製、島唐辛子(コーレーグス)は庭で取れた島と唐辛子をこの日にのために泡盛に漬けた、コーレーグス汁を入れて頂きました。我が家のお雑煮は関東風のお雑煮を作りましたが、三が日のオデンがわりに、福島育ちの主人のリクエストで、「沖縄風の冬瓜とリブと昆布のスープ」をお正月なのに特別オーダーで作りました。ちなみに冬瓜は中国系スーパーで手に入ります。

昆布巻きも身欠ニシンを巻くのがヤマト風ですが、カリフォルニアにはニシンが無いため、人差し指ほどの大きさの生豚肉を巻き、高圧鍋で15分煮て取り出し、砂糖や味醂、醤油で煮るとニシン昆布巻きより美味しい、豚肉の昆布巻きができました。アメリカではカンピョウを入手するのも一苦労です。今年は名古屋からの友人に頂いた、高級羅臼昆布で作りましたら絶品の豚肉の昆布巻きができました。

斎藤陽子(Walnut, California)-時差の関係でアメリカは30日ですが、日本は大晦日を迎えましたね。師走のロスアンゼルスに珍しく随分降ってくれた雨は、彼方のサン・ガブリエル山脈(San Gabriel Mountains)標高2.865mの積雪も見事です。この山脈には数個の名を持つ山が集まり、中でも4番目に高い山はボーイスカウトの創始者の名が付いた、ベーデン=パウエル山( Mount Baden-Powell)があり、世界的に大きなボーイスカウトのキャンプ場もあります。今年のこれらの山の豪雪はロスアンゼルスの水道水には充分な積雪でしょう。この山脈の積雪が、関東平野よりも広いロスアンゼルス市の地域に住む人々の水道水となりますので、この山脈には幾つもの貯水ダムが有ります。ロスアンゼルスから2時間も有れば行ける、この山脈には幾つものスキー場が有り、沿岸沿の海では冬も楽しめるファーフィンのできる海岸が多数有りますので、南カリフォルニアの冬は、若者に人気が有ります。新しい年も皆様にとって、輝かしい年となりますことを願っております。

写真は雪山とパームツリーにミカン畑が如何にも南カリフォルニアを表しています。


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Posted by: ryubun02
 
2019年12月16日『しんぶん赤旗』「」沖縄県中部・読谷村にある『恨之碑』の前に立つ製作者の金城実さん


2019年12月25日「古美術なるみ堂」にてー「房指輪」「ジーファー」を見る店主の翁長良明氏、哲楽家・紀々さん→紀々の公式サイト「首里城が出来た時の龍のモチーフを見て生まれた『龍神伝説』という曲」。→ 電波堂☆沖縄ソニー坊や博物館


2019-12-23 沖縄県立博物館・美術館「作家と現在」内覧会 本展では、沖縄県の内外で広く活動し、さらなる活躍が期待されている沖縄の4名のアーティスト石川竜一、伊波リンダ、根間智子、ミヤギフトシを紹介。作家はそれぞれの現場で制作に取り組み、いまなお探求を続けています。その探求の足跡を、展覧会を通してたどります。/町田恵美さん、仲嶺絵里奈さん、金城美奈子さん/新城栄徳、写真家タイラジュン

 12-22 生協にある花屋で生まれてはじめてポインセチアを買う。700円消費税70円


 『沖縄タイムス』2019年11月29日ー首里城再建に役立ててもらおうと、舞台美術家の新城喜一さん(86)=那覇市=が記憶や写真を頼りに戦前戦後の沖縄を描いた画集「失われた沖縄の風景」シリーズをジュンク堂書店那覇店など県内の書店で再販売し、全収益を寄付する。戦前の首里城の姿も知る新城さんは「沖縄の宝を早く取り戻してほしい」と願う。

パレットくもじー沖縄県那覇市久茂地にある複合商業施設。管理運営会社は久茂地都市開発株式会社。 核店舗はリウボウグループの百貨店事業を行う株式会社リウボウインダストリーである。→ウィキ/哲楽家・紀々ー「ラララ♪りうぼう」は、特に子どもたちに大人気!私が作者だということを聞くと、その場で元気よくうたってくれる姿も多く、感激です。一緒にコラボの機会も出てきて…今後の広がりにワクワク。みなさんも、どうぞ楽しくご一緒下さい♪


2019年12月10日 那覇市民ギャラリー「写遊沖縄写真展」左が小谷武彦氏、宮城保茂氏(沖縄県立博物館友の会)


戸澤 裕司12-10 今日は山田淳巳さんの参加するグループ展にお邪魔しました。大変美味しい八重山料理を堪能し、素晴らしい写真と共によい夜を過ごせました。お近くにお越しの際は是非お立ち寄りください。
「祈りの海 願いの祭 写真展」【 豊里友行・山田淳巳・Juncot∞ 】【場所】てるりん館 東京(八重山そば みやら製麺 2F)東京都台東区上野1-2-8【日時】2019年12月7日(土)〜8日(日)・14日(土)〜15日(日)、12:00〜19:00・入場無料 開催期間中、1F みやら製麺は、土曜日11:30〜15:00・18:00〜22:00、日曜日11:30〜19:00 営業。美味しい自家製麺の八重山そばを食べに行きがてら、お気軽にお越しください。展示作品の販売も行います。


2019年12月8日 那覇市民ギャラリー「第8回あけもどろ総合文化祭 美術工芸展」/岸本作品「蒼然」をはさんで岸本徹也氏、宮里旭氏


宮里旭氏と作品「盛夏の識名園」



小橋川肇 作品、下は関連


  
 フリーペーパー「夕焼けアパート」の写真展が12月3~8日、那覇市の県立博物館・美術館県民ギャラリー3で開催される。同誌で文章と写真を担当する、たまきまさみさん(国立劇場おきなわ企画制作課)が撮影した地域の祭祀(さいし)やなくなってしまった風景の写真など誌面未掲載のものを中心に56点展示する予定だ。→『沖縄タイムス』

海鳴りの島から2019-11-28 ランプウェイ台船は3隻が土砂を満載していた。1隻にガット船2隻分、10トンダンプカーで300台分ほどの土砂が積み込まれている。2隻なら600台分だ。これが毎日キャンプ・シュワブのゲートから入るのを想像してほしい。海から運ばれているから目立たないだけで、毎日大量の土砂が運ばれ、海に投入されているのだ。


2019年11月27日 沖縄県立図書館「特集①沖展図録」沖縄タイムス社の吉田伸氏


2019年11月22日19時~ジュンク堂書店 那覇店【イベント情報】首里城復興支援チャリティートークイベント「首里城から琉球の歴史を学ぶ」 会場:ジュンク堂書店那覇店B1Fイベント会場 トーク出演:古塚達朗さん(郷土史家・元那覇市歴史博物館館長)聞き手:宮城一春さん(編集者・沖縄出版協会) 

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Posted by: ryubun02

『琉球の文化』1号~5号
 ネットで『琉球の文化』を検索すると読谷村立図書館蔵書で出てきた。『琉球の文化』は大城精徳元沖縄県立博物館副館長が1972年3月に創刊した。創刊号の特集は<琉球の焼物>、72年9月・第二号は<琉球の染織>、73年3月・第三号は<琉球の伝統玩具・琉球の塗物>、73年10月・第四号は<琉球の芸能・琉球の古武術>、74年5月・第五号は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。私と発行人の大城精徳琉球文化社社長とは、72年に又吉眞三氏の建築設計事務所に大阪の西平守晴沖縄関係資料室主宰と同行し訪ねた折、そこに大城精徳氏が出来たばかりの『琉球の文化』創刊号を持参したときに出会った。
 翌日、安里の琉球文化社事務所を訪ねると意気投合し琉球文化社関西支局を引き受けることになった。このときは私はまだ筆不精で文章を書いたことがない。結局、『琉球の文化』には書く機会がないまま休刊を迎えた。その後、大城精徳も関わっていた『新生美術』には美術史らしきものを書くようになった。今、東京発の「沖縄文化論」がテレビ・雑誌などを通じて沖縄に侵蝕。それらが今、沖縄の新聞紙上を占めている。そういうことを予見し危機感を持っていた大城精徳は「日本人としての誇りを得るために、沖縄人としての誇りを捨ててはいけない」とし日本復帰前に『琉球の文化』を創刊した。その初心に立ちかえりネット上で『琉球の文化』活動を復活し新たに補足・改訂を加え立体的に「琉球の文化」を捉えなおしてみたい。(2010-7-8-15記)

1973年10月 季刊誌『琉球の文化』第四号<特集Ⅰ・琉球の芸能><特集Ⅱ・琉球の古武術>




 松濤 船越義珍『愛蔵版空手道一路』榕樹書林2004年12月
○・・・そのために、三〇有余年にわたる教員生活に別れをつげたのである。が、そのかわり、それまでの経験を生かして御奉公をしようというつもりで、当時(後)の県立図書館長の眞境名笑古(安興)、沖縄タイムス編集長(主筆)の末吉麦門冬の両君と相談して、沖縄学生後援会を組織しその経営に当ることになった。一方、先輩や友人とも語り合って、空手道を一本化するために沖縄尚武会を作り、その代表者として働くことにもなったのである。

船越義彰「義珍翁外伝」

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富名腰(船越)義珍が末吉麦門冬に贈った写真
1922(大正11)年


4月24日  『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆<35>ー唐手の伝来」(『大島筆記』)/「禁止された琉球歌劇が復活の傾向」
4月27日  『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆<37>ー唐手の伝来」

○どうも面映ゆい話だが、私の若い日の修行の一端について、少し書いてみたいと思う。まず、台風の中で稽古をした話は同門の作家・戸川幸夫君①が作品として書いているので・・・
①戸川幸夫ー経歴生後まもなく若松市の実業家の養子となる。大正12年一家で上京。東京日日新聞(現・毎日新聞)記者、社会部副部長などを務める傍ら、長谷川伸主宰の新鷹会に入り、動物小説を書き始める。昭和29年「高安犬物語」で直木賞受賞、以後単行本は二百冊を超える。動物文学という新しい小説の分野を開拓し、小説を書くために世界各地を旅行している。40年沖縄・西表島のイリオモテヤマネコを発見したことで有名。子供向け読み物も執筆。日本動物愛護協会理事、世界野生生物基金委員などとしても活躍。俳人としては「渋柿」系俳人関谷嘶風の手ほどきを受け、「渋柿」所属。他の著書に「野生への旅」(全5巻)「人間提督山本五十六」「けものみち」、「戸川幸夫動物文学全集」(全10巻 冬樹社)、「戸川幸夫動物文学全集」(全15巻 講談社)がある。→コトバンク

○小杉放庵(未醒)画伯②の応援
1916年1月12日朝ー小杉未醒、横山健堂を訪ねて琉球への添書を頼む。
      1月13日ー小杉未醒、太平洋画会脱会の通知を出す。
      2月6日午後7時ー小杉未醒、丹青協会の歓迎会に赴く、山田真山、末吉麥門冬、20人参加。





②小杉放庵 こすぎ-ほうあん→「小杉放菴 文献目録 - 小杉放菴記念日光美術館」
1881-1964 明治-昭和時代の画家。
明治14年12月30日生まれ。小杉二郎の父。小山正太郎にまなぶ。明治40年「方寸(ほうすん)」同人。渡欧後,大正3年日本美術院に洋画部を設立,11年春陽会を結成した。後年油彩から日本画にうつり,独自の水墨画をえがいた。昭和39年4月16日死去。82歳。栃木県出身。本名は国太郎。初号は未醒(みせい)。代表作に「水郷」「山幸彦」,著作に「放庵画論」など。 【格言など】頂の岩に尻据ゑ足指にまさぐらむとす越の国原(歌集「山居」)→コトバンク


小杉放庵(未醒)葉書(新城栄徳蔵)


1910年8月25日 琉球新報・沖縄新聞・沖縄毎日新聞主催「近畿地方観光団」出発→1911年8月25日・26日『琉球新報』松濤「観光団員として」


1912年11月 『琉球新報』松濤「鄭嘉訓の半面」


1913年1月9日『琉球新報』松濤「唐手は武芸の骨髄なり」


1913年7月 『琉球新報』松濤「菊...


1941年4月『月刊文化沖縄』富名腰義珍「空手物語」

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 2019年も後わずか。組踊上演300周年でもあったが、その舞台の首里城が焼けてしまった。首里城大火を暗示するかのように、今年の1月には国梓としひで『太陽を染める城』「(1)城が燃えている」、3月は与並岳生戯曲集2『火城』「首里城炎上、大飢饉・・・・・未曾有の国難を越えて、新生琉球の気概を示す国劇は、こうして誕生した!」が出されていた。なお、与並氏は琉球新報12月発行の『蘇れ!首里城』も編集している。

1929年10月に東京の春陽堂から発行された『校註琉球戯曲集』には末吉安恭(莫夢生)の「組踊談叢」「組踊小言」が収録されていることは夙に知られている。この組踊談の初出は1924年の11月3日『沖縄タイムス』からである。
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莫夢生「組踊談叢」「組踊小言」ー沖縄タイムス紙上では「組踊小言」は11月21日まで連載された。末吉は25日には水死している。おそらくまた題を変え組踊談を述べるつもりであっただろう。
〇1924年11月4日の「組踊談叢」に麦門冬は「今は故人となった書家の仲田朝棟」とあるが、これは朝株である。1907年4月の『琉球新報』に本県書家の1人として仲田朝株とある。仲田は首里区会議員(1896年~1910年)も務めた。1912年2月の新聞の死亡広告に友人として伊江朝助の名もある。朝助は戦後の1953年7月大阪『球陽新報』に七流老人名で「狂歌のやりとりー男色で有名な仲田朝株・・・」を書いている。

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中松竹雄氏、新城栄徳/國吉薫氏、古謝厚雄氏、中松竹雄氏

挿絵(2019年1月 国梓としひで『太陽を染める城ー首里城を蘇らせた職人たちの物語』)/宮城倉啓氏、中松竹雄氏
2019年12月20日 那覇市民ギャラリー一般社団法人久米梁氏呉江会「第4回 久米梁氏美術展」


歌人・國吉有慶(1905年9月25日~1987年1月7日)
父・國吉世功、母カナの長男として那覇久米町に生まれる。妹千鶴子は名渡山愛順夫人、弟有徳は沖縄戦で没。親族に具志堅以徳、伊佐川新。



2014年8月2日 那覇市民ギャラリー「第44回イーゼル会展」

國吉保武氏と作品「マハナ岬(粟国島)」

2014年9月20日 第448回 博物館文化講座 講師・田名真之「久米村人の家譜を読もう!」

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12/04: 日米誌①

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 1849年に始まる”ゴールドラッ シュ”に唯一、日本人として足 跡を残したのはジョン万次郎 だといわれる。1841年、14歳の とき漁に出て足摺岬沖で漂流、 鳥島に漂着し、幸運にも米捕鯨 船に救出されその後、捕鯨船長 他の庇護もありアメリカ暮らしと なる。当時は鎖国政策のため、 うかつに本国に戻れなかった時 代だ。望郷の念、止みがたく、帰国 に必要な資金を稼ぎ出すため ゴールドラッシュの噂を耳にし た万次郎はカリフォルニアを目 指した。金鉱で働き二カ月余り で600ドル(当時)の金を得て 1 8 5 2 年 に 首 尾 よく 帰 国 を 果 た す 。
  アメ リ カ 移 民 の日 本 女 性 第 1 号ー 同じころの日本、1868年秋、 会津藩が薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍に攻め入られ 鶴ヶ城が陥落した。翌年の春、会津に見切りをつけ、新天地カリフォルニアに渡った藩の一団があっ た。当時、会津藩に使えていたオランダ国籍のヘンリー・シュネル という人物が、農園をつくるため カリフォルニアに土地を購入「Wakamatsu Tea & Silk Farm Colony」と名付け、養蚕やお茶な どの栽培を計画したのだ。藩士と 家族37名が、開拓団に加わった。 長らく知られていなかったが、こ の一団にシュネルとその子どもの 世話係として加わった”おけい”と呼ばれる少女がいた。横浜から米船籍のチャイナ号という船に乗った 一行は、サンフランシスコに到着。 そこからは蒸気船でサクラメント 川を遡り、さらに荷馬車でゴールド ラッシュに沸くコロマ村のゴールド ヒルという原野に落ち着いた。天候 不順(干ばつ)や資金不足から、わずか2年でこの事業は失敗し解体に至る。一説には鉱山作業の影響 で近くの水源が「鉄分と硫黄」に 汚染されていたためともいわれる。
 若松コロニーの存在の風化とともに人々の記憶から遠ざかる。コ ロニーも消滅して40年余が過ぎ た1915年(大正4年)の初夏、現地で農園を経営する日本人と邦字新聞「日米新聞」の記者によって, この墓が発見される。最初はなぜこんなところに19歳 の日本人女性の墓があるのか分か らなかったが、近くに住むビーアカ ンプ家を訪ねたところ、そこでおけいの存在と若松コロニーのことを知る。コロニーがなくなった後、おけいはこのビーアカンプ家に引き 取られ働き、同じように引き取られた日本人の桜井松之助らが、おけいのために現地に墓を建てたこ ともわかった。翌年、日系新聞の記 事が掲載され、大きな反響を呼び 世間の知るところとなった。訪れる人もいない墓には、「OKEI」と刻まれていた。「In Memory of OKEI Died 1871, Aged19 years, (A Japanese Girl)おけいの墓 行年一九才」。 2014年 12月、友人とコロマを訪ねた折におけいの墓のある ゴールドヒルに立ち寄った。 コロマから南に8キロほどか。
 
関連右〇おけいは、会津藩軍事顧問のプロシア人、ヘンリー・スネル家の子守役でした。戊辰戦争後、スネルをリーダーとする会津藩士らとともにカリフォルニアに入植しましたが、開拓に失敗、移民団は離散してしまいました。残されたおけいは、アメリカ人に引き取られましたが、熱病にかかり、19歳の短い生涯を終えました。カリフォルニア州ゴールドヒルと同様の墓が背あぶり山にたてられています。 →会津若松観光ナビ

 ゴールドラッシュ時代、数多い絞首刑が行われたので、「ハングタ ウン」とも呼ばれるプラサビルへ の途中の田園地帯だ。移民団入植 から100周年を迎えた1969年には、 当時カリフォルニア州知事だった ロナルド・レーガンが若松コロ ニーの跡地をカリフォルニア州の歴史史跡に指定。同年、ゴールド・ トレイル小学校に隣接する敷地に 「日本移民百周年記念碑」が建立された。カリフォルニア州エルドラ ド郡の小学4年生は読書プログラ ムの一環で、日本からカリフォルニ アに来たおけいの生涯を伝える本 「Okei-san: A Girl’s Journey, Japan to California, 1868-1871」を読むという。 記念碑を訪ねた後、すぐ先のゴー ルドヒルに向かった。入口には倉庫 と思しき大きな木造の家があり、 Okeiに因んだフェスティバル開催 のポスターがあちこちに貼られてい た。30代ぐらいの青年と行きあっ たので”地元の方か?”と聞くと” ここに土地を借りて住んでいるが、 特段おけいとのつながりでここに いるわけではない”とのことだった。 さぁ、だいぶ先に見える丘の上まで30分とみて頂上に向かった。途中、ぬかるみや藪道もあったがのんびり歩き進むうちに丘の上についた。
  丘の上にある大木は、元は150年前 に、若松コロニー開拓団が日本から 持参し植えたケヤキの苗木が育っ たものだという。西に向かって遥か 先にサンフランシスコ湾、太平洋を 挟んでその向こうが会津だ。サン フランシスコ湾まで200-300キロか。 晴れていれば海を望めるだろう。 おけいはビーアカンプ家に世話に なっていた時にもこの丘の上まで 足を運んだ。ひとしきり登り道を歩 いて汗をかいた。四方を見渡して 150年前も今もこのあたりの風景は あまり変っていないのかも知れな いと思った。 補遺;2019-6-19日本から最初 にアメリカ本土に入植した移民団 がカリフォルニア州北部ゴールド ヒルにアメリカ本土初の日本人入 植地「若松コロニー」を形成してから8日で150年を迎えた。同日、跡地では記念式典が行われ、日米にいる移民団の末裔や関係者らが 出席。会津松平家の末裔も日本から訪れた。→『鍍金の世界』2019年11月号 屋良朝信「旅の記憶」

1895年、大見謝恒昌が渡米。後に北太平洋鉄道会社に勤める。
1897年11月20日、比嘉統熈、北京丸で横浜出航。12月4日にサンフランシスコ上陸。→1996年4月北加沖縄県人会『沖縄県人サンフランシスコ移住百周年記念誌』

1899年12月、当山久三の斡旋で第一回ハワイ移民。

1901年4月3日、長崎在住の安仁屋政修(琉球新報通信員)渡米。→1903年2月13日『琉球新報』安仁屋政修「アメリカだより」
1902年、湯浅半月(44歳)はアメリカへ図書館事業調査のため旅立った。アメリカではシカゴ大学図書館学校、オルバニー市の図書館学校で貸出の必要性と児童室の必要性を学んだ。1904年、半月は京都府立図書館長に就任。京都府は09年に岡崎公園内に工費15万円を投じ、図書館本館を完成(□→武田五一)。そこには日本最初の児童閲覧室が設けられた。また半月はM・デューイの「十進分類法」を取り入れ「和漢図書分類目録」(美術工芸編、歴史地誌編等10分類全16冊)を刊行した。このときの蔵書は現在、京都府立総合資料館にある。因みに京都府立図書館の一部と、奈良県立図書館(http://www.library.pref.nara.jp/index.html )の建物は移築され今も残っている

1907年9月14日『琉球新報』比嘉統熈「本県人の世界徒歩旅行」

□1952年12月6日『沖縄タイムス』山田有登「50年前の野球ー捕手以外は空手・潟原で最初の米琉試合」
1903年2月25日  アメリカ艦ビッグ・スバーグ号が那覇に寄港、アメリカ水兵と沖縄中学生が潟原で親善野球試合/乗組員が首里城見学の途中、偶然沖縄中学の野球練習を見て、びっくり。翌日、沖縄県を通じて試合の申し込みをした。沖縄中学チームに沖縄野球の父といわれる山田有登選手も参戦、有登によれば「米兵たちは人力車で乗り込んできた。みんな6尺豊かな大男。言葉が通じないので要領を得ず、英語担任の先生が3人がかりでルールの説明を聞き・・・」。沖縄中学チーム対アメリカ水兵の対戦は3日後の28日にも行われた。 

1904年8月、アメリカ人・レブンウォース来沖→1905年『琉球島』刊行。

1905年5月 浦崎康久(浦崎康華の父)移民で渡米するも騙されてメキシコで炭鉱夫。後に脱出しアリゾナ州フェニックスで沖縄人が共同経営する農園に参加していたが1912年11月に腎臓病のため死去。

1905年11月 宮城新昌、アメリカに渡航□1908年ワシントン園芸学校を終えオリンピア牡蠣会社で牡蠣養殖を研究。

1906年、宮古の比嘉財定が第五高等学校を終え東京帝大法科大学に入学した。在学中、柳田國男に出会い、比嘉は柳田に「比嘉村の話」をする。比嘉は10年7月に東京帝大を卒業。農商務省勤務を経て1915年にアメリカ留学。17年にカリフォルニア州立スタリント病院で死去。/小橋川惣吉(小橋川秀男の父)メキシコ炭鉱より逃亡、北米へ(1917年、アリゾナ州フエニックスで秀男誕生)


1984年11月 H・B・シュワルツ著/島津久大、長岡祥三 訳『薩摩国滞在記ー宣教師の見た明治の日本ー』新人物往来社□原書は1908年アメリカで出版。
米国メソジスト監督教会宣教師のH・B・シュワルツが沖縄地区責任者として沖縄・鹿児島間を往復。1907年にシュワルツ一家は那覇区安里に移住する。同年の7月、伊波普猷は那覇区久米の沖縄美以教会で「古宇利島の神話」と題し講演、弟の伊波普成は英文聖書の講義をした。同年12月に本多庸一が来沖すると、伊波普猷は本多の感化を受け禁酒運動に取り組む。

1908年1月の首里小学校での首里禁酒会発足を皮切りに、2月に松山小学校で美山寛一の禁酒演説会、5月にはシュワルツの娘による英語、聖書の研究会もはじまった。1984年に発行された『薩摩国滞在記ー宣教師の見た明治の日本』(新人物往来社)にはシュワルツ一家の写真がある。1908年にバプテストの善隣幼稚園が那覇区に開園した。同年10月には首里メソジスト教会で禁酒会、伊波普猷、佐久原好伝らが演説をする。クリスマス。メソジスト沖縄中央教会で村井牧師のクリスマス祈祷。伊波普猷の新旧聖書朗読、シュワルツ一家のオルガン合奏でクリスマスを祝う。

1909年8月、伊波普猷は3週間にわたって鹿児島、山口、大阪、京都、奈良の図書館を視察する。そこで伊波は財政的規模を奈良図書館に求め、運営に関しては湯浅半月京都図書館長のアドバイスを受けた。1910年5月、伊波の友人、八重山の岩崎卓爾が図書館に新渡戸稲造『英文武士道』など、漢那憲行が薄田泣菫『二十五弦』ほか、浦添朝忠は『資治通鑑』など700冊を寄贈。6月には末吉麦門冬が『俳句の研究』『蜀山人全集』などを寄贈している。かくして琉球学センターとも云うべき沖縄県立沖縄図書館は8月1日、那覇の南陽館で開館式を迎えた。折りしも8月22日は「日韓併合」があった。沖縄図書館の児童書は「中学世界、少女世界、少女之友、少年之友、日本少年、少年、少女、幼年之友、幼年画報」などがあった。

1909年2月28日『沖縄毎日新聞』「合衆国の東洋政策(4)」連載
1909年3月16日『沖縄毎日新聞』「米国石油販売広告ー紐育スタンダード石油会社① 鹿児島米油組合委託販売所/沖縄県下特約販売店・濱田平畩(那覇区字東市場角)、山下分店(那覇区字東町端)、富士丸支店(那覇区字西八十八番地矢野店隣) 」
①紐育スタンダード石油会社1911年にシャーマン法(反トラスト法)違反で解散を命じられ33の独立会社に解体されるまで、アメリカの石油産業を支配していた巨大トラスト。1897年にはニュー・ジャージー州法人の持株会社として再編成された。しかし、1911年、この持株会社もシャーマン法違反として解散を命じられ、ニュー・ジャージー・スタンダード石油(後のエクソン)、ニューヨーク・スタンダード石油(後のモービル)、カリフォルニア・スタンダード石油(後のシェブロン)はじめ33の独立会社に解体された。[佐藤定幸]→コトバンク

1909年3月17日『沖縄毎日新聞』「オペルク氏の沖縄観察談ー私は瑞典(スウェーデン)人でありまして英語で御話する事は随分困難な業ですけれど其英語は私に取っても外国である。また諸君に取っても外国でありますから同じ者同士で暫く御静聴御願いします・・・」

1909年3月19日『沖縄毎日新聞』「燈用石油の話/(略)世界に於ける石油の主産地ー北米合衆国露西亜ガリシア、ルーマニヤ、東印度諸島印度日本などで此の中で最も盛んなのは合衆国及び露国である北米のペンシルバニヤは實に最初に石油業が発達した土地で此地に石油が多いということは・・・・・」

1909年3月23日『沖縄毎日新聞』迂齊「米国便ー来て見れば聞く程もなし富士の山で米国の文明も故国にて思った程に結構なものには無之候愈々真相を知るに従ひ却て感心ならぬ處も多に有之候・・・・」
1909年4月29日『沖縄毎日新聞』「内外新聞記者恊会発起会」
1909年11月、アメリカ人・ウォーナー①来沖。

1991年5月30日『琉球新報』松島弘明「文化ノート/ウォーナー資料を追え」
1996年5月17日『沖縄タイムス』「ワーナー資料沖縄の民芸品 米博物館が保存」
 ①ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881年8月1日 - 1955年6月9日)は、アメリカの美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされるが異論も多い。マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903年ハーバード大学卒業。卒業後ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣された。1910年にロンドンで開催される日本古代美術展の準備をしていた岡倉らを手伝い、3冊の詳細な出品カタログ『日本の寺とその宝物』の英訳に協力した。帰国後東洋美術史を講義、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長を務めるなど、東洋美術の研究をした。1946年、米軍司令部の古美術管理の顧問として来日。朝河貫一とは親交が深く、数々の書簡を交わしたりウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。→ウィキペディア
○日本各地にはウォナー記念碑が6か所もある。最初の法隆寺の碑から、最後はJR鎌倉駅前の碑。


大濱 聡2019-10-7■旧知のノンフィクション作家・下嶋哲朗氏(『琉球新報』で「新・太郎物語 嵐は強い樹を育てる」連載中)が講師とパネリストを務める「比嘉太郎ふるさとシンポジウム」へ。


比嘉太郎さんに、『移民は生きる』の出版祝賀会で「おきなわは沖縄の誇りです」と書いてもらった。


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12/02: 日米誌②

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 1940年1月、在米沖縄県人会『琉球』7号□幸地新政「太平洋の危機と在米同胞ー第一次世界大戦の終わりと共に、来るべき世界制覇の舞台は、周知の如く太平洋に移動したのである。(略)若し、日米間に万一のことがあれば、その直接の発火点は疑いもなく蘭印問題であろう。(略)米国政府は1939年7月26日に日本政府に向かって日米通商航海条約の廃止を通告した。これは日支事変に対する米国の日本への抗議の一形態であり、さらに軍需品禁輸断行の事前工作である。米国にも日米開戦論があると同時に又、日米非戦論即ち日米親善論も決して侮るべからざるものを内包している」


1940年5月 伊藤郷平『外国地理 北米』研究社学生文庫510◇サンフランシスコ/ー油田と映画・果物のロサンゼルス/この地方は又本邦人発展の最後のとどめを打った地で、ロサンゼルスの驚異的な大膨張と共に日本人の進出も著しく、現在では本市を中心に約3万人が活躍している。市内には北米最大の日本人街がつくられ、本願寺も建てられている。

アメリカ合衆国ワシントン州のタコマナローズ海峡に架かるつり橋で、1940年11月7日に強風の共振による影響で崩落しました。(いちらん屋) 

1941年7月、フランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)行政命令でCOI(情報調整局)設置。ウィリアム・ドノバン(アイルランド系)長官→1942年6月、大統領行政命令でCOIが廃止、OSS(戦略事務局)設置。ウィリアム・ドノバン長官
1941年、第二次大戦勃発と同時に、アメリカ政府によって、日系人11万人余は永年住みなれた家を追い立てられるように着のみ着のまま家族と共に僻地に設けられた10ヶ所の収容所に送られた。(アリゾナ州のボストン収容所とギラ収容所、アーカンサス州のジェローム収容所とロワ収容所、ユタ州のトバズ収容所、コロラド州のグラナダ収容所、ワイオミング州のハートマウンテン収容所、アイダホ州のミネドカ収容所、カリフォルニア州のツールレイク収容所とマンザナー収容所)。この日系人の収容にあたってはドイツのユダヤ人検索同様にIBMの機械が活躍した。
□731部隊 - Wikipediaja
初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。 満州に拠点をおいて、防疫給水米軍 (GHQ)との取引 [編集]終戦時に特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。
原子力ー1942年12月2日、最初の自律核連鎖反応ーこれが原子力の鍵であるーが、イリイノ州シカゴのウラニウム炉の中で発生した。これは、人類の幸福のために発展せしめ得る巨大な力の新しい源であった。第二次世界大戦の終結の時、合衆国は、この原子エネルギーの平和的利用に関する計画を国内及び海外において進展させるための方法を研究し始めた。(以下略)


アメリカ軍統治下の「オキナワ」1945年
1945年3月26日 アメリカ軍、慶良間諸島に上陸開始(~28)/島民の「集団自決」あいつぐ
1945年4月1日 アメリカ軍、北谷村嘉手納の渡具知浜に上陸
1945年4月2日 読谷村チビチリガマで住民の「集団自決」おこる。村内数ヶ所でもあいつぐ
1945年4月5日 アメリカ海軍、読谷山村比謝に軍政府樹立。ニミッツ布告を発して軍政に着手した。
1945年4月13日 『台湾新報』「敵米の陣営に蠢くB29の元凶カーチス・ルメー」
1945年4月16日 アメリカ軍、伊江島に上陸。ついで本部半島制圧(~18)
1945年4月22日 『週刊朝日』大仏次郎「沖縄決戦を直視して」
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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
 参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店
1945年7月28日9時49分、濃い霧の中をニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍の中型爆撃機 B-25が、エンパイア・ステート・ビルディング(英: the Empire State Building)内79階の北側に衝突して機体が突入するという事故が起こった。79階で火災が発生し、衝突時の衝撃で機体から脱落したエンジンが破壊したエレベーター扉と同シャフトを経て80階へ延焼したが、約40分後に消火された乗員3名を含む死者14名を出したものの、比較的小型の機体であった上に着陸直前で燃料残量が少なかっことから建物自体への損は比較的少なく、事故後2日で営業を再開している。→ウィキペディア
1945年5月7日 石川に城前初等学校開校 
1945年5月20日 『週刊朝日』親泊朝省「敵の恐怖、わが沖縄特攻隊」
1945年5月26日 南風原の野戦病院、真壁村に移動
1945年5月27日 第三十二軍司令部、首里から津嘉山へ、ついで摩文仁に移動(~30)/『週刊朝日』土屋文明「琉球阿嘉島国民学校生徒の勇戦を讃ふ」
1945年6月23日 沖縄戦終結ー戦没者 一般住民9万4000人、日本軍将兵9万4136人、アメリカ軍将兵1万2281人 計20万417人

1945年9月5日『ウルマ新報』(活字)「ミズリー号で歴史的署名式、劇的に終了」「日本に於いては闇取引が盛ん」」「軍政府に於いては本島民待望の通信事務開始」
1945年9月26日『ウルマ新報』「マッカサー元帥の語る日本の現在と将来」「アメリカ国務長官代理アチソン氏『マッカーサーは単なる管理者で政策決定の権限なし』」「各地区市会議員当選者」
1945年11月11日 東京丸ビルの沖縄県事務所で沖縄人連盟発足
1945年11月21日『ウルマ新報』「米英加の三国首脳 原子エネルギー会談」
1945年12月6日 沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』創刊(編集発行・比嘉春潮)
1945年12月19日『ウルマ新報』「山下泰文大将 死刑の宣告」「糸満市建設着々」
1945年12月26日『ウルマ新報』アメリカ合衆国マリン軍大佐・軍政府副長シー・アイ・マレー「年末の挨拶」
NHKが、2010年8月6日NHKスペシャル『封印された原爆報告書』にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り。字幕:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
ナレーター:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被曝者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。→ウィキ
参考資料ー
1979年2月『戦後沖縄写真記録ーゼロからの時代』那覇出版社/1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社
2012年8月 『オキナワグラフ』「伝単ー翁長良明コレクション(携帯090-3793-8179)」




2001年1月 『マッカーサーの日本占領』世界文化社
マッカーサーの日本 1945年8月ー1951年4月
。1945年8月14日、日本は連合国に対し、ポツダム宣言を受諾した。日本を占領する連合国軍の最高司令官にはダグラス=マッカーサー元帥が任命された。占領行政がスムーズにいったのは、一つにその中枢神経が東京の都心に集中していたからである。もし、占領を司るこれらのセクションがはいる建物がなかったら、占領の性格そのものが大きくかわっていたことであろう。もともと米空軍は都心部の爆撃を避けるよう命令されていた。/ワンマン宰相・吉田茂ー反対者を罵倒するその姿は「ワンマン」の名にふさわしい。ただしそれができたのは、マッカーサーの権威を借りたからである。(袖井林二郎)

○現代に至る日米関係はすべてマッカーサーが作り上げたと云って過言ではない。日本は敗戦国のトラウマを未だに引きずっている。
1946年5月15日、『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版が創刊。
1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。 同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。
石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。 


1947年4月 『現代アメリカ読本 政経篇』コバルト社◇細入藤太郎「新聞」/坂西志保「教育」

 1947年7月に日本社会党の片山哲を首班とする片山内閣が発足したが、片山はクリスチャンであり、マッカーサーはクリスチャン片山の総理大臣就任を喜び「今や東洋の三大強国にキリスト教徒出身の首相、中国の蒋介石、フィリピンのマニュエル・ロハス、日本の片山哲が誕生してことは広く国際的な観点から見ても意義が深い。これは聖なる教えが確実に広まっている証である・・・これは人類の進歩である。」と断言し、片山内閣発足を祝福したが、マッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9ヶ月で瓦解した。マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた。またポケット聖書連盟に要請して、日本語訳の聖書約1,000万冊を日本で無償配布している。→ウイキ

1948年2月 伊波普猷『沖縄歴史物語』「奈翁と英艦長との琉球問答ーセントヘレナに於ける1817年8月13日の昼過ぎー」マカレー東本願寺

1948年夏 比屋根安定(中央)、その左が岩原盛勝


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