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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 首里城火災からひと月も過ぎた。YouTubeでは大量に首里城に関する動画が展開されている。私は首里城は何時でも見られるという感じで5回しか見てなかったので、有難く拝見し琉球文化を再認識した。今のようにネットなどが手軽でない時に、「琉球文化」普及に尽力した琉球文化史研究家・大城精徳の足跡を見る。

沖縄県島尻郡大里村字目取真に父・蒲戸(屋号・大屋3男)の長男として生まれる。

1945年4月3日、観音寺(金武)本殿広場に集合、指揮班の安里源秀教頭から鉄血勤皇隊農林隊の解散の伝達。3か月間にわたる沖縄戦逃避行の末、捕虜になり屋嘉のP・Wキャンプに収容された。→1996年6月『比謝の流れは とこしえにー県立農林四十二期回想録ー』大城精徳「沖縄戦逃避行ーメモランダム」〇1943年 沖縄県立農林学校40期ー新城安善1945年3月/沖縄県立農林学校41期―1渡口彦信/1945 沖縄県立農林学校42期―大城精徳、諸喜田達雄『比謝の流れは とこしえにー県立農林四十二期回想録ー』「わが半世の記」


〇1948年8月『沖縄毎日新聞』創刊。写真中央が宮城邦貞社長、その右が与儀清三編集局長、左が松川久仁男業務局長、後列右端が大城精徳→1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社

大城精徳が書いてくれた『沖縄毎日新聞』メモ


大城精徳、米国留学ニューメキシコ大学に学ぶ。1950年6月 出発前ー前列左から二人目が大城精徳

1950年11月23日 感謝祭 右から二人目が大城精徳
 ニューメキシコ大学〇1889年2月28日に設立され、2019年に130周年を迎えた。ニューメキシコ州最大の研究・教育機関でセメスター制の総合大学。略称は「UNM」。教職員数は約6,900人。学生数は約26,000人。ネイティブ・アメリカンやヒスパニック系の教職員と学生が多い。 アルバカーキ校は、約800エーカーの広大なキャンパス。周辺にはサンディア国立研究所、ロスアラモス国立研究所、そして空軍研究所(カートランドエアフォース)がある。近年は産学連携活動と技術移転活動に力を入れている。地域医療、看護学、原子力工学、写真、多言語・多文化教育、異文化コミュニケーション研究で世界的に知られている。 留学生数は約1,500人。日本の早稲田大学、立教大学、立命館大学、立命館アジア太平洋大学、関西学院大学、京都光華女子大学等と交換留学プログラムがある。 →ウィキ

1952年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師就任
1955年3月 大城精徳、第7回沖展に「静物」出品
1956年 津野創一、首里高等学校卒
1956年3月 大城精徳、第8回沖展に「首里風景」出品

1956年9月1日『琉球新報』

首里高等学校同僚

1957年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師退任
1958年   宮城篤正、首里高等学校卒


1958年12月16日 二科会員・井上賢三を迎えて壺屋の料亭「幸楽」で「二科会沖縄支部」発会式。支部責任者・大城皓也。写真会員ー水島源光、山田實、親泊康哲、名渡山愛誠、島耕爾、備瀬和夫、豊島貞夫、永井博明、八幡政光、当真嗣祥、鹿島義雄。絵画会員ー大城皓也、大城精徳、山里昌弘、塩田春雄、大城栄誠、金城俊、榎本正治、友利寛、下地寛清、水田虎雄、安仁屋政栄、松川剛、浦添健、具志堅誓雄

1959年、大城精徳、琉球政府博物館に学芸員として勤務(主事補・1959年~1968年/学芸課(美術)1969年~1971年)

左端が大城精徳/左から2人目が大城精徳 1996年 『沖縄県立博物館50年史』


1957年9月 「招待美術展」タイムスホール /1958年10月 第2回 「招待美術展」タイムスホール


1959年5月『今日の琉球』大城精徳「琉米親善」/10月 名渡山愛順「風景」




1960年5月25日スミソニアンへ送る文化財選定委員会-政府会議室 




第1回 美緑会展 /1962年12月 「琉球美術展」琉米文化会館


1963年6月『家庭公論』第2号 大城精徳「馬と沼」


大城精徳・表紙絵 1964年2月『今日の琉球』76号「赤えんどうの花」/1961年10月『今日の琉球』48号「真昼の屋良ムルチー」

1965年10月~12月『今日の琉球』大城精徳「アメリカの博物館と美術館」

スミソニアン博物館のフランクA・テーラー館長に琉球絣を贈る琉球政府立博物館の大城精徳(右)、左が八重山琉米文化会館の長田信一、中央が文化人類学課のユージン・ネズ博士
○去る5月16日から8月14日の3か月間、米民政府派遣の技術研修員として、アメリカ各地の博物館や美術館などを八重山琉米文化会館館長の長田信一氏とともに視察してきた。(略)アメリカの博物館は1930年代から急速な発展を遂げ、現在では大小合わせて、全米で4千館近くもあるといわれている。これは、現在のアメリカの人口約2億人とみて、約5万人に一つの博物館という割り合いになる。この中には美術館はもちろん児童博物館や大学付属博物館、それに記念館などが含まれている。というのはアメリカでは資料を所蔵し、その調査、展示および普及教育を行っている施設は、その固有の名称がどうであれ”Ⅿuseum〟と考えられているからである。

1970年7月ー『ヤチムン研究会誌』創刊号□事務局・那覇市首里大中町1の1琉球政府立博物館内

1971年
8月ー『ヤチムン会誌』第2号□事務局・琉球政府立博物館内

1972年
3月ー『琉球の文化』<特集・琉球の焼物>創刊

8月ー『ヤチムン会誌』第3号□編集責任・宮城篤正(沖縄県立博物館)
10月ー大城精徳、宮城篤正『琉球の古陶ー古我知焼』琉球文化社



1976年3月 山口栄鉄『チェンバレン 日琉語比較文典』琉球文化社 1976年5月 山口栄鉄『王堂チェンバレンーその琉球研究の記録ー』琉球文化社/写真・1978年8月ー那覇市一銀通りの琉球書院(琉球文化社)と青い海出版社の看板が見える。

1979年11月『新沖縄文学』43号 大城精徳「工芸のありかたを探るー沖縄工芸界のゆくえ」

1982年1月10日 「新生美術協会」発足(大嶺政寛会長)

1982年9月『新生美術』創刊号 事務局・沖縄県那覇市牧志1-12-6 琉球文化社

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Posted by: ryubun02


2019年12月10日 那覇市民ギャラリー「写遊沖縄写真展」左が小谷武彦氏、宮城保茂氏(沖縄県立博物館友の会)


戸澤 裕司12-10 今日は山田淳巳さんの参加するグループ展にお邪魔しました。大変美味しい八重山料理を堪能し、素晴らしい写真と共によい夜を過ごせました。お近くにお越しの際は是非お立ち寄りください。
「祈りの海 願いの祭 写真展」【 豊里友行・山田淳巳・Juncot∞ 】【場所】てるりん館 東京(八重山そば みやら製麺 2F)東京都台東区上野1-2-8【日時】2019年12月7日(土)〜8日(日)・14日(土)〜15日(日)、12:00〜19:00・入場無料 開催期間中、1F みやら製麺は、土曜日11:30〜15:00・18:00〜22:00、日曜日11:30〜19:00 営業。美味しい自家製麺の八重山そばを食べに行きがてら、お気軽にお越しください。展示作品の販売も行います。


2019年12月8日 那覇市民ギャラリー「第8回あけもどろ総合文化祭 美術工芸展」/岸本作品「蒼然」をはさんで岸本徹也氏、宮里旭氏


宮里旭氏と作品「盛夏の識名園」



小橋川肇 作品

  
 フリーペーパー「夕焼けアパート」の写真展が12月3~8日、那覇市の県立博物館・美術館県民ギャラリー3で開催される。同誌で文章と写真を担当する、たまきまさみさん(国立劇場おきなわ企画制作課)が撮影した地域の祭祀(さいし)やなくなってしまった風景の写真など誌面未掲載のものを中心に56点展示する予定だ。→『沖縄タイムス』
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 2019年も後わずか。組踊上演300周年でもあったが、その舞台の首里城が焼けてしまった。首里城大火を暗示するかのように、今年の1月には国梓としひで『太陽を染める城』「(1)城が燃えている」、3月は与並岳生戯曲集2『火城』「首里城炎上、大飢饉・・・・・未曾有の国難を越えて、新生琉球の気概を示す国劇は、こうして誕生した!」が出されていた。なお、与並氏は琉球新報12月発行の『蘇れ!首里城』も編集している。

1929年10月に東京の春陽堂から発行された『校註琉球戯曲集』には末吉安恭(莫夢生)の「組踊談叢」「組踊小言」が収録されていることは夙に知られている。この組踊談の初出は1924年の11月3日『沖縄タイムス』からである。
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莫夢生「組踊談叢」「組踊小言」ー沖縄タイムス紙上では「組踊小言」は11月21日まで連載された。末吉は25日には水死している。おそらくまた題を変え組踊談を述べるつもりであっただろう。
〇1924年11月4日の「組踊談叢」に麦門冬は「今は故人となった書家の仲田朝棟」とあるが、これは朝株である。1907年4月の『琉球新報』に本県書家の1人として仲田朝株とある。仲田は首里区会議員(1896年~1910年)も務めた。1912年2月の新聞の死亡広告に友人として伊江朝助の名もある。朝助は戦後の1953年7月大阪『球陽新報』に七流老人名で「狂歌のやりとりー男色で有名な仲田朝株・・・」を書いている。

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Posted by: ryubun02

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1月1日  『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖(1)」
○古手帖ー冬篭り独り凡に侍つかかつて渋茶に咽を濕し乍暮るる●の早きを惜しみフト垢擦れた古手帖の眼につくままに抽き出して彼処此処拾ひ読みをして見ると僕も随分物数奇であったと見えて能くもこんな色んな物を書き取ったもんだ。此等はいづれ雑書類を繙読してその当時は少なくとも興味を以てしたもんだから今から見ると余りドットしないけれど紙屑買に渡す気でこう原稿紙の四角い物に入れて見ようといふ気になる。右は蜀山人の仮名世説にある大平の逸民の状態はこんなものであった。この超波①は作家として左程●い物ではなかったろうが兎に角、蕪村七部集②にも出ている「五車反古」に載っているのは下の四句だ、早乙女や先づひいやりと庭の先/祇園会や胡瓜花さく所まで/我屋根をはつれてゆかし天川・・・
①清水超波 しみず-ちょうは
1702-1740 江戸時代中期の俳人。
元禄(げんろく)15年生まれ。江戸の人。味噌(みそ)商だったが,家業をきらい,桑岡貞佐(ていさ)の門人となる。のち点者となり,独歩庵超波を名のった。元文5年7月27日死去。39歳。通称は長兵衛。初号は長巴。編著に「紙蚕(かみかいこ)」「落葉合(おちばあわせ)」など。→コトバンク
②蕪村七部集ぶそんしちぶしゅう
江戸時代後期の俳諧撰集。菊屋太兵衛らの編。文化5 (1808) 年刊。与謝蕪村関係の代表的俳書『其雪影』『明烏』『一夜四歌仙』『花鳥編』『続一夜四歌仙』『桃李 (ももすもも) 』『続明烏』『五車反古』の8部を収めたもの。

1月7日  『沖縄毎日新聞』安元碧海「沖縄の人物地理」 



1月10日 『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖ー緑雨の『おぼへ帳』に・・・」   

1939年8月 斎藤緑雨『あられ酒』岩波文庫/1991年7月 斎藤緑雨(編・中野三敏)『緑雨警語』冨山房百科文庫

 
1957年12月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書7』「尾崎紅葉 落合直文 齋藤緑雨 原抱一庵 小泉八雲」昭和女子大学光葉会




1923年12月  『沖縄教育』末吉麦門冬「俳句ひかへ帳ー言葉の穿鑿」
俳句に出づる故事、物名、人名や地名には随分読む人を困らすのがある。私もそれに困った一人なので、そういう句に出会す時は、必ず手ひかへに留めて置いた。而して読書の際偶その出所を発見したり、解釈を得たりする時は、又別のひかへ帳に立てて置いた。それが積もって漸く一つの物に纏ったので、我と同じからん人の為めにと本誌に投した次第である。・・・公達に狐化けたり宵の春  蕪村ー狐が化けると云うことは普通に誰も知っていることだが、これも支那から来た話ではなかろうか。西陽雑爼①に「野狐一名は紫夜、尾を撃って火を出す、将に怪を為さんとするや必ず髑髏を戴いて、堕せすんば則ち化して人となる」と。又、五雑爼②に「狐千歳にして始めて天と通ず、魅を為さす。其の人を魅する者は多く人の精気を取りて以て内丹を成せばなり。然らば則ち其の婦人を魅せざるは何ぞや。曰く狐は陰類也、陽を得れば乃ち成る故に牡狐と雖必ず之れを女に托して以て男子を惑はす也。然れども大害を為さす、故に北方の人は之れを習はす」と。
 支那では男に化けぬことになっているが日本ではこの句にあるように美男に化けて女を惑はすやうなこともあると信じられているやうだ。蕪村には狐の句が多い。「春の夜や狐の誘ふ上童」「狐火やいづこ河内の麦畑」「狐火や五助畑の麦の雨」「石を打つ狐守る夜のきぬた哉」「小狐の何にむせけん小荻原」「蘭夕、狐のくれし奇楠を烓かむ」等がある。彼が狐に興味をもっていたことが其の句の多いので知られる。此の句は敦盛卿のやうな美しい公達に狐が化けたと云ふので、それがいかにも春の宵のあやしき心持に調和した美をなすのである。かうした美しい怪物のあらはれるのも春の宵でなければならぬやうな気がする。狐忠信の舞台も春であるからこそ榮えるのである。
①名の「酉陽」は、湖南省にある小酉山の麓に、書1,000巻を秘蔵した穴が存在するという伝承に則っている。内容は、神仙や仏菩薩、人鬼より、怪奇な事件や事物、風俗、さらには動植物に及ぶ諸事万般にわたって、異事を記しており、中国の小説あるいは随筆中においてその広範さは一、二を争う。魯迅の愛読書であり、南方熊楠が、プリニウスの『博物誌』と名を比した書としても知られる。→ウィキペディア
②中国,明の随筆。謝肇せい (しゃちょうせい) の著。 16巻。全体を天,地,人,物,事の5部に分け,広く自然現象,社会現象の全般にわたって,その見聞,意見を記したもの。その観点は合理的な傾向をもち,当時の社会の矛盾を鋭く描く部分もあり,貴重な資料となっている。テキストの伝世に関しては、不明な点が多く、後集10巻の中には、明代の遺文を蒐集した部分が少なからず含まれるとされる。→コトバンク

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12/04: 日米誌①

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 1849年に始まる”ゴールドラッ シュ”に唯一、日本人として足 跡を残したのはジョン万次郎 だといわれる。1841年、14歳の とき漁に出て足摺岬沖で漂流、 鳥島に漂着し、幸運にも米捕鯨 船に救出されその後、捕鯨船長 他の庇護もありアメリカ暮らしと なる。当時は鎖国政策のため、 うかつに本国に戻れなかった時 代だ。望郷の念、止みがたく、帰国 に必要な資金を稼ぎ出すため ゴールドラッシュの噂を耳にし た万次郎はカリフォルニアを目 指した。金鉱で働き二カ月余り で600ドル(当時)の金を得て 1 8 5 2 年 に 首 尾 よく 帰 国 を 果 た す 。
  アメ リ カ 移 民 の日 本 女 性 第 1 号ー 同じころの日本、1868年秋、 会津藩が薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍に攻め入られ 鶴ヶ城が陥落した。翌年の春、会津に見切りをつけ、新天地カリフォルニアに渡った藩の一団があっ た。当時、会津藩に使えていたオランダ国籍のヘンリー・シュネル という人物が、農園をつくるため カリフォルニアに土地を購入「Wakamatsu Tea & Silk Farm Colony」と名付け、養蚕やお茶な どの栽培を計画したのだ。藩士と 家族37名が、開拓団に加わった。 長らく知られていなかったが、こ の一団にシュネルとその子どもの 世話係として加わった”おけい”と呼ばれる少女がいた。横浜から米船籍のチャイナ号という船に乗った 一行は、サンフランシスコに到着。 そこからは蒸気船でサクラメント 川を遡り、さらに荷馬車でゴールド ラッシュに沸くコロマ村のゴールド ヒルという原野に落ち着いた。天候 不順(干ばつ)や資金不足から、わずか2年でこの事業は失敗し解体に至る。一説には鉱山作業の影響 で近くの水源が「鉄分と硫黄」に 汚染されていたためともいわれる。
 若松コロニーの存在の風化とともに人々の記憶から遠ざかる。コ ロニーも消滅して40年余が過ぎ た1915年(大正4年)の初夏、現地で農園を経営する日本人と邦字新聞「日米新聞」の記者によって, この墓が発見される。最初はなぜこんなところに19歳 の日本人女性の墓があるのか分か らなかったが、近くに住むビーアカ ンプ家を訪ねたところ、そこでおけいの存在と若松コロニーのことを知る。コロニーがなくなった後、おけいはこのビーアカンプ家に引き 取られ働き、同じように引き取られた日本人の桜井松之助らが、おけいのために現地に墓を建てたこ ともわかった。翌年、日系新聞の記 事が掲載され、大きな反響を呼び 世間の知るところとなった。訪れる人もいない墓には、「OKEI」と刻まれていた。「In Memory of OKEI Died 1871, Aged19 years, (A Japanese Girl)おけいの墓 行年一九才」。 2014年 12月、友人とコロマを訪ねた折におけいの墓のある ゴールドヒルに立ち寄った。 コロマから南に8キロほどか。
 
関連右〇おけいは、会津藩軍事顧問のプロシア人、ヘンリー・スネル家の子守役でした。戊辰戦争後、スネルをリーダーとする会津藩士らとともにカリフォルニアに入植しましたが、開拓に失敗、移民団は離散してしまいました。残されたおけいは、アメリカ人に引き取られましたが、熱病にかかり、19歳の短い生涯を終えました。カリフォルニア州ゴールドヒルと同様の墓が背あぶり山にたてられています。 →会津若松観光ナビ

 ゴールドラッシュ時代、数多い絞首刑が行われたので、「ハングタ ウン」とも呼ばれるプラサビルへ の途中の田園地帯だ。移民団入植 から100周年を迎えた1969年には、 当時カリフォルニア州知事だった ロナルド・レーガンが若松コロ ニーの跡地をカリフォルニア州の歴史史跡に指定。同年、ゴールド・ トレイル小学校に隣接する敷地に 「日本移民百周年記念碑」が建立された。カリフォルニア州エルドラ ド郡の小学4年生は読書プログラ ムの一環で、日本からカリフォルニ アに来たおけいの生涯を伝える本 「Okei-san: A Girl’s Journey, Japan to California, 1868-1871」を読むという。 記念碑を訪ねた後、すぐ先のゴー ルドヒルに向かった。入口には倉庫 と思しき大きな木造の家があり、 Okeiに因んだフェスティバル開催 のポスターがあちこちに貼られてい た。30代ぐらいの青年と行きあっ たので”地元の方か?”と聞くと” ここに土地を借りて住んでいるが、 特段おけいとのつながりでここに いるわけではない”とのことだった。 さぁ、だいぶ先に見える丘の上まで30分とみて頂上に向かった。途中、ぬかるみや藪道もあったがのんびり歩き進むうちに丘の上についた。
  丘の上にある大木は、元は150年前 に、若松コロニー開拓団が日本から 持参し植えたケヤキの苗木が育っ たものだという。西に向かって遥か 先にサンフランシスコ湾、太平洋を 挟んでその向こうが会津だ。サン フランシスコ湾まで200-300キロか。 晴れていれば海を望めるだろう。 おけいはビーアカンプ家に世話に なっていた時にもこの丘の上まで 足を運んだ。ひとしきり登り道を歩 いて汗をかいた。四方を見渡して 150年前も今もこのあたりの風景は あまり変っていないのかも知れな いと思った。 補遺;2019-6-19日本から最初 にアメリカ本土に入植した移民団 がカリフォルニア州北部ゴールド ヒルにアメリカ本土初の日本人入 植地「若松コロニー」を形成してから8日で150年を迎えた。同日、跡地では記念式典が行われ、日米にいる移民団の末裔や関係者らが 出席。会津松平家の末裔も日本から訪れた。→『鍍金の世界』2019年11月号 屋良朝信「旅の記憶」

1895年、大見謝恒昌が渡米。後に北太平洋鉄道会社に勤める。
1897年11月20日、比嘉統熈、北京丸で横浜出航。12月4日にサンフランシスコ上陸。→1996年4月北加沖縄県人会『沖縄県人サンフランシスコ移住百周年記念誌』

1899年12月、当山久三の斡旋で第一回ハワイ移民。

1901年4月3日、長崎在住の安仁屋政修(琉球新報通信員)渡米。→1903年2月13日『琉球新報』安仁屋政修「アメリカだより」
1902年、湯浅半月(44歳)はアメリカへ図書館事業調査のため旅立った。アメリカではシカゴ大学図書館学校、オルバニー市の図書館学校で貸出の必要性と児童室の必要性を学んだ。1904年、半月は京都府立図書館長に就任。京都府は09年に岡崎公園内に工費15万円を投じ、図書館本館を完成(□→武田五一)。そこには日本最初の児童閲覧室が設けられた。また半月はM・デューイの「十進分類法」を取り入れ「和漢図書分類目録」(美術工芸編、歴史地誌編等10分類全16冊)を刊行した。このときの蔵書は現在、京都府立総合資料館にある。因みに京都府立図書館の一部と、奈良県立図書館(http://www.library.pref.nara.jp/index.html )の建物は移築され今も残っている

1907年9月14日『琉球新報』比嘉統熈「本県人の世界徒歩旅行」

□1952年12月6日『沖縄タイムス』山田有登「50年前の野球ー捕手以外は空手・潟原で最初の米琉試合」
1903年2月25日  アメリカ艦ビッグ・スバーグ号が那覇に寄港、アメリカ水兵と沖縄中学生が潟原で親善野球試合/乗組員が首里城見学の途中、偶然沖縄中学の野球練習を見て、びっくり。翌日、沖縄県を通じて試合の申し込みをした。沖縄中学チームに沖縄野球の父といわれる山田有登選手も参戦、有登によれば「米兵たちは人力車で乗り込んできた。みんな6尺豊かな大男。言葉が通じないので要領を得ず、英語担任の先生が3人がかりでルールの説明を聞き・・・」。沖縄中学チーム対アメリカ水兵の対戦は3日後の28日にも行われた。 

1904年8月、アメリカ人・レブンウォース来沖→1905年『琉球島』刊行。

1905年5月 浦崎康久(浦崎康華の父)移民で渡米するも騙されてメキシコで炭鉱夫。後に脱出しアリゾナ州フェニックスで沖縄人が共同経営する農園に参加していたが1912年11月に腎臓病のため死去。

1905年11月 宮城新昌、アメリカに渡航□1908年ワシントン園芸学校を終えオリンピア牡蠣会社で牡蠣養殖を研究。

1906年、宮古の比嘉財定が第五高等学校を終え東京帝大法科大学に入学した。在学中、柳田國男に出会い、比嘉は柳田に「比嘉村の話」をする。比嘉は10年7月に東京帝大を卒業。農商務省勤務を経て1915年にアメリカ留学。17年にカリフォルニア州立スタリント病院で死去。/小橋川惣吉(小橋川秀男の父)メキシコ炭鉱より逃亡、北米へ(1917年、アリゾナ州フエニックスで秀男誕生)


1984年11月 H・B・シュワルツ著/島津久大、長岡祥三 訳『薩摩国滞在記ー宣教師の見た明治の日本ー』新人物往来社□原書は1908年アメリカで出版。
米国メソジスト監督教会宣教師のH・B・シュワルツが沖縄地区責任者として沖縄・鹿児島間を往復。1907年にシュワルツ一家は那覇区安里に移住する。同年の7月、伊波普猷は那覇区久米の沖縄美以教会で「古宇利島の神話」と題し講演、弟の伊波普成は英文聖書の講義をした。同年12月に本多庸一が来沖すると、伊波普猷は本多の感化を受け禁酒運動に取り組む。

1908年1月の首里小学校での首里禁酒会発足を皮切りに、2月に松山小学校で美山寛一の禁酒演説会、5月にはシュワルツの娘による英語、聖書の研究会もはじまった。1984年に発行された『薩摩国滞在記ー宣教師の見た明治の日本』(新人物往来社)にはシュワルツ一家の写真がある。1908年にバプテストの善隣幼稚園が那覇区に開園した。同年10月には首里メソジスト教会で禁酒会、伊波普猷、佐久原好伝らが演説をする。クリスマス。メソジスト沖縄中央教会で村井牧師のクリスマス祈祷。伊波普猷の新旧聖書朗読、シュワルツ一家のオルガン合奏でクリスマスを祝う。

1909年8月、伊波普猷は3週間にわたって鹿児島、山口、大阪、京都、奈良の図書館を視察する。そこで伊波は財政的規模を奈良図書館に求め、運営に関しては湯浅半月京都図書館長のアドバイスを受けた。1910年5月、伊波の友人、八重山の岩崎卓爾が図書館に新渡戸稲造『英文武士道』など、漢那憲行が薄田泣菫『二十五弦』ほか、浦添朝忠は『資治通鑑』など700冊を寄贈。6月には末吉麦門冬が『俳句の研究』『蜀山人全集』などを寄贈している。かくして琉球学センターとも云うべき沖縄県立沖縄図書館は8月1日、那覇の南陽館で開館式を迎えた。折りしも8月22日は「日韓併合」があった。沖縄図書館の児童書は「中学世界、少女世界、少女之友、少年之友、日本少年、少年、少女、幼年之友、幼年画報」などがあった。

1909年2月28日『沖縄毎日新聞』「合衆国の東洋政策(4)」連載
1909年3月16日『沖縄毎日新聞』「米国石油販売広告ー紐育スタンダード石油会社① 鹿児島米油組合委託販売所/沖縄県下特約販売店・濱田平畩(那覇区字東市場角)、山下分店(那覇区字東町端)、富士丸支店(那覇区字西八十八番地矢野店隣) 」
①紐育スタンダード石油会社1911年にシャーマン法(反トラスト法)違反で解散を命じられ33の独立会社に解体されるまで、アメリカの石油産業を支配していた巨大トラスト。1897年にはニュー・ジャージー州法人の持株会社として再編成された。しかし、1911年、この持株会社もシャーマン法違反として解散を命じられ、ニュー・ジャージー・スタンダード石油(後のエクソン)、ニューヨーク・スタンダード石油(後のモービル)、カリフォルニア・スタンダード石油(後のシェブロン)はじめ33の独立会社に解体された。[佐藤定幸]→コトバンク

1909年3月17日『沖縄毎日新聞』「オペルク氏の沖縄観察談ー私は瑞典(スウェーデン)人でありまして英語で御話する事は随分困難な業ですけれど其英語は私に取っても外国である。また諸君に取っても外国でありますから同じ者同士で暫く御静聴御願いします・・・」

1909年3月19日『沖縄毎日新聞』「燈用石油の話/(略)世界に於ける石油の主産地ー北米合衆国露西亜ガリシア、ルーマニヤ、東印度諸島印度日本などで此の中で最も盛んなのは合衆国及び露国である北米のペンシルバニヤは實に最初に石油業が発達した土地で此地に石油が多いということは・・・・・」

1909年3月23日『沖縄毎日新聞』迂齊「米国便ー来て見れば聞く程もなし富士の山で米国の文明も故国にて思った程に結構なものには無之候愈々真相を知るに従ひ却て感心ならぬ處も多に有之候・・・・」
1909年4月29日『沖縄毎日新聞』「内外新聞記者恊会発起会」
1909年11月、アメリカ人・ウォーナー①来沖。

1991年5月30日『琉球新報』松島弘明「文化ノート/ウォーナー資料を追え」
1996年5月17日『沖縄タイムス』「ワーナー資料沖縄の民芸品 米博物館が保存」
 ①ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881年8月1日 - 1955年6月9日)は、アメリカの美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされるが異論も多い。マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903年ハーバード大学卒業。卒業後ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣された。1910年にロンドンで開催される日本古代美術展の準備をしていた岡倉らを手伝い、3冊の詳細な出品カタログ『日本の寺とその宝物』の英訳に協力した。帰国後東洋美術史を講義、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長を務めるなど、東洋美術の研究をした。1946年、米軍司令部の古美術管理の顧問として来日。朝河貫一とは親交が深く、数々の書簡を交わしたりウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。→ウィキペディア
○日本各地にはウォナー記念碑が6か所もある。最初の法隆寺の碑から、最後はJR鎌倉駅前の碑。


大濱 聡2019-10-7■旧知のノンフィクション作家・下嶋哲朗氏(『琉球新報』で「新・太郎物語 嵐は強い樹を育てる」連載中)が講師とパネリストを務める「比嘉太郎ふるさとシンポジウム」へ。


比嘉太郎さんに、『移民は生きる』の出版祝賀会で「おきなわは沖縄の誇りです」と書いてもらった。


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12/02: 日米誌②

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Posted by: ryubun02
 1940年1月、在米沖縄県人会『琉球』7号□幸地新政「太平洋の危機と在米同胞ー第一次世界大戦の終わりと共に、来るべき世界制覇の舞台は、周知の如く太平洋に移動したのである。(略)若し、日米間に万一のことがあれば、その直接の発火点は疑いもなく蘭印問題であろう。(略)米国政府は1939年7月26日に日本政府に向かって日米通商航海条約の廃止を通告した。これは日支事変に対する米国の日本への抗議の一形態であり、さらに軍需品禁輸断行の事前工作である。米国にも日米開戦論があると同時に又、日米非戦論即ち日米親善論も決して侮るべからざるものを内包している」

アメリカ合衆国ワシントン州のタコマナローズ海峡に架かるつり橋で、1940年11月7日に強風の共振による影響で崩落しました。(いちらん屋) 

1941年7月、フランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)行政命令でCOI(情報調整局)設置。ウィリアム・ドノバン(アイルランド系)長官→1942年6月、大統領行政命令でCOIが廃止、OSS(戦略事務局)設置。ウィリアム・ドノバン長官
1941年、第二次大戦勃発と同時に、アメリカ政府によって、日系人11万人余は永年住みなれた家を追い立てられるように着のみ着のまま家族と共に僻地に設けられた10ヶ所の収容所に送られた。(アリゾナ州のボストン収容所とギラ収容所、アーカンサス州のジェローム収容所とロワ収容所、ユタ州のトバズ収容所、コロラド州のグラナダ収容所、ワイオミング州のハートマウンテン収容所、アイダホ州のミネドカ収容所、カリフォルニア州のツールレイク収容所とマンザナー収容所)。この日系人の収容にあたってはドイツのユダヤ人検索同様にIBMの機械が活躍した。
□731部隊 - Wikipediaja
初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。 満州に拠点をおいて、防疫給水米軍 (GHQ)との取引 [編集]終戦時に特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。
原子力ー1942年12月2日、最初の自律核連鎖反応ーこれが原子力の鍵であるーが、イリイノ州シカゴのウラニウム炉の中で発生した。これは、人類の幸福のために発展せしめ得る巨大な力の新しい源であった。第二次世界大戦の終結の時、合衆国は、この原子エネルギーの平和的利用に関する計画を国内及び海外において進展させるための方法を研究し始めた。(以下略)


アメリカ軍統治下の「オキナワ」1945年
1945年3月26日 アメリカ軍、慶良間諸島に上陸開始(~28)/島民の「集団自決」あいつぐ
1945年4月1日 アメリカ軍、北谷村嘉手納の渡具知浜に上陸
1945年4月2日 読谷村チビチリガマで住民の「集団自決」おこる。村内数ヶ所でもあいつぐ
1945年4月5日 アメリカ海軍、読谷山村比謝に軍政府樹立。ニミッツ布告を発して軍政に着手した。
1945年4月13日 『台湾新報』「敵米の陣営に蠢くB29の元凶カーチス・ルメー」
1945年4月16日 アメリカ軍、伊江島に上陸。ついで本部半島制圧(~18)
1945年4月22日 『週刊朝日』大仏次郎「沖縄決戦を直視して」
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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
 参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店
1945年7月28日9時49分、濃い霧の中をニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍の中型爆撃機 B-25が、エンパイア・ステート・ビルディング(英: the Empire State Building)内79階の北側に衝突して機体が突入するという事故が起こった。79階で火災が発生し、衝突時の衝撃で機体から脱落したエンジンが破壊したエレベーター扉と同シャフトを経て80階へ延焼したが、約40分後に消火された乗員3名を含む死者14名を出したものの、比較的小型の機体であった上に着陸直前で燃料残量が少なかっことから建物自体への損は比較的少なく、事故後2日で営業を再開している。→ウィキペディア
1945年5月7日 石川に城前初等学校開校 
1945年5月20日 『週刊朝日』親泊朝省「敵の恐怖、わが沖縄特攻隊」
1945年5月26日 南風原の野戦病院、真壁村に移動
1945年5月27日 第三十二軍司令部、首里から津嘉山へ、ついで摩文仁に移動(~30)/『週刊朝日』土屋文明「琉球阿嘉島国民学校生徒の勇戦を讃ふ」
1945年6月23日 沖縄戦終結ー戦没者 一般住民9万4000人、日本軍将兵9万4136人、アメリカ軍将兵1万2281人 計20万417人

1945年9月5日『ウルマ新報』(活字)「ミズリー号で歴史的署名式、劇的に終了」「日本に於いては闇取引が盛ん」」「軍政府に於いては本島民待望の通信事務開始」
1945年9月26日『ウルマ新報』「マッカサー元帥の語る日本の現在と将来」「アメリカ国務長官代理アチソン氏『マッカーサーは単なる管理者で政策決定の権限なし』」「各地区市会議員当選者」
1945年11月11日 東京丸ビルの沖縄県事務所で沖縄人連盟発足
1945年11月21日『ウルマ新報』「米英加の三国首脳 原子エネルギー会談」
1945年12月6日 沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』創刊(編集発行・比嘉春潮)
1945年12月19日『ウルマ新報』「山下泰文大将 死刑の宣告」「糸満市建設着々」
1945年12月26日『ウルマ新報』アメリカ合衆国マリン軍大佐・軍政府副長シー・アイ・マレー「年末の挨拶」
NHKが、2010年8月6日NHKスペシャル『封印された原爆報告書』にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り。字幕:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
ナレーター:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被曝者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。→ウィキ
参考資料ー
1979年2月『戦後沖縄写真記録ーゼロからの時代』那覇出版社/1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社
2012年8月 『オキナワグラフ』「伝単ー翁長良明コレクション(携帯090-3793-8179)」




2001年1月 『マッカーサーの日本占領』世界文化社
マッカーサーの日本 1945年8月ー1951年4月
。1945年8月14日、日本は連合国に対し、ポツダム宣言を受諾した。日本を占領する連合国軍の最高司令官にはダグラス=マッカーサー元帥が任命された。占領行政がスムーズにいったのは、一つにその中枢神経が東京の都心に集中していたからである。もし、占領を司るこれらのセクションがはいる建物がなかったら、占領の性格そのものが大きくかわっていたことであろう。もともと米空軍は都心部の爆撃を避けるよう命令されていた。/ワンマン宰相・吉田茂ー反対者を罵倒するその姿は「ワンマン」の名にふさわしい。ただしそれができたのは、マッカーサーの権威を借りたからである。(袖井林二郎)

○現代に至る日米関係はすべてマッカーサーが作り上げたと云って過言ではない。日本は敗戦国のトラウマを未だに引きずっている。
1946年5月15日、『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版が創刊。
1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。 同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。
石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。 
1947年7月に日本社会党の片山哲を首班とする片山内閣が発足したが、片山はクリスチャンであり、マッカーサーはクリスチャン片山の総理大臣就任を喜び「今や東洋の三大強国にキリスト教徒出身の首相、中国の蒋介石、フィリピンのマニュエル・ロハス、日本の片山哲が誕生してことは広く国際的な観点から見ても意義が深い。これは聖なる教えが確実に広まっている証である・・・これは人類の進歩である。」と断言し、片山内閣発足を祝福したが、マッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9ヶ月で瓦解した。
 マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた。またポケット聖書連盟に要請して、日本語訳の聖書約1,000万冊を日本で無償配布している。→ウイキ
1948年2月 伊波普猷『沖縄歴史物語』「奈翁と英艦長との琉球問答ーセントヘレナに於ける1817年8月13日の昼過ぎー」マカレー東本願寺

1948年夏 比屋根安定(中央)、その左が岩原盛勝


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Posted by: ryubun02
 「くろねこの短語」2019年12月11日ー自民党の元農水大臣が金の恨みで銃撃されたってんだが、あいつだったらよかったのにと一瞬悪魔が囁いたのだった。ま、誰とは言いませんけど。
 そんなことより、またしても素っ頓狂な閣議決定だ。なんと、反社会勢力について、「その時々の社会情勢に応じて変化し得るものであり、限定的・統一的な定義は困難だ」とさ。「桜を見る界」に反社会勢力が参加していたことが発覚して、顔も頭も貧相な官房長官・ガースが「定義が一義的に定まっているわけではない」と苦し紛れに言い訳したことを補填するためなのだろうが、ホント、好き勝手やってくれるものだ。
 そもそも、反社会勢力については、第一次安倍政権の2007年に、「暴力、威力と詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する集団または個人」と定義されているんだね。法務省のホームページには、「企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針について」と題して、反社会勢力について詳しく解説されている。この閣議決定で喜ぶのは反社会勢力そのものなんだね。いまどきは金融機関で口座ひとつ作るにしても反社会勢力との関係の有無を聞かれる。でも、「定義は困難」って政府が言ってるんだから、虚偽申告したってそれを理由に解約することはできなくなるんじゃないのか。
 この閣議決定は社会規範そのものを揺るがすことになりますよ。「朝令暮改」という言葉があるけど、自己正当化のためなら前言を翻すことを屁とも思わないペテン政権の体質は、それだけで十分に「国難」に値するだろう。こうなると、吉本芸人が反社会勢力との関係で謹慎させられたのは、何だったんだってことになるんじゃないのか。どうでもいいけど。
 でもって、事の始まりの「桜を見る会」疑惑なんだが、初老の小学生・ペテン総理の後援会主催による「前夜祭」の明細書についての野党の調査に対して、ホテルニューオータニが「一般論として会合などの明細書や領収書は7年間保管しており、主催者から要請があれば再発行は可能」と説明したってね。こうなったら、安倍晋三後援会に明細書の再発行を要請してもらおうじゃないの。そうすれば、初老の小学生・ペテン総理の政治式か規正法&公職選挙法違反疑惑もクリアになるだろうから。 さらに、「騙された方が悪い」の消費者担当大臣・衛藤君についても、マルチ商法「ジャパンライフ」からお中元を貰ってたことが発覚。ズブズブの関係がバレちゃいました。ようするに、「桜を見る会」疑惑に「幕引き」もなければ、「逃げ切り」もできないってことだ。ちょいと、ワクワクする師走の朝である。

 ℍ・B12-10ー検察とか国税庁とか動かないのか腐ってると思うんだけど。トップはお友達で固められているんだろうね。信用できないよね。何しろ「反社会的勢力」の定義まで書き換え可能な内閣だから。反社会的勢力の定義をしたら、身内を後ろから刺す事になるんだから、出来ないね。

 「朝日新聞」12-10 来夏の東京五輪・パラリンピックで子どもたちに割り当てられる観戦チケットについて、東京都内53区市町村のうち24自治体で割り当てを辞退する小学校があることがわかった。検討段階も含めると、今月4日時点で計307校に上る。

 「くろねこの短語」2019年12月10日ー国会閉幕で、初老の小学生・ペテン総理は嬉々として記者会見をしやがりました。でもって、改憲について問われて、「必ずや私の手で成し遂げる」だとさ。おいおい、改憲ってのは、国民が望んでこそのものであって、オメーが成し遂げるものじゃないだろう。マスコミも、行政の長としての権限を逸脱した、憲法遵守義務違反のこんな発言を、シレっと垂れ流すんじゃない。「これで逃げ切りとなっていいのでしょうか」なんて他人事のコメントはいらないんだよね。「権力への怒り」を忘れたジャーナリズムほど危険なものはないんであって、これで終わりにしたくなかったらマスコミこそが起ち上がるべきなのだ。
 顔も頭も貧相な官房長官・ガースは、「残念ながら、(説明が)国民に理解されていない」と「桜を見る界」疑惑についてコメントしたそうだが、何を言ってやがる。さっさと名簿を公開すれば、それで疑惑のすべては解明される。それをしないのは、こやつの責任なんだね。それをよくもまあ「理解されていない」だなんて、あたかも国民側に問題があるようなことのたまわれるものだ。
 「逃げ切ろう」としたって、来年の桜の季節になれば、みんな一連の疑惑を思い出す・・・ってツイートがあったけど、おっしゃる通る。お天道様はお見通しなのだ!!とにもかくにも、安全地帯で四の五のほざいてないで、とっとと国会に出てきて説明しやがれ、ってなもんです。


愛知ママの会

 愛知ママの会◆12-9 中村哲さん、12月8日午後5時半帰国。安倍首相は午後3時過ぎには私邸😳アフガニスタンでは大統領自ら棺を運んだが、日本では、首相や外務大臣は空港に出向かなかったのはなぜ?😧SNSでは中村哲氏に一言も触れず。ラグビーだのアイドルとの会食だのは、喜々としてSNSにあげているのに。

[AERAdot]12月8日ー安倍首相最側近の萩生田文科相も公選法違反?!「桜を見る会」疑惑と同じ構造【スクープ】〈週刊朝日〉食事や景品を振る舞われたとされる参加者は本誌の取材に対し、「追加費の請求はなかった」と答えている。10日発売の週刊朝日12月20日号では萩生田文科相のさらなる疑惑の詳細を報じている。

 「くろねこの短語」2019年12月8日ー「桜を見る会」疑惑が勃発してからというもの、顔も頭も貧相な官房長官・ガースの記者会見は日を追うごとに論理破綻が進行し、とうとう「官僚からの差し紙ではなく自分の言葉で答えろ」とTBSの金平君から叱責されちまいました。一瞬、ムッとしたガースだが、その目はほとんど死んでましたね。そんなガースが熊本地震の被災地を視察して、唐突に「わが国は世界レベルのホテルが不足していると言われており、今後、各地に世界レベルのホテルを50か所程度新設することを目指している」ってのたまったそうだ。はあ~、それ、いま言うことか。ていうか、50の高級ホテルって、どこにそんな需要があるのかねえ、バッカじゃないの。それこそ第2、第3のニューオータニを作って、新たな利権を確保しようって魂胆なんじゃないのか・・・なんて声がネットを騒がせているのもむべなるかなってもんです。

 愛知ママの会◆12-8◇安倍晋三首相が主催する二〇一五年の「桜を見る会」に、悪質なマルチ商法を展開していたジャパンライフ(破産手続き中)の山口隆祥(たかよし)元会長(77)が招待されていた問題で、同社が一六年十一月にパラリンピック選手を積極雇用する「優良企業」として、スポーツ庁からヒアリングに招かれていたことが分かった。この直後、同社は消費者庁から業務停止命令を受けており、既に事実上破綻していた。同社を巡っては、一四年に消費者庁が政治的影響を懸念して調査を先延ばしした可能性も指摘されており、顧客の信用を得るため政権への近さを売りにしようとしていた実態が改めて浮上した。/消費者庁の方針転換は、ジャパンライフのバックに安倍政権の“お歴々”の影がチラついたからではないのか。日刊ゲンダイの調べで、多くの与党国会議員に同社との接点があることが分かった。その数は30人にも上る/「首相のコメントは、1年前に政府が障害者の雇用数を水増ししていた問題(中央省庁の8割にあたる行政機関で、3460人の障害者雇用が水増しされていた)が発覚し、3年前に男が障害者は生きる権利がないという理由で19人の障害者を刺し殺した事件(相模原障害者施設殺傷事件のこと)が起きた日本の姿勢を象徴している」という声もあることを指摘、日本政府や日本の障害者に対する姿勢も批判している。人権問題に敏感なアメリカである。アメリカのメディアが障害者を差別するような安倍首相の発言を問題視したのは当然だろう。

 「KYODO」12月6日ー旧日本軍の従軍慰安婦問題を巡り、関連する公文書の収集を続ける内閣官房が2017、18年度、新たに計23件を集めたことが6日、分かった。うち、在中国の日本領事館の報告書には「陸軍側は兵員70名に対し1名位の酌婦を要する意向」「軍用車に便乗南下したる特殊婦女」などの記述があった。

 「くろねこの短語」2019年12月5日ー(前略)でもって、名簿データについては、顔も頭も貧相な官房長官・ガースが、「バックアップデータは行政文書ではない」だとさ。その理由はと問えば、「バックアップファイルは一般職員が業務に使用できるものではないことから、組織共用性に欠いており、行政文書に該当しない」からってんだから、詭弁もここに極まれり、ってなもんです。メディア諸君、政治家にこんなこと言わせていいのか!! いま起ち上がらないでなんとする!!
 ところで、事実上の日米FTAである日米貿易協定が国会を通過。年明けには発効されることとなった。立憲も国民も、よくもまあスンナリとこんな売国法案を通したものだ。「桜を見る会」疑惑をめぐっての審議拒否を中途半端に妥協しちまったから、こうなったんだよね。つまり、立憲も国民も日米FTAでは共同正犯みたいなものだ。それをまた、イノシシ出現なんて色物ネタにうつつを抜かして、ろくに報道しないテレビのニュースってのも、お気楽なものです。やっぱり、この国は一度ガラガラポンしないとダメかもね。

 『朝日新聞』12-4 来年の五輪・パラリンピックにかかる費用としては、国の支出が約1兆600億円に達している。こうした国の支出のほかに、東京都が約1兆4100億円、組織委が約6千億円を支出する予定になっている。

「くろねこの短語」2019年12月4日ー(前略)ここは重要な攻めどころで、メディアは「「『いつまで続けるつもりなんだ』という世論の批判が返ってくるかもしれない」(立憲民主党の関係者)との声もあり、迫力を欠く」なんて評論家面してないで、自らが野党を鼓舞して、ペテン総理一派の悪行の数々を告発しなければいけないんだね。いまこそ、ジャーナリズムの「権力者の監視」という役目を果たすべきなのだ。
 「桜を見る会」疑惑が、ジャパンライフという思わぬ闇をさらけ出したことで、事はペテン総理ひとりの問題ではなく、ジャパンライフに関わったとされる、たとえば、二階、加藤、もっと遡れば中曽根、そしてペテン総理のオヤジの晋太郎まで網に引っ掛かってきましたからね。だからこそ、自民党はどんなことがあっても幕引きしようと躍起になっているわけだ。・【秀逸】モーニングショー「桜を見る会特集」が話題に!悪徳マルチと自民党との”蜜月”や、前代未聞の安倍政権の”反社会性”を分かりやすく批判!
 メディアはここでひるんで何とする。国会が閉じた後は、メディアこそが「桜を見る会」にまつわる疑惑追及の旗振り役を担わなければいけない。でもなあ、週明けの新聞・TVの論調からは、そんな気概は微塵も感じられないんだね。「シンクライアント方式」というおいしいネタひとつ、満足に検証できていないんだから・・・。とは言え、メディアのヘタレぶりをいつまでもくさしていたところで何の展望も見出せないんだから、ここは「メディアもガンバ!!」とエールを送っておこう。

 「くろねこの短語」2019年12月2日ー後援者を大量招待した私物化、初老の小学生・ペテン総理の政治資金規正法&公職選挙法違反、反社会勢力と政治家の闇、証拠隠滅のシュレッダー、そしてジャパンライフ(←いまここ)・・・てな具合に、「桜を見る会」にまつわる疑惑の数々はどんどんその領域を広げている。急な展開に、おそらく一般大衆労働者諸君にはとまどいもあると思うんだが、ここは倦むことなく疑惑のひとつひとつをキッチリと検証していく必要がある。

 そんな中で、政治家や官僚どもの陳腐な言い訳や開き直りってのが、随所で飛び出しているんだが、なかでもひどかったのがジャパンライフ問題の所管大臣である衛藤消費者担当相の記社会見だ。30日のTBS『報道特集』でキャスターの金平君が「総理の招待状というのが非常に有力な広告として使われていた。消費者の観点から看過できない問題だと思うが」と質問する映像が流れたんだが、なんとこの男はあたかも「騙される方が悪い」とでも言いたげなコメントしやがりました。こんな具合です。「私は個人的に言えば、誰と誰と会いましたよと名刺を出すような方は、何かちょっとおかしいかなと思うんですけど・・・。私としては最初からそのような方はむしろ要注意だと思って普段から接しています」
 たまたま、食事をしながら観ていたんだが、思わずサンマをテレビに投げつけそうになりましたよ、ったく。言うに事欠いてなんてなまやさしいものではありません。おそらく、こうした考え方はペテン政権の閣僚の全員に共通するものなんだろうね。弱者にはなんでもかんでも「自己責任」を押し付けるくせに、自分たちの不正行為は説明するどころかトンズラするのが常なんだから、そんな野郎にこんな口たたかれる筋合いはありません。国民年金保険料未納が問題になったこともある消費者担当相、衛藤晟一の名前をしっかりと頭に刻み込んでおこう・・・と我が家のドラ猫と意思一致する月曜の朝であった

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