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琉銀「2千円札券で復興支援!」/「二千円札流通促進委員会」委員長・湖城英知/守礼門グッズ


大濱聡6-4

 斎藤 陽子(Walnut, California)6-4日本時間 ロスアンゼルスでは新型コロナウィルスで、外出禁止76日目を迎えています。ミネソタ州ミネアポリスで5月25日、白人警察官による黒人男性の拘束死事件が発生してから1週間以上が過ぎても、止まることを知らない抗議デモは、全米各地に広がっています。20日前に外出禁止令下のハリウッドの高級ブランド商品店の有る、ロデオドライブに雑誌の取材で視察した時には、通りはひっそりとして、猫の子一匹歩いてない街が、今では抗議デモの暴動と化し、高級店は略奪に遭ったり放火されたりの暴力行為に発展し、見にくい街と変り果て、いまだにダウンタウンを中心に夜間外出禁止令(curfew)が各地に出ているにも関わらず、夜間の暴動化は続いています。
 トランプ大統領は抗議デモに対して抗戦的な態度を取り、かえって人々の不満をあおるような行為を行い、連邦政府兵士の派出案を出すなど、その高圧的な言動はかえって抗議者たちの気持ちを逆なでし、大統領の言動は人々を挑発している様な結果を見るにつけ、この国の指導者の横暴行為には呆れるばかりで、この抗議デモを収拾するはずもありません。ロスアンゼルスなど全米各地の都市で抗議活動が拡大している状況は、コロナ感染と経済の両方が悪化する恐れが出てきて心配です。この最悪なアメリカ全土の状況を、終息させる名案な方法は無いものでしょうか。
 コロナ禍など関係なく、自然界の鳥たちは繁殖を続けていて、わが家の軒先は毎年メキシコからのツバメが飛来しますが、今年のツバメたちは記録的に8個も軒下に巣を作り、明け方には10羽ほどのツバメが餌を求めて飛び立つサマは壮観です。北半球にしか生息をしないこの鳥、古くはツバクラメ、ツバクロと呼ばれ、♪ ♫ 旅のツバクロ寂しかないか ♬ などと昭和8年のヒット曲の懐メロを知っている人は私も含めて、相当古い人に入ります。

今日の写真は現在カリフォルニアの私の庭に咲いている、ハイビスカスのオンパレードです。


 全国ネットママの会@愛知6-4 ええっ?!評価Aの会社が落選、評価Cの電通が作った謎会社が落札。そしてなぜ評価Aの会社の入札額が黒塗り?!電通より安い入札疑惑浮上。“入札資料が黒塗りに”「デトロイトトーマツ」A評価→金額が黒塗りに!!「サービスデザイン推進」C評価なのに落札。公金の使い途のプロセスを黒塗りにするとかおかしいし…安倍首相「必要な情報開示を行うことを含めて丁寧な説明を行わせたい」既に情報が隠蔽されてるだろ!

 「くろねこの短語」2020年6月3日ー持続化給付金の運営法人であるサービスデザイン推進協議会の設立に、どうやら経産省が関わっていたそうだ。インターネット上にある定款のファイル作成者名に経済産業省の署名があることからわかったとか。でもって、ファイルのタイトルが「補助金執行一般社団法人(仮称)定款(案)」となっているってんだから、うさん臭さがプンプン匂ってきます。経産省の言い訳がまたとぼけていて、「(サービスデザイン推進協議会の)設立は、産業界の皆さんがこれから、この政策が盛り上がると空気を読んだのではないか」だとさ。
 電通、パソナ、トランス・コスモスの関係者が理事に並ぶサービスデザイン推進協議会は、そもそもが公共事業を利用した税金の中抜きのためのシステムとして設立されたんじゃないのかねえ。そんな妄想もあながち妄想とは言えないような気がする今日この頃なのだ。これはひょっとすると、戦後最大の疑獄資源に発展するかもね。もっとも、電通がからんでるから、大手メディアは腰が引けているようだけど・・・。
 最後に、東京アラートだとさ。空襲警報のつもりでもいるんじゃないか、ボッタクリバーのチーママ小池君は。都庁やレインボーブリッジを赤くライトアップまでしちゃって、まんま大阪府知事のネズミ男のパクリなんだから、カイロ大学卒業が聞いて呆れます。これで再び補償なしの休業要請なんてことになったら、中小・零細はもとより個人商店もバタバタと倒れていきますよ。特に、東京の飲み屋文化は壊滅的な状況になることは間違いない。・東京アラート発令 「夜の街に外出控えて」と小池知事

 斎藤 陽子(Walnut, California)6-2日本時間 6月1日を迎えた月曜日の南カリフォルニアです。新しい月になり気分も新たにしたい気持ちは有るのですが、外出禁止74日目、ロスアンゼルスでは一週間前に起こった、ミネアポリスでの白人警官の逮捕行為で亡くなった事件は、昨日は抗議デモでビバリーヒルㇲのブランド店街ロデオ・ドライブなどの店内の商品が、略奪などに遭ったり、警官への投石など、ロスアンゼルス・ダウンタンは市街戦さながらです。
今日も抗議は尾を引いて、各地で抗議集会で警官と睨みあっているようです。何だか最初は人種差別への抗議だったのが暴動と化し、新型コロナウィルスでの長い忍耐生活からのフラストレーションも大きな要因になっている様な気がしてなりません。今回のミネアポリスの事件は私も憤りを感じておりますが、今はコロナウィルスの終息の方が大切で、暴動をしている場合じゃないと思う外野の私です。一日も早い暴動の終息を願っています。
 今日は沖縄の切手に関わるお話に触れたいと思います。沖縄では戦争が終わって廃墟の中から立ち上がった1947年頃から、琉球切手が出現しましたが、もちろん価格は「B円表示の切手」ですが、これが暫定的なガリ版一色刷りで、紙質も藁半紙の粗末なもので、1958年のドル通貨に切り替わるまで、数種類が出まわりましたが、これらの切手は今では「幻の切手」となり、切手コレクターには羨望の切手で、大変入手困難で価格も今では高価になっています。写真にあるのはドル時代の1958年から1972年の復帰前まで使用された、ドル通貨社会でのドル郵便切手、この頃になると一人前の色刷り切手となり、価格表示はドルとセントになり、切手コレクターの日本の友人たちに大変人気がありました。最近ではFAXやインターネットなどの進歩で、昔ほど郵便切手というものを使わなくなってしまった時代ですが、ドルを使用していた頃の、日本復帰前の沖縄の郵便切手はデザインも豊富で、沢山の切手が印刷されました。もうこれらの切手も再び発行されることのない、ドル表示の切手も「幻の切手」となってしまいました。
 米国統治時代1952年に発足した、琉球政府は行政、司法、立法の三権が分立して、国家的要素の形をまがりなりに保ち、日本本土の都道府県のような地方公共団体とは異なり国家のような独自の形をなし、政治の形態やB円通貨、渡航証明書(パスポート)、郵便切手などで見るように、琉球は特異な形をした地域で、独立運動を唱える人々もいて、当時は独立も可能な形態でした。偶然にも取り出した切手の中に、いま新基地埋め立て建設反対で揺らいでいる、辺野古の海に回遊するジュゴンのデザイを発見しました。この切手は1966年に、時の琉球政府が天然記念魚としてジュゴンを認めた時の、3セントの記念切手です。ジュゴンは48年前に天然記念魚と指定されていることを、この小さな切手が証明してくれています。この時代に辺野古沖を回遊する「ジュゴン」が天然記念になっていた事を初めて知りとても驚いています。
 天然記念として指定されている「ジュゴン」が来る海を、新基地建設のために埋め立てる無謀と無知な案に、ただ呆れるばかりでいます。国は天然記念物保護法の違反を堂々と犯すことを、なんと弁解するのでしょうか。天然記念のジュゴンが回遊する、自然豊かな辺野古の海を破壊する権利は、誰にもありません。わたしたちは次の世代に誇れる、豊かな沖縄の自然を党派を越えて、守らなければなりません。

 【ワシントン共同】6-2 米国の黒人男性暴行死事件を巡るデモが首都ワシントンでも激化したのを受け、国防総省高官は1日、軍部隊が首都への派遣に備えて近郊に待機していると明らかにした。/「立憲フォーラム通信1817」トランプのアメリカが心配です。BBCの記者が「スペイン風邪、大恐慌、キング牧師暗殺という米国の過去の三大災厄が重なったようだ」と評したそうですが、トランプは 首都に軍派遣を表明 です。――ミネソタ州で黒人男性が白人警官に圧迫死させられた事件で、人種差別への抗議が全米で燃え上がった。英BBCの記者は、まるでスペイン風邪、大恐慌、キング牧師暗殺という米国の過去の3大災禍が重なったようだと評していた▲コロナ禍により失業率は大恐慌時を思わせる20%に達する恐れがあり、なかでも黒人の失業率は高い。抗議の一部の暴徒化、略奪の発生も、背景には雇用悪化の現実があろう。感染症、経済の低迷、人種差別という負のスパイラルだ、と「毎日」コラム。そんななか、人種差別反対グループに寄り添う警官やM・ジョーダンやレディー・ガガの意見表明はアメリカの底力を示してもいます。FNNの世論調査でも内閣支持率は7ポイント減です。/「もの知らず ドナルだけなる タランプに 救い求める アホのシンゾウ」

 「くろねこの短語」2020年6月2日 コロナ対策の専門家会議議事録を、とうとう作成せざるを得なくなってきたようだ。「発言者が特定されると自由な議論ができない」なんて間抜けな言い訳で押し通そうとしたものの、専門家会議のメンバーからも「そんなことは言っていない」「議事録に発言を残してほしい」という意見も出てきて、これ以上のゴリ押しは内閣支持率にも影響するって読んだからに決まってる。
 これって、政権の屋台骨が揺らいできた証明でもあるんだろうね。世論調査でもコロナ対策に関しては「NO」の声が大きくなって、これまでのように時間がたてば忘れるなんて悠長に構えていられなくなってきているのは間違いない。テンピン黒川君の賭けマージャンで世の中の流れを読み間違え、そこにもってきていまだ届かないアベノマスクや持続化給付金の不可思議な金の流れが発覚。モリ・カケ・サクラ疑惑に対する相次ぐ告発なんかもあるし、河井バカップルの買収疑惑では総理大臣に捜査の手が及ぶ可能性すら囁かれるんだから、ペテン総理はさぞかし気が気でないことだろう。
 それにしても、アベノマスクや持続化給付金における税金のピンハネ疑惑ってのは、そうとうに根が深そうだ。この問題を一部のメディア以外はスルーしているというのも、政権にとっては致命傷になりかねないシビアでデリケートな案件ってことの証なのかもね。


 大濱聡6-1■昨夜(5.31)のNHK「ダーウィンが来た!」は、2年間ヤンバルクイナに密着した記録。推定生息数1500羽。世界でも沖縄のやんばるの森にしかいない絶滅危惧種の鳥。人に育てられた若鳥55羽を森に放鳥して6年、そのうちの1羽が子育てに挑戦した物語。
■「ダーウィン」はじめNHKの自然番組を見ると、よくこんな映像が撮れたものだと感心することが多い。サイエンス系の番組とは無縁で動植物、鳥類、虫類などにとんと疎い私は番組のディレクター、カメラマンに畏敬の念を抱いている。■ネットでは「良心的な番組だと思いますが、もっと突っ込んでほしかった。野良猫よりもやばい問題あるでしょ!!」との突っ込みも。おそらくやんばるの森に広がる米軍基地、演習、環境汚染、オスプレイ飛行etcのことを言っているのだろう。

 新型コロナウィルス対応「三密」でここ2週間、自宅でパソコンばかりしていたところ、画面上に「貴方のパソコンが汚染されています。対処ご相談はお電話下さい」とのメッセージがあり、表示された先に電話をすると「汚染されていますね」と丁寧な返事があり、指示に従い入力したところ、最後に「対処費用として8カ月5万円、12カ月なら12万円振り込み下さい」とのメッセ-ジに驚き「検討させて下さい!」と返事したら「いや、早急に振り込んで下さい」との催促、再度「いや、検討して返信します」と答えると、パソコンから大音響の“貴方のパソコンは障害があり、大至急対応の必要があります”とのメッセージが続き、なかなか電源が切れません。
 完全に私のパソコンが遠隔操作で乗っ取られていたようで危うく詐欺に引っ掛かるところでした。すぐ、パソコンに詳しい友人に対応を相談し、パソコン電源・NET接続を外し、外部ディスクにファイルを移し、インストールされていたプログラムを全部削除し初期化しましたが、この対応に半日位かかりました。
 因みに、この外部から電話回線音声は東洋系の外人訛りでした。連絡要求された電話NOは050-5806-8164をネットで検索したら上記の掲載写真がアップされていました。皆さん、こうしたインターネット詐欺には気を付けましょう!→重田辰弥”朝吼夕嘆・晴走雨読”2020-5-51


 「記録もねえ、記憶もねえ、議事録まったくとってねえ、金[給付金]もこねえ、マスクもこねえ、コロナ対応うそばかり、誠意もねえ、真摯でねえ、朝起きて夜寝るまで、外出自粛でテレワーク、子どもが周りでぐーるぐる、補償もねえ、謝罪もねえ、検事長週3賭けマージャン、カラオケねえ、ジムもねえ、届いたマスクは欠陥品、俺らこんな国いやだ、俺らこんな国いやだ・・・」(水島朝穂5-1)

 斎藤 陽子(Walnut, California)6-1日本時間 アメリカでは5月25日 ミネアポリスでの白人警官よる黒人男性ジョージフロイド氏を暴力的に検挙し、死亡した事件に関して、警官がその人種差別的な行動に対して、怒りが全国的に高まり続けたため、27日(木曜)のロスアンゼルスでの抗議行動では、高速道路101号の道路を100人以上の人々が占拠し、高速道路を麻痺状態にして抗議を行っていましたが、抗議行動は日に日に増長し、昨日は30日(土曜)はコロナ禍で休業中の高級デパートが壊されて集団略奪や警察のパトカーへの放火などと、暴動に近い行為が広がって、500人の逮捕者を出しています。
 いまだに続く73日間の外出禁止の自粛生活でのうっ憤も、この抗議デモに含まれている気もしますが、外出禁止令中とあって、そのうえコロナウィイルス感染を警戒して、10人以上の集会を禁止しいる最中だけに、コロナ蔓延と暴動との不安を含み、抗議はまだまだ続きそうで安心できません。ダウンタン地区は夜八時以後は夜間戒厳令が敷かれています。五月も今日が最後の南カリフォルニアの気温は27℃です。

 マグノリア(泰山木)も上へ上へと、手のひらを広げたほどの大きな花を咲かせ、南カリフォルニアの紺碧のさつきの空へ、白鳩が飛び立つような風情です。アメリカでよく見かける街路樹のマグノリア(Magnolia grandifora)和名 タイザンボク(泰山木)モクレン科だといいますが、木も大きく花も堂々と、いまカリフォルニアでは街路樹として各地の通りに利用され、白い花が満開です。マグノリアは北アメリカ南部原産の葉緑樹で、日本にはアメリカから明治の頃持ち込まれたとのことです。アメリカ18代大統領が明治12年に来日した時に、上野公園に泰山木を記念樹として植えたのが「グランド玉蘭」と名付けられ、今も当時の木があるようです。ファッション・デザイナーのジバンシー(Givenchy)はマグノリアの花が好みのようで、バックなどの小物のデザインなどにも取り入れ、ジバンシー・マグノリア香水はつとに有名です。

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1975年2月 雑誌『青い海』40号 「沖縄の食べもの文化考/豚の泣く日」
1898年、那覇区泉崎の豊盛書林と、西の三笑書店には沖縄県尋常小学校読本も販売しているが、一般書も扱っている。世界年鑑、中等東洋史、中等日本歴史、算術新教科書、新撰算術、新式速記術、新撰日本外史、通俗世界歴史、世界文明史、詠歌自在、詠歌辞典などがある。
同時期の『琉球新報』には一般書や印刷物の広告が載っている。今でいう通信販売である。大阪の芳文館写真部「奇形嬌態裸体美人写真」、大阪の明文社の「画入男女たのしみ草紙」などである。学生向けの通信教育に東京学館の「自宅独習生徒募集」や帝国中学協会「諸学講義録」があるが、どちらも英学、国語学、心理学、論理学、教育学、算術、詩文学、幾何学、三角法、簿記学、代数学、化学、速記学などで内容は共通している。相前後して「ライオンはみがき」、「鳥井合名会社」の広告も目立つ。

1900年、村田弥三郎が、那覇警察署前で東京各新聞の取次ぎを始めている。博愛堂(小沢朝蔵)も新聞広告に近事画報社の「戦時画報臨時増刊号・日本海大海戦紀念帖」を載せ売り出しを図っている。近事画報社は1901年の『琉球新報』に広告「通俗小説文庫ー毎月1冊刊行」を載せている。並んで、東京日本橋の三越呉服店や「中将湯」の広告もある。
1902年の『琉球新報』の広告に京都の島津製作所の「博物地理歴史標本」がある。04年の広告には太田胃散、浅田飴、今治水なども出てくる。07年には十合呉服店(大阪・神戸・京都)、アサヒ、サッポロ、エビスビールの広告も目立つようになる。08年の広告に「実業之日本」、1911年の広告には博文館の常用日記や、「女学世界」、冨山房の「新日本」がある。那覇の円山勉強店の「キリンビール」売り出し広告もある。
1905年11月23日ー志賀重昴、粟国島来着→著1909年『大役小志』
1906年3月5日ー菊池幽芳、粟国島に来着/10月ー『地学雑誌』第18年第214号□脇水鉄五郎「沖縄視察談・粟国」
粟国に来島した志賀重昂
1905年11月23日ー午前3時、運輸丸、久米島発▼6時、珊瑚礁の激浪を琉球形小船にて乗り切り、渡名喜島上陸(略)10時半、粟国島著、上陸、粟国は渡名喜島を距る15浬、面積半方里、磽确たる一珊瑚島、而かも戸数8百余、人口5千余、食糧に欠乏するを以て蘇鉄を食ひ、婦女は那覇、首里に下女奉公をなし、男子は琉球本島及び布哇等に移住する者多く、鱶ノ鰭、烏賊、鰹を輸出す▼夕、那覇港着、上陸。→近代デジタルライブラリー - 大役小志
1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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写真ー新城三郎の父・蒲と母カマ(抱いているのは新城栄徳、二人にとって初孫である。)

〇向宣恭・伊是名朝信(朝宜三男、生没年不詳)は明治大正時代に郵便局に勤務し、糸満郵便局で定年退職し、那覇上之屋に居を構え、その夫人が作る首里仕込みの豆腐餻が近くの辻町で評判となり、この豆腐餻作りで晩年の生計が助けられた。朝信の一人息子の向得遠・伊是名朝義がロシア革命の影響を受けて沖縄の左翼活動の嚆矢となった為、勘当されて壷屋地区に移り住み政治活動を行った。 →ウイキ
1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業
1934年1月ー新城三郎、那覇市辻町(御願の坂)國吉料理店で板場修行。同年の粟国出身の調理士は、四つ竹の新里。みはらしの玉寄松。玉川の仲間、一味亭の新城、仲里、山城、新城。京ヤの又吉。國吉料理店は与那  風月ロの糸洲、仲里、新里。三杉ロの福本。幸楽の安里、新川幸栄。美崎の玉寄米吉、赤嶺、玉寄三郎。花咲の上原保一、新里次郎、上原健夫。木村屋の安里善徳。ならはら館の上原。宝来館の新城。山本は浦崎。川津館の新城。モリタ館の与那城。
業者ー万人ヤの仲里。朝日ヤの神里。三角ヤの吉元。みかさヤの与儀。井筒ヤの新里。一味ヤの新城。福力ヤの神里。公園入口の金城。朝日橋前の新城。松田橋前の新城。安里松竹の糸洲。
1935年8月『関西沖縄興信名鑑』ー東淀川区之部 安里善盛(大戦前に那覇に引き揚げ食堂経営、戦争で一家全滅)、仁祥、善太郎(のち安村書店主)、勇祥(のちレストランアサヒ経営)
1936年10月2日ー沖縄県知事正五位勲四等・蔵重久「粟国村字東9490番地の新城蒲(50)、8月1日午後9時に那覇市北明治橋右海岸に於いて那覇市垣花町1の88平良カメ(31)が溺死せんとするを救助したるは殊勝なりよって金1封を贈りこれを賞す」
1939年4月5日ー安里幸一郎、粟国村字東で生まれる。父・宗幸、母チヨ(イザニサ大ヤー)
1946年から47年まで戦地や他府県からシマンチュが引き揚げてきて粟国島の我が家の周囲は賑やかになった。しかし生活は貧しく心を癒すものを求めた。その一つが村芝居であった。やがて我が家の隣に茅葺のクラブが建てられ伊江島ハンドーグァーや大新城親方などの芝居が旧正月に演じられた。伯父・玉寄貞夫は初期のころからの中心的に芝居活動をやってきた。1956年、玉寄貞夫の従兄弟・安村善太郎、勇祥兄弟の多額の寄付でクラブを鉄筋コンクリート建てにする(写真・左)。
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1948年ーガーブ橋前に「大洋食堂」(勢理客(町田)定正)
1949年
安里大通りに「丸屋食堂」そば・すし・めし(久場景善)。7月ーホテル新風荘(崎原マサ)民政府構内に開業。8月ー料亭「喜仙」(仲本盛智)。9月ー料亭「幸楽」、安里に「丸久食堂」(久高将金)。11月ー真和志に食堂「ゆたかや」(西銘政弘)、那覇市場前に「木村屋食堂」
1950年
国際劇場前に「みなと屋」(豊見山義康)、2月ー元国際食堂跡に「井筒屋」、7月ー那覇料理屋組合が毎月第二日曜を公休とする、「一富士」みつ豆・冷し西瓜(当真嗣正)、9月ー那覇区に井筒屋新装開店、神里原に大衆食堂「三角屋」そば・すし(渡口トミ)
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写真・沖縄調理師会ー前列右から安里信祐(現・伊勢海老料理「味の店三郎」店主)、新城三郎、左端に玉寄米吉
1950年ー沖縄と奄美出身者で調理師会「沖美会」結成。中村喜代治、新城三郎、玉寄博昭、福永平四郎、赤崎一成、又吉太郎らが参加□奄美が日本復帰する1953年に「沖縄調理師会」と改称。

【関連】1975年 伊勢海老料理「味の店三郎」で食事会ー新城栄徳、息子、あけみ、新城敏子
1951年
1月ー那覇料理組合・花咲、喜仙、花園、南海、清風荘、清風、松屋、美園、那覇、香那恵、皆美亭、若梅、幸楽、田鶴、三原、新栄亭、新風荘、オール倶楽部、ほがらか亭、やよい、よつ竹、若杉、玉家、八千代、有楽、松竹、だるま亭、よかろう、左馬、若藤、春芳、一心亭、一廣、ときわ、松の家、美杉、一楽、やすらか、栄亭、よし乃、新月亭、大楽。糸満町にみなとや飲食店(新城野枝)。安村勇祥(新城三郎従兄弟)、平和通りで「かき氷屋」開店。□→「レストランアサヒ」/1986年2月ー安村勇祥『想いでの記』。
7月ー那覇市10区に琉球料理「玉川屋」うなぎ蒲焼。10月ー料亭那覇がうなぎ料理、12月ー神里原に食堂「美松」手打そば。
1951年             『球陽新報』「沖縄そばの味自慢ー宮里政栄(大阪西成区鶴見橋)」
1952年
5月ー神里原に「龍凰閣」「台北楼」、「レストランアサヒ」
1955年5月ー安里幸一郎、オジ玉寄松のいる料亭松乃下に見習いとして住み込む。
1956年2月ー粟国島で「親子ラジオ」譲渡式/4月ー末吉保朝(粟国中学校教諭)、文部省派遣で大阪市文の里中学校へ/1959年2月ー『オキナワグラフ』「発足した沖縄唯一の事務機のデーパト合資会社・沖縄事務機社(新里有四郎社長)」/5月ー宜野湾市大山で雑貨商「ジミーグロセリー」開業□→2006年8月『Jimmy’s 50th Anniversary 1956~2006』株式会社ジミー/6月8日ー『琉球新報』「粟国村のソテツは村の守り神」。

1957年3月 与那国善三『新沖縄案内』沖縄観光協会/印刷・おきなわ社
○広告「沖縄唯一の百貨店 観光お土産にもっとも喜ばれる品々」「サービスのオアシス 料亭小川荘(小橋川和子)」「沖縄観光協会指定旅館 鶴よし」「ホテル琉球」「沖縄観光協会指定 沖縄ホテル」「コザホテル(国吉鶴子)」「大津旅館(津波幸盛)」「ホテル森乃(名嘉真キヨ)」「沖縄観光協会指定旅館 初音館」「沖縄観光協会指定 観光ホテル厚養館(岸本金光)」「料亭・山手(長峯春良)」「料亭・登美の家(金城利江)」「料亭・新鶴(我那覇文子/佐久本嗣子)」「料亭・那覇/東京支店・琉球亭なは(上江洲文子)」「レストラン松屋(前田義善)」
1959年2月ー新城三郎、[食堂]経営。
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1960年              川崎お大師様の近所で伊礼松子が「沖縄ソバ」「三月菓子」を自家製造販売
1960年1月8日『琉球新報』島袋盛敏「仲宗根章山翁の思い出ー首里城懐古」(写真/)仲宗根真吉、摩文仁憲和、新垣良光、島袋盛敏。明治42,3年)
1960年1月10日『琉球新報』「新春インタビュー石野記者/朝倉文夫×浜田庄司」
1960年1月17日『琉球新報』坂口総一郎「順応する生活態度ー40年前クリ舟で体験した人生観」
1960年10月8日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと①島本豊氏(日航沖縄支店長)独自の風土活かせ」
1960年10月9日『琉球新報』「座談会/本土経済人の見た沖縄ー観光地として有望」今里広記/湯浅佑一/五島昇/鹿内信隆
            「観光沖縄にひとこと②松川久仁男氏ー海の特色売り物に
1960年10月10日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと③太田守徳氏(国際中央通りほしい立派な歩道」
1960年10月11日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと④儀間光裕氏ーきたないガーブ川」
1960年10月12日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑤東盛良恒氏ー”南国沖縄„打ち出せ」
1960年10月13日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⓺島袋清氏(ハワイ球陽観光団長)全住民も関心持て」
1960年10月14日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑦宮里辰彦(リウボウ専務)政府、住民も協力を」/糸満盛信「沖縄の古武術」①
1960年10月15日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑧荻堂盛進氏ー島ぐるみで協力を」/「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 千葉県三里塚の沖縄農場」
1960年10月16日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑨宮里定三氏ーホテル施設の充実」→2016年6月ー那覇空港見学者デッキに「沖縄観光の父・宮里定三」(ブロンズ像)設置
1960年10月17日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑩宮城仁四郎氏ー花いっぱい運動を」
1960年10月18日『琉球新報』「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 東京新生会」                

1972年10月 『米の味』グラフ社

1975年5月 江原恵『まな板文化論』河出書房新社

1976年7月 『月刊食堂別冊「天ぷら」柴田書店〇天丼の店(中西吉太郎)は大阪ミナミにある小さな店で、、私もかれこれ10回は食べている。熱々で美味しい。

1991年7月 周達生『東アジアの食文化探検』三省堂〇沖縄の「肉」/沖縄の特徴/イトウリ・ニガゴイー沖縄では、中国南方諸省の人びとが好むヘチマを「ナーベーラー」といい、苦瓜を「ゴーヤー」といい、種々の野菜料理を作っている。

1991年12月 イヴ・コア/宮崎信之『クジラの世界』創元社

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右下に井筒屋の開業広告

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1994年2月21日、新聞で井筒屋の開業広告を見つけたので、井筒屋の話を聞きに浦添市のオキジム本社を訪ねた。新里有四郎会長、新里盛吉社長、新里有造氏が同席された。有造氏はライフル射撃で国場武三(こくば駐車場)氏とも知り合いだった。現社長はこの人の子息である。写真/オキジム会長室で、左から新里有四郎会長、新城栄徳

1995年6月ー『私の好きなすばやー物語』(資料提供・新城栄徳)ボーダーインク


2002年10月30日ーオキジム本社で左から、新里有四郎会長、玉寄貞夫氏(世界のそてつを守る会℡098-862-0906)、新城栄徳

1992年5月 『食足世平ー日清食品社史』「めんの系譜図」
『日清食品社史』「めんの系譜図」
台湾出身の安藤百福(あんどう・ももふく、1910-2007)は繊維業に携わり大阪へ進出。第二次大戦後の復興にはまず食事が大事と考え、食品加工・製塩などの事業を経て1948年(昭23)加工食品の輸出入・販売業の中交総社を設立。翌年サンシー殖産に改称、1958年(昭33)瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(チキンラーメン)を開発し、「日々清らかに豊かな味をつくる」との願いから日清食品に商号変更する。1971年(昭46)カップめんを発売開始、事業を多角化し海外へも発展する。当該社史は7章の本文と資料からなり、創業前史で安藤の生い立ちと即席めん開発を記述。口絵にめん食の文化史や製品・工場写真を多数掲載。[2008年(平20)持株会社日清食品ホールディングス設立、新たに即席めん事業の日清食品(株)が誕生]


〔大濱聡〕2019-3-30

1994年2月22日『琉球新報』「沖縄そば 明治40年ごろ独自の味定着 新城栄徳さん(44)が調査」


沖縄県立博物館・美術館Facebook2013 
明日10月17日は沖縄そばの日!
沖縄そばはいつごろ誕生したのか。この疑問を解明した人物がいる。「琉文21」を主宰する新城栄徳さんである。今から19年前(平成6年)の新聞紙上で沖縄そばのルーツを見事に解き明かしている。新城さんは、明治31年から大正11年までの新聞・雑誌の広告を丹念に調べあげ、明治35年4月9日付けの琉球新報に「支那そばや」の開店広告を発見する。但し、同そば屋は清国より料理人を招いて「支那そば」を売り出しているので、まだ沖縄そばと呼べる代物ではない。
では、支那そばから沖縄そばに進化するのはいつごろか。新城さんは、明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、比嘉店が勝利をおさめたという記事に着目する。つまり、この頃には沖縄そばとしての味が一般に定着していたのではないかというのである。さらに、「不勉強屋」の広告でも分かるように、和田那覇署長が「琉球そば」と呼ぶように指示。かくて明治末から大正期にかけて、我が愛すべき県民食は誕生したのだ。
同記事は「(沖縄そばの)由緒を正確にする必要がある」という新城さんの言葉で結んでいる。嗚呼、沖縄そばよ! 汝はかくもナゾ多き食い物であったか・・・。まーさいびたん!(M.K:M.K)

5月8日『琉球新報』「戦後50年きょうから明日へ 沖縄そば」


あぐに/沖縄そば
1879年5月4日         『西京新聞』「那覇に料理店、茶店の向は一ヶ所もなし」
1889年              那覇の料理屋ー海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤など。
1890年              料理屋・飲食店ー那覇39軒、首里6軒
1891年              料理屋・飲食店ー那覇63軒、首里9軒、名護2軒、渡久地1軒
1892年              沖縄県の料理屋・飲食店ー開業48軒、廃業15軒
1893年              寺内某が来県、料理屋「東家」の協力をえて琉球芝居の俳優、囃子方らを雇い関西興行をなす。
1894年3月9日         『国民新聞』「沖縄農民は4食にして唐芋と云う甘藷、豆腐、味噌汁および豚肉らはその常食にして魚                     類、米、粟、豚脂に揚げ たる麦粉らこれに次ぐ。そのほか蘇鉄、椰子あり。料理には大概豚脂を用ゆ」
                   料理屋・飲食店ー那覇144軒、首里47軒、宮古10軒、八重山6軒
1895年              料理屋・飲食店ー那覇171軒、首里62軒、宮古14軒、八重山8軒。
1896年              台湾領有で那覇の主な料理屋、台湾に移る(いろは亭、玉川屋などは残る)
1899年              名護に料理屋5軒、仕出屋2軒。那覇南洋堂「食パン」販売。宮里松、大門前通りで蕎麦屋を開業(日本そば)
1900年              那覇「りん寿司」改良すしを始める。楢原鶴吉「東家」を譲り受け、大阪より料理人を雇いいれる。那覇                     「鶴屋」練羊羹・カステラ・メリケン粉販売。
                   那覇「住吉屋」牛すき焼き8銭、鳥すき焼き12銭、すし7銭。那覇「紅屋」茶碗蒸し、すし、かまぼこ、牛肉、鳥肉販売。
1901年12月          高等女学校及師範学校女子講習科が料理科を新設し和洋の料理法を実習、費用は自弁。
1902年4月9日      福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑下りに「支那そばや」開業。 
1915年6月           「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業
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1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業



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1959年11月 『オキナワグラフ』

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本展は、大城精徳(おおしろ・せいとく 1928年9月14日~2007年12月17日)の絵画と資料群が一堂に会する展覧会。大城は、名渡山愛順に師事し琉球美術展をはじめ、戦後草創期のグループ展に名を重ね、琉球政府立博物館を辞してからは琉球文化社を設立し、雑誌『琉球の文化』を刊行、美術工芸論の発展に寄与した。

 昨年は「琉球文化」のシンボル首里城の大火。YouTubeでは大量に首里城に関する動画が展開されている。私(新城栄徳)は首里城は何時でも見られると思って5回しか見てなかったので、有難く拝見し琉球文化を再認識した。今のようにネットなどが手軽でない時に、「琉球文化」普及に尽力した琉球文化史研究家・大城精徳の足跡を私事を交えて見る。
1928年9月14日 沖縄県島尻郡大里村字目取真に父・大城蒲戸(屋号・大屋3男)の長男として生まれる。
1932年1月5日 星山吉雄、那覇市久米町で生まれる。
1945年4月3日、観音寺(金武)本殿広場に集合、指揮班の安里源秀教頭から鉄血勤皇隊農林隊の解散の伝達。3か月間にわたる沖縄戦逃避行の末、捕虜になり屋嘉のP・Wキャンプに収容された(3か月)。→1996年6月『比謝の流れは とこしえにー県立農林四十二期回想録ー』大城精徳「沖縄戦逃避行ーメモランダム」〇1943年 沖縄県立農林学校40期ー新城安善1945年3月/沖縄県立農林学校41期―1渡口彦信/1945 沖縄県立農林学校42期―大城精徳、諸喜田達雄『比謝の流れは とこしえにー県立農林四十二期回想録ー』「わが半世の記」
1945年11月 大城精徳、久志村瀬嵩の難民収容所で家族と合流。一つ屋敷の隣人に山田真山が居た。

1988年5月『新生美術』大城精徳「40年前のことどもー大嶺政寛先生との出逢い」7号
〇1948年8月『沖縄毎日新聞』創刊。
1948年12月  新城栄徳、粟国島に生まれる。

写真中央が宮城邦貞社長、その右が与儀清三編集局長、左が松川久仁男業務局長、後列右端が大城精徳→1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社/知念軍政府に於ける定例の新聞記者会見ー左よりタール、比嘉(沖縄タイムス)、大城精徳(沖縄毎日)、平良(民政府情報部)

1949年 名護にて /1949年10月25日那覇写真館にて

1949年11月19日『沖縄毎日新聞』第66号
1949年 大城精徳、記者兼通訳として沖縄毎日新聞に入社。新聞は週刊で、印刷は普天間の米軍のオフセット印刷工場を利用させてもらった。その工場の南側に隣接して、戦災を免れた大きな瓦ぶきの家屋に山田真山一家が住んでおられた。その住宅の一部を新聞の臨時編集室として使わしてもらったこともある。

大城精徳が書いてくれた『沖縄毎日新聞』メモ
1949年7月、沖縄タイムス社は創刊1周年を記念して「沖縄美術展覧会」(第4回から「沖展」と改称)を開催した。→沖展オフィシャルサイト 沖縄県内最大の総合美術展
1950年  大城精徳、米国留学ニューメキシコ大学に学ぶ。

写真左から大城精徳、澄子さん/1950年6月 出発前ー前列左から二人目が大城精徳


1950年11月23日 感謝祭 右から二人目が大城精徳

1950年9月 ハリウッドの野外音楽堂/ホッドジン・ホールの裏山

1950年12月 ニューメキシコ大学寄宿舎にて/1952年 ニューメキシコ大学訪問 左端-大嶺政寛、そのつぎ大城精徳、右端・名渡山愛順 
ニューメキシコ大学〇1889年2月28日に設立され、2019年に130周年を迎えた。ニューメキシコ州最大の研究・教育機関でセメスター制の総合大学。略称は「UNM」。教職員数は約6,900人。学生数は約26,000人。ネイティブ・アメリカンやヒスパニック系の教職員と学生が多い。 アルバカーキ校は、約800エーカーの広大なキャンパス。周辺にはサンディア国立研究所、ロスアラモス国立研究所、そして空軍研究所(カートランドエアフォース)がある。近年は産学連携活動と技術移転活動に力を入れている。地域医療、看護学、原子力工学、写真、多言語・多文化教育、異文化コミュニケーション研究で世界的に知られている。 留学生数は約1,500人。日本の早稲田大学、立教大学、立命館大学、立命館アジア太平洋大学、関西学院大学、京都光華女子大学等と交換留学プログラムがある。 →ウィキ

1952年 大城精徳、崇元寺・琉米文化会館職員→1969年9月『琉球新報』大嶺信一「大城精徳個展によせて」
1952年~57年 大城精徳、名渡山愛順に師事。
1952年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師就任
1954年    翁長良明、首里城跡周辺で古銭を拾って以来、古銭収集に取りつかれる。
1955年3月 大城精徳、第7回沖展に「静物」出品
1956年 津野創一、首里高等学校卒
1956年3月 大城精徳、第8回沖展に「首里風景」出品

1956年9月1日『琉球新報』

首里高等学校同僚(左から/森田永吉、岡本恵徳、仲吉朝祐、津留健二、饒平名健爾)/2014年11月 津留健二『教職の道に生きて 出会いに学ぶ』ボーダーインク

1957年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師退任
1957年7月 『今日の琉球』(表紙 金城安太郎「旗頭」)川平朝申「郷土の歩みー若き人々のための琉球歴史」
1958年   宮城篤正、首里高等学校卒
1958年 新城栄徳、祖父が亡くなったので、粟国島から家族で父の居る那覇に出る。父の勤める料亭「新風荘」近くの寄宮、楚辺と変わり、崇元寺に落ち着く。私は最初、琉映本館後ろの伯母宅に居候。なので、紫煙けぶる映写室で何故かゴロゴロしフィルムのひとコマを貰って遊んでいた。東映の総天然色映画は殆ど見た。崇元寺に移ってから、前島小学校4年在学中に首里の龍潭傍の博物館、図書館(今の県立図書館の前身)はよく歩いて行った。図書館で嘉手納宗徳氏と出会う。/首里の琉潭池側の琉球政府立博物館は「首里那覇港図」「首里城正殿模型」(縮尺10分の1。1953年知念朝栄制作)などよく見た。博物館の入口付近に「三ツ星印刷所」(1926年に辻町で昭和石版として開業)がある。その売店に『毛姓系図家譜』『組踊全集』などが並んでいた。中を覗き「筑登之」「○王」など読めない字に悩んでいると、主人の當間清弘氏が買いもしない子供に読み方を教えてくれた。氏は1968年に80歳で亡くなった。

1958年12月16日 二科会員・井上賢三を迎えて壺屋の料亭「幸楽」で「二科会沖縄支部」発会式。支部責任者・大城皓也。写真会員ー水島源光、山田實、親泊康哲、名渡山愛誠、島耕爾、備瀬和夫、豊島貞夫、永井博明、八幡政光、当真嗣祥、鹿島義雄。絵画会員ー大城皓也、大城精徳、山里昌弘、塩田春雄、大城栄誠、金城俊、榎本正治、友利寛、下地寛清、水田虎雄、安仁屋政栄、松川剛、浦添健、具志堅誓雄
1959年、大城精徳、琉球政府博物館に学芸員として勤務(主事補・1959年~1968年/学芸課(美術)1969年~1971年)

左端が大城精徳/左から2人目が大城精徳 1996年 『沖縄県立博物館50年史』

1957年9月 「招待美術展」タイムスホール /1958年10月 第2回 「招待美術展」タイムスホール

1959年5月『今日の琉球』大城精徳「琉米親善」/10月 名渡山愛順「風景」


1960年5月25日スミソニアンへ送る文化財選定委員会-政府会議室/1969年 首里博物館にて 


1960年夏 新城栄徳、上の蔵の「琉球史料研究会」を訪ね、『琉球事始舊記』製本中の比嘉寿助氏と雑談。
1961年 大城精徳、第1回琉球国際美術展出品(~第8回展まで出品)

1961年11月『今日の琉球』大城精徳「ワトソンさんとバブ君のこと―ある日曜日の午後の出来事」
1962年 新城栄徳、近所の島袋慶福翁に郷土史を学ぶ。郷土史の古書は開南の「みやぎ書店」「琉球史料研究会」が扱っていた。

1962年11月24日~27日「第1回 美緑会展」 那覇琉米文化会館/1962年12月 「琉球美術展」那覇琉米文化会館
1962年12月17日 建築家・仲座久雄(58)死去。

【資料】2020-2 仲座巌『仲座久雄 その文化財保護活動1936~1962年』

【関連】高松塚古墳/首里城正殿模型/大龍柱/琉球文化社・琉球書院

1963年6月『家庭公論』第2号 大城精徳「馬と沼」




大城精徳・表紙絵 1964年2月『今日の琉球』76号「赤えんどうの花」/1961年10月『今日の琉球』48号「真昼の屋良ムルチー」
1964年4月、新城栄徳、集団就職で白雲丸に乗船、那覇港から上京、晴海桟橋に着く。後に知るが芥川賞作家・東峰夫も乗船していた。途中、暴風で船は和歌山の串本に避難したのが熊野との出会いである。錦糸町駅から御茶ノ水駅で降りてニコライ堂の傍を通りながら神田古書街にも近い神田錦町三丁目の錦城商業高校夜間部に通う。神保町には新刊書店もあるが何故か古書店や古書展が面白い。古書店に積まれている雑誌は安く、主に週刊誌を買って切り抜いて手帳に貼っていた。この頃の週刊誌を切り抜かず、そのまま保存出来たらミニ大宅壮一文庫となっていた。しかし手帳は残っていない。
1965年10月~12月『今日の琉球』大城精徳「アメリカの博物館と美術館」

スミソニアン博物館のフランクA・テーラー館長に琉球絣を贈る琉球政府立博物館の大城精徳(右)、左が八重山琉米文化会館の長田信一、中央が文化人類学課のユージン・ネズ博士
○去る5月16日から8月14日の3か月間、米民政府派遣の技術研修員として、アメリカ各地の博物館や美術館などを八重山琉米文化会館館長の長田信一氏とともに視察してきた。(略)アメリカの博物館は1930年代から急速な発展を遂げ、現在では大小合わせて、全米で4千館近くもあるといわれている。これは、現在のアメリカの人口約2億人とみて、約5万人に一つの博物館という割り合いになる。この中には美術館はもちろん児童博物館や大学付属博物館、それに記念館などが含まれている。というのはアメリカでは資料を所蔵し、その調査、展示および普及教育を行っている施設は、その固有の名称がどうであれ”Ⅿuseum〟と考えられているからである。

1967年2月『守礼の光』第97号 仲泊良夫「新装の琉球政府立博物館」/星雅彦、画廊喫茶「詩織」開業。こけら落としに「グループ耕・三人展(大浜用光・大嶺実清・城間喜宏)」開催。→2003年7月『星雅彦 詩集』土曜美術社出版販売

1967年10月4日『琉球新報』大城精徳「名渡山愛順氏個展によせて」
1969年2月  新城栄徳、南紀白浜の 南方熊楠記念館を訪ねる。東京に行くつもりが京都駅で所持金が無くなり、京都駅近鉄名店街でコック募集の貼り紙を見て「紅屋」に就職。オーナーは京都国立博物館の国宝修理所に勤めていた。

1969年3月14日 りゅたん三味線会1周年発表会
1969年4月  大阪城公園で「沖青友の会」発足
 
1969年9月4日~9日 リウボウ4階ホール「沖縄現代作家展」

1969年9月18日~23日 デパートリウボウ4階「第一回 大城精徳個展」

1969年6月 『琉球政府立博物館館報』第2号 大城精徳「琉球の唐獅子雌雄考」

1970年3月 『琉球政府立博物館館報』第3号 大城精徳「琉球の屋根獅子」→1972年 増補版「琉球の屋根獅子」発行・琉球文化社

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コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com

 「くろねこの短語」2020年5月31日 コロナ禍に苦しむ中小企業を支援するための持続化給付金の給付業務を請け負う一般社団法人「サービスデザイン推進協議会」が、ひょっとしたら給付金の中抜きを狙った“トンネル会社”じゃないのかということは28日のエントリーで紹介した。電通やパソナがその設立に関わっていることから、税金を食い物にする「電通案件」なんて言葉までネットでは流布されている。そんな疑惑は、どうやら当たらずといえども遠からずだったようで、サービスデザイン推進協議会は委託された業務のほぼすべてをそのまま電通に再委託していたことが発覚。何もしないで20億円の仲介料を手にするたというからこんなおいしい話はない。
 でも、そうなると電通の立ち位置ってのが大いに問題なんだね。ようするに、760億円という委託料でまずは自らが設立に関わった社団法人が請け負い、そこから下請けに回すようにして電通そのものに業務を740億円で再委託するという不可思議な構図になっているんだね。当然、740億円で再委託された電通はそこからも何らかの利益を受け取るわけで、なんでこんなトリッキーなことする必要があったのか。ここからは、妄想なんだけど、サービスデザイン推進協議会が手にする20億円ってのは、政治家へと還流されてるんじゃないのかねえ。公共事業で税金を中抜きする典型的な手口にしか見えないのだけれど・・・。そんな妄想してたら、なんとサービスデザイン推進協議会の代表理事が突然辞職しましたとさ。本人は「任期満了」としか説明してないんだけど、まるで沈む船から逃げるネズミみたいなんだよね。
 「KYODO」6-2 中小企業に最大200万円を支給する「持続化給付金」を巡り、事務業務を受託した団体から再委託を受けた電通が、パソナなどに業務をさらに外注していたことが2日、分かった。
〇南部 靖之は、日本の企業家。パソナ創業者で、株式会社パソナグループ代表取締役グループ代表兼社長並びに株式会社パソナ代表取締役会長CEOを務める。大阪大学大学院国際公共政策研究科客員教授。→ ウィキ
〇竹中平蔵は、2016年4月から2017年3月まで東洋大学国際地域学部国際地域学科教授、2017年4月から東洋大学国際学部グローバル・イノベーション学科教授 兼 グローバル・イノベーション学研究センター長、関西大学会計専門職大学院客員教授。パソナグループ取締役会長、オリックス社外取締役→ ウィキ


大濱聡 2020-5-31
〇「毎日新聞」6-1 河野太郎防衛相は1日付のブログで、航空自衛隊のアクロバット飛行隊「ブルーインパルス」を都心上空に飛行させたのは、自身の指示だったことを明らかにした。

 2020年5月29日『週刊フライデー(6月12日号)』来年7月に延期された東京五輪が、実はすでに中止とすることで決定済みであることを示す極秘情報を週刊フライデーが入手。(米政府との繋がりをバックに世界展開している大手旅行会社から「東京五輪は中止が決定している」との情報。)中止の理由は次の通り。①多くの国が代表選手を再選考するための大会を開催する余裕も時間もない②来年は各国ともに財政立て直しが最優先される③ワクチンができたとしても世界中に行き渡るだけの量を確保することは困難④アフリカや中南米などの医療後進国はまだ第一波の真っただ中でこれからが大変。

 5-28[27日 ロイター] - 米国の新型コロナウイルス感染症による死者が27日、10万人を突破した。米国での新型コロナ死者数は約3カ月間で、朝鮮戦争、ベトナム戦争、2003─11年のイラク戦争を合わせた米国人の死者数を上回った。また1981年から89年にエイズ(後天性免疫不全症候群)で亡くなった人の数も超えた。

 「くろねこの短語」2020年5月28日ーコロナ・パニックで四苦八苦の中小企業を支援するための持続化給付金を申請している友人が何人かいるんだが、いまだに振込どころかなんの音沙汰もないんだとか。アベノマスクもまだ届いていない家庭が大半で、特別定額給付金だって申請が始まったとは言うものの、いつ振り込まれるか皆目見当もつかない。困ったもんだと我が家のドラ猫にグチこぼしてたら、なんと持続化給付金って民間に業務委託されてたんだってね。しかも、そこには電通やヘイゾーのパソナが絡んでいるんだとか。一般社団法人「サービスデザイン推進協議会」というその団体に支払われる業務委託料は769億円っていうベラボーな額なんだとか。
 持続化給付金は税金ですからね。給付が遅れれば、どんな業務体制なのか調査するのは当然の話。ところがどっこい、調べてみたら電話番号は非公開、登記所在地も怪しげなビルの2階。さらに、実質的な運営形態もさだかでないという、まるで幽霊会社みたいな実態が発覚したんだとさ。アベノマスクの受注業者を彷彿とさせる話で、ようするにここでもまた初老の小学生・ペテン総理のお仲間が税金を中抜きしているんじゃないかという疑惑が頭をもたげてきているってわけだ。よくもまあ、いろいろ考えるものだと感心してしまうが、テンピン黒川君が失脚したいま、いつまでも甘い汁吸っていられると思ったら大間違いだから、首洗って待っていやがれ。
 そんな流れを予想させるように、なんと河井バカップルの買収疑惑で、検察が自民党本部関係者を事情聴取してたってね。1億5000万円の一部はペテン総理にも渡ったという疑いもあることだし、検察の逆襲を期待したい今日この頃なのだ。



 『毎日新聞』5-27 元日本弁護士連合会会長の宇都宮健児氏(73)が27日、東京都庁で記者会見を開き、任期満了に伴う東京都知事選(6月18日告示、7月5日投開票)に無所属で立候補すると正式表明した。宇都宮氏は過去2回の都知事選で次点となっており、今回も有力候補になるとみられる。(略)宇都宮氏は「緊急の3課題」として、PCR検査の拡充や自粛・休業要請に対する補償の徹底などの新型コロナウイルス対策▽都立・公社病院の独立行政法人化の中止▽都が検討するカジノを含む統合型リゾート(IR)の誘致反対――を公約とした。学校給食の完全無償化や羽田空港の新飛行ルート運用による都心の低空飛行の反対など「重視する8課題」も掲げた。 会見で宇都宮氏は「まずは雇用を守らないと経済復興もありえない。ハコモノ建設などを一部中断し、予算の振り替えを大胆に行う」と述べた。来夏に延期された東京オリンピック・パラリンピックについては「専門家が来年の開催は難しいというなら、できるだけ早い段階で中止を決めるべきだ。五輪の予算を使えば、都民の命を救える」と主張した。


2020-5-27 左が古本屋anmo堂店主・嘉陽安茂さん、新城栄徳/人も車も少ない一銀通り、右の建物が「琉球文化社・琉球書院」跡/久茂地橋,奥右に起重機が見えるのが国の援助の箱もの「市民会館」が粛々と工事中。これの設計はコロナ前だが、完成予想図の説明にはコロナ後(主催者に対しては、来場者の日時や座席の指定予約による人数調整を図り、来場者の名前や緊急連絡先の把握に努めるように求めた。また、出演者の「入り待ち」を控えるように呼びかけたり、最前列席は舞台前から十分距離をとったりする。風通しなど)について触れていないが大丈夫かな?。
〇新那覇市民会館反対-市長が教育長だった頃、久茂地小学校廃校についての説明会で子供達からの質問に始終うつむき「決まった事ですから」を連呼した。廃校が正々堂々と向き合えないような決断だったからかもしれない。そんな大人のご都合主義に、久茂地児童の大人を信じる心もまた破壊されたかもしれない。 2018年10月10日·Twitter (設立: 2006年3月21日アメリカ合衆国、カリフォルニア州サンフランシスコに本社を置くTwitter, Inc.のソーシャル・ネットワーキング・サービス。「ツイート」と呼ばれる半角280文字以内のメッセージや画像、動画、URLを投稿できる。) ウィキ


大濱 聡2020-5-27■コロナ自粛で那覇での会合が2ヶ月ことごとく中止になっていたが、21日からの全面解除により実に久しぶりに那覇へ。まずはかねてより佐賀の知人・第14代齋藤用之助氏から案内を受けていた沖縄県立博物館・美術館で開催中の「激動の明治 大正の沖縄 第11代齋藤用之助の足跡から」を鑑賞。この展示会も本来は5.2からの予定だったが、自粛休業のため21日から開催されている。■明治12年、沖縄県が発足。初代県令になった旧佐賀藩の鍋島直彬とともに齋藤は警察官として沖縄に赴任。後に島尻役所長・郡長になるが、他の14人が1ヶ月~4年10ヶ月務める中、16年10ヶ月もその職にあった。結局、46年間にわたり官吏や実業家として沖縄の近代化に大きく貢献した人物である。今回、沖縄県博に寄贈されていた齋藤が保存していた200点余りの貴重な資料の中から選りすぐりのものが展示されている。■「後世の歴史資料として残してほしい」という11代用之助の遺言が現代に生きた展示会といえる。6月21日(日)まで。


大濱聡 2019-7

大濱聡 2019-7



1999年10月 『元島尻郡長 第11代 齊藤用之助資料』南部振興会(島尻博物館)

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1937年9月『月刊琉球』山城正忠「麦門冬を語る」
○けふは旧の7月13日、所謂精霊を迎える日であり、初秋の風に、盆灯篭のもの淋しくゆれる孟蘭盆である。そのために、私の心には麦門冬が今に会いにくるような気持ちになるまでに、なつかしい彼の面影がよみがへって来ている。今。麦門冬。思いがけなくも、あまりに世を早く去った彼、年齢からいふと、わたしより弟分でありながら、生意気に本を読み過ぎいささか頭のよかったキヤツ、私は無理と知り乍らも、今一度奴を現実にひき戻したくて仕方がないのだ。麦門冬。即ち』末吉麦門冬である。親のつけた戸籍面では末吉安恭。元来、麦門冬は彼の俳号であった。私の知っている範囲内で、その頃の沖縄俳壇に、名実共に俳人らしい俳人といったら、末吉麦門冬ともうひとり、これも物故したが、壷屋出身の高江洲三念であった。三念に就いては、今頃知る人も少なかろうが目下、中京名古屋の舞踊界で活躍している、南条舞踊研究所高江洲康宏君の兄である。したがって、麦と三念の間にはわれわれにもうかがひ知れない緊密な俳交があった。それから麦門冬には莫夢山人といふ号があり、それもよく随筆なぞを物していたのは、未だ記憶している人も多かろう。

その代わり、落紅といふ歌号は十中八九知らないだろうと思ふそれを特に私が知っているのは少し理由がある。といふのは例の新詩社の「明星」が百号で廃刊し、それに代わる「昴」が森鴎外博士を主格に、与謝野夫妻を顧問として、北原、吉井、茅野、大田(木下杢太郎)、平野それから一代の才人石川啄木君なぞによって発刊された、当時彼が落紅の筆名で、しばしば短歌の一般投稿欄のトップを切っていた折あたかも在京当時の私がその雑誌の同人格で果敢ない命脈を繋いでいたからである。とにかく、麦門冬といふ男はある一時、新聞記者といふ立場に於いて反対党の或政敵からは「化け者(モン)とう」といい囃された程、得体のわからない豪ら物だった。そもそも、末吉安恭が書斎から街頭に出た当初は、何の変哲もない一文学青年に過ぎなかったが、天稟と努力による彼の行くとし可ならざるは無き学殖と端倪すべからざるその才能は、いつしか県ソウコ界の寵児たらしめたのであった。おそろしく筆まめの男で、編輯締切間際になって記事が不足し、他の記者が徒に騒いでいる時でも彼は悠然として神速に、何かを書き上げてその穴を埋めていた。しかもそれが良い加減のものではなかった。酒と来たらそれこそ眼がなかった。飲むと矢鱈に煙草を吸ひその吐き出す煙で相手を巻くように能弁になり、雄弁になる彼であった。ふだんは割合におとなしかったが、酔ふとトラになって、武を演ずることが往々有った。(以下略)



山城正忠「乾闥婆城ー一名、尋牛庵閑話ー」
○崖言ー黙っているのも能ではあるまい何か書いて見たらと、灰雨①にそそのかされて、久方ぶりに、筆を執り、研に親しんでみる気になった。それだけでも、私としてはよほどの発心である。もちろん、文をつづるわざに、関心を失ったわけではないこれでも絶えず、その方面に念がけているが、人に示す程のものがかけないからといふ心に、鞭うてない例の怠りである。そこで、案に向って見たものの、これといった腹案がないため、やはりいけない。よんどころなく、筆を投じ、数年来珍蔵している、寄書屏風に対座して見た。何かそれによって、暗示でもうけたいと思ったからである。
①灰雨ー國吉眞哲

夭々たる桃花と微吟したい陽春三月の光をうけて、銀の色がややすんでいるのもどことなく落付きがあって、いいものである。そこには一面に、先輩や友人たちの芳名が録されてあり、なほ、各自の心境と気魄の横溢した、書画がひしめき合っている。数にしざっと百名を越すであらふ。すべて、茅屋に駕を枉げていただいた方々の記念に残されたサインである。こうして見ていると、おのづから、いろいろの顔が浮かんで来るし、更らに、ことなった声がきこえるやうな気がして、何とはなしに、「閑忙至楽」といふ句が思ひ出される。試みに、その中から、特に異色のあるものを拾って見やふ。

「浄華雲」、敏とあるのは、暁烏敏②(以下敬称を省く。又他意なし)である。これを見ていると、あの極度の近眼鏡と、若い夫人の品やかな手が思ひ出される。「首里の青天、なはのへきれき」とつつましく書かれているのは、折口博士の事、釈ちやう空のである。薄墨の色にも、氏の人柄が窺はれて頭がさがる。「山原船」の絵は春陽会の山崎省三③。「笊を頭にのせた女」の絵は帝展の三宅凰白。これには句が賛してある。曰く。物売りの言葉わからず梯梧散る。踊を象徴したやうな「踊」の字は石井漠④。その署名をとりまいて、圓舞するけしきに見えるとりどりの署名。八重子、洋子、みどり、静香、恵美子。因云。八重子は石井夫人である。これだけは旅館でかいてもらった。佛文はアグノエル⑤、露文はセルゲーエワ嬢。

②暁烏 敏は、真宗大谷派の僧侶、宗教家である。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。 同じ加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて加賀の三羽烏という。 ウィキペディア

③山崎省三 やまざき-しょうぞう
1896-1945 大正-昭和時代前期の洋画家。
明治29年3月6日生まれ。日本美術院研究所にまなぶ。大正5年院展に初入選。村山槐多(かいた)とまじわる。11年春陽会創立会員。昭和12年より新文展に出品。山本鼎(かなえ)らと農民美術運動をすすめた。昭和20年6月7日ハノイで戦病死。50歳。神奈川県出身。作品に「午砲の火薬庫」など。→コトバンク

④石井漠いしいばく
[生]1886.12.25. 秋田,下岩川
[没]1962.1.7. 東京
舞踊家。本名石井忠純。日本の現代舞踊の父といわれる。文学を志して上京したが,のちに石井林郎の芸名で帝国劇場付属管弦楽部員,同歌劇部第1期生となり,ジョバンニ・V.ローシーにバレエを学ぶ。 →コトバンク

⑤シャルル・アグノエルは日本・朝鮮の言語・文化を担当したパリ大学教授。1924年から八年間日本に留学し30年に沖縄を調査。沖縄に関し「琉球における死の表象の特徴について」などの論文があり、著書「日本文明の起源」(56年)が久高島の風葬などを報告した。→森田琉大学長

短冊型に輪郭をとった中に柳につばめの模様を描き、「宵闇を明るくするや、小夜楽」と句をかいたのは田谷力三。「ほのぼのと明け行く白き朝霧につつまれて着く那覇の港や」は北村季美子。紙数に制限があるから、以下友人のをぬいてみやふ。「鶏啄木」の宮城長順。「銀椀裡盛雪」の島袋全発。「喜神招福」の謝花雲石。心如水一の谷本誠。「多情無為」の上間正敏。等々。何れも其性格があらはれてほほえましくなる。その他「月橘花白ろ」の故国吉寒路。「首里城明渡し」の山里永吉、これは俳句と戯曲の題書である。一寸変わり種では石川正通の英文ゲーテの句、イブラギムのトルコ文字。ネファ。ヴアンチュウルの吉野光枝といったところ、それに島袋光裕の書と、宮城能造の絵を追加したい。大書きされて眼につくのは、時君洞の蒼勁三武郎の典雅、反対に小書きされて眼につかないのは、川俣和と藤井春洋。両氏共、国学院の出身で、折口門下であるのも、此場合、偶然の対照で面白い。
書いているうちに、紙数が尽きたから、他は割愛することにして、次回から、此欄を藉りて、私なりの考証や観察といったやふな、随筆を連載させていただく事にする。

1936年4月 山城正忠「乾闥婆城ー一名、尋牛庵閑話ー」
○一茶と琉球人ー良寛と一茶とは、私にとって、もっとも嬉しい人生の旅人であり、又、遺された句や歌を通じて、知合になったいい途連れである。しかし、ここではその一茶に就いてのみ、かきとめておく。「一茶旅日記」ーこれはその名の示す如く自ら「革命の年」と呼んでいる。彼の42歳から46歳までの5年に亘る句集を兼ねた日乗である。島崎藤村先生は、江戸の仮住居の侘しい行灯のかげなぞでその日その日に書かれたらしい心覚えの手帳だと、いみじくも追想されている、越後入村家の襲蔵に係る稀こう本で、大正13年6月18日、斯道の権威、勝峰晋風氏の解説によって遍く世の同好者に頒れたもの、私は友人川俣和氏に借覧して思ひがけない眼福を得た次第。その中から事琉球に関するものだけを抜粋して、取り敢えず手控へにしたい。左記。
     文化三年十二月十三日の条に、晴。北風。品川岡本屋にて琉球人を見る。砂明と外三人一座なり。
     同二十三日。琉球人登城。同三十日琉球人上野に入。同十二月四日。晴。行徳川岸大阪屋に泊る。琉球の医師葬。
以上。これによって、江戸上り琉球使節一行の唐人行列が、如何に江戸市民に好奇心を以て迎へられたかといふことがよく窺はれる。(以下略)

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写真左から二人目の立っているのが山城正忠、その下が上間正雄、4人目の立っているのが末吉麦門冬、その下の真ん中が渡嘉敷唯選。庭で左端に立っているのが池宮城積宝

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1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)新城栄徳「沖縄近代文芸略年表」
 1991年1月発行の『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)には「アルバム 麦門冬と正忠ー近代沖縄文壇の二大山脈ー」がある。また正忠の文芸四作品、麦門冬の文芸一作品が収録されている。1997年1月発行の『近代日本社会運動史人物大事典』の「山城正忠」は私が担当した。山城正忠の研究は、2000年7月発行の大西照雄『啄木と沖縄』、2008年6月発行の渡英子『詩歌の琉球』(砂子屋書房)などで進んでいる。前著には「『沖縄の啄木享受の歴史』の探究はここで終わりにしたいと思います。以後は沖縄の戦前の文学・芸術などあらゆる分野で愚直なまでの資料収集を行い、国吉家とも深い交流のある新城栄徳、また学生の頃から啄木の研究を続け、生前の国吉真哲と親しく、国吉の唯一の歌集『ゲリラ』の出版にかかわった宮城義弘などの研究が公にされることを期待したいと思います。」と記して私に宿題を残してくれている。最近では屋部公子さんや真栄里泰山氏が石川啄木と正忠関連で『岩手日報』の取材を受けている。

 2015年5月に沖縄タイムス1階ロビーで開かれた「琉球弧の雑誌展」を監修した。その図録に、その他の雑誌と題し次のように記した。
 本編に解説出来なかった雑誌にふれておく。山里永吉の『月刊琉球』(1937年5月創刊)に1938年、本山豊が入社した。『月刊琉球』第2巻第4号は「観光沖縄号」の特集である。その本山が1940年8月に石川文一、金城安太郎を同人にして『月刊文化沖縄』を創刊している。1944年の10・10空襲、1945年の沖縄戦で、多くの文化遺産と同様に、戦前に刊行された雑誌の多くも失われた。現在は確認できない現物も多いため、本展では雑誌にかかわる人物も柱の一つに位置づけた。戦前の人脈を見ると、雑誌と新聞は密接に結びついており、人間のつながりはまた、雑誌の性質を物語ってくれる。人脈の流れの一つにジャーナリストで俳人でもあった末吉麦門冬と、同じくジャーナリストで歌人の山城正忠を置いた。沖縄では『アソビ』や『五人』などの雑誌で文芸活動を行った山城正忠は、歌人の与謝野鉄幹、晶子の弟子であり、また石川啄木の友人でもあった。山城正忠を文学の師匠と仰いでいた国吉真哲は、山城の夢だった「啄木歌碑」建立を戦後に実現した。今回はその経緯も分かるように展示している。と、書いて戦時体制下の『月刊琉球』や『月刊文化沖縄』の解説は気が重くてふれなかった。

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 林修 の「ことば検定【テレビ朝日】」よく見ているが、26日は「愚公山を移す(ぐこうやまをうつす)」であった。これは昨日『毛主席語録』1966年北京・外文出版社を読んでいたからすぐ分かった。語録には「いま、中国人民の頭上には、やはり帝国主義と封建主義という二つの大きな山がのしかかっている。(略)この上帝とはほかならぬ全中国の人民大衆である」としている。


1923年12月 『沖縄教育』末吉麦門冬「俳句ひかへ帳ー言葉の穿鑿」
俳句に出づる故事、物名、人名や地名には随分読む人を困らすのがある。私もそれに困った一人なので、そういう句に出会す時は、必ず手ひかへに留めて置いた。而して読書の際偶その出所を発見したり、解釈を得たりする時は、又別のひかへ帳に立てて置いた。それが積もって漸く一つの物に纏ったので、我と同じからん人の為めにと本誌に投した次第である。・・・公達に狐化けたり宵の春  蕪村ー狐が化けると云うことは普通に誰も知っていることだが、これも支那から来た話ではなかろうか。西陽雑爼①に「野狐一名は紫夜、尾を撃って火を出す、将に怪を為さんとするや必ず髑髏を戴いて、堕せすんば則ち化して人となる」と。又、五雑爼②に「狐千歳にして始めて天と通ず、魅を為さす。其の人を魅する者は多く人の精気を取りて以て内丹を成せばなり。然らば則ち其の婦人を魅せざるは何ぞや。曰く狐は陰類也、陽を得れば乃ち成る故に牡狐と雖必ず之れを女に托して以て男子を惑はす也。然れども大害を為さす、故に北方の人は之れを習はす」と。
 支那では男に化けぬことになっているが日本ではこの句にあるように美男に化けて女を惑はすやうなこともあると信じられているやうだ。蕪村には狐の句が多い。「春の夜や狐の誘ふ上童」「狐火やいづこ河内の麦畑」「狐火や五助畑の麦の雨」「石を打つ狐守る夜のきぬた哉」「小狐の何にむせけん小荻原」「蘭夕、狐のくれし奇楠を烓かむ」等がある。彼が狐に興味をもっていたことが其の句の多いので知られる。此の句は敦盛卿のやうな美しい公達に狐が化けたと云ふので、それがいかにも春の宵のあやしき心持に調和した美をなすのである。かうした美しい怪物のあらはれるのも春の宵でなければならぬやうな気がする。狐忠信の舞台も春であるからこそ榮えるのである。
①名の「酉陽」は、湖南省にある小酉山の麓に、書1,000巻を秘蔵した穴が存在するという伝承に則っている。内容は、神仙や仏菩薩、人鬼より、怪奇な事件や事物、風俗、さらには動植物に及ぶ諸事万般にわたって、異事を記しており、中国の小説あるいは随筆中においてその広範さは一、二を争う。魯迅の愛読書であり、南方熊楠が、プリニウスの『博物誌』と名を比した書としても知られる。→ウィキペディア
②中国,明の随筆。謝肇せい (しゃちょうせい) の著。 16巻。全体を天,地,人,物,事の5部に分け,広く自然現象,社会現象の全般にわたって,その見聞,意見を記したもの。その観点は合理的な傾向をもち,当時の社会の矛盾を鋭く描く部分もあり,貴重な資料となっている。テキストの伝世に関しては、不明な点が多く、後集10巻の中には、明代の遺文を蒐集した部分が少なからず含まれるとされる。→コトバンク

1911(明治44)年1月1日  『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖(1)」
○古手帖ー冬篭り独り凡に侍つかかつて渋茶に咽を濕し乍暮るる●の早きを惜しみフト垢擦れた古手帖の眼につくままに抽き出して彼処此処拾ひ読みをして見ると僕も随分物数奇であったと見えて能くもこんな色んな物を書き取ったもんだ。此等はいづれ雑書類を繙読してその当時は少なくとも興味を以てしたもんだから今から見ると余りドットしないけれど紙屑買に渡す気でこう原稿紙の四角い物に入れて見ようといふ気になる。右は蜀山人の仮名世説にある大平の逸民の状態はこんなものであった。この超波①は作家として左程●い物ではなかったろうが兎に角、蕪村七部集②にも出ている「五車反古」に載っているのは下の四句だ、早乙女や先づひいやりと庭の先/祇園会や胡瓜花さく所まで/我屋根をはつれてゆかし天川・・・
①清水超波 しみず-ちょうは
1702-1740 江戸時代中期の俳人。
元禄(げんろく)15年生まれ。江戸の人。味噌(みそ)商だったが,家業をきらい,桑岡貞佐(ていさ)の門人となる。のち点者となり,独歩庵超波を名のった。元文5年7月27日死去。39歳。通称は長兵衛。初号は長巴。編著に「紙蚕(かみかいこ)」「落葉合(おちばあわせ)」など。→コトバンク
②蕪村七部集ぶそんしちぶしゅう
江戸時代後期の俳諧撰集。菊屋太兵衛らの編。文化5 (1808) 年刊。与謝蕪村関係の代表的俳書『其雪影』『明烏』『一夜四歌仙』『花鳥編』『続一夜四歌仙』『桃李 (ももすもも) 』『続明烏』『五車反古』の8部を収めたもの。

1月7日  『沖縄毎日新聞』安元碧海「沖縄の人物地理」 



1月10日 『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖ー緑雨の『おぼへ帳』に・・・」   

1939年8月 斎藤緑雨『あられ酒』岩波文庫/1991年7月 斎藤緑雨(編・中野三敏)『緑雨警語』冨山房百科文庫
 
三人冗語ー森鷗外主宰の雑誌《めさまし草》第3~7号(1896年3月~7月)において,鷗外,幸田露伴,斎藤緑雨の3人が行った作品合評。〈頭取(とうどり)〉(鷗外)による作品紹介に続いて,〈ひいき〉〈さし出〉などの変名の人物が批評する形式をとる,最初の匿名座談会形式の文芸時評。当時の批評界の権威として,多くの作品を辛辣に批判したなかで,樋口一葉の《たけくらべ》に対する批評(第4号)は,この小説を絶賛し,彼女の文名を一躍高めたことで有名である。 /1957年12月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書7』「尾崎紅葉 落合直文 齋藤緑雨 原抱一庵 小泉八雲」昭和女子大学光葉会

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2000年4月 小泉時、小泉凡『文学アルバム 小泉八雲』恒文社〇1887年、カメラ(フランス製ディテクティヴ)106ドルで購入/1890年4月、横浜港到着/1891年11月19日、熊本の春日駅(現・熊本駅)に到着、加納治五郎第五高等中学校校長が』出迎え。12月6日、チェンバレンからの手紙で琉球の魅力を教えられる。1893年3月、琉球旅行を終えたチェンバレンが帰路に来熊。9月26日、沖縄県尋常師範学校の生徒49名が来校し歓迎行事。



1984年4月 土井晩翠顕彰会『土井晩翠ー栄光とその生涯』宝文堂〇/1933年9月9日、25歳で亡くなった土井英一の遺書で『荒城の月』の作詞者で知られる土井晩翠が帝国図書館(現・国際子ども図書館)の前庭に建立した小泉八雲記念碑。土井晩翠も東京帝大時代の小泉八雲の教え子。

1924年  石川正通、東北帝国大学法文学部文学科入学。在学中、土井晩翠の寵愛を受けた。
1934年4月15日『琉球新報』に山城正忠「旅塵抄」の連載がある。その16回に「東京も琉球」と題し、東京の石川正通を訪ねたときのことが書かれている。☆山城です。と名乗りを上げると、矢庭に襖が放いて、見知り越しの奥さんが顔を見せる。上がれといふので、遠慮無しにあがった。小ざっぱりとした、八畳の間である。(略)額が二面、襖の上にかかっている。ひとつは、英文で斎藤秀三郎先生の毛筆揮毫だとすぐ判った。勿論、私にそれが読める筈もないが、かねて此家の主人から、その事をきいて居たからである。今ひとつは、巻紙に書いた手紙を表装したもので、おしまひの処に、短歌が一首、書かれて有ったやうに覚えて居る。能くこなされた筆づかひで、酒悦な風格を偲ばせる迫力があった。何人の心憎い業であらうかと、態々立上ってみると「晩翠」といふ署名が鮮やかに、私の網膜に映った。それと同時に、これが、その昔、有名な「天地有情」によって、一代の詩名を謳はれた、土井先生の筆蹟だといふ事を知ったので、一しほ、懐かしく仰がれた。(略)こんな閑寂な処にいて、常住心を落ちつけていたら、きっとそのうちには、自然の脈搏が聴かれるだらう。そしたら、思ふ存分に、自分の貧しい想も練られて行くにちがいない。などと、空想してる所へ「ハイサイ。イチメンソウチャガ」と、例の開けっ放しな聲で、斯う云ひ乍らはいって来たのは、紛れもない、あるじの石川正通君であった。 

1973年6月 雑誌『青い海』通巻24号 「インタビュー/中野好夫ー沖縄と私」
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 法政大学の沖縄文化研究所は中野好夫の沖縄資料センターが核になって設立された。□1961年8月『資料ニュース』№1「沖縄問題に関する資料の展示と懇談の会参考資料」。1963年12月『沖縄資料ニュース』№15「沖縄資料センター資料目録」。1964年6月、島田叡氏事跡顕彰会『沖縄の島守島田叡』中野好夫「最後の沖縄県知事」。1972年3月、中野好夫『沖縄と私』時事通信社。1982年3月、『沖縄資料センター目録』法政大学沖縄文化研究所。1982年7月『法政』№324・外間守善「中野好夫記念文庫について」。1985年4月『マスコミ市民』№201「追悼・中野好夫先生」、6月『新沖縄文学』第64号「追悼特集・中野好夫と沖縄」。1985年、屋宜宣仁『沖縄の日本復帰闘争あのころ』。
□6月10日ーモノレール美栄橋駅で屋宜宣仁氏と出会う。元気そうで何よりだ。

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2005年1月『世界』中野利子「漢那憲和のこと」
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新星出版で左上から新城栄徳、松島弘明社長、下左・松居州子さん(漢那憲和の孫)、中野利子さん
中野利子
1938年東京生、慶應義塾大学文学部卒。父は中野好夫、母方の祖父は土井晩翠。私立高校教員、公立中学校教員、定時制高校教員、産休補助教員等を経て、フリーライター。著書は「君が代通信」「教育が生まれる-<草の根>の教師像」「教師たちの悩み唄-10の人生ドキュメント」「H・ノーマン-あるデモクラットのたどった運命」等。93年「父中野好夫のこと」により日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。

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2020-5-24 左、沖縄県立博物館・美術館/ヤマダ電機 テックランド那覇本店/黄金森公園入口/右、泊小学校


2020-5-23 中の橋/右、ローソン前島一丁目店/左、ユニオン 前島店/美栄橋駅



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 斎藤 陽子(Walnut, California)5-28日本時間 新型コロナウィルスで相変わらず外出禁止中の、自宅待機生活も71日目です。ロスアンゼルスは非常事態解除は段階的に行うとのことで、まず最初に1週間前には生産工場などの解除がされましたが、今日はほとんどの美容院と理髪店がカリフォルニアで再開できるようになったとの発表がありましたが、人々の生活は今しばらく静かに耐えていなければいけない生活です。ラスベガスのカジノは6月4日から再開の様ですが、外国観光客も今はアメリカに入国できす、アメリカ国内の人々も、まだ自宅待機中とあっては果たして、以前の様な賑わいの有るラスベガスに戻るのも、なかなか時間がかかることでしょう。
 果樹大国の南カリフォルニアの今日の気温は34℃と夏日ですが、夜は13℃ほどとは砂漠気候の夜は冷え込みます。日中は豊かな太陽の陽と、朝夕の急激な冷え込んだ気温で、一日の温度差が大きいお陰で、果物の糖度を生み出す作用となると言われ、南カリフォルニアは豊かな、果物生産地帯となっています。わが庭のイチジクFig(無花果)も豊かな太陽を浴びて、ワイルドに育って、今日は今年初めてのイチジクを収穫しました。これから10月までは小鳥が先か人間様が先かの、小鳥との収穫戦争が始まります。不老長寿の果物と言われているイチジクに、「無花果」という名がついたのは、花を咲かせないで実を付けるように見えることからの、由来の漢語と言われています。
 イチジクの原産国はアラビヤ南部といわれて、旧約聖書の中にはアダムとイヴが裸に気づき、イチジクの葉を覆いとして使用したことは誰でも知っている話いですが、イチジクは世界最古の果樹植物とのことです。メソポタミアでは6千年前から栽培され、古代ローマでは最もポピュラーな果物だったそうです。
ヨルダンでは新石器時代の遺跡から1万1千年前のイチジクの化石が出土したとの記録があるとのことです。アメリカではイチジクは腸整剤の役割をすると、高齢の人に乾燥イチジク愛好者は多いです。カリフォルニアの最も南の、メキシコとの国境の街サンディエゴでは、9月にイチジク・フェスタ(Fig Fest)が開催されます。

 「東洋経済オンライン」5-28 ジム・ロジャーズジム・ロ「日本は20年後、必ず没落する」「日本のみなさんは、オリンピックが2021年に開催されるかどうかが心配だろう。だがそれよりも、その後の債務のことをもっと心配すべきだと言いたい」


 全国ネットママの会@愛知 2020-5-27 暑い季節は特にマスクだけでもストレス。福岡や大阪一部使ってるフェイスシールドなんてもってのほか。しかも食べる以外外しちゃいけないなんて、、つけ外しの自由もない。危ないしストレスだし首輪つけられてる家畜とそう変わらない。ここまでしなくちゃヤバいなら、再開に無理があるレベルです。とにかくオンライン授業の整備が最優先ですね。

 斎藤 陽子(Walnut, California)5-26日本時間 5月最終の月曜日の今日はメモリアル・ デー(Memorial Day)戦没者追悼記念日の公休日で、アメリカの今週末は三連休です。近くの墓地の軍 人専用のセクションは第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などの、これまでの軍人戦死者の墓地は広大な敷地で、軍人墓碑には星条旗の小旗が祀られていす。
 このメモリアル・デーは古くは1865年南北戦争で亡くなった北軍兵を称えたのが始めと言われていますが、以来、アメリカは第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そして今に続く中東の紛争と、沢山のアメリカの兵士が戦場で亡くなっています。1865年に兵役中に亡くなった人を追悼することから始まったメモリアル・デーですが、1967年に国民の公休日として制定され、歴代大統領はこの日アーリントン国立墓(Arlington National Cemetery)に花束を捧げるのが恒例となっています。
 各地のアメリカ国旗の星条旗は、今日は半旗になっています。戦場で兵役中に亡くなった兵士の遺族は慰霊祭やお墓参りに行き、墓参りの後は肉親や親戚家族が集まって、自宅裏庭などでBBQなどをして故人を偲ぶ日です。敵国、友国にかかわらず、戦争というのは人が人を無意味に殺し合い、自国を誇示する行為は誠に愚か極まりないことです。沖縄戦の痕をなまなましく見て育った78歳としては、戦争の悲惨さ愚かさを身をもって知っております。この地球上に戦争の無い日が来ることを切に祈っております。

 目取真俊ブログ5-25 全国すべての都道府県で緊急事態宣言が解除された。沖縄防衛局からすれば、早めに工事を再開したいだろうが、沖縄は県議会議員選挙がまじかに迫っている。下手に工事を再開すれば、県内の自民党、公明党が猛反発するだろう。

 斎藤 陽子(Walnut, California)5-25日本時間 明日 月曜日はメモリアル・ デー(Memorial Day)戦没者追悼記念日の公休日で、アメリカの今週末は昨日から三連休です。すでに新型コロナウィルスで2か月以上もの間、外出禁止の自粛生活では、三連休のお休みの嬉しさも少なめです。アメリカで車を借りて観光をした人は、アメリカでも最大手のレンタカー会社 Hertzにお世話になった方も多いと思います。昨日土曜日このHertz社が破産したとの、大きなニュースが全米を掛け走りました。1925年日本で日本初の本格的な自動車、白楊社のオートモ号が最初に生産開始しされる以前に、Hertz社は1918年に米シカゴで創業し、「Hertz(ハーツ)」ブランドのレンタカー店を空港を中心に展開していた会社です。5月22日 連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用で、破産申請し、負債総額は日本円でおよそ2兆円と見られていて、大型「コロナ倒産」となります。なお、ハーツによると欧州、オーストラリア、ニュージーランドを含む国際部門は破産申請の対象外とのことです。ハーツは1世紀以上の歴史を持つレンタカーの老舗で、2019年末時点の世界の従業員数数は約3万8000人の社員がいました。
 アメリカの失業率は4人に一人との深刻な事態です。州によってその失業率も異なり、最もひどい失業率の1位の州はラスベガスの有るネバダ州です。米国でも最もキラビヤカナな街、ラスベガスで4人に1人どころか、3人に1人の失業率と言ってもいいほどで、24時間、年中無休で稼働していたラスベガスですが、非常事態宣言以来、全てのカジノは閉鎖されて、現在人っ子一人として歩いてない街となり、カジノを支えていた裏方の人々の、失業率は相当数といいます。失業率2位が、自動車産業を抱えているミシガン州、3位が観光産業を生業としているハワイ州とのことです。1週間前から非常事態が段階的に緩和されてきたカリフォルニですが、まず最初に工場関係が稼働し始めて、高速道路には幾らか車が埋まってきましたが、まだ飲食店や学校などの、人々の暮らしは厳しい自粛対象にあります。
 さてアメリカは自粛中の明日 月曜日はメモリアルデー(戦没者追悼記念日)を迎えますが、思い出されるのが南カリフォルニアから10号線で車を南東へと走り、4時間ほど経つと見渡す限り何もない砂漠地帯となり、アリゾナ州に入る手前の砂漠の中の高速沿いに、ぽつんと「パットン将軍記念博物館」(General Patton Museum 入場料大人20ドル)があります。南北戦争から三代続いた軍人の家に生まれた、陸軍大将 ジェネラル・スミス・パットン(George Smith Patton Jr.1885年~1945年)が、この砂漠地帯で機甲師団の団長として、第二次世界戦に向けて、彼のモットーである「大胆不敵であれ!」の精神で、砂漠地帯での戦闘訓練を大々的に展開した将軍が、この地に砂漠戰訓練センターを開いていた処です。
 パットン将軍は砂漠での交戦を想定して、このカリフォニアの砂漠地帯で、機甲師団への過酷な訓練を行い、その後、彼はシチリア島上陸作戦からドイツ敗戦まで戦い抜き、機甲師団を指揮し歯向かう敵を粉砕しました将軍で、「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめた、アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から「砂漠の狐」の異名で世界的に知られた北ロンメル将軍率いるドイツ軍の戦車部隊と、アフリカで戦ったことは有名で、アメリカとドイツとの闘いで決定的なアメリカ側の勝利を導いた将軍でもあります。パットン将軍は第二次大戦にアメリカ第一軍師団の指揮を執って、ノルマンディー上陸作戦で活躍した将軍でもあります。

 この博物館の裏庭には、ドイツ軍と戦った当時のアメリカの戦車が展示されて、軍隊に興味の有る人は寄って行く処です。パットン将軍の戦いの映画は戦後数本作られていますが、中でも1970年に制作された映画『パットン大戦車軍団』は、43回アカデミーで、作品賞、監督賞、主演男優賞、脚本賞、編集賞、美術賞、録音賞、と7部門も受賞しています。強引な独断的で強気な行動を取るパットン将軍に、トランプ大統領が似ていると、ときどき揶揄されることもあります。


維新流!吉村大阪府知事①が大阪モデルだと通天閣の信号が黄色になっちゃうので、こっそり基準を変えていた笑笑 山中教授「結果を見て基準を変える。大阪はもはや科学じゃなく政治が基準」
 ①1998年(平成10年)3月九州大学法学部卒業。 卒業後の1998年10月、司法試験に合格し、2000年に弁護士登録。熊谷信太郎弁護士の法律事務所に勤務。 この時期に弘中惇一郎とともに大手消費者金融武富士の訴訟代理人を務める。→ウィキ

  「くろねこの短語」2020年5月25日ー(前略)ところで、世界中の権力者がコロナ・パニックを利用して、強権体制の強化を図っている。トランプしかり、初老の小学生・ペテン総理しかりなんだが、なかでも中国の習近平の香港に対する抑圧・弾圧はどんどんエスカレートしているようだ。このままだと、デモ・集会が一切禁じられているマカオのような存在に香港はなっていくに違いない。
 翻って、日本はと言えば、検察庁法改悪はどうにか見送りとなり、種苗法が先送りとなったは言え、まだまだ火事場泥棒的に成立を画策している法案があるんだよね。年金改革法案もそのひとつなんだが、なかでもメディアが完全スルーしている法案がある。それが、「スーパーシティ法案」なるもので、「人工知能(AI)やビッグデータなど最先端の技術を活用し、未来の暮らしを先行実現する『まるごと未来都市』をつくる」というもので、ザックリ言って、「AIによる監視社会」を目的としたものなんだね。

 テンピン黒川の賭けマージャン騒動のすきをつくようにして、22日には、「スーパーシティ構想」を盛り込んだ国家戦略特区法の改正案(スーパーシティ法案)が、参院地方創生・消費者問題特別委員会ですでに可決されている。もはや、「スーパーシティ構想」は具体的に動き出しているってことだ。これには、あの口入れ屋のヘイゾーが深く関わっているようで、今週にも成立しそうな気配だから、ご用心なのだ。
 
〇政府・自治体、民間企業、そして個人とそれぞれが独立して所持している情報を「国家戦略特区データ連携基盤整備事業」と称して一元化することは民間企業や政府に、納税の状態や既往症、位置・移動情報や商品の購買歴といった個人情報が渡ることになります。こういった個人情報をデータとして政府や企業が共同で扱うことは、住民の権利侵害です。


 大濱 聡 5-24■5.17(24日再放送)放送のNHK「BS1スペシャル デジタルハンター~謎のネット調査集団を追う~」は見応えのある番組だった。PCを操りFBなどSNS上にUPされた動画や写真、データなどを解析し、世界的な疑惑の事件の真相に迫る調査集団を追ったドキュメンタリー。■アフリカでのカメルーン軍兵士らによる母子銃殺事件、ロシアの関与が疑われるウクライナ上空でのマレーシア航空機撃墜事件、新型コロナウイルスの震源となった武漢での惨状の実態など、政府当局が隠蔽しようとした「不都合な真実」の真相が次々と暴かれていく。その手法がスゴイ!■「ベリングキャット」(調査集団の名称)、「オープンソース・インベスティゲーション」(革命的といわれる調査報道手法)、新聞社の「ビジュアル・インベスティゲーションチーム」etc――聞き慣れない横文字に必死についていく。■BBCや「ニューヨーク・タイムズ」はゲームオタクだった彼らをスカウトし、その成果を放送や新聞のスクープ報道につなげているが、日本のメディアはどこまで進んでいるのだろうか。
 【関連】☆1924年5月10日、ジョン・エドガー・フーヴァー司法省内の捜査局(Bureau of Investigation:BOI)の長官に任命。○「2007年2月 マルク・デュガン 中平信也『FBIフーバー長官の呪い』文春文庫□貴族の出自を自慢していたジャクリーンの父親の祖先は、じつは無一文の入植者にすぎない。彼女の父親が金持ちになったことはたしかにあったが、財産は大恐慌の時に全て失われていた。人生に敗れた遊び人で、度重なる飲酒からアルコール中毒になり、その病状は結婚式で娘と腕を組むことができないほど深刻だった。ジャクリーンの母親はリー姓のフランス系アイルランド人だと公言していたが、実際はレヴィという姓のユダヤ人だった・・・

FBIフーバー長官の呪い (文春文庫) – 2007/2 /沖縄テレビ「奇跡体験!アンビリバボー:市民が窃盗団結成★FBIから極秘文書を盗み出せ」

 【関連】☆1956年11月 木村文平『米軍の諜報機関』東京ライフ社〇苦しい戦いが終わって、ほっとしたのも束の間、われわれは、更に恐怖の占領統治に喘いだ。日本の軍閥にとって代わった連合軍は、口に自由を唱えながらも、その実腹の底は搾取一途だった。占領下、苦難の七年間!彼らは政治を動かし財政を牛耳り、労組を弾圧し、言論出版の自由を認めながら、窃かに親書にさえも検閲を強化した。ある者の身辺には常に密偵の眼が光り、MPの拳銃が威嚇しつづけていた。本書は、かつて米軍の出先諜報機関の一員だった著者が、彼らの行動を衝いたものである。

 【関連】☆『沖縄タイムス』2018年5月29日 -【ジョン・ミッチェル特約通信員】在沖米軍の広報活動には、米中央情報局(CIA)が指南した沖縄世論操作の手法に沿った例が多くみられる。
 【関連】☆『東京新聞』2017年6月2日 ー 「監視システムを日米共有」 スノーデン氏との一問一答 米中央情報局(CIA)のエドワード・スノーデン元職員-エックスキースコアは何ができるのか。
 「私も使っていた。あらゆる人物の私生活の完璧な記録を作ることができる。通話でもメールでもクレジットカード情報でも、監視対象の過去の記録まで引き出すことができる『タイムマシン』のようなものだ」「エックスキースコアを国家安全保障局(NSA)と日本は共有した。(供与を示す)機密文書は本物だ。米政府も(漏えい文書は)本物と認めている。日本政府だけが認めないのは、ばかげている」-日本の共謀罪法案については。「(法案に)懸念を表明した国連特別報告者に同意する。法案がなぜ必要なのか、明確な根拠が示されていない。新たな監視方法を公認することになる」「大量監視の始まりであり、日本にこれまで存在していなかった監視文化が日常のものになる」

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