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二千円札 「二千円札大使認定証」二千円札流通促進委員長・湖城英知/サンクス平尾(平尾本通商店街)。リトル沖縄として有名な大正区平尾の商店街

『あまから手帖』1993年6月号


大阪の沖縄関係資料室に守礼門の扁額「守禮之邦」の拓本がある。沖縄学の祖、伊波普猷は1932年10月『琉球新報』「『首里』の語源は結局わからないー東恩納学士の浦添旧都説を裏書きすべき一史料」の中で、尚眞王以前は瑞泉門が正門、守礼之邦の最初の意味は「首里親国」「しよりくに」とする。

改訂前のチラシ


2010年7月28日ーギャラリートーク 湖城英知「2、000円札発行について」写真・左から、新城栄徳、渡口彦邦氏、講師の湖城英知氏(沖縄海邦銀行元頭取、沖縄都市モノレール元社長)、大城宗憲氏(株式会社南都会長)、那覇市民文化部の島田さん。/2010年8月4日ーギャラリートーク 宮城篤正氏を囲んで。

1428(尚巴志7)年ー国門を創建す。傍に曰く、中山と(旧記に曰く、中山の2字は内官柴山進めて以って額と為すと)
1477年ー歓会門創建
1534年ー陳侃『使琉球録』「是の日黎明、世子、衆官をして館門の外に候たしめ、詔勅を導引して国に之く。国門は、館を距たる路三十里、山海の間に介在す。険側高卑斉しからず。砥の如く矢の如く能はず。将に国に至らんとす。五里の外に牌坊一座有り。扁して中山と曰ふ。此れより以往、路皆平坦にして九軌を容るべし。旁に石墻を壘ね、亦百雉の制の若し。世子、此に候つ。龍亭至りて、五拝三叩頭の礼を行い、之を国門に導く。門は歓会曰ふ」
1561年ー郭汝霖、李際春渡琉□『重編使琉球録』「国につくとき、その五里外に、一座あり、『中山』の額がかけられている。これから先は、道はすべて平坦で、九軌をいれることができる。道のかたわらは、石垣をつみあげて、百雉の制ににている。世子はそこ(中山坊の所)で待っていた」
1606年ー夏子陽『使琉球録』「吉日を卜して万暦三十四年七月二十一日に封王礼を挙行した。この日の明け方、世子は衆官をしてすべて吉服せしめ、天使館の外へ出迎えさせた。私は詔勅をささげて龍亭の中に安置したてまつり、国王と妃へ頒賜される服と物とを取って彩亭の中に置いた。儀注通りに国へ前導した。路の両側はすべて兵を並べて儀衛とし、隊伍を整えて立っていた。国は一里ばかりで、坊があり、その額に『中山』とある。ここから進むと首里坊である。現在は『守礼之邦』の額である。わが中国の声数の及んだことを記したのである。天使館から東へ行き、ここにつくと、地勢はやっと平坦となる。世子は守礼坊の下で出迎え、龍亭の到着を見るや五拝三拝叩頭の礼をおこない、国門へ案内した。門は『歓会』という」(原田
1719年ー徐葆光、海宝が冊封で渡琉→□『中山伝信録』「中山王府ー坊牓があって『中山』という。道の南に安国寺がある。その向い側の町並の、切石を積んで削いだような石垣があるのが世子邸である。道の両側は、すべて切石の低い石垣で、高さは三,四である。道の真ん中に、蘇鉄の一叢があり、まわりを石で囲っている。更に進むと半里ばかりで坊牓があり、『守礼之邦』とある。中山王は、平伏して、詔をこの坊の下の道のかたわらで迎えた」(原田訳)
1731年11月ー『琉球国旧記』「坊楼ー1392年、閩人三十六姓を賜り、文教は大いに明らかとなり、礼楽は日々に新たとなり、中国同様の世となり、礼楽制度は中華とちがわなくなった。太祖皇帝は、これをおほめになり、『守礼之邦』と申された。後に、改めてこの額をかけた《昔は、いつもは『首里』の額をかけており、勅使がお出でになった時だけ、改めて『守礼之邦』の額をかけていた。近頃から、常時『守礼之邦』の額をかけている》。」(原田訳)
1756年ー周煌『琉球国志略』「世子は、衆官を従えて、守礼坊の外で平伏して(勅使を)迎える。龍亭はしばらくとどまる。世子と衆官は立ち上がる。天使は、前へゆき、龍亭の左右に分かれて立つ。引礼官が『排班』と唱える。世子は衆官を従えて、三跪九叩頭の接詔礼を行う。世子は前導して国門(歓会)を入り、正殿の下に立つ」
1853年6月ーペルリ、首里城訪問□→1926年10月ー神田精輝『ペルリ提督琉球訪問記』/1935年3月ー土屋喬雄『ペルリ提督日本遠征記』弘文荘/1947年2月ー大羽綾子『ペルリ提督遠征記』酣燈社/1962年6月ー外間政章『対訳ペリー提督沖縄訪問記』研究社/1985年10月ー金井圓『ペリー日本遠征日記』雄松堂

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1879年2月ー渡邊重綱『琉球漫録』「首里ハ主府ニシテ中頭省南隅ニアリ其地高燥十丁方余十七ヶ村ニ分ツ王城中央ニアリ西ニ面ス墻壁橋梁石ヲ畳ンデ造ル第一門ヲ中山ト曰フ(毎門名号ノ扁額アリ)第二守禮(守禮之邦明帝ヨリ贈ル)第三歓会第四瑞泉ー」


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1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図会』東陽堂

1905年4月22日ー『琉球新報』籠城夫「嗚呼中山門ー嗚呼首里の生命」
4月27日ー『琉球新報』放浪生「嗚呼中山門」
1907年
12月18日ー『琉球新報』東恩納寛惇「守礼門考ー坦々たる首里街道の正面に千古の翠色を堪えて立っている守礼門は、今尚暗黙の裏に中山の古い歴史を語って居るが、其のささやきに耳傾けたものはいない。曾つて其下をくぐった長袖寛帯の支那人も、碧眼黄髪の西洋人も、乃至は肩で風切った薩人も、甚だしきは沖縄の物識先生も、皆此の活きた歴史に就いて表面の解釈を下しているに過ぎない。それが物数奇な旅行者の日記に書きこまれて諸方に撒き散らされ、沖縄を誤り伝ふる一の材料となっているー」
1908年6月4日ー『琉球新報』「中山門の入札の結果ー仝門は一昨日正午十二時頃額面及び敷石を除くの外全部入札を挙行したるが入札者七名にて(略)首里区字寒川水旧三十七番地宮里加那が五十二圓二十七銭にて落札したる由」
1909年7月11日~12日『琉球新報』東恩納寛惇「歴史的遺物の保存に就いて識者に協るー(略)吾々は昔中山王国の正門で有った処の中山門を、僅かに三十弐円の薪として売り払った者の罪を、天下後世に鳴らす積もりである。諸君、吾々は上下幾千年に亙る郷土の歴史を調べて、吾々が誠に優秀な国民で有ると曰ふ自覚の上に立って、自ら琉球人たる事を天下に名乗るを矜りとする者であるー」
12月ー東恩納寛惇『大日本地名辞書』(第二 琉球)「中山門跡」「守礼門ー中山門は、当初板葺なりしを、康煕二十二年瓦を以て覆ひたり、守礼門も同様なるべきか。○山里親雲上系譜云、康煕二十二年辛酉三月八日、修補中山門、任惣奉行職、此時改版木蓋以工瓦。-」
1917年8月ー親泊朝擢『沖縄県写真帖』(守礼門)
1919年8月ー『琉球案内』沖縄實業時報社(守礼門)
1920年9月ー親泊朝擢『沖縄県案内』(写真・首里守礼門)
1923年6月ー眞境名安興・島倉龍治『沖縄1千年史』日本大学□「中山門ー球陽に云ふ宣宗使を遣はし、皮弁冠を賜ひ、並に生漆及び各色磨石を買はしむ。宣徳三年(尚巴志即位七年)創めて國門を建て、榜して中山と云ふと」「守禮之邦ー球陽天正七年の條に首里坊門の榜字を易へて守禮の邦といふとあり。蓋し本國支那に通じてより職を修め、貢を入れ、書を読み、禮を学ばしむ。仍って明の太祖称して禮義の邦と為す。嘉靖年間禮部奏して曰く、琉球は海中の諸國に在りて頗る守禮と称す。又尚永王封を受くるとき、制詔に云ふあり、世々職貢を修め、守禮の邦と称するに足ると。是に由り、王法司に命じ、始めて守禮之邦の四字を以て額と為す。然れども平常はただ首里の二字を用ひ、冊使賁臨に会する毎に守禮之邦の四字を以てするを例とすと。康煕二年(寛文三年皇紀二三二三)癸卯始めて榜字を定め守禮之邦と曰ふとあり」
1932年6月 『婦人公論』久志冨佐子「滅びゆく琉球女の手記」(カット・守礼門)1940年
2月ー大阪戎座で「中山門建築史/ターバーゼーク」
10月ー日本民芸協会『工芸』百三号 柳宗悦□守禮門ー首里城の第2の坊門である。姉妹であった中山門が哀れにも破壊せられて了った今日、此の門が守護を受けて保存せらるるに至ったことは感謝の至りである。構造は支那に発するであろうが、よく咀嚼して独自の風格を示した。結構、均等甚だよく、特に4個の脚柱に用いられた石材の形は見事である。此の門、最初は「賢待門」と呼ばれ、後に「首里門」とも称へられ、又俗間「上の鳥居」とも「上綾門」とも云われた。前の大通りを此の門に因んで綾門大路と名づけた。美しく彩られた門のある大通りとの意であろう。尚清王時代の建立と云うから、今から四百年を越える。中山王国の幾多の歴史的場面は、此の門の前で行われた。一国の威厳を示した國門であって、幾度か冊封使は此の大門をくぐった。かのペルリー一行を接し迎えたのも茲である。「守禮之邦」と題した扁額は、琉球の心を語るように見える。此の門を通して遠く首里城の正門を臨む。繁栄な昔は去った。併し此の門が佇む限り日々新たなる遠来の客を集めるであろう。歴史は変わるとも文化の跡を慕る心は人間あら消えない。首里城が保護せられ、修理せられ、整備せられるなら、此の古都に新な繁栄が来ないと誰が云い得よう。


五姓田芳柳「藩使東上の図」 




詳細不明だがネット上に次の書籍が見える。富安路葭, 岡茂政著『筑後本吉清水観世音東山名所図会』昭和堂書店, 1931.5


1941年10月ー加藤三吾著・早川孝太郎校訂『琉球の研究』文一路社□「中山門といふのは首里城の第一坊で、下のアエヂョウと呼び、明の宣徳三年に欽差正使柴山が尚巴志を冊封した時に、中山といふ扁額を携へて来て此門に掲げたのであったが、今は門と共に撤去された。守禮門は第二坊で、上のアエヂョウと呼び、明の嘉靖七年に尚清王が封を請うた時の創建で、初は扁額に『待賢』の二字を掲げてあったが、中頃に『首里』の二字に改め、冊封使の来る時のみは『守禮之邦』といふ金字の額を懸けて、左右の門柱には
    嘉慶丑年歳次庚申桂秋    廿有王承冊命    三十六島環中山    錦州李鼎元題
といふ聯床を垂れたのであった。しかし後には『守禮之邦』の大額を其儘に掲げて置くことになったので、今も観光者の最も嘱目するものの一になっている」

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1974年5月ー『琉球の文化』第五号 星雅彦「安次嶺金正の芸術とその背景」
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1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)

1975年6月 沖縄県立博物館『博物館あんない』琉球文化社


1976年3月 山口栄鉄『チェンバレン 日琉語比較文典』琉球文化社 1976年5月 山口栄鉄『王堂チェンバレンーその琉球研究の記録ー』琉球文化社/写真・1978年8月ー那覇市一銀通りの琉球書院(琉球文化社)と青い海出版社の看板が見える。


1976年7月9日『琉球新報』大城精徳「沖縄よ何處へ!」/1978年1月7日『サンデーおきなわ』大城精徳「沖縄の文化を守るー用途から見た琉球陶器①」



 佐久田繁ー沖縄戦の写真、あなたでも買えます/琉球文化社の大城精徳君によると、『金さえ出せば、ペンタゴンでは誰でも買えるんだ』というのである。そして大城君が注文した写真が二か月後に、ペンタゴンから郵送されてきた。その写真をもとに私は、1977年8月『日本最後の戦い・沖縄戦記録写真集』を出版、沖縄三越で写真展もやった。


ワシントンⅮ,Ⅽホワイトハウス/18世紀当時の歴史深い建物に囲まれた、ミシシッピ川沿いのジャクソンスクエアは、特に音楽、アート好きなら絶対立ち寄りたい、現代文化と歴史がうまく調合した、活気あふれた公園です。公園内に入ると、ここをアートスタジオとする、公園中に見られるアーティストたちの才能にも絶句ものです。ご自分へのお土産に、ポートレイトやカリカチュアを描いてもらうのもいいです。

1977年5月


1979年7月 『名渡山愛順画集』琉球新報社〇刊行委員会ー池宮城秀意、石野朝季、大城精徳、久場トヨ、高江洲盛一、田積友吉郎、名渡山愛擴、比嘉良勝、又吉真三、宮城篤正、山元文子」


1979年10月『沖縄アルマナック』大城精徳「沖縄の伝統工芸ー焼き物」社会経済研究所


1979年11月『新沖縄文学』43号 大城精徳「工芸のありかたを探るー沖縄工芸界のゆくえ」



1980年 琉球文化社の前でー大城修くん、澄子さん、藤子さん



1981年 「沖縄の12人の画家たち」(國場組創立50周年カレンダー)大城精徳「島の浜辺」F60号(金城竹治氏所蔵)





1981年9月 沖縄の雑誌『青い海』106号 大城精徳「中国現地にみる 琉球文化のルーツ」






1982年1月10日 「新生美術協会」発足(大嶺政寛会長)

1982年9月『新生美術』創刊号 事務局・沖縄県那覇市牧志1-12-6 琉球文化社


1982年5月 『琉球の古陶』大城精徳「琉球の焼物について」諸見民芸館

1982年5月 新城栄徳、天久宮近くの関西沖縄県人会運動の先駆者・浦崎康華翁を訪ねる。同年9月の八汐荘の大里康永氏の出版祝賀会に同行。帰りも同行し、国吉真哲翁の家の前で「ここは親友の家」と紹介された。のちに国吉家にも出入りする。


1982年9月18日~21日 浦添市民会館中ホール『宮城篤正展』大城精徳「学術と武術と芸術の調和の上に築かれた宮城篤正の世界」/9月17日『沖縄タイムス』大城精徳「宮城篤正展に寄せて」


1988年6月28日「われら同期会」沖縄県立農林学校旧校舎の一角/出版祝賀会


1989年6月15日『沖縄タイムス』「われら同期生ー琉球大学美術工芸科10期生/照屋恒宣、宮城篤正、宮良薫、高良憲義、安元賢治、宮城孝也、神山泰治、永山信春ー同期生大城一夫さんの遺作『幹』を前に」/1968年12月宮城篤正『沖縄の美術』

1982年12月『新沖縄文学』54号 「座談会・食文化の交流ー大城精徳・高良倉吉、比嘉政夫、又吉盛清、宮城篤正」


1983年4月26日~5月1日 県民アートギャラリー(電波堂ビル2階)「第7回 大城精徳個展」/2019年12月25日「古美術なるみ堂」にてー「房指輪」「ジーファー」を見る店主の翁長良明氏、哲楽家・紀々さん→紀々の公式サイト「首里城が出来た時の龍のモチーフを見て生まれた『龍神伝説』という曲」。→ 電波堂☆沖縄ソニー坊や博物館


1983年8月21日『琉球新報』


1984年3月『新沖縄文学』59号 大城精徳「沖縄工芸産業における問題点と将来の展望」


1984年4月 新城栄徳『琉文手帖』1号「琉球風俗画六十年 日本画家 金城安太郎」津野創一/大城精徳「序」、宮城篤正「沖縄における日本画家の系譜抄」


1984年4月 大塚清吾『写真集 沖縄の屋根獅子』「座談ー琉球文化と屋根獅子/大城精徳・大城立裕・西村貞雄・大塚清吾」葦書房(福岡市)


1984年6月『琉球新報』大城精徳「中国のシーサー探訪記」/大城精徳「大交易時代の遺産と現代ー獅子像」「中国文化と沖縄―シーサー様式」




1985年11月『琉文手帖』3号「歌人 山城正忠」「歌人・山城正忠」の題字は彦根の井伊文子さん。


1986年5月『写真集 沖縄戦後史』那覇出版社 大城精徳「焦土の中から甦った画家たち」


1988年4月 『沖縄文化財百科』「監修者・又吉真三、富島壮英、宮城篤正、大城精徳、名嘉真宜勝、大城志津子、糸数兼治、嵩元政秀、当間一郎、宜保栄治郎、池原貞雄、多和田真淳」那覇出版社


1989年2月 『わたしのシーサー あなたのシーサー 沖縄獅子の魅力集』週刊レキオ社
大城精徳□獅子が中国伝来のことばであることはいうまでもないが、先に述べた日本語のシシとは違い、中国語ではライオンを意味することばなのである、しかし中国には元来ライオンは棲息していないので、この中国語も外来語だった。中国人がライオンに接したのは西域との交易を通してであった。時代は漢代であよそ2千年前である。西暦76年には今のアフガニスタンとイラン東部に興った「安息」(パルティア帝国)という国から獅子が献上品としてもちこまれたこともあった。この地方の当時のことばではライオンのことを「シ」(SHI)といった。この「シ」という音に中国では、はじめ「師」という漢字を当て、のちに犭偏をつけて「獅」になったとのことである。獅子の「子」については中国語によくみうけられる接尾語で特別な意味はない。

1989年11月 『沖縄美術全集』沖縄タイムス社 宮城篤正「琉球の陶器」/大城精徳「近・現代沖縄の焼物」

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本展は、大城精徳(おおしろ・せいとく 1928年9月14日~2007年12月17日)の絵画と資料群が一堂に会する展覧会。大城は、名渡山愛順に師事し琉球美術展をはじめ、戦後草創期のグループ展に名を重ね、琉球政府立博物館を辞してからは琉球文化社を設立し、雑誌『琉球の文化』を刊行、美術工芸論の発展に寄与した。

 昨年は「琉球文化」のシンボル首里城の大火。YouTubeでは大量に首里城に関する動画が展開されている。私(新城栄徳)は首里城は何時でも見られると思って5回しか見てなかったので、有難く拝見し琉球文化を再認識した。今のようにネットなどが手軽でない時に、「琉球文化」普及に尽力した琉球文化史研究家・大城精徳の足跡を私事を交えて見る。

沖縄県島尻郡大里村字目取真に父・大城蒲戸(屋号・大屋3男)の長男として生まれる。

1945年4月3日、観音寺(金武)本殿広場に集合、指揮班の安里源秀教頭から鉄血勤皇隊農林隊の解散の伝達。3か月間にわたる沖縄戦逃避行の末、捕虜になり屋嘉のP・Wキャンプに収容された(3か月)。→1996年6月『比謝の流れは とこしえにー県立農林四十二期回想録ー』大城精徳「沖縄戦逃避行ーメモランダム」〇1943年 沖縄県立農林学校40期ー新城安善1945年3月/沖縄県立農林学校41期―1渡口彦信/1945 沖縄県立農林学校42期―大城精徳、諸喜田達雄『比謝の流れは とこしえにー県立農林四十二期回想録ー』「わが半世の記」
1945年11月 大城精徳、久志村瀬嵩の難民収容所で家族と合流。一つ屋敷の隣人に山田真山が居た。

1988年5月『新生美術』大城精徳「40年前のことどもー大嶺政寛先生との出逢い」7号


1949年 名護にて /1949年10月25日那覇写真館にて
〇1948年8月『沖縄毎日新聞』創刊。写真中央が宮城邦貞社長、その右が与儀清三編集局長、左が松川久仁男業務局長、後列右端が大城精徳→1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社

1948年12月  新城栄徳、粟国島に生まれる。

1949年11月19日『沖縄毎日新聞』第66号
1949年 大城精徳、記者兼通訳として沖縄毎日新聞に入社。新聞は週刊で、印刷は普天間の米軍のオフセット印刷工場を利用させてもらった。その工場の南側に隣接して、戦災を免れた大きな瓦ぶきの家屋に山田真山一家が住んでおられた。その住宅の一部を新聞の臨時編集室として使わしてもらったこともある。

大城精徳が書いてくれた『沖縄毎日新聞』メモ

1950年  大城精徳、米国留学ニューメキシコ大学に学ぶ。

写真左から大城精徳、澄子さん/1950年6月 出発前ー前列左から二人目が大城精徳


1950年11月23日 感謝祭 右から二人目が大城精徳

1950年9月 ハリウッドの野外音楽堂/ホッドジン・ホールの裏山

1950年12月 ニューメキシコ大学寄宿舎にて/1952年 ニューメキシコ大学訪問 左端-大嶺政寛、そのつぎ大城精徳、右端・名渡山愛順
 
ニューメキシコ大学〇1889年2月28日に設立され、2019年に130周年を迎えた。ニューメキシコ州最大の研究・教育機関でセメスター制の総合大学。略称は「UNM」。教職員数は約6,900人。学生数は約26,000人。ネイティブ・アメリカンやヒスパニック系の教職員と学生が多い。 アルバカーキ校は、約800エーカーの広大なキャンパス。周辺にはサンディア国立研究所、ロスアラモス国立研究所、そして空軍研究所(カートランドエアフォース)がある。近年は産学連携活動と技術移転活動に力を入れている。地域医療、看護学、原子力工学、写真、多言語・多文化教育、異文化コミュニケーション研究で世界的に知られている。 留学生数は約1,500人。日本の早稲田大学、立教大学、立命館大学、立命館アジア太平洋大学、関西学院大学、京都光華女子大学等と交換留学プログラムがある。 →ウィキ

1952年 大城精徳、崇元寺・琉米文化会館職員→1969年9月『琉球新報』大嶺信一「大城精徳個展によせて」
1952年~57年 大城精徳、名渡山愛順に師事。
1952年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師就任
1954年    翁長良明、首里城跡周辺で古銭を拾って以来、古銭収集に取りつかれる。
1955年3月 大城精徳、第7回沖展に「静物」出品
1956年 津野創一、首里高等学校卒
1956年3月 大城精徳、第8回沖展に「首里風景」出品

1956年9月1日『琉球新報』

首里高等学校同僚

1957年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師退任

1957年7月 『今日の琉球』(表紙 金城安太郎「旗頭」)川平朝申「郷土の歩みー若き人々のための琉球歴史」

1958年   宮城篤正、首里高等学校卒

1958年 新城栄徳、祖父が亡くなったので、粟国島から家族で父の居る那覇に出る。父の勤める料亭「新風荘」近くの寄宮、楚辺と変わり、崇元寺に落ち着く。私は最初、琉映本館後ろの伯母宅に居候。なので、紫煙けぶる映写室で何故かゴロゴロしフィルムのひとコマを貰って遊んでいた。東映の総天然色映画は殆ど見た。崇元寺に移ってから、前島小学校4年在学中に首里の龍潭傍の博物館、図書館(今の県立図書館の前身)はよく歩いて行った。図書館で嘉手納宗徳氏と出会う。/首里の琉潭池側の琉球政府立博物館は「首里那覇港図」「首里城正殿模型」(縮尺10分の1。1953年知念朝栄制作)などよく見た。博物館の入口付近に「三ツ星印刷所」(1926年に辻町で昭和石版として開業)がある。その売店に『毛姓系図家譜』『組踊全集』などが並んでいた。中を覗き「筑登之」「○王」など読めない字に悩んでいると、主人の當間清弘氏が買いもしない子供に読み方を教えてくれた。氏は1968年に80歳で亡くなった。


1958年12月16日 二科会員・井上賢三を迎えて壺屋の料亭「幸楽」で「二科会沖縄支部」発会式。支部責任者・大城皓也。写真会員ー水島源光、山田實、親泊康哲、名渡山愛誠、島耕爾、備瀬和夫、豊島貞夫、永井博明、八幡政光、当真嗣祥、鹿島義雄。絵画会員ー大城皓也、大城精徳、山里昌弘、塩田春雄、大城栄誠、金城俊、榎本正治、友利寛、下地寛清、水田虎雄、安仁屋政栄、松川剛、浦添健、具志堅誓雄

1959年、大城精徳、琉球政府博物館に学芸員として勤務(主事補・1959年~1968年/学芸課(美術)1969年~1971年)

左端が大城精徳/左から2人目が大城精徳 1996年 『沖縄県立博物館50年史』


1957年9月 「招待美術展」タイムスホール /1958年10月 第2回 「招待美術展」タイムスホール


1959年5月『今日の琉球』大城精徳「琉米親善」/10月 名渡山愛順「風景」




1960年5月25日スミソニアンへ送る文化財選定委員会-政府会議室/1969年 首里博物館にて 




1960年夏 新城栄徳、上の蔵の「琉球史料研究会」を訪ね、『琉球事始舊記』製本中の比嘉寿助氏と雑談。

1961年 大城精徳、第1回琉球国際美術展出品(~第8回展まで出品)

1961年11月『今日の琉球』大城精徳「ワトソンさんとバブ君のこと―ある日曜日の午後の出来事」


1962年11月24日~27日「第1回 美緑会展」 那覇琉米文化会館/1962年12月 「琉球美術展」那覇琉米文化会館


1963年6月『家庭公論』第2号 大城精徳「馬と沼」






大城精徳・表紙絵 1964年2月『今日の琉球』76号「赤えんどうの花」/1961年10月『今日の琉球』48号「真昼の屋良ムルチー」

1964年4月、新城栄徳、集団就職で白雲丸に乗船、那覇港から上京、晴海桟橋に着く。後に知るが、後の芥川賞作家・東峰夫も乗船していた。途中、暴風で船は和歌山の串本に避難したのが熊野との出会いである。錦糸町駅から御茶ノ水駅で降りてニコライ堂の傍を通りながら神田古書街にも近い神田錦町三丁目の錦城商業高校夜間部に通う。神保町には新刊書店もあるが何故か古書店や古書展が面白い。古書店に積まれている雑誌は安く、主に週刊誌を買って切り抜いて手帳に貼っていた。この頃の週刊誌を切り抜かず、そのまま保存出来たらミニ大宅壮一文庫となっていた。しかし手帳は残っていない。

1965年10月~12月『今日の琉球』大城精徳「アメリカの博物館と美術館」

スミソニアン博物館のフランクA・テーラー館長に琉球絣を贈る琉球政府立博物館の大城精徳(右)、左が八重山琉米文化会館の長田信一、中央が文化人類学課のユージン・ネズ博士
○去る5月16日から8月14日の3か月間、米民政府派遣の技術研修員として、アメリカ各地の博物館や美術館などを八重山琉米文化会館館長の長田信一氏とともに視察してきた。(略)アメリカの博物館は1930年代から急速な発展を遂げ、現在では大小合わせて、全米で4千館近くもあるといわれている。これは、現在のアメリカの人口約2億人とみて、約5万人に一つの博物館という割り合いになる。この中には美術館はもちろん児童博物館や大学付属博物館、それに記念館などが含まれている。というのはアメリカでは資料を所蔵し、その調査、展示および普及教育を行っている施設は、その固有の名称がどうであれ”Ⅿuseum〟と考えられているからである。


1967年2月『守礼の光』第97号 仲泊良夫「新装の琉球政府立博物館」


1967年10月4日『琉球新報』大城精徳「名渡山愛順氏個展によせて」

1969年2月  新城栄徳、南紀白浜の 南方熊楠記念館を訪ねる。東京に行くつもりが京都駅で所持金が無くなり、京都駅近鉄名店街でコック募集の貼り紙を見て「紅屋」に就職。オーナーは京都国立博物館の国宝修理所に勤めていた。


1969年3月14日 りゅたん三味線会1周年発表会

1969年4月  大阪城公園で「沖青友の会」発足

 
1969年9月4日~9日 リウボウ4階ホール「沖縄現代作家展」

1969年9月18日~23日 デパートリウボウ4階「第一回 大城精徳個展」


1969年6月 『琉球政府立博物館館報』第2号 大城精徳「琉球の唐獅子雌雄考」

1970年3月 『琉球政府立博物館館報』第3号 大城精徳「琉球の屋根獅子」

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斎藤 陽子(Walnut, California)1-16 ちなみにアメリカでは成人式などという祭日は無く、21歳なった誕生日に、ちょっと特別に盛大にするくらいです。今日のロスアンゼルスの気温は15℃夜間は7℃とのことで幾らか温かくなった気がしますが、カナダ国境に近いワシントン州の友人の処は明け方マイナス12℃と凍り付く気温の中で、通勤に行く前に車のエンジンを温めるのにも、ひと苦労の様です。こちらロスアンゼルスでは中国系の人口が多く、もうじき迎える旧正月を迎える準備で、中国系スーパーは一段と安売りで賑わっております。写真はサンディエゴ方面へ向かう道路沿いに、溶接で作成した実物大の本物そっくりの西部開拓時代の彫刻作品の売り物、お値段は50万円なりとのことだが、無造作に道路沿いに展示されていました。


FB友たちの情報1-13●北朝鮮指導部に異変か?金正恩(キム・ジョンウン)に病気、健康不安説、一部には死亡説も。●妹の「金与正(キム・ヨジョン)」が実権を握った(代行?)模様です。●金正日の弟(金日成の息子)で、外交官として外国に追放されていた「金平一」(60?)が、昨年12月 、30数年ぶりに緊急帰国。金平一は、金正恩(キム・ジョンウン)の叔父にあたる。

  「くろねこの短語」2019年1月14日ー「馬鹿は死ななきゃ治らない」「馬鹿につける薬はない」「自慢高慢こうまん馬鹿ばかのうち」・・・なんて言葉ではとてもじゃないけど言い足らないほどの馬鹿がいる。言わずと知れたひょっとこ麻生だ。この男の暴言・妄言は枚挙に暇がないんだが、性懲りも泣くまたやらかしてくれたってね。ひとつは、12日に行われた成人式でのことで、新成人を前にこんなことのたまったそうだ。「二十歳を境に何が違うのか。飯が食える、たばこが吸える、酒が飲めるとかなんてどうでもいい。」「それより、皆さんがた、もし今後、万引きでパクられたら名前が出る。少年院じゃ済まねえぞ。間違いなく。」「それだけはぜひ頭に入れて、自分の行動にそれだけ責任が伴うということを、嫌でも世間から知らしめられることになる。それが二十歳だ。」寅さんが町工場の勤労青年を前にしてオダ上げてるんじゃないんだからね。いやしくも一国の副総理、財務大臣が人前で口にする言葉使いじゃありません。そもそも、森友学園疑獄における公文書改竄の責任をとらなかったような政治屋に、「自分の行動にそれだけ責任が伴う」なんて言われても、だから何?ってなもんです。
 さらに、昨日は国政報告会の場で、かつての鮫の脳みその「神の国」発言に勝るとも劣らない時代錯誤な放言をしてくれちゃいました。曰く、「2千年の長きにわたって一つの言葉、一つの民族、一つの王朝が続いているなんていう国はここしかない」論評する気にもなりません。メディアは「またしても失言」なんて報じているけど、これって「失言」ではなくておそらく「本音」なんだね。そうでなければ、ただの阿呆だ。「麻生節」なんてことでこれまで野放しにしてきたメディアのおかげで、ひょっとこ麻生は人としてどんどん壊れていっている。

  「くろねこの短語」2019年1月11日ー(前略)でもって、初老の小学生・ペテン総理はといえば、中東訪問の前夜祭ということなのだろう。昨夜は、日本橋の料理屋に取り巻きのメディア幹部と酒食に耽りましたとさ。参加したのは、曽我豪朝日新聞編集委員、山田孝男毎日新聞政治部特別編集委員、小田尚読売新聞東京本社調査研究本部客員研究員、島田敏男NHK名古屋放送局長、粕谷賢之日本テレビ報道局解説委員長、石川一郎テレビ東京ホールディングス専務、そして田崎スシローの面々。こんなことしてるから、新聞もTVもどんどん信用をなくしていくんだね。国民を舐めるのもいいかげんにしやれ!!


大濱 聡 1月9日 23:18 · ■Okinawa Medea Literacy――1月8日の報道から。
豚コレラに感染した疑いのある豚が、沖縄島中部の養豚場で見つかったことが7日わかった。地元二紙が朝刊で伝えていたので、朝のTVで最新情報を確認しようとしたが、NHK沖縄の朝一番の地域ニュース「おはよう沖縄」では扱わず、「野菜やかきなどの初荷式」他1本のノンビリしたニュースだった(9:55-10:00の特設ニュースで放送)。
■以前であれば、徹夜に近い取材をして朝一番で伝えたのだろうが、働き方改革の影響だろうか。かつて朝一だった7時前や、土日のお昼、夕方6:45からの地域ニュースも福岡発の九州・沖縄ブロックになってしまい、地元のニュースがすっかり減ってしまった。
■『沖縄タイムス』が社会面トップで報じた「八重山マラリア 克明な撲滅記録」。八重山保健所の元職員(故人)が残した撲滅までの資料や手記、写真など約200点が自宅に保管されていたことが「7日までに、分かった」とスクープ性を匂わせているが、これは昨年12月13日に放送されたNHK沖縄の「きんくる 沖縄金曜クルーズ」ですでに紹介されている。
 関連A・O- ローカルニュース枠の減少にとどまらず、NHKはニュースの中味もローカルではドンドン薄くなっていっている気がします。山梨県では、いわゆる発表ものや事件事故(これもそれを独自に追いかけるのではなく多くは警察発表)、それに季節の話題がニュースの9割を占めているような気がします。私の住んでいる地域は県の中心地を外れているので、季節ネタか交通事故でしかお目にかかれない状態。市政ではどこにでも起こりそうな重要な問題が起こっているのにそれを知るのは地域の無料ローカル紙かネットからです。働き方改革の結果でと言えばかっこいいのでしょうが、昔から新技術には金をかけるけど、人はどんどん減らしていく方向は変わりないような気がしますね。人減らしをして働き方改革をしようとすれば、手を抜くしか現場は対処しようがありませんね。市民生活にかかわる重要なニュースは頑張って伝えてもらいたいものですが。

 愛知ママの会1-9 森法相は大変重大な発言をしている。「日本では捜査機関から独立した裁判官による審査を経て令状を得なければ捜査機関が逮捕することはできない」。思い出そう。これほど厳正な手続きを経て出された山口敬之の逮捕令状の執行を中村格は取り止めさせたのだ。異常ではないか。

斎藤 陽子(Walnut, California) お正月から6日が過ぎ、ロスアンゼルスの気温は13℃夜間は7℃と、ポカポカと陽気なお天気がこの3、4日続き、わが家の庭の新春第一弾の花の開花はモクレンです。これから2月末までつぎつぎとモクレンは咲き続けて、初春を楽しませてくれるでしょう。

先週は日本領事館に半日も費やして「在留証明」なる書類を作成するために行きましたが、領事館はロスアンゼルスの下町のオフィス街の高層ビル内に在り、なんと駐車代金30分で2000円も取られ、3時間もかかりました。何のための在留証明かと言うと、日本年金機構へ年金を貰う為に、私が健在にこの世に生きている証明を届けるためのものなのです。毎年12月の誕生日には生死を明確にせよとの、年金機構から書類が送られて来るのですが、5年ほど生死報告を放置しておりました。ちなみに私の日本の年金は月額2000円になり、これをほんとの「雀の涙」というのでしょう、余りの少額に5年も放置していた次第ですが、チリも積もれば山となる日に期待し、30分2000円の駐車場代を払って、まじめに月額2000円の手続きをしに行ってきました。もしかして月額2000円の年金は最も小額な年金受給者の部類に入るのでしょう(笑)でも、年間ラーメン3杯は食べれます。ありがたや!この月額3000円の年金が、唯一 私と日本政府を結んでいる絆です。
幸いにもアメリカで勤勉に45年近く働いた、充分生活できる年金が有りますから、月額3000円を笑っても居れますが・・・・。ちなみに外務省の海外在留邦人数調査統計(最新2018年10月時点)によりますと、海外に住む日本人の総数は約139万人とのことです。海外でもアメリカ在住者がダントツ1位の44万人余りの日本人が居て、これは在外公館に届け出た数で、在外在住を届けてない人も合わせると、実際には50万人のアメリカ在住日本人がいるだろうと推定されています。なかでも最も多いのはロサンゼルス在住者の7万人余りで、次がニューヨークで5万人余りだそうです。

関連ーS・M 毎年、国民年金機構に在留証明証を提出しています。ボリビアはロスのように郵便局が信頼できるませんので、帰国時に持参するか、国際宅急便で送付するしかありません。しかし、私のように業務で帰国出来る者は良いのですが、南米から帰国するには20万円以上の経費が必要です。国際宅急便ですと約100ドルの送付料金が必要です。このインターネットの発達した時代に書類を提出するシステム自体、年金機構の時代遅れに腹が立ちます。

「くろねこの短語」2019年1月7日ー昨日の初老の小学生・ペテン総理の年頭記者会見ってのはスッカスッカの中身ゼロで、役人の作った原稿を読み下すだけなんだから、こんなにお気楽なことはない。さらに、記者の質問もこれまた温いもので、サクラ疑惑、カジノ汚職、中東問題etcとビシバシ攻めるテーマがあるだろうに、上っ面を撫でるだけの予定調和の質疑応答があるだけなんだから、どうしようもありません。
 で、何かと言っちゃあ「今後も丁寧に対応していく」で終わっちゃうんだから、なんのための年頭記者会見なんだか。こんなんだもの、今年も「忖度」報道のオンパレードになるんでしょうね。・安倍首相が年頭記者会見でIR汚職をスルー、米国、イランの名も口にせず、自衛隊の中東派遣強行だけは明言!・自衛隊の中東派遣、心配は「していない」 菅官房長官
 でもって、カジノ疑惑なんだが、沖縄基地利権王の下地君が中国企業から100万円貰ってたことを白状したってね。相手が受け取りを固辞したので領収書は発行してないから政治資金収支報告書には記載していなかった、なんて言い訳してるけど、理由がどうあれ政治資金規正法違反は決定です。
 当初は否定していたのにここにきて白状したということは、おそらくこのまま辞職して逮捕だけは免れようという魂胆じゃないのかねえ。ひょっとして、辞職でチャラってことで特捜と話がついてたりして。妄想だけど。下地君が白状したってことは、特捜の裏付け捜査が相当に進んでいるってことを意味しているんだろうから、いまは口をつぐんでいる名前の上がったシェンシェイたちはさぞかし眠れぬ夜を過ごしているに違いない。さあ、次にゲロするのは誰だ!?
■関連ー19年1月発行の「沖縄問題、解決策はこれだ!これで沖縄は再生する。」(朝日出版社)の中で橋下徹氏はこう書いている。〈(カジノの)法律が成立する前の話ですけど、僕と松井府知事と菅官房長官で話をした時に、もし沖縄が手を挙げたら、沖縄には必ずIRを認めてあげなければならないね、という認識で一致していました〉〈もし沖縄のみなさんが、IRを沖縄でやらせてくれ!と声を上げれば、大阪は喜んで沖縄のみなさんにお譲りします〉

 「海鳴りの島から」1-6 IR汚職で下地幹郎や宮崎政久、岩屋毅といった議員たちの名前が挙がっている。いずれも辺野古新基地建設を推進してきた面々だ。カジノ利権だけでなく、基地利権でも蠢いてきたのではないのか。新基地建設が長引き、予算が膨らめば膨らむほど、金が入ると笑う者たちがいる。こういう連中のために、沖縄県民は苦しめられるのだ。

 JIJI1-6日本維新の会の松井一郎代表(大阪市長)は6日、カジノを含む統合型リゾート(IR)事業をめぐる汚職事件に絡み、贈賄側とされる中国企業サイドから現金100万円を受領したことを認めた同党の下地幹郎衆院議員について「法に抵触することをすれば、議員辞職すべきだ」と述べた。松井氏は「納税者の皆さんに全く理解されない」と指摘。下地氏に馬場伸幸幹事長を通じて辞職すべきだとの意向を伝えたという。/『沖縄タイムス』1-6 衆院議員の下地幹郎(しもじ・みきお)氏は1961年、沖縄県宮古島市(旧平良市)出身。58歳。84年中央学院大学卒し、その後父が創業した会社に入社、副社長なども務めた。96年の衆院選で自民党公認で立候補し初当選。現在6期目。政界に幅広い人脈を持ち、初当選の同期には菅義偉官房長官も。菅氏とは2005年に下地氏が自民党を離れても交流が続いており、「しもちゃん」「すがちゃん」と呼び合う仲。自民党との選挙協力を沖縄でも推進している。

 2020-1-6『朝日新聞』ー米軍横田基地(東京都福生市など)周辺で有害物質の漏出の有無を調べるため、都が監視地点に定めている井戸で昨年1月、高濃度の有機フッ素化合物が検出されていたことがわかった。うち1カ所の濃度は、米国での飲み水についての勧告値の19倍の値だった。/関連2019-6-26『毎日新聞』ー米軍横田基地(東京都福生市など)で2017年までの8年間に日本側に知らされていないジェット燃料などの流出事故が少なくとも131件起きていた実態が、毎日新聞が入手した米軍の資料で明らかになった。


大濱聡■知人のKさん(本土出身・沖縄在住)にMessengerで年賀状を送ったところ、「この2-3年年賀を祝いたい感じが無くなりました。一昨年から本土への年賀は止めました。元旦を共有する気が無いのに虚礼するのは自分に赦せない感じです」との返事。元日は辺野古だったらしい。辺野古に集まった人々は「おめでとう」とは言わず、「今年も頑張りましょう」と言い合ったという。「初興し」に参加した人々には本当に頭が下がる。
■先月(12月)25日、防衛省は辺野古の総工費を9300億円(2014年明示の3500億円の約2.7倍)との試算(沖縄県は2兆円超え)を発表。工期を12年とした。しかし、まだまだ膨らむだろう。それに対し「税金のムダづかい」「福祉や教育、少子化対策にまわして」との声が。民放の正月特番で元官僚のコメンテーターが「日本にとって最大のリスクは少子化問題」と指摘していたが、何が必要で、何を優先すべきかを今一度立ち止まって考えるべきだろう。
■27日には、新基地建設に反対する人々が2014年7月に座り込みを始めて2000日を迎えた。不屈の闘いは続く。

 【立憲フォーラム通信:1653】(2020年1月4日)-共産党の志位和夫委員長は3日、米軍がイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官を空爆で殺害したことについて、「トランプ米政権による国連憲章を無視した軍事的挑発行為を厳しく非難する」とする声明を出した。志位氏は「トランプ政権に対し、軍事的挑発をやめ、イラン核合意にただちに復帰することを強く求める」とする一方、「自衛隊の中東沖への派兵は、いっそう無謀で、危険きわまりないものとなった」と指摘――と「朝日」。――日本でのカジノを含む統合型リゾート施設(IR)事業を巡る汚職事件で、贈賄の疑いが持たれている中国企業「500ドットコム」側が現金各約100万円を渡したと供述した衆院議員5人を、東京地検特捜部が昨年末に任意で事情聴取したことが3日、関係者への取材で分かった。特捜部は議員本人だけでなく秘書が受け取った可能性も含め、政治資金規正法などに抵触しないかどうか慎重に捜査している。5人は自民党の岩屋毅前防衛相=大分3区、宮崎政久法務政務官=比例九州、中村裕之元文部科学政務官=北海道4区、船橋利実氏=比例北海道=と、日本維新の会の下地幹郎元郵政民営化担当相=比例九州、と「共同。

 斎藤 陽子(Walnut, California)1-3 アメリカは元日1日だけがお休みで、お正月2日目からはアメリカの仕事始めです。今年も自宅と会社(片道51キロ)への道のりは、通勤ラッシュとの戦いが始まりました。朝夕の高速道路の片側4~5車線、上下全線(8~10車線)が、自動車で埋まってしまう混み方は、今や南カリフォルニア(ロスアンゼルス)の名物となっていいます。なにしろ南カリフォルニアは、人口2240万人という、全米第二位の大都市圏、公共交通機関は自動車が主流なので、車の台数も人口に比例して多いのです。

南カリフォルニアの高速道路は網の目の様な複雑さで、高速道路を把握できれば、あなたは確実にロスアンゼルス人と認められることでしょう。南カリフォルニアで最も歴史的に古い高速道路は、なんと第二次大戦中に敷設されたパサデナ線で、日本と戦争をしている時に高速道路と言う大工事を行っていたのを思うと、物資が乏しく、松ヤニまで燃料に使用としていた日本の当時の状況を思うと、これほどの国の違いのある国と、戦争をするなど考えさせられます。ちなみにバンクーバー(カナダ国境)からサンディエゴ(メキシコ国境)までの、高速5号線の走行距離は約2400キロ、昼夜を必死に走りまくっても、3日半はかかるでしょう。新し1年の始まり、ロスアンゼルスの車の洪水との闘いが始まりました。


2020-1-2 初詣「天久宮」/写真「出雲大社沖縄分社」

 大濱聡ー「ゆく年―」に関わって厳寒の現場で年を越した。■最初の経験は新人の頃、名古屋が担当した永平寺(福井)の第4ディレクター的立場で、雪深い外での仕事だった。1990-92年の長崎、1994-96年の沖縄はそれぞれ3年連続(地方局としては異例)で、8年間の2局勤務で6回も携わることになった。■結局、スタッフとして、あるいは立ち合い業務として8回も現場で越年したが、「ゆく年―」に関わった回数としてはおそらく会社の中で最も多かったのではないかと思っている。

  
2020-1-1『しんぶん赤旗』「絵手紙ー新基地建設よりも首里城再建を」/年賀状

斎藤 陽子(Walnut, California)-カリフォルニアの年越しそばは「沖縄ソバ」。麺はハワイ産二人前入りの生沖縄ソバ(1袋 350円)、満足な麺ではないのですが、これしかないので我慢して使い、出し汁は豚の煮込み汁と昆布だし汁に鰹節と、そば汁は気合を入れて我が家流で作りました。トッピングの3枚豚肉の煮付けは自家製、島唐辛子(コーレーグス)は庭で取れた島と唐辛子をこの日にのために泡盛に漬けた、コーレーグス汁を入れて頂きました。我が家のお雑煮は関東風のお雑煮を作りましたが、三が日のオデンがわりに、福島育ちの主人のリクエストで、「沖縄風の冬瓜とリブと昆布のスープ」をお正月なのに特別オーダーで作りました。ちなみに冬瓜は中国系スーパーで手に入ります。

昆布巻きも身欠ニシンを巻くのがヤマト風ですが、カリフォルニアにはニシンが無いため、人差し指ほどの大きさの生豚肉を巻き、高圧鍋で15分煮て取り出し、砂糖や味醂、醤油で煮るとニシン昆布巻きより美味しい、豚肉の昆布巻きができました。アメリカではカンピョウを入手するのも一苦労です。今年は名古屋からの友人に頂いた、高級羅臼昆布で作りましたら絶品の豚肉の昆布巻きができました。

斎藤陽子(Walnut, California)-時差の関係でアメリカは30日ですが、日本は大晦日を迎えましたね。師走のロスアンゼルスに珍しく随分降ってくれた雨は、彼方のサン・ガブリエル山脈(San Gabriel Mountains)標高2.865mの積雪も見事です。この山脈には数個の名を持つ山が集まり、中でも4番目に高い山はボーイスカウトの創始者の名が付いた、ベーデン=パウエル山( Mount Baden-Powell)があり、世界的に大きなボーイスカウトのキャンプ場もあります。今年のこれらの山の豪雪はロスアンゼルスの水道水には充分な積雪でしょう。この山脈の積雪が、関東平野よりも広いロスアンゼルス市の地域に住む人々の水道水となりますので、この山脈には幾つもの貯水ダムが有ります。ロスアンゼルスから2時間も有れば行ける、この山脈には幾つものスキー場が有り、沿岸沿の海では冬も楽しめるファーフィンのできる海岸が多数有りますので、南カリフォルニアの冬は、若者に人気が有ります。新しい年も皆様にとって、輝かしい年となりますことを願っております。

写真は雪山とパームツリーにミカン畑が如何にも南カリフォルニアを表しています。


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2019年12月25日「古美術なるみ堂」にてー「房指輪」「ジーファー」を見る店主の翁長良明氏、哲楽家・紀々さん→紀々の公式サイト「首里城が出来た時の龍のモチーフを見て生まれた『龍神伝説』という曲」。→ 電波堂☆沖縄ソニー坊や博物館


2019-12-23 沖縄県立博物館・美術館「作家と現在」内覧会 本展では、沖縄県の内外で広く活動し、さらなる活躍が期待されている沖縄の4名のアーティスト石川竜一、伊波リンダ、根間智子、ミヤギフトシを紹介。作家はそれぞれの現場で制作に取り組み、いまなお探求を続けています。その探求の足跡を、展覧会を通してたどります。/町田恵美さん、仲嶺絵里奈さん、金城美奈子さん/新城栄徳、写真家タイラジュン


 『沖縄タイムス』2019年11月29日ー首里城再建に役立ててもらおうと、舞台美術家の新城喜一さん(86)=那覇市=が記憶や写真を頼りに戦前戦後の沖縄を描いた画集「失われた沖縄の風景」シリーズをジュンク堂書店那覇店など県内の書店で再販売し、全収益を寄付する。戦前の首里城の姿も知る新城さんは「沖縄の宝を早く取り戻してほしい」と願う。

パレットくもじー沖縄県那覇市久茂地にある複合商業施設。管理運営会社は久茂地都市開発株式会社。 核店舗はリウボウグループの百貨店事業を行う株式会社リウボウインダストリーである。→ウィキ/哲楽家・紀々ー「ラララ♪りうぼう」は、特に子どもたちに大人気!私が作者だということを聞くと、その場で元気よくうたってくれる姿も多く、感激です。一緒にコラボの機会も出てきて…今後の広がりにワクワク。みなさんも、どうぞ楽しくご一緒下さい♪


2019年12月10日 那覇市民ギャラリー「写遊沖縄写真展」左が小谷武彦氏、宮城保茂氏(沖縄県立博物館友の会)


戸澤 裕司12-10 今日は山田淳巳さんの参加するグループ展にお邪魔しました。大変美味しい八重山料理を堪能し、素晴らしい写真と共によい夜を過ごせました。お近くにお越しの際は是非お立ち寄りください。
「祈りの海 願いの祭 写真展」【 豊里友行・山田淳巳・Juncot∞ 】【場所】てるりん館 東京(八重山そば みやら製麺 2F)東京都台東区上野1-2-8【日時】2019年12月7日(土)〜8日(日)・14日(土)〜15日(日)、12:00〜19:00・入場無料 開催期間中、1F みやら製麺は、土曜日11:30〜15:00・18:00〜22:00、日曜日11:30〜19:00 営業。美味しい自家製麺の八重山そばを食べに行きがてら、お気軽にお越しください。展示作品の販売も行います。


2019年12月8日 那覇市民ギャラリー「第8回あけもどろ総合文化祭 美術工芸展」/岸本作品「蒼然」をはさんで岸本徹也氏、宮里旭氏


宮里旭氏と作品「盛夏の識名園」



小橋川肇 作品、下は関連


  
 フリーペーパー「夕焼けアパート」の写真展が12月3~8日、那覇市の県立博物館・美術館県民ギャラリー3で開催される。同誌で文章と写真を担当する、たまきまさみさん(国立劇場おきなわ企画制作課)が撮影した地域の祭祀(さいし)やなくなってしまった風景の写真など誌面未掲載のものを中心に56点展示する予定だ。→『沖縄タイムス』

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『琉球の文化』1号~5号
 ネットで『琉球の文化』を検索すると読谷村立図書館蔵書で出てきた。『琉球の文化』は大城精徳元沖縄県立博物館副館長が1972年3月に創刊した。創刊号の特集は<琉球の焼物>、72年9月・第二号は<琉球の染織>、73年3月・第三号は<琉球の伝統玩具・琉球の塗物>、73年10月・第四号は<琉球の芸能・琉球の古武術>、74年5月・第五号は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。私と発行人の大城精徳琉球文化社社長とは、72年に又吉眞三氏の建築設計事務所に大阪の西平守晴沖縄関係資料室主宰と同行し訪ねた折、そこに大城精徳氏が出来たばかりの『琉球の文化』創刊号を持参したときに出会った。
 翌日、安里の琉球文化社事務所を訪ねると意気投合し琉球文化社関西支局を引き受けることになった。このときは私はまだ筆不精で文章を書いたことがない。結局、『琉球の文化』には書く機会がないまま休刊を迎えた。その後、大城精徳も関わっていた『新生美術』には美術史らしきものを書くようになった。今、東京発の「沖縄文化論」がテレビ・雑誌などを通じて沖縄に侵蝕。それらが今、沖縄の新聞紙上を占めている。そういうことを予見し危機感を持っていた大城精徳は「日本人としての誇りを得るために、沖縄人としての誇りを捨ててはいけない」とし日本復帰前に『琉球の文化』を創刊した。その初心に立ちかえりネット上で『琉球の文化』活動を復活し新たに補足・改訂を加え立体的に「琉球の文化」を捉えなおしてみたい。(2010-7-8-15記)

1973年10月 季刊誌『琉球の文化』第四号<特集Ⅰ・琉球の芸能><特集Ⅱ・琉球の古武術>




 松濤 船越義珍『愛蔵版空手道一路』榕樹書林2004年12月
○・・・そのために、三〇有余年にわたる教員生活に別れをつげたのである。が、そのかわり、それまでの経験を生かして御奉公をしようというつもりで、当時(後)の県立図書館長の眞境名笑古(安興)、沖縄タイムス編集長(主筆)の末吉麦門冬の両君と相談して、沖縄学生後援会を組織しその経営に当ることになった。一方、先輩や友人とも語り合って、空手道を一本化するために沖縄尚武会を作り、その代表者として働くことにもなったのである。

船越義彰「義珍翁外伝」

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富名腰(船越)義珍が末吉麦門冬に贈った写真
1922(大正11)年


4月24日  『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆<35>ー唐手の伝来」(『大島筆記』)/「禁止された琉球歌劇が復活の傾向」
4月27日  『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆<37>ー唐手の伝来」

○どうも面映ゆい話だが、私の若い日の修行の一端について、少し書いてみたいと思う。まず、台風の中で稽古をした話は同門の作家・戸川幸夫君①が作品として書いているので・・・
①戸川幸夫ー経歴生後まもなく若松市の実業家の養子となる。大正12年一家で上京。東京日日新聞(現・毎日新聞)記者、社会部副部長などを務める傍ら、長谷川伸主宰の新鷹会に入り、動物小説を書き始める。昭和29年「高安犬物語」で直木賞受賞、以後単行本は二百冊を超える。動物文学という新しい小説の分野を開拓し、小説を書くために世界各地を旅行している。40年沖縄・西表島のイリオモテヤマネコを発見したことで有名。子供向け読み物も執筆。日本動物愛護協会理事、世界野生生物基金委員などとしても活躍。俳人としては「渋柿」系俳人関谷嘶風の手ほどきを受け、「渋柿」所属。他の著書に「野生への旅」(全5巻)「人間提督山本五十六」「けものみち」、「戸川幸夫動物文学全集」(全10巻 冬樹社)、「戸川幸夫動物文学全集」(全15巻 講談社)がある。→コトバンク

○小杉放庵(未醒)画伯②の応援
1916年1月12日朝ー小杉未醒、横山健堂を訪ねて琉球への添書を頼む。
      1月13日ー小杉未醒、太平洋画会脱会の通知を出す。
      2月6日午後7時ー小杉未醒、丹青協会の歓迎会に赴く、山田真山、末吉麥門冬、20人参加。





②小杉放庵 こすぎ-ほうあん
1881-1964 明治-昭和時代の画家。
明治14年12月30日生まれ。小杉二郎の父。小山正太郎にまなぶ。明治40年「方寸(ほうすん)」同人。渡欧後,大正3年日本美術院に洋画部を設立,11年春陽会を結成した。後年油彩から日本画にうつり,独自の水墨画をえがいた。昭和39年4月16日死去。82歳。栃木県出身。本名は国太郎。初号は未醒(みせい)。代表作に「水郷」「山幸彦」,著作に「放庵画論」など。 【格言など】頂の岩に尻据ゑ足指にまさぐらむとす越の国原(歌集「山居」)→コトバンク


小杉放庵(未醒)葉書(新城栄徳蔵)


1910年8月25日 琉球新報・沖縄新聞・沖縄毎日新聞主催「近畿地方観光団」出発→1911年8月25日・26日『琉球新報』松濤「観光団員として」


1912年11月 『琉球新報』松濤「鄭嘉訓の半面」


1913年1月9日『琉球新報』松濤「唐手は武芸の骨髄なり」


1913年7月 『琉球新報』松濤「菊...


1941年4月『月刊文化沖縄』富名腰義珍「空手物語」

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 2019年も後わずか。組踊上演300周年でもあったが、その舞台の首里城が焼けてしまった。首里城大火を暗示するかのように、今年の1月には国梓としひで『太陽を染める城』「(1)城が燃えている」、3月は与並岳生戯曲集2『火城』「首里城炎上、大飢饉・・・・・未曾有の国難を越えて、新生琉球の気概を示す国劇は、こうして誕生した!」が出されていた。なお、与並氏は琉球新報12月発行の『蘇れ!首里城』も編集している。

1929年10月に東京の春陽堂から発行された『校註琉球戯曲集』には末吉安恭(莫夢生)の「組踊談叢」「組踊小言」が収録されていることは夙に知られている。この組踊談の初出は1924年の11月3日『沖縄タイムス』からである。
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莫夢生「組踊談叢」「組踊小言」ー沖縄タイムス紙上では「組踊小言」は11月21日まで連載された。末吉は25日には水死している。おそらくまた題を変え組踊談を述べるつもりであっただろう。
〇1924年11月4日の「組踊談叢」に麦門冬は「今は故人となった書家の仲田朝棟」とあるが、これは朝株である。1907年4月の『琉球新報』に本県書家の1人として仲田朝株とある。仲田は首里区会議員(1896年~1910年)も務めた。1912年2月の新聞の死亡広告に友人として伊江朝助の名もある。朝助は戦後の1953年7月大阪『球陽新報』に七流老人名で「狂歌のやりとりー男色で有名な仲田朝株・・・」を書いている。

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中松竹雄氏、新城栄徳/國吉薫氏、古謝厚雄氏、中松竹雄氏

挿絵(2019年1月 国梓としひで『太陽を染める城ー首里城を蘇らせた職人たちの物語』)/宮城倉啓氏、中松竹雄氏
2019年12月20日 那覇市民ギャラリー一般社団法人久米梁氏呉江会「第4回 久米梁氏美術展」


歌人・國吉有慶(1905年9月25日~1987年1月7日)
父・國吉世功、母カナの長男として那覇久米町に生まれる。妹千鶴子は名渡山愛順夫人、弟有徳は沖縄戦で没。親族に具志堅以徳、伊佐川新。



2014年8月2日 那覇市民ギャラリー「第44回イーゼル会展」

國吉保武氏と作品「マハナ岬(粟国島)」

2014年9月20日 第448回 博物館文化講座 講師・田名真之「久米村人の家譜を読もう!」

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1月1日  『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖(1)」
○古手帖ー冬篭り独り凡に侍つかかつて渋茶に咽を濕し乍暮るる●の早きを惜しみフト垢擦れた古手帖の眼につくままに抽き出して彼処此処拾ひ読みをして見ると僕も随分物数奇であったと見えて能くもこんな色んな物を書き取ったもんだ。此等はいづれ雑書類を繙読してその当時は少なくとも興味を以てしたもんだから今から見ると余りドットしないけれど紙屑買に渡す気でこう原稿紙の四角い物に入れて見ようといふ気になる。右は蜀山人の仮名世説にある大平の逸民の状態はこんなものであった。この超波①は作家として左程●い物ではなかったろうが兎に角、蕪村七部集②にも出ている「五車反古」に載っているのは下の四句だ、早乙女や先づひいやりと庭の先/祇園会や胡瓜花さく所まで/我屋根をはつれてゆかし天川・・・
①清水超波 しみず-ちょうは
1702-1740 江戸時代中期の俳人。
元禄(げんろく)15年生まれ。江戸の人。味噌(みそ)商だったが,家業をきらい,桑岡貞佐(ていさ)の門人となる。のち点者となり,独歩庵超波を名のった。元文5年7月27日死去。39歳。通称は長兵衛。初号は長巴。編著に「紙蚕(かみかいこ)」「落葉合(おちばあわせ)」など。→コトバンク
②蕪村七部集ぶそんしちぶしゅう
江戸時代後期の俳諧撰集。菊屋太兵衛らの編。文化5 (1808) 年刊。与謝蕪村関係の代表的俳書『其雪影』『明烏』『一夜四歌仙』『花鳥編』『続一夜四歌仙』『桃李 (ももすもも) 』『続明烏』『五車反古』の8部を収めたもの。

1月7日  『沖縄毎日新聞』安元碧海「沖縄の人物地理」 



1月10日 『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖ー緑雨の『おぼへ帳』に・・・」   

1939年8月 斎藤緑雨『あられ酒』岩波文庫/1991年7月 斎藤緑雨(編・中野三敏)『緑雨警語』冨山房百科文庫

 
1957年12月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書7』「尾崎紅葉 落合直文 齋藤緑雨 原抱一庵 小泉八雲」昭和女子大学光葉会




1923年12月  『沖縄教育』末吉麦門冬「俳句ひかへ帳ー言葉の穿鑿」
俳句に出づる故事、物名、人名や地名には随分読む人を困らすのがある。私もそれに困った一人なので、そういう句に出会す時は、必ず手ひかへに留めて置いた。而して読書の際偶その出所を発見したり、解釈を得たりする時は、又別のひかへ帳に立てて置いた。それが積もって漸く一つの物に纏ったので、我と同じからん人の為めにと本誌に投した次第である。・・・公達に狐化けたり宵の春  蕪村ー狐が化けると云うことは普通に誰も知っていることだが、これも支那から来た話ではなかろうか。西陽雑爼①に「野狐一名は紫夜、尾を撃って火を出す、将に怪を為さんとするや必ず髑髏を戴いて、堕せすんば則ち化して人となる」と。又、五雑爼②に「狐千歳にして始めて天と通ず、魅を為さす。其の人を魅する者は多く人の精気を取りて以て内丹を成せばなり。然らば則ち其の婦人を魅せざるは何ぞや。曰く狐は陰類也、陽を得れば乃ち成る故に牡狐と雖必ず之れを女に托して以て男子を惑はす也。然れども大害を為さす、故に北方の人は之れを習はす」と。
 支那では男に化けぬことになっているが日本ではこの句にあるように美男に化けて女を惑はすやうなこともあると信じられているやうだ。蕪村には狐の句が多い。「春の夜や狐の誘ふ上童」「狐火やいづこ河内の麦畑」「狐火や五助畑の麦の雨」「石を打つ狐守る夜のきぬた哉」「小狐の何にむせけん小荻原」「蘭夕、狐のくれし奇楠を烓かむ」等がある。彼が狐に興味をもっていたことが其の句の多いので知られる。此の句は敦盛卿のやうな美しい公達に狐が化けたと云ふので、それがいかにも春の宵のあやしき心持に調和した美をなすのである。かうした美しい怪物のあらはれるのも春の宵でなければならぬやうな気がする。狐忠信の舞台も春であるからこそ榮えるのである。
①名の「酉陽」は、湖南省にある小酉山の麓に、書1,000巻を秘蔵した穴が存在するという伝承に則っている。内容は、神仙や仏菩薩、人鬼より、怪奇な事件や事物、風俗、さらには動植物に及ぶ諸事万般にわたって、異事を記しており、中国の小説あるいは随筆中においてその広範さは一、二を争う。魯迅の愛読書であり、南方熊楠が、プリニウスの『博物誌』と名を比した書としても知られる。→ウィキペディア
②中国,明の随筆。謝肇せい (しゃちょうせい) の著。 16巻。全体を天,地,人,物,事の5部に分け,広く自然現象,社会現象の全般にわたって,その見聞,意見を記したもの。その観点は合理的な傾向をもち,当時の社会の矛盾を鋭く描く部分もあり,貴重な資料となっている。テキストの伝世に関しては、不明な点が多く、後集10巻の中には、明代の遺文を蒐集した部分が少なからず含まれるとされる。→コトバンク

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