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2017年9月『広報あぐに』№116「粟国村教育委員会通信 11号」



2017年1月『広報あぐに』№108「粟国村教育委員会通信 4号」

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2011年6月 新川明・儀間比呂志・知念ウシ/翻訳『りゅう子の白い旗ー沖縄いくさものがたり』 出版舎
Muɡen(〒900-0013那覇市牧志1-4-31-2F 電話&fax 098-863-2562)□新川明ーあとがき/(前略)あれから二十六年たって、さきの「集団自決」訴訟と文部科学省のあり方が象徴するように日本の国全体がますますおかしくなっていくのを見るとき、私たちはすでに絶版になっていたこの絵本を復刻再刊したい、と強く思ったのです。さいわい出版舎 Muɡenの上間常道さんが私たちの思いを受けとめてくれて、ここに絵本「沖縄いくさものがたり」を正真の沖縄発の”非戦の思い〟をこめた絵本として再生させることができました。上間さんと英訳の知念ウシさんにあらためて感謝したいと思います。/儀間比呂志ーこの作品を描いてから二十六年の歳月が過ぎました。この間、戦争への危機はなくなるどころか、広大な米軍基地は沖縄に、相変わらず我がもの顔で居座り、戦争への構えをとり続けています。その事実を近隣諸国が黙認し、侵略者の暴挙を容認している国際事情には、何たることかと憤りはつきません。


2003年2月 多和田真助『沖縄の海図 「復帰」30年のメッセージ』「上間常道」沖縄タイムス社


写真左から儀間比呂志さん、新城征孝氏、新川明氏、新城栄徳、その前が舞台美術家・新城栄徳氏/チニンウシィさん、伊佐眞一氏


1999年1月 儀間比呂志『絵本 沖縄のわらべうた』沖縄タイムス社□儀間比呂志ーあとがき(前略)本書の出版にあたっては、島袋全発氏の『沖縄童謡集』ほか、数々の本を参考にさせていただいた。また、楽譜の提供をいただいた比嘉悦子さん、エッセーをよせてくださった船越義彰さん、翻訳者のR・トンプソンさん、出版元の沖縄タイムス社と編集の上間常道さんに、心から感謝の意を表したい。




1985年8月 新川明(沖縄タイムス東京支社長)・儀間比呂志『りゅう子の白い旗ー沖縄いくさものがたり』築地書館


1971年12月 『新沖縄文学』21号 「儀間比呂志版画集/詞章・新川明」
1974年10月 『新沖縄文学』26号  儀間比呂志「表紙のことばー私が最も好み、数多く描いてきたおなじみの沖縄伝統民俗芸能『七月エイサー』である。」
1975年2月 『新沖縄文学』27号 儀間比呂志「表紙のことばー沖縄民衆は、ワジワジーしている。”日本に復帰すれば、平和がよみがえり豊かな沖縄県が実現する〟ふりまかれた幻想ー。”海洋博は、沖縄経済の起爆剤〟ユクシムニーするな!原爆つきの基地はそのまま 山からは、みどりをうばい 海からは、 魚をおいはらい わったぁからは、生活をうばう。それは、だれなんだ!
1975年11月 『新沖縄文学』30号 儀間比呂志「<随筆>沖縄の女」

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 日頃、「しまくとぅば」について、継承、記録、保存、表現、研究、実践などさまざまな活動をしている人々に集ってもらい、それぞれの好きな「しまくとぅば」で語ってもらいます。メンバーの中心はしまくとぅばプロジェクトに2008年から関わっている人や最近からしまくとぅばを学びはじめたメンバーまで、立場や興味もそれぞれ異なる人々で意見を述べ合います。
なぜ「しまくとぅば」を話し、次世代へと引き継ごうとしているのか、どうして研究しているのかなど、はじめのきっかけ、理由、取り組みの状況、勉強法など、いろいろなことを互いに問いかけたり、一人で語ったりしながら、その想いをぶつけ合います。
また、最後のセッションでは、来場の方々とのクロストークもまじえ、今後の活動のモチベーションへとつなげていければと考えています。「しまくとぅば」について興味を抱いている方、すでに何らかの実践を行っている方、仲間で集って活動している方、若い世代へと継承運動に取り組んでいる方、など、多数の方々の来場をお待ちしております。

【コーディネーター】
仲原穣(沖縄県立芸術大学ほか 非常勤講師)
【対談者(五十音順)】
上原美智子(しまくとぅばプロジェクトメンバー)
小禄隆司(琉球大学学生)
西岡敏(奈良出身 沖縄国際大学 教授)
ハイス・ファン・デル・ルベ(オランダ出身 浦添市立仲西小学校ALT  うちなーぐち習得勉強会)
比嘉豊光(写真家)
真栄里・サマンサ・明美(ハワイ出身 県系4世 琉球大学研究生)
宮里朝光(NPO法人沖縄県沖縄語普及協議会 名誉会長)

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 泊の我が家から、おもろまちの沖縄県立博物館・美術館は10分ぐらいの所にある。ロビーには全国の博物館・美術館のイベント情報パンフが所狭しと並んでいる。中に立命館大学国際平和ミュージアム「儀間比呂志版画展ー沖縄への思いー」もある。原爆の図丸木美術館学芸員・岡村幸宣の日誌(2010/4/19)に「那覇について最初に訪問したのは、沖縄大学。小図録に寄稿して下さった沖縄大学法経学部の若林千代先生に、ご挨拶に伺いました。ちょうどお昼時だったので屋嘉比収先生の研究室に案内され、そこで若林先生ら数人の方とお弁当を食べることに。そこには沖縄の近現代文化史を精力的に調査されている新城栄徳さんもいらっしゃいました。新城さんはネット上で「琉文21」と題する研究報告をされている民間の沖縄文化研究者。「ワタシは大学の先生の使う言葉(業界用語)はわからんヨ」とニッコリ笑う」と紹介されているように、ワタシは理論より自分の情念に忠実でありたい。
 日本伝統文化の屋台骨・京都は私が沖縄青年運動に目覚めた地でもあり様々な感懐を抱くものである。上記のチラシは京都関連だけでも、京都国立博物館「南山城の古寺巡礼」や九州国立博物館の「京都妙心寺ー禅の至宝と九州・琉球」「本願寺展ー親鸞と仏教伝来の道」「黄檗ー京都宇治・萬福寺の名宝と禅の新風」などがあり、よく行ったところなのでチラシは部屋の壁に貼って眺めている。
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 「くろねこの短語」9月 19日ー(前略)国連総会に出発する直前の羽田空港でペテン総理は、「解散について、いちいちお答えすることは差し控えるが、帰国後に判断したい」と捨てゼリフを残してニューヨークへ飛び立った。このニュースを我が家でディナーの最中に観ていたんだが、思わず食事を吹きだすところでしたよ。「お答えすることは控える」ってんならまだしも「いちいち」とは何たる言い草だ。「いちいちお答えする」のが政治家の務めだし、そもそもこやつは「5年前、政権を奪還したときの原点に立ち返り、謙虚に丁寧に国民の負託に応えるために全力を尽くす」とぬかして内閣改造したんじゃないのか。それが「いちいちお答えするのは控える」とくるんだから、国民も舐められたもんだ。

 「くろねこの短語」9月 18日ー(前略)それはともかく、22日か29日に投開票ってんだが、これって加計学園獣医学部新設認可の最終判断が下される時期とピタっと重なってるんだね。もうバレバレやん。加計学園とズフズフの萩生田君は「解散するのであれば、北朝鮮の脅威にどう向き合うか、安全保障関連法がどう機能するかを含めて国民に理解をいいだく」ってぬかしているようだけど、そんなものが争点になりますかいな。どう詭弁を弄したところで、「モリ・カケ疑獄隠し解散」は間違いないところで、想田監督が指摘するように「よほどやばいこと」があるんでしょうね。それでも、ペテン総理一派が選挙に勝つようなことがあったら、それはもうこの国の民度がその程度ってことなんでしょう。いやはや。

 「くろねこの短語」9月 17日ー「臨時国会冒頭解散ありやなしや!?」と昨日のエントリーで書いたら、台風18号に後押しされるように新聞・TVがいっせいに解散風を吹かし始めた。民進党が離党ドミノでモタつき、野党共闘もままならず、小池ファシスト新党もようやく政治熟を立ち上げばかりというタイミングなら、どう転んでも政権に有利な状況は変わらないと踏んだからなんだとか。もちろん、北朝鮮ミサイルで危機感煽ったことも功を奏しているのだろう。さらに、国会冒頭で解散してしまえば、ペテン総理のアキレス腱である森友・加計学園疑獄もウヤムヤにできちゃいますから。まさに、一石二鳥どころか三鳥も四鳥あるってわけだ。

 「くろねこの短語」9月 16日ー「北朝鮮のミサイルより重要なニュースがあるだろう」。長嶋一茂がワイドショーでそうつぶやいたそうで、万雷の拍手を送りたい。最大高度770kmの宇宙空間を「日本の領域」なんて言ってみたり、NHKなんか女子アナが根室港からヘルメット姿で中継したりもしている。こんな馬鹿げた状況を一茂の一言がまんま言い当ててるんだね。でもって、「北朝鮮のミサイルより重要なニュース」のひとつが、いまだくすぶり続ける森友・加計学園疑獄だ。産経新聞までもが社説で、「森友学園事件 財務省は自ら疑念晴らせ」と呆れ顔なんだが、そんな中、最高裁がとんでもない判決を出した。(略)どうやら、28日に臨時国会が召集されるようで、そうなれば森友・加計学園疑獄がまたクローズアップされるのは避けられない。北朝鮮危機を煽ったおかげで支持率も若干回復してきたなかで、ペテン総理にすれば森友・加計学園疑獄で追求されちゃたまらんと思っていることは間違いない。となると、疑獄隠しのためなら、なんだって仕掛けてくるだろうから、国会冒頭の解散なんてのも、ひょっとしたらひょっとするかも・・・。

 「くろねこの短語」9月 15日ー北朝鮮のミサイルが、最大高度770kmという日本上空の遙か彼方、ほとんど宇宙空間を飛び去って、襟裳岬の東約2000kmに着水だそうで、NHKなんか上を下への大騒ぎ。前回と同じく、今回も襟裳岬の東って表現をしてるんだが、これって明らかに意図的な印象操作ですね。襟裳岬の東2000kmって言うと、あたかも日本の領海に落ちたようなイメージになるんだが、2000km先の海上って太平洋のど真ん中みたいなもんなんだよね。大本営発表もこれいかに、ってなもんです。そんな危機的状況を煽りつつ、本人曰く「最高責任者」たる総理大臣は、ノホホンと私人の嫁同伴でインドに外遊。北朝鮮危機ってのがどの程度のものかわかろうというものだ。でもって、手土産がわりにインドに1900億円の円借款という大盤振る舞いってんだから、国民の税金はこやつの財布みたいなもんなんだね。

 政府(大本営)発表[国民保護情報]2017年08月29日(ママ) 6時14分ーミサイル通過。ミサイル通過。先程、この地域の上空をミサイルが通過した模様です。不審な物を発見した場合には、決して近寄らず、直ちに警察や消防などに連絡して下さい。□非常に強い台風18号は、あす16日(土)には九州に接近し、あさって17日(日)は上陸するおそれがあるというのにペテン政府は何を企んでいるのやら。しかも、ミサイルは07:06頃、北海道地方から太平洋へ通過したというではないか。

 「くろねこの短語」9月 14日ー(前略)努力目標掲げただけで「原発運転資格あり」だなんて、どこが規制委員会なんだ。これじゃあ、原子力推進委員会じゃないか。原発事故によって溶け落ちた核燃料デブリがどうなっているかもわかってないのが現状で、つまりは事故はいま現在進行中なんだよね。それが証拠に、いまだに原子力緊急事態宣言は発令中だ。さらに言えば、廃炉のための膨大な資金だって、東電独自ではとても調達できない。結局は公的資金を投入しているわけで、そんな会社に「運転資格」なんてあるわけがない。
 世界の潮流が再生可能エネルギーに移行しつつある時に、有史以来の原発事故から何も学ばずに、いまだに原発におんぶにだっこしようというこの国は、やっぱりどうかしている。原発推進だったドイツのメルケルが福島第一原発事故の後に、「日本ほど技術水準が進んだ国でも、このような事態を防げなかったことは重大だ」として、一夜にして反原発に舵を切ったけど、本当なら日本こそがこうした政策転換をしなくちゃいけなかったんだよね。それが、原発からの撤退どころか、さらなる原発新設まで視野入れたエネルギー政策を企ててるんだから、とてもじゃないけど正気の沙汰ではありません。インドと原子力協定を結んだペテン総理に対して、インド各地では「原発反対!」「死の商人は帰れ!」という大規模なデモが行なわれている。そんなことをこの国の新聞・TVは1ミリも報道することがない。それどころか、北朝鮮情勢が予断を許さない最中にインド外遊に出発するペテン総理のニュースを、無批判に垂れ流すだけなんだから、こちらもまた正気の沙汰ではありませんよ、ったく!

 『朝日新聞』9月11日(11日で沖縄県・尖閣諸島の国有化から5年になることを報道陣から問われ)ニューヨークで(2001年9月に)飛行機がビルに突っ込んで、その1週間後から沖縄への修学旅行がぴたっと止まった。米軍基地があるから危ないと。観光客を取り戻すのに3~4年かかった。もし尖閣でいざこざがあり、死者でも出れば、沖縄観光は一発で終わる。もう石垣に行く人はいなくなる。日本の立場を維持しつつも、平和外交で物事を解決してもらわなければ、私たちは立つ瀬がない。(東京・防衛省で日米地位協定改定の要請後、記者団に)
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1995年9月 『島を出た民の戦争体験集』沖縄県人会兵庫本部/2017年5月『榕樹』第426号


1982年6月 上江洲久『ここに榕樹あり 沖縄県人会兵庫県本部35年史』儀間比呂志「扉及び見返し版画」


那覇港近くのバーで写真左から新城栄徳、永峰眞名さん、当山忠氏(島尻雅彦撮影)


沖縄県人会兵庫本部機関紙『榕樹』〒660-0805 兵庫県尼崎市西長洲町2丁目26-12 中央ビル601 ☎06-6487-0535 FAX06-6482-4048


沖縄県人会兵庫県本部で機関紙『榕樹』担当の永峰眞名さん/沖縄県人会兵庫県本部の永峰眞名さん

新城栄徳日記メモー1995年1月1日ー奈良東大寺大仏初詣/1月17日午前5時過ぎに京都で大きな揺れ。東大阪の息子に電話。午後2時23分電車で京阪淀から近鉄経由で布施。/1月24日、尼崎市の兵庫沖縄県人会事務所。沖縄県からのビニールシートが届いていたので配送を手伝う。息子名義で見舞金を贈ったとき宮城幹夫氏も来所し見舞金を贈られた。挨拶をした。1月30日、西宮からバスで三宮。午後8時に帰宅。1月31日、大正区へよって、阪神青木から東灘区へ。

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「阪神大震災」関連資料
1951年7月11日ー宮城久隆『球陽新報』創刊
 沖縄県人会兵庫県本部の永峰眞名さんに『球陽新報』の情報を流すと、県人会機関紙『榕樹』で紹介した。次々と関係者が現れた。大阪の県人会長の諸喜田さんは印刷に関わった。久隆の子息で生駒市在住の宮城敬さんからは久隆に関する情報が寄せられた。作家の宮城聡は敬さんの祖父の弟である。1961年4月10日の『沖縄タイムス』に宮城久隆の死亡記事「沖縄タオル社長、琉球大学理事、中央教育委員。10日あさ8時、首里大名町の自宅で死去。58歳、国頭村出身」。
                                 
□→2001年3月ー『史料編集室紀要』第26号□納富香織「在本土沖縄県人紙についてー『大阪球陽新報』『球陽新報』『内報』『自由沖縄』目録ー」  ○2010-5-20記


写真ー宮城久隆・琉大理事





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万年筆にネームを入れる彫刻機/実演する渡口彦邦氏



右ー琉球独立論者・渡口彦邦さん、琉球国王に変身!
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2017年11月1日~12月23日 立命館大学国際平和ミュージアム1階 中野記念ホール「儀間比呂志版画展ー沖縄への思いー」

立命館大学は西園寺公望を「学祖」としている。


2013年11月 金子豊・編『松山王子 尚順 全文集』榕樹書林
 1935年12月『琉球新報』ー「尚順男爵は貴族院時代、西園寺公望公の書を得たいと切望し公の甥高千穂男爵を介して公に申し出たが容易に望みを達しなかった。丁度其の頃大正4年、公が須磨に隠れて居られたことがあった。公は儒者の書が好きで京都の鳩居堂主人、熊谷氏が公の処に出入りしていたが、尚順男爵はこの鳩居堂と懇意であったので、或る時、尚順男爵は詩を鳩居堂に託し折があったら公へ御覧に入れるよう依頼しておいた。公は此の詩を御覧になりそれ程熱心かと云われて小幅を書いてくださった」。尚順と西園寺公との縁はこれで終わらない。尚順の次男尚誠の長女悦子(白光真宏会第二代会長、ワールドピースプレヤーソサエティ代表、公益財団法人五井平和財団会長)は1974年(昭和49年)10月18日、西園寺不二男次男の西園寺裕夫との結婚に伴い、西園寺昌美となる。

 関西での琉球関連の動きを見てみる。
1466年 琉球国王尚徳の使者芥隠承琥、足利義政に拝謁、方物を献ず。
       □7月28日ー琉球の使者一行が将軍・足利義政に謁見、方物も献上する。
        8月1日ー琉球正使・芥隠西堂から蔭涼軒(季瓊)真蘂に大軸(中国から琉球国王に贈られ        たもの)、南蛮酒を贈る。(義政時代6度目の琉球人参洛)。
    
1480年 足利幕府、応仁・文明の乱が終わったので琉球に朝貢船を送るよう島津忠昌に催促させる。
→足利将軍家の菩提寺「等持院」には歴代足利将軍の木像(肖像彫刻)がある。

「大沢文庫と沖縄<7>」□袋中上人は、当時伏見で掛川の城主松平隠岐守定勝の特別の帰依をうけて師権の契約を結んでいるが、その嫡子越中守定綱は後の松平定信であるが、将軍秀忠に随従して特別の信頼を受けて名声がたかかった。時の京都所司代板倉重宗を上人に紹介して特信者としたのもこの定綱である。京都所司代の権威は、当時京都御所ににらみをきかせて他に並ぶものがなかったのである。(略)夢にも考えていなかった上人との対面の機会を与えられて、尚寧王はこれが現実かとばかり感涙し歓喜したことであろう。→1966年12月10日『琉球新報』大島彦信(浄土宗名越大本山円通寺住職)「
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元沖縄都ホテル社長の桑原守也さん、京都西方寺の袋中上人(エイサーの祖)手植えの蘇鉄を前に(新城栄徳撮影) 1994年7月21日、桑原守也さんと連れ立って京都西方寺を訪ねる。住職の北村有信師としばし歓談。頂いた名刺には「うずまさ悟真寺、山城田辺・西方寺、自然幼稚園」とあった。


沖縄県立博物館・美術館 会場:企画展示室(3階)平成24年1月25日(水)~2月19日(日)
京都・檀王法林寺開創400年記念 琉球と袋中上人展―エイサーの起源をたどる―」
袋中上人(1552~1639)が京都に檀王法林寺を開創したのは、琉球から帰国後5年を経た慶長16年(1611)のことでした。本年で同寺は開創400年にあたります。袋中上人は仏教研究のため中国・明に渡ろうと試みましたが、豊臣秀吉の朝鮮侵略後間もない時期であったため、これを果たせませんでした。そこで、上人はルソンを経て琉球に上陸し、3年間の月日をこの琉球の地で過ごしました。その間、上人は琉球で浄土念仏の教化につとめ、尚寧王の帰依を受け、帰国後は『琉球神道記』『琉球往来』などを著しました。今日その著作は、古琉球の宗教世界や当時の風俗習慣などの文化を知る上で貴重になっています。本展覧会では、檀王法林寺開創400年を記念し、琉球に浄土念仏を広め、エイサーを伝えたといわれる袋中上人の事蹟を現存する文化財資料などを通して紹介します。

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2011年9月25日13時00分の京都教育文化センターで「琉球民謡伝統協会京都支部三周年芸能発表会」に新城あけみが舞踊で参加するというので、お供で同行する。7時前に自宅を出る。JR河内永和駅から京橋。京阪で三条駅に8時15分着。駅を出て直ぐの檀王法林寺の前で新城あけみを立たせて写真を撮る。この寺はエイサーの元祖といわれる袋中上人によって開かれた400年の歴史を誇る浄土宗の寺。

1634年 佐敷(王子)朝益、金武王子朝貞、玉城らを上洛させ、閏7月9日京都二条城で3代将軍徳川家光に謁見、代替りを祝賀させたのが始まり(次回から江戸参府)。→江戸上りは第1回目の1634年から最後の1850年まで、200年あまりの間に18回実施されている。琉球と江戸の往復には、およそ1年前後を要した。一行は琉球から薩摩を経て伏見までを船で、伏見からは美濃路(第7回までは鈴鹿路)・東海道を経由して江戸までを徒歩で移動した。季節風を考慮して初夏に琉球を出発、準備を整えて秋に薩摩を出て、江戸で冬を過ごしたのち、翌春にようやく琉球へ戻るという旅程であった。江戸上りの一行や琉球そのものを紹介するいろいろな出版物が広く世間に出回るようになり、行列の構成・服装等が描かれた墨摺りの瓦版や多色刷りの錦絵は、行列を見物する際のパンフレットの役割を果たした。また一方で、当時の知識人が琉球の地誌・風俗を詳しく記した書物も刊行された。→琉球大学

 1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。11月、松田道之と席貸大和屋小里の間にぎん(後の小三)が生まれる。
 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された。1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社に関わる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。 
 1875年9月、日本国郵便蒸気汽船会社解散にともない明治政府は大有丸を琉球藩に下付。11月、郵便汽船三菱会社が琉球航路を開始した。1876年8月27日の『朝野新聞』に「沖縄は他県からの商人50人、陸軍省派遣の職工138人、女性1人」と報じられた。同年、琉球正史『球陽』の書き継ぎが終わっている。1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった。5月には沖縄県令として鍋島直彬が長崎出身官僚32人をともない着任した。前後して、琉球藩王・尚泰は東海丸で那覇港を出帆。6月4日には神戸で2泊。6月6日に新潟丸で東京に向けて神戸港を出帆。
 1883年4月に岩村通俊が沖縄県令として赴任した。12月には西村捨三が沖縄県令となる。1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。1885年2月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し金毘羅宮参詣。西村は中井弘滋賀県令と計り尚泰に近江八景遊覧にさそう。8月には元彦根藩士で西村と同士であった横内扶が沖縄県七等属として赴任する。9月、郵便汽船三菱会
 1887年6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。
 1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。京都『日出新聞』は「琉球新報-混沌たる暗黒の幕を破りて五百余万の王民に対し閃山一道光燈来の光景を与へんと期する琉球新報は本月十五日を以って第一号を発刊せり紙幅体裁固より内地の発達したる諸新聞紙に比すべくもあらざれど邦人をして琉球に於ける政治社会経済上の事実を知らしめ沖縄県民をして旧慣陋習を破り文明の空気に触れしむるの機関として裨益する処少なからざるべし発行所は那覇西村百二十三番地にして隔日刊行する由」と報じた。

1893年9月22日『日出新聞』                 

1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』

1896年11月、尚家一行(尚泰夫人マカト、尚寅、尚順、尚昌ら男14名、女17名)京都見物。

1909年4月『琉球新報』□師範中学旅行生の消息ー4月6日、火曜日、神戸、京都 午前9時半汽車にて神戸駅を発し12時京都に着。直ちに東本願寺に参詣致し建築の壮大な に驚き入り候。これより途中耳塚を右に見立て豊国神社に詣で旧伏見桃山殿の唐門大仏殿、国家安康の大鐘を見て博物館に入り歴史美術上の珍品に知囊を養い三十三間堂を経て桃山御殿に詣で血天井を見。妙法院西大谷を過ぎて清水寺に詣で候・・・。

1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。


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2017年9月9日 とまりん地下「島尾敏雄 生誕100年 シンポジウム<ヤポネシア論>を問う」


新川明「主催者あいさつ」写真左から司会の岡本由希子さん、パネリストの仲程昌徳氏、西蔵盛史子さん、仲里効氏、川満信一氏





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Category: 04-書の森
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□2004年8月26日「蘇鉄庵」ー小泉自公政権の危機管理の無責任さはリストラありきの郵政民営化にも見られ資本の論理では離島も破滅だ。リストラ優先は安全の手抜きにつながりその結果、台風被害、福井県美浜原発死傷事故や、米軍ヘリ沖国大墜落事故も招いてしまった。国防とは国民の安全を守ることで「死の商人」(ブッシュ)に奉仕し海外に自衛隊を派遣し殺されることではない。自衛隊は自然災害に強い国土をつくる公共事業などに協力させることも重要な任務であるべきだ。福井県の若狭湾に突き出た常神半島の常神岬は蘇鉄自生の北限地とされ天然記念物の「大ソテツ」がある。沖縄に「米軍基地」が差別的に集中しているように、若狭湾周辺は「原発」が集中している。賢しらに言うことではないが、どちらも地域住民をなだめるために巨額の資金(税金)が動いている。

2004年8月26日 新城栄徳『蘇鉄庵』(題字・国吉真哲)「危機管理」

○我が琉文菴は近鉄奈良線の布施駅近く(上の赤丸・東大阪市)にある。奈良公園や、唐招提寺・薬師寺、大和文華館(山口宗季の花鳥図、座間味庸昌の人物画が所蔵されている)、近鉄資料室や大阪ミナミ(道頓堀)に出るのに便利である。奈良はシルクロードの終点と言われているが、1977年発行の辛島昇①編『インド入門』に「日本人のシルクロード好きは、毎秋奈良でひらかれる正倉院展にどっと人があつまる事情と軌を一にしたものである」とし「むかし大東亜共栄圏という日本を扇の要においたひろい意味での文化圏を捏造した国粋主義に通じる」とする。奈良は東大寺の大仏や興福寺の五重塔、阿修羅像でも知られ世界遺産でもある。
①辛島昇 からしま-のぼる
1933- 昭和後期-平成時代の南アジア史学者,インド史学者。
昭和8年4月24日生まれ。専門は南アジア史。昭和50年東大教授。のち大正大教授。平成15年「History and Society in South India:The Cholas to Vijiayanagar(南インドの歴史と社会─チョーラ朝からビジャヤナガル王国へ)」で学士院賞。19年文化功労者。東京出身。東大卒。著作に「インド入門」など。→コトバンク


奈良近鉄駅ビル3・4階に歴史・観光の展示館「なら奈良館」(旧・奈良歴史教室)/源平争乱によって焼失した東大寺を、重源はその資金を広く寄付にあおいで各地をまわる勧進上人となって、宋人陳和卿の協力を得て再建にあたりました。そのとき採用されたのが、大仏様の建築様式で、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色するもので、この東大寺南大門が代表的遺構です。

国宝・銅造盧舎那仏坐像/重文・如意輪観音坐像/大仏殿にある広目天像  多聞天像 /小説家して有名な森鴎外は、大正6年に帝室博物館の総長に任命され、東京・京都・奈良の帝室博物館を統括する要職でした。大正7年から10年まで、秋になると鴎外は正倉院宝庫の開封に立ち合うため奈良を訪れている。
□2005年5月2日ー自宅で去年上六の天地で買った『沖縄アーカイブス写真』(生活情報センター)を見る。関連して、沖縄タイムス出版部が編集し琉球銀行が発行した『あんやたん-沖縄、写真が語る50年』(1995年9月)、『時の謡人の譜・街の紋-山田實写真50年』(2003年1月)を見る。平凡社の1963年3月の『月刊百科』は「『PR誌』-機能・沿革と現状」、1968年3月の『月刊百科』には勝連哲治「沖縄の経済」が載っている。1970年から日本メール・オーダー社から出はじめた『アルファ大世界百科』と、1972年版の平凡社『世界大百科事典』が手元にある。南方熊楠や末吉麦門冬を単に博覧強記の人として片付ける嫌いがあるが、今はネットの時代である。熊楠や麦門冬が大衆を喜ばせるために書いた情熱はネット空間でますます輝くであろう。

 2006年5月13日ー午後、近鉄丹波橋で降りて、御香宮神社に行く。名水「御香水」が境内にある。この神社には京都市天然記念物のソテツがあり、その実は「延命厄除そてつ守」になっている。鳥せい本店側では名水「白菊水」、月桂冠大倉記念館では名水「さかみづ」を飲んだ。同時に昼間からきき酒で顔が赤くなった。

御香宮神社ー近鉄奈良駅西口を出て地下道を通って近鉄高天ビルに出て歩道を西の方に歩くと直ぐ通称「山の寺」という看板が見える。奧まったところに「葵」の紋を打った山門が建っているところが浄土宗降魔山「念仏寺」である。門をくぐると降魔山と記された燈篭がある。その傍らに蘇鉄。1614年(慶長19年)11月15日徳川家康が大阪冬の陣の折、木津の戦いで真田幸村の軍勢に敗れ、奈良へ逃げ延び、この地の小字山の寺に至って、桶屋の棺桶の中に隠れ、九死に一生を得た。その後に、家康が豊臣方を破って、天下が治まった、1622年(元和8年)徳川家康の末弟で当時伏見城代を務めていた松平隠岐守定勝が、ここ油坂・漢国町を買い受け、袋中上人を開山として諸堂を建立したのが、山の寺「念仏寺」の始めである。/浄土宗降魔山「念仏寺」

〇御香宮神社は徳川家と深い関わりがある。徳川家康が豊臣秀吉のあとをうけ伏見城で天下の政事をとったおり、尾張、紀伊、水戸の御三家の藩祖と、秀忠の娘千姫はこの伏見で誕生している。御香宮を産土神として特別な崇敬を払っている。御香宮の神門は1622年に水戸中納言頼房(水戸光圀の父)が伏見城大手門を寄進したものと言われている。
□御香宮神社は江戸末期の慶応4年(1868)正月に勃発した「伏見・鳥羽の戦」では、吉井孝助率ら官軍(薩摩藩など)の屯所となった。片や幕府軍は大手筋通りを隔てた南側200mほど離れた伏見奉行所に陣(伝習隊、会津藩、桑名藩、新撰組などが)を構えた。大砲・鉄砲などの弾が激しく飛び交ったが、御香宮は幸いにして戦火には免れている。官軍の屯所となった境内には「明治維新伏見の戦跡」の石碑がある。□→1983年9月ー山本眞嗣著・水野克比古撮影『京都伏見歴史紀行』山川出版社

近松門左衛門
井原西鶴(浮世草子)、松尾芭蕉(俳諧)とともに元禄三大文豪として名高い浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門の墓は尼崎の広済寺(→HP)と、地下鉄谷町線「谷町6丁目」下車、谷町筋を南へ 谷町7丁目交差点南へすぐ、ガソリンスタンド手前の狭い道の奥にある。墓は、当初近くの法妙寺境内にあったが、同寺は大東市へ移転し、墓だけは現在地におかれ、押し込まれたようにして残っていた。1980年に整備が図られ、国の指定史跡となった。【広済寺】尼崎市にある日蓮宗の寺(ソテツもある)。957年(天徳1)多田満仲が妙見菩薩を勧請して創建したと伝え、のち荒廃。1714年(正徳四)日昌が堂宇を建立。近松門左衛門の墓がある。俗称、近松寺。(広辞苑第四版)帰途、浄土真宗本願寺派西正寺のソテツを見る。□→「HP・近松のまち・あまがさき」
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2008年5月4日 午前9時半、あけみと散歩に出かける。司馬遼太郎記念館をのぞくと、竹富島などの映像が放映されていた。近鉄八戸ノ里駅から乗車し東花園駅で下車。12時半に元長栄氏宅に着く。前からお願いしておいた元長氏の「履歴書」をいただいた。氏は1969年8月、沖縄と本土を結ぶ月刊誌『沖縄ジャーナル』を大阪で創刊している。この雑誌は70年に『沖縄ポスト』と改題、10号で休刊。70年9月には元『沖縄ポスト』編集人の座喜味康夫が京都長岡町で『沖縄群像』を出している。偶然なことだが元長氏宅の近くには『青い海』編集デスクであった小渡照生①氏も住んでいる。ちなみに『青い海』社長の山城賢孝氏は元長氏の沖縄教員時代の教え子であった。
5月12日 3時ナンバの大阪府立上方演芸資料館に行く。この資料館も大阪のタレント知事のリストラの一つにあげられている。この知事は職員に「一緒に死んでくれ」と相変わらずのパフォーマンスで宮崎県の知事同様テレビにもよくとりあげられその経済効果は十分期待されている。それはさておきこの資料館で私の好きな浪曲「紺屋高尾」を篠田実、富士実、浮世亭雲心坊、東家燕左衛門の節で聞いた。芝居のビデオでは松竹新喜劇の藤山寛美の「紺屋と高尾」を見た。沖縄の歌劇の「染屋の恋唄」も紺屋高尾をアレンジしたものだ。私が沖縄近現代芸能史の源流というノンキなことを調べている最中に中国では大震災が起きていた。
5月14日 ナンバの日本工芸館に行く。沖縄の漆器展が開かれていた。数十年前になるが同館での沖縄展のおり、三宅忠一館長と儀間比呂志さんが会話しているのを間近で聞いたことがある。この時は、儀間さんとは面識はなかった。
5月15日 沖縄が密約復帰をした日で、戦前の1932年のこの日は犬養首相が海軍将校らによって射殺された国家改造クーデターテロ事件が起きている。同日、京都では葵祭がある。葵祭は何回か見ているから二千円札にちなんで宇治を散策。平等院に寄り「鳳翔館」ができていたので観覧、コンピューターグラフィックスによる彩色復元の平等院の映写はコンピュータ技術を駆使したものだ。また売店で絵ハガキを買い求めた際に、お釣りを二千円札でくれと注文したら二千円札は用意して無いとのことだった。鳳凰堂は何回も見ているので丁度修学旅行生とはちあわせしたので周辺(大書院、浄土院、羅漢堂、頼政の墓、不動堂)、宇治市源氏物語ミュージアムを見た。帰途、萬福寺を見学。
2012年5月 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社にかかわる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。
□1918年9月 山本實彦『川崎正蔵』 
□1928年10月 『目録』(神戸 川崎男爵家蔵品入札目録)
□1936年2月 『神戸 川崎男爵家蔵品入札目録』
「支那宋、元古画の蒐儲に於いて、世界にその名を知られている川崎美術館は、神戸川崎男爵家の先々代・故川崎正蔵翁が明治23年神戸布引の邸内に建設されたもので、一に長春閣と呼ばれている。これは其当時翁と親交のあった伊藤博文公が命名されたのである。→当社(川崎重工業)の創立は1896(明治29)年10月のことですが、造船業の歴史としては、それより18年前から始まっています。創業者の川崎正蔵が1878(明治11)年に東京・築地に川崎築地造船所を開設したのが、当社の起源です。川崎正蔵は1837(天保8)年、鹿児島の呉服商人の子として生まれました。17歳(嘉永6年)で当時唯一の西洋文明への窓口であった長崎に出て貿易商の修行を積み、27歳(文久3年)のとき大阪に移って海運業を始めましたが、このときは、持船が暴風雨で遭難して積荷とともに海没したため失敗しました。その後1869(明治2)年に、薩摩藩士が設立した琉球糖を扱う会社に就職、1873(明治6)年には、大蔵省から委嘱されて琉球糖や琉球航路の調査を行いました。翌年には日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就任し、琉球航路を開設、砂糖の内地輸送を成功させました。この間に自分の運命を左右するような海難事故に何度も遭遇した正蔵は、自らの苦い体験を通して江戸時代の大和型船に比べて船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋型船への信頼を深めると同時に、近代的造船業に強い関心を抱くようになりました。1878(明治11)年、時の大蔵大輔(現在の次官)であり同郷の先輩でもあった松方正義などの援助があって、東京・築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地を借りて川崎築地造船所を開設、造船業への第一歩を踏み出しました。(→川崎重工業ウェブサイト)

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