Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

しまくとぅばプロジェクト2018 しまくとぅば鼎談「『琉球処分』から140年 -ウチナーぬ歴史とぅ文化から、 県民投票やちゃーし 見ぃーゆが?」
 これまで沖縄の近代思想(伊佐眞一氏)、経済と文化(屋嘉宗彦氏)、写真(比嘉豊光氏)について、しまくとぅばで論じてきた鼎談シリーズの7回目。近代から沖縄の戦後史をへて現在に至る大きな流れのなかで、私たちはいまどんな問題をかかえているのかを、県民投票をトピックに、しまくとぅばで思考する機会にします。
※むる しまくとぅばしっ 話し さびーん。



〔大濱聡〕2019-2-18

「くろねこの短語」2019年2月19日-皇族気取りのJOC会長を続投させるため、定年延長なんて姑息な規約改定を画策してるってね。フランス司法当局からオリンピック招致に絡む不正な金銭のやり取り疑惑で捜査対象になってるんだから、本来ならば自ら会長の座を降りるべきなのだ。それがこれだもの。JOCも腐ってるなあ。
 ところで、辺野古埋め立ての承認撤回の効力を国が一時停止したことに対する沖縄県の審査申し出を、国地方係争処理委員会が却下したってね。つまり、審議することなく門前払いしたわけだ。その理由ってのが、「行政不服審査法に基づく執行停止決定は、(地方自治法では)原則として国の関与から除外される」からなんだと。つまり、「県が辺野古沿岸部の埋め立て承認を撤回したのに対し、国が撤回の効力を停止したことは、国の関与に該当しないと判断した」ってことになるらしい。
 笑っちまうね。こんな理由が通用するなら、どんな申し出だって「国は関与してないから」で却下できちゃうんじゃないのか。そもそも、執行停止を決めたのは国土交通大臣なんだよね。これが国の決定じゃなかったらなんなんだ。これもまた、結論ありきの有識者によるサボータージュなんでしょうね。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com
2013年2月 松山公園
null
沖縄県立第二高等女学校跡「白梅の乙女たち」(西村貞雄氏作)
null
久米村600年記念碑(神山泰治氏デザイン)


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1975年2月 雑誌『青い海』40号 「沖縄の食べもの文化考/豚の泣く日」

1957年3月 与那国善三『新沖縄案内』沖縄観光協会/印刷・おきなわ社
○広告「沖縄唯一の百貨店 観光お土産にもっとも喜ばれる品々」「サービスのオアシス 料亭小川荘(小橋川和子)」「沖縄観光協会指定旅館 鶴よし」「ホテル琉球」「沖縄観光協会指定 沖縄ホテル」「コザホテル(国吉鶴子)」「大津旅館(津波幸盛)」「ホテル森乃(名嘉真キヨ)」「沖縄観光協会指定旅館 初音館」「沖縄観光協会指定 観光ホテル厚養館(岸本金光)」「料亭・山手(長峯春良)」「料亭・登美の家(金城利江)」「料亭・新鶴(我那覇文子/佐久本嗣子)」「料亭・那覇/東京支店・琉球亭なは(上江洲文子)」「レストラン松屋(前田義善)」
1960年1月8日『琉球新報』島袋盛敏「仲宗根章山翁の思い出ー首里城懐古」(写真/)仲宗根真吉、摩文仁憲和、新垣良光、島袋盛敏。明治42,3年)
1960年1月10日『琉球新報』「新春インタビュー石野記者/朝倉文夫×浜田庄司」

 1960年1月17日『琉球新報』坂口総一郎「順応する生活態度ー40年前クリ舟で体験した人生観」
1960年10月8日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと①島本豊氏(日航沖縄支店長)独自の風土活かせ」
1960年10月9日『琉球新報』「座談会/本土経済人の見た沖縄ー観光地として有望」今里広記/湯浅佑一/五島昇/鹿内信隆
            「観光沖縄にひとこと②松川久仁男氏ー海の特色売り物に
1960年10月10日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと③太田守徳氏(国際中央通りほしい立派な歩道」
1960年10月11日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと④儀間光裕氏ーきたないガーブ川」
1960年10月12日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑤東盛良恒氏ー”南国沖縄„打ち出せ」
1960年10月13日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⓺島袋清氏(ハワイ球陽観光団長)全住民も関心持て」
1960年10月14日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑦宮里辰彦(リウボウ専務)政府、住民も協力を」/糸満盛信「沖縄の古武術」①
1960年10月15日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑧荻堂盛進氏ー島ぐるみで協力を」/「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 千葉県三里塚の沖縄農場」
1960年10月16日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑨宮里定三氏ーホテル施設の充実」→2016年6月ー那覇空港見学者デッキに「沖縄観光の父・宮里定三」(ブロンズ像)設置
1960年10月17日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑩宮城仁四郎氏ー花いっぱい運動を」
1960年10月18日『琉球新報』「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 東京新生会」

1961年5月29日ー第二回粟国郷友会総会(レストランアサヒ)
null
null

1963年
6月6日ー粟国郷友会4代目会長に屋宜宗一
11月ー安里幸一郎、大阪南の割烹関西で調理修行。

1965年
5月 源武雄『琉球歴史夜話』月刊沖縄社/印刷・緑地印刷事業股份有限公司
○廃藩置県直前の辻遊郭/黒糖文化史/イモの文化史/パインの歴史/泡盛と歴史/琉球料理の話/豪華な御冠船行事
5月23日ー粟国郷友会5代目会長に安村善太郎

2003年1月24日「関西沖縄』報⑤
1966年  田島清鄕『琉球料理』月刊沖縄社

1967年
1月 日本料理研究会『日本料理』19巻新年号□川島四郎①「酒一合と牛乳一合の比較論」/白井喬二②「味の始まり」/加藤藤吉③「江戸から東京へ97大正世相史」清水桂一④「料理品名考(18)清水鮓年表」

①1895-1986 昭和時代の栄養学者。
明治28年2月8日生まれ。陸軍で軍用食糧を研究し,携帯食糧などを考案。桜美林大教授,食糧産業研究所所長などをつとめた。栄養と食物についての執筆や講演で活躍した。昭和61年12月3日死去。91歳。京都出身。東京帝大卒。著作に「まちがい栄養学」など。→コトバンク
②[生]1889.9.1. 横浜 [没]1980.11.9. 茨城,龍ケ崎 小説家。本名,井上義道。 1913年日本大学政経科卒業。『忍術己来也 (じらいや) 』 (1922~23) ,『神変呉越草紙』 (22~24) の2つの長編忍法小説が芥川龍之介,菊池寛らの激賞を受け,『新小説』に執筆の機会を得て作家としての地位を固めた。→コトバンク
③手元に『全国花街連盟名簿』(加藤藤吉編、全国花街連盟発行、昭和31年)と題されたB六判の小冊子がある。そこには、北海道から鹿児島にいたるまで、都市部を中心に600を超す関係団体(料理業組合、芸妓組合、置屋組合など)とその所在地が掲載されている。『日本花街志』の著者紹介によると、加藤は明治27(1894)年に東京に生まれ、浅草の花街に家業の料亭を継ぐ。その後、全国の花街の研究を志し、昭和4(1929)年には『柳橋沿革誌』(柳橋開橋祝賀会事務所)を編集した。→転点notes
④清水 桂一 (1907-1980)

2月 日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人の舌と鼻」/添田知道「調理界の長老 原勇蔵」/加藤藤吉「江戸から東京へ(98)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」/知切光蔵「天狗の系譜」
3月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その1)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(99)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」
4月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その2)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(100)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」/内田春夢「春夢覚え書ー『日本は敗戦国ではないー負けたのではないのである・・・・地球上から人類を抹殺するが如き野蛮極まる戦争を、日本は、全世界の人類の幸福のために、率先、放棄しただけなのである』これは先年逝去された元陸軍大将荒木貞夫氏の”終戦の弁„である・・・」
5月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その3)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(101)大正世相史」/清水桂一「律令時代の鮓」/内田春夢「春夢覚え書きー酒とは愚痴なもの」
6月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「漢方薬と食物」/加藤藤吉「江戸から東京へ(102)大正世相史」/清水桂一「コンフリー料理」/内田春夢「春夢覚え書きー鰻串」
7月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人とチーズ」/清水桂一「明治の料理」
8月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「食塩恐怖症」/加藤藤吉「江戸から東京へ(104)大正世相史」/清水桂一「明治の料理あつめ」/内田春夢「春夢覚え書きーうすれゆく」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(14)」
9月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その1」/加藤藤吉「江戸から東京へ(105)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋」/内田春夢「春夢覚え書きー河岸揚 東京の魚市場は、築地、千住、大森の三か所である。このほかに私営の魚市場も数か所、あることはあるが、それはごく小規模のものである。・・・」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(15)」
10月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その2」/加藤藤吉「江戸から東京へ(106)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋」/内田春夢「春夢覚え書きー立ん坊」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(16)」
11月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その3」/加藤藤吉「江戸から東京へ(107)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋3」/内田春夢「春夢覚え書きーメガネの黒と白」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(17)」
12月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その4」/加藤藤吉「江戸から東京へ(108)大正世相史」/清水桂一「明治の歳末ー明治26年ごろ沖縄那覇の歳暮」/内田春夢「春夢覚え書きー赤い米」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(18)」

1969年
null
写真左手前が安里幸一郎氏、左奥のほうが新城三郎で手前一人置いて中村喜代治氏
9月15日ー沖縄調理師協会(福永平四郎会長)30人、敬老の日で那覇市首里の沖縄厚生園(渡名喜聡園長)を訪れ、お年寄り180人に昼食の料理を提供。この時の一日園長は平良那覇市長夫人の信子さん、ウエイトレス姿でかいがいしく配膳に立ちまわった。

11月9日ー安里幸一郎「魚安」経営


1970年
10月ー沖縄調理師協会(四元実会長)『あだん』発刊号

1971年4月 新島正子『琉球料理』新島料理学園

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02




テレビの取材を受ける翁長良明氏/田名真之氏、人間国宝の照喜名朝一氏、大城學氏


2019年2月17日 琉球三線楽器保存・育成会ー左から上江洲義昭氏、銘苅春政氏、岸本尚登氏/銘苅春政氏(1934年 玉城村生まれる。沖縄県指定工芸士(三線部門)。現代の名工。胡弓奏者としても県から沖縄伝統芸術の技能保持者)


1988年10月30日『琉球新報』宮里春行「私と三線ー名器100挺に寄せて①」、31日 玉栄昌治②、11月2日 比嘉常俊③、11月3日 比嘉常俊④、11月4日 宜保栄治郎⑤)

1988年11月 沖縄県立博物館「特別展『三線名器100挺展』」


2019年1月 沖縄タイムス販売店『ウチナー昔たび』第128号「沖縄を愛するコレクター 古美術なるみ堂 翁長良明さん(前編)」/2019年2月『ウチナー昔たび』第129号「沖縄を愛するコレクター 古美術なるみ堂 翁長良明さん(後編)」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 1940年1月、在米沖縄県人会『琉球』7号□幸地新政「太平洋の危機と在米同胞ー第一次世界大戦の終わりと共に、来るべき世界制覇の舞台は、周知の如く太平洋に移動したのである。(略)若し、日米間に万一のことがあれば、その直接の発火点は疑いもなく蘭印問題であろう。(略)米国政府は1939年7月26日に日本政府に向かって日米通商航海条約の廃止を通告した。これは日支事変に対する米国の日本への抗議の一形態であり、さらに軍需品禁輸断行の事前工作である。米国にも日米開戦論があると同時に又、日米非戦論即ち日米親善論も決して侮るべからざるものを内包している」
アメリカ合衆国ワシントン州のタコマナローズ海峡に架かるつり橋で、1940年11月7日に強風の共振による影響で崩落しました。(いちらん屋) 
1941年7月、フランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)行政命令でCOI(情報調整局)設置。ウィリアム・ドノバン(アイルランド系)長官→1942年6月、大統領行政命令でCOIが廃止、OSS(戦略事務局)設置。ウィリアム・ドノバン長官
1941年、第二次大戦勃発と同時に、アメリカ政府によって、日系人11万人余は永年住みなれた家を追い立てられるように着のみ着のまま家族と共に僻地に設けられた10ヶ所の収容所に送られた。(アリゾナ州のボストン収容所とギラ収容所、アーカンサス州のジェローム収容所とロワ収容所、ユタ州のトバズ収容所、コロラド州のグラナダ収容所、ワイオミング州のハートマウンテン収容所、アイダホ州のミネドカ収容所、カリフォルニア州のツールレイク収容所とマンザナー収容所)。この日系人の収容にあたってはドイツのユダヤ人検索同様にIBMの機械が活躍した。
□731部隊 - Wikipediaja
初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。 満州に拠点をおいて、防疫給水米軍 (GHQ)との取引 [編集]終戦時に特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。
原子力ー1942年12月2日、最初の自律核連鎖反応ーこれが原子力の鍵であるーが、イリイノ州シカゴのウラニウム炉の中で発生した。これは、人類の幸福のために発展せしめ得る巨大な力の新しい源であった。第二次世界大戦の終結の時、合衆国は、この原子エネルギーの平和的利用に関する計画を国内及び海外において進展させるための方法を研究し始めた。(以下略)


〇犯罪王アル・カポネも真っ青、葉巻を銜えたルメー /勲一等旭日大綬章
沖縄の新聞報道によると、日本に居る米軍幹部に日本政府は「日本を護ってくれて有難う」という意味なのか勲章を贈っているという。かつて日本を空襲で焼き払ったルメーに勲一等旭日大綬章を贈った話はネット上に飛び交っているが今でも勲章を贈っていたことに疑問を持つ。ルメーは1945年に日本占領は「百年間続く」とほざいた。たしかに日本の現実はアメリカの属国と化している。『アメリカの属国で悪いか』という本も出て居直る性質の悪いのも居る。今年は敗戦70年。「敗戦後100年」は無いと思うが、そのアメリカ占領100年を目指そうとしている安倍麻生自公政権は辺野古新基地をつくり、嘗てルメーが言った米軍の日本占領は百年続くことを実現しようと試みる。大多数の日本国民もそれを支持している。(2015-1記)

アメリカ軍統治下の「オキナワ」1945年
1945年3月26日 アメリカ軍、慶良間諸島に上陸開始(~28)/島民の「集団自決」あいつぐ
1945年4月1日 アメリカ軍、北谷村嘉手納の渡具知浜に上陸
1945年4月2日 読谷村チビチリガマで住民の「集団自決」おこる。村内数ヶ所でもあいつぐ
1945年4月5日 アメリカ海軍、読谷山村比謝に軍政府樹立。ニミッツ布告を発して軍政に着手した。
1945年4月13日 『台湾新報』「敵米の陣営に蠢くB29の元凶カーチス・ルメー」
1945年4月16日 アメリカ軍、伊江島に上陸。ついで本部半島制圧(~18)
1945年4月22日 『週刊朝日』大仏次郎「沖縄決戦を直視して」
null
null
null
null
1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
 参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店
1945年7月28日9時49分、濃い霧の中をニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍の中型爆撃機 B-25が、エンパイア・ステート・ビルディング(英: the Empire State Building)内79階の北側に衝突して機体が突入するという事故が起こった。79階で火災が発生し、衝突時の衝撃で機体から脱落したエンジンが破壊したエレベーター扉と同シャフトを経て80階へ延焼したが、約40分後に消火された乗員3名を含む死者14名を出したものの、比較的小型の機体であった上に着陸直前で燃料残量が少なかっことから建物自体への損は比較的少なく、事故後2日で営業を再開している。→ウィキペディア
1945年5月7日 石川に城前初等学校開校 
1945年5月20日 『週刊朝日』親泊朝省「敵の恐怖、わが沖縄特攻隊」
1945年5月26日 南風原の野戦病院、真壁村に移動
1945年5月27日 第三十二軍司令部、首里から津嘉山へ、ついで摩文仁に移動(~30)/『週刊朝日』土屋文明「琉球阿嘉島国民学校生徒の勇戦を讃ふ」
1945年6月23日 沖縄戦終結ー戦没者 一般住民9万4000人、日本軍将兵9万4136人、アメリカ軍将兵1万2281人 計20万417人

1945年9月5日『ウルマ新報』(活字)「ミズリー号で歴史的署名式、劇的に終了」「日本に於いては闇取引が盛ん」」「軍政府に於いては本島民待望の通信事務開始」
1945年9月26日『ウルマ新報』「マッカサー元帥の語る日本の現在と将来」「アメリカ国務長官代理アチソン氏『マッカーサーは単なる管理者で政策決定の権限なし』」「各地区市会議員当選者」
1945年11月11日 東京丸ビルの沖縄県事務所で沖縄人連盟発足
1945年11月21日『ウルマ新報』「米英加の三国首脳 原子エネルギー会談」
1945年12月6日 沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』創刊(編集発行・比嘉春潮)
1945年12月19日『ウルマ新報』「山下泰文大将 死刑の宣告」「糸満市建設着々」
1945年12月26日『ウルマ新報』アメリカ合衆国マリン軍大佐・軍政府副長シー・アイ・マレー「年末の挨拶」
NHKが、2010年8月6日NHKスペシャル『封印された原爆報告書』にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り。字幕:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
ナレーター:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被曝者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。→ウィキ
参考資料ー
1979年2月『戦後沖縄写真記録ーゼロからの時代』那覇出版社/1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社
2012年8月 『オキナワグラフ』「伝単ー翁長良明コレクション(携帯090-3793-8179)」




2001年1月 『マッカーサーの日本占領』世界文化社
マッカーサーの日本 1945年8月ー1951年4月
。1945年8月14日、日本は連合国に対し、ポツダム宣言を受諾した。日本を占領する連合国軍の最高司令官にはダグラス=マッカーサー元帥が任命された。占領行政がスムーズにいったのは、一つにその中枢神経が東京の都心に集中していたからである。もし、占領を司るこれらのセクションがはいる建物がなかったら、占領の性格そのものが大きくかわっていたことであろう。もともと米空軍は都心部の爆撃を避けるよう命令されていた。/ワンマン宰相・吉田茂ー反対者を罵倒するその姿は「ワンマン」の名にふさわしい。ただしそれができたのは、マッカーサーの権威を借りたからである。(袖井林二郎)

○現代に至る日米関係はすべてマッカーサーが作り上げたと云って過言ではない。日本は敗戦国のトラウマを未だに引きずっている。
1946年5月15日、『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版が創刊。
1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。 同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。
石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。 
1947年7月に日本社会党の片山哲を首班とする片山内閣が発足したが、片山はクリスチャンであり、マッカーサーはクリスチャン片山の総理大臣就任を喜び「今や東洋の三大強国にキリスト教徒出身の首相、中国の蒋介石、フィリピンのマニュエル・ロハス、日本の片山哲が誕生してことは広く国際的な観点から見ても意義が深い。これは聖なる教えが確実に広まっている証である・・・これは人類の進歩である。」と断言し、片山内閣発足を祝福したが、マッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9ヶ月で瓦解した。
 マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた。またポケット聖書連盟に要請して、日本語訳の聖書約1,000万冊を日本で無償配布している。→ウイキ
1948年2月 伊波普猷『沖縄歴史物語』「奈翁と英艦長との琉球問答ーセントヘレナに於ける1817年8月13日の昼過ぎー」マカレー東本願寺

1948年夏 比屋根安定(中央)、その左が岩原盛勝

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2019年1月 破防法研究会『序局』第20号 発行・出版最前線(〒105-0004 港区新橋2-8-16石田ビル4F)
〇黒島善輝「沖縄の矛盾の縮図『伊江島』1948年 伊江島『米軍・LCT爆発事故』」
〇編集後記ー・・・今年5月1日のメーデーに「新天皇即位」をぶつけてきたのも、まさに労働運動圧殺攻撃そのものです。・・・

2016年8月 『沖縄・伊江島〔米軍・LCT爆発事故〕』島袋和幸(FAX03-3695-9276)


  東京の島袋氏から2016年8月 『沖縄・伊江島〔米軍・LCT爆発事故〕/島袋清徳・玉元昭仁・宮里豊信 3氏の〔記憶を記録〕する』と、手紙が送られてきた。手紙は見なかったことにして、本の内容のほんの一部を妙出○『琉球朝日放送』2009年8月5日「リポート・爆発事故から61年 港で何が起こったのか(ネット掲載)/(略)犠牲になった軍関係者はフィリピン人と黒人だけ。危険な任務を彼らに押し付けていたばかりか、伊江島住民にも無報酬で手伝わしていた実態も明らかになりました。伊江島の人々は、戦争の一部としてこの事故を忘れようとしました。しかし、現在沖縄にある、あるいは今後積み下ろしされる爆弾がいつ、火を噴くのか、「爆弾を抱いて眠る日々」は続いているのです。(略)浦添にも軍港施設、大浦湾にも、弾薬庫(核)を背景にした軍港が予定されています。さらに、有事法制化では、軍港の荷役作業に沖縄県民があてられる可能性も大きい。


島袋和幸ー伊江島港内にある「被爆慰霊碑」の前で(1948年8月6日に、伊江島の波止場で起こったアメリカ軍爆弾処理船(LCT>爆発事故の犠牲者を悼む碑)本部町渡久地港からの定期船の乗客を中心に百二人が死亡、七十六が負傷した。一方、アメリカ軍側はアメリカ兵二人、LCTの乗員のフィリピン人十一人が死亡。作業責任者のアメリカ人が翌日、自殺した。


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1978年8月 新里清篤編『記録と証言 あゝ学童疎開船対馬丸』対馬丸遭難者遺族会

ヒーサン(寒い)、ヤーサン(ひもじい)、シカラーサン(寂しい)
〇沖縄から本土への学童疎開は1944(昭和19)年7月7日、政府の緊急閣議で決定した。この日サイパン島が玉砕、民間人を巻き込んだ戦闘は衝撃を与えた。次は沖縄である。閣議決定は「本土へ8万人、台湾へ2万人、計10万人を7月中に引き揚げさせよ」であった。鹿児島県知事へも奄美群島からの引き揚げを命じている。疎開業務は警察部が所管となり、進められた。学童疎開は文部省の指示を受け県教育課が計画を推進した。疎開業務は容易には進まなかった。米軍の潜水艦が沖縄・鹿児島間の海上で日本の艦船を沈め、多くの犠牲者が出ていることは公然の秘密になっていた。県外へ、しかも危険な航海。親たちは反対した。校長らは説得に懸命になった。一人でも多くの疎開学童を集められる教師が優秀な先生といわれた。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社
〇他府県での学童疎開も1944年8月から国民学校初等科3年から6年生を対象に始まった。大都市への本格的空襲が予想されるようになり、被害を防ぐ観点から戦火にさらされそうな地域に居住する学童をより安全な地域に一時移住させた。防空体勢の強化、次代の戦力を培養する目的の国策として実施された。具体的には東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、大阪、神戸などから約45万人の学童が34都道府県の旅館や寺院など約7千カ所に疎開した。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社
〇1943年4月、新里清篤は妻の千代子と共に本部国民学校にへ赴任した。翌年7月にはサイパン島が玉砕、間もなく沖縄県内政部長名で「学童集団疎開実地要綱」の通報が学校に届いた。立場上、新里は「父兄、学童に疎開を呼び掛けるには、まずわが家族を率先させねば・・・・・・」と考えた。鹿児島への海路は既に何隻もの船が撃沈され、”魔の海„と化しており、船旅は一大決心を必要としていた。対馬丸には千代子、長男、二男、長女の3人の子供、そして「孫が疎開するなら、自分も」と言ってきた母親のナベの5人が乗船、全員が帰らぬ人となってしまう。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社

1995年5月 琉球新報編集局学童疎開取材班(池間一武、照屋直、崎原孫雄)『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社

1913年 第一大里尋常小学校の分教場として御殿山に開設され,1941年 与那原国民学校として独立校として開校された。→与那原町立 与那原小学校

1995年8月 与那原町学童疎開史編集委員会『与那原の学童集団疎開』与那原町教育委員会/新垣隆一2代与那原国民学校長(1943年の教職員名簿に「與那原國民学校 校長 正七 六待一五六〇加 新垣隆一」)

1995年8月 与那原町学童疎開史編集委員会『与那原の学童集団疎開』与那原町教育委員会
 上原敏雄・引率教諭「与那原国民学校第一次学童疎開」1944年8月15日ー疎開申込児童188名、引率教員、養護婦、世話人、合計218名が親川に集合し、トラック3台に分乗して那覇に向かった。那覇では宿舎浦崎旅館に男子、那覇旅館に女子、津波旅館に女子と家族が分宿して乗船待機をした。8月17日ー「いかだ用の棒と縄の準備をせよ」との達示で海上輸送の不安を感じた父兄が、18日早朝、疎開取り消しのため宿舎に殺到して混乱状態になった。新垣隆一校長の出覇、父兄会、大多数取消し、荷物整理に津嘉山朝吉先生を主任に全力を注いで下さった。
 残り児童95名、引率関係者合わせて119名、8月21日午後7時ー和浦丸(那覇の子どもたちの荷物も乗せる)に乗船。左右に2隻の護衛艦の5船団で、時折飛んでくる飛行機に守られ、航海を続ける。22日夜半ー僚船対馬丸の悲報、最悪状態。魚雷が左右に白波を立てて、舷めがけてやって来る。ジグザグの航路・・・(略)1946年10月26日帰還。那覇港に降り立つとDDTの洗礼を受け、トラックに乗せられ、懐かしい荒れ果てた与那原を右手に見ながら久場埼の収容所に下り立った。玉那覇栄三先生に迎えられ感激の涙がしみ込み、実にうれしかった。一夜明かし、あこがれの与那原へ向かった。変わり果てた親川で、子どもたちを父兄に引き渡すことが出来たことを、疎開関係各位に心からお礼を申し上げる。帰還を迎えて下さるはずの新垣隆一校長は戦死、佐久本嗣矩校長先生ほか、疎開児童の父兄方に迎えられ、帰還報告を済ませた。児童たちと引率教員は、佐久本先生を校長とする与那原初等学校所属となった。

 安谷屋勇・引率教諭「与那原国民学校第一次学童疎開」昭和19年。それはよい年ではなかった。日本軍は南方戦線で次々と敗れ、7月7日にはついにサイパン島が陥落して、米軍の沖縄上陸は必至の状況になっていた。すでに沖縄には守備軍として、球部隊、山部隊、石部隊、武部隊の約10万に及ぶ精鋭が配備されていた。国民学校はいずれもその兵舎に併用され、兵隊と児童の雑居で、正常の授業はできなくなっていた。与那原国民学校にも部隊の一隊が駐屯していたが、その行事板には米軍上陸予想月日が掲示され、上陸近しを感じさせるほど、戦局は緊迫していた。
 8月21日ー焼けつくような酷暑の中、那覇港近くの西新町広場に集結した。何しろ一般疎開を含めて約5千人に及ぶ大集団に、それを取り巻く見送り人で混雑を極めていた。(略)港外には護衛艦二隻と輸送船三隻の、計五隻編成の船団が待っていた。輸送船はいずれも、陸軍所属の老巧化した数千トン以上の貨物船だと言われていた。それは和浦丸、対馬丸、暁空丸であった。島尻地区は最初、対馬丸に割り当てられていたが、いつの間にか和浦丸に変更され、対馬丸には那覇地区が割り当てられていた。対馬丸は僚船三隻中、最も外観が良かった。真偽のほどは不明だが、那覇地区のクレームによって変更されたとのうわさが流れていた。船団は午後7時ごろ錨を上げ、ゆっくり動き出して港を後にした。行く先は長崎港、疎開先は熊本県日奈久町である。・・・

 津嘉山朝吉・引率教諭「与那原国民学校第二次学童疎開」わが子を戦火にさらすより疎開させようと、学童疎開を希望する残余の生徒が集められた。時の新垣隆一校長の強い要請により、最終的に私が引率教師となった。昭和19年9月15日には、学童疎開第二陣(学童数40人、安里国民学校の5人を含む)として、輸送艦「室戸丸」で那覇港を出航した。室戸丸が最後の学童疎開船だったようだ。9月24日ー室戸丸、鹿児島に入港(錦生旅館に投宿)。9月30日ー疎開先の熊本県湯浦町(現芦北町湯浦)に到着。宿舎は寿旅館。湯浦国民学校に転入。

対馬丸犠牲者(1、484人)の慰霊碑・小桜の塔/対馬丸犠牲者「刻銘板」与那原出身は瑞慶村マカト、瑞慶村光子、長嶺澄子

対馬丸犠牲者「刻銘板」粟国出身は玉寄オツル、玉寄マサ子、玉寄恵美子/海鳴りの像-赤城丸犠牲者(406人)・嘉義丸犠牲者(368人)・開城丸犠牲者(10人)・湖南丸犠牲者(577人)・台中丸犠牲者(186人)

1983年4月雑誌『青い海』№122 「座談会ー海の戦後はいつ終わるー戦時遭難船の遺族は訴える」出席者・湖南丸遺族会・赤嶺広吉、大城敬人/嘉義丸遺族会・吉本英吉、仲宗根トヨ/赤城丸遺族会・又吉久全、翁長春元 司会・玉城朋彦


儀間比呂志「モニュメント『海鳴りの像』戦後の沖縄の心は『戦はならんどー』である」

     
写真ー全員対馬丸に乗り込んだ学童たち。後列左から4人目 山里昌男14歳(翁長良明所蔵)

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1971年8月 雑誌『青い海』4号 渡久地政司「角を磨け、素っ裸になれー選挙・議会・若者のことなどー」

1987年8月 『やまとの群星/関西で活躍する沖縄の県人たち』琉球新報社 「渡久地政司」→本書は元『青い海』編集発行人で作家の津野創一が編集協力した。


1965年7月 名城大学沖縄県人会『南端』(責任者・糸数哲夫)
糸数哲夫
昭和36年ー那覇高校卒。昭和44年ー名城大学大学院法学研究科修、商学修士、法学修士。昭和44年ー名古屋在加茂会事務所入所。昭和50年ー那覇市にて税理士事務所開業→現在は沖縄県宜野湾市字我如古。

1986年3月、琉球新報の松島弘明記者から、名古屋、三重のウチナーンチュの取材で大阪に来るという葉書(中城城跡)をもらった。後に琉球新報大阪支社に行き、私も旧知の人たちに会いたく名古屋に同行した。名古屋の県事務所の職員は大阪の県事務所でなじみのある人たちばかりであったので名古屋、三重のウチナーンチュ情報はすぐに得られた。
松島記者は取材過程で、「愛知県沖縄県人会会員名簿」「でいごの会会員名簿」(1974年10月)、「三重県沖縄県人会名簿」(1974年)、「沖縄県名古屋経営者会名簿」(1985年)などを入手した。麦門冬・末吉安恭の甥の佐渡山安正、佐渡山安治さん兄弟、粟国の末吉和一郎さんの取材には同行した。大濱皓氏は病気で会えなかった。
2010年1月31日、沖縄文化の杜で仲村顕さんから愛知の沖縄の話を聞いた。豊橋市に田島利三郎、犬山市には久志富佐子の墓があるという(後日、墓の写真も見た)。

 大阪・沖縄関係資料室で『阿姓家譜』(阿姓南風原按司守忠 7世西平親雲上守安4男)の原本を見たことがある。資料室主宰の西平守晴氏が実兄から譲られたものである。複製本が那覇市歴史博物館にある。『氏集』を見ると、阿氏には前川、渡名喜、西平、小濱、渡嘉敷、宮平、瀬良垣、伊舎堂、與儀、喜瀬、山元、安和、佐久田、眞謝、江田、金城、照屋の諸家がある。
 名古屋の渡久地政司(とぐち まさしー1937(昭和12)年6月2日、大阪市で生れる。豊田市で育つ。73歳、第3の人生のスタート。体と思考を「解す」だけでなく鍛える。)氏のブログに氏の調査で「○ 太田守松  父渡名喜守重、母なべの長男として沖縄県那覇市東町1丁目20番地で明治35年(1902)生まれる。泉崎小学校、沖縄1中卒、神戸高等商業学校卒。滋賀県立彦根商業学校教諭(大正14年4月)。昭和3年短歌会『国民文学』に入社・植松寿樹に師事。以後、短歌運動。昭和22年3月、日本キリスト教団彦根教会で洗礼。1947年(昭和22年10月)、渡名喜姓を先祖が使用していた太田姓に改名。昭和23年、彦根市立西中学校校長。昭和27年、彦根YWCA創立理事長。昭和34年、井伊大老開国百年祭奉賛会事務局次長。昭和38年、原水爆禁止彦根市協議会会長。昭和45年1月、脳溢血で逝去(67)。
○ 太田菊子  父豊見山安健、母オト(1882年生まれ)の長女として 1905年(明治38)沖縄県那覇市で生まれる。沖縄県立第1高等女学校卒業1921年(大正10)、東京山脇高等女学校卒業1924年(大正13)。大正14年12月、渡名喜守松と結婚。平成5年(1993)逝去(88)・1962年(昭和37年2月)。長年同居の母オト逝去(80歳)。」と太田守松と夫人が紹介されている。守松氏も阿氏である。

「渡久地政司ブログ」(略記)2005年7月28日 
■ 愛知の中の沖縄 事柄覚 ■
愛知の中の沖縄 事柄覚  渡久地政司作成
● 名古屋市東区徳川町にある徳川美術館には、琉球王国の文化財が多く収蔵されている。…徳川美術館に20点の琉球楽器、むかし御座楽(うざがく)に使われた楽器が保存
…、寛政8(1796)年に江戸上がりの使者から贈られたという記録が残って…出自がはっきりしているのは、日本中で徳川美術館の楽器だけ…。
  大野道雄「徳川美術館の琉球楽器」から抜粋。
● 琉球王国賀慶使・恩謝使(琉球国使江戸上がり)が1610年から1872年までの間、18回おこなわれている。上がり、下がりを入れると約34回、愛知の土地を通過している。
1610(慶長15)年の場合、上がり…8月2日美濃大垣泊、3日尾張清州・成興寺泊、5日岡崎泊、6日吉田(豊橋)泊。下り…9月22日木曽福島泊、24日美濃路落合泊、27日岐阜本誓寺泊…であった。
 佐渡山安治(詳細は後記)の調査によれば、寛延(1749)年の江戸上がりの時に殉死した「麻氏渡嘉敷親雲上真厳玄性居士之墓」(古塚達朗「江戸上りの足跡」96-4-2沖縄タイムスでは墓は行方不明とある。しかし、佐渡山安治資料「寛延2年の墓碑」76-3-28沖縄タイムスでは、所在地を発見、と写真入りの記事がある。)と天保3(1832)年に殉死した富山親雲上の墳墓が名古屋市緑区鳴海の瑞泉寺にある。佐渡山安治資料昭和54-12-14沖縄タイムスには、…11月4日、26年ぶりで待望の琉球行列を名古屋に迎える段になって「琉球人通行朝7ツ(午前4時)より本町通京町其外通りに提灯をだし賑合、此日薩摩五ツ過(午前8時)頃御通行、琉球人の行列に先立って、稲葉宿から棺桶が一つ、ひっそりと運ばれて…」。
● 明治26(1893)年9月1日から10日ま で名古屋市で沖縄芝居の興行が行われている。御園座の近くにあった千歳座(広小路南桑名町)。出し物は女花笠踊、上りの口説、下りの口説、女団扇踊、国頭(クンジャン)さばくいなど…、全部ウチナーグチで演じ、客の入りはよくなかったようで、入場料の値引きをしている。明治30(1897)年6月13日、再び名古屋を訪れ、南伏見町の音羽座で公演している。 大野道雄資料から抜粋。
● 戦前の琉球民謡レコード盤(9枚ツル印 7枚・コロンビア2枚)が松本市で1993年に発見され、南風原文化センターに寄贈された。製造した会社は名古屋。アサヒ蓄音機(株)・資本金12万円・名古屋市東区大曽根大坪320番地・大正14年6月6日創業。ここで昭和10年ころまでの間、琉球民謡レコード(ツル印レコード盤)が通し番号202番、曲及び喜劇、古典劇組踊等約400曲が発売された。
● 沖縄県人会の名称のついた組織の最初は、昭和(14)1939年、名古屋沖縄県人会。神山政良(商工省役人)、佐渡山安勇(内務省役人・後記)ら。「われらウチナンチュー佐渡山安治」琉球新報1986-4-12では次の名前が列記されている。大浜皓、南条宏、安江洋、新垣慶申、屋部(不詳)、金城至太郎、米須秀顕(専売公社 津支所長)、神山政良、具志清松、真栄平房政、宮良城盛松、山里平徳、金城朝輝、山里将清、小嶺幸雄ら。戦前の方から戦後の方々までが並んでいるが、なぜか詳細は不明。大浜、安江、南条、米須氏らには、渡久地政司面識あり。
● 昭和20年8月15日直後の沖縄出身者の うち、記録があるもの。…新聞に沖縄出身者は福岡県に沖縄連絡事務所がありそこへ登録して諸手続きをすることで早速登録を済ませた。一日も早く父母へ所在を知らせ、これからの進路について便りをするのですが、何の返事もなく心配でした。次から次へと便りを出したが返事がなかった…。平良榮昌『回想・風雪に耐えて』p91より(平良榮昌・豊橋市在住/琉球親和会会長)
● 戦後、名古屋市と周辺には、鳴海町、守 山町(後、名古屋市に合併)など多くの沖縄出身者が居住していた。上原勘松郎(愛知沖縄県人会連合会会長・顧問・元教員)の話(渡久地政司聞き書き)では、戦後まもなく名古屋でも沖縄人連盟が結成され、沖縄に帰郷する人たちに毛布などを支給するように愛知県庁と交渉するなど救援活動をおこなった。名古屋での沖縄人連盟の組織、活動は不明。
● 愛知県内全域に呼びかけての沖縄県人 会は、昭和○○年ころ。佐渡山安勇(元愛知県職員)が中心で、南条康宏(舞踊家・早稲田大学卒・那覇市出身)、名城良図(医師・東京医科大学卒・那覇市出身)、安江洋(沖縄一中卒、首里出身)等が参加していた。結成の経緯は、鈴木始(首里出身、沖縄一中卒、豊田市在住)が詳しい。
● 佐渡山安勇、安正、安治の業績。安勇―明治16年首里に生まれる。沖縄一中卒、内務省役人、大正12年名古屋市に移住、愛知県職員。晩年、那覇や祖先のことを大学ノート3冊・回想録「思い出の故郷」「祖先考古」にまとめた。(安治資料・安治亡き後、沖縄から来た古書店主が持ち去る、行方不明。)佐渡山家の祖先佐渡山安達は琉球王国の尚育王につかえた宮廷画家。安正は安勇の長男、明治44年那覇市生まれ、名古屋東海中学卒、千葉大学造形科卒、陶芸家。県立工業高校教師。岐阜県土岐市に工房。安正の遺作・土岐川の支流妻木川の下石(おろし)橋の欄干に巨大なシーサー4体が守護神のごとく鎮座している。安正の長男安彦は工業デザイナー。安勇の次男安治は大正2年首里生まれ、中京商業卒、名古屋通商産業局課長で退官。晩年、琉球使節江戸上りの調査・研究に没頭、数々の資料を発見、沖縄タイムス等に発表。没後、資料は散逸。鈴木始(豊田市)が縁戚にあたる。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2018年8月23日NHK沖縄

 [大弦小弦]子どものころ読んだ絵本というのは、記憶の深いところに… 沖縄タイムス 2018年7月22日
 子どものころ読んだ絵本というのは、記憶の深いところに保存され、簡単には失われない。県立博物館・美術館で開かれている個展「儀間比呂志の世界」で絵本「かえるのつなひき」を見て実感した
▼題名には覚えがないのに、作中のカエル「ちゃすがやー」のせりふや、彼らが1列になって踊る姿に懐かしさを覚えた。絵本の存在は、儀間さんの作品が世代を超えて支持される理由の一つ
▼戦争をテーマにした作品だけでなく、民話風な題材でも、弱い者や民衆に寄り添う確固としたメッセージを込めた。例えば「ふなひき太良」は台風被害で苦しむ島の人々に理不尽な要求をする役人を、主人公の太良が懲らしめる話だ
▼展示会は昨年4月に亡くなった儀間さんの版画を中心に、100号サイズの油彩画やレリーフなど約90点を集めた。大胆な構図が見る者に迫ってくる沖縄戦を描いた版画、鮮やかな色彩が美しい琉球舞踊を描く手彩色の作品
▼大阪で、故郷沖縄の人々や、伝統文化の魅力を表現しようと奮闘し続けたエネルギーが会場中に満ちている。展示作からは版木に押し付けられたバレンの圧までが伝わる
▼「ふなひき太良」の後書きで「いまでも沖縄の人たちは、自分たちのほんとうの生活をかちとるために、たたかい続けています」と書く。力強い作品群は私たちにパワーを与えてくれる。(玉城淳)

2018年7月19日 NHK沖縄放送局 「沖縄 NEWS WEB 版画家儀間比呂志さんの作品」那覇市出身の儀間比呂志さんは、沖縄戦の体験者の話をもとにした作品や、沖縄の風土や歴史に根ざした作品を描き続け、去年、94歳で亡くなりました。展示会は儀間さんを追悼し、多くの人に作品について知ってもらおうと、那覇市の県立博物館・美術館で開かれています。このうちガマの中で旧日本軍の兵士が銃剣で住民を突き刺す瞬間を描いた作品は、「皇軍は勇戦した」というタイトルが付けられていて、旧日本軍への痛烈な皮肉が込められています。
また、絵本作家としても活動した儀間さんの代表作、「ふなひき太良」の原画17点も展示されていて、飢きんに苦しむ村人から年貢をとろうとする薩摩の役人を追い払う様子が生き生きと描かれています。県立博物館・美術館の豊見山愛主任学芸員は、「儀間比呂志の多才で多作な表現に触れて頂ける展覧会なので、多くの人に見てもらいたいです」と話していました。


2018年7月18日 写真左から新城栄徳、儀間にデザインを依頼した皿を持つ早野充氏、豊見山愛さん(撮影・町田恵美さん)/皿の原画(所蔵・ギャラリー象)〇早野氏は沖縄都ホテル総料理長のときペリー料理再現に取り組んだ。経緯は1985年11月『南島』に「ペリー艦隊の招待料理―その再現経過― 桑原守也 早野充 」として記されている。

2018年7月13日 RBCニュース「儀間比呂志展始まる」
2018年7月13日 OTV ニュース「儀間比呂志展」(儀間比呂志の生前の動画)

2018年07月13日(金) ~ 2019年01月06日(日) 沖縄県立博物館・美術館 コレクション展「儀間比呂志の世界展 」
儀間比呂志(ぎま ひろし1923-2017)は、沖縄の画家、版画家であり、絵本作家です。郷土を愛する情熱的なメッセージを込めた絵本は、沖縄の民衆に根ざした歴史を伝え、多くの子どもたちの心を虜にしました。人物描写を得意とする儀間作品の特徴は、南方系の女性を太く黒い線で描いた油絵や、沖縄の美しい風土、その美しさを奪った戦争などをテーマにした木版画で、1970年以降は版画に専念します。
本展は、2017年に他界した儀間比呂志による油絵、木版画を中心とした追悼展です。

1995年9月 『島を出た民の戦争体験集』沖縄県人会兵庫本部/2017年5月『榕樹』第426号


山田薫氏、儀間進氏、山田聡氏/謝花聡恵さん、玉那覇英人氏、富原圭子さん

喜友名ひとみさん、新川明氏、儀間進氏/儀間進氏、山田和子さん、渡口彦邦氏

写真左から田名真之氏、儀間進氏、新川明氏、平良京子さん

儀間進氏と田名真之氏/山内栄氏


儀間ファミリーと池原盛浩氏(右)/儀間ファミリーと田名真之氏(左)

儀間進氏、喜久村徳男氏/兄・比呂志の遺影の前で儀間進氏



2018-7-14『沖縄タイムス』「沖縄を彫った版画家 儀間比呂志さん追悼展開幕 写真ー生前の儀間さんと親交のあった山内栄氏」

2018-7-14『琉球新報』

原爆の図 丸木美術館「追悼・儀間比呂志展」

2018年8月15日『埼玉新聞』「儀間比呂志 沖縄を描き続けた版画家 丸木美術館(東松山)」

2018年8月18日『毎日新聞』「版画で伝える沖縄戦 儀間比呂志さん追悼展」/8月21日『沖縄タイムス』「埼玉丸木美術館で儀間比呂志展」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 
2018年9月 尖閣諸島文献資料編纂会(〒902-0068 那覇市大道40番地 TEL/FAⅩ098-884-1958)『尖閣研究ー尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告-沖縄県の漁業関係者に対する聞き取り調査ー』
〇尖閣諸島古賀村の昔と今 
新納義馬「久場島古賀村跡の遺構・生活跡調査を」/編集部「魚釣島・南小島古賀村盛衰考-急ぐべし 南小島古賀村跡 遺跡調査もー最後に重ねてお願いする。国や県は、尖閣諸島古賀村跡の遺跡群を、急ぎ調査し、日本近代化産業遺跡群に認定するなどして、保全策を講じてほしい」


2013年9月 尖閣諸島文献資料編纂会(〒902-0068 那覇市大道40番地 TEL/FAⅩ098-884-1958)『尖閣研究ー尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告』

尖閣諸島とは
Ⅰ尖閣諸島の漁業概要
Ⅱ聞取り編
1章 沖縄本島地区/2章 宮古島地区/3章 八重山地区/4章 漁場保全、領海警備

» Read More