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 新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は、日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。→ウィキ
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1928年1月  文学博士 新村出 監修『海表叢書』巻2 更生閣書店
1943年7月  小野則秋『日本蔵書印考』 新村出「序文」文友堂書店
1946年12月 新村出『童心録』靖文社〇今度は雑草集を一言したい。草木を愛する自分としては、題名から先づ心を引かれる。河上肇博士の手稿の新詩集を筆蹟のまま複製して活字にも直し、解説をも添へて出版した小形の冊子。

河上肇・資料ー右に1946年6月 河上肇『詩集・雑草集』大雅堂
1956年1月  新村出『言葉の今昔』河出新書
1981年4月  新村出『琅玕記』旺文社

1916年9月 伊波普猷『古琉球』糖業研究会出版部
新村出「序文ー南嶋を思ひて(略)琉球語を初めて学問的に研究して世に著わしたバジル・ホール・チャンバレン    Basil Hall Chamberlain氏の祖父に当るCaptain Basil Hallの率いた英吉利船が寄航の途に聖ヘレナ島に立寄って船長の口から流竄中の那翁に沖縄島の話を伝えた事は近事邦人の間にも普く知られるようになったと思うが・・・・・・」

1935年4月『国語と国文学』<チェンバレン氏記念特輯号>
チェンバレン先生の思い出・・・・・・・・・・・・・バチェラー
チェンバレン先生を憶う・・・・・・・・・・・・・・・・岡倉由三郎
王堂先生の南島語研究・・・・・・・・・・・・・・・・新村 出
人としてのチェンバレン先生・・・・・・・・・・・・・佐々木信綱
チェーンバレン先生の手紙・・・・・・・・・・・・・・市河 三喜
チェインバレン先生とアイヌ語学・・・・・・・・・・金田一京助
チェムバレン先生と琉球語・・・・・・・・・・・・・・・伊波 普猷
    (略)
展覧会前記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石田幹之助

事典【じてん】
語義の解説を主とする辞典と異なり,事物の名や用語を発音に従って配列し,その内容を解説した書物。この称呼は,1931年平凡社の《大百科事典》以来一般的になった。→コトバンク

広辞苑ー昭和初期に出版された『辞苑』(じえん)(博文館刊)の改訂作業を引継ぎ、第二次世界大戦後新たに発行元を岩波書店に変え、書名を『広辞苑』と改めて出版された。中型国語辞典としては三省堂の『大辞林』と並ぶ両雄で、携帯機器に電子辞書の形で収録されることも多い。収録語数は、第六版で約24万語。出版以来版を重ね、国内はもとより、海外の社会情勢や約3,000点の図版、地図などを収録し、百科事典も兼ねる働きを持っている。→ウィキペディア

 私の持っている『広辞苑 第四版』(1991年)は大阪難波の古書店で買ったものだが、この古書店は発行されたばかりの辞書でも相当安いことで有名である。本書には伊波普猷、おもろ、沖縄、琉球(沖縄の倍の記述)、那覇、名瀬、チェンバレンなどがある。最近はネットで検索し、場所を取る事典類、『広辞苑』新版などは手元に置かず図書館、那覇市歴史博物館などで確認している。

広辞苑


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「茶わん」は陶芸愛好家向けの専門誌で、創刊は昭和六年三月。編集発行人は秦秀雄となっているが、実務は小野賢一郎がとりしきっていた。秦に代わって昭和七年五月号から編集発行人として遠藤敏夫の名がクレジットされる。編集部は芝区三田功運町六番地、聖坂を登り切った辺りにあった。(会津信吾「蘭郁二郎の生涯」)



1941年8月『文学建設』蘭郁二郎「琉球ある記」
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1971年10月 蘭郁二郎『地底大陸』桃源社

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蘭郁二郎 らん-いくじろう 1913-1944 昭和時代前期の小説家。
大正2年9月2日生まれ。「探偵文学」同人となりミステリーをかくが,科学冒険小説に転じ,SF小説の先駆者のひとりとなった。海軍報道班員として台湾にわたり,昭和19年1月5日飛行機事故で死去。32歳。東京出身。東京高工卒。本名は遠藤敏夫。著作に「地図にない島」「地底大陸」など。→コトバンク

1935年10月30日 阿部金剛、昭和会館参観

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1973年9月 『青い海』久志冨佐子「滅びゆく琉球女の手記」(昭和7年)
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1973年11月 『青い海』27号 

 NHK 目撃!にっぽん 筆を折った“幻の女性作家”~沈黙の人生をたどる旅~」8月2日 日曜日 午前6:10~6:44(全国放送)直木賞作家・大島真寿美さんの小説「ツタよ、ツタ」。モデルはデビュー作への激しいバッシングで筆を折り、沈黙を貫いた女性作家・久志芙沙子。孫がその人生をたどる旅へ。昭和初期、沖縄初の女性作家として注目を浴びながら、わずか1作品を発表しただけで筆を折った小説家がいた。久志芙沙子。沖縄の現実をありのままにつづり、同郷の人から激しいバッシングを浴び絶筆。いま、彼女をモデルとした小説が話題となり、再び脚光を浴びている。家族にも過去を語らなかった芙沙子。祖母はなぜ筆を折ったのか。孫が祖母の人生をたどる旅に出た。芙沙子のまっすぐな生き方は私たちに何を問いかけているのか。
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大濱聡
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左から仲村顕さん、宮城晴美さん、宮里(仲村)初枝さん

1971年4月 雑誌『青い海』創刊号 仲村初枝「私の力で生きてみたいー少女にとって本土とは無限の可能性なのだー」/2020年3月27日・沖縄県立博物館・美術館ー左から、朝隈芽生さん、宮里(仲村)初枝さん、豊見山(津野)愛さん


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1974年新年号『青い海』伊波南哲「久志芙沙子さんの思い出」〇さて、われわれは、久志芙沙子を慰め激励するために、明治神宮表参道の尚志会館で会合を持った。南島文化協会主催の金城朝永氏らの主催で、その晩集まった人々は、伊波普猷、東恩納寛惇、比嘉春潮、仲原善忠、仲吉良光、石川正通、八幡一郎、(芙沙子記ー比屋根安定、宮里良栄)、その他30人ほどであった。各人はそれぞれ、作者を激励したのであるが、石川正通氏は例のごとくユーモアで「この石川正通は石川啄木の身内であるが、作家は貧乏、苦悩、不遇はつきもので、それを克服するところに勝利がある。これは啄木が口癖のように言っていた。また真理である。久志芙沙子さんもこれにへこたれずに、チバイミソーリヨー」と駄洒落を飛ばして、会の空気を和らげていた。〇石川正通夫人・澄子(弟に渡嘉敷唯信)は久志(坂野)芙沙子の1年先輩。1987年6月発行の『ひめゆり一女師・一高女沿革誌』に澄子は「修学旅行の思い出」を書き、その傍には芙沙子の「追憶」が載っている。

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〇大部前の話です。これも再従兄の琉大にいた今は亡き翁長俊郎が、私宅へ寄ってSさんの話をされた。
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1974年6月 『青い海』№33 久志芙沙子「あの頃の事 その後のこと」


1915年2月11日『琉球新報』久志ツル(芙沙子)

1933年3月 沖縄郷土研究会「劇聖・玉城朝薫二百年祭」を首里城漏刻門前で開催。/3月12日南島倶楽部例会、久志芙沙子、大宜味ツル子参加
/4月 琉球新報連載小説「熱帯魚」山里永吉・作 金城安太郎・挿絵/4月 東京で第14回南島談話会、参加者・喜納緑村、森田永吉、久志芙沙子ら/6月 『大南洋評論』2号(編集人・仲原善徳、編集発行人・仲宗根源和)金城朝永「南洋関係図書目録」/7月 仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』
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1933年8月5日『南島』第7号 久志芙沙子「若葉から拾った哲学」
1933年12月28日 眞境名安興死去。東恩納寛惇弔電「学界の為め哀惜に堪へず」


2019年8月22日『新三河タイムス』




『[月刊J-novel』2015年 実業之日本社 辺□大島真寿美①「或る女の生涯 ツタよ、ツタ」(久志芙紗子がモデル)仲村顕氏提供

①大島 真寿美(おおしま ますみ、1962年 - )は、日本の小説家。愛知県名古屋市出身。南山短期大学卒業。
1992年、「春の手品師」で第74回文學界新人賞受賞。2012年、「ピエタ」で第9回本屋大賞第3位。2014年、「あなたの本当の人生は」で第152回直木三十五賞候補。→ウィキペディア

2016年2月 森川満理子『歌集 若夏の風』不識書院(仲村顕氏提供)表紙のおびに○ 亡き父の故郷はけふ「慰霊の日」いまに
戦後のつづく沖縄 著者は、名古屋市生まれ、市立菊里高校音楽科(ヴァイオリン科)卒、旧姓(安良城)。

 
 渡久地 政司 2020-3-31■久志芙沙子再々発見の経緯■直木賞作家大島真寿美著『ツタよツタ』(小学館文庫)発刊までの経緯について、今年2月NHK名古屋が報道。つづいてこの話題について、3月27日・28日・29日に毎日新聞愛知版が3回シリーズで掲載しました(写真)。沖縄と愛知を結ぶ90年に及ぶ幻の女性作家をめぐるドラマが、わかりやすく文字化されて解説されました。不肖・私も2回目の一部に紹介させていただきました。

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2007年1月 新城俊昭『琉球・沖縄 歴史人物伝』沖縄時事出版
      
島袋百恵・画「久志芙沙子」2013年11月3日『新報小中学生新聞 りゅうPОN!』仲村顕「人ものがたり㉛久志芙沙子(1903~1986)幻の女流作家」

  斎藤陽子(Walnut, California)2019-11-28 久志芙沙子さんは親戚筋で、名古屋の開業医と結婚していました。父が「琉歌大全集」の編集で、1年間 東京大学に通っている時には、私も東京で学生でしたので1年間は父と同居しておりました時に、良く芙沙子さんが父を訪ねていらしゃいましたので、芙沙子さんは良く存じております。


  安良城盛雄、台湾銀行 1920年(大正9) ~1927年(台北、九江、嘉義) 
● 久志ツル(芙沙子)と結婚1922年(大正11)、長男・繁誕生1923年(大正12)、繁は2歳になるかならないうちに夭逝。台湾銀行は、安良城盛雄が退職してまもなく深刻化した世界金融恐慌(1929年~)では、日本で最初に倒産した。
  安良城盛雄、1928年(昭和3年)  名古屋市立貿易学校、中国語教師 1年

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 「日本経済新聞」2020年7月30日 午前9時36分ごろ、東京・鳥島近海を震源とする地震があった。気象庁は同38分ごろ、関東や甲信、東海などに緊急地震速報を発表したが、震源地や地震の規模を誤ったと明らかにした。/コロナ禍のさなかテレビ各局が海岸を中継していたが誤報と分かった。

 2018年7月5日前後のウェザーニュースを見ると、今夜は京都など近畿で1時間に100mmに達する大雨のおそれ 、兵庫県・加古川支流で氾濫危険水位超える 。北海道で再び大雨 土砂災害や河川氾濫に警戒 とか、週末にかけて歴史的大雨の恐れ多発的な土砂災害・河川氾濫に警戒、 沖縄・宮古島で1時間100mmの猛烈な雨の ニュース。改めて、東京オリンピックや大阪万博・カジノ、辺野古核基地より、今、目前の自然大災害に備えよを強調したい。台風8号も接近中だ。

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木村 政昭(きむら まさあき、1940年11月6日 - )は、日本の海洋地質学者、地震学者。琉球大学名誉教授、理学博士(東京大学)(1968年)。

 2018年6月18日 午前8時前、関西で震度6弱の強い地震があった。とテレビ各社が報じていた。また、関西電力(9503.T)は、美浜・高浜・大飯の3原発で異常はない。NHKは、福井県の敦賀原発1号機、2号機についても、異常は感知されなかった、とも。連れ合いが東大阪の息子夫婦にメールを送ろうとしたら、息子の妻から「地震がありましたが、二人とも影響ないですので安心を」とのメール。ネットでは「さきほど、アベ氏はTV画面にでてきて 意味判らんことムニャムニャ言ってましたが‥肝心要の大阪府知事に大阪市長は出てこない。せめて、ひと言、コメントなり出してみたらいかがですかぁ~。まだ、寝てんのかい? 」などなど大阪チジや市長の地震対応の批判が飛び交っている。→7月1日『産経新聞』松井一郎知事も、地震発生から約1時間半後に開かれた第1回災害対策本部会議には渋滞の影響で間に合わず、午前10時10分ごろ府庁に到着。

  2011年3月19日ー東北・関東大地震・大津波・原発大事故
 3月18日ーアメリカ政府は福島第一原発から80キロ以内のアメリカ人に対し避難を改めて勧告したという。先日のカン総理」とアメリカ大統領の電話会談は「どうしょうも無い」ということだったのか
3月19日ー『沖縄タイムス』「震災死者6911人ー『阪神』超え戦後最悪」「原発事故レベル5 福島第一 スリーマイル級」、『琉球新報』「犠牲者6911人」「評価『レベル5』スリーマイル同水準」。テレビでは特にNНKが相変わらずネクタイを締め身だしなみを整えたアナウンサーやコメンティタ―が冷静沈着に発言し全く危機感は感じられない。まあ見ていて楽観的になり精神衛生的には良いかもしれない。民放は日常の番組となりコマーシャルも多い。
 テレビ放送は原発大事故は東京消防庁が目立ち自衛隊が印象は薄い。自衛隊員の安全確保優先で救助作業を行っているらしい。しかしこれで核戦争が起こったとき、どう対処するか心配になる。ここはやはり国民の安全を優先にすべきである。国民」は兵器の所持は禁止されているのだから。カン総理はアメリカの黒人大統領と電話で会見したそうだが「思いやり予算」(1995年ー2714億円、・・・2010年ー1881億円)は要らないという話なのか。今も沖縄上空を飛ぶ軍用機の燃料もただちに被災者に回すべきだ。
 3月20日ー那覇は今日も暑く汗ばんでいる。市内は車で溢れかえって、スーパーは商品であふれている。こういう亜熱帯の島に無機的な軍事基地が一等地を占めている沖縄島!。何時まで基地は居るつもりなのか。新聞も評論家もガス抜きばかりせず真摯に取り組んでほしいものだ。東北・関東大震災は地震だけでなく大津波、人災の原発大事故。加えて、無情にも雪が降る。原発の大事故では自衛隊は核戦争では役に立たないのが明確になった。テレビや本で稼いでいる田母神とかいう自衛隊幹部は後輩にどういう教育をしたのか問われる。カン総理が自民党総裁に入閣を要望したが断られたようである。原発は元々は自民党時代から進められたもので自民党総裁も結果責任を取るべきだ。

 1995年2月6日『朝日新聞』「窓ー中国の人々にとっても、今度の地震はひとごとではない。神戸には多くの華僑や留学生らが住んでいる。そのうえ、今から19年前、河北省唐山を襲った大地震の記憶がまだ生々しいからである。唐山地震は午前3時すぎに起こった。石や煉瓦を積んだだけの民家は全滅し、死者24万人、重傷者8万人を出した。・・阪神と唐山。この二つの大地震から、日本も中国も、それぞれに教訓を引き出すことができないだろうか。」

□2003年1月1日『日本経済新聞』「失くしたものはー街は『無』があふれていた。無気力、無反応、無関心、無目的、無作法、無表情、無常識、無責任、無自覚、無自己、無抵抗、無意識、無批判、無能力、無学力、無教養、無節制、無定見、無思想、無プロセス」

 2005年1月7日『琉球新報』の社説に「スマトラ沖地震・津波被災は死者15万人以上という未曽有の自然災害となった。負傷者は50万人、被災者は5百万人にも達する。米軍の津波救援は被災国のすきを利用し、軍備強化を狙う。これでは『火事場泥棒』と同じではないか。」とある。今回例のメアもドサクサにまぎれ日本担当に戻ったようだ。
 2011年3月18日ー『琉球新報』社説
 効果的な人道支援を行うのに、国境や官民、軍の立場の違いなど言っている場合ではない。しかし、ここぞとばかりに軍の貢献を宣伝するとは、どういう神経なのか。東日本大震災への米軍の災害支援に絡めて、在日米軍が普天間飛行場の「地理的優位性」や在沖海兵隊の存在意義などをアピールしている。強い違和感を覚える。在沖米総領事館は、沖縄から基地従業員を含む海兵隊所属の約480人や普天間、嘉手納両基地所属ヘリ、第31海兵遠征部隊の兵員2200人が災害支援で被災地へ向け派遣されたと発表した。
 未曽有の大震災に伴う死者や行方不明者の捜索、被災者救援は急務だ。原発事故に伴う放射能への被ばくリスクがある地域で救援に取り組む人々には敬意を払いたい。しかし、災害支援は売名行為ではない。人道上の見地から本来、見返りを期待しない、崇高な精神でなされるべきものだろう。在沖米海兵隊は「普天間基地の位置が、第3海兵遠征軍の災害活動に極めて重要であることが証明された」「普天間基地が本土に近いことは極めて重要」と普天間飛行場の地理的優位性を強調する。悲しみに打ちひしがれる死者・行方不明者の家族や被災者への配慮はないのか。そもそも近傍の基地ではなく、被災地から遠く離れた普天間基地がなぜ重要なのか。地震発生から3日経ての出動なのに「即応」でもあるまい。
 米軍の説明は、独り善がりで筋が通らない。政治的打算に基づく言動は、県民、国民の米外交に対する信頼回復にとって、かえってマイナスだろう。「沖縄はごまかしとゆすりの名人」などと差別発言をして更迭された米国務省のケビン・メア前日本部長を東日本大震災の日米間の調整担当に充てたのも不可解だ。メア氏は発言発覚後も学生が作成した発言録について「正確でも完全でもない」と非を認めず、今もって県民に謝罪をしていない。日本の「和」の文化を「ゆすり」と同一視する差別発言をしながらこれも撤回せず、災害支援で復権を目指すつもりか。発言の撤回も反省もない人種差別主義者の復権など願い下げだ。はっきりさせよう。米軍がどのようなレトリックを使おうとも、県民を危険にさらす普天間飛行場やその代替施設は沖縄にいらない。

大阪/1973年11月『大阪春秋』1号の特集は「大阪の災害いまむかし」であった
 1973年11月『大阪春秋』1号の特集は「大阪の災害いまむかし」であった。①寛文の大暴風雨と龍渓禅師②享保2年の大洪水③明治42年の北の大火④享保2年の大洪水④南の大火とその余聞⑤昭和の災害(米軍機の大阪大空襲)⑥天変地異・日本列島の危機ー今年の夏、近畿の水がめ、琵琶湖の水位がピンチになった。絶対危険水位、マイナス50センチを突破してしまった。この記録は昭和14年のマイナス71センチ、大正13年のマイナス51センチにつぐ史上3番目の記録を、更に更新しそうな気配のなかで、世界的異常気象がともなって、日本列島の危機感をこれほど身近に深め、予想される天変地異説が、今日ほど真剣に人々の話題の中心になったことも珍しい。(略)以上、今後起こり得るであろう天変地異に対処して、いまむかしの記録を記してみた。(藤原)

今の「悪夢内閣」(命名・佐高信)には何も期待出来ない。政府と東電は原発事故が起きたときの手順書は目次から黒塗りで国会に提出、また原発被害者に送りつけた損害賠償の請求書類は読むのも疲れる200余ページ、国民を愚弄するのも大概にしてほしい。『大阪春秋』のように歴史の中から問題点を見つけどう対処の糸口を探ろうかとしているとき、歴代の内閣は莫大な税金や学校教科書を使い「安保神話」「原発神話」のようなものの宣伝にはこれ勤しむ。が、クルマ社会のための「高速道路」はせっせと作る。肝心要の見えない国土の管理には見ての通り、台風や地震が来る度、無策が証明される。

□台風15号の日本列島縦断を受け、政府は21日、土砂災害などへの警戒を呼びかけるとともに情報収集に追われた。 とはいえ各省庁を機動的に運用するための関係省庁連絡会議は20日夜に初会合を開いたきり。 21日は夜までに死者・行方不明者が計13人確認されたにもかかわらず 「大きな被害が認められない」(内閣府)として連絡会議は開かれなかった。 紀伊半島を襲った台風12号に続き、政府の危機管理意識の希薄さがまた浮き彫りになった。
 
21日夕には台風が首都圏を直撃し、JRをはじめ交通網がマヒ状態に陥ったが、 首相官邸は関係閣僚らが出入りすることもなく閑散としたまま。 甚大な被害が生じた場合、政府は災害対策基本法に基づき、 連絡会議を非常災害対策本部に格上げすることになっているが、その動きもみられず、 平野達男防災担当相は政府の震災復興対策本部に籠もったままだった。( MSN産経 2011.9.22 )

過去の日本政府の危機管理意識の低さは自衛隊にも反映される。

全日空機雫石衝突事故
1971年7月30日。全日空58便ボーイング727-200(JA8329)が岩手県雫石町上空で、航空自衛隊松島基地(宮城県)所属のF-86F戦闘機と衝突し墜落した。乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡した。自衛隊機の乗員は脱出して無事であった。 刑事裁判では、双方に見張り不足があったが、自衛隊機側の責任がより重かったと判断された。事故現場は民間機進入禁止の自衛隊の訓練空域であり、戦闘機に全日空機が追突したとの考察もある。

2008年2月19日千葉県沖でー当時最新鋭であったイージス護衛艦「あたご」と千葉県勝浦市漁協所属の漁船「清徳丸(せいとくまる)」が衝突。清徳丸は船体が2つに裂け大破・沈没。乗員であった船主(58歳男性)と船主の長男(23歳男性)の2名が行方不明となった。数十日間におよぶ漁協関係者・海上保安庁・海上自衛隊3者が懸命の捜索をおこなったが発見できず、2人は同年5月20日に認定死亡とされた。
上記の自衛隊の戦闘機と護衛艦が民間の飛行機、船舶に衝突するということは万が一にもあってはならない。もし敵国の戦闘機や潜水艦であったら、気がつかなかったでは絶対に済まない。危機感を持たず訓練しているから守るべき国民も死に至らしめる。絶えず危機感(敵の攻撃)を持ってほしいものだ。同時に自衛隊は国民を守るのために存在しているので、下記のような国民無視な態度は国民に対する反逆罪に値する。

□航空自衛隊那覇基地 墜落後F15の訓練再開航空自衛隊那覇基地は、墜落事故で中断していたF15戦闘機の訓練を20日から再開しました。那覇基地所属のF15戦闘機が墜落事故を起こしたのは7月5日。尾翼の一部は回収されたものの、機体と操縦士はまだ見つかっていません。
訓練は事故後、中断されていましたが、基地司令は19日に機体の点検を終えたとして、20日からの訓練再開を発表していました。F15戦闘機の訓練は20日午前9時すぎに4機が離陸して再開されました。訓練は2週間ほどは基本訓練を行い、その後は通常訓練に移行するということです。しかし事故原因が判明されないままの訓練再開に、自治体や市民団体から反発の声が上がっています。
 航空自衛隊那覇基地 あすからF15戦闘機の訓練を再開那覇基地所属のF15戦闘機が墜落事故を起こしたのは7月5日。尾翼の一部は回収されたものの、機体と操縦士はまだ見つかっていません。訓練は事故後、中断されていましたが、基地司令は19日に機体の点検を終えたとして、20日からの訓練再開を発表していました。
F15戦闘機の訓練は20日午前9時すぎに4機が離陸して再開されました。訓練は2週間ほどは基本訓練を行い、その後は通常訓練に移行するということです。しかし事故原因が判明されないままの訓練再開に、自治体や市民団体から反発の声が上がっています。(2011年2011年7月20日 「琉球朝日放送」)  <2011年9月記>

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  「くろねこの短語」2020年8月5日 寅さんだったらもっと小気味いい口上で唸らせてくれるんだろうが、そこは芸も能もない大阪府知事、ネズミ男・吉村君のことだから「えっ、何? バカじゃないの」ってリアクションが返ってくるのも無理はない。何のことかと言うと、「コロナにイソジンが効果的」ってプレゼンをネズミ男・吉村君が記者会見でぶちかましちゃったんだね。トランプの「消毒液注射」や「抗マラリヤ薬」と一緒で、何の医学的根拠もなく、それどころか劇的な副作用の怖れがあるんだから、「やってる感」演出のためのパフォーマンスと聞き流すわけにはいかない。
 イソジンなど「ポビドンヨード」が含まれているうがい薬は、過剰摂取すると甲状腺などに負荷を掛けるとも言われ、妊婦さんや授乳中のお母さんたちも使用は危険とされている。口中のウイルスを一時的に除去することはできても、そんなのは気休め程度のもので、コロナウイルスは口の中だけにいるわけではありませんからね。そもそも、イソジンがどうしたこうしたと政治家が公に口にするのって薬事法違反じゃないのか。おかげで、トラッグストアに人が押し寄せ、うがい薬を買い漁ったそうで、そんなことも予測つかなかったのかねえ。それほどのウマシカってことなんだろうね。
 あまりの批判殺到に、「ポピドンヨードの効能としてコロナに効くとは薬事法上も言えません」とか「また吉村がおかしなこと言い出してるとネット上の大批判がありますが、構いません。(研究を担当した)松山先生の研究成果を信じて頂かなくても構いません」とか、言い訳しつつ居直ってるんだが、こういうのをマッチポンプと言います。それにしても、ネズミ男・吉村君の「コロナにイソジン」の啖呵売には笑える要素がカケラもありません。ひとの命に関わることをこんな与太話に落とし込めるってのは、さすが武富士の顧問弁護士としてサラ金とグルになって高金利で消費者を苦しめただけのことはある・・・ってなもんです。

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 「くろねこの短語」2020年8月4日 7月26日のエントリーで、コロナ陽性者の自宅療養が実は医療崩壊を物語ってるんじゃないかと書いたんだが、その自宅療養者数が524人に達したってね。入院・療養等調整中も含めると、なんと1000人超の陽性者が宙ぶらりんな状態になっている。新型コロナウイルスは感染症なんだから、そもそも自宅療養という選択肢はあってはいけない。それなのに自宅療養が罷り通っている現状に、なぜメディアは疑問を抱かないんだろう。家庭内感染が問題になっているけど、自宅療養ってのは家庭内感染してくださいって言ってるようなものだろう。そんな中、ぼったくりバーのチーママ小池君はこんな能天気なコメントして呆れられてます。「高齢者と一緒に暮らす方々には食事の時間を違えるとか、歯磨き粉を変えるなど工夫をしていただきたい」おいおいだよね。この危機感の欠如した態度は何だ、ってなもんです。
 このままだと、自宅療養による家庭内感染がますます増えて、取り返しのつかないことになるんじゃないのかねえ。そうならないためにも、PCR検査を「いつでも、誰でも、何度でも」受けられる体制を整えて、陽性者を一定期間隔離する施設の整備に力を注ぐべきだろう。ああ、それなのに、ペテン政権は野党の臨時国会召集要求を拒否したまま、10月の臨時国会を検討中なんだとさ。国民の命と経済を天秤にかけやがって、これでも自民党内からは倒閣の兆しも見えないんだから、もうため息も出ませんよ、ったく。

 斎藤 陽子(Walnut, California)8-3 日本時間 【思い出のアルバム】 南カリフォルニアは連日40℃近くの猛暑でしたが、月曜日を迎えた今日から幾らか気温も落ち着いて、30℃ほどになっています。こんなに暑い時には、2008年に名古屋の友人と訪ねた、標高が高く夏でも18℃ほどと快適だったコロラド州を思い出します。写真はコロラド州南西部に位置する、メサベルデ国立公園(Mesa Verde National Park)ここは1978年にユネスコの世界遺産になっています。メサベルデとはスペイン語で「緑の大地」という意味で、プエブロインディアンの祖先が断崖にくり抜いて作り残した集落遺跡群です。
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 1世紀頃からここに農耕民族として住み始めたと推測され、9世紀頃から外敵の襲来に備え、本格的な「岩窟住居」を作り住んだと言われています。この地は標高が高いために、世界のアスリートが訓練にやって来る地でもあり、夏でも18度ほどと快適な気温に恵まれているのです。ロスアンゼルスから、この地のコロラド州まで往復距離約4500キロを2008年に途中2泊して車で行きました。ここはグランド・キャニオンやユタ州の、モニュメント・バレーについで、アメリカでも有数の観光地になっていて、世界各地から人々が訪れています。

 「くろねこの短語」2020年8月3日 (前略)でも、「パチンコ」でクラスターは発生していないことを忘れちゃいけない。大阪のネズミ男・吉村君が、「パチンコ」を目の敵にしてdisりまくっていたのは何だったのかねえ。それはともかく、罰則付きの休業要請するには、特措法の改定が必要で、それには臨時国会を開く必要があるんだね。ところが、初老の小学生・ペテン総理は、6月末に既に「臨時国会はやらないから」ってのたまってたってね。国会開いちゃったら、コロ対策だけでなく、モリ・カケ・サクラにテンピン黒川問題と追及される案件が目白押しだから、ここは逃げまくるしかないってことだ。いわば、いまの日本は“無政府”状態と言っても過言ではないだろう。ああ、それなのに、立憲と国民は党名がどうたらこうたらと、くだらないつばぜり合いにうつつを抜かしてるんだから、一般大衆労働者諸君はいい面の皮というものだ。

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🏳️‍🌈宮古島市千代田はまだ終わっていない!2017年11月6日から千代田の工事現場で、旗を掲げて抗議行動を開始して以来1000日目の行動です。約2年9か月。工事期間中は、ほぼ毎日のようにゲート前で監視と抗議のスタンディングを続けました。🏳️‍🌈防衛省の開示データと現場の記録を基に、千代田基地の問題点を明らかにし追及してきました。①燃料施設の下の空洞と軟弱地盤は改良されていない②住民の祈りの場ウタキは半分以下に小さくされ、住民の自由な通行権は奪われたまま③作らないと言っていた弾薬庫が作られたこと④基地内にある断層と地下水脈の問題 地下水汚染の危険性の問題

 斎藤 陽子(Walnut, California)8-1 日本時間 7月最終日を迎えたロスアンゼルスの、今日の気温は40℃近くを記録し、無風状態の過酷な猛暑の夏日です。この記録的な猛暑は2,3日続くようですが、カリフォルニアのコロナ感染対策の厳しい罰則も含んだ自粛生活も、134日目を迎えますが、暑い状況の中、ビーチも冷房の効いた映画館や屋内ショッピングモールもレストランも閉鎖しているため、市民は涼を求めて何処へも行けません。日本は新型コロナウィルスが一段と猛威をふるい始めた週末の様ですが、皆さんは自粛生活をしていらっしゃいますか。今日は過去に行った、アメリカらしい雄大なユタ州の景色をオンライン旅行してみたいと思います。
【思い出のアルバム】 
 南カリフォルニアは相変わらずカンカン照りの、まったりとした土曜日を迎えています。北海道以外は梅雨明けを迎えたようですが、雨にはうんざりしている日本の皆様でしょうけれど、南カリフォルニアの7年越しの雨無しの干ばつは深刻さを越しています。5分のシャワーを3分にしろ、ましてやシャワーだけにして、お風呂の浴槽に水を張って入浴をしてはならないなどと、ロスアンゼルス水道局から私生活までコントロールされるほど、ロスアンゼルスの水不足は深刻なもので、平均使用量よりも多く水を使うと、5万円を加算するという規約まで出て、電気料金より水道料金の方がずっと高いという、おかしな現象になっております。
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 写真は名古屋からの友人を伴って行った、ユタ州にあるザイオン国立公園(Zion National Park)の一部分です。赤く焼けたナバホ・サンドストーン(ナバホ砂岩)と呼ばれている赤土が、長さ24キロ 深さ800メートルと広大な土地が侵食されて、自然が作ってくれたザイオン溪谷です。アメリカ・インディアン原住民の少数派の家族がこの地域に住みついたのが、8000年前と言われています。グランド・キャニオンについで広大で素晴らしい自然の広大な景観です。ここは年中15度程と寒いので、夏でも防寒服がお勧めです。ちなみにロスアンゼルスから往復で、走行距離1500キロを運転してのユタ州までの旅でした。

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 大濱 聡 ■Media Literacy――同じネタでこの相違。「コロナに夏休みはありません。一刻も早く国会を開き、国がどう感染症に立ち向かうか、日本としての姿勢をぜひはっきりさせて国民、都民を安心させてください」(テレ朝「グッド!モーニング)東京都医師会の尾﨑会長が30日の会見で声を大にした訴え。多くの国民が抱いている気持でもあろう。NHK「おはよう日本」はこの部分は使っていない。同じニュースでも編集によってずいぶん印象が異なってくる。政権への忖度か、番組の編集責任者、出稿者のニュースセンスの問題か。■30日NHK「ニュース7」では、わずか3分22秒の中に安倍首相が出席する会議が2本紹介され、豪雨災害支援策で「対策パッケージを決定、ただちに実行に移すよう指示」、「GDP伸び率」関連で「機動的な経済運営を西村経済再生大臣に指示」「骨太の方針の実行に向け、具体的な作業を進めるよう関係省庁に指示」と3度も「指示」したことが伝えられ、首相がリーダーシップを発揮しているかのようだった(印象操作とは言いませんが)。■31日、野党は「新型コロナや豪雨災害への対応」を求めて臨時国会を召集するよう衆議院議長に要求書を提出した。召集時期に規定はなく内閣の判断に委ねられるという。安倍首相はまたリーダーシップを発揮して、ただちに臨時国会を開くよう関係者に指示するのだろう(か)。

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右下に井筒屋の開業広告
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1994年2月21日、新聞で井筒屋の開業広告を見つけたので、井筒屋の話を聞きに浦添市のオキジム本社を訪ねた。新里有四郎会長、新里盛吉社長、新里有造氏が同席された。有造氏はライフル射撃で国場武三(こくば駐車場)氏とも知り合いだった。現社長はこの人の子息である。写真/オキジム会長室で、左から新里有四郎会長、新城栄徳

1995年6月ー『私の好きなすばやー物語』(資料提供・新城栄徳)ボーダーインク


2002年10月30日ーオキジム本社で左から、新里有四郎会長、玉寄貞夫氏(世界のそてつを守る会℡098-862-0906)、新城栄徳

1992年5月 『食足世平ー日清食品社史』「めんの系譜図」
『日清食品社史』「めんの系譜図」
台湾出身の安藤百福(あんどう・ももふく、1910-2007)は繊維業に携わり大阪へ進出。第二次大戦後の復興にはまず食事が大事と考え、食品加工・製塩などの事業を経て1948年(昭23)加工食品の輸出入・販売業の中交総社を設立。翌年サンシー殖産に改称、1958年(昭33)瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(チキンラーメン)を開発し、「日々清らかに豊かな味をつくる」との願いから日清食品に商号変更する。1971年(昭46)カップめんを発売開始、事業を多角化し海外へも発展する。当該社史は7章の本文と資料からなり、創業前史で安藤の生い立ちと即席めん開発を記述。口絵にめん食の文化史や製品・工場写真を多数掲載。[2008年(平20)持株会社日清食品ホールディングス設立、新たに即席めん事業の日清食品(株)が誕生]


〔大濱聡〕2019-3-30

1994年2月22日『琉球新報』「沖縄そば 明治40年ごろ独自の味定着 新城栄徳さん(44)が調査」


沖縄県立博物館・美術館Facebook2013 
明日10月17日は沖縄そばの日!
沖縄そばはいつごろ誕生したのか。この疑問を解明した人物がいる。「琉文21」を主宰する新城栄徳さんである。今から19年前(平成6年)の新聞紙上で沖縄そばのルーツを見事に解き明かしている。新城さんは、明治31年から大正11年までの新聞・雑誌の広告を丹念に調べあげ、明治35年4月9日付けの琉球新報に「支那そばや」の開店広告を発見する。但し、同そば屋は清国より料理人を招いて「支那そば」を売り出しているので、まだ沖縄そばと呼べる代物ではない。
では、支那そばから沖縄そばに進化するのはいつごろか。新城さんは、明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、比嘉店が勝利をおさめたという記事に着目する。つまり、この頃には沖縄そばとしての味が一般に定着していたのではないかというのである。さらに、「不勉強屋」の広告でも分かるように、和田那覇署長が「琉球そば」と呼ぶように指示。かくて明治末から大正期にかけて、我が愛すべき県民食は誕生したのだ。
同記事は「(沖縄そばの)由緒を正確にする必要がある」という新城さんの言葉で結んでいる。嗚呼、沖縄そばよ! 汝はかくもナゾ多き食い物であったか・・・。まーさいびたん!(M.K:M.K)

5月8日『琉球新報』「戦後50年きょうから明日へ 沖縄そば」


あぐに/沖縄そば
1879年5月4日         『西京新聞』「那覇に料理店、茶店の向は一ヶ所もなし」
1889年              那覇の料理屋ー海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤など。
1890年              料理屋・飲食店ー那覇39軒、首里6軒
1891年              料理屋・飲食店ー那覇63軒、首里9軒、名護2軒、渡久地1軒
1892年              沖縄県の料理屋・飲食店ー開業48軒、廃業15軒
1893年              寺内某が来県、料理屋「東家」の協力をえて琉球芝居の俳優、囃子方らを雇い関西興行をなす。
1894年3月9日         『国民新聞』「沖縄農民は4食にして唐芋と云う甘藷、豆腐、味噌汁および豚肉らはその常食にして魚                     類、米、粟、豚脂に揚げ たる麦粉らこれに次ぐ。そのほか蘇鉄、椰子あり。料理には大概豚脂を用ゆ」
                   料理屋・飲食店ー那覇144軒、首里47軒、宮古10軒、八重山6軒
1895年              料理屋・飲食店ー那覇171軒、首里62軒、宮古14軒、八重山8軒。
1896年              台湾領有で那覇の主な料理屋、台湾に移る(いろは亭、玉川屋などは残る)
1899年              名護に料理屋5軒、仕出屋2軒。那覇南洋堂「食パン」販売。宮里松、大門前通りで蕎麦屋を開業(日本そば)
1900年              那覇「りん寿司」改良すしを始める。楢原鶴吉「東家」を譲り受け、大阪より料理人を雇いいれる。那覇                     「鶴屋」練羊羹・カステラ・メリケン粉販売。
                   那覇「住吉屋」牛すき焼き8銭、鳥すき焼き12銭、すし7銭。那覇「紅屋」茶碗蒸し、すし、かまぼこ、牛肉、鳥肉販売。
1901年12月          高等女学校及師範学校女子講習科が料理科を新設し和洋の料理法を実習、費用は自弁。
1902年4月9日      福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑下りに「支那そばや」開業。 
1915年6月           「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業
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1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業



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1959年11月 『オキナワグラフ』

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1975年2月 雑誌『青い海』40号 「沖縄の食べもの文化考/豚の泣く日」

 1898年、那覇区泉崎の豊盛書林と、西の三笑書店には沖縄県尋常小学校読本も販売しているが、一般書も扱っている。世界年鑑、中等東洋史、中等日本歴史、算術新教科書、新撰算術、新式速記術、新撰日本外史、通俗世界歴史、世界文明史、詠歌自在、詠歌辞典などがある。
同時期の『琉球新報』には一般書や印刷物の広告が載っている。今でいう通信販売である。大阪の芳文館写真部「奇形嬌態裸体美人写真」、大阪の明文社の「画入男女たのしみ草紙」などである。学生向けの通信教育に東京学館の「自宅独習生徒募集」や帝国中学協会「諸学講義録」があるが、どちらも英学、国語学、心理学、論理学、教育学、算術、詩文学、幾何学、三角法、簿記学、代数学、化学、速記学などで内容は共通している。相前後して「ライオンはみがき」、「鳥井合名会社」の広告も目立つ。

1900年、村田弥三郎が、那覇警察署前で東京各新聞の取次ぎを始めている。博愛堂(小沢朝蔵)も新聞広告に近事画報社の「戦時画報臨時増刊号・日本海大海戦紀念帖」を載せ売り出しを図っている。近事画報社は1901年の『琉球新報』に広告「通俗小説文庫ー毎月1冊刊行」を載せている。並んで、東京日本橋の三越呉服店や「中将湯」の広告もある。
1902年の『琉球新報』の広告に京都の島津製作所の「博物地理歴史標本」がある。04年の広告には太田胃散、浅田飴、今治水なども出てくる。07年には十合呉服店(大阪・神戸・京都)、アサヒ、サッポロ、エビスビールの広告も目立つようになる。08年の広告に「実業之日本」、1911年の広告には博文館の常用日記や、「女学世界」、冨山房の「新日本」がある。那覇の円山勉強店の「キリンビール」売り出し広告もある。
1905年11月23日ー志賀重昴、粟国島来着→著1909年『大役小志』
1906年3月5日ー菊池幽芳、粟国島に来着/10月ー『地学雑誌』第18年第214号□脇水鉄五郎「沖縄視察談・粟国」
粟国に来島した志賀重昂
1905年11月23日ー午前3時、運輸丸、久米島発▼6時、珊瑚礁の激浪を琉球形小船にて乗り切り、渡名喜島上陸(略)10時半、粟国島著、上陸、粟国は渡名喜島を距る15浬、面積半方里、磽确たる一珊瑚島、而かも戸数8百余、人口5千余、食糧に欠乏するを以て蘇鉄を食ひ、婦女は那覇、首里に下女奉公をなし、男子は琉球本島及び布哇等に移住する者多く、鱶ノ鰭、烏賊、鰹を輸出す▼夕、那覇港着、上陸。→近代デジタルライブラリー - 大役小志
1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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写真ー新城三郎の父・蒲と母カマ(抱いているのは新城栄徳、二人にとって初孫である。)

〇向宣恭・伊是名朝信(朝宜三男、生没年不詳)は明治大正時代に郵便局に勤務し、糸満郵便局で定年退職し、那覇上之屋に居を構え、その夫人が作る首里仕込みの豆腐餻が近くの辻町で評判となり、この豆腐餻作りで晩年の生計が助けられた。朝信の一人息子の向得遠・伊是名朝義がロシア革命の影響を受けて沖縄の左翼活動の嚆矢となった為、勘当されて壷屋地区に移り住み政治活動を行った。 →ウイキ
1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業
1934年1月ー新城三郎、那覇市辻町(御願の坂)國吉料理店で板場修行。同年の粟国出身の調理士は、四つ竹の新里。みはらしの玉寄松。玉川の仲間、一味亭の新城、仲里、山城、新城。京ヤの又吉。國吉料理店は与那  風月ロの糸洲、仲里、新里。三杉ロの福本。幸楽の安里、新川幸栄。美崎の玉寄米吉、赤嶺、玉寄三郎。花咲の上原保一、新里次郎、上原健夫。木村屋の安里善徳。ならはら館の上原。宝来館の新城。山本は浦崎。川津館の新城。モリタ館の与那城。
業者ー万人ヤの仲里。朝日ヤの神里。三角ヤの吉元。みかさヤの与儀。井筒ヤの新里。一味ヤの新城。福力ヤの神里。公園入口の金城。朝日橋前の新城。松田橋前の新城。安里松竹の糸洲。
1935年8月『関西沖縄興信名鑑』ー東淀川区之部 安里善盛(大戦前に那覇に引き揚げ食堂経営、戦争で一家全滅)、仁祥、善太郎(のち安村書店主)、勇祥(のちレストランアサヒ経営)
1936年10月2日ー沖縄県知事正五位勲四等・蔵重久「粟国村字東9490番地の新城蒲(50)、8月1日午後9時に那覇市北明治橋右海岸に於いて那覇市垣花町1の88平良カメ(31)が溺死せんとするを救助したるは殊勝なりよって金1封を贈りこれを賞す」
1939年4月5日ー安里幸一郎、粟国村字東で生まれる。父・宗幸、母チヨ(イザニサ大ヤー)
1946年から47年まで戦地や他府県からシマンチュが引き揚げてきて粟国島の我が家の周囲は賑やかになった。しかし生活は貧しく心を癒すものを求めた。その一つが村芝居であった。やがて我が家の隣に茅葺のクラブが建てられ伊江島ハンドーグァーや大新城親方などの芝居が旧正月に演じられた。伯父・玉寄貞夫は初期のころからの中心的に芝居活動をやってきた。1956年、玉寄貞夫の従兄弟・安村善太郎、勇祥兄弟の多額の寄付でクラブを鉄筋コンクリート建てにする(写真・左)。
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1948年ーガーブ橋前に「大洋食堂」(勢理客(町田)定正)
1949年
安里大通りに「丸屋食堂」そば・すし・めし(久場景善)。7月ーホテル新風荘(崎原マサ)民政府構内に開業。8月ー料亭「喜仙」(仲本盛智)。9月ー料亭「幸楽」、安里に「丸久食堂」(久高将金)。11月ー真和志に食堂「ゆたかや」(西銘政弘)、那覇市場前に「木村屋食堂」
1950年
国際劇場前に「みなと屋」(豊見山義康)、2月ー元国際食堂跡に「井筒屋」、7月ー那覇料理屋組合が毎月第二日曜を公休とする、「一富士」みつ豆・冷し西瓜(当真嗣正)、9月ー那覇区に井筒屋新装開店、神里原に大衆食堂「三角屋」そば・すし(渡口トミ)
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写真・沖縄調理師会ー前列右から安里信祐(現・伊勢海老料理「味の店三郎」店主)、新城三郎、左端に玉寄米吉
1950年ー沖縄と奄美出身者で調理師会「沖美会」結成。中村喜代治、新城三郎、玉寄博昭、福永平四郎、赤崎一成、又吉太郎らが参加□奄美が日本復帰する1953年に「沖縄調理師会」と改称。

【関連】1975年 伊勢海老料理「味の店三郎」で食事会ー新城栄徳、息子、あけみ、新城敏子
1951年
1月ー那覇料理組合・花咲、喜仙、花園、南海、清風荘、清風、松屋、美園、那覇、香那恵、皆美亭、若梅、幸楽、田鶴、三原、新栄亭、新風荘、オール倶楽部、ほがらか亭、やよい、よつ竹、若杉、玉家、八千代、有楽、松竹、だるま亭、よかろう、左馬、若藤、春芳、一心亭、一廣、ときわ、松の家、美杉、一楽、やすらか、栄亭、よし乃、新月亭、大楽。糸満町にみなとや飲食店(新城野枝)。安村勇祥(新城三郎従兄弟)、平和通りで「かき氷屋」開店。□→「レストランアサヒ」/1986年2月ー安村勇祥『想いでの記』。
7月ー那覇市10区に琉球料理「玉川屋」うなぎ蒲焼。10月ー料亭那覇がうなぎ料理、12月ー神里原に食堂「美松」手打そば。
1951年             『球陽新報』「沖縄そばの味自慢ー宮里政栄(大阪西成区鶴見橋)」
1952年
5月ー神里原に「龍凰閣」「台北楼」、「レストランアサヒ」
1955年5月ー安里幸一郎、オジ玉寄松のいる料亭松乃下に見習いとして住み込む。
1956年2月ー粟国島で「親子ラジオ」譲渡式/4月ー末吉保朝(粟国中学校教諭)、文部省派遣で大阪市文の里中学校へ/1959年2月ー『オキナワグラフ』「発足した沖縄唯一の事務機のデーパト合資会社・沖縄事務機社(新里有四郎社長)」/5月ー宜野湾市大山で雑貨商「ジミーグロセリー」開業□→2006年8月『Jimmy’s 50th Anniversary 1956~2006』株式会社ジミー/6月8日ー『琉球新報』「粟国村のソテツは村の守り神」。

1957年3月 与那国善三『新沖縄案内』沖縄観光協会/印刷・おきなわ社
○広告「沖縄唯一の百貨店 観光お土産にもっとも喜ばれる品々」「サービスのオアシス 料亭小川荘(小橋川和子)」「沖縄観光協会指定旅館 鶴よし」「ホテル琉球」「沖縄観光協会指定 沖縄ホテル」「コザホテル(国吉鶴子)」「大津旅館(津波幸盛)」「ホテル森乃(名嘉真キヨ)」「沖縄観光協会指定旅館 初音館」「沖縄観光協会指定 観光ホテル厚養館(岸本金光)」「料亭・山手(長峯春良)」「料亭・登美の家(金城利江)」「料亭・新鶴(我那覇文子/佐久本嗣子)」「料亭・那覇/東京支店・琉球亭なは(上江洲文子)」「レストラン松屋(前田義善)」
1959年2月ー新城三郎、[食堂]経営。
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1960年              川崎お大師様の近所で伊礼松子が「沖縄ソバ」「三月菓子」を自家製造販売
1960年1月8日『琉球新報』島袋盛敏「仲宗根章山翁の思い出ー首里城懐古」(写真/)仲宗根真吉、摩文仁憲和、新垣良光、島袋盛敏。明治42,3年)
1960年1月10日『琉球新報』「新春インタビュー石野記者/朝倉文夫×浜田庄司」
1960年1月17日『琉球新報』坂口総一郎「順応する生活態度ー40年前クリ舟で体験した人生観」
1960年10月8日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと①島本豊氏(日航沖縄支店長)独自の風土活かせ」
1960年10月9日『琉球新報』「座談会/本土経済人の見た沖縄ー観光地として有望」今里広記/湯浅佑一/五島昇/鹿内信隆
            「観光沖縄にひとこと②松川久仁男氏ー海の特色売り物に
1960年10月10日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと③太田守徳氏(国際中央通りほしい立派な歩道」
1960年10月11日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと④儀間光裕氏ーきたないガーブ川」
1960年10月12日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑤東盛良恒氏ー”南国沖縄„打ち出せ」
1960年10月13日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⓺島袋清氏(ハワイ球陽観光団長)全住民も関心持て」
1960年10月14日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑦宮里辰彦(リウボウ専務)政府、住民も協力を」/糸満盛信「沖縄の古武術」①
1960年10月15日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑧荻堂盛進氏ー島ぐるみで協力を」/「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 千葉県三里塚の沖縄農場」
1960年10月16日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑨宮里定三氏ーホテル施設の充実」→2016年6月ー那覇空港見学者デッキに「沖縄観光の父・宮里定三」(ブロンズ像)設置
1960年10月17日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑩宮城仁四郎氏ー花いっぱい運動を」
1960年10月18日『琉球新報』「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 東京新生会」                
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1970年10月 『沖縄食都ガイドブック いい店うまい店』日経通信


1972年10月 『米の味』グラフ社

1975年5月 江原恵『まな板文化論』河出書房新社

1976年7月 『月刊食堂別冊「天ぷら」柴田書店〇天丼の店(中西吉太郎)は大阪ミナミにある小さな店で、、私もかれこれ10回は食べている。熱々で美味しい。

1991年7月 周達生『東アジアの食文化探検』三省堂〇沖縄の「肉」/沖縄の特徴/イトウリ・ニガゴイー沖縄では、中国南方諸省の人びとが好むヘチマを「ナーベーラー」といい、苦瓜を「ゴーヤー」といい、種々の野菜料理を作っている。

1991年12月 イヴ・コア/宮崎信之『クジラの世界』創元社

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1974年5月『琉球の文化』第五号 《沖縄戦と終戦直後の生活》
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)







大城精徳1957年「墓と家」/大城精徳1983年「貝がらとヤシの実」

大城精徳1983年「御願所幻想」


2020年2月28日 沖縄県立博物館・美術館「大城精徳の仕事」

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1990年6月 浜松昭『沖縄戦こぼれ話』月刊沖縄社○朝鮮から徴用されて来た女性たちの『花代』ー十・十空襲の前、三二軍は各部隊に慰安所をつくる手配をした。そこに連れられて来たのは、当時『朝鮮ピー』と呼ばれた独身の60名であった。/佐久田繁ー沖縄戦の写真、あなたでも買えます-琉球文化社の大城精徳君によると、『金さえ出せば、ペンタゴンでは誰でも買えるんだ』というのである。そして大城君が注文した写真が二か月後に、ペンタゴンから郵送されてきた。その写真をもとに私は、1977年8月『日本最後の戦い・沖縄戦記録写真集』を出版、沖縄三越で写真展もやった。


1997年4月30日 パレット久茂地9F「石垣博孝個展レセプション」




2020年2月15日 ~ 2020年6月28日 沖縄県立博物館・美術館「大城精徳の仕事」/2018年6月 日本民藝協会機関誌『民藝』第786号 大城精徳「琉球の屋根獅子」、西村貞雄「沖縄における獅子の歴史」


1984年4月 大塚清吾『写真集 沖縄の屋根獅子』「座談ー琉球文化と屋根獅子/大城精徳・大城立裕・西村貞雄・大塚清吾」葦書房(福岡市)


1977年2月『日本古書通信』復刊394号「全国古本屋地図ー鹿児島市・センバ書房、糸書店、文耕堂書店/那覇市・琉球書院、根元書房、上原書店、竹書院、龍潭図書、南島書院、遊古堂書店」


1969年6月 『琉球政府立博物館館報』第2号 大城精徳「琉球の唐獅子雌雄考」

1970年3月 『琉球政府立博物館館報』第3号 大城精徳「琉球の屋根獅子」→1972年 増補版「琉球の屋根獅子」発行・琉球文化社

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 本展は、大城精徳(おおしろ・せいとく 1928年9月14日~2007年12月17日)の絵画と資料群が一堂に会する展覧会。大城は、名渡山愛順に師事し琉球美術展をはじめ、戦後草創期のグループ展に名を重ね、琉球政府立博物館を辞してからは琉球文化社を設立し、雑誌『琉球の文化』を刊行、美術工芸論の発展に寄与した。

 昨年は「琉球文化」のシンボル首里城の大火。YouTubeでは大量に首里城に関する動画が展開されている。私(新城栄徳)は首里城は何時でも見られると思って5回しか見てなかったので、有難く拝見し琉球文化を再認識した。今のようにネットなどが手軽でない時に、「琉球文化」普及に尽力した琉球文化史研究家・大城精徳の足跡を私事を交えて見る。
1928年9月14日 沖縄県島尻郡大里村字目取真に父・大城蒲戸(屋号・大屋3男)の長男として生まれる。
1932年1月5日 星山吉雄、那覇市久米町で生まれる。
1945年4月3日、観音寺(金武)本殿広場に集合、指揮班の安里源秀教頭から鉄血勤皇隊農林隊の解散の伝達。3か月間にわたる沖縄戦逃避行の末、捕虜になり屋嘉のP・Wキャンプに収容された(3か月)。→1996年6月『比謝の流れは とこしえにー県立農林四十二期回想録ー』大城精徳「沖縄戦逃避行ーメモランダム」〇1943年 沖縄県立農林学校40期ー新城安善1945年3月/沖縄県立農林学校41期―1渡口彦信/1945 沖縄県立農林学校42期―大城精徳、諸喜田達雄『比謝の流れは とこしえにー県立農林四十二期回想録ー』「わが半世の記」
1945年11月 大城精徳、久志村瀬嵩の難民収容所で家族と合流。一つ屋敷の隣人に山田真山が居た。

1988年5月『新生美術』大城精徳「40年前のことどもー大嶺政寛先生との出逢い」7号
〇1948年8月『沖縄毎日新聞』創刊。
1948年12月  新城栄徳、粟国島に生まれる。

写真中央が宮城邦貞社長、その右が与儀清三編集局長、左が松川久仁男業務局長、後列右端が大城精徳→1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社/知念軍政府に於ける定例の新聞記者会見ー左よりタール、比嘉(沖縄タイムス)、大城精徳(沖縄毎日)、平良(民政府情報部)

1949年 名護にて /1949年10月25日那覇写真館にて

1949年11月19日『沖縄毎日新聞』第66号
1949年 大城精徳、記者兼通訳として沖縄毎日新聞に入社。新聞は週刊で、印刷は普天間の米軍のオフセット印刷工場を利用させてもらった。その工場の南側に隣接して、戦災を免れた大きな瓦ぶきの家屋に山田真山一家が住んでおられた。その住宅の一部を新聞の臨時編集室として使わしてもらったこともある。

大城精徳が書いてくれた『沖縄毎日新聞』メモ
1949年7月、沖縄タイムス社は創刊1周年を記念して「沖縄美術展覧会」(第4回から「沖展」と改称)を開催した。→沖展オフィシャルサイト 沖縄県内最大の総合美術展
1950年  大城精徳、米国留学ニューメキシコ大学に学ぶ。

写真左から大城精徳、澄子さん/1950年6月 出発前ー前列左から二人目が大城精徳


1950年11月23日 感謝祭 右から二人目が大城精徳

1950年9月 ハリウッドの野外音楽堂/ホッドジン・ホールの裏山

1950年12月 ニューメキシコ大学寄宿舎にて/1952年 ニューメキシコ大学訪問 左端-大嶺政寛、そのつぎ大城精徳、右端・名渡山愛順 
ニューメキシコ大学〇1889年2月28日に設立され、2019年に130周年を迎えた。ニューメキシコ州最大の研究・教育機関でセメスター制の総合大学。略称は「UNM」。教職員数は約6,900人。学生数は約26,000人。ネイティブ・アメリカンやヒスパニック系の教職員と学生が多い。 アルバカーキ校は、約800エーカーの広大なキャンパス。周辺にはサンディア国立研究所、ロスアラモス国立研究所、そして空軍研究所(カートランドエアフォース)がある。近年は産学連携活動と技術移転活動に力を入れている。地域医療、看護学、原子力工学、写真、多言語・多文化教育、異文化コミュニケーション研究で世界的に知られている。 留学生数は約1,500人。日本の早稲田大学、立教大学、立命館大学、立命館アジア太平洋大学、関西学院大学、京都光華女子大学等と交換留学プログラムがある。 →ウィキ

1952年 大城精徳、崇元寺・琉米文化会館職員→1969年9月『琉球新報』大嶺信一「大城精徳個展によせて」
1952年~57年 大城精徳、名渡山愛順に師事。
1952年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師就任
1954年    翁長良明、首里城跡周辺で古銭を拾って以来、古銭収集に取りつかれる。
1955年3月 大城精徳、第7回沖展に「静物」出品
1956年 津野創一、首里高等学校卒
1956年3月 大城精徳、第8回沖展に「首里風景」出品

1956年9月1日『琉球新報』

首里高等学校同僚(左から/森田永吉、岡本恵徳、仲吉朝祐、津留健二、饒平名健爾)/2014年11月 津留健二『教職の道に生きて 出会いに学ぶ』ボーダーインク

1957年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師退任
1957年7月 『今日の琉球』(表紙 金城安太郎「旗頭」)川平朝申「郷土の歩みー若き人々のための琉球歴史」
1958年   宮城篤正、首里高等学校卒
1958年 新城栄徳、祖父が亡くなったので、粟国島から家族で父の居る那覇に出る。父の勤める料亭「新風荘」近くの寄宮、楚辺と変わり、崇元寺に落ち着く。私は最初、琉映本館後ろの伯母宅に居候。なので、紫煙けぶる映写室で何故かゴロゴロしフィルムのひとコマを貰って遊んでいた。東映の総天然色映画は殆ど見た。崇元寺に移ってから、前島小学校4年在学中に首里の龍潭傍の博物館、図書館(今の県立図書館の前身)はよく歩いて行った。図書館で嘉手納宗徳氏と出会う。/首里の琉潭池側の琉球政府立博物館は「首里那覇港図」「首里城正殿模型」(縮尺10分の1。1953年知念朝栄制作)などよく見た。博物館の入口付近に「三ツ星印刷所」(1926年に辻町で昭和石版として開業)がある。その売店に『毛姓系図家譜』『組踊全集』などが並んでいた。中を覗き「筑登之」「○王」など読めない字に悩んでいると、主人の當間清弘氏が買いもしない子供に読み方を教えてくれた。氏は1968年に80歳で亡くなった。

1958年12月16日 二科会員・井上賢三を迎えて壺屋の料亭「幸楽」で「二科会沖縄支部」発会式。支部責任者・大城皓也。写真会員ー水島源光、山田實、親泊康哲、名渡山愛誠、島耕爾、備瀬和夫、豊島貞夫、永井博明、八幡政光、当真嗣祥、鹿島義雄。絵画会員ー大城皓也、大城精徳、山里昌弘、塩田春雄、大城栄誠、金城俊、榎本正治、友利寛、下地寛清、水田虎雄、安仁屋政栄、松川剛、浦添健、具志堅誓雄
1959年、大城精徳、琉球政府博物館に学芸員として勤務(主事補・1959年~1968年/学芸課(美術)1969年~1971年)

左端が大城精徳/左から2人目が大城精徳 1996年 『沖縄県立博物館50年史』

1957年9月 「招待美術展」タイムスホール /1958年10月 第2回 「招待美術展」タイムスホール

1959年5月『今日の琉球』大城精徳「琉米親善」/10月 名渡山愛順「風景」


1960年5月25日スミソニアンへ送る文化財選定委員会-政府会議室/1969年 首里博物館にて 


1960年夏 新城栄徳、上の蔵の「琉球史料研究会」を訪ね、『琉球事始舊記』製本中の比嘉寿助氏と雑談。
1961年 大城精徳、第1回琉球国際美術展出品(~第8回展まで出品)

1961年11月『今日の琉球』大城精徳「ワトソンさんとバブ君のこと―ある日曜日の午後の出来事」
1962年 新城栄徳、近所の島袋慶福翁に郷土史を学ぶ。郷土史の古書は開南の「みやぎ書店」「琉球史料研究会」が扱っていた。

1962年11月24日~27日「第1回 美緑会展」 那覇琉米文化会館/1962年12月 「琉球美術展」那覇琉米文化会館
1962年12月17日 建築家・仲座久雄(58)死去。

【資料】2020-2 仲座巌『仲座久雄 その文化財保護活動1936~1962年』

【関連】高松塚古墳/首里城正殿模型/大龍柱/琉球文化社・琉球書院

1963年6月『家庭公論』第2号 大城精徳「馬と沼」




大城精徳・表紙絵 1964年2月『今日の琉球』76号「赤えんどうの花」/1961年10月『今日の琉球』48号「真昼の屋良ムルチー」
1964年4月、新城栄徳、集団就職で白雲丸に乗船、那覇港から上京、晴海桟橋に着く。後に知るが芥川賞作家・東峰夫も乗船していた。途中、暴風で船は和歌山の串本に避難したのが熊野との出会いである。錦糸町駅から御茶ノ水駅で降りてニコライ堂の傍を通りながら神田古書街にも近い神田錦町三丁目の錦城商業高校夜間部に通う。神保町には新刊書店もあるが何故か古書店や古書展が面白い。古書店に積まれている雑誌は安く、主に週刊誌を買って切り抜いて手帳に貼っていた。この頃の週刊誌を切り抜かず、そのまま保存出来たらミニ大宅壮一文庫となっていた。しかし手帳は残っていない。
1965年10月~12月『今日の琉球』大城精徳「アメリカの博物館と美術館」

スミソニアン博物館のフランクA・テーラー館長に琉球絣を贈る琉球政府立博物館の大城精徳(右)、左が八重山琉米文化会館の長田信一、中央が文化人類学課のユージン・ネズ博士
○去る5月16日から8月14日の3か月間、米民政府派遣の技術研修員として、アメリカ各地の博物館や美術館などを八重山琉米文化会館館長の長田信一氏とともに視察してきた。(略)アメリカの博物館は1930年代から急速な発展を遂げ、現在では大小合わせて、全米で4千館近くもあるといわれている。これは、現在のアメリカの人口約2億人とみて、約5万人に一つの博物館という割り合いになる。この中には美術館はもちろん児童博物館や大学付属博物館、それに記念館などが含まれている。というのはアメリカでは資料を所蔵し、その調査、展示および普及教育を行っている施設は、その固有の名称がどうであれ”Ⅿuseum〟と考えられているからである。

1967年2月『守礼の光』第97号 仲泊良夫「新装の琉球政府立博物館」/星雅彦、画廊喫茶「詩織」開業。こけら落としに「グループ耕・三人展(大浜用光・大嶺実清・城間喜宏)」開催。→2003年7月『星雅彦 詩集』土曜美術社出版販売

1967年10月4日『琉球新報』大城精徳「名渡山愛順氏個展によせて」
1969年2月  新城栄徳、南紀白浜の 南方熊楠記念館を訪ねる。東京に行くつもりが京都駅で所持金が無くなり、京都駅近鉄名店街でコック募集の貼り紙を見て「紅屋」に就職。オーナーは京都国立博物館の国宝修理所に勤めていた。

1969年3月14日 りゅたん三味線会1周年発表会
1969年4月  大阪城公園で「沖青友の会」発足
 
1969年9月4日~9日 リウボウ4階ホール「沖縄現代作家展」

1969年9月18日~23日 デパートリウボウ4階「第一回 大城精徳個展」

1969年6月 『琉球政府立博物館館報』第2号 大城精徳「琉球の唐獅子雌雄考」

1970年3月 『琉球政府立博物館館報』第3号 大城精徳「琉球の屋根獅子」→1972年 増補版「琉球の屋根獅子」発行・琉球文化社

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 山川 夏子 2020年7月23日 本日、銀座わしたショップの壁面に「首里城正殿」が登場しました。銀座の柳に首里城の朱が映えて、とっても綺麗!!わったーの首里城、おしゃれな銀座の街で、ひときわ美しく輝いていましたよ。「銀座に首里城登場」を記念して、銀座わしたショップさんで、「首里城の破損瓦」展示と「首里城写真」展示が始まっています。この写真展、実は昨年の冬、那覇で開催され好評を博した「『月刊オキナワグラフ増刊号・首里城再録』にみる首里城の60年を振り返る写真展」のパネルなんです。今回は前田店長をはじめ、藤原副店長、スタッフの皆様に色々教えていただきながら、ドキドキで展示に参加させていただきました。
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 廃藩置県後の王国最後の国王尚泰久と当時の首里城の写真から、沖縄戦で焼失後に建った琉球大学時代の激化した学生運動の大学封鎖事件、復元が決まって、戦後初めて実施された「木挽式」(国頭サバクイの本物の行事)、神事の「クエーナ」、落成式典、2000沖縄サミット、世界遺産に登録するまでの過程が、写真パネルと記事でご覧いただけます。2000年の沖縄サミットが決まって、サミットに合わせて県民の「かりゆしウエアを着用」が始まりました。沖縄の県庁職員や会社員のおじさま方が、本当に恥ずかしそうに「こんな派手な服を僕が着るのか?」とカラフルなかりゆしウエアを着用してモジモジされていたのも、懐かしい思い出です。三密をさけて「静かに」ご覧いただけるようになっています。※増刊号(首里城特集)や、「山川夏子の顔写真入り!」通常号もお買い求めいただけます。
【首里城がない時代の写真】
◆沖縄戦で焼野原になった首里城跡地に建った琉球大学で1960年に発生した、学生運動で琉球大学が9日間封鎖されたときの「暁の首里城攻防戦」◆今年開局60周年おめでとう!ラジオ沖縄の開局記念沖縄劇「首里城明け渡し」(1960年)の写真。丘の一本松の大宜見小太郎さんや、島袋光裕さん、眞境名由康さん、仲井真元階さんが一同に舞台に立っている奇跡の一枚。
【首里城復元が始まる】
◆1989年の「首里城正殿起工式」山中貞則初代沖縄開発庁長官、植木光教元開発庁長官、西銘知事、大城真順議員等々、錚々たるメンバーが並ぶ式典の様子が見られます。◆同年の「首里城木挽式」ではヤンバルの森から木を運ぶ、本物の「国頭サバクイ」再現と神事「クエーナ」の再現等々。


1940年6月 那覇の大正劇場で「首里城明渡し」上演/7月「那覇四町昔気質」上演
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1960年8月『オキナワグラフ』


 屋良 朝信 2020-6-24 うりずん豆の旬はだいぶ過ぎているのだろうが銀座わしたショップの野菜売り場を覗いたらラッキーまだ陳列棚にありました。迷わずゲット。その他へちま、島豆腐。これでおきなわ三種の神器ならぬ神食材が揃った。四角豆:沖縄や小笠原で人気の野菜。ゴーヤーや糸瓜(ナーベーラー)同様、遮光用途のグリーンカーテンとしても人気が出ているとか。ゴーヤーも嘗ては誰も注目しなかったけど今や夏野菜の代表格になりました。四角豆も癖のない野菜なので人気が出ると思います。

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 仲松 健雄 2020年5月29日 · 神田『琉の介』 外出自粛が続いて、2ヶ月振りの投稿です。「緊急事態宣言」が発令されて、臨時休業が続いた神田「琉の介」は、1ヶ月半振りに営業再開しました✨スタートは、沖縄音楽界のレジェンド喜納昌吉さんと関係者の方々との会食✨お陰様で「琉の介」は、満席でした❗️


2017年11月 屋良朝信×新井克英『[川崎・鶴見・東京]ウチナーンチュ100年 沖縄・思い遥か』AWAWA「仲松健雄さん」

1982年ー『川崎の沖縄県人70年の歩みー川崎沖縄県人住住者所録』財団法人・神奈川沖縄協会/川崎沖縄県人会



川崎沖縄芸能研究会1950年ー写真上左から金城時男(顧問)、池宮喜輝(野村流音楽師範)、米須清仁(初代会長)。下左から亀川盛要(総務)、渡嘉敷守良、渡嘉敷亮(副会長)□→米須清仁は欽氏で自了の父城間親雲上清信は3代目、清仁はその12代目にあたる。

米須清徳□川崎における沖縄舞踊の始まりー川崎の沖縄芸能については、阿波連本啓(明美さんは同氏の4女で直弟子)と米須清仁翁を以って嚆矢とするー。


古江亮仁「川崎の沖縄芸能と私」□→古江 亮仁(ふるえ りょうにん)/大正四年七月三日生れ。/大正大学文学部史学課卒業。/昭和17年大正大学講師、以後大正大学助教授・教授を歴任、/昭和26年川崎市教育委員会社会教育課嘱託。同42年初代日本民家園(川崎市立)園長。/昭和51年「川崎今昔会」を結成。/平成5年度川崎市文化賞受賞。/平成13年逝去(川崎ロータリークラブ温故知新)


2016年5月 『横浜・鶴見沖縄県人会史ー鶴見沖縄県人百年の歩みー』

1976年12月『横浜市 鶴見沖縄県人会会員名簿』

1980年9月『オキナワグラフ』「鶴見沖縄県人会会館 おきつる青少年育成会館 落成」

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