Category: 04-書の森
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2013年2月 松山公園
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東恩納寛量・宮城長順顕彰碑
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沖縄県立第二高等女学校跡「白梅の乙女たち」(西村貞雄氏作)
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久米村600年記念碑(神山泰治氏デザイン)

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1944年8月22日 学童疎開船・對馬丸、米潜ボーフィン号の魚雷3発をうけ沈没

1978年8月 新里清篤編『記録と証言 あゝ学童疎開船対馬丸』対馬丸遭難者遺族会

ヒーサン(寒い)、ヤーサン(ひもじい)、シカラーサン(寂しい)
〇沖縄から本土への学童疎開は1944(昭和19)年7月7日、政府の緊急閣議で決定した。この日サイパン島が玉砕、民間人を巻き込んだ戦闘は衝撃を与えた。次は沖縄である。閣議決定は「本土へ8万人、台湾へ2万人、計10万人を7月中に引き揚げさせよ」であった。鹿児島県知事へも奄美群島からの引き揚げを命じている。疎開業務は警察部が所管となり、進められた。学童疎開は文部省の指示を受け県教育課が計画を推進した。疎開業務は容易には進まなかった。米軍の潜水艦が沖縄・鹿児島間の海上で日本の艦船を沈め、多くの犠牲者が出ていることは公然の秘密になっていた。県外へ、しかも危険な航海。親たちは反対した。校長らは説得に懸命になった。一人でも多くの疎開学童を集められる教師が優秀な先生といわれた。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社
〇他府県での学童疎開も1944年8月から国民学校初等科3年から6年生を対象に始まった。大都市への本格的空襲が予想されるようになり、被害を防ぐ観点から戦火にさらされそうな地域に居住する学童をより安全な地域に一時移住させた。防空体勢の強化、次代の戦力を培養する目的の国策として実施された。具体的には東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、大阪、神戸などから約45万人の学童が34都道府県の旅館や寺院など約7千カ所に疎開した。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社
〇1943年4月、新里清篤は妻の千代子と共に本部国民学校にへ赴任した。翌年7月にはサイパン島が玉砕、間もなく沖縄県内政部長名で「学童集団疎開実地要綱」の通報が学校に届いた。立場上、新里は「父兄、学童に疎開を呼び掛けるには、まずわが家族を率先させねば・・・・・・」と考えた。鹿児島への海路は既に何隻もの船が撃沈され、”魔の海„と化しており、船旅は一大決心を必要としていた。対馬丸には千代子、長男、二男、長女の3人の子供、そして「孫が疎開するなら、自分も」と言ってきた母親のナベの5人が乗船、全員が帰らぬ人となってしまう。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社

1995年5月 琉球新報編集局学童疎開取材班(池間一武、照屋直、崎原孫雄)『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社

1913年 第一大里尋常小学校の分教場として御殿山に開設され,1941年 与那原国民学校として独立校として開校された。→与那原町立 与那原小学校

1995年8月 与那原町学童疎開史編集委員会『与那原の学童集団疎開』与那原町教育委員会/新垣隆一2代与那原国民学校長(1943年の教職員名簿に「與那原國民学校 校長 正七 六待一五六〇加 新垣隆一」)

1995年8月 与那原町学童疎開史編集委員会『与那原の学童集団疎開』与那原町教育委員会
 上原敏雄・引率教諭「与那原国民学校第一次学童疎開」1944年8月15日ー疎開申込児童188名、引率教員、養護婦、世話人、合計218名が親川に集合し、トラック3台に分乗して那覇に向かった。那覇では宿舎浦崎旅館に男子、那覇旅館に女子、津波旅館に女子と家族が分宿して乗船待機をした。8月17日ー「いかだ用の棒と縄の準備をせよ」との達示で海上輸送の不安を感じた父兄が、18日早朝、疎開取り消しのため宿舎に殺到して混乱状態になった。新垣隆一校長の出覇、父兄会、大多数取消し、荷物整理に津嘉山朝吉先生を主任に全力を注いで下さった。
 残り児童95名、引率関係者合わせて119名、8月21日午後7時ー和浦丸に乗船。左右に2隻の護衛艦の5船団で、時折飛んでくる飛行機に守られ、航海を続ける。22日夜半ー僚船対馬丸の悲報、最悪状態。魚雷が左右に白波を立てて、舷めがけてやって来る。ジグザグの航路・・・
 安谷屋勇・引率教諭「与那原国民学校第一次学童疎開」昭和19年。それはよい年ではなかった。日本軍は南方戦線で次々と敗れ、7月7日にはついにサイパン島が陥落して、米軍の沖縄上陸は必至の状況に
なっていた。すでに沖縄には守備軍として、球部隊、山部隊、石部隊、武部隊の約10万に及ぶ精鋭が配備されていた。国民学校はいずれもその兵舎に併用され、兵隊と児童の雑居で、正常の授業はできなくなっていた。与那原国民学校にも部隊の一隊が駐屯していたが、その行事板には米軍上陸予想月日が掲示され、上陸近しを感じさせるほど、戦局は緊迫していた。
 8月21日ー焼けつくような酷暑の中、那覇港近くの西新町広場に集結した。何しろ一般疎開を含めて約5千人に及ぶ大集団に、それを取り巻く見送り人で混雑を極めていた。(略)港外には護衛艦二隻と輸送船三隻の、計五隻編成の船団が待っていた。輸送船はいずれも、陸軍所属の老巧化した数千トン以上の貨物船だと言われていた。それは和浦丸、対馬丸、暁空丸であった。島尻地区は最初、対馬丸に割り当てられていたが、いつの間にか和浦丸に変更され、対馬丸には那覇地区が割り当てられていた。対馬丸は僚船三隻中、最も外観が良かった。真偽のほどは不明だが、那覇地区のクレームによって変更されたとのうわさが流れていた。船団は午後7時ごろ錨を上げ、ゆっくり動き出して港を後にした。行く先は長崎港、疎開先は熊本県日奈久町である。・・・
 津嘉山朝吉・引率教諭「与那原国民学校第二次学童疎開」わが子を戦火にさらすより疎開させようと、学童疎開を希望する残余の生徒が集められた。時の新垣隆一校長の強い要請により、最終的に私が引率教師となった。昭和19年9月15日には、学童疎開第二陣(学童数40人、安里国民学校の5人を含む)として、輸送艦「室戸丸」で那覇港を出航した。室戸丸が最後の学童疎開船だったようだ。9月24日ー室戸丸、鹿児島に入港(錦生旅館に投宿)。9月30日ー疎開先の熊本県湯浦町(現芦北町湯浦)に到着。宿舎は寿旅館。湯浦国民学校に転入。

対馬丸犠牲者(1、484人)の慰霊碑・小桜の塔/対馬丸犠牲者「刻銘板」与那原出身は瑞慶村マカト、瑞慶村光子、長嶺澄子

対馬丸犠牲者「刻銘板」粟国出身は玉寄オツル、玉寄マサ子、玉寄恵美子/海鳴りの像-赤城丸犠牲者(406人)・嘉義丸犠牲者(368人)・開城丸犠牲者(10人)・湖南丸犠牲者(577人)・台中丸犠牲者(186人)

1983年4月雑誌『青い海』№122 「座談会ー海の戦後はいつ終わるー戦時遭難船の遺族は訴える」出席者・湖南丸遺族会・赤嶺広吉、大城敬人/嘉義丸遺族会・吉本英吉、仲宗根トヨ/赤城丸遺族会・又吉久全、翁長春元 司会・玉城朋彦


儀間比呂志「モニュメント『海鳴りの像』戦後の沖縄の心は『戦はならんどー』である」

     
写真ー全員対馬丸に乗り込んだ学童たち。後列左から4人目 山里昌男14歳(翁長良明所蔵)

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 1938年8月から須藤利一は『沖縄教育』に「ベージル・ホール大琉球航海記」を1939年まで連載。1938年12月には台湾愛書会の『愛書』に須藤利一は「琉球の算法書」を発表。

1940年1月、須藤利一は野田書房から『大琉球島探検航海記』を出した。発売所は東京は日本古書通信社代理部、那覇は沖縄書籍となっている。この本は天野文庫と比嘉文庫にあるが口絵に「バジル・ホール肖像」が付いていないが、戦後復刻本には付いている。また川平装幀も微妙に違う。
1940年1月、在米沖縄県人会『琉球』7号□幸地新政「太平洋の危機と在米同胞ー第一次世界大戦の終わりと共に、来るべき世界制覇の舞台は、周知の如く太平洋に移動したのである。(略)若し、日米間に万一のことがあれば、その直接の発火点は疑いもなく蘭印問題であろう。(略)米国政府は1939年7月26日に日本政府に向かって日米通商航海条約の廃止を通告した。これは日支事変に対する米国の日本への抗議の一形態であり、さらに軍需品禁輸断行の事前工作である。米国にも日米開戦論があると同時に又、日米非戦論即ち日米親善論も決して侮るべからざるものを内包している」

1940年3月1日『大阪球陽新報』金関丈夫
1940年8月、台湾で川平朝申、須藤利一、比嘉盛章、宮良賢貞が編集して『南島』第1輯が野田裕康(台北市兒玉町3ノ9野田書房内)より発行され須藤利一の「アダムスの那覇見聞録」が載っている。1941年、須藤は那覇で発行されている『月刊 文化沖縄』にも「w・ビーチ 琉球記」を連載。1942年3月『南島』第2輯には口絵に「バジル・ホール肖像」、中村忠行が口絵解説(バジル・ホール略傳)をなしている。
アメリカ合衆国ワシントン州のタコマナローズ海峡に架かるつり橋で、1940年11月7日に強風の共振による影響で崩落しました。(いちらん屋) 
1941年7月、フランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)行政命令でCOI(情報調整局)設置。ウィリアム・ドノバン(アイルランド系)長官→1942年6月、大統領行政命令でCOIが廃止、OSS(戦略事務局)設置。ウィリアム・ドノバン長官
1941年、第二次大戦勃発と同時に、アメリカ政府によって、日系人11万人余は永年住みなれた家を追い立てられるように着のみ着のまま家族と共に僻地に設けられた10ヶ所の収容所に送られた。(アリゾナ州のボストン収容所とギラ収容所、アーカンサス州のジェローム収容所とロワ収容所、ユタ州のトバズ収容所、コロラド州のグラナダ収容所、ワイオミング州のハートマウンテン収容所、アイダホ州のミネドカ収容所、カリフォルニア州のツールレイク収容所とマンザナー収容所)。この日系人の収容にあたってはドイツのユダヤ人検索同様にIBMの機械が活躍した。
□731部隊 - Wikipediaja
初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。 満州に拠点をおいて、防疫給水米軍 (GHQ)との取引 [編集]終戦時に特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。
原子力ー1942年12月2日、最初の自律核連鎖反応ーこれが原子力の鍵であるーが、イリイノ州シカゴのウラニウム炉の中で発生した。これは、人類の幸福のために発展せしめ得る巨大な力の新しい源であった。第二次世界大戦の終結の時、合衆国は、この原子エネルギーの平和的利用に関する計画を国内及び海外において進展させるための方法を研究し始めた。(以下略)


〇犯罪王アル・カポネも真っ青、葉巻を銜えたルメー /勲一等旭日大綬章
沖縄の新聞報道によると、日本に居る米軍幹部に日本政府は「日本を護ってくれて有難う」という意味なのか勲章を贈っているという。かつて日本を空襲で焼き払ったルメーに勲一等旭日大綬章を贈った話はネット上に飛び交っているが今でも勲章を贈っていたことに疑問を持つ。ルメーは1945年に日本占領は「百年間続く」とほざいた。たしかに日本の現実はアメリカの属国と化している。『アメリカの属国で悪いか』という本も出て居直る性質の悪いのも居る。今年は敗戦70年。「敗戦後100年」は無いと思うが、そのアメリカ占領100年を目指そうとしている安倍麻生自公政権は辺野古新基地をつくり、嘗てルメーが言った米軍の日本占領は百年続くことを実現しようと試みる。大多数の日本国民もそれを支持している。(2015-1記)


1944年2月 須藤利一『南島覺書』東都書籍
アメリカ軍統治下の「オキナワ」1945年
1945年3月26日 アメリカ軍、慶良間諸島に上陸開始(~28)/島民の「集団自決」あいつぐ
1945年4月1日 アメリカ軍、北谷村嘉手納の渡具知浜に上陸
1945年4月2日 読谷村チビチリガマで住民の「集団自決」おこる。村内数ヶ所でもあいつぐ
1945年4月5日 アメリカ海軍、読谷山村比謝に軍政府樹立。ニミッツ布告を発して軍政に着手した。
1945年4月13日 『台湾新報』「敵米の陣営に蠢くB29の元凶カーチス・ルメー」
1945年4月16日 アメリカ軍、伊江島に上陸。ついで本部半島制圧(~18)
1945年4月22日 『週刊朝日』大仏次郎「沖縄決戦を直視して」

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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
 参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店
1945年7月28日9時49分、濃い霧の中をニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍の中型爆撃機 B-25が、エンパイア・ステート・ビルディング(英: the Empire State Building)内79階の北側に衝突して機体が突入するという事故が起こった。79階で火災が発生し、衝突時の衝撃で機体から脱落したエンジンが破壊したエレベーター扉と同シャフトを経て80階へ延焼したが、約40分後に消火された乗員3名を含む死者14名を出したものの、比較的小型の機体であった上に着陸直前で燃料残量が少なかっことから建物自体への損は比較的少なく、事故後2日で営業を再開している。→ウィキペディア
1945年5月7日 石川に城前初等学校開校 
1945年5月20日 『週刊朝日』親泊朝省「敵の恐怖、わが沖縄特攻隊」
1945年5月26日 南風原の野戦病院、真壁村に移動
1945年5月27日 第三十二軍司令部、首里から津嘉山へ、ついで摩文仁に移動(~30)/『週刊朝日』土屋文明「琉球阿嘉島国民学校生徒の勇戦を讃ふ」
1945年6月23日 沖縄戦終結ー戦没者 一般住民9万4000人、日本軍将兵9万4136人、アメリカ軍将兵1万2281人 計20万417人

1945年9月5日『ウルマ新報』(活字)「ミズリー号で歴史的署名式、劇的に終了」「日本に於いては闇取引が盛ん」」「軍政府に於いては本島民待望の通信事務開始」
1945年9月26日『ウルマ新報』「マッカサー元帥の語る日本の現在と将来」「アメリカ国務長官代理アチソン氏『マッカーサーは単なる管理者で政策決定の権限なし』」「各地区市会議員当選者」
1945年11月11日 東京丸ビルの沖縄県事務所で沖縄人連盟発足
1945年11月21日『ウルマ新報』「米英加の三国首脳 原子エネルギー会談」
1945年12月6日 沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』創刊(編集発行・比嘉春潮)
1945年12月19日『ウルマ新報』「山下泰文大将 死刑の宣告」「糸満市建設着々」
1945年12月26日『ウルマ新報』アメリカ合衆国マリン軍大佐・軍政府副長シー・アイ・マレー「年末の挨拶」
NHKが、2010年8月6日NHKスペシャル『封印された原爆報告書』にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り。字幕:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
ナレーター:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被曝者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。→ウィキ
参考資料ー
1979年2月『戦後沖縄写真記録ーゼロからの時代』那覇出版社/1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社
2012年8月 『オキナワグラフ』「伝単ー翁長良明コレクション(携帯090-3793-8179)」




2001年1月 『マッカーサーの日本占領』世界文化社
マッカーサーの日本 1945年8月ー1951年4月
。1945年8月14日、日本は連合国に対し、ポツダム宣言を受諾した。日本を占領する連合国軍の最高司令官にはダグラス=マッカーサー元帥が任命された。占領行政がスムーズにいったのは、一つにその中枢神経が東京の都心に集中していたからである。もし、占領を司るこれらのセクションがはいる建物がなかったら、占領の性格そのものが大きくかわっていたことであろう。もともと米空軍は都心部の爆撃を避けるよう命令されていた。/ワンマン宰相・吉田茂ー反対者を罵倒するその姿は「ワンマン」の名にふさわしい。ただしそれができたのは、マッカーサーの権威を借りたからである。(袖井林二郎)


○現代に至る日米関係はすべてマッカーサーが作り上げたと云って過言ではない。日本は敗戦国のトラウマを未だに引きずっている。
1946年5月15日、『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版が創刊。
1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。 同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。
石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。 
1947年7月に日本社会党の片山哲を首班とする片山内閣が発足したが、片山はクリスチャンであり、マッカーサーはクリスチャン片山の総理大臣就任を喜び「今や東洋の三大強国にキリスト教徒出身の首相、中国の蒋介石、フィリピンのマニュエル・ロハス、日本の片山哲が誕生してことは広く国際的な観点から見ても意義が深い。これは聖なる教えが確実に広まっている証である・・・これは人類の進歩である。」と断言し、片山内閣発足を祝福したが、マッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9ヶ月で瓦解した。
 マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた。またポケット聖書連盟に要請して、日本語訳の聖書約1,000万冊を日本で無償配布している。→ウイキ
1948年2月 伊波普猷『沖縄歴史物語』「奈翁と英艦長との琉球問答ーセントヘレナに於ける1817年8月13日の昼過ぎー」マカレー東本願寺

1948年夏 比屋根安定(中央)、その左が岩原盛勝

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Posted by: ryubun02
 アメリカ合衆国ー国そのものが独立戦争という暴力から生まれたことは、問わないにしても、初期の植民者による原住民(インディアン)の組織的皆殺し、アフリカから黒人奴隷を輸入して制度化したこと、それをめぐって国を二分して戦われた「南北戦争」のむごたらしさ・・・・・。さらに後続の移民を差別し搾取する構造が、国の歴史を貫いている。(袖井林二郎)

1920年1月17日 アメリカ合衆国憲法修正18条(全国禁酒法)が発効□1933年12月廃止
1928年11月『世界地理風俗体系・第19巻・アメリカ合衆国(上)』新光社
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ニューヨーク□この世の龍宮ー白波さわぐ水の彼方におぼろに霞む高楼の群こそこの世の龍宮とも見られよう。この高楼の群立こそは大ニューヨーク市の中心マンハッタン南端付近の世にも稀なる壮観で南方水上から仰ぎ見た風景である。その中央部に雄然と聳ゆるエクイタブルのビルディングもその右方のウールウオースもこの大観の一丹一碧をなすに過ぎぬ。右の端にはお台場公園の水族館が見える。
国防
□海軍ー(略)我々は少しも米国海軍を恐れては居らぬ。然し勿論戦争を望んでも居らず、少なくとも近き将来に戦争があろうとは思って居ない。戦争ばかりが海軍の仕事ではない。我々はむしろ益々日米両国の国交を厚くし今後いよいよ通商の繁くなりよく「太平洋」を文字通り太平に保つべく、両国海軍が提携してその保護の任を盡さんと希って居るのである。

□空軍と化学戦ー米軍中には化学戦部が設けられ、毒ガス、焼夷弾及び発煙弾等を用ふる化学戦の準備と研究を行っている。これがための機関として、化学戦学校とか、毒ガス工廠などがあり、実に平時よりガス第一聯隊がメリーランド州、エッヂウード工廠内に設けられ、本部と3中隊とを置いてある。その他パナマ、コロザールと、歩兵学校内と、ハワイのショフィールド兵営との3か所にも、各1中隊宛のガス中隊が設けられてある。米国の毒ガス製造の一日の量は約350トンということである。

■→米軍は米国領内のジョンストン島に毒ガス移送することを決定。1971年1月と7月の2回にわたり、美里村(現沖縄市)の知花弾薬庫から具志 川市(現うるま市)の天願桟橋までの行程で毒ガス移送が行われました。第2次移送は56日間にもわたり、移送路周辺の住民約5千人が避難しました。 (沖縄県公文書館)

1929年2月ー伊波普猷、山城亀雄飛行士が操縦する飛行機でロサンゼルス上空を飛ぶ。カリフォルニア各地を巡遊、宮城与徳、屋部憲伝らと交流。
8月ー『科学画報』13巻2号□伊波普猷「布哇の自然と人」、伊波普猷、帰沖(折口信夫と同行予定が折口体調不良のため伊波一人の帰沖となった)。10日ー真境名安興と共催で「琉球古典劇研究座談会」、19日『琉球新報』伊波普猷「孟蘭盆の新意義」、25日ー『琉球新報』伊波普猷「五ツ組の用語と詩形」、30日ー伊波普猷、上里朝秀ら台中丸で帰京(途次、喜界島で講演)。11月23日ー京浜沖縄県学生会秋季総会で「方言に現れたる土俗」と題し講演

1929年年2月14日 シカゴで聖バレンタインデーの虐殺(英: St. Valentine's Day Massacre)
関連〇那覇中学校在学のころテレビで「アンタッチャブル」を見た。エリオットネスを中心とする「正義の味方」アメリカ財務局特別捜査官の活躍を描いたものでいかにも憎々しい「公衆の敵№1」のカポネ像が定着したが、カポネは公衆の酒需要に応えただけで、人間をアメリカ軍の日本・沖縄無差別空襲やベトナム、イラク攻撃のように無差別に人間を殺したわけでもない。カポネも貧しいイタリア・ナポリ移民の子としてニューヨーク・ブルックリンので生まれたことは後に知る。現実の沖縄駐留アメリカ軍兵士の犯罪とダブって見え、アメリカという国は、最近は日本もそうだが、犯罪や戦争までも企業化(マフィア化)にしてしまうものだと妙に納得した記憶がある。長じてカポネ映画も5回見た。カポネに興味があるのは少数派だと思ったが、今でもグーグル検索で人気のある人物で画像、動画も豊富だ。カポネの名前はアメリカ人なら子供でも知っている。

 1964年、東京神保町で入手した中野五郎『ギャングの季節』(1961四季社)、アメリカギャング史の入門書である。□犯罪都市シカゴと全米禁酒法時代の悪夢ー現代アメリカの代表的詩人カール・サンドバーグは、煤煙と鋼鉄の大都会を熱愛して有名な『シカゴ詩集』の中で「世界のための豚殺しや工作職人や麦刈り人夫や鉄道工夫など・・・・・大きな肩を持った都会だ」とシカゴの民衆性を弁護している。しかし、同じアメリカのある評論家が、「シカゴには平和がない。それは抑制されない恐怖と光明の都会である」といみじくも喝破しているように、シカゴこそ自由の国アメリカの明暗をもっとも強烈にかつ露骨に表現した巨大な商業都市であり、偉大な文化都市であり、そして物凄い犯罪都市なのである。(略)
こういう雰囲気の中に、アメリカ社会救済事業の母ジェーン・アダムス女史は1889年に社会改善運動(シヴィック・リフォーム)の烽火をあげて有名な「ハル・ハウス」をシカゴの貧民窟の真中に開設し、またシカゴ大学はじめノース・ウェスターン、ロヨラ、ドポールなどの著名な大学が平和主義と社会学によって権威を高めているのも注目されるであろう。それにシカゴ自慢は1893年のコロムビア大博覧会、1933年の20世紀進歩大博覧会、稀観本専門のニューベリー図書館、フィールド自然博物館、オペラ劇場、マーシャル・フィールド百貨店、アメリカ最大の新聞「シカゴ・トリビューン」など、犯罪都市シカゴの背景はあまりにも文化的であり、また、商業的であると言えよう。ここにシカゴの秘密があり、ガンサーのいわゆる「華麗な矛盾」の悪の華が咲き乱れているのだ。

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カポネ関係資料上から2段目右に中野五郎の『ギャングの世界』(1950日本弘報社)、『ギャングの季節』(1961四季社)。/2014年9月 『TOKYO TORIBE & 世界ギャングスタ映画読本』洋泉社

1931年 『犯罪公論』<『ブラック・チェンバ』裏話>
 この雑誌の発行から10年後の日本時間1941年12月8日未明に真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英: Attack on Pearl Harbor、、ハワイ時間12月7日)があった。アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃である→ウィキペディア。安倍晋三首相は日米首脳会談後の共同記者会見で、オバマ米大統領の広島訪問に対応し、米ハワイの真珠湾を訪問する可能性について問われ、「現在、ハワイを訪問する計画はない」と否定した。ま、アメリカの一州に甘んじている日本としては歴史的にもそう意義は無いということだろう。今回の国政選挙はアメリカの一州から「離脱」するか否かも問われている。

 そのアメリカの国政選挙。ドルマニアで暴言王トランプ氏に対してはドナルドダック(短気な性格であり、ディズニーキャラクターの中で最も喜怒哀楽が激しい)のイメージもあり、本音でアメリカを変えると期待していたが次のニュースをみると人命軽視で現状維持の素晴らしい発想の持ち主らしい。TBS系(JNN) 6月18日ートランプ氏が過激発言を連発、改めて銃規制不支持を主張-アメリカ大統領選で共和党の指名候補に確定しているドナルド・トランプ氏は17日、フロリダ州の乱射事件に触れながら、銃規制強化への反対を過激な言葉で改めて表明しました。「被害にあった(死んでくれて)素晴らしい人々の誰かが腕や足に銃を忍ばせていて、あのロクデナシが撃ち始めたときに、誰かがバーンバーンと反撃してたら、それは(ハチの巣状態で)すばらしいすばらしい光景になっていただろう」(ドナルド・トランプ)。




 黒井兵也「『ブラック・チェンバ』裏話 東京日日新聞は如何にして「『ブラック・チェンバ』を手に入れたのか❔」○「我が暗号電報盡く米國側へ筒抜けー解読した当事者が自ら暴露」「何と間抜けた話ー7割から6割へ、段々と押しつめられた華府会議当時の裏の裏『米國の秘密室』は語る」昭和6年7月19日20日の東京日日新聞。初号活字の大見出し、夏枯れのジャーナリズムがあッと思わず聲を上げ、陸軍省と外務省では。・・・・・・「ブラック・チェンバ」という聴き慣れない言葉が、ハーバート・ヤードリ①という無名のヤンキーが、一躍この國の全階級の話題に上るようになった。

 ①ハーバート・オズボーン・ヤードリー(Herbert Osborne Yardley、1889年4月13日 - 1958年8月7日)は、アメリカ合衆国の暗号学者。インディアナ州ワージング生まれ。その著『ブラック・チェンバー 米国はいかにして外交暗号を盗んだか』(1931年)で知られる。ヤードリーは陸軍情報部第8課(MI-8)「ブラック・チェンバー」の設立者であり、その長であった。 彼のもとで、ブラック・チェンバーの暗号解読者は日本の外交暗号を解読し、1921年から1922年のワシントン会議でアメリカの交渉者を有利な立場に置いた。 のちに中国の国民政府が日本の暗号を解読するのを助け、カナダ政府が暗号部門を設けるのを助けた。ブラック・チェンバーは1929年に国務長官のヘンリー・スティムソンによって予算を打ち切られ、そのまま閉鎖された。従業員は年金等の補償なしに解雇された。ヤードリーは政府に対する報復として暴露本を著した。ウィキペディア

<犯罪王アル・カポーネ殺人グラフ>
Al Capone (English: Al Capone, 1 May 17, 1899 - January 25, 1947) is an American gang.
In the Prohibition era, led the organization from there to a luxury hotel in Chicago in residence and office, moonshine manufacturing and sales, prostitution industry, and the gambling industry to expand the organization, it began to integrate modernize the criminal organization It is known to be was.
Height is 179cm, it was big for its time. There was a nickname "Scarface" in that there was a scratch on the face. However, because the person in question had hated this nickname, it was not the person referred to in front of the person. "Kapon" are close to each other in English pronunciation.
Family wife of Mee and son of Sony.


アメリカは果たして文明国か❔キリスト教の国 黄金狂の国 黄色人種排斥の国 アメリカ

おお自由よ!ワシントンよ!アメリカは殺人紳士とドルマニアの天国だ!Oh freedom! Washington! America is a heaven of murder gentleman and the dollar mania!  野蛮国だの土人だのと言う言葉を使うのはよせ!卿等も又原始時代を一歩も出ていないではないか! さてあちらでは交通整理も完備して居りましたーあちらは実に衛生的でーあちらは等等等。然し我々はアル・カポーネのことだけは聴かせては貰えなかったようだ


暴力者は暴力によって倒れ 才人才に溺るる 顔や服装ばかりで紳士だと思ったら大間違い、顔だけはアル・カポーネは紳士以上、服装も又王侯以上の服装をしている

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犯罪王アル・カポーネはなるほど恐ろしい人間に違いない、然し彼より彼の機関銃の弾丸の方がなお怖い、嘘だと思ったら彼の頭に一寸弾丸をぶち込んで見給え、彼はすぐふんぞり返るだろう


左ー聖バレンタイン日の殺戮現場、犠牲者、暗殺を免れたモーランとその妻/右下アル・カポーネの暗殺を企てて却って返り討ちに遭った3人の男スカリス、アンセルミ、ギンタの死体





1963年6月 コリン・ウイルソン 大庭忠男①訳『殺人百科』彌生書房 「聖バレンタイ・デーの虐殺 アル・カポネ」
 ①大庭 忠男(おおば ただお、1916年6月24日 -2012年12月26日[1] )は、日本の翻訳家。
佐賀県生まれ。日本大学高等師範部英語科卒業。極東国際軍事裁判国際検察部翻訳顧問、米国映画字幕翻訳、米国ニュース日本語版監修、英米推理小説翻訳などを行う。エラリー・クイーン、シドニィ・シェルダン、コリン・デクスターなどを多く翻訳。1999年唯一の著書で、ポツダム宣言受諾後も戦争が続いた件について記した。→ウィキ 〇訳者紹介に、現住所が神奈川県座間市となっていて同市2017年の死体遺棄事件を連想させる。


2004年2月『週刊100人ーアル・カポネ』デアゴスティーニ・ジャパン

1960年代初め、ジェノヴェーゼはコステロらの陰謀にはめられ麻薬取引で収監されるが、獄中からファミリーの指揮を執り続けた。1963年、部下のジョゼフ・ヴァラキがマフィアの正式メンバーとしては初めて沈黙の掟を破って証言。ジェノヴェーゼの死後はボス代行のトーマス・エボリ、副ボスのジェラルド・カテナ、コンシリエーリのマイク・ミランダの三頭体制となったが、ファミリーはリーダーシップ不在の混乱を続け、最大最強のファミリーとしての地位をガンビーノ一家に譲るに至った。1970年代にガンビーノの盟友フランク・ティエリがボスとなり、ファミリーは再びかつての勢力を取り戻した。その後、アンソニー・サレルノ、ヴィンセント・ジガンテと歴代ボスが相次いで逮捕されたが、ジェノヴェーゼ一家は幹部級でも次々と司法取引に応じる内通者を出す他の一家とは異なり、ほとんど司法への内通者を出すことなく統制がとれており、現在では再びガンビーノ一家に代わってニューヨーク最強のマフィアとしての勢力を維持している。
映画ー1966年10月 那覇 グランドオリオン「暗黒の大統領カポネ」
1969年9月 那覇 グランドオリオン「マシンガン・シティ」
2015年 宝塚歌劇ミュージカル『アル・カポネ —スカーフェイスに秘められた真実—』

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1899年1月20日ー勝海舟、旧主君徳川慶喜の10男・精(くわし/11歳)を養子婿に迎える

「勝海舟」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1902年5月19日ー兒玉源太郎台湾総督、井上勝ら福岡丸にて来沖
同年1月に日英同盟条約調印。兒玉源太郎台湾総督(1875年にも来沖)、井上勝ら福岡丸にて来沖。那覇の潟原で那覇首里の小学校の運動会を見る。また首里を遊覧。風月楼で2区の有志及び各役所の高等官60名「歓迎会」。
児玉源太郎 こだまげんたろう
1852(嘉永5)~1906(明治39) 明治時代の陸軍軍人(大将)
徳山藩士児玉半九郎忠碩の長男。戊辰戦争に藩の献功隊士として参加。のち陸軍に入り、佐賀の乱・神風連の乱・西南戦争に従軍して頭角をあらわした。 1887(M20)陸大校長としてドイツの軍制・戦術の移入紹介につとめ、91ヨーロッパ視察。 92~98陸軍次官兼軍務局長、日清戦争で大本営参謀、功により男爵。96中将に昇進し、長州軍閥の1人として重きをなした。 98台湾総督。1900第4次伊藤内閣・桂内閣で陸相、一時内相と文相を兼任。 04大将に累進して日露戦争に出征し、満州軍総参謀長、戦功により子爵。06参謀総長に就任。南満州鉄道株式会社創立委員長。没後、伯爵。 (はてなキーワード)
日本の近代的交通網を整えた「鉄道の父」
井上 勝 ( いのうえ まさる ) ●天保14年(1843)-明治43年(1910)
勝は天保14年(1843)、藩士井上小豊後勝行の三男として、土原浜坊筋に生まれました。長崎でオランダ士官に兵学を学び、江戸では砲術を修行して、さらに箱館へ行って英国領事館員に英語を学びました。その後航海術習得のため、伊藤博文や井上馨らと英国へ密航してロンドン大学に留学し、鉱山学および鉄道の実業を研究して、明治元年(1868)に帰国しました。明治4年(1871)に鉱山頭兼鉄道頭となり、新橋―横浜間に日本最初の鉄道を開通させて以来、工部大輔・鉄道庁長官等を歴任して、全国各地の近代的交通網を整備しました。明治22年(1889)には、東京―神戸間の東海道線を全通させています。同43年(1910)に鉄道院顧問となり、欧州を視察しましたが、ロンドンで病死しました。享年68歳。
 墓は、沢庵和尚を開山として、寛永15年(1625)に3代将軍徳川家光によって創建された品川の東海寺墓地にありますが、ここはJR東海道線と山手線とが分岐するところとなっています。また東京駅頭には、大正3年(1914)に銅像が建てられ、戦時中の金属供出によって台座のみとなっていましたが、没後50周年の昭和34年(1959)に再び銅像が建てられました。(city.hagi.lg.jp)■ちなみに井上勝の娘は松方正義の9男義輔に嫁いでいる。松方の3男幸次郎(元川崎造船社長)は松方コレクションで知られる。

1910年3月9日ー勝精伯爵、農務省水産講習船「雲鷹丸」で来沖。岡雷平やまと新聞記者が同行
1911年6月8日 尚昌、神山政良、イギリス留学の途次サンフランシスコ着、安仁屋政修(沖縄県人会会長)らが出迎える。

1911年10月23日『琉球新報』「『新日本』<アメリカ號>広告ー近世文明上エジソンの功績」
アメリカ文化/発明王エジソン
1922年、エジソンはアメリカ国内でジャーナリストとの対談をおこなった際、当時の日本について「日本は進歩的で進取の気性に飛んだエネルギッシュな国である。日本国民をその小さな島国に永久に閉じこめておくことは出来ない」と述べ、日本の拡張政策に理解を示した。→(ウィキペディア)

○1927年ー大阪で普久原朝喜が「マルフクレコード」設立□朝喜は親の借金を返済し、実家も新築した。新しい家には、蓄音機を発明した米国の発明王エジソンの肖像画を掲げた。「偉い人だから手を合わせて拝みなさい」と養父は私たち家族に言って聞かせたものだった。(普久原恒勇)
1931年11月27日に日比谷公会堂にて行われたエジソン追悼会の席上、追悼会長であった金子堅太郎によって「日露戦争の戦費調達のため訪米した際、エジソンより秘密研究室で働く日本人を紹介されたのが岡部芳郎君」と紹介された。→(ウィキペディア)
○おもちゃのまちバンダイミュージアム(栃木県下都賀郡壬生町おもちゃのまち)バンダイの玩具を主とした博物館「エジソンミュージアム」
○京都男山の石清水八幡宮境内にトーマス・エジソン記念碑。白熱電球の改良に際し当社境内の竹を使用したため、2月11日にはエジソン生誕祭も行われる。
○電電宮(でんでんぐう)、京都市西京区嵐山の法輪寺の鎮守社で、電気・電波の祖神として信仰されている神社。電電塔には電気研究者の代表としてエジソン、電波研究者の代表としてヘルツの銅製の肖像が掲げられている。昭和44年(1969年)に大阪万博を記念して社殿が再建。昭和54年(1979年)1月に電電宮護持会(電電宮並びに電電塔奉賛会)が結成され、電電宮・電電塔の維持を行っている。今日では、電気・電波だけでなくコンピュータ関係者や電気通信事業者からも信仰を集めている。→(ウィキペディア)

1911年11月11日、ブール、シュワルツとともに来沖。→1991年1月 ①伊佐眞一『アール・ブール 人と時代』

1912年3月27日にポトマック公園で、ヘレン・タフト大統領夫人と珍田日本大使夫人によって桜(ソメイヨシノ種)が植えられた、という。桜の穂木は東京荒川の桜並木だが、台木は兵庫県東野村で育てたものという。詳しくはネット検索で見てほしい。最近、アメリカの首都は何処にあるかと検索したら前記の桜の話が出てきた。アメリカ合衆国の首都はワシントン・コロンビア特別区(Washington,District Of Columbia)で1790年7月16日に設立。


1913年2月2日ー琉球新報記者だった富川盛睦(ニューヨークで小橋川朝重撮影)

1913年 山田有登、大阪市聖バルナバ病院に勤務。→『沖縄県人録』(1937年)に「山田有登君は那覇市の出身。明治17年1月22日を以て生まれる。沖縄県立中学校を経て金沢医学専門学校に学び、明治42年同校を卒業するや、直ちに石川県立病院に勤務して研鑽を積み同44年6月に愛知県渥美郡田原病院に転じて更に其の蘊奥を極め、大正2年聘せられて大阪市聖バルナバ病院に勤務。同9年転じて久原鉱業経営の鉱山病院に勤務。同11年退職帰県して久米大道りに開業。昭和11年、那覇市に逓信診療所開設されると其の初代所長となり今日に至る。なお君は学生時代野球選手たりしだけに野球に趣味あり」とある。→2011年9月23日、以前から気になっていた天王寺の聖バルナバ病院をのぞく。受付で病院の案内パンフレットをもらう。それによると、同病院は1873年にアメリカ聖公会により派遣された宣教医師Henry Laningが大阪川口居留地に米国伝道会施療院を開設したのに始まる。1923年に川口から天王寺細工谷の現在地に移転しているから、写真家の山田實さんの父・有登は同病院に1913年から1920年まで勤務。その時の場所は川口ということになる。

□川口が貿易港として継続的発展をなしえなかったのは、安治川河口から約6km上流に位置する河川港であるため水深が浅く、大型船舶が入港出来なかったことによる。そのため、外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へと移住していった。彼らに代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として病院、学校を設立し経営を行った。平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院等はこの地で創設されたのである。それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、大阪の上町エリア(天王寺区・阿倍野区など)へ次々と移転して川口は衰退への道をたどることになる。対照的に大型外国船が集まるようになった神戸港は、1890年代には東洋最大の港へと拡大していった。(→ウィキペディア)

1914年5月9日『沖縄毎日新聞』伊波月城「日光浴ー新文明の先駆者たる北米合衆国の平民詩人ワルトホヰットマン②は3、40年これを実行したのである。・・・」
②ウォルター・ホイットマン はアメリカ合衆国の詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。超越主義から写実主義への過渡期を代表する人物の一人で、作品には両方の様相が取り込まれている。アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人でもあり、しばしば「自由詩の父」と呼ばれる。→ ウィキペディア
1914年6月26日『沖縄毎日新聞』「粗枝大葉ー19世紀の偉大なるアメリカ人ワルト、ホイットマンは大いなる都会とは・・・・」

1915年8月ー前暁鐘社の野里朝淳がマウィ島カフルイ港で写真屋開業

1916年6月9日『琉球新報』平良生(在ロスアンゼルス)「米国通信」
1917年9月、山入端隣次郎、アメリカよりT型フォードを3台導入し沖縄自動車商会を開業、運転手は福井県出身の大宮孝太郎。大宮は沖縄県「運転手免許証」(大正6年10月8日発行)第一号である。12月、布哇沖縄海外協会(當山善真)『会報』□表紙「汎太平洋と布哇」、大城幸之一「沖縄県の疲弊と之が対応策」、比嘉静観「沖縄県救済策」、大田朝敷「沖縄本島巡講行脚」、新城北山「布哇沿岸の琉球民族」/沖縄県海外協会(又吉康和)『南鵬』第1巻第2号□大田朝敷「ハワイと沖縄の関係」
1917年11月23日『琉球新報』「64年前ペリーと琉球を経て浦賀に上陸したハーデー翁が17日来日」

名護朝助
慶応義塾入社名簿に/名護朝助 本籍地 沖縄県首里當蔵35 戸主 士族
              明治11年3月生 明治30年5月入社  証人 岸本賀昌
アメリカに渡米、10年余滞在
大正元年10月ー西洋料理「美理軒」(名護朝助経営、コック永田亀寿・元シュワルツ家コック)饒平名病院隣、一味亭跡に開業/11月ー『琉球新報』□食道楽君のピリケンの解釈は違っている。ピリケンとは福の神の意味で寺内総督にピリケンの名を冠したのは惑新聞が七福神の似顔を募った時、総督の三角頭が七福神の一つに及第したことがあるからピリケンのアダ名も蓋し之に出たのであろう。洋食屋の美理軒なるほど語呂はよくないが来る御客様を福の神と見立てたものであるとすれば語呂ぐらいは我慢が出来る。アテ字の美は美味の美、理は料理の理と見れば何れにしても結構じゃないか。

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1918(大正7)年3月の『琉球新報』広告/2006年9月『JTBパプリッシング』表紙

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左ー通天閣のビリケンさん/通天閣の見える右下にビリケンさんが見える

□通天閣の展望台で、真っ先に迎えてくれるのが、幸運の神様「ビリケン像」。
合格祈願・縁結びなどあらゆる願いを聞いてくれる、なんでもござれの福の神なんです。通天閣の「ビリケン」は、5階の展望台の立派な台座にちょこんと座っています。
笑っているのか怒っているのか。不思議な表情と、愛敬あるポーズが人気で、いつもお願いする人が絶えません。

ビリケン(BILLIKEN)は、1908年(明治41年)アメリカの女流美術家 フローレンス・プリッツという女性アーティストが、夢で見たユニークな神様をモデルに制作したものと伝えられています。トンガリ頭につりあがった目という、どこかしらユーモラスな姿は、たちまち「幸福のマスコット」「福の神」としてアメリカを始め世界中に大流行しました。
日本でも花柳界などで縁起物として愛されていました。

世界的な流行を受けて、1912年(明治45年)オープンした「新世界」の遊園地「ルナパーク(月の園)」では、さっそく「ビリケン堂」を造りビリケンを安置。これは大当たりし、新世界名物としてその名をとどろかせ、ビリケン饅頭やビリケン人形などのみやげ物まで作られました。また「福の神・ビリケン」を七福神に加え、「八福神めぐり」なども流行したと伝えられています。しかしビリケンは、ルナパークの閉鎖と共に行方不明になってしまいました。

オイルショックが去り、通天閣の灯が復活して新世界に活気がよみがえった1979年〈昭和54年〉、浪速文化の拠点をめざした「通天閣ふれあい広場(現・3階イベントホル)」ができました。その後、1980年(昭和55年3月30日)に新世界に馴染みの深い「ビリケン」の復活も決まりました。しかし、資料になるべき写真が見つからず。思案にくれている時、田村駒株式会社が版権を持っていることが判明。田村駒さんのご好意で、同社の「ビリケン」をもとに木彫で復元したのです。像の彫刻は伊丹市在住の安藤新平さん。(→通天閣)

1919年 宮城与徳、父与正の呼び寄せで渡米→1921年ー屋部憲傳、又吉淳、幸地新政らと「黎明会」結成。

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比嘉太郎さんに、『移民は生きる』の出版祝賀会で「おきなわは沖縄の誇りです」と書いてもらった。

1816年 イギリス軍艦アルセスト・ライラ号が琉球を訪れ6週間滞在。後に同艦の乗組員だった退役軍人ハーバード・J・クリフォードが中心となり、琉球海軍伝道会を創設、ベッテルハイムを派遣することになる。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社

1818年1月 バージル・ホール『大琉球 韓国 西海岸航海記』ロンドン(再版2010年 ジェネラルブック テネシー州メンフィス)□スポルディング『日本遠征記』、オズボーン『日本への航海』の中でこの本について述べている。

天保12年(1841年)、14歳だったジョン万次郎は仲間と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号によって助けられます。

1844年4月28日 フランス人ジャン・バチスト・セーシユ提督率いる5隻の東洋艦隊麾下のフォルニェル・デュプラン大佐の軍艦アルクメーヌ号を琉球へ分遣。宣教師テオドール・オーギュスト・フォルカードと清国人伝道師オーギュスタン・高を那覇に残して5月6日に出帆。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社




 『ニューヨーク・タイムズ』は1851年にニューヨーク市で発行していた、ニューヨーク・トリビューン紙に対する高級新聞というスタイルをとり、創刊された。当初は、優れた体裁が人気を集め、順調に発行部数を伸ばしたが、南北戦争後に、南部に対する寛大な論調が反感を呼び、一時低迷した時期もある。その後20世紀に入ると、世界各地に取材網を張り巡らせ、ワシントン・ポストやウォール・ストリート・ジャーナルと並ぶアメリカを代表する高級紙としての地位を確立した


□講談社の『日本写真年表』に「1853年(嘉永6)年、5月アメリカのペリー艦隊の従軍写真師Eブラウン.Jr琉球を撮影する」とあり、また那覇のニライ社から刊行された『青い眼が見た「大琉球」』の中にその撮影状況の石版刷りが掲載されている→□1934年3月30日『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ぺルリ艦隊来航記念号」、沖縄日報主催「ペルリ日本来航八十記念祭」で神田精輝、島袋源一郎が講演。/1934年7月30日、昭和会館で沖縄郷土協会評議員会、郷土博物館の建設と、ペルリ提督上陸記念碑建設のため協議。

1853年6月ーペルリ、首里城訪問□→1926年10月ー神田精輝『ペルリ提督琉球訪問記』/1935年3月ー土屋喬雄『ペルリ提督日本遠征記』弘文荘(沖縄県立図書館所蔵本は国吉真哲寄贈)/1947年2月ー大羽綾子『ペルリ提督遠征記』酣燈社/1962年6月ー外間政章『対訳ペリー提督沖縄訪問記』研究社/1985年10月ー金井圓『ペリー日本遠征日記』雄松堂/1994年4月ー大江志乃夫『ペリー艦隊大航海記』立風書房


安政元年(1854)幕府はアメリカとの間に和親条約を終結し下田と箱館を開港(箱館に於ける小開港)することになった。条約上、箱館の開港は翌年3月であったが、4月15日ペリー艦隊の船3艘が箱館に来航し港内の測量を始めた。更に同月21日には2艘(ポーハタン号、ミシシッピー号)が入港した。ポーハタン号に乗船していたのがペルリ(ペルリとはオランダ発音)こと東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイズ・ペリーである(函館ホテル旅館協同組合)

1858年7月29日ー日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)調印。
日米修好通商条約は徳川幕府が日本政府を代表して調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」の署名がなされている。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ。→(ウィキ)

 1859年、ペンシルベニア州西部で石油が発見され、1849年のカリフォルニアのゴールドラッシュを再現する「オイルラッシュ」が起こり、南北戦争の前夜には有用な資源であることが確認された。原油は有用な燃料油を抽出するための蒸留精製が必要なので、直ぐに石油精製がその地域の主要産業になった。しかし、このペンシルベニアの産油地域は田園と山岳であったので、産地での精製経済性や抽出した油の鉄道による輸送効率が悪かった。1865年からは産油地と鉄道あるいは製油所とを繋ぐパイプラインが建設され、この地形的な障害を緩和したが、数多い樽類製造者や荷車運搬手を失業させた。送油パイプライン網が拡がるに連れて、鉄道や電信系統とも一体化され、生産、計画、値付けなどで大きな連係が図られた。。→ウィキ

1860年ー万延元年遣米使節は、江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のためにに派遣した使節団。1854年の開国後、最初の公式訪問団であった。

 1862年、ジョージ・オプディクはウッドを下して市長になり、彼はリンカーン支持者に後押しされ州軍よりも合衆国軍への支援をより強めた。また南北戦争によるウォールストリートの経済的混乱を未然に防いだ他、移民を徴兵する制度の見直しも図った。合衆国議会とリンカーン大統領は近く多くの兵士の軍籍期間が満期になることを懸念して徴兵制度の可決に踏み切った。ニューヨークの徴兵日は7月中旬でリンカーンはミリシアと志願兵を市を統制するために送り込んだ(中にはゲティスバーグの戦いを終えて間もない者もいた)。アイルランド人を中心とした暴動が数千人にも及び、他の都市でも小規模の暴動が起きた。ニューヨーク徴兵暴動は共和党とアフリカン・アメリカンにその矛先が向けられた。

 南北戦争後のニューヨーク市はタマニー協会①による汚職で堕落の一途を辿った一方、メトロポリタン美術館(1872年に開館。その後は基金による購入や、さまざまなコレクターからの寄贈によって収蔵品数は激増し、関係者達の努力の結果、現在では絵画・彫刻・写真・工芸品ほか家具・楽器・装飾品など300万点の美術品を所蔵。全館を一日で巡るのは難しいほどの規模を誇る、世界最大級の美術館のひとつとなっている)、メトロポリタン歌劇場、アメリカ自然史博物館(1869年の設立当初はセントラルパーク内のアーセナル・ビルディング (Arsenal building) に置かれていた)。1874年には、マンハッタン・スクエアの大部分を占めている現在の施設が起工された。、ブルックリン美術館(1895年開館。ニューヨークで2番目に大きな美術館で、150万点の作品を所蔵していると言われている。エジプト美術が充実し、アジア・アフリカ・オセアニア美術も常設。また、多数の浮世絵を所蔵していることでも知られている。1997年から2004年にかけてはBrooklyn Museum of Artと称していた)など現在名のある施設も創立された。またジェームズ・ゴードン・ベネット、ジョーゼフ・ピューリツァー、ウィリアム・ランドルフ・ハーストなどを始めとした記者が書く新聞はニューヨークのみならずアメリカ全土で読まれるようになった。

①タマニー・ホールTammany Hall
アメリカ合衆国,ニューヨーク市の民主党執行委員会の俗称。ニューヨーク郡または市の民主党の組織をさすこともある。 1789年に,民主的な主義と行動,土着の精神をもつ国家的団体がアメリカインディアンの名称をとって聖タマニー協会として創設され,その後約 30年間,中産階級を代表して活躍した。 →コトバンク

サミュエル・ロビンス・ブラウン、(Samuel Robbins Brown、1810年6月16日-1880年)、1869年に女性宣教師メアリー・キダーを伴って再来日して新潟英学校の教師に就任した。しかし、翌年日本政府から横浜に責任を持つようにとの依頼があり、1869年(明治2年)7月17日に横浜に到着して横浜の修文館の教頭兼英語主任に任命された。1873年1月に高島学校を併合して、横浜市学校藍謝堂と改称した。1873年3月の火災により、野毛山の新校舎に移転して、市中共立修文館と改称した。1876年に3年任期の契約切れでブラウンは修文館を去った。修文館の教え子の元桑名藩藩主松平定敬、養子の松平定教、家臣の駒井重格、元会津藩士井深梶之助らがブラウンの私塾の開設を懇願した。ブラウンは要請に答え、松平親子、駒井、井深らの助けによりブラウン塾を開校した。ブラウン塾は1877年開学の東京一致神学校を経て1887年開学の明治学院に発展した。→(ウィキ)

チャニング・ムーア・ウイリアムズ(Channing Moore Williams、中国語: 維廉、1829年7月18日-1910年12月2日)は、米国聖公会の宣教師。日本聖公会初代主教。サンフランシスコを出港し横浜を経由して上海に到着したウィリアムズは、休む暇もなく中国各地を視察した。そんなとき、日本で大政奉還が行われたことを聞きつけたため、大阪に居を移すことにし、川口居留地に建物を得、英語塾を開いた。呼び寄せた宣教師を迎えるため東京に伝道の拠点を移したウィリアムズは、1874年、築地居留地に立教学校を開く。婦人教育を行うことも必要だと考えたウィリアムズは、1872年に女学校を設立する構想を提示し、1877年にはブランシェーにより湯島に立教女学校が設立される。1882年、立教学校はジェームズ・ガーディナーを校長に迎え、立教大学校と名前を変える。→(ウィキ)

1871年11月12日(陰暦)ー岩倉使節団(津田梅子、山川捨松、永井繁子、吉松亮子、上田悌子・・・・・)は米国太平洋郵船会社(英語版)の蒸気船「アメリカ」号で横浜港を出発し、太平洋を一路カリフォルニア州 サンフランシスコに向った。その後アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、1872年3月3日、グラント大統領、アメリカを訪問した岩倉使節団と会見した。 アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。 使節団はキュナード社の蒸気船オリムパス号に乗船して、1872年8月17日にイギリスのリヴァプールに到着した。ロンドンから始まり、ブライトン、ポーツマス海軍基地、マンチェスターを経てスコットランドへ向かう。スコットランドではグラスゴー、エディンバラ、さらにはハイランド地方にまで足を延ばし、続いてイングランドに戻ってニューカッスル、ボルトン・アビー、ソルテア、ハリファクス、シェフィールド、チャッツワース・ハウス、バーミンガム、ウスター、チェスターなどを訪れて、再びロンドンに戻ってくる。1872年12月5日はウィンザー城ではヴィクトリア女王にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。
 ヨーロッパでの訪問国は、イギリス(4か月)、フランス(2か月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(3週間)、ロシア(2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの12か国に上る。帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)への訪問も行われたが、これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものとなった。 当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に、太平洋郵船の「ゴールデンエイジ」号で横浜港に帰着した。留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節帰国後に明治六年政変となった。
 元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。一国の政府のトップがこぞって国を離れ長期間外遊するというのは極めて異例なことだったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。




写真ー1878年(明治11年)10月ー太政官少書記久米邦武編修『特命全権大使米欧回覧実記』 御用刊行所 東京銀座四丁目 博聞社(所蔵・新城良一氏)・〇第7代アメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンの騎馬像ーアメリカ合衆国の軍人、政治家で、1812年の米英戦争のときのジャクソンがモデルになって1853年に建てられた、インディアン、アルカトラズ島も描かれている。

1871年ー西園寺公望は大村益次郎の推薦によって明治3年12月、官費でフランスに留学のために出国。フランス行きの船内では、地球が球体であることを得心したり、白人少年に別れのキスを求められて戸惑うといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。経由地であったアメリカではユリシーズ・グラント大統領と面会している。翌明治4年2月(1871年)にパリに到着した。 その間、後にフランスの首相となる8歳年上で急進党の政治家クレマンソーやレオン・ガンベタ、留学生仲間の中江兆民・松田正久・光妙寺三郎らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。→ウィキ

1874年、新島襄がアメリカでの修行と勉学を終えて帰国。故郷の群馬県安中に一時帰郷した。そこでアメリカ文化やキリスト教の話を若者たちにした。その中に16歳の湯浅半月も居た。1875年11月、新島襄は山本覚馬、J・D・ディヴィスと協力して「同志社英学校を」を設立した。1877年、半月は同志社に入学。1885年に渡米しオハイオ州オペリン大学神学科やエール大学で学んだ。1891年、帰国し直ちに母校同志社の教授。1899年に平安教会の牧師。1901年に新設の京都帝大法学部講師となり大学附属図書館事務にも従事した。


2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会
浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)は再度アメリカに帰った後は、文久2年3月2日(1862年3月31日)にブキャナンの次代の大統領エイブラハム・リンカーンと会見している。同年10月13日(12月4日)に再び日本に赴き、再び領事館通訳に職に就く。文久3年9月30日(1863年11月11日)に領事館通訳の職を再び辞め、外国人居留地で商売を始めた。翌元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。慶応4年8月7日(1868年9月22日)、18年ぶりに帰郷。明治2年(1869年)6月には大阪造幣局の創設に尽力した。その後は大蔵省に務めて国立銀行条例の編纂に関わったり茶の輸出、精米所経営などを行なった。明治30年(1897年)12月12日、心臓病の為東京の自宅にて61歳で死去。日本人に戻る法的根拠が無かったことから死後、外国人として青山の外国人墓地に葬られた。尚、国籍法が制定されたのは明治32年(1899年)のことであった。→(ウィキペディア)

1873年□ 1856年、チェンバレンは母親エライザ・ジェインの死によって母方の祖母とともにヴェルサイユに移住した。それ以前から英語とフランス語の両方で教育を受けていた。またフランスではドイツ語も学んだ。帰国し、オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した。1873年5月29日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌1874年から1882年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。1882年には古事記を完訳している(以下略)。前出の『チェンバレンの交友』には「日本を広く世界に紹介した人というと、ハーンをあげるものが多い。少し前ならシーボルト。ところが西洋ではシーボルトの次はチェンバレンである。」とし、友人としてサトウ公使、アストン、小泉八雲、門弟の和田万吉、岡倉由三郎(註)らとの交友を紹介している。

岡倉由三郎 生年慶応4年2月22日(1868年) 没年昭和11(1936)年10月31日 英語学者。天心の弟
出生地神奈川・横浜 学歴〔年〕東京帝大文科選科
経歴東大選科でチェンバレンに言語学を学ぶ。東京府立一中教諭、七高教授を経て明治29年嘉納治五郎校長の招きで東京高師教授。新村出らと「言語学雑誌」を発刊、35年から独、英に留学。大正15年に東京高師を退官するまで英語科の主任を務めた。その後、立教大学に奉職。開始当時のNHKラジオの英語講座では巧みな話し方で人気を集め、外国語教育、基礎英語の普及に大きな功績を残した。ヘボン式ローマ字の採用を主張したほか、昭和8年出版された「新英和大辞典」は岡倉辞典といわれ、一般に広く用いられた。→コトバンク
岡倉天心の長男の岡倉一雄は朝日新聞記者で、岡倉覚三の伝記をまとめた。孫(一雄の子)の岡倉古志郎は非同盟運動にも関わった国際政治学者、曾孫(古志郎の子)長男の岡倉徹志は中東研究者、玄孫(徹志の子)長男の岡倉禎志は写真家、玄孫(徹志の子)次男の岡倉宏志は人材開発コンサルタント、西洋史学者の岡倉登志は天心の曾孫にあたる。→ウィキペディア/ラングドン・ウォーナー(一八八一〜一九五五)は、ハーバード大学で考古学を専攻。卒業後、五浦で岡倉天心の薫陶を受け日本美術を研究。


明治12年7月 アメリカ前大統領グラント将軍(左から2人目)が日光満願寺(輪王寺)に滞在し、陽明門裏側にて撮影したもの。□国賓として日本を訪れた。グラントはアメリカ合衆国大統領経験者で、訪日を果たした初の人物でもある。浜離宮で明治天皇と会見した。増上寺で松を植樹、上野公園で檜を植樹した。また日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなった。

武藤山治1885年(明治18)より3年間、和田豊治、桑原虎治とともにアメリカに留学し、帰国後、佐久間から武藤に改姓。アメリカでは葉巻煙草製造工場の見習職工として、皿洗い・庭師・日雇い労働者として働いた。
1887年9月ー武藤山治『米國移住論』丸善商社書店□余我ガ國人ノ北米聯邦ニ移住スルノ利アルヲ信ズル事久シ。

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2019年1月17日、那覇市議会が「危険性除去へ普天間飛行場の運用停止を求める意見書」を採択しました。今年2月18日までの運用停止を明記した「閣議決定」の履行を求める内容です。

テニスの全米オープンは8日、女子シングルス決勝が行われ、第20シードの大坂なおみ(20=日清食品)が元世界1位で第17シードのセリーナ・ウィリアムズ(36=米国)と対戦。6―2、6―4のストレート勝ちを収め、日本選手として初の4大大会制覇を果たした。(スポニチアネックス)□最近は国技といわれている相撲でも外人力士や、サッカーでも外人監督にオランダ、ブラジル、フランス人などがいて珍しくもない。この国では韓国・朝鮮人は飛鳥時代からいたので「在日」という言葉は戦後からだろう。最近、コンビニや、自転車に乗っている「アジア系の店員さん」を多く見かけるのが日常になっている。

沖縄県の翁長雄志(おなが・たけし)知事の訃報を受けて、安室奈美恵さんが8月9日、公式サイトで追悼コメントを発表。《お悔やみ申し上げます》翁長知事の突然の訃報に大変驚いております。ご病気の事はニュースで拝見しており、県民栄誉賞の授賞式でお会いした際には、お痩せになられた印象がありました。今思えばあの時も、体調が優れなかったにも関わらず、私を気遣ってくださり、優しい言葉をかけてくださいました。沖縄の事を考え、沖縄の為に尽くしてこられた翁長知事のご遺志がこの先も受け継がれ、これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております。□その遺志を継ぐ玉城デニーの父は沖縄の米軍基地に駐留していた米兵。

「玉城デニー」大袈裟太郎(おだやか太郎)撮影 2018年9月9日、玉城氏は沖縄・うるま市地域交流センターで「玉城デニー ライブandトークショー」題したイベントを開催した。ここでは有権者とのクロストークや地元出身のシンガーソングライターの海勢頭豊(うみせどゆたか)さんによるパフォーマンスも行われた。


2015年10月11日 那覇大綱挽は外人だらけ。


2014年10月19日(日)<旗頭行列・那覇大綱挽 >国際通り、国道58号久茂地交差点
 タレントのジョン・カビラは父親・川平朝清とアメリカ人の母親・ワンダリー(Wandalee、旧姓Weaver、1929年3月10日 - 、アメリカ合衆国カンザス州ハーベイ郡出身、日本では調布市に在るアメリカンスクール・イン・ジャパン(ASIJ)の教師を務めていた)との間に生まれる。 また、元日本マクドナルドマーケティング本部長の川平謙慈、俳優・タレントの川平慈英は実弟(謙慈が長弟で慈英が次弟)。また、バプテストのクリスチャンである。 (ウィキ)
 ブラジルでは「混血に対する差別がない」「すべての人種は平等である」というスローガンによって国民の統合を図ろうとしており、これがブラジル国民のイデオロギーといえるまでになっている。「多くの人種の混合によって超人種とでもよべるような世界でもっともすばらしい人間をブラジルはつくりだした」という主張までなされている(木村秀雄)。


2016年10月26日 国際通り「世界のウチナーンチュ大会前夜祭パレード」

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写真/ 1934年2月ー那覇市内のムーチー

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1983年8月31日ー『琉球新報』新城栄徳「落ち穂『未病を治す』」
東洋医学を実践している病院で、調理師を8年やっていたので『素問』①とか『傷寒論』②という古典はある程度知っているつもりである。『素問』(もとのものを引き出すという意味)のなかに、黄帝が天師(岐伯)に「今時の人は50歳になると、よぼよぼしてくるのは何故か」と。
これに対し岐伯は「昔の人で道(宇宙自然の法則)を知っている人は、陰陽(自然環境としての変化)によく対応し術数(次々に連なり、おこってくる変化の順序法則)によく調和するように自分の行動を規制している。ところが今時の人は酒はガブガブ飲むし、生活のリズムも失っている。色欲にかられて自制もなく欲望のままに精根を使いはたしている。健康に生きてゆくためには一定の緊張が必要であり、節度が大切であるのに、こうしたことを知らないまま、その時その時の欲望のままに生活しているために、人生の本当の楽しみ、生きてゆく喜びを求めようとしない。これでは50そこそこで衰えるのは当たり前である」と答える。
病院の医師らが中心となって山紫水明の土地、名張市赤目に「赤目健康学園」を計画したのが1977年であった。しばらくして私も長男・江と「山の家」づくりに参加するようになった。東洋医学のなかに「身土不二」(その人の生活する土地でとれる食物を主に食べる)と、「一物全体」(生物である食物を丸ごと全部、不必要なアクぬき、皮むきをしない)という二つの原則があるが、赤目では農作業を通じて実践している。農業を行うことによって食物についての知識と考えを深めることができる。
増大する一方の医療費の抑制は一部の連中の主張するように自個負担を増やすという安易なケチな方法は考えるべきではない。予防と軽症のうちに生活・習慣を見直して治療するという古くて新しい方法をとるべきだ。しかも根本的にはこれしかない。

①『黄帝内経』(こうていだいけい、こうていだいきょう、こうていないけい、黄帝内剄)は、現存する中国最古の医学書と呼ばれている。古くは『鍼経』(しんきょう)9巻と『素問』(そもん)9巻があったとされているが、これら9巻本は散逸して現存せず、現在は王冰(おうひょう)の編纂した『素問』と『霊枢』(れいすう)が元になったものが伝えられている。黄帝が岐伯(きはく)を始め幾人かの学者に日常の疑問を問うたところから『素問』と呼ばれ、問答形式で記述されている。『霊枢』は『鍼経』の別名とされ、『素問』が基礎理論とすると、『霊枢』は実践的、技術的に記述されている。 →ウィキ

②3世紀の初めに長沙(湖南省)の太守(知事)であった張仲景が記したとされている『傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)』は、古来より散逸と発見を繰り返し、現在では、2部に分かれ、傷寒(急性熱性病)については『傷寒論(しょうかんろん)』、雑病(慢性病)については『金匱要略(きんきようりゃく)』として伝わった。『傷寒論』では、傷寒の病態を三陰三陽(六病位)と呼ばれる6つのステージに分け、それぞれの病期の病態と、適応処方を記している。『金匱要略』では慢性病の治法を論じ、その中には循環器障害、呼吸器障害、泌尿器障害、消化器障害、皮膚科疾患、婦人科疾患から精神疾患までの疾病が含まれている。なお、現在、中医学では『傷寒論』の六病論を経絡と結びつけ、六経説としてとらえている。 『神農本草経』、『黄帝内経』とともに中国医学における三大古典の1つに数えられる。(2007.10.11 掲載) →日本薬学会

1997年5月ー三谷和合『続保険歳時記』木津川厚生会
□念仏踊は、夏季、お盆を中心に災厄退散、また亡魂鎮送のため、太鼓、鉦を打ちならしながら、踊躍歓喜する踊りの総称です。念仏を口中に唱えながら踊ることから、この名があります。
平安時代、空也上人が念仏の功徳を庶民に知らせる方便として始められたのが起源といわれています。しかし、踊りの形態に仏教的な雰囲気は全くなく、基本的には在来からあった原始宗教的な行動を示したものといえます。つまり、古くから行われていた村々の祭の行動に、念仏信仰が加わったものです。

□私が勤めていた病院の三谷和合院長は「漢方の正しい健康保険の適用をすすめる準備会」の丸山博会長、相沢秀一副会長らと親しく一緒に運動していた。丸山会長は桜沢如一を師と仰ぎ衛生学を専攻。相沢副会長は京大で河上肇に学んだ最後の学生で、大阪市大、立命館大、大阪経済法科大の教授を歴任。

○WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、次のように定義しています。
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. 健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが 満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)

より健康な生活を
石塚左玄、桜澤如一、丸山博、三谷和合らに共通するのは「未病を治す」ということで、現実を把握し予防医学の重要性を説いている。丸山は「現在の社会体制の中において、いわゆる西洋医学が一体どういう生き方をしておるかという事を、私たちは日常知っているわけです。そして医療の形態が、大変お金がかかるようになっております。そして、お金は私たちの不健康、不幸の上におとされているわけです。何故それを防ぐ事の方に使われないのだろうか。病気になってしまうまで、病人たちを作りだす原因を放っておいて、病気になった人たちだけを問題にする医療、ここに問題がある」と1978年2月の民族医学講演会で述べている。
○大阪も沖縄も、官僚・タレント知事の流れが今も続いているが、水面下では世界と連携する革新勢力もマグマとなって渦巻いている。人間は「より健康的な生活」を希求している。ましてや子孫の世代もそうありたいと思っている。東北の母親たちの怒りが文部省の放射能対策を撤回させたように。健康破壊の諸悪の根源・原発や核の傘は廃棄すべきものだ(ただちに廃棄と云っていない)。「食は命なり」で知られる桜澤如一は『食養学原論』(1928年)で「西瓜に赤いインキを注射し、梅ぼし、紅生姜に色をつけ、漬物にも色をつけ、煮豆にはサッカリンを用いマグロは遠洋もの、カツオ節はメキシコの舶来、シュークリーム、ビスケ、その他洋菓子には支那玉子や貯蔵卵を平気で用いています。全く恐ろしい世の中です」と述べている。昔から官僚が運用している法律は不備だらけであることが分かる。
○2011年9月8日『しんぶん赤旗』□在日米軍の兵士や軍属らが引き起こした事件・事故が、1952年度から2010年度までに21万件近くにもおよび、日本人の死者は1088人にのぼっていることが7日までに明らかになりました。昨年も死亡事故を含め573件発生します。現行の日米安保条約の原型である旧安保条約の調印(1951年)から8日で60年を迎えますが、現在でも米軍による犯罪・事故が後をたちません。→米軍の犯罪・事件・事故についての琉球新報記事一覧
○知人の名護宏英氏(劇作家)、仲宗根幸市氏(民謡・民俗研究家)が相次いで交通事故で亡くなった。□交通事故の死者数は、昭和27年に4,000人台となってから、以降年々増加し、昭和45年には16,765人と過去最多を記録しました。それ以降減少し、昭和51年には1万人を下回りましたが、昭和63年には再び1万人を上回りましたしかし平成8年には9年振りに1万人を下回り、平成14年には過去最多であった昭和45年の死者数の半減を達成しました。その後、平成15年には7,000人台に、平成19年には5,000人台になり、平成21年以降4,000人台となっています。【平成26年中の交通事故死者数の特徴】1日平均の死者数は11.27人で、2時間08分に1人が交通事故で死亡しています。死者数の多い都道府県は、愛知県の204人、神奈川の185人、千葉県及び兵庫県の182人、埼玉県の173人などでした。反対に死者数が最も少ない都道府県は、島根県の26人、徳島県の31人、鳥取県の34人、沖縄県の36人、秋田県の37人などでした。→全日本交通安全協会
CNN2016-2-10○ 米国人の平均寿命が他の先進国の国民よりも低いことが、このほど調査結果から明らかになった。早死にする原因として薬物や銃の使用、頻発する自動車事故などが挙げられている。→日本人の主な死因の死亡数は、第1位悪性新生物 37 万人、第2位心疾患 19 万 9000 人、 第3位肺炎 12 万 3000 人、第4位脳血管疾患 11 万 3000 人と推計される(厚生労働省2016-1)。日本の自殺率は、世界的に見ても高い水準にあります。OECD諸国の中では第2位、G8の中では日本の自殺率はロシアに続き第2位 となっています。これは、アメリカの2倍、イタリアやイギリスの3倍という数値です。WHOの発表でも、日本の自殺率は先進国の中で トップクラスだという報告があります。→自殺者統計|自殺対策支援センターライフリンク


□私は『近代社会運動人物大事典』に銘苅正太郎について「1904年に医師免許を得て福島県や山梨県の病院勤務をへて、16年に東京市麻布に耳鼻咽喉科「長生医院」を開業、医院名は親交があった後藤新平が付けた。医院経営が安定すると「ソテツ地獄」で苦しむ故郷伊是名島や沖縄のために援助活動をつづけた。正太郎は「沖縄の貧困は地理的条件に左右されている」といい、長男の進は「社会が変われば沖縄も変わる」といった。進は戦後、全国最初の民主診療所である東京自由病院の初代院長をつとめた」と記した。

 2014年4月29日『琉球新報』の論壇に吉田朝啓氏が「都道府県立・沖縄市町村経営『海の家』ー健康リゾート観光推進」を投稿しておられる。末尾に「カジノや基地関連収入よりもはるかに健全で、自然保護と公衆衛生の理念にもかなう健康リゾート観光を進めてほしいと考える。軍事基地撤去を訴えるだけでは、日本国民は動かせない」と、尤もな正論である。沖縄の革新も反戦平和を唱えるだけでは半グレ国民には通用しない、と考えるべきだ。また沖縄の地元紙も日頃のヤマトでも発言しても通用する文化論を少なくし、こう云う建設的な沖縄ならでの提案を論壇で済まさず特集を組むべきだ。

2014年5月4日『沖縄タイムス』吉田朝啓「論壇ー健康長寿センター構想ー沖縄の貴重な経験 観光活用」
2014年12月20日『琉球新報』吉田朝啓「論壇ーたばこ病の弊害ー国・県は強力な禁煙対策を」

2019年1月6日『沖縄タイムス』吉田朝啓「寄稿ー基地拡大は愚 平和の拠点を」

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1932年 東恩納寛惇、年末までに首里侯爵邸に通い2000冊の文献を読破
1933年 東恩納寛惇、元旦に琉球音楽家の伊佐川、池宮城、太田、仲本の演奏を聞き、翌日は金武良仁の演奏を聞く。
1933年1月 『沖縄教育』第百九十八号<昭和会館落成記念>□島袋源一郎昭和会館主事「昭和会館の建設に際して」/西田直二郎「歴史と琉球の史蹟」/喜田貞吉「琉球民族の研究に就いて」/島袋全発沖縄県立第二高女校長「おもろさうしの読方」/宮里正光「国語読本に現れた古事記の神話及伝説」
1933年1月23日 東恩納寛惇、箱根丸で横浜港出港。
1933年2月 『沖縄教育』第百九十九号<郷土史特集号>
1933年8月16日 東京美術学校講師鎌倉芳太郎、教育参考館見学
1933年8月128日 昭和会館で謝花昇に関する座談会開く
1934年4月27日 昭和会館で沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し沖縄郷土協会発足
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1934年7月30日 沖縄郷土協会評議員会(昭和会館)、郷土博物館の建設とペルリ提督上陸記念碑建設のため県下から2万円の募集を協議。
1934年12月 島袋源一郎『林政八書』沖縄郷土協会/沖縄書籍株式会社
1935年3月11日 三重城金比羅宮鎮座奉祝祭並竣工式 
1935年5月13日 沖縄MTL(MISSION.TO.LEPERS)結成。
□青木恵哉の話で那覇東町救世軍の花城武男大尉が、救らいに関心が深い日本キリスト教会の服部団次郎牧師、那覇日基の野町牧師、那覇メソジスト教会の北村健司牧師、首里パプテスト教会の照屋寛範牧師などに呼びかけ運動を開始。沖縄MTLが結成された。理事長にクリスチャンで沖縄教育界の重鎮、島袋源一郎が就任した。→川平朝申『沖縄庶民史』月刊沖縄社
1935年8月 『沖縄教育』第228号 島袋源一郎「教育参考館施設の経路」(1)
1935年9月14日 井上友一郎、昭和会館参観
1935年9月25日 尚文子、昭和会館参観
1935年10月 『沖縄教育』第230号 
□教育参考館資料目録二 金石文拓本の部
安國山樹花記、真珠湊碑、國王頌徳碑、万歳嶺記、官松嶺記、円覚禅寺記、頌徳植樹碑、松尾碑文、大道松尾碑文、下馬碑、一翁寧公碑、新築石垣記、やらざ森城碑、浦添城碑、太平橋、廣徳寺親方碑、極楽山碑、津嘉山森墓、王舅達魯金大人、本覚山墓碑、毛國鼎墓、菊隠和尚墓碑、池城墓、金剛嶺、津屋口墓、
1935年10月30日 安部金剛、昭和会館参観
1935年11月 『沖縄教育』第231号(表紙・島袋寛平) 「教育参考館資料目録五 染織工の部」
1935年12月6日 昭和会館で藤山一郎独唱会
1935年12月20日 島袋源一郎、折口信夫を案内して首里へ

11月19日
1936年1月 『沖縄教育』第233号 「教育参考館資料目録六 漆器及家具の部」
1936年3月17日 岡田弥一郎博士、昭和会館参観
1936年3月18日 京都市檀王法林寺信ケ原良哉住職、昭和会館参観/島袋源一郎、世持神社の用件で台中丸で上京。
1936年2月 『沖縄教育』第235号(表紙・宮平清一) 「教育参考館資料目録八 陶磁器之部」
1936年3月ー沖縄県『史蹟名勝天然記念物一覧』を発行した。
1936年4月 『沖縄教育』第236号(表紙・中川伊作)
1936年4月10日 仲吉朝宏、教育参考館幹事
      4月ー那覇市公会堂で「南島美術展」
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5月ー東京で折口信夫斡旋の「琉球古典芸能大会」開かれる。写真ー3列目右から島袋源一郎、金武良章、伊波普猷、親泊興照(雅叙園で)
1936年5月30日・31日ー折口信夫の斡旋で「琉球古典芸能大会」日本青年館
1936年6月1日ー日本民俗協会『日本民俗』第12号□解説ー折口信夫「組踊りの話」、伊波普猷「組踊りの独自性」、東恩納寛惇「台詞・隈・服装」、比嘉春潮「琉球の村芝居」、小寺融吉「舞踊を観る人に」/島袋全発「てきすと」ー昔楽、舞踊、組踊「執心鐘入、二童敵討、銘刈子、花売の縁
1936年6月11日 沖縄の新聞□帝都の芸術家達、沖縄に憧るー東京で催された琉球芸能団一行の監督として上京中だった沖縄県教育会主事島袋源一郎氏は昨日帰県、未曽有の感激を帝都の人士に与えた帝都公演の模様を左の如く語った。 私共は初め難しい本県の古典芸術を東京の人士が分かってくれるか何うか非常に危く思った、然しながら二日間4回に亘っての上演の結果は大変な盛況で而も東都に於ける芸能界は勿論、学術、音楽、美術等、凡ゆる文化層の人々に予想外の人気を以て迎えられ非常な反響を与えたのであった。琉球芸能を通じて古琉球の文化を紹介し併せて沖縄県を新しく認識せしめたのは今回の最も大きな成果である、私共は主催者たる民族協会や、資金を提出して下さった、文化聯盟の松本學氏並びに凡ての斡旋に努めて下さった折口信夫博士に心からなる感謝の辞を送らなければならない。
公演が終わってから雅叙園で在京県人有志により一行に対す感謝の会が催されたが、伊江朝助男の開会の挨拶ののち伊波普猷氏やその他の人々から大大次のような感想が述べられた。我々は沖縄県人として是まで何ものも誇るものはなかったが今回の公演によって帝都に於いても誇るに足る琉球芸能を紹介し今後は県人として肩身の狭い思いをしなくてすむようになった。
又東京では琉球の団十郎が来たというので本家の市川三升及び奥さんの市川翠扇(団十郎の娘)さん等は揃って観劇にきたが幕間に楽屋へきて衣服、調度、髪飾り等を熱心に手にとってみるという程であった。その他美術界のそうそう藤島武二、岡田三郎助氏其他4,5名の方々がきて若衆踊や女踊をスケッチしたりした。そしてこれまで沖縄を忘れていたのは残念である是非近い中に遊びにいきたいと話していた。それからこの様な立派な芸術を育てて下さったのは尚侯爵家御祖先の賜物であると一同、侯爵家へ挨拶に上り御礼を申し述べた。
1936年6月13日 沖縄県教育会主催「山田耕作講演会」
1936年6月22日 参考館参考品、首里城北殿に移転
1936年7月ー沖縄県教育会『沖縄教育』№239□島袋盛敏「琉球芸能感想記」、上間正敏「古典芸能帝都公演に就て」
1936年7月4日、首里城北殿内に郷土博物館が開館。沖縄県教育会と沖縄郷土協会のコンビにより往時の荘厳な姿を再現した由緒ある首里城内北殿は本県唯一の郷土博物館としてまた首里市の新名物として輝かしく誕生し午後5時から隣接の首里第一小学校に於いてその落成式・開館式は島袋源一郎の挨拶ではじまった。来賓として県より清水谷総務部長、平山裁判所長、古思司令官、金城那覇市長ら官民3百名が列席。祝電ー東恩納寛惇「新シキ力ハ古キ栄ヨリ生レン 遥ニ祝ス」/伊波普猷「開館ヲ祝ス」/下地玄信「県ノ為メ偉大ナル功績ヲタタエ御盛典ヲ祝ス」
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1936年7月4日 沖縄県教育会附設博物館落成・開館式。1936年8月 『沖縄教育』第240号<博物館開館紀念> 仲吉朝宏「開館するまで」「雲海空青録」/「沖縄郷土博物館資料紹介(1)皇室御関係の御宝物 (2)古琉球の漆器」
沖縄県教育会附属「郷土博物館」が開館。所蔵目録□漆器之部ー螺鈿/硯屏(文房具衝立)琉球国王御愛用の品、食籠(方言クイチクン)聞得大君御使用品、食籠(台付)郷土協会出陳、料紙文庫、五段御重箱、御菓子皿(薔薇模様入大皿)、御菓子器(支那製厚貝象)、鏡台、茶盆、香箱、印籠(山水図案)、印籠(山水寿老人)、印籠(梅花)、三方(唐草模様)、煙草盆、御椀(冊封使歓待様、伊江男爵寄贈)、御酒盃台。堆錦/中央卓(郷土協会出陳)、料紙文庫、四段御重(流水に桜花模様)、四段御重(水に貝)、東道盆、印籠(山水朱塗)、印籠(獅子黒塗)、菓子器(海草に金魚の図案)。沈金/料紙文庫、御徳盆・御米盤(祭祀用、元侯爵家御蔵品)、御米盤(かつぎ御米盤、玉貫瓶一対外箱共)、御椀、菓子器(六角形)、サシクイー(小道具入)、朱塗(菜飯ゆつぎ用)、毛彫沈金(名工新垣の作)。蒔絵/印籠(山水)、木盃(金蒔絵)、硯蓋、四段御重(草花に轎車)、四段御重(唐子絵山水)、四段御米盆(唐草模様)、大型四段御重(琉球蒔絵)、東道盆(支那製箔絵)、香箱(唐子絵、唐草模様)、弁当(亀甲紋)、弁当(山水、唐子絵)、弁当(山水、外間カメ子寄贈)、小道具箱(女持、支那製唐子絵)、御盆(長方形、支那製唐子絵)、東道盆、野弁当、折盆(三方、支那製唐子絵、唐草金模様入)、御酒盃台
□図表之部
喜屋武村古地図、島尻郡村図、大日本全図、台湾地図、幕府時代学校図、薩摩琉球古地図、支那全図、北京城内図、鍼灸図解、日本城閣の図、旧藩生理巻物、旧藩庭作手本、旧藩弓術手本、琉球歴代対照表(歴代王統表)、治家捷経(蔡温著作表解)、那覇泉崎古地図、石鼓山全景、唐船設計図、接貢船設計図

1936年7月18日 中村清二、首里市見物。北殿の郷土博物館見学「宜湾朝保短冊、天王寺仏壇の抽戸の彫刻、野外遊楽用の携帯道具、燭火を反射する目的の凹面鏡、古陶器、官吏の冠及び帕、婦人の衣裳、紅型染め標本、漏刻などを見る。/7月26日、一行は集合地たる波上神社鳥居際で同所からバスに乗って午前8時出発した。同行は新垣氏の外に谷本氏と沖縄教育会主事の島袋源一郎氏と工業指導所の窯業部の鈴木利平氏と余と其他の人と併せて一行9人であった。→1947年1月 中村清二『硬と軟』要書房
1936年8月28日、昭和会館で沖縄観光協会の設立協議会も島袋源一郎の挨拶ではじまった。観光協会の会長に那覇市長が就任した。協会趣意書に「空にはダグラス機が就航しました。福岡台湾は勿論東京、大阪、朝鮮、満州からも沖縄に一と飛びに行ける便利な時代になりました。海には大阪商船の新造船が愈々来春から配船せられ大阪那覇間の航程が三日に短縮されようとしています。空に飛行機、海に優秀船、陸に無線電話があれば沖縄ほど旅行の好適地は他になかろうと思われます」とある。
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1936年9月ー日本民俗協会『日本民俗』第14号□琉球古典芸能を語るー伊波普猷、伊原宇三郎、片山春帆、佐藤惣之助、坂本雪鳥、清水和歌、谷川徹三、鳥居言人、中山晋平、昇曙夢、比嘉春潮、松本亀松、塩入亀輔
1936年10月ー日本民俗協会『日本民俗』第15号□琉球の古典芸能を語るー伊波普猷、比嘉春潮、塩入亀輔、中山晋平
1936年10月16日 昭和会館で「山崎延吉農事講習会」
1936年11月ー日本民俗協会『日本民俗』第16号□琉球の古典芸能を語るー坂本雪鳥、松本亀松、谷川徹三、清水和歌、昇曙夢、原田佳明、伊原宇三郎、片山春帆
1936年12月ー日本民俗協会『日本民俗』第17号□琉球の古典芸能を語るー鳥居言人、松本亀松、片山春帆、伊波普猷、比嘉春潮、北野博美、折口信夫、小寺融吉、西角井正慶
1936年12月25日 昭和会館で「空手道振興協会発会式」
1937年2月  沖縄空手道振興協会(昭和会館内)会長ー蔵重久知事、副会長ー古思了聯隊区司令官陸軍大佐、副会長ー金城紀光那覇市長、総務部長ー平野薫学務部長、宣伝部長ー島袋源一郎教育会主事、指導部長ー屋部憲通
1937年3月5日 比嘉朝健、郷土博物館に来館
1937年3月19日 『大阪朝日新聞』「日本最初の聖書 ベッテルハイム琉球語バイブル写本 アメリカの宣教師ブール氏から沖縄県教育会主事島袋源一郎氏に贈られた。早速県立図書館の珍書として所蔵」
1937年4月27日、午後7時入港の首里丸でベッテルハイム孫ベス・プラット夫人がルーズベルト米大統領の親書を持参来沖。宝来館で休息、波上宮参拝、護国寺、善興堂病院を訪問。午後は金城那覇市長を訪問、又吉康和の案内で泊の仲地紀晃宅、天久寺、外人墓地。/5月2日、金城那覇市長公舎で晩餐会、来賓として北村、阿嘉、野町の3牧師、山田有登、島袋源一郎、屋冨祖徳次郎、親泊政博ら。、プラット夫人作の油絵「ベッテルハイム像」を那覇市に贈呈。
1937年4月28日~30日 昭和会館で「袋中上人、尚寧王、儀間真常顕彰展覧会」
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1937年  沖縄MTLのメンバーの愛楽園敷地視察ー写真左から当山正堅、4人目・當間重剛、山田有登、島袋源一郎、8人目・野町牧師
1937年11月3日 粟国校二宮尊徳像銅像除幕式
1937年11月4日  那覇尋常高「河村只雄講演会」
1937年11月10日 島袋源一郎、世持神社鎮座祭出席
1937年11月7日  首里市図書館開館式、島袋源一郎参列
1937年11月17日 昭和会館で「トラウツ博士、二見孝平、下地玄信講演会」  

1938年8月下旬 沖縄県衛生課撮影「屋我地癩療養所 愛楽園全景」 
1939年4月11日~13日 昭和会館で琉球新報主催「琉球民芸品展」


1939年8月5日

1939年8月「首里城南殿で沖縄郷土協会主催『三線祭』」

1939年8月6日『琉球新報』「永久に郷土の藝術に甦れ 名器『與那』迎え三線祭/沖縄郷土協会の主催で5日午後2時から首里城南殿において神式による本県初めての三線祭が執行された」「三線名器を6日から3日間、郷土博物館で展示」「後世に伝える『三絃宝鑑』計画」

1939年9月24日『琉球新報』東恩納寛惇「故山点描(6)三線祭」

〇2019年2月、沖縄県立博物館に行くと、久部良さんが東恩納寛惇の子息らの写真を見せてくれた。子息の洋氏は故人、夫人の文江さん、孫の裕一さんはアーティストとしてネットにも登場している。

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