高野山
null null null
2021-7-25 こうたろう、父母、祖母と高野山で遊ぶ

1975年10月26日ー親子で高野山参詣


null
高野山大門前のヨチヨチ歩きの息子

南方熊楠が土宜法竜高野山管長に再会するのも目的の一つで1920年8月23日に、粘菌研究家の小畔四郎、画家の川島草堂、坂口総一郎らと高野山に登った。熊楠と法竜との出会いは、1893年にさかのぼる。法竜が真言宗の代表としてシカゴの万国宗教大会に出席した。大会後、法竜はパリのギメー博物館の招きに応じ、同館の仏教資料調査にために渡仏の途中にロンドンで熊楠に会った。それ以来書簡の往復を重ねた。

南方熊楠が履歴書の中に法竜を「この法主は伊勢辺のよほどの貧人の子にて僧侶となりしのち、慶応義塾に入り、洋学をのぞき、僧中の改進派たりし。小生とロンドン正金銀行故中井芳楠氏の宅で初めて面会して、旧識のごとく一生文通を絶たざりし。弘法流の書をよくし、弘法以後の名筆といわれたり」と記した。熊楠の法竜宛の書簡でよく知られているのが次ぎの文言である。

南方熊楠「無尽無究の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を、たとえば顕微鏡一台買うてだに一生見て楽しむところ尽きず」「今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みあるが)、縁が分からぬ。この縁を研究するがわれわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり。ついでに申す。『傳子』という晋ごろの書に、宇は空間、宙は時間に恰当の解あり。わが邦の訳者、この二字を用いざりしは遺憾なり」

□平成17年12月『貝寄風』通巻258号
新城栄徳「琉球の風ー(略)私と熊野との関係を述べる。1964年4月、私は集団就職で白雲丸に乗船し那覇港から上京。途中、暴風で船は和歌山の串本に避難したのが熊野との出会いである。熊野そのものの熊楠、その熊楠が書いた文から私は麦門冬・末吉安恭を日比谷図書館で知ることになる。69年2月に南方熊楠記念館を訪ねる。この年の夏、京都の料理屋の慰安旅行で紀伊勝浦で遊び熊野那智大社を参拝。75年10月、満一歳の息子(江)を連れ高野山(金剛峰寺)に遊んだ。1993年9月、新宮市を訪ね、徐福の墓、神倉神社、佐藤春夫記念館は休館だった。熊野速玉大社を参拝。新宮図書館で熊野特集『熊野誌』37号を入手、中瀬喜陽さんは「南方熊楠・母すみの日記」を書かれていた。旧知の元沖縄都ホテル社長で熊野人の桑原守也さんが「私の熊野ショックー古道・熊楠・沖縄」と題し「南西諸島の島々に熊野分社が10社もあるのは潮流による文化の交流によるためであろうが、那智からの渡海上人といわれた日秀上人は琉球王朝の帰依をうけ又、京都三条駅前の法林寺の住職となった袋中上人は、有名な琉球神道記を残している。浄土宗の流布がこの地に熊野信仰を広めたものであろう」と書かれている。桑原さんとは近鉄資料室、袋中上人の墓、京都の古書展などに同行したが、今は亡い。
佐藤春夫記念館□佐藤春夫は、明治25年(1892年)、現在の新宮市に生まれました。代表作「殉情詩集」「秋刀魚の歌」はじめ、あらゆるジャンルにわたる著作を遺しています。熊野速玉大社境内にある記念館は、昭和2年(1927年)に西村伊作の弟、大石七分の設計で建てられた佐藤春夫の邸宅を移築したもので、自筆原稿や生活用具等が展示されています。

nullnullnull
中の橋ー橋畔に汗かき地蔵、姿見の井戸。橋を渡っていくと与謝野晶子歌碑「やわはだのあつき血潮にふれもみで さびしからずや道を説く君」、山口誓子句碑、芭蕉句碑「父母のしきりにこひし雉子の声」、高浜虚子句碑

» Read More