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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。

□ハンナ博士プロフィール
学歴ー1932年 ウースターカレッジで文学士修得/1937年 オハイオ州立大学で文学修士修得/1940年 ミシガン大学で英文学博士号修得/コロラド大学U.S.海軍日本語学校/コロンビア大学U.S.海軍学校/ワシントンD.C.国家軍事大学1953年卒業生

職歴ー1932-36年 中国 上海 杭州で英語教諭 ミシガン大学で英文学教諭/1940-41年 ミシガン州立ノーマルカレッジ(現サザーンミシガン大学)で英文学教諭/1942-46年 U.S.海軍/1945-46年 海軍教育部長(沖縄民政官として赴任)/1946-54年 U.S.国務省 マニラ文化担当調整官 /1947-52年 ジャカルタ広報部部長/1953-54年 東京広報部部長/1954-76年 (American Universitie’s Fields Staff)東南アジア専門委員会 ジャカルタ、シンガポール、マレーシア、ホンコンを基地に時事問題についての報告書を作成。また3年ごとに会員の大学で講義をおこなう。 1976年退職。その後数年間、AUFSの特別な仕事を続ける。結婚は1953年である。

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金城安太郎氏とハンナ博士御夫妻

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右から新城栄徳、金城安太郎氏、ハンナ博士

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

写真右から上間常道氏、松島弘明氏、比嘉政夫氏、伊佐真一氏

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写真左から比嘉政夫氏、新城栄徳

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『琉球新報』2009年4月14日
比嘉政夫氏が死去 08年に東恩納寛惇賞         
 門中研究や村落祭祀(さいし)など沖縄・アジアの社会人類学的研究に取り組み、2008年2月に琉球新報社主催の第25回東恩納寛惇賞を受賞した比嘉政夫氏が13日深夜、入院先の病院で死去した。72歳。告別式の日程などは未定。
 比嘉氏は門中と親族に関する研究をはじめ、村落祭祀の研究や、信仰体系の研究など多岐にわたる沖縄研究の成果を蓄積した。沖縄各地にある綱引きや沖縄島北部のウンジャミなどの調査研究を基に、神観念や世界観、他界観について独自の見解を提示した。調査対象は沖縄、中国、タイ、韓国など広く、沖縄とアジアとの「比較民俗学」の方法論については、先駆的役割を果たした。沖縄大学地域研究所長などを務めた。


Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
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1972年6月『建築評論』<沖縄海洋博の証言>建築評論社(大阪市西区北堀江通1)

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
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上は與清の短冊/『松屋筆記』/高田早苗述『半峰昔ばなし』(顔写真は編集した薄田斬雲)

小山田与清【おやまだ・ともきよ】.
生年: 天明3.3.17 (1783.4.18)
没年: 弘化4.3.25 (1847.5.9)
江戸後期の国学者,文人。初名は貴長,通称寅之助,高田家を継いでからは名を与清,通称を庄次郎,茂右衛門などに改めた。晩年は将曹と称した。字は文儒,号は松屋,擁書倉,知非斎などを用いた。武蔵国多摩郡小山田村(東京都町田市)の郷士田中本孝と稲の子。24歳で見沼川の運漕主事高田与成の養子となり,神田花房町の通船屋敷に居住。享和1(1801)年に江戸派国学の領袖村田春海に入門して以来,歌文と古典注釈にいそしみ,文化8(1811)年,師亡きあとは,清水浜臣,岸本由豆流と共に江戸国学の指導的な立場にいた。豊富な財産と幅広い交友に支えられた考証生活は春海に似る一方,人となり穏やかでない面もあって,浜臣との確執,山東京伝を憤怒させ死に至らしめた噂など,文壇に好話柄を提供した。蔵書すこぶる多く,その閲覧を同志に許した。天保2(1831)年の評判書『しりうごと』に登場すること自体,知名度の証しではあるが,「書きあらはすものども,ことごとく愚人をわが博覧の舟にのせて,漕ぎ賃をおほく得んと欲する卑劣心が見えて」云々と,その点数は辛い。周辺の事情をふんだんに盛り込んだ考証随筆『松屋叢話』『擁書漫筆』などや『擁書楼日記』は著名。著作の概要は,59点を集成した『松屋叢書』(写本30冊,国立国会図書館蔵)にうかがえる。 (→コトバンク)

たかたさなえ【高田早苗】
1860‐1938(万延1‐昭和13)
明治・大正・昭和期の教育者,政治家。江戸深川の生れ。1881年東大文学部在学中に小野梓と知り合い,改進党結成に参加。翌年卒業とともに東京専門学校(現,早稲田大学)創立に参画して同校の多くの講座を担当する。90年議会開設にともない衆議院議員となり通算6回当選。大隈重信をたすけて第2次大隈内閣の文相となり,1915年貴族院議員に勅選される。1900年東京専門学校学監,07年早稲田大学学長に就任,17年早稲田騒動で一時大学から引退するが,大隈没後には総長に就任,大学経営に力を注いだ。(→コトバンク)

1927年ー高田早苗述『半峰昔ばなし』早稲田大学出版部
□私は紐育から華府へ行き、珍田全権大使から種々配慮を受け、又大使自ら紹介されて白堊館にウィルソン大統領を訪れたのである。ウードロー・ウィルソン君は、其人がまだジョンス・ホプキンス大学の一教授であった時代に著した、コングレショナル・ガヴーメントという書物に依て、私は始めて其名を知り、又其所説に感服した次第である。そんなことから、私はウィルソン君が”The State”という書を著した時、其の同意を得てそれを翻訳した事がある。然ういう関係から私は両3度手紙を交換した事があったので、今度米国へ来た序に面会して見ると、能く私の事を覚えて居て、「貴君は政治家から教育家になったが、私は教育家から政治家になった」なぞという打解けた話をし、且つ日本に対して自分及び米国が好意を表して居る事を懇ろに説かれたのであった。


04/11: 日置昌一

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
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日置昌一 ひおき-しょういち
1904-1960 大正-昭和時代の日本文化史研究家。
明治37年10月27日生まれ。小学校卒業後東京にでてはたらきながら,17年間上野の帝国図書館にかよいつづけて膨大な書物を読破。その博覧強記ぶりから「ものしり博士」といわれ,「国史大年表」「日本系譜綜覧」「ものしり事典」などおおくの著書を刊行。昭和35年6月9日死去。55歳。岐阜県出身。(→コトバンク)

04/10: 古川成美

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1967年12月 古川成美『太平洋戦記・沖縄の最後』河出書房
□沖縄戦に戦って、まったくふしぎな生命をえた私にとって、祖国の人びとになにをおいても告げねばならぬことが三つあった。第一は、私が身をもって体験した戦いの真相を本土の人びとに伝え、戦友の最後を遺族のかたがたに報告すること。第二は、本土の身代わりとなってくれた沖縄、10万の将兵がそこで戦った沖縄のことを本土の人びとに理解してもらうこと。第三に、アメリカ人に関することで、死屍にひとしい私を救出し、ていねいな処遇と治療を加えてくれた米国第七師団の兵士たちをはじめとして、私の接した米国人は、いずれも人間的で親切で、公正であり、私はその心の豊かさに頭がさがった。 

日本は兵器の面、物量の面で米軍に敗れただけでなく、心の豊かさの面でもひけをとったと、私はそのとき痛感した。アメリカ人に対する認識を改めるとともに、日本人の世界観、人生観には外から強いられた偏狭さのあることをともに反省せねばならぬと思った。この目的を果たすため、私は昭和22年旧版『沖縄の最後』を出版した。

戦いの直後で、用紙をはじめ、検閲の問題などすべて不自由な時期ではあったが、さいわいに遺族のかたがたをはじめ多くの共感をえて、この書物は輸出されて海外の同胞にまで読まれるに至った。またこの書物が機縁となって、昭和24年には、沖縄第32軍高級参謀、元大佐八原博通氏よりまことに貴重な1000枚におよぶ手記の提供を受け、これを根本資料として、沖縄戦全般について詳述した『死生の門』を出版した。

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
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山田實・撮影

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山田實・撮影


きむらいへえ【木村伊兵衛】
1901‐74(明治34‐昭和49)
戦前,戦後を通じて活躍した日本の代表的な写真家。東京下谷の出身で,京華商業卒業後,1920年台湾に渡り,同地で写真技術を習得した。24年帰国後,東京日暮里で写真館を開業するとともに,アマチュア写真クラブを組織して芸術写真の制作もはじめた。30年花王石鹼広告部に入社,生活感あふれる広告写真を撮影した。このころに35ミリフィルムを使用するライカA型カメラを自分の手足のように駆使することで,日常的な光景をスナップする独自の写真スタイルを確立している。(→コトバンク)

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