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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02


1979年9月『天地』反町茂雄「隻眼の蔵書家たち(下)B・H・チェンバレンの場合」



○天理市の天理図書館や天理参考館はよく行く好きな場所である。どちらも天理教の文化活動の拠点で、図書館の蔵書は150万冊以上で内国宝は6点もある。参考館は民博の先輩格で移民先の民族資料や沖縄コーナーもある。私はとくに「かんろだい」があるところでボーっと座るのが好い。

天理教教会本部

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
1939年7月 沖縄日報、松村実記者を中支・漢口へ特派
1940年1月 石川正通夫妻、来阪

1940年7月29日『沖縄日報』

1940年8月2日『沖縄日報』

1940年8月 関西泡盛販売業組合結成。組合長・嘉手納順吉、副組合長・金城南邦
          金城南邦、戎座で真楽座(大宜見小太郎)興行

この頃  真喜志康忠、来阪
1940年11月 大阪高島屋で「尚順男爵家御所蔵品展観」
1940年12月 宮城桃幸、沖縄県大阪物産斡旋所所長
1941年5月 宮良高夫、毎日新聞大阪本社・社会部(宝塚詰)
1942年4月 仲井眞元楷、琉球歌舞団主宰、戎座で公演
1944年月 大阪港区の浪花劇場で金城南邦一座、仲井眞元楷の琉球歌舞団合同公演  
1945年3月 大阪夜間大空襲ーB29約90機が約7万個の油脂焼夷弾投下で19区の大部分焼失、死者3115人/3月 ニミッツ元帥、海軍軍政府布令第1号(日本政府の沖縄への権限停止)/井伊文子夫妻、彦根に疎開/山口國雄、京都帝国大学法学部卒業

「1945年5月25日、沖縄新報の私たち一行は豊平良顕君、具志堅政冶君(妻子同伴)、前田宗信君に牧港篤三、大山一雄、稲嶺盛国、仲本政基、島袋俊一、与儀清三君らが加わって首里城から脱出した。(略)捕虜になるー私の知人で首里第一国民小学校の教頭だった座波嘉永氏が米軍の命令を受けて学校を開いていたので、これさいわいと頼み込んで豊平君を始め牧港、島袋俊一君らを教員に引きとってもらった。(略)沖縄タイムス創刊ー発行日の二日前に上間正諭、牧港篤三、大山一雄、仲本政基、稲嶺盛国、島袋俊一君らは編集の作業をすませた」。高嶺朝光『新聞五十年』(沖縄タイムス社1973年)

1945年10月 比嘉正子、鴻池主婦の会発足させ、主婦の店をつくり消費者運動の草分けとなった
1945年11月 尼崎中学校で尼崎沖縄人連盟結成大会/11月11日、東京丸の内の沖縄県事務所で          沖縄人連盟創立総会/11月26日、中之島公会堂で関西沖縄人連盟創立大会。代表・豊川忠進、兼島景毅、井之口政雄

1946年1月26日、中央大学講堂で沖縄学生会発足、会長・山川武正、評議員・上地栄、神村朝堅、 金城和彦
      1月28日、関西沖縄人連盟大会(尼崎難波自由市場内)徳田球一を招く。
      2月24日、日本共産党第五回党大会「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」
      3月、『関西沖縄新報』創刊
      4月1日、沖縄人連盟(沖縄大島人連盟)関西本部結成大会。会長・幸地長堅 副会長・翁長義隆、大江三子雄、大山朝繁、宮城清市、屋良朝陳
      4月、関西沖縄青年同盟結成大会。委員長・大湾宗英  顧問格・高安重正  執行部・屋良       朝光、山田義信、高良武勇
      8月4日、沖縄人連盟兵庫県本部結成大会。会長・大山朝繁  副会長・赤嶺嘉栄、安里嗣福、大城清蓮  書記長・上江洲久

空手の人物事典や上地流の本を見ると赤嶺嘉栄が出てくる。沖縄人連盟史関連にも名前が出てくる。その沖縄人連盟では赤嶺が中心となりヤクザ鴻池組系井上組に抗議している。また又吉世喜(1975年)や喜舎場朝信(1977年)の葬儀に、宮城嗣吉と共に友人代表のひとりに名をつらねている。また赤嶺の葬儀のとき友人代表のひとりとして東京の万年東一の名がある。万年は横井英樹銃撃事件で知られる安藤昇の親分である。
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写真ー赤嶺嘉栄
万年東一の名刺/安藤組組織図、上の方に万年東一の名がある。

1946年8月 沖縄人連盟兵庫県本部結成大会
1946年9月 大阪毎日会館で帰還惜別沖縄芸能公演ー真境名由康、金武良章、池宮城喜輝ら参加
1947年2月 大阪市文化会館で沖縄青年同盟結成大会

1951年8月 沖縄タイムス西部支局(松村実自宅)/琉球新報関西支局(塩浜政光の自宅)
 
1957年6月 『琉球新報』石野朝季「関西の沖縄地帯」/10月、『琉球新報』石野朝季「商都に生きる」(儀間比呂志、島晴美、宮城良浚、比嘉正子)
1959年2月 『琉球新報』石野朝季「大阪と那覇あまくま」(スケッチ・儀間比呂志)/沖縄タイムス鹿児島支局の」新川明記者、関西支社の島袋俊一記者と入れ替わり赴任。
1961年8月 津野創一、琉球新報関西支局に赴任



1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)
1960年1月 戦後初の大阪からの観光団52名、日航機をチャーターして来沖。団長・徳大寺実篤平安神宮宮司、蜷川虎三京都府知事から兼次那覇市長へのメッセージ朗読

1962年4月 石原昌家、入学で来阪
1966年12月8日『沖縄新報』創刊(編集発行・島袋俊一)

 1963年6月30日の『沖縄タイムス』に「関西の郷土地図」がある。3面にわたっての特集である。関西の住人大いに語るとして翁長良孝(淀川映画興行社長、羽地村出身)、比嘉正子(関西主婦蓮合会会長、首里出身)、宮城清市(大阪沖縄県人連合会会長、羽地村出身)、上江洲久(兵庫沖縄県人会会長、尼崎市会議会副議長、久米島出身)、伊差川寛(大正区沖縄県人会青年会長、大正区生まれ)が座談会に参加している。司会は沖縄タイムス関西支社長の松村実がつとめている。
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1963年6月30日『沖縄タイムス』「座談会・関西の住人 大いに語る」
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 1971年9月のある日、私たち「沖青友の会」会員は女性3人、男性4人で機関誌『石の声』八号のガリを徹夜で切っていた。変色した1963年6月3.0日の『沖縄タイムス』3面にわたっての特集「関西の郷土地図」を転載し、主張に「沖縄の禁断の書『さまよへる琉球人』の封を自ら、はがしたように、われわれは自らの心のヤミを見据えよう」と記した。そして偶然のことだが、ガリ切り作業をやっていた嘉陽宗博(沖青友の会会長)の間借り先の、その小さな部屋の番地は、大阪市港区市岡元町で、戦前の関西沖縄県人会本部の近くの番地であった。そして10月19日、佐藤首相が所信表明演説の最中の衆議院本会議場で、沖縄青年同盟3人が<沖縄返還協定粉砕>を叫びビラをまいた。これも「基地つき返還」にたいする当然の行為であったが、3人には裁判で前科がついた。今の沖縄の現状は青年たちの危惧したとおりアメリカ軍の無法状態が続いている。その後、沖縄青年たちは「ゆうなの会」を結成、1975年9月、川崎市鶴見区潮田公園で「第1会エイサーの夕べ」(真久田正のアイディア)を開催している。同月、大阪でも「がじゅまるの会」が大正区千島グラウンドで「第1回沖縄の青年の祭り エイサー」が開催された。


1972年5月15日 大阪沖縄県人会連合会主催「沖縄県日本復帰記念式典」大阪西区・厚生年金会館/当時の在阪新聞社の記事○『朝日新聞』「大阪 古典音楽など織り込み式典/兵庫 21日に身分証明書焼捨て」○『日本経済新聞』「黒田了一知事を突き飛ばすー反対叫ぶ 沖青友の会など」○「このあと黒田了一知事は『理想的な復帰ではなく(アメリカ基地付き)、私も複雑な気持ちだが、豊かで明るい平和な沖縄づくりに、みなさんと手をたずさえていきたい』と挨拶して引揚げた。若者たちは『デイゴの会』『沖青友の会』『関西沖縄差別問題研究会』の会員、『基地つきで、いつ戦争にまき込まれるか分からない復帰で行われた日を、歌や踊りで祝うべきではない』」□今のオキナワの現状を見通した青年(現・前期高齢者)たちの当然の行動であった。今はオキナワ現地でも「基地つき復帰」したことに不満を持つ若者も増え「独立」を唱えるものが増えている



 『石の声』10号を出して休刊した。この頃から、それぞれが結婚し、子育てに忙しく沖青友の会も役目を終える。1975年1月26日に、新たな関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」(会長・玉城利則)発足。大阪沖縄会館での発会式には、青年会のOBということで私も参加した。9月には機関誌『がじゅまる』が創刊された。歴史はくりかえかえすという事であろうか。

1982年7月 川上三郎『人生至るところ青山あり』関西図書出版/1986年2月19日 大阪『毎日新聞』「サムじいさんー川上三郎」

1983年2月 大正区地域振興会 沖縄研修視察旅行 桐山克己大正区長も参加

1984年4月 大城真栄『私の役員生活五十年』あゆみ写植印刷

1989年6月ー宮城清市『回想録 八十余年の歩み』

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左・大正区平尾にあった山口組内嘉陽組事務所。後に難波に移る・右「嘉陽総業」

1991年3月 『大阪春秋』第63号<特集 港区・大正区> □西口忠「大阪と沖縄」

 1994年に出た国吉真永『沖縄・ヤマト人物往来録』の最初のところに守礼門の写真がある。それとシーサーと那覇の大綱引きの写真もある。1986年1月から「ヤマトに生きる・東京沖縄県人会」のタイトルで『沖縄タイムス』に連載したものを補筆加正したものが本書である。東京沖縄県人会の機関紙『おきなわの声』のところに「4面は投稿されてくるエッセー、詩、和歌・琉歌などが中心。新年号は珍しくそれが少なく、『県がこども未来館を計画』『西表開発友の会が記念誌発行』と自主取材もの。また大阪の沖縄関係資料室を支えた新城栄徳(在大阪)が『琉文手帖』を3号まで発行した、と近況を伝えている。月刊『おきなわの声』の創刊は1979(昭和54)年12月10日で、紙名も『東京沖縄の人』(城間得栄編集長)だった。いまの紙名に改称したのは1981年10月である」と記している。

 この沖縄タイムスの連載は大阪でも1987年から「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記」として連載された。担当は沖縄タイムス関西支社の幸地建一記者で、私も島晴美さんを紹介、大正区などには同行した。連載の27回目が大正区①で沖縄そばやの小橋川豊正・幸子夫妻らが紹介されて「現在の大正区は那覇より風情があるのではないか」との感想も。

大正区②は本部出身の平岡行秀三味線製作の大湾政一、三味線弾きの名手の金城清範、仲村昇の諸氏が登場。大正区③はユタも健在と山下ヨシエ、仲里トミ子が紹介されている。琉舞の大城豊子(私の妻の師匠である)、野村流古典音楽保存会関西支部長の与那嶺福松、関西を代表する琉舞の金城康子、玉城義隆、空手の福元英吉の諸氏が紹介された。④には関西沖縄文庫、大正区沖縄会館が紹介されている。⑤は大城真栄、新城重光、渡慶次恒徳、仲尾清の諸氏が登場しているが、仲尾以外は私は皆会っている。

1999年12月 宇多滋樹『豚の神さまー渡慶次恒徳の半生』

2001年3月『けーし風』第30号「特集 大阪のなかの沖縄」

2001年10月11日『沖縄タイムス』垣花義盛「島(島袋俊一)先生ー27回を数える今年のエイサーは、9月16日、大正区平尾公園グラウンドで繰り広げられ、大盛況であった。近畿一円はもちろん、愛知から、東京からと多団体の参加に運営役員はうれしい悲鳴を上げた。いつものように、にこにこ笑顔をふりまいてくれたのに、5日後の永別となった。島先生は名護市羽地・稲嶺の出身、享年84歳であった。

玉城利則は関西でのエイサーやウチナー芸能には欠かせない人物である。
1974年7月ー『青い海』35号□玉城利則「誇れる沖縄文化の明日に向けて」
1975年9月ー関西沖縄青少年の集いがじゅまるの会『がじゅまる』
創刊号□玉城利則「第1回沖縄青年の祭りにあたって」
1976年2月ー関西沖縄青少年の集いがじゅまるの会『がじゅまる』第2号□「玉城利則会長あいさつ」、3月『青い海』51号□玉城利則「沖縄の舟・サバニ考ーとくに語源とデザインをめぐって」
1977年9月ー関西沖縄青少年の集いガジュマルの会『ガジュマル』第4号□玉城利則「『祭り』は団結への確かな道」
1978年6月ー『青い海』74号□長峰眞名「苦悩を乗り越える沖縄青年たちーIさん問題とがじゅまるの会」
1980年2月ー関西沖縄青少年の集いガジュマルの会『ガジュマル』第5号□玉城利則「古きがじゅまるたちより若きがじゅまるたちへ」
1981年6月ー『青い海』104号□玉城利則「ウチナー姓、ヤマトゥでなぜ変わった」、『ハイサイおきなわ』創刊号(発行人・嘉手川重義、編集人・玉城利則)
1993年11月ー新城栄徳、帰省中の玉城利則から仲間恵子を紹介される。

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(上)1996年12月7日/大阪・大正駅前「居酒屋ゆんた」で、左から金城勇(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、息子、諸見里芳美(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、仲間恵子(大阪人権博物館学芸員)、崎浜盛喜(奈良沖縄県人会副会長)、右端がゆんた主人の玉城利則(関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」初代会長。1981年、『ハイサイおきなわ』編集人、発行人は嘉手川重義(現大阪沖縄県人会連合会長)と夫人、真ん中の女性はお客さん。撮影・新城栄徳/(下)1996年12月8日/大阪港区・池島保育園(近鉄の野茂英雄投手も同園出身)階上で、左より西平久子、西平守晴夫妻、娘、後に息子。撮影・新城栄徳

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Posted by: ryubun02
高野山と比叡山
1975年10月26日ー親子で高野山参詣



写真ー高野山大門前のヨチヨチ歩きの息子

南方熊楠が土宜法竜高野山管長に再会するのも目的の一つで1920年8月23日に、粘菌研究家の小畔四郎、画家の川島草堂、坂口総一郎らと高野山に登った。熊楠と法竜との出会いは、1893年にさかのぼる。法竜が真言宗の代表としてシカゴの万国宗教大会に出席した。大会後、法竜はパリのギメー博物館の招きに応じ、同館の仏教資料調査にために渡仏の途中にロンドンで熊楠に会った。それ以来書簡の往復を重ねた。

南方熊楠が履歴書の中に法竜を「この法主は伊勢辺のよほどの貧人の子にて僧侶となりしのち、慶応義塾に入り、洋学をのぞき、僧中の改進派たりし。小生とロンドン正金銀行故中井芳楠氏の宅で初めて面会して、旧識のごとく一生文通を絶たざりし。弘法流の書をよくし、弘法以後の名筆といわれたり」と記した。熊楠の法竜宛の書簡でよく知られているのが次ぎの文言である。

南方熊楠「無尽無究の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を、たとえば顕微鏡一台買うてだに一生見て楽しむところ尽きず」「今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みあるが)、縁が分からぬ。この縁を研究するがわれわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり。ついでに申す。『傳子』という晋ごろの書に、宇は空間、宙は時間に恰当の解あり。わが邦の訳者、この二字を用いざりしは遺憾なり」


1977年1月ー親子で金城宏美の子守で銀閣寺前からバスで比叡山登山
池宮喜輝(73)は琉球音楽と仏教の声明(ショーミョウ。補助楽器を用いない声楽)念仏と琉球古典曲との関係を探求した。高野山大学で中山僧正に琉球古典曲「十七,八節」を歌三味線で紹介したら「これは比叡山の天台声明にちかい」との話で、さっそく同僧正の紹介状をもって比叡山に行き、比叡山音律研究所の教授・中川僧正に会い古典曲「十七、八節」を聞かせたら「この曲は、音律、節回しなど声明と密接な関係がある」といわれた。弘法大師時代にできた声明(浄土声明その他)が袋中上人の時代に琉球の風土に移植され、さらに湛水親方によって、古典曲としての面目があたえられたと、池宮は見ているのである。
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1977年1月6日ー比叡山で初めての積雪にビックリした金城宏次の孫。娘の宏美
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1993年3月13日 比叡山で左から孫の新城、同じくヒデ君、金城宏次


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大阪/1973年11月『大阪春秋』1号の特集は「大阪の災害いまむかし」であった
 1973年11月『大阪春秋』1号の特集は「大阪の災害いまむかし」であった。①寛文の大暴風雨と龍渓禅師②享保2年の大洪水③明治42年の北の大火④享保2年の大洪水④南の大火とその余聞⑤昭和の災害(米軍機の大阪大空襲)⑥天変地異・日本列島の危機ー今年の夏、近畿の水がめ、琵琶湖の水位がピンチになった。絶対危険水位、マイナス50センチを突破してしまった。この記録は昭和14年のマイナス71センチ、大正13年のマイナス51センチにつぐ史上3番目の記録を、更に更新しそうな気配のなかで、世界的異常気象がともなって、日本列島の危機感をこれほど身近に深め、予想される天変地異説が、今日ほど真剣に人々の話題の中心になったことも珍しい。(略)以上、今後起こり得るであろう天変地異に対処して、いまむかしの記録を記してみた。(藤原)

今の「悪夢内閣」(命名・佐高信)には何も期待出来ない。政府と東電は原発事故が起きたときの手順書は目次から黒塗りで国会に提出、また原発被害者に送りつけた損害賠償の請求書類は読むのも疲れる200余ページ、国民を愚弄するのも大概にしてほしい。『大阪春秋』のように歴史の中から問題点を見つけどう対処の糸口を探ろうかとしているとき、歴代の内閣は莫大な税金や学校教科書を使い「安保神話」「原発神話」のようなものの宣伝にはこれ勤しむ。が、クルマ社会のための「高速道路」はせっせと作る。肝心要の見えない国土の管理には見ての通り、台風や地震が来る度、無策が証明される。

□台風15号の日本列島縦断を受け、政府は21日、土砂災害などへの警戒を呼びかけるとともに情報収集に追われた。 とはいえ各省庁を機動的に運用するための関係省庁連絡会議は20日夜に初会合を開いたきり。 21日は夜までに死者・行方不明者が計13人確認されたにもかかわらず 「大きな被害が認められない」(内閣府)として連絡会議は開かれなかった。 紀伊半島を襲った台風12号に続き、政府の危機管理意識の希薄さがまた浮き彫りになった。
 
21日夕には台風が首都圏を直撃し、JRをはじめ交通網がマヒ状態に陥ったが、 首相官邸は関係閣僚らが出入りすることもなく閑散としたまま。 甚大な被害が生じた場合、政府は災害対策基本法に基づき、 連絡会議を非常災害対策本部に格上げすることになっているが、その動きもみられず、 平野達男防災担当相は政府の震災復興対策本部に籠もったままだった。( MSN産経 2011.9.22 )

過去の日本政府の危機管理意識の低さは自衛隊にも反映される。

全日空機雫石衝突事故
1971年7月30日。全日空58便ボーイング727-200(JA8329)が岩手県雫石町上空で、航空自衛隊松島基地(宮城県)所属のF-86F戦闘機と衝突し墜落した。乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡した。自衛隊機の乗員は脱出して無事であった。 刑事裁判では、双方に見張り不足があったが、自衛隊機側の責任がより重かったと判断された。事故現場は民間機進入禁止の自衛隊の訓練空域であり、戦闘機に全日空機が追突したとの考察もある。

2008年2月19日千葉県沖でー当時最新鋭であったイージス護衛艦「あたご」と千葉県勝浦市漁協所属の漁船「清徳丸(せいとくまる)」が衝突。清徳丸は船体が2つに裂け大破・沈没。乗員であった船主(58歳男性)と船主の長男(23歳男性)の2名が行方不明となった。数十日間におよぶ漁協関係者・海上保安庁・海上自衛隊3者が懸命の捜索をおこなったが発見できず、2人は同年5月20日に認定死亡とされた。

上記の自衛隊の戦闘機と護衛艦が民間の飛行機、船舶に衝突するということは万が一にもあってはならない。もし敵国の戦闘機や潜水艦であったら、気がつかなかったでは絶対に済まない。危機感を持たず訓練しているから守るべき国民も死に至らしめる。絶えず危機感(敵の攻撃)を持ってほしいものだ。同時に自衛隊は国民を守るのために存在しているので、下記のような国民無視な態度は国民に対する反逆罪に値する。

□航空自衛隊那覇基地 墜落後F15の訓練再開航空自衛隊那覇基地は、墜落事故で中断していたF15戦闘機の訓練を20日から再開しました。那覇基地所属のF15戦闘機が墜落事故を起こしたのは7月5日。尾翼の一部は回収されたものの、機体と操縦士はまだ見つかっていません。

訓練は事故後、中断されていましたが、基地司令は19日に機体の点検を終えたとして、20日からの訓練再開を発表していました。F15戦闘機の訓練は20日午前9時すぎに4機が離陸して再開されました。訓練は2週間ほどは基本訓練を行い、その後は通常訓練に移行するということです。しかし事故原因が判明されないままの訓練再開に、自治体や市民団体から反発の声が上がっています。

航空自衛隊那覇基地 あすからF15戦闘機の訓練を再開那覇基地所属のF15戦闘機が墜落事故を起こしたのは7月5日。尾翼の一部は回収されたものの、機体と操縦士はまだ見つかっていません。訓練は事故後、中断されていましたが、基地司令は19日に機体の点検を終えたとして、20日からの訓練再開を発表していました。

F15戦闘機の訓練は20日午前9時すぎに4機が離陸して再開されました。訓練は2週間ほどは基本訓練を行い、その後は通常訓練に移行するということです。しかし事故原因が判明されないままの訓練再開に、自治体や市民団体から反発の声が上がっています。(2011年2011年7月20日 「琉球朝日放送」)  <2011年9月記>