『山口組時報』
私は東大阪の布施駅ちかくに住んでいた。かつて通り道の鶴橋駅を7時ごろ散策のおり小田秀総業の2階でボヤ騒ぎがあり、パトカーが無線で「親分(小田秀)と、子分8人がいる」と喋っていた。その小田秀組長は怒号し子分をどやし続けていた。すぐ目の前だったが火はすぐ収まった。小田秀組長は『山口組時報』の編集責任であった。かつて佐野真一氏も『山口組時報』の編集に誘われていた、と本人が書いている。
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大阪・小田秀組総本部、1980年ー八興建設(瀬川清社長)が2億4、000万円で請け負う
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山本健一を中心とした3代目山口組組織図□田岡組長の写真は粟国出身者が多い大阪天六の市場にあった金田組事務所に飾っていたもの、この組事務所は窓が空きっぱなしで組員がいつも不在であった。

山本健一初代山健組組長(バックの扁額は頭山満の書)
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初代山健組組織図
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写真ー1977年6月ー徳島・勝浦会2代目襲名、左から諏訪健治、勝浦隆司、松浦一雄、図越利一、山本健一
 私は東大阪の布施駅ちかくに住んでいた。かつて通勤電車の近鉄線から山本健一組長の入院している大阪市生野区の今里胃腸病院の看板がよく見えた。山本組長は1982年2月4日に肝硬変に腎不全を併発して死去。関西の夕刊紙ではいつも病状を伝えていたので病院の看板が見える毎に思い出していた。


写真ー本多仁介
神戸大嶋組の四天王の一人と言われた本多仁介が、1938年豪雨にみまわれた神戸の河川工事を行い本多組を立て1940年に大嶋組から独立、本多組を結成。本多組は倉庫業、湾岸荷役業をシノギとしており「ミナトの六人衆」と呼ばれるようになる。ダイエーの中内功会長も闇市で活動していた当時を回顧し、「本多さんは大親分だったですよ」と証言している。 二代目本多会の時代まで所属していた最後の若衆であった四国の竹形の逝去とで本多会を支えていた者達はほぼ生存しなくなった。本多仁介の関わったものは今や、倉庫会社、建設会社など、いわゆる堅気の企業としてしか残っていない。 →ウィキ
橋下市長の実父がヤクザというのが『週刊朝日』で報じられていたが、1990年代の大阪は市民レベルを反映しヤクザ事務所が彼方此方に有った。橋下市長が新聞記者にトヤカク書かれる筋合いは無い。なんでも2025年の大阪万博を機に世界最大級の「カジノ」が出来ると謂う。かつて森喜朗元総理が1988年4月、自民党京都府連主催の政経文化懇談会で「大阪人は金儲けばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。低俗な風俗産業も必ず大阪から生まれるなど、眉をひそめることが多すぎる。大阪人には道を作るにも公共用の土地を提供する気持ちがない。言葉は悪いが痰壺だ」と発言、宜なるかなである。

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1983年9月『スコラ』「兵庫県下主要暴力団」
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写真ー左が図越 利一(ずこし りいち 1913年9月17日-1998年7月7日)は三代目会津小鉄会会長。
右が石本久吉小久一家総長
□石本久吉原作
1965.10.31 関東破門状  東映京都
1967.08.26 浪花侠客伝 度胸七人斬り  東映京都
1969.02.01 緋牡丹博徒 花札勝負  東映京都

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1992年4月 高山登久太郎『警鐘ー無謀なる権力の狭間にて』ぴいぷる社
〇一流建設会社の間にも、いわゆる”談合„が今でも常識化され、実地されている実態をよく知っている。いつでも告発できる資料を持っている。大企業と役人と政治家ーこの三位一体の”なれあい„”癒着〟があっては、どうしょうもない。甘い、うま味のある仕事は、みんな持っていかれてしまう。天下りは、なにもこの北海道開発局にかぎったことではない。大蔵省、通産省、建設省をはじめとしてほとんど全官公庁において、なかば堂々と実地されている。大蔵省の役人たちは、銀行や証券会社へ天下りしている。そこで高給をもらい、4,5年務めて退職金までもらい、あとは遊んで暮らすといった寸法だ。どこまで国民をナメているのか。(略)大体、公務員(官僚)は、退職後2年間は、その前の5年間に密接な関係にあった企業に就職することは禁じられている。しかし、現実には守られていない。-
□高山 登久太郎(たかやま とくたろう、 1928年 - 2003年6月15日)は、ヤクザ。指定暴力団四代目会津小鉄会長。在日本大韓民国民団中央本部中央委員、滋賀韓商常任顧問。本名は“姜 外秀”(カン ウェス)。若い頃は、“今里のタッカン”、“タッカン”と呼ばれた。→ウィキ

 大行社ー大正13年(1924年)6月11日 清水行之助が後藤新平のほか、有力諸賢の後援を得て設立。戦後永らく休眠状態にあったが、1981年に岸悦郎が旧知の仲である清水から要請があり、暫定的に会長代行となった。結成式には稲川会初代会長の稲川角二や住吉連合代表の堀政夫が列席した。岸は公式には堅気でありながら任侠右翼であることを認めていた。→ウィキ

 「メンズサイゾー」2011-9-22 〇9月21日発売の「週刊文春」(文藝春秋)でビートたけしが「暴力団との関係」を赤裸々に語り、大きな話題となっている。暴力団との交際が原因で島田紳助が引退したことにより、芸能界と暴力団の関係がクローズアップされ、どのタレントもヤクザとの関わりが明らかになることにおびえるようになった昨今、なぜあえて暴力団との関係を自ら語ったのか。
記事では、フライデー襲撃事件後に復帰した際に「復帰が早すぎる」として右翼団体に街宣をかけられたことがあると明かしている。紳助が暴力団と関係を持ったきっかけは、同じく右翼団体に街宣をかけられ、その解決を渡辺二郎を通じて暴力団に頼んだことだった。しかし、たけしは右翼団体の関係先である住吉連合会の堀政夫会長をひとりで訪ね、土下座して謝って解決したという。この点が紳助とは違うとして、「タレントとして、そういうのを上手くやって逃げるのも本人の芸」「紳助は逃げる芸がなかった」と語っている。また、10年ほど前に、ある芸人(※文春は中田カウスだと断言)の策略によって山口組の渡辺芳則5代目組長と無理やり面会をさせられたこともあるという。さらに、稲川会からのプレッシャーにより初代会長・稲川聖城氏との面会を断れなくなり、月刊誌「新潮45」(新潮社)で対談したこともあった。(略)

『四国新聞』2002年6月3日ー右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の岸悦郎氏(76)が台湾で死去していたことが3日、警視庁の調べで分かった。警視庁などによると、岸氏は5月から、がんの治療のため台湾に滞在していたが、今月2日深夜、台北市郊外の別荘で死亡したという。大行社は日本で最大規模の右翼団体。

沖縄の右翼・総会屋
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1997年ー『民族』日本民族思想普及会(儀武晋一)/1989年ー『社会時報』桜魂社護国塾(松田昌雄)



2013.6.7 21:09 「産経」 日本維新の会の中山成彬代議士会長は7日の党代議士会で、韓国が慰安婦問題で旧日本軍の強制性を主張していることについて「自分の子や近所の娘が連れて行かれるのを黙って見ていたのか。そんなに朝鮮人の親は弱虫だったのか。このことは日本人をおとしめ、彼らの祖先もおとしめている。こういうのはやめようというのが私の率直な気持ちだ」と述べた。中山氏は、朝鮮半島の人口は当時2千万人余りとした上で「(一部で主張されている)20万人強制連行するということは100人に1人」とも指摘した。

□この中山成彬日本維新の会代議士会長は日本のヤクザのドンの大物が朝鮮人で占められていることを知らない無知な発言である。例えば橋下大阪市長の恩人・島田紳助 は2011年8月、暴力団関係者との交際を理由に芸能界を引退。橋本組長と親密な関係であったことが様々な報道で明らかになっているが、その橋本組長も朝鮮人である。また松山 眞一(まつやま しんいち、本名: 曺 圭化、チョ・ギュファ、조규화、1927年 - )は、指定暴力団・極東会会長、極東五代目や、沖縄にも支部があった東声会も朝鮮人が作り上げたもので、「そんなに朝鮮人の親は弱虫だったのか」とは朝鮮人の何処を見ての発言か。

 2015年12月28日、岸田文雄日本外相と尹炳世韓国外相が会談。日本側が軍の関与で多数の女性の尊厳と名誉を傷つけたとし、アベ首相の「心からのおわびと反省の気持ち」を表明した。右派の「日本会議」は従軍慰安婦強制連行を「事実関係を無視したいわれなき非難」と断定、「中韓両国の謝罪要求は一部のものが作り上げたもの」と強調していた。いずれにせよアベ首相は結果的にアジア各地の慰安婦も軍の関与だったと言明したようなものだ。これから中国、北朝鮮、アジアから謝罪を要求されることになる。

 2016年1月16日のタイムス社説に、14日、自民党本部で桜田義孝元文部科学副大臣①が従軍慰安婦について「職業売春婦。それを犠牲者だったかのようにしている宣伝工作に惑わされすぎだ」と発言した。

①桜田 義孝は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員、自民党千葉県連会長、文部科学副大臣。2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会理事。 ウィキペディア

沖縄戦と日本軍「慰安婦」
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 那覇市歴史博物館に遊びに行き「2012年度・展覧会のご案内」を貰った。5月のところには「あれから40年~OKINAWAから沖縄へ~」がある。問題は次の「特別企画 沖縄戦と『慰安婦』展」である。あたかも沖縄県のカジノチジ周辺が「沖縄戦隠蔽」にピリピリ神経を尖らしているところに油をそそぐようなもので歴史博物館としては英断だと思ったが学芸員に聞くと、県の沖縄戦隠蔽問題が出る大分前、那覇市総務部平和交流・男女参画課と沖縄戦と日本軍「慰安婦」展実行委員会(高里鈴代代表)から博物館に展示場を申し込んだという。早速に沖縄戦隠蔽の県のほうから「どんな展示内容か」と問い合わせがあったが、学芸員は歴史的に意義があることなので貸したという。とにかく女性たちが動いていることが分かった。沖縄県は県内外から批判されると「慰安婦」「日本軍の住民虐殺」を削り専門家から批判された。下記のように県と同様ニコンサロンでも写真展がカルト右派により中止に追い込まれている。


「写真展ができなかった場合、東京でストリート写真展でも開きます」 日本、名古屋で制作活動をしている写真作家アン・セホン(41)氏は怒りが収まらないようだった。 彼は来月26日から7月9日まで東京、新宿の展示場「ニコンサロン」で写真展を開く予定だった。 展示される作品はアン氏が2001年から2005年まで7回にかけて中国を訪問し、撮影した朝鮮族元従軍慰安婦のおばあさんたちの写真38点だった。昨年12月、審査委員5人で構成された主催側選定委員会の審査で作品性を認められ展示が決定した。

だが、カメラメーカーであるニコンが運営する「ニコンサロン」側関係者は22日、アン氏に電話をかけてきて「展示が中止になった、理由は明かせない」と一方的に通知した。ニコン側は「名古屋に行って謝罪したい」と話しているが、アン氏は「単に謝罪のためになら来る必要はない。写真展を予定通り開催してほしい」と要求した。 ニコン側の突然の写真展中止は日本の右翼勢力による圧迫に屈服した結果だと思われる。アン氏の展示会が差し迫るとインターネット掲示板などには「歴史ねつ造に加担する売国行為だ」「外国の一方的な主張を代弁していいのか」などの非難コメントが相次いだ。 写真展中止に対してニコン側は「写真展開催と関連して(右翼勢力などから)抗議があったことは事実だが、中止は諸般事項を総合的に考慮して判断したこと」とだけ明らかにした。(中央日報)


□「ニコンサロン」は、ニコン創立50周年を記念して1968年1月に銀座三丁目に開設された、写真文化の普及・向上を目的とする写真展示場です。開設記念となる第1回写真展「木村伊兵衛の眼」を開催以来、写真の展示や講演会の開催など、多くの写真家・写真愛好家の方々に写真活動の場を提供してきました。その後1971年6月に「新宿ニコンサロン」、1974年3月には「大阪ニコンサロン」を開設、より幅広い写真活動の場として活用されています。プロ・アマの壁を取り払い、企業戦略に影響されず、あらゆる分野の優れた作品の展示場として写真展本来の姿を追求する「ニコンサロン」。(ニコンも企業だからカルト右派には弱い)

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「従軍慰安婦」資料
1984年12月 沖縄エッセイストクラブ『群星』山川泰邦「従軍慰安婦狩り出しの裏話」