Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
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2016年8月19日 いなんせ フクギ(福木)  分類名:オトギリソウ科フクギ属
原産地:台湾 、フィリピン  樹高:10~20m 花色:クリーム色 


2016年7月1日 若狭龍神

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 今日、RBC琉球放送でも放送されましたので、テレビ放送が視れない方、また見逃してしまった方に録画動画の紹介です。TBSが放送(8/21)し、すぐにネットに動画がアップされており、その紹介のメールもいただきました。(М)
 銃剣とブルドーザーによる土地強奪に向き合った土地闘争は島ぐるみ闘争になり、そして日本復帰運動に結びついていったが、それをリードしたのが亀次郎だった。亀次郎と民衆の闘いを伝える資料館「不屈館」の館長を務める、亀次郎の次女は「父は沖縄を団結させるためにやっていた」と語る。まさに、保守革新を超えたオール沖縄の原点といえる。

 それから半世紀以上の時を経て、辺野古移設反対の民意に一向に向き合おうとしない政府と対峙する現代のリーダーに、県民たちもかつての亀次郎を重ね合わせる。沖縄戦後の占領下で何が起き、亀次郎は、どう占領軍と対峙し、民衆はどう立ち上がり、復帰へ向かったのか、そして、その時代はいまの闘いにどう結びついているのか…瀬長亀次郎の姿を通して、数々の証言により沖縄戦後史を掘り起こしながら、現代の辺野古闘争に通じる沖縄とこの国の姿を浮き彫りにしていく。

『しんぶん赤旗』2016年8月30日<潮流> 評判を聞き、あるドキュメンタリー番組を見ました。うわさにたがわぬ力作でした。21日深夜に放送された報道の魂スペシャル「米軍が最も恐れた男~あなたはカメジローを知っていますか?」(TBS)です
▼主人公は戦後、沖縄を占領した米軍の圧政に命がけでたたかった瀬長亀次郎さん。「ネーネーズ」の歌にも登場する沖縄の英雄です
▼番組は、辺野古の米軍新基地建設をめぐる国と沖縄県の攻防を、半世紀前のたたかいから説き起こしました。1947年、沖縄人民党を結成。52年、今の県議会にあたる第1回立法院議員総選挙でトップ当選。その後の琉球政府創立式典でただ一人、忠誠を誓わなかったことから占領軍ににらまれます
▼54年、瀬長さんが先頭に立ち、立法院は米軍から土地を守る4原則を打ち出します。半年後、突然逮捕。瀬長さんは裁判でこう述べます。「被告人瀬長の口を封ずることはできるかもしれないが、虐げられた幾万大衆の口を封ずることはできない。…日本の独立と平和をかちとるために捧(ささ)げた瀬長の生命は大衆の中に生きている」
▼出獄後、56年に那覇市長に当選。しかし補助金凍結で兵糧攻めに。助けたのは市民でした。「アメリカーが瀬長市長いじめるから税金納めに来たサー」。納税率は最高97%に
▼瀬長さんが何より大事にしたのは「沖縄の団結」でした。それから半世紀がたち、新基地建設反対の民意に敵意をむきだしにする政府と、対峙(たいじ)する現代のリーダー。オール沖縄の原点が見えてきます。

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

○ホイットマン流のナショナリズムはアメリカ人の常識となり、その後のアメリカ人の自画像の形成に貢献しました。独立後しばしば経験した国内ならびに国際的な試練においても、この自画像が発想の原点であり、国民的行動の支えでした。それは、国際社会におけるアメリカのスタンスを、時には孤立主義に陥らせ、時には逆にパックス・アメリカーナ(アメリカの力によって維持される平和、十九世紀のパックス・ブリタニカの言い換え)の理想を追求する方向へ走らせましたが、波瀾に満ちたアメリカの歴史経験の中で、この原点だけは揺るぎないもののように見えました。しかし、1960年代の公民権運動やベトナム戦争の挫折は、この理想像に深刻な打撃をもたらしました。この危機にみまわれて、二つの基本的かつ伝統的な理想が揺らいだのです。アメリカ人が建国の時から誇りにしてきた平等の社会と自由の国の理想です。

○英国のバジルホール提督が1816年に沖縄を訪れたとき、島民の素朴さと平和愛好の精神にうたれたことを航海記に記しています。バジルホールは、英国への帰途、セント・ヘレナに幽閉中のナポレオンを訪ね、戦争を知らない琉球人のことを報告していますが、ナポレオンはこれを信じなかったそうです。バジルホールが琉球へ渡来したのが、西洋のロマン主義運動の盛んな頃であったことを考え合わせますと、同提督が「高貴なる未開人」の先入観で沖縄島民を見ていたのではないかと疑いたくなります。当時、沖縄人は、バジルホールがいうように確かに武器は身につけていませんでしたが、空拳によって一撃のもとに人を殺す空手をすでに編み出していたのですから、全面的に平和愛好的であったとは言い切れないように思います。 



1998年10月15日 沖縄青年会館「米須興文著『文学作品の誕生』出版祝賀会で、右端が新城栄徳、3人目が米須興文氏


2001年1月20日『沖縄タイムズ』米須興文「南灯指針鏡ー21世紀のメッセージ1」
○・・・科学・技術の進歩は、物質的繁栄をもたらしたが、同時に大量破壊兵器も生み出し、環境破壊につながる産業開発にも力を貸した。一方、精神世界は荒廃の一途をたどり、人びとは心と心の絆を失い、精神的独房の中でIT(情報技術)革命の「二十五時」(ルーマニア作家、C・V・ゲオルギウの小説)の世界を彷徨している。
 楽園に忍び入った蛇は、すでに人間の頭脳に侵入しているのだ。科学・技術の知恵の実と引き換えに楽園を失いつつある人間は、果たして二十一世紀にこの蛇を追放して再び楽園を回復することができるのであろうか。パソコンでこの稿をしたためながら、eメールを利用しながら、こんなことを考えている新ミレニアムである。
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 記録は記憶を甦生する。トマトの成長過程記録写真495枚を見ると、32年前の撮影時の 庭先やトマトや私自身の様子が鮮明に甦る。生命の戴きの時とお返しの時。トマトの一生を 9点に絞り筆で描いた。祈りのテーマでもある定点PRAYERシリーズから「トマト」を発表。


写真左から、玉城徳正氏、久貝清次氏、岸本徹也氏
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
2016年9月 俳句同人誌『天荒』55号 編集発行人・野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536



◆新しく沖縄担当相に就いた鶴保大臣は「基地と振興策はリンクする」と明言。更に「消化できないものを無理やりお口開けて食べてくださいよでは、全国民の血税で使われているお金の無駄遣い」と」、沖縄憎しの妄言を連発。沖縄は血税も払わず国から食べさせてもらっているとでも思っているのか。消化できない基地を無理やり押しつけているのはいったい誰だ。(武蕉)


Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1972年6月24日『朝日新聞』「季刊誌『琉球の文化』 本土の書店にも登場」
1972年、京都書院に『琉球の文化』を置いてもらうとき染織と生活社(田中直一代表取締役)を訪ね編集長の富山弘基氏に相談した。京都書院は美術関連の出版社で鎌倉芳太郎の『古琉球紅型』も発行。京都書院河原町店は現代美術の本も豊富で私の好きな場所でもあった。富山編集長の御宅で布コレクションを見せてもらったり、富山編集長依頼の贈物を読谷花織の名工に持って行ったこともある。


駸々堂の文庫本のカバー
駸々堂は、1881年に創業した大渕書店を、1968年4月に株式会社大渕書店として法人化した書籍・雑誌小売業者で、92年12月には株式会社駸々堂へ変更。単行本・学術書・雑誌・教科書などの書籍、その他文具事務用品類の小売業を営み、関西における大手老舗書店として知名度は高かった。大阪、京都、奈良、兵庫で積極的に店舗展開し、97年1月期の年売上高は約126億4200万円にのぼっていた。
しかし、多店舗展開に伴う借り入れ負担が重荷となっていたうえ、ジュンク堂(淳久堂、本社神戸市)など大型店動向への乗り遅れから集客力が低下、少子化、インターネットの普及などによる業界全体の書籍・雑誌販売部数の低迷もあいまって、99年同期の年売上高は約118億8400万円にまで落ち込んでいた。→京都経済新聞2000-2-7


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1970年代ー大阪でよく行く書店は大阪駅前の旭屋書店と阪急の紀伊国屋書店であった。東京駅前の八重洲ブックセンターにも寄った。□旭屋書店ー1946年(昭和21年) - 産経新聞社長の早嶋喜一が大阪市で「旭屋商店」を創業。社名は、喜一の生地である岡山県の河川、旭川に由来。雑貨・化粧品の販売から始め、翌1947年、書店「旭屋書店」となる。□八重洲ブックセンター、東京駅八重洲南口向かいにある八重洲本店が1978年9月18日に開業。紀伊国屋は1967年の新宿時代によく行った。(ウィキペディア)

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株式会社宮脇書店(みやわきしょてん)は、香川県高松市に本拠を置く日本の書店グループ。店舗数ベースで日本最大の書店チェーンである。/ジュンク堂那覇店 2009年3月18日 - 大日本印刷と資本提携を締結、大日本印刷が株式51%を取得し傘下となる。同月24日には大日本印刷・丸善と経営統合を視野に入れた業務提携に関する協議を開始すると発表。4月21日 - インターネット事業部門を分離独立し子会社として株式会社HON(ほん)を設立。ジュンク堂書店ウェブサイトでのオンライン書籍販売は終了。4月24日 - 沖縄県那覇市の商業施設D-naha(ディーナハ)の核テナントとして1階から3階に那覇店を開店。沖縄県進出一号店。売場面積約5000m²(約1,500坪)で沖縄県では最大の書店。。(ウィキペディア)

Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
 戦前の東京の沖縄県人会にふれたので関西についても記す。1963年6月30日の『沖縄タイムス』に「関西の郷土地図」がある。3面にわたっての特集である。関西の住人大いに語るとして翁長良孝(淀川映画興行社長、羽地村出身)、比嘉正子(関西主婦蓮合会会長、首里出身)、宮城清市(大阪沖縄県人連合会会長、羽地村出身)、上江洲久(兵庫沖縄県人会会長、尼崎市会議会副議長、久米島出身)、伊差川寛(大正区沖縄県人会青年会長、大正区生まれ)が座談会に参加している。司会は沖縄タイムス関西支社長の松村実がつとめている。
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1963年6月30日『沖縄タイムス』「座談会・関西の住人 大いに語る」
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 1971年9月のある日、私たち「沖青友の会」会員は女性3人、男性4人で機関誌『石の声』八号のガリを徹夜で切っていた。変色した1963年6月3.0日の『沖縄タイムス』3面にわたっての特集「関西の郷土地図」を転載し、主張に「沖縄の禁断の書『さまよへる琉球人』の封を自ら、はがしたように、われわれは自らの心のヤミを見据えよう」と記した。そして偶然のことだが、ガリ切り作業をやっていた嘉陽宗博(沖青友の会会長)の間借り先の、その小さな部屋の番地は、大阪市港区市岡元町で、戦前の関西沖縄県人会本部の近くの番地であった。

 1994年に出た国吉真永『沖縄・ヤマト人物往来録』の最初のところに守礼門の写真がある。それとシーサーと那覇の大綱引きの写真もある。1986年1月から「ヤマトに生きる・東京沖縄県人会」のタイトルで『沖縄タイムス』に連載したものを補筆加正したものが本書である。東京沖縄県人会の機関紙『おきなわの声』のところに「4面は投稿されてくるエッセー、詩、和歌・琉歌などが中心。新年号は珍しくそれが少なく、『県がこども未来館を計画』『西表開発友の会が記念誌発行』と自主取材もの。また大阪の沖縄関係資料室を支えた新城栄徳(在大阪)が『琉文手帖』を3号まで発行した、と近況を伝えている。月刊『おきなわの声』の創刊は1979(昭和54)年12月10日で、紙名も『東京沖縄の人』(城間得栄編集長)だった。いまの紙名に改称したのは1981年10月である」と記している。

2010年6月11日午後6時からドシャ降りの雨の中、沖縄国際大学厚生会館で「来間泰男先生出版記念パーティー」が開かれた。雨にも関わらず大勢の人が集まった。『沖縄・ヤマト人物往来録』にも登場した宮良作氏、謝名元慶福氏らも見えた。来間泰男氏の子息も東京で大学教員を務めている。前出の沖縄タイムスの連載は大阪でも1987年から「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記」として連載された。担当は沖縄タイムス関西支社の幸地建一記者で、私も島晴美さんを紹介、大正区などには同行した。連載の27回目が大正区①で沖縄そばやの小橋川豊正・幸子夫妻らが紹介されて「現在の大正区は那覇より風情があるのではないか」との感想も。

大正区②は本部出身の平岡行秀三味線製作の大湾政一、三味線弾きの名手の金城清範、仲村昇の諸氏が登場。大正区③はユタも健在と山下ヨシエ、仲里トミ子が紹介されている。琉舞の大城豊子(私の妻の師匠である)、野村流古典音楽保存会関西支部長の与那嶺福松、関西を代表する琉舞の金城康子、玉城義隆、空手の福元英吉の諸氏が紹介された。④には関西沖縄文庫、大正区沖縄会館が紹介されている。⑤は大城真栄、新城重光、渡慶次恒徳、仲尾清の諸氏が登場しているが、仲尾以外は私は皆合っている。

大阪は1923年に関東大震災を機に沖縄青年たちの赤琉会が結成された。それを母体にして24年に関西沖縄県人会(渡口精鴻会長)が結成された。28年には『(関西)沖縄県人住所案内』が発行された。1935年8月には大阪市西成区鶴見橋通り6ノ4の関西沖縄興信社から『関西沖縄興信録』が発刊された。同社の顧問、編集同人に豊川忠進、眞栄田勝朗、下地玄信、山城興善、翁長良孝、古波蔵太郎、比嘉繁雄、古波蔵加壽が居る。

本名鑑の序文「関西地方は大阪市を中心として我国産業都市の中心地であると共に又最大の経済都市である。就中大阪市は人口三百有余人を擁し近代的文化施設は施され世界第三位の大都市である。殊に関西地方を理想郷に求めて来阪する県民は其数実に5万人と註されて居る。学者、弁護士、医師、実業家、学生、労働者、紡績女工等ありて各方面に亘りて各々其の職業生線(ママ)に健闘しつつあるは刮目に値する。近時我が県民が各方面に著々として地位を確保し成功しつつあるは吾人の意を強うして祝福せざるを得ない。然るにいまだ県民の消息近況を知るに完全なる機関なきは甚だ遺憾とする所である。茲に於いて吾人は『関西沖縄興信名鑑』を上梓し県民の頒布状態並びに活動状態及び職業、居所を詳細に記述して県民諸氏の座右に供せんとす。幸いに本名鑑が県民多数の連絡機関と徒然の好伴侶として聊かなりとも裨益する所あらば幸甚である。」とする。

現在、大正区は「リトル沖縄」とも称されているので名鑑の大正区之部を名前・(出身地)・職業の順に列記する。
北恩加島町/糸数亀助・糸数福盛(島尻)鉄工所、石川清方・石川松吉(中頭)商業、石川徳次郎(首里)鉄工所、糸数蒲・糸数正一(島尻)、糸村昌進(中頭)、石原昌三郎(中頭)塗工、稲福善太郎・稲福米男(国頭)履物商、稲福清一・伊佐川盛峯(中頭)、伊佐牛栄・伊佐牛清・糸数清吉(国頭)、糸数義男(国頭)酒醤油・日用品商、糸数敏(島尻)商業、伊是名興雄(那覇)運搬業、石嶺正吉(島尻)運搬業、伊佐川信行(中頭)製油工場、稲嶺盛休(国頭)、稲嶺盛次郎(中頭)製材所、伊波善徳(島尻)鉄工所、糸数孝清・糸数蒲戸(国頭)喫茶店(喫茶酒場・和洋御料理 日之出家)、末吉業祐(国頭)雑貨商、池原安平(国頭)商業、伊佐栄吉(島尻)理髪職、伊佐眞栄(島尻)運転手、伊集守芳(島尻)、稲福盛貴(中頭)

花城清吉(島尻)鋳物工場、花城幸明(中頭)、花城秀正(島尻)、原國盛善(島尻)、花城安次(国頭)鉄工所、原國盛徳(島尻)鉄工所、平安座唯寛(中頭)製材所、平安座太郎(中頭)豆腐屋、豊里洋子(国頭)産婆、當山元光(国頭)製材所、當山松吉(国頭)、豊里友盛(中頭)、友寄信徳(中頭)、豊里友栄(国頭)、當山全太郎(国頭)鋳物工場、當山王雄、當山太郎(中頭)、知念徳(島尻)、知念安正(国頭)、知念政栄(中頭)、知念次郎(島尻)、知念安康(島尻)商業、知念栄進(島尻)、知念順太郎(島尻)製材所、知名十助(島尻)、知念松三(島尻)製材所、知念武蔵(島尻)、知花前明(国頭)、知念次郎(島尻)、知念良助(島尻)鉄工所、知念徳助(島尻)製材所、知名定成(中頭)

禰覇盛郎(中頭)製材所、禰覇盛雄(中頭)、大城博保(島尻)解船業、大城久次郎(島尻)、大城喜詠(中頭)商業、大城牛助(島尻)、大城平忠(島尻)商業、大城福市(島尻)商業、大城勝次(島尻)鋳物工場、大城秋吉(中頭)、親川孫三郎(国頭)製材所、大城善光(国頭)ニューム工場、大城廣助(島尻)製本屋、大城仁清(島尻)、親川松助(国頭)、大城充光(島尻)、大城喜定(島尻)、大城清堅(島尻)商業、大嶺太郎(中頭)、奥村嘉栄(国頭)、大城梅昌(国頭)、大城候八郎(国頭)、大城眞栄(国頭)、大城良吉(中頭)製材所、大城清秀(中頭)製材所、大城喜運(島尻)製材所、大峯次幸(国頭)、親川金助(国頭)、大湾朝康(島尻)運搬業、親泊元恭(島尻)運搬業、大城眞苅(島尻)運搬業、大城清太郎(国頭)鋳物工場、小那覇安徳(国頭)製材所、大城亀(島尻)、大村恭仁(島尻)、親川豊治(国頭)

大城正達(島尻)、大城恒一(島尻)薪炭商、親川鍋助(国頭)、親川孝次(国頭)製材所、親川孝徳(国頭)製材所、大城源盛(国頭)鉄工所、大城清次郎(国頭)製材所、大城徳太郎(国頭)製材所、大城仁豊(島尻)練炭所、大城亀一(島尻)練炭所、大城一増(島尻)薪炭商、大城正一(島尻)、大城吉造(島尻)解船業、大城一廣(島尻)運搬業、大城盛通(島尻)、大城嗣得(国頭)、大城亀太郎(国頭)、大城鉄雄(国頭)自動車業、久高幸吉(国頭)製材所、久高幸次郎(国頭)製材所、国場三郎(島尻)、久場憲松(国頭)、桑江朝昆(島尻)製材所、桑江常三(島尻)商業、久場川徳信(国頭)、久場川豊太郎(国頭)、久場川恒永(国頭)酒類商、久場徳三郎(国頭)、久高将生(中頭)、神谷清助(島尻)、神谷隆清(島尻)鉱油所、嘉手川東栄(国頭)、嘉陽宗光(中頭)

嘉数太郎(島尻)、嘉数三郎(島尻)鉄工所、嘉手苅東久、神里勇行(島尻)トタン工場、神谷蒲吉(島尻)鉄工所、我如古盛永(島尻)、嘉数亀蔵(島尻)、嘉数明光(中頭)、嘉数三次郎(島尻)、神山木啓(中頭)運搬業、神谷武助(中頭)、与儀實正(島尻)職工、与古田稚紹(宮古)薪炭商、吉原蒲おお一(宮古)鉄工所、与那嶺孫四郎(国頭)製鋼所、米須清亀(中頭)、吉本善幸(島尻)、与那嶺盛輝(中頭)、与儀實栄,世名城盛保、与那城盛仁(中頭)鉄工所、与名信栄(島尻)運搬業、与那嶺信一(那覇)商業、与那城正進(国頭)雑木商、平良源政(国頭)製材所、平良孝次(国頭)製材所身、玉城蒲(島尻)、玉寄長重(島尻)造船所、高江州次郎(中頭)鉄工所、高江州義武(国頭)製材所、平良三郎(島尻)、玉城亀(島尻)、平良盛吉(国頭)、澤岻安道(国頭)、澤岻安栄(国頭)、澤岻安通(国頭)鉄工所、玉寄亀助(島尻)、玉城嘉眞、玉寄松助(中頭)、高里良生

玉木義雄(首里)、平良明幸(宮古)、玉城幸栄(島尻)練炭所、玉城牛一(島尻)、玉城松寿(島尻)鋳物工場、玉寄長英(中頭)、平良仁幸(中頭)、玉城幸俊(国頭)、平良千代次(国頭)、玉城敏清(国頭)、平良善造(国頭)、玉城幸信(国頭)、玉城恒一(島尻)写真業、高江州次郎(中頭)行商、玉城正光(島尻)鉄工所、棚原良正(中頭)、玉城彌助(国頭)、玉城啓正(国頭)製材所、田島亀吉(島尻)鋳物工場、田港朝福(国頭)商業、平良良栄(中頭)、祖堅加那(国頭)、津波久太郎(国頭)大工、津波時太郎(国頭)、津嘉山朝信(島尻)、瑞慶覧長眞(島尻)、根路銘安徳(中頭)、長田亀助(島尻)鋳物工場、長田浩(島尻)鋳物工場、仲宗根松(中頭)練炭工場、仲宗根四郎(島尻)製鋼所、中村清之助(国頭)製材所、仲村唯夫(島尻)、仲宗根平三郎(国頭)、仲泊栄久(島尻)伸銅所、仲宗根蒲吉(中頭)、仲嘉盛保(島尻)、仲尾眞静(国頭)商業


宮城源清(国頭)米穀商□1987年7月16日『沖縄タイムス』「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記」<14>□宮城ユキ(93歳)ー今帰仁サンタケ生まれ、兄弟に県視学、医師二人がいた。夫は羽地我部祖河生まれの宮城源清。源清が早稲田大を卒業し渡米、ユキは呼び寄せでロサンゼルスへ渡った。6年間で沖縄で借りた負債を返し帰沖。すぐ大阪へ。照屋源徳らと米穀店を大正15年に開店する。宮城清市は昭和5年、宮城源清、津波久太郎、宮城源一、翁長良孝、古我知昌繁らと羽地村人会を発足させた。

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
1158年 太宰大弐に任ぜられた平清盛は、太宰府に赴任することはなかったが、宋商船が運んでくる唐物に強い興味を抱き、やがて宋人を太宰府から瀬戸内海へと招いた。
☆神戸の灘の薬師さんの傍らで長年「国語」の研究に専念していた奥里将建翁、最後のまとめとして1964年「沖縄に君臨した平家」を沖縄タイムスに連載(10-8~12-11)した。□10月11日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」(4)怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」→「琉文21」雑誌『おきなわ』/1926年4月ー奥里将建『琉球人の見た古事記と萬葉』青山書店

1167年 平清盛、太政大臣となる

1260年 英祖王、即位
      ☆麦門冬・末吉安恭は「琉球画人伝」の中で、この時代を「仏教の起源と芸術の揺籃」と称す       補陀落僧禅鑑、葦軽船で琉球に漂着、英祖王保護のもと極楽寺(のち龍福寺)を創建
1281年 島津長久ら薩摩国の兵を率いて壱岐にて元軍を攻める。
1372年 1月、楊載、来琉
1377年 琉球国王察度、南山王承察度ら明に使者を遣わし馬、方物を貢す。北山王帕尼芝、明に使         者、方物を貢す。頼重法印(真言宗)、薩摩坊津から来琉。
1402年 足利義満、島津伊久に明を侵す鎮西海賊の取締を命ず。
       明使が北山第に足利義満を訪ね国書・大統暦、賜物を伝える。
1404年  時中、来琉し武寧に皮弁冠服が頒賜される。
1406年 武寧、寨官の子石達魯ら6人を明に遣わし国子監に学ばせる。
1410年 琉球国官生模都古ら2人、明の国子監に入り学を受ける。
1413年 中山王思紹、太勃奇を明に遣わし馬を貢し、寨官の子ウ同志久・周魯毎らを送り国子監で学ばせる
1415年 琉球国山南王汪応祖の世子他魯らを明朝に遣わす。足利義持、琉球国思紹に「りうきう国よ        のぬし」で書簡を送る。
1418年 琉球国中山王思紹、長史の懐機らを明に遣わす
1425年 柴山(中官)来琉、勅を齎らし巴志に中山王を嗣がせる。「中山門」扁額を掲げる。
1427年 安国山樹華木之記碑
1429年 巴志、三山統一 
1430年 巴志、明帝から尚姓を授けられる
1443年 朝鮮通信使の書状官として申叔舟が来日
1453年 朝鮮国、琉球国使者道安の齎らした日本琉球地図表装
1456年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し大聖寺、天尊殿、相国寺、普門寺、建善寺、長寿寺、天竜寺、広厳        寺、報恩寺、大安寺に寄進
1457年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し霊応寺、永福寺、大禅寺、上天妃宮、天妃宮、竜翔寺、潮音寺、万       寿寺、魏古(越来)に寄進
1458年 尚泰久王、万国津梁の鐘を正殿にかける。
       尚泰久王、梵鐘を鋳造し永代院に寄進
       尚泰久王、梵鐘を鋳造し一品権現御宝殿、東光寺に寄進
1461年 島津立久、尚徳の国王即位を祝い太平書を賜う
 
1466年 琉球国王尚徳の使者芥隠承琥、足利義政に拝謁、方物を献ず。
       □7月28日ー琉球の使者一行が将軍・足利義政に謁見、方物も献上する。
        8月1日ー琉球正使・芥隠西堂から蔭涼軒(季瓊)真蘂に大軸(中国から琉球国王に贈られ        たもの)、南蛮酒を贈る。(義政時代6度目の琉球人参洛)。
    

雪舟が描いた琉球人

『自治おきなわ』1996年7月号に私(新城栄徳)は「京都の博物館で『国々人物図巻』を見たことがある。明に渡った雪舟が北京の街で見かけた珍しい人びとを写生したものを弟子が模写したもので、その中に世界の海を駆け回ったイメージに重なる琉球人像がある。」と書いた。明代の類書『万金不求人』に和寇図と共に大琉球國人も載っている。長崎県立美術博物館の正保版『万国人物図』にも琉球人が登場している。多くの絵師たちが好んで万国人物図を画題にしていたようだ。私は雪舟の弟子の絵の写真(琉球人)を琉球新報の岡田輝雄記者に提供。これは1991年9月発行の『新琉球史』(古琉球編)に載った。同様に佐久田繁月刊沖縄社長に提供したものは99年9月発行の『琉球王国の歴史』に載った。

1474年 尚円、島津忠昌の家督相続を祝う
1480年 足利幕府、応仁・文明の乱が終わったので琉球に朝貢船を送るよう島津忠昌に催促させる。
1482年 琉球国尚真、奏して陪臣の子蔡賓ら5人を南京国子監において読書させることを乞う。
1492年 ドイツ人地理学者マルティン・ベハイム、地球儀を作成
1492年 尚真王、先王尚円を祀るため円覚寺建設に着手
1497年 万歳嶺記、官松嶺記を建設。円覚寺禅寺記碑
1502年 朝鮮王季揉から贈られた方冊蔵経収集のため円鑑池に小堂を建設(1621年に弁財天像を       安置)
1507年 尚真王、書を島津忠昌に送り修好の意志を伝える
1508年 島津忠治、尚真に書を送り、島津氏の印判(琉球渡海朱印状)を持たない商人を点検し船財       等を収公を許す
1510年 尚真王、官生蔡進ら5人を南京国子監において読書を乞う。
1527年 尚清王、智仙鶴翁を遣わし明皇帝の日本宛の国書を齎す。足利義晴、書を尚清に送り日明       和与の斡旋を謝す。
1530年 月船寿桂、「鶴翁(智仙)字銘并序」で為朝伝、琉球附庸説に言及。
1531年 『おもろさうし』第一巻、成る
1534年 5陳侃(正史)、高澄(副史)那覇着。7尚清冊封の礼。9冊封使、開洋。10陳侃『使琉球録』        著わす

1550年 5月4日ー足利義晴、近江穴太(現滋賀県大津市穴太)にて死去。享年40(満39歳没)。

1556年 島津貴久、尚元王が建善寺月泉を遣わしたことに答書し隣交を求める。
1561年 郭汝霖(正史)、李際春(副史)
1568年(永禄11)9月 織田信長、将軍足利義昭を奉じ上洛、当面の仮御所として義昭は本國寺に入      り、信長は清水寺を宿所とした。 
1569年(永禄12) 仮幕府のおかれた本國寺が襲撃にあったことから、信長は義昭のために二条城        (二条御所)を築く。
1569年(永禄12年)、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、ルイス・フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている。フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、戦国期研究における重要な資料の一つになっている。その後は九州において活躍していたが、1580年(天正8年)の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。1583年(天正11年)、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後に『日本史』とよばれることになる。→ウィキ

松田 毅一(まつだ きいち、1921年5月1日 - 1997年5月18日)は、日本の歴史学者。香川県高松市出身、大阪市育ち。専門は戦国時代から江戸時代初期の日欧交渉史、特にポルトガル・スペインとの関係史。ヨーロッパ各地(ポルトガル・スペイン・バチカン等)やフィリピン、マカオ等の文書館に保存されている日本関係史料の発見・翻訳・紹介に取り組み、また多数の著書・論文を発表して日本における上記分野の研究の進展に貢献する一方、こうした研究成果の一般市民への啓発・普及、関係諸国との学術・文化交流にも尽力した。→ウィキ

1575年 琉球国の紋船(使僧天界寺南叔、使者金武大屋子)、鹿児島に着く。印判を持たない商船に       交易を許したこと、島津使僧広済寺雪芩津興を粗略のことに島津氏に弁明。
1579年 簫崇業(正史)、謝杰(副史)来琉。簫崇業「那覇と首里の二ヶ所で、馬市(mashi)が設けら        れている。物を売るのはおおむね女-」。
1580年 琉球国尚真、島津義久に九州大半の帰伏を祝い隣交を求める。
1586年(天正14)  豊臣秀吉、聚楽第、方広寺大仏殿造営はじまる。
○国立博物館隣にある豊国神社は、豊臣秀吉死去の翌年の1599年、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。方広寺にあった大仏は、天保年間に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。この大仏は私もよく見にいったが1973年3月28日深夜の火災によって焼失した。


方広寺の大仏

1587年 島津義久、豊臣秀吉に降伏。
1590年 豊臣秀吉、尚寧王に書を送り、全国統一を強調。政化を異域に弘め四海を一家となす志を述べる。

1594年 尚寧王、島津義久に国家衰微のため唐入りの軍役は調達できない旨答える。
1602年 徳川家康、陸奥国伊達氏領に船で漂着した琉球人を島津忠恒に送還させる。
1604年 野国総官、渡唐、帰国(05年)のとき蕃薯を持ち帰る。
1605年 本多上野介正純、長崎奉行小笠原一庵に平戸漂着の琉球船の荷物没収を命ず。
1606年 山口駿河守直友、薩摩商人の渡海が琉球出兵の妨げにならないよう分別を促す。
1608年 山口駿河守直友、島津家久に、琉球出兵の準備と、再度琉球国王に家康への来聘を促す交渉を命ず。
1609年 3-4島津軍、琉球出兵で山川湊を出帆。

       

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
 1870年□名妓小三-鳥取藩士松田道之と祇園下河原の大和屋お里との間に、ぎん(鈴木小三)が生まれる。

写真ー名妓小三

1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。1872年9月に琉球藩が設置されると川崎正蔵も戸籍寮の根本茂樹らと来琉し沖縄物産調査を行った。川崎は「日琉間に郵便定期航路を開き、武断政策よりも経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島密に認められた。

1875年9月、日本国郵便蒸気汽船会社解散にともない明治政府は大有丸を琉球藩に下付。11月、郵便汽船三菱会社が琉球航路を開始した。

1876年8月27日の『朝野新聞』に「沖縄は他県からの商人50人、陸軍省派遣の職工138人、女性1人」と報じられた。同年、琉球正史『球陽』の書き継ぎが終わっている。


1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった


1879年5月4日 京都『西京新聞』「琉球ばなし」

1879-5-27 藩王尚泰、東海丸で東京向け那覇港出帆(6-4神戸で2泊)

1880年6月に、郵便汽船三菱会社の貫効丸が琉球、鹿児島・大島、神戸間を運航をはじめた。翌1881年3月に東京上野で開催の第二回内国勧業博覧会に沖縄からも織物、陶器、漆器が出品された。

1881年5月18日に上杉茂憲が沖縄県令として赴任してきた。7月の大阪『朝日新聞』に「沖縄県泡盛酒」の広告が載った。翌1882年の『朝日新聞』の3月「首里城が陸軍省所轄永世保存城と定まる」の記事、6月には「琉球カスリ-西平筑登之」の広告も載った。



1882年11月16日、第1回沖縄県費留学生の大田朝敷、謝花昇、岸本賀昌、高嶺朝教、今帰仁朝蕃が那覇港から平安丸で上京、29日には神戸に寄っている。
1883年4月に岩村通俊が沖縄県令として赴任した。12月には西村捨三が沖縄県令となる。

1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。→1996年6月『大阪春秋』堀田暁生「自由亭ホテルの創業ー大阪最初のホテルー」

1885年2月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し金毘羅宮①参詣。西村は中井弘(櫻洲山人)滋賀県令と計り尚泰に近江八景遊覧にさそう。8月には元彦根藩士で西村と同士であった横内扶が沖縄県七等属として赴任する。9月、郵便汽船三菱会社、共同運輸会社と合併し日本郵船会社となる。1886年3月、山県有朋内務大臣、益田孝、西村捨三らと同行し来沖。


写真ー西村捨三
生年: 天保14.7.29 (1843.8.24) 没年: 明治41.1.14 (1908)
明治期の官僚。父は彦根藩(滋賀県)作事奉行西村又治郎,母は貞。幼君井伊愛麿(直憲)に仕え,藩校弘道館に学んだのち同館国学方教授長野義言(主膳)の推薦を得て藩命により江戸に留学,塩谷宕陰に学んだ。この留学中の放蕩に対し,父が幼名の得三郎を捨三に改めると訓戒したのが名の由来。のち一代限騎馬徒士,藩校教授となる。その間京都周旋方として情報収集に当たり,大政奉還後は朝旨遵奉という藩の方針の下で東山道征討に参加した。明治5(1872)年旧藩主直憲に従い欧米を視察,10年内務省に出仕し,警保局長,土木局長などを歴任した。22年大阪府知事に転じ淀川改修,上水道整備に尽力し,次いで農商務次官のとき平安神宮創建に参画。大阪築港にも貢献した。
(コトバンク・長井純市)


①ことひら‐ぐう 【金刀比羅宮】
香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町にある神社。祭神は大物主神を主神とし、崇徳天皇を配祀(はいし)。海上安全の守護神として信仰される。明治初頭までは神仏習合で、象頭山(ぞうずさん)金毘羅(こんぴら)大権現と称した。琴平神社。こんぴらさん。→コトバンク


写真ー尚泰

1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。



1889年12月11日『大阪朝日新聞』「琉球の和歌」


写真ー丸岡莞爾 まるおか-かんじ
1836-1898 幕末-明治時代の官僚,歌人。
天保(てんぽう)7年5月28日生まれ。鹿持雅澄(かもち-まさずみ)に国学をまなび,坂本竜馬(りょうま)らとまじわり脱藩して長崎にすむ。維新後,内務省社寺局長などをへて沖縄県知事,高知県知事となる。明治31年3月6日死去。63歳。土佐(高知県)出身。本姓は吉村。字(あざな)は山公。通称は三太,長俊。号は建山,掬月,蒼雨など。歌集に「蒼雨余滴」。(コトバンク)

1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。

□琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一が父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』

六孫王神社
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□六孫王は、清和天皇の六男を父として生まれ、経基と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていた。十五才にて元服、源の姓を賜わり、先例に従い臣籍に加えられたとある。承平・天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられた。王は現在の社地に住居を構え、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言された。王の長子満仲公は遺骸を当地に埋葬され(本殿後方に石積の神廟がある)その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりである。(平安時代中期)
 境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社がある。(6月13日弁財天御開帳祭)
 江戸時代五代将軍綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。毎年十月体育の日に例祭(再興が元禄より始まり宝永年間に完成したゆえ別名“宝永祭”とも謂われる)が行われる。
 王の後裔には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将が多数輩出され、それぞれ子孫繁栄されている。
 昔は、六ノ宮権現とも呼ばれ、今昔物語に「六の宮」それを基に芥川龍之介が「六の宮の姫君」にも載せている。小泉八雲著の「怪談」には、「弁天の同情」と題して不思議な夫婦の出会いの話が紹介されている。

「小泉八雲」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会
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大城弘明氏撮影

1898年、那覇の喜屋武元持が酒造原材料仕入部を大阪に設置。小嶺幸之は大阪の漆商鳴神孫七と特約し製漆販売を開始、小嶺は後に広運社の常務になる。教育家・高良隣徳は滋賀師範学校教諭から奈良県立中学校教諭として赴任。1899年4月、在阪の銀行、商船会社、商店などの沖縄に縁故がある人たちが集う懇親会が大阪西長堀の岸松館で開かれた。

へいあんじんぐう【平安神宮】
京都市左京区に鎮座。桓武天皇と孝明天皇(1940年合祀)をまつる。桓武天皇の平安京遷都1100年記念祭に当たり,官幣大社として1895年創建された。社殿は平安京の大極殿,応天門を模したもの。例祭は4月15日。10月22日には神幸祭があり,平安時代より明治維新までの服装・風俗をまね,時代順に行列・供奉するので時代祭と称し有名である。境内の神苑は名園として名高い。→コトバンク

□大阪市港区の天保山公園には大阪港築港の功労者、第六代大阪府知事の西村捨三の銅像がある。西村捨三は彦根藩の出身で、若き日に井伊家第17代直憲に仕えた。西村翁は往時を偲んで、井伊家の庭園にあった名石朝陽岡をもらい受け、自宅の庭に置いていた。昭和32年西村翁の銅像を建設するに当たってこの石もこの地に移されることになった。

1909年4月『琉球新報』□師範中学旅行生の消息ー4月6日、火曜日、神戸、京都 午前9時半汽車にて神戸駅を発し12時京都に着。直ちに東本願寺に参詣致し建築の壮大な に驚き入り候。これより途中耳塚を右に見立て豊国神社に詣で旧伏見桃山殿の唐門大仏殿、国家安康の大鐘を見て博物館に入り歴史美術上の珍品に知囊を養い三十三間堂を経て桃山御殿に詣で血天井を見。妙法院西大谷を過ぎて清水寺に詣で候・・・。


写真ー池上四郎ー1877年、池上は警視局一等巡査として採用され、間もなく警部として石川県に赴任した。その後、富山県などの警察署長、京都府警部などを歴任し、1898年からは千葉県警察部長、兵庫県警察部長を務めた。1900年には大阪府警察部長となり、その後13年間に渡って大阪治安の元締めとして活躍した。その清廉で、自ら現場に立ち責任を果たす働きぶりと冷静な判断力は、多くの市民からの信頼を集めた。1913年、市政浄化のため、池上は嘱望されて大阪市長に就任した。財政再建を進める一方、都市計画事業や電気・水道事業、さらには大阪港の建設などの都市基盤を整備し、近代都市への脱皮を図った。御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現を見た。また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。1923年には大阪電燈株式会社を買収し、電力事業を市営化した。また1923年9月に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。(ウィキメディア) 池上の曾孫が沖縄に何かと縁がある秋篠宮紀子さん


1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1955年3月『明治文化全集 月報№3』日本評論新社 木村毅「未開拓の新聞史源」
○日本の新聞史の材料も、国内にあるかぎりは、小野秀雄氏を主軸として何十年にわたる努力の累積で、九分九厘までほり出されたといってよかろう。オランダ関係の史源は板沢博士によって、かなり明かにされてきている。これに反しアメリカは、英語だから、着手できる人が多いにかかわらず、その史源がほとんど処女地のままで、うっちゃらかしになっているように思う。
 日本の新聞の元祖は、ジョゼフ彦である。彦は自伝があり、さらに故人の石井研堂翁や小野氏によって、まだ生存していたころ、未亡人までたずねて、埋もれた資料が開発せられたので、あそこまで探索されておれば、吾々はその努力と成果に一おう満足せねばならぬ。(略)明治維新や、さらに咸臨丸の太平洋横断よりも、更にさかのぼって、ペリイの黒船来航以前のジョン・万次郎やジョゼフ・彦時代から、新聞記事をあさってくれば、今まで不明だった国史の陰影が多少ともうかび出てくるであろうし、ことに彦は、その後ワシントンにいってからも、社交界の寵児としてひどく新聞でさわがれているのだから、これらの記事だけは、誰かによって、コピイされて、日本におくられることを希望してやまない。

1955年6月『明治文化全集 月報№5』木村毅「櫻洲山人をめぐりて」
○本全集の読者は、だいたいアカデミックな学風を愛する人が多いと思う。そういう人は正史にこだわって、小説や、巷説や、伝聞を無視するうれいがある。しかし、それにも時代の雰囲気としての正しさは含蓄されている筈だから、これを参考にしないでいい理由はない。中井桜洲山人などは、ことに、その方面の材料の多い人物だ。(略)あの頃の風流人のならいで、桜洲の家庭は吾々の模範になるようなものではなかったと思うが、私は、この人の風格は非常にすきで、いつか一度小説にかいてみたいと思って、前に、いろいろ材料をあつめたことがあったが、今は多く散逸してしまった。