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 2017年11月23日 沖縄大学同窓会館「おきなわに『自治の風』をーおきなわ住民自治研究所設立総会」宮本憲一「記念講演/沖縄の地方自治とその歴史と未来」
〇『沖縄タイムス』2016年9月2日 沖縄県外の有識者でつくる「普天間・辺野古問題を考える会」(代表・宮本憲一①大阪市立大名誉教授)は9日、東村高江周辺のヘリパッド建設などを強行する政府に対し、抗議声明を発表する。ノーベル文学賞作家の大江健三郎さんら計71人(8月31日現在)の有識者が声明に賛同しており、名護市辺野古の新基地建設と高江のヘリパッド建設に対し「沖縄の人権・自治・環境・平和を侵害する不法な強権発動を直ちに中止せよ」と訴え同会は9日に東京の参院議員会館で記者会見を開き、声明を発表する。事務局を担当する寺西俊一一橋大学名誉教授は本紙の取材に「安倍政権は、民主主義に基づく法治国家にあるまじき、極めて無法な強権的対応を強めている。本土から声を上げ、さらに賛同の輪を広げたい」と話した。同会は昨年4月にも、辺野古新基地建設の作業中止を求め、安倍晋三首相宛てに緊急声明と8千人を超える署名を提出している
①宮本 憲一(みやもと けんいち、1930年2月19日 - )は、日本の経済学者。元滋賀大学学長、大阪市立大学名誉教授、滋賀大学名誉教授。専門は財政学、環境経済学。経済学博士(京都大学)(1972年)。
〇1980年6月『青い海』94号 「沖縄問題研究センター(上江洲久理事長)設立総会/宮本憲一大阪市大教授が記念特別公演『基地がある限り、自治はない』と語り、財政学の立場から、沖縄の現状を分析しました。」

 「くろねこの短語」2017年11月22日ー(前略)でもって、籠池夫妻は森友学園疑獄のスケープゴートとして逮捕され、いまだに接見禁止付きの不当拘留が続いていることを忘れてはいけない。これこそ典型的な代用監獄で、人質司法もここに極まれりってことなんだね。そんな中、籠池夫妻が保釈申請をした。果たして裁判所の判断やいかに・・・相撲取りによる傷害事件の数百倍も意味のあるニュースなんだから、新聞・TVはちったあ仕事しろ! 
ところで、山口ノリマキがこのところネットTVで復帰してるんだが、そうはさせてたまるかってんで、超党派による「『詩織さん事件』を追及する議連」が、逮捕状失効停止について警察庁と法務省からヒアリングをした。警察庁は「よくある話」と逃げをうったようだが、だったらこれまでにそんなケースが何件あったのか報告しろって詰め寄ったってね。森友も加計もノリマキも、ビシバシ追求することだ。敵は一般大衆労働者諸君の「忘れっぽさ」を利用しようとしているんだから、追求する側はとにかく手を緩めることなく、新たな情報を流し続けること。新聞・TVがアテにならなくったって、いまの時代は情報拡散の手段はいくらでもあるんだからね。

 「くろねこの短語」2017年11月22日ー(前略)でもって、籠池夫妻は森友学園疑獄のスケープゴートとして逮捕され、いまだに接見禁止付きの不当拘留が続いていることを忘れてはいけない。これこそ典型的な代用監獄で、人質司法もここに極まれりってことなんだね。そんな中、籠池夫妻が保釈申請をした。果たして裁判所の判断やいかに・・・相撲取りによる傷害事件の数百倍も意味のあるニュースなんだから、新聞・TVはちったあ仕事しろ! 
ところで、山口ノリマキがこのところネットTVで復帰してるんだが、そうはさせてたまるかってんで、超党派による「『詩織さん事件』を追及する議連」が、逮捕状失効停止について警察庁と法務省からヒアリングをした。警察庁は「よくある話」と逃げをうったようだが、だったらこれまでにそんなケースが何件あったのか報告しろって詰め寄ったってね。森友も加計もノリマキも、ビシバシ追求することだ。敵は一般大衆労働者諸君の「忘れっぽさ」を利用しようとしているんだから、追求する側はとにかく手を緩めることなく、新たな情報を流し続けること。新聞・TVがアテにならなくったって、いまの時代は情報拡散の手段はいくらでもあるんだからね。

 「くろねこの短語」2017年11月20日ー(前略)ところで、性懲りもないとはこのことか。沖縄でまたしてもアメリカ兵の酒気帯び運転で市民が事故死。相撲取りの傷害事件の乱痴気騒ぎが嘘のように、ほとんど三面記事のようにしか報道しない新聞・TVにはほとほと呆れます。

日本共産党沖縄県委員会事務所前でアメリカ軍海兵隊員による死亡事故、少し先には共産党事務所の数倍大きな建物、公明党を支える創価学会の会館があり、こじんまりしたパーフェクトリバティー教団沖縄教会を経ての、その先には創価会館の数倍大きい琉球新報本社がある。/アメリカ軍基地容認の諸悪の元凶・自公が沖縄にまだ存在している。かつ、現実には自民党候補者が堂々と名護市長選挙で立候補、それを良しとするオキナワ県民が居るということだ。アベ自公政権による辺野古核基地工事も粛々と進んでいる。
 ネットで飛び交っているものに「菅 義偉官房長官の息子(三男)さんが、大成建設にいる。辺野古の基地は大成建設が工事している。新国立競技場A案は大成建設。だから粛々と工事を進めるわけね。」
 
『しんぶん赤旗』11月19日「在日米軍事件・事故21万件」/『しんぶん赤旗』11月21日「飲酒死亡事故 沖縄知事が米軍に抗議」
 『沖縄タイムス』11月20日ー19日午前5時25分ごろ、那覇市の国道58号泊交差点で、南向けに飲酒運転で直進してきた米軍2トントラックと、対向車線から右折しようとした那覇市宇栄原の会社員の男性(61)の軽トラックが衝突し、男性は搬送先の病院で死亡した。那覇署は同日、米軍トラックを運転していた在沖米海兵隊牧港補給地区所属の上等兵の男を容疑者(21)を自動車運転処罰法違反(過失運転致死)と道交法違反(酒気帯び運転)の疑いで逮捕した。


 1982/10/15 前田寿夫『軍拡!日本の破滅 恐るべきアメリカの戦略との決別』文化創作出版
押しつけられた日米安保ーもともと日米安保条約などという代物は、米国が”戦勝国の権利〝をカサに着て、いやがる日本にむりやり押しつけたもの。サンフランシスコ講和条約会議(1951年)当時、”独立回復〝とセットにして、こっちを認めなければあっちも認めないと、独立回復を待ち望む日本に強制したのが、日米安保条約であります。米側が日本国民の反対を恐れて、講和会議の直前まで日本側に条約草案をみせなかったこと。条約草案を突きつけられたとき、当時の政府首脳が、”これでは占領の継続じゃないか〝と大きなショックをうけたこと。これらは、いずれも周知の事実であります。いわば、日本国民の関心をもっぱら講和条約それ自体に向けさせて、そのドサクサにまぎれて日本政府に押しつけたわけです。

 旧安保条約の前文には、いかにもわが国の方から頼み込んでこの条約を結んだようなことが書かれていますが、とんでもありません。米国は、これによって、講和条約発効後も、ひきつづき米・占領軍を無期限に日本に居座らせることができるしどのようにでも日本の基地を利用することができる。しかも、”日本国政府の要請に応じて〝という条件つきながら、米軍を、”日本国の内乱や騒じょう〝の鎮圧に使用することもできる。また、日本に”自衛力漸増〝の責任を負わせ、うまくいけば米戦略の一翼をになわせることもできる。そのうえ、条約に付随する行政協定によって、米軍の駐留費を分担させられるわ、その将兵に治外法権を認めさせられるわ。これが旧安保条約の内容であります。誰がこんな条約を結びたいなどと頼み込むものですか。

前田寿夫 まえだ-ひさお
1919- 昭和後期-平成時代の軍事評論家。
大正8年12月8日生まれ。もと陸軍中尉。東海大助教授をつとめたのち防衛庁の防衛研修所(現防衛研究所)にはいり,昭和48年第一研究室長。安全保障政策を担当し,55年退職。在職当時の講義内容をまとめた著書「間違いだらけの防衛増強論」で知られる。栃木県出身。東京商大(現一橋大)卒。 →コトバンク
 
 『デーリー』2017年8月12日ー東北米軍普天間飛行場所属の新型輸送機オスプレイ4機が11日、青森県三沢市の三沢基地に着陸した。先月29日に飛来した1機と合わせ、三沢にいる機数は計5機となった。国は11日に飛行再開容認を表明したが、地元に対する説明不足の側面は否めず、住民や自治体関係者からは安全対策の徹底などを求める声が相次いだ。(略)森県の三村申吾知事は「オスプレイが三沢基地に飛来したことは誠に遺憾」とし、国の責任において整備や飛行での安全対策を徹底するよう東北防衛局に文書で要請した。/『毎日新聞』米軍の新型輸送機オスプレイ5機が12日、米軍三沢基地(青森県三沢市)から、岩国基地(山口県岩国市)に向かった。目的は不明。
 関連/2014年6月ージュンク堂那覇店に行くと、「嫌中、嫌韓」といった雑誌本が多い中、目に飛びこんだのが斉藤光政『在日米軍最前線ーあなたが知らない日本列島の現実』新人物文庫であった。以前三沢関係で古本屋で買ったものを改めてみると同じ著者で『米軍「三沢」基地ミサワー核と情報戦の真実』2002年3月同時代社があった。
斉藤光政 さいとう みつまさ
斉藤 光政は、日本のジャーナリスト。岩手県盛岡市に生まれ、青森県八戸市に育つ。成城大学法学部卒。1983年、東奥日報社に入社。和田喜八郎による東日流外三郡誌をはじめとする古史古伝文書をめぐる社会問題である和田家文書偽書事件の報道に関わったことでも有名である。 ウィキペディア




三沢市観光ガイド


 


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2017年11月1日~12月23日 立命館大学国際平和ミュージアム1階 中野記念ホール「儀間比呂志版画展ー沖縄への思いー」

2017年11月 立命館大学国際平和ミュージアム 図録『儀間比呂志版画展』新城栄徳「儀間比呂志と関西」

2017年11月 立命館大学国際平和ミュージアム 図録『儀間比呂志版画展』豊見山愛「いま、儀間比呂志の絵と向き合うことの意味」


1956年5月12日~14日 第一相互銀行(3階)「儀間比呂志 個人展」〇私は現代の沖縄に生きる人間像への創造を続けています。現代人の苦悩不安あらゆる困難なる時代にたくましく生きるオキナワのすがたは私に大きな感動をあたへます。出品作『生きる』『待つ』『あんまー』等はその一連のこころみですが造形的な処理に未だ難点を残して居りますし思想と造形を如何に立体的に構式するかが今後の私の課題なのです。

1956年5月16日『沖縄タイムス』新川明「沖縄画壇の収穫ー(儀間比呂志個展評)」

立命館大学は西園寺公望を「学祖」としている。

1936年12月19日「秘蔵珍品 骨董品物語」〇西園寺公書小幅ー漁家在江口 潮水入柴扉/行客欲投宿 主人猶未歸/竹深村路遠 月出釣船稀/遥見尋砂岸 春風動草衣


2013年11月 金子豊・編『松山王子 尚順 全文集』榕樹書林
 1935年12月『琉球新報』ー「尚順男爵は貴族院時代、西園寺公望公の書を得たいと切望し公の甥高千穂男爵を介して公に申し出たが容易に望みを達しなかった。丁度其の頃大正4年、公が須磨に隠れて居られたことがあった。公は儒者の書が好きで京都の鳩居堂主人、熊谷氏が公の処に出入りしていたが、尚順男爵はこの鳩居堂と懇意であったので、或る時、尚順男爵は詩を鳩居堂に託し折があったら公へ御覧に入れるよう依頼しておいた。公は此の詩を御覧になりそれ程熱心かと云われて小幅を書いてくださった」。尚順と西園寺公との縁はこれで終わらない。尚順の次男尚誠の長女悦子(白光真宏会第二代会長、ワールドピースプレヤーソサエティ代表、公益財団法人五井平和財団会長)は1974年(昭和49年)10月18日、西園寺不二男次男の西園寺裕夫との結婚に伴い、西園寺昌美となる。


新川明氏、儀間さん/福地さん、墨絵画家の金城美智子さん、儀間さん






儀間さんと、野原さん/新川明氏、石野朝季氏(右)

1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)

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 「くろねこの短語」2017年11月19日ー(前略)内閣官房参与 15人も必要? 自民野党時「多すぎる」 。「お友だち内閣」と揶揄された前政権時代そのままに、相も変わらずの「公私混同」ぶりってわけで、ペテン総理のやらかすことはすべてその延長線上にあるんだね。でもって、「公私混同」の典型である加計学園疑獄では、獣医学部新設が認可されたのを待っていたかのように、読売新聞に全面広告が掲載された。なんてったって、獣医学部新設は国家戦略特区の一環なんだから、へたするとこの広告費も税金から出てるんじゃないのか。全国紙の全面広告となれば数千万円はかかりますからね。森友学園同様、加計学園もまだ終わったわけじゃないのに、この全面広告はペテン政権の終了宣言ってことか。とすれば、国民舐めてるなあ、と改めて思い知らされる日曜の朝である。

 『沖縄タイムス』2017年11月17日ー(前略)ー米側では県の許可を歓迎する見方が広がっている。ある国務省筋は「埋め立て承認の効力は生きており、県もそれに沿って対応していくということが確認できた」と述べ、県には法的に工事を止める手段がないのだから、工事は今後も進んでいくとの見通しを語る。国防総省筋は「陸路に比べ、大量の資材搬入が可能になった。工事を加速する手助けであることは間違いない」「事態はまた一歩前進した。埋め立て承認を撤回したとしても、今回の許可との矛盾で展開は県に不利になるのではないか」との見解を示す。
 県外移設を掲げていたのに埋め立てを承認し、「法的に不備がないから許可した」と自己弁護を繰り返した仲井真前県政、そして「法に則って」のフレーズを多用して工事を強行する安倍政権。米側には翁長県政も同一線上に並んだと分析する声もあるようだ。(略)新基地建設計画をめぐり責任を問われるべきは工事を強行する日米両国だ。その両政府に沖縄が立ち向かうには、一寸の緩みもないほどに内側を引き締め、一枚岩となる必要がある。「あらゆる手段で建設を阻止する」と言いながら、工事を加速させる許可がなぜ出せるのか。知事は自身の言行不一致への理解を求めるのではなく、直ちに許可を取り消す必要がある。(米国特約記者・平安名純代)

 「くろねこの短語」2017年11月17日ー(前略)でもって、加計学園獣医学部新設なんだが、就任予定だった教授の中に辞退者が出てきたってね。なんてったって、「獣医学部のある16の大学中、最低レベル」とまで噂されてますからね。まじめな研究者であれば、腰が引けるのも分かろうというものだ。
 で、笑っちゃうのが、獣医学部新設の目玉である「バイオセーフティーレベル3(BSL3)」の研究施設なんだね。狂犬病や結核菌などの病原体を扱うこの実験室は、一歩間違えると「バイオハザード」の危険があると言われていて、当然、大学審議会もそこんところは厳しく問いただしている。それに対する加計学園の回答ってのが凄いんだね。なんと、「人獣感染症実習では動物は使わず」「シミュレーション動物(ぬいぐるみ)を用いる」んだとさ。実際の動物を使わずにでダミーで実習とは、「世界に冠たる獣医学部」(雲隠れ孝太郎)が聞いて呆れる。それにしても、「シミュレーション動物」って、なんのこっちゃ。
 さらに、動物で言えば、実習に天然記念物の野間馬を利用するという話ある。これは明らかな条例違反で、こうしたことが国会でもまったく議論されないというところにも、加計学園疑獄が抱える深い闇があるんだね。最後に、野党の質問時間削減の危険性について、毎日新聞が警鐘を鳴らしている。ちょいと長いけど、ご一読を。(略)

圧政や腐敗と並んで、貧困は過激主義の栄養源
伊江島―高江―辺野古を結ぶ悪魔の三角形



自民党の勉強会の講師役でアイアムソーリ首相と親しい作家の百田尚樹氏が、アベ政権に批判的な沖縄の地元紙について「沖縄の二つの新聞社は絶対つぶさなあかん」などと発言して話題になったが、地元紙は最近は触れていない。


 『しんぶん赤旗』11月17日/『しんぶん赤旗』日曜版  11月19日号 スクープ 鶴保庸介・前沖縄担当相に重大疑惑 辺野古の米軍新基地工事に参入を狙った業者が激白。「大臣室で7回面会」、鶴保氏の後援会長に1千万超の資金も。選挙支援や飲食接待を受けた鶴保氏は便宜を図り…。大臣室での2ショットやLINEのやりとりも公開。

 『琉球新報』11月16日ー名護市辺野古の新基地建設工事に使用する石材搬出のために沖縄県が国頭村の奥港の使用を許可したことについて「基地の県内移設に反対する県民会議」の山城博治共同代表らが15日、県庁を訪れ、県に使用許可を撤回するよう要請した。謝花喜一郎知事公室長は「一つ一つの事案が、埋め立て承認の撤回につながっていく」と述べ、知事による埋め立て承認撤回という形で最終的には対応していきたいとし、理解を求めた。山城共同代表は「知事はあらゆる手段で新基地に反対すると言っていたが、現状は公約違反、言行不一致だ」と厳しく批判した。
 さらに、知事の言葉を引用し「知事は県民に『なまからど。まきてーないびらん(今から、ここからだ。負けてはならない)』などと言ってきたが、このままでは『話くわっちー(話のごちそう)』は知事の方だと、言葉をそのままお返しせざるを得ない」と皮肉を交え、「知事には『もうおしゃべりはやめて、やることやって』と言いたい」などと述べ、政治判断による早期撤回を重ねて求めた。

 「くろねこの短語」2017年11月16日ー(前略)でもって、ひどかったのはヤンキーだけが売りの元暴力教師・義家君だ。そもそも、この男は、加計学園獣医学部新設が議論されている時の文科副大臣なんだよね。つまりは当事者だ。そんな輩が質問に立って、あろうことかのっけから「文部科学省の組織的な天下り斡旋に自身も関与を指摘され引責辞任をされた前川前次官、恣意的な報道を繰り返してきたマスコミのみなさま、また、野党議員による根拠はないが結論はありきといった姿勢の追及に対し、忸怩たる思いを抱いてまいりました」って、野党やマスコミだけでなく、証人喚問という中で証言した前川氏までを貶めるような演説始めちゃうんだから何をかいわんやなのだ。
 こんなことのために与党の質問時間増やしたとしたら、もう国会というのは議論の場ではなくて、自己弁護と政敵を罵倒するためにあるようなもんなんだね。こんなクソ発言にさらに輪をかけたのが、史上最低の議員・足立君で、なんとまあ「立憲民主党の福山幹事長と希望の党の玉木代表は、獣医師会側から献金をもらっている。献金をもらって、仮に、請託を受けて、あっせんし、国会質問をしていれば、すなわち犯罪者で、私は犯罪者だと思っている」だとさ。ハッキリ言います、クズ野郎です。

→ウィンザー通信

 『琉球新報』11月15日ー「社説/(前略)県は法律に基づいて判断すると、不許可にできる理由がなかった」としている。つまり、公約に反することにつながることであっても、行政は法律に従う以外にないということだ。県が恣意(しい)的に法律を解釈するようなことがあれば、岩礁破砕許可が切れたにもかかわらず「許可申請は必要ない」と強弁する国を批判することはできない。
 知事に対する批判が高まれば、国の強硬姿勢を勢いづかせることにもなりかねない。一方で、知事は新基地建設を阻止するためにも埋め立て承認の撤回を急ぐ必要がある。知事は8月の県民大会で「県の再三の要請にも行政指導にも応じず、工事を強硬に推し進める状況は、必ず埋め立て承認撤回につながっていく。撤回の時期を私の責任で決断する」と述べていた。決断する時期は既に来ている。埋め立て承認撤回の時だ。

 「くろねこの短語」2017年11月15日ー質問時間問題で野党がごねているように見せかけて、審議入りしないうちに予定通りに加計学園獣医学部新設認可しちまいました。しかも、ペテン総理が外遊中というタイミングというのもふざけたもんです。さらに、獣医学部新設認可のニュースをつぶすかのように、ぼったくりバーのチーママ・小池君が希望の党代表を辞任。そして、場所が始まったばかりなのに、突如の横綱による傷害事件の発覚と続くんだから、「手を回しやがったな」と勘繰りたくもなろうというものだ。
 どれもこれもロクなニュースじゃないのがやり切れないところで、チーママ小池君も日馬富士も引退勧告が妥当なところだろう。もちろん、国家戦略特区を口実に税金使った獣医学部新設ビジネスに関与した連中は、市中引き回しの上獄門だ!。(略)へたすりゃ、そういう圧力はペテン政権にとっては渡りに船だったんじゃないのかねえ。なんてったって、被爆国でありながら核兵器禁止条約に見向きもしない国ですからね。そりゃあ、高校生に核反対のスピーチされたら面子丸つぶれだもんね。「日本を取り戻す」なんて喚いたところで、高校生のスピーチひとつ守れないんだから、「この国を守り抜く」なんてのはしょせんは世迷言ってことだ。

 『琉球新報』2017年11月13日ー沖縄防衛局の職員が7日、国頭村奥の糸満盛也区長を訪れ、海上輸送について13日に実施すると伝えた。糸満区長によると、沖縄防衛局は海上輸送とダンプカーによる資材搬入について説明した。糸満区長は「区民に説明のないままでの搬送開始は受け入れられない」と述べたが、防衛局側は「すでに業者に依頼しており日程の変更は難しい。沖縄防衛局の責任で実施する」とし、期間は11月初旬から2018年3月31日までと説明を受けたという。
 奥に住む玉城壮さん(75)は「区民に何の説明もない。それが一番の問題だ」と防衛局の対応を批判した。さらに「ダンプが頻繁に来たら騒音や排ガスをまき散らす。港は学校のすぐ隣。翁長雄志知事は工事を絶対に阻止すると言ってるのになぜ許可したのか」と憤った。
 宮城恵子さん(60)は「怒りで煮えたぎっている。こんな静かな集落にダンプが1日何回も往復されたらたまらない。年配の人が多く、手押し車で歩いている人も多い。港までの狭い道を通るととても危険だし、許してはいけない」と強調した。
 これまで石材は本部町と国頭村から名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブまで、大型ダンプカーが陸路で運んでいた。台船1隻に搭載される石材は、陸上輸送していたダンプカー200台分以上の積載量に相当し、海上輸送で大量搬送が可能になる。県はK9護岸の利用が実施設計の変更に当たるとし、工事の停止を求めているが、9月には海上輸送に伴う奥港の岸壁と港湾施設用地の使用許可を出した。本部町は10月、本部港(塩川地区)の荷さばき地の使用許可を出している。

『沖縄タイムス』2017年11月13日ー沖縄平和運動センターの山城博治議長は10日、名護市辺野古の新基地建設で、県と本部町が護岸建設用石材の海上運搬を請け負った業者に奥港(国頭村)と本部港の使用を許可したことについて「これまで翁長雄志知事を正面から批判したことはないが、覚悟を決めて翁長県政と向き合う必要が出てくる」と話し、近日中に県庁に出向いて県側の意向を確認する方針を示した。那覇市の八汐荘であった同センター定期総会のあいさつで語った。総会での発言について「翁長知事を支えることは変わらない」と強調し、「知事として腹を据えて新基地阻止に向けて取り組んでほしいという激励の意味だった」と説明した。
 新基地建設に反対する市民の中には、「あらゆる手法で新基地建設を阻止する」という知事の姿勢と、業者への港使用許可が「逆行している」との批判がある。山城議長は「ゲート前で日々座り込みをしている市民、多くの県民の思いを知事はしっかりと受け止めてほしい。現場の判断ではなく、知事としての判断はどうなのか知りたい。まずは15日に職員から話を聞く予定だ」と話した。

 

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
 1158年 太宰大弐に任ぜられた平清盛は、太宰府に赴任することはなかったが、宋商船が運んでくる唐物に強い興味を抱き、やがて宋人を太宰府から瀬戸内海へと招いた。
☆神戸の灘の薬師さんの傍らで長年「国語」の研究に専念していた奥里将建翁、最後のまとめとして1964年「沖縄に君臨した平家」を沖縄タイムスに連載(10-8~12-11)した。□10月11日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」(4)怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」→「琉文21」雑誌『おきなわ』/1926年4月ー奥里将建『琉球人の見た古事記と萬葉』青山書店

1167年 平清盛、太政大臣となる

写真ー重要文化財本堂 昭和大修営落慶記念  昭和四十四年五月十八日 六波羅蜜寺
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
 現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
 源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8,000基が出土した。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。

1260年 英祖王、即位
      ☆麦門冬・末吉安恭は「琉球画人伝」の中で、この時代を「仏教の起源と芸術の揺籃」と称す       補陀落僧禅鑑、葦軽船で琉球に漂着、英祖王保護のもと極楽寺(のち龍福寺)を創建
1281年 島津長久ら薩摩国の兵を率いて壱岐にて元軍を攻める。
1372年 1月、楊載、来琉
1377年 琉球国王察度、南山王承察度ら明に使者を遣わし馬、方物を貢す。北山王帕尼芝、明に使         者、方物を貢す。頼重法印(真言宗)、薩摩坊津から来琉。
1402年 足利義満、島津伊久に明を侵す鎮西海賊の取締を命ず。
       明使が北山第に足利義満を訪ね国書・大統暦、賜物を伝える。
1404年  時中、来琉し武寧に皮弁冠服が頒賜される。
1406年 武寧、寨官の子石達魯ら6人を明に遣わし国子監に学ばせる。
1410年 琉球国官生模都古ら2人、明の国子監に入り学を受ける。
1413年 中山王思紹、太勃奇を明に遣わし馬を貢し、寨官の子ウ同志久・周魯毎らを送り国子監で学ばせる
1415年 琉球国山南王汪応祖の世子他魯らを明朝に遣わす。足利義持、琉球国思紹に「りうきう国よ        のぬし」で書簡を送る。
1418年 琉球国中山王思紹、長史の懐機らを明に遣わす
1425年 柴山(中官)来琉、勅を齎らし巴志に中山王を嗣がせる。「中山門」扁額を掲げる。

1427年 安国山樹華木之記碑

右ー沖縄県公文書館玄関にある安国山樹華木之記□首里王城の威容を増し、合わせて遊息の地とするため、王城の外の安国山に池(龍潭)を掘り、台を築き、松柏・花木を植え、太平の世のシンボルとして永遠の記念とする。

1429年 巴志、三山統一 
1430年 巴志、明帝から尚姓を授けられる
1443年 朝鮮通信使の書状官として申叔舟が来日
1453年 朝鮮国、琉球国使者道安の齎らした日本琉球地図表装
1456年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し大聖寺、天尊殿、相国寺、普門寺、建善寺、長寿寺、天竜寺、広厳        寺、報恩寺、大安寺に寄進
1457年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し霊応寺、永福寺、大禅寺、上天妃宮、天妃宮、竜翔寺、潮音寺、万       寿寺、魏古(越来)に寄進
1458年 尚泰久王、万国津梁の鐘を正殿にかける。
  
  万国津梁の鐘(沖縄県立博物館・美術館)

1466年 琉球国王尚徳の使者芥隠承琥、足利義政に拝謁、方物を献ず。
       □7月28日ー琉球の使者一行が将軍・足利義政に謁見、方物も献上する。
        8月1日ー琉球正使・芥隠西堂から蔭涼軒(季瓊)真蘂に大軸(中国から琉球国王に贈られ        たもの)、南蛮酒を贈る。(義政時代6度目の琉球人参洛)。
    
1480年 足利幕府、応仁・文明の乱が終わったので琉球に朝貢船を送るよう島津忠昌に催促させる。
→足利将軍家の菩提寺「等持院」には歴代足利将軍の木像(肖像彫刻)がある。

1467年 雪舟、応仁元年に遣明船で明へ渡航。各地を廻り、約2年間本格的な水墨画に触れ、研究し       た。天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」の称号を得る。→ウィキ

雪舟が描いた琉球人

『自治おきなわ』1996年7月号に私(新城栄徳)は「京都の博物館で『国々人物図巻』を見たことがある。明に渡った雪舟が北京の街で見かけた珍しい人びとを写生したものを弟子が模写したもので、その中に世界の海を駆け回ったイメージに重なる琉球人像がある。」と書いた。明代の類書『万金不求人』に和寇図と共に大琉球國人も載っている。長崎県立美術博物館の正保版『万国人物図』にも琉球人が登場している。多くの絵師たちが好んで万国人物図を画題にしていたようだ。私は雪舟の弟子の絵の写真(琉球人)を琉球新報の岡田輝雄記者に提供。これは1991年9月発行の『新琉球史』(古琉球編)に載った。同様に佐久田繁月刊沖縄社長に提供したものは99年9月発行の『琉球王国の歴史』に載った。

「大沢文庫と沖縄<7>」□袋中上人は、当時伏見で掛川の城主松平隠岐守定勝の特別の帰依をうけて師権の契約を結んでいるが、その嫡子越中守定綱は後の松平定信であるが、将軍秀忠に随従して特別の信頼を受けて名声がたかかった。時の京都所司代板倉重宗を上人に紹介して特信者としたのもこの定綱である。京都所司代の権威は、当時京都御所ににらみをきかせて他に並ぶものがなかったのである。(略)夢にも考えていなかった上人との対面の機会を与えられて、尚寧王はこれが現実かとばかり感涙し歓喜したことであろう。→1966年12月10日『琉球新報』大島彦信(浄土宗名越大本山円通寺住職)「
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元沖縄都ホテル社長の桑原守也さん、京都西方寺の袋中上人(エイサーの祖)手植えの蘇鉄を前に(新城栄徳撮影) 1994年7月21日、桑原守也さんと連れ立って京都西方寺を訪ねる。住職の北村有信師としばし歓談。頂いた名刺には「うずまさ悟真寺、山城田辺・西方寺、自然幼稚園」とあった。


沖縄県立博物館・美術館 会場:企画展示室(3階)平成24年1月25日(水)~2月19日(日)
京都・檀王法林寺開創400年記念 琉球と袋中上人展―エイサーの起源をたどる―」
袋中上人(1552~1639)が京都に檀王法林寺を開創したのは、琉球から帰国後5年を経た慶長16年(1611)のことでした。本年で同寺は開創400年にあたります。袋中上人は仏教研究のため中国・明に渡ろうと試みましたが、豊臣秀吉の朝鮮侵略後間もない時期であったため、これを果たせませんでした。そこで、上人はルソンを経て琉球に上陸し、3年間の月日をこの琉球の地で過ごしました。その間、上人は琉球で浄土念仏の教化につとめ、尚寧王の帰依を受け、帰国後は『琉球神道記』『琉球往来』などを著しました。今日その著作は、古琉球の宗教世界や当時の風俗習慣などの文化を知る上で貴重になっています。本展覧会では、檀王法林寺開創400年を記念し、琉球に浄土念仏を広め、エイサーを伝えたといわれる袋中上人の事蹟を現存する文化財資料などを通して紹介します。

1634年 佐敷(王子)朝益、金武王子朝貞、玉城らを上洛させ、閏7月9日京都二条城で3代将軍徳川家光に謁見、代替りを祝賀させたのが始まり(次回から江戸参府)。→江戸上りは第1回目の1634年から最後の1850年まで、200年あまりの間に18回実施されている。琉球と江戸の往復には、およそ1年前後を要した。一行は琉球から薩摩を経て伏見までを船で、伏見からは美濃路(第7回までは鈴鹿路)・東海道を経由して江戸までを徒歩で移動した。季節風を考慮して初夏に琉球を出発、準備を整えて秋に薩摩を出て、江戸で冬を過ごしたのち、翌春にようやく琉球へ戻るという旅程であった。江戸上りの一行や琉球そのものを紹介するいろいろな出版物が広く世間に出回るようになり、行列の構成・服装等が描かれた墨摺りの瓦版や多色刷りの錦絵は、行列を見物する際のパンフレットの役割を果たした。また一方で、当時の知識人が琉球の地誌・風俗を詳しく記した書物も刊行された。→琉球大学

1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。1872年9月に琉球藩が設置されると川崎正蔵も戸籍寮の根本茂樹らと来琉し沖縄物産調査を行った。川崎は「日琉間に郵便定期航路を開き、武断政策よりも経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島密に認められた。

1870年□名妓小三-鳥取藩士松田道之と祇園下河原の大和屋お里との間に、ぎん(鈴木小三)が生まれる。

写真ー名妓小三
1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社に関わる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。 

1875年9月、日本国郵便蒸気汽船会社解散にともない明治政府は大有丸を琉球藩に下付。11月、郵便汽船三菱会社が琉球航路を開始した。

1876年8月27日の『朝野新聞』に「沖縄は他県からの商人50人、陸軍省派遣の職工138人、女性1人」と報じられた。同年、『球陽』の書き継ぎが終わっている。

1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった


1879年5月4日 京都『西京新聞』「琉球ばなし」

1879-5-27 藩王尚泰、東海丸で東京向け那覇港出帆(6-4神戸で2泊)

1880年6月に、郵便汽船三菱会社の貫効丸が琉球、鹿児島・大島、神戸間を運航をはじめた。翌1881年3月に東京上野で開催の第二回内国勧業博覧会に沖縄からも織物、陶器、漆器が出品された。

1881年5月18日に上杉茂憲が沖縄県令として赴任してきた。7月の大阪『朝日新聞』に「沖縄県泡盛酒」の広告が載った。翌1882年の『朝日新聞』の3月「首里城が陸軍省所轄永世保存城と定まる」の記事、6月には「琉球カスリ-西平筑登之」の広告も載った。


1882年11月16日、第1回沖縄県費留学生の大田朝敷、謝花昇、岸本賀昌、高嶺朝教、今帰仁朝蕃が那覇港から平安丸で上京、29日には神戸に寄っている。
1883年4月に岩村通俊が沖縄県令として赴任した。12月には西村捨三が沖縄県令となる。

1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。→1996年6月『大阪春秋』堀田暁生「自由亭ホテルの創業ー大阪最初のホテルー」

1885年2月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し金毘羅宮①参詣。西村は中井弘(櫻洲山人)滋賀県令と計り尚泰に近江八景遊覧にさそう。8月には元彦根藩士で西村と同士であった横内扶が沖縄県七等属として赴任する。9月、郵便汽船三菱会社、共同運輸会社と合併し日本郵船会社となる。1886年3月、山県有朋内務大臣、益田孝、西村捨三らと同行し来沖。


写真ー西村捨三
生年: 天保14.7.29 (1843.8.24) 没年: 明治41.1.14 (1908)
明治期の官僚。父は彦根藩(滋賀県)作事奉行西村又治郎,母は貞。幼君井伊愛麿(直憲)に仕え,藩校弘道館に学んだのち同館国学方教授長野義言(主膳)の推薦を得て藩命により江戸に留学,塩谷宕陰に学んだ。この留学中の放蕩に対し,父が幼名の得三郎を捨三に改めると訓戒したのが名の由来。のち一代限騎馬徒士,藩校教授となる。その間京都周旋方として情報収集に当たり,大政奉還後は朝旨遵奉という藩の方針の下で東山道征討に参加した。明治5(1872)年旧藩主直憲に従い欧米を視察,10年内務省に出仕し,警保局長,土木局長などを歴任した。22年大阪府知事に転じ淀川改修,上水道整備に尽力し,次いで農商務次官のとき平安神宮創建に参画。大阪築港にも貢献した。
(コトバンク・長井純市)


①ことひら‐ぐう 【金刀比羅宮】
香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町にある神社。祭神は大物主神を主神とし、崇徳天皇を配祀(はいし)。海上安全の守護神として信仰される。明治初頭までは神仏習合で、象頭山(ぞうずさん)金毘羅(こんぴら)大権現と称した。琴平神社。こんぴらさん。→コトバンク


写真ー尚泰

1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。

1887年6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。

松山伝十郎(1866年10月~1935年2月7日)
1889年11月ー松山傳十郎『琉球浄瑠璃』いろは家

松山傳十郎 資料
□1937年10月 『書物展望』石井研堂「琉球浄瑠璃ー前号の、『琉球もの雑本』の記事につれて思い出した[琉球浄瑠璃]の一本を紹介する。[琉球浄瑠璃」は、友人松山いろは氏の著作で、明治22年の発行、四六版92頁、山田美妙序、市川團洲題詞、獨幹放史(大森惟中)跋、その凡例に、『琉球國に、組躍と名づくる歌舞伎狂言あり、其の種類三百以上に達す。而して、其の最著名なるもの五つあり、村原と云ひ、八重瀬と云ひ、忠心身代巻と云ひ、姉妹讐討と云ひ、久志の若按司と云ふ、本書は、則此五大書の一なる久志の若按司を評釈せしものなり』とあり、内容から言えばただ[琉球浄瑠璃」ではなく評釈の二字を冠するのが妥当なようだ。・・・」


1889年12月11日『大阪朝日新聞』「琉球の和歌」

1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。

京都『日出新聞』は「琉球新報-混沌たる暗黒の幕を破りて五百余万の王民に対し閃山一道光燈来の光景を与へんと期する琉球新報は本月十五日を以って第一号を発刊せり紙幅体裁固より内地の発達したる諸新聞紙に比すべくもあらざれど邦人をして琉球に於ける政治社会経済上の事実を知らしめ沖縄県民をして旧慣陋習を破り文明の空気に触れしむるの機関として裨益する処少なからざるべし発行所は那覇西村百二十三番地にして隔日刊行する由」と報じた。

1893年9月22日『日出新聞』           


芝原佐一資料

□琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一が父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

1893(明治26)年ー大阪道頓堀角座で琉球太鼓踊り
□1893年7月『歌舞伎新報』「琉球芝居ー沖縄県琉球には昔より音楽師と称えて一種の歌舞を演奏するもの士族の間に伝えられ居たるところ去る明治22年中いづれも俳優の鑑札を受けて我が役者の如きものとなり其の組5組もあるよしにてこのたび其の一組が大阪角の芝居へ乗り込むことに決定し既に去る2日を以って那覇港を解覧し本日ごろは遅くも到着したる手筈なるがー」


「琉球国演劇」の横断幕があるのが角座。下が角座で配られたもの nullnull
□沖縄芝居ー明治26年に大阪・京都・名古屋で公演
1991年1月、池宮正治琉大教授と電話での話で大阪の新聞で沖縄関係を調べているとの話をすると、それなら芸能、特に渡嘉敷守良の芝居も心がけて見てくれと示唆された。それで見当をつけて中之島図書館で大阪朝日新聞、大阪毎日新聞を、京都府総合資料館で日出新聞、名古屋では扶桑新聞をめくると次々と沖縄芝居の記事が出てきた。国会図書館にも行き雑誌も見た。

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新城栄徳(左)、安里榮介
  


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京都駅八条口近鉄名店街/紅屋


近鉄○2015年(平成27年)4月1日に、これまでの(旧)近畿日本鉄道を近鉄グループホールディングスに社名変更した上で、会社分割により鉄軌道事業を近畿日本鉄道分割準備(2014年4月20日設立)に、不動産事業を近鉄不動産に、ホテル・旅館事業を近鉄ホテルシステムズ、流通事業を近鉄リテールサービスにそれぞれ継承させ、持株会社制に移行した。鉄軌道事業を継承した近畿日本鉄道分割準備は(新)近畿日本鉄道に社名変更し、近鉄グループホールディングス傘下の事業会社となった。


1991年12月 季刊『食・№42』桑原守也「近畿文化会と近鉄資料室」


近鉄資料室

○1993年9月、新宮市を訪ね、徐福の墓、神倉神社、熊野速玉大社を参拝。新宮図書館で熊野特修『熊野誌』37号を入手、中瀬さんは「南方熊楠・母すみの日記」を書かれていた。旧知の元沖縄都ホテル社長で熊野人の桑原守也さんが「私の熊野ショックー古道・熊楠・沖縄」と題し「南西諸島の島々に熊野分社が十社もあるのは潮流による文化の交流によるためであろうが、那智からの渡海上人といわれた日秀上人は琉球王朝の帰依をうけ又、京都三条駅前の法林寺の住職となった袋中上人は、有名な琉球神道記を残している。浄土宗の流布がこの地に熊野信仰を広めたものであろう」と書かれている。桑原さんとは私の息子の自宅から二駅先の駅がご自宅なので、大阪に行くと、いつも近鉄資料室、袋中上人のゆかりの地、京都の古書展などに同行している。

沖縄都ホテルで新城栄徳と桑原守也氏



大阪の本・雑誌

龍脈/生駒山・宝山寺

宝山寺と新城あけみ

宝山寺(ほうざんじ)は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天(いこましょうてん)とも呼ばれる。山号は生駒山(いこまさん)。1678年に湛海律師によって開かれた。本尊は不動明王。鎮守神として歓喜天(聖天)を天堂(聖天堂)に祀っている。仏塔古寺十八尊第十五番。(→ウィキペディア)

復帰前、沖縄関係資料室主宰の西平守晴さん一家と同行、生駒聖天に初詣したのが生駒との出会いである。その後、私の家族は生駒に直通する近鉄奈良線の布施駅近くに住むことになる。

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 1946年5月,武谷三男,武田清子,都留重人,鶴見和子,鶴見俊輔,丸山真男,南博,宮城音弥,渡辺慧らによって先駆社より刊行された思想雑誌。その趣旨は,思索と実践の分野に論理実験的方法を用いること,英米思想の紹介には批評的態度を維持し,日本社会の分析,批判に使用可能かどうかを考えることにあった。当初は季刊,後に月刊,再び季刊となった。哲学・思想史研究,言語論,コミュニケーション論とともに大衆の思想に着目し,大衆文学,流行歌,映画,芸能など広く大衆文化の研究にもすぐれた先駆的業績を示した。→コトバンク



『思想の科学』
第一次思想の科学(先駆社版) - 1946年5月 - 1951年4月
第二次思想の科学(建民社版) - 1953年1月 - 1954年5月
第三次思想の科学(講談社版) - 1954年5月 - 1956年2月
第四次思想の科学(中央公論社版) - 1959年1月 - 1961年12月
第五次思想の科学(思想の科学社版) - 1962年3月 - 1972年3月
第六次思想の科学(同上) - 1972年4月 - 1981年3月
第七次思想の科学(同上) - 1981年4月 - 1993年2月
第八次思想の科学(同上) - 1993年3月 - 1996年5月(ウィキ)

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「沖縄文庫」/ 左が新城栄徳、平良幸春氏(日展会友)
会場内の沖縄文庫で沖縄本を販売する新城栄徳。いつも岡本太郎の太陽の塔を見ながら、民博はまだできていない。/このときの陶器コーナーではシーサー造りの名人・島常賀翁と、陶芸家で駆け出しの平良幸春氏とは一緒に陶芸の用具や釉薬などの材料の店、常賀翁のシーサー造りを2カ月以上観てきた。常賀翁の三線模合仲間の宮城美能留(宮城 稔)沖縄歌舞団団長の宿泊先のホテルに、一緒に見舞いに行った。



『青い海』1974年5月号「大沖縄展3/23~6/2」

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1952年7月21日『球陽新報』「1周年記念祝賀行事ー第三部 島晴美先生」/1974年ーエキスポランド「大沖縄展」案内パンフ(表紙の踊りは島晴美さんの娘)


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1980年6月 雑誌『青い海』94号 「広告ー岡本太郎の世界ー芸術は爆発だ。-」

宮﨑義敬『繚乱の人』展望社よりーサントリー美術館で中央に平良リヱ子、左に森政三、右に岡本太郎、鎌倉芳太郎,金井喜久子、矢野克子が並ぶ

『新沖縄文学』と岡本太郎
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超タイフー「タロウ」オキナワに上陸か

2008年4月ー川崎市市民ミュージアム「オキナワ/カワサキー二つの地をつなぐ人と文化」展
□ごあいさつ・川崎市には戦前から多くの沖縄出身者が在住し、川崎市の産業発展の一翼を担われてきました。大正13(1924)年の発足から84年という長い歴史を有し、戦後すぐから沖縄芸能の保存にも大きく貢献してきました。

川崎市出身の陶芸家・濱田庄司や詩人・佐藤惣之助などは、沖縄の文化と深い関わりを持ったことが知られています。濱田庄司は、自身の作風を確立する上で、沖縄の壺屋の焼物だけでなく、沖縄の風土・生活様式から大きな影響を受けました。佐藤惣之助も沖縄に魅せられた一人で、「おもろさうし」などに刺激され、詩集を出版しています。戦後には、岡本太郎が占領下の沖縄を訪れ、その文化と伝統に触れて強い衝撃を受けています。このように、川崎と沖縄のつながりはきわめて深いものがあり、市民ミュージアムにも壺屋焼の陶器や琉球政府から贈られた石敢当などの沖縄関連資料が収蔵されています。 

そこで本展では、沖縄と川崎、この二つの地のつながりをテーマに、沖縄の伝統的な芸術文化を伝える資料と、それらに影響を受けて創造された美術工芸品などを紹介します。琉球文化の美と魅力に触れていただき、人々の手で長年にわたり築きあげられてきた沖縄と川崎の絆を感じ取っていただけば幸いです。  川崎市市民ミュージアム

□川崎市出身の芸術家と沖縄・佐藤惣之助と沖縄/濱田庄司と沖縄/岡田青慶と沖縄/岡信孝と沖縄/岡本太郎と沖縄
□川崎の工場と沖縄県出身労働者
1966年1月10日ー『琉球新報』「川崎市でビル火災ー沖縄出身者4人が焼死」
1968年1月5日ー『毎日グラフ』「本土の中の沖縄(南風サークル/大城真栄/普久原朝喜/金城良明)」「万国博へ全力投球(岡本太郎「抵抗あるものを」)」
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1969年12月30日ー『沖縄タイムス』真栄田義見「古江亮仁(川崎民家園長)氏と語る」
1983年2月10日ー『琉球新報』「川崎の沖縄県人 70年の歩みー2年がかりで完成」、11日ー『沖縄タイムス』「県人の苦難の歴史綴る『七十年の歩み』出版」
1983年8月1日ー『沖縄タイムス』「川崎沖縄青少年京浜会館」「川崎沖縄県人会」
1984年2月11日ー『琉球新報』福地嚝昭「女工哀史(関東大震災)ー富士瓦斯紡績川崎工場の名簿について」
1984年
10月19・20日ー川崎市立労働会館で川崎市制60周年記念「全国地名シンポジウム」開かれる。□谷川健一/仲松弥秀対談「沖縄地名の特色」、山下欣一「奄美のシャーマニズム」、宮田登「ミロク信仰と黒潮」
10月26日ー『琉球新報』「黒潮の流れに沿って 南島と本土の交流史探る」、『沖縄タイムス』「黒潮の流れに沿って沖縄・奄美と川崎結ぶ」「話題ー古江亮仁さんー1957年には県人の古波津英興氏とはかって沖縄文化同好会を作る。月一回、東恩納寛惇(歴史)、比嘉春潮(同)、仲原善忠(同)、芹沢圭介(紅型)、濱田庄司(陶芸)、柳悦孝(織物)等々多彩な沖縄研究者を講師に文化の灯をともした。土地問題で沖縄の大衆運動が燃えていた。」

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2013年11月2日~12月8日 沖縄県立博物館・美術館「京都 清水寺展」

平良知二文化の杜代表挨拶


安里進3代目館長挨拶


右から安里進館長、宮城竹寅氏、森清範貫主、根立研介氏、町田宗浩氏、平良知二文化の杜代表


右から宮城篤正氏、上江洲均氏、粟国恭子さん



清水寺貫主・森清範師によるご揮毫





2013年11月3日ー末吉麦門冬の孫。石垣米子さん

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