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2019年5月24日 沖縄県立博物館・美術館

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2019年3月 『沖縄県史 図説編 前近代』沖縄県教育委員会

 〇図説(図・写真などを掲げて説明すること)、図録(図や写真を主とした記録)

 わたしは関西(京都・大阪)に1969年から住み付いて50年、今は息子が住みついている。古典文学は大体が関西が舞台、『国語要覧』とか『図説国語』は愛読し眺めている。教科書(文部省検定)会社が発行しているのであくまで参考である。


2003年7月26日 『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー 書の森 人の網ー図録で見えてくる琉球美術史」




琉球の絵師・慎克凞と阿嘉宗教
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左、1990年7月18日『沖縄タイムス』/右、1988年7月4日『琉球新報』
 1875年(明治8)年に来琉した河原田盛美の『琉球紀行』に「写真は既に垣田孫太郎なるもの創めたれとも之を内地に輸送せさるは亦全き利を得るに至らさるなり」とあり、垣田という鹿児島商人の手によって沖縄での写真屋は始められたが短命であったようだ。79年3月25日、琉球処分官・松田道之、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部、巡査160人余、熊本鎮台分遣隊400人来琉。島袋盛敏が「私の家は当蔵町のアダニガーお岳の下にあったが、仲宗根嶂山家も名護から引き上げてお岳の傍らに来た。私の隣人になっていたのである。そうして嶂山翁の長男真吉君と私は大の仲良しになり、毎日行ったり来たりして遊んだものだ。嶂山翁は初め沖縄県庁の役人や分遣隊の士官達の求めに応じて、絵を売り生活しておられたとのことであるがその需要がなくなったので、名護の教員になられたのであろう。しかし教員も長く続かず再びアダニガーお岳の傍らに落ちつかれたものと見える」と述べているように、当時の画家の友寄喜恒、阿嘉宗教、佐渡山安豊、麻有信・儀間親雲上、兼城昌興、比嘉華山などは沖縄県庁や分遣隊の士官達の求めに応じて首里城や沖縄風俗絵を描いていたようだ。
 笑古漫筆には琉球美術史の史料も豊富である。私は置県後の画家、阿嘉宗教を見出して子孫を訪ねた。作品の「首里那覇鳥瞰図」も沖縄県立博物館、沖縄県立図書館、那覇市史編集室に所蔵されていることを確認した。同時期の画家、友寄喜恒の逸話も豊富である。(略)琉歌人として柳月庵、漢詩人・郷土研究家としての笑古の真境名安興を、伊波普猷は1924年刊行の『琉球史料目録』で「真境名安興氏は図書館開館当時から今日に至るまで、多大な貢献をされたばかりでなく、今その目録の公刊に当たり、序文を物して史料蒐集の経緯を審にされた。特に記してその労を謝する。(真境名安興)氏の名は恐らく郷土研究の続くかぎり記憶されるであろう」と記している。

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06/08: 琉球誌④

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 石川正通「布袋腹に酒杯乗せて踊りたる麦門冬の珍芸懐ふ」

 
1983年9月14日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂/資料室運動」
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写真は左から西平守晴、真喜志康忠夫妻、河井寛次郎夫妻




府の〇印は大阪府立中之島図書館

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1月4日、今日は「石の日」という。沖縄県立図書館の階下に仲島の大石がある。(石川正通は1945年の東京空襲で自宅と5万冊の蔵書全焼している)そのそばに那覇市名誉市民・石川正通歌碑[橋内の 誇りも髙き 泉崎 昔も今も 人美しく](写真左)がある。
 石川正通が1979年の新聞元旦号に書いた随筆、今でも通用する。
〇徳富蘇峰は、終戦の詔勅を拝して、「八十三年非なり」と、自分の史観の誤りを、五言律の漢詩に托して懺悔した。伊江朝助男爵が、ヤガテユヤ暮リテ、行クン先ヤ見ラン六十六タンメ、ドゥゲイクルビ と、琉歌に盛った心境と同工異曲の挽歌である。歴史書きの歴史知らずは論語読みの論語知らずより哀れなりけり。人類の発生から絶滅まで、過渡期でない瞬間は無い。時々刻々、革新へ革新へと、動いてやまないのである。世界の列強が軍備拡張に明け暮れている今の今々、第三次世界戦争の勃発を想定して見るのも狂人の狂態ではあるまい。→『琉球新報』石川正通「憂時立砲と沖縄」
〇写真右→京都(大石橋の東にある陶化小学校の校庭)・大阪(住吉大社)にある石敢當。右端のこの写真は旅館の前にあった石敢當、現在は御津八幡宮にある。心斎橋駅の南西、御堂筋と西横堀に挟まれた西心斎橋のうち、御津公園(通称、三角公園→グーグル画像「アメリカ村三角公園」)を中心にアメリカ村と言われる。近くの御津八幡宮(祭神・応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)の左側狛犬の傍にソテツ、梅石筆「石敢當」(→画像グーグル・ヤフー)入り口付近に建っている。


 大阪府立中之島図書館ー住友家により建築、寄贈され、1904年に「大阪図書館」として開館した。設計は野口孫市、日高胖。同年2月25日、開館式を挙行。大阪図書館は、開館直後の1906年に「大阪府立図書館」と改称。以来、長らく唯一の府立図書館であったが、1945年に大原社会問題研究所から蔵書の寄贈を受けたことで、1950年、同研究所跡地に天王寺分館を建設し蔵書の管理・収集に充てた。1974年に大阪府立図書館は「大阪府立中之島図書館」に、天王寺分館は「大阪府立夕陽丘図書館」に名称を変更している。中之島図書館が国の重要文化財に指定されたのはこの年である。 1996年、東大阪市に大阪府立中央図書館が開館。これに伴い、中之島図書館の一般蔵書の大半と夕陽丘図書館の蔵書約60万冊(特許資料関係を除く)を中央図書館に移設。両図書館で収集してきた内外特許資料・科学技術資料は、閉館した夕陽丘図書館の建物を流用して新設された大阪府立特許情報センターに移された。 2004年から、中之島図書館はビジネスマンに様々な情報を提供する「ビジネス支援サービス」を開始。→ウィキ

『大阪府立中之島図書館だより なにわづ』(1958年10月 №1~)
1979年11月 №75 竹中郁「青銅屋根ー(略)この美しい青いドーム。市民社会のシンボルのような円屋根が、片や日本経済の中の有力な銀行の屋根と向かいあって在ることにわれわれは或る誇りを感じつつ見守っていきたい。一国の経済もおろそかにはできないものだが、それと向かいあってある図書館が表徴する文化の広さや深さが、もっともっと大切だということを誇りとするのだ。そのいつも新鮮な色彩でこころにしみ入る或る暗示を、われわれ民衆は片時も忘れてはならないのだ。」

1981年1月 №80 小笠原「カード箱ーわが国の図書館においては、従来図書(本)が中心で、逐次刊行物(雑誌・新聞・研究紀要・年報等)が副次的に取り扱われ、その受入管理や利用者サービスも余り重要視されていませんでした。しかし、図書館が情報センター的機能を負わされてくると、情報の主たる源である逐次刊行物は、図書とその立場が入れ替わり、だんだん主役の座にのし上がってきたように感じられます。」
1993年3月 №119 大谷晃一 「中之島と私ー(前略)中之島にいて空襲警報が鳴った。地下鉄の淀屋橋駅に駆け込む。やがて、ぐあーんと地を響かす爆発音が不気味につづく。そんな空襲の中で、図書館をはじめ中之島の建物は多く生き残った。奇跡に近い。(略)三高生の武田麟太郎は、ここで田山花袋の『西鶴小論』を筆写した。プロレタリア作家として行き詰まったとき、西鶴を思い出し市井事物で立ち直る。三好達治はここへ通ってファーブルの『昆虫記』を翻訳し、帰りに梶井基次郎を見舞う。織田作之助は夜にここの前の公園のペンチで女といて、風俗紊乱の現行犯で派出所に連行された。私が中之島図書館を守りたいのは、建物が美的で文化財のゆえだけではない。」

2004年10月 №138 石崎重雄「古典籍の活用とビジネス支援について(略)全てにわたって、供給過剰な日本の経済で一番の需要不足が労働力であり、それも若手である。フリーターと称してマスコミの話に乗っている場合ではない。バラエティー番組の後ろの観客席に座っている場合でもない。産業社会の中で、せめて自分の分の付加価値を働いて生み出す仕事を自分で見つける仕掛けを用意しなければと思う。」
→「なにわづ 大阪府立中之島図書館だより」


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2019年6月15日 リブロ リウボウブックセンター店「第21回沖縄県産本フェア」/オープニングイベント「沖縄県産本の最新事情」写真左から仲村渠理氏(琉球プロジェクト)、池宮紀子さん(ボーダーインク)、宮里ゆり子さん(リブロ)、宮城一春氏(編集者)、友利仁氏(沖縄タイムス出版部)

「くろねこの短語」2019年6月15日-(前略)この問題が起きてからというもの、「100年安心」ってのは制度のことで年金支給額ではない。だから、老後の蓄えなど自助努力も必要・・・てなことを御用コメンテーターがしたり顔でのたまってくれちゃってるんだが、そいつらにしたっておそらく年金の心配なんかしたことないだろうって顔してるんだよね。個人の感想だけど。
 まるで、「100年安心」が制度のことだってのを知らなかった一般大衆労働者諸君が間抜けなのだ、とでも言ってるようで胸糞悪いったらありゃあしない。
こうなったら、すべてチャラにして、これまでの掛け金すべて返済して、イチから年金制度を議論するくらいのドラスティックな改革が必要なんじゃないのか。それには、まず年金の一元化を真剣に議論することだ。だって、「2000万円」問題ってのは厚生年金が基本になっての話なんだからね。悲惨なほどの国民年金が話題にもならない年金議論なんて、非正規が40%になろうとしている今、まったく無意味だと思う今日この頃なのだ。

 「くろねこの短語」2019年6月14日-(前略)アメリカからはこんな声も聞こえてくるとか。「日本は米国、イランと良い関係を持つが、両国の紛争の結果に影響を与える能力はほぼない」「首相は何を達成しようとししているか明確にしていない。(解決のために)何の『てこ』があるのか」これが常識的な見方ってもんなんだろうね。本来なら、日本のメディアからこうした指摘が出てこなくちゃいけないんじゃないのか。
それにしても、ペテン総理がイランでいらんことしてるタイミングで、イランに追加制裁するトランプってのも食えない野郎だ。ようするに、トランプにとっては、ペテン総理ってのはその程度の「パシリ」にもならない存在ってことなんだね。赤っ恥かかされて、それでも尾を振る総理大臣って・・・やっぱり「国難」はこいつだな。。ああ、恥ずかしい。

 「くろねこの短語」2019年6月12日-(前略)「100年安心」ってのは制度の問題で年金の支給額のことではない、なんてことをいまさらのようにニュースキャスターや御用コメンテーターが口にし始めている。それを引き合いにして、野党をdisったりもしてるんだから、何をかいわんやなのだ。本来なら、こうした報告書が上がってきたのなら、どや顔で「2000万円用意しろ」って脅迫するんじゃなくて、まずは予算委員会開いて政府がしっかりと説明責任を果たすべきなんだよね。そして、さあ、どうする、って国会で丁々発止の議論をするのが政治というものだ。
 それを、臭いものに蓋をするように報告書をなきものにしようというのは、まさに「不都合な真実」を隠蔽する犯罪的な行為と言わざるを得ない。どうやら、こうの騒動もあって、衆参ダブル選挙は見送られるようなんたが、それと歩調を合わせるように「参院選単独でも与党が勝利できるとの判断」なんて記事が出始めている。こうやってサブリミナル効果を狙って、新聞・TVはなにかにつけて「自民有利」キャンペーンを仕掛けてくるに違いない。昨夜は、日経の政治部長がペテン総理と会食してますからね。「自民単独勝利の判断」を最初に記事にしたのが日経というのもうなずけるってことだ。

2019年6月『月刊琉球』№67

波平恒男「琉球併合とは何だったのか」/伊佐眞一「日琉同祖論と日本『復帰』運動」

土岐直彦「基地汚染に米軍『責任なし』、改定は急務ー日米地位協定の環境項目」/与那嶺功「与那嶺功「沖縄振興ー『明治維新150年』を問う 大東亜・植民政策・ナショナリズ⑪」/編集後記「万国津梁会議ー玉城知事は公約で『ウチナーンチュが本来持っている活力を引き出す』とうたっているが、会議の委員5人のうち沖縄人が一人もいないのは、その方針と矛盾しないか・・・重要なことについて他人任せでは、沖縄はいつまでも植民地状態を脱することはできないと思う・・・」

 「くろねこの短語」2019年6月10日-「100年安心」だったはずの年金が崩壊したのは、株に投資するという「ハイリスク・ハイリターン」のギャンブルに手を突っ込んだからなんだね。投資ってのはその道のプロですら一朝一夕に利益を上げられるものではないんだから、それを役人がやろうってのが、そもそもの間違いってことだ。
 でもって、そんな政府の投資ビジネス(=ギャンブル)は何も年金に限ったことではなくて、政府と民間企業が共同出資して設立した投資組織「官民ファンド」ってのがなかなかに香ばしいとか。これは、「高度な研究開発や地域振興など政府の成長戦略を後押しし、リスクの高い分野に投資することで、民間投資を喚起するのが目的」で、14ある官民ファンドのうち12が第二次ペテン政権以降に設置されたものなんだとさ。
 98億円というベラボーな累積赤字が問題になったクールジャパン機構なんてのがその代表なんだが、なんと今度は農水ファンド「農業漁業成長産業化支援機構(A-FIVE)」の累積赤字92億円が発覚したってね。ああ、それなのに、6億円もの損失を計上した「食の劇団」というプロジェクトの責任者には、今月末の退職時に慰労金として1400万円が支払われる予定だそうだ。年金もそうだけど、ここでも損失の責任を誰も問われることがない。
 この他にも危険な官民ファンドがいくつかあって、財務省が監視を強化しつつあるってんだが、公文書を改竄してもカエルの面になんとやらの高級官僚の皆さんのことだから、当然お手盛りでシャンシャンってことになるんじゃないのか。そして、どこかの誰かさんの利権だけはしっかりとガードされるってことか。このままだと、年金どころか日本が溶けていくことになりますよ。


 2018年7月ー(CNN) ロシアの首都モスクワで28日、年金支給年齢の引き上げに抗議する大規模な集会が開かれた。ロシア政府は年金受給者の増加にともなう制度の破綻(はたん)を防ぐためとして、支給開始年齢を男性は現行の60歳から65歳に、女性は55歳から63歳に引き上げる改革案を示している。改革案はすでにロシア下院を通過したが、上院ではまだ審議されていない。国営RIAノーボスチ通信によると、28日のデモは共産党がモスクワ市長の許可を得て実施。横断幕やプラカードを掲げた参加者が市中心部に集まった。

 『毎日新聞』2010年9月ー議会で7日始まった年金改革法案の審議に合わせたもので、公務員の約25%がストに参加した。労組によるとパリではデモに約20万人が参加し全土の鉄道が5割以上運休した。
 サルコジ政権は今年、年金基金の赤字解消のため(1)退職年齢を18年までに60歳から62歳に延長(2)高額所得者や公務員の年金負担額の増大……などの改革法案を提案。労組や野党第1党の社会党が反対したが、「赤字増大を抑えるべきだ」と改革を断行する構えだ。

 「くろねこの短語」2019年6月9日-(前略)それもこれも、参議院選挙を意識してるからなんだよね。へたに予算委員会開いちゃったら、スネがキズだらけのペテン総理は集中砲火浴びて炎上しちゃいますから。森友・加計学園疑獄はもとより、公文書改竄、統計不正、年金崩壊、F35爆買い、日米FTA密約、直近の出来事としては秋田県のイージス・アショア配備計画のインチキや辺野古新基地工事における公有水面埋立法違反なんてのもある。どうやら、参議院選挙後に年金支給水準の見直しを発表するそうで、これもまた参議院選挙を意識してのことなんだね。
 まさに、この国は無法地帯と言っても過言ではない。そんな政権を選択したのは一般大衆労働者諸君なんだから、自業自得と言ってしまえばそれまでなんだが、だからこそ映画「帰ってきたヒトラー」のセリフが脳裏をよぎる今日この頃なのだ。「私を選んだのは普通の国民だ。私を怪物と呼ぶならば、選んだ選挙民が悪い」

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06/08: 琉球誌①

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2001年10月 儀間比呂志・神谷良昌『絵物語 琉球に上陸したジョン万次郎』沖縄タイムス社

写真右から神谷良昌氏、儀間比呂志氏、オーストラリアのカイリー・クラークさん




○ジョン万次郎の子孫が来県するのは初めて。万次郎から四代目の中濱博さん(73)=愛知県=は「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている。来ることができてとてもうれしい」と感激した表情で語り、高安家五代目の高安亀平さん(72)も「感無量だ」と喜んだ。万次郎は糸満市大度に上陸。琉球王府により、翁長の親雲上(ぺーちん)だった高安家に約5カ月間、収容された。外出は禁じられていたが、夜は地域住民と交流し、綱引きなどにも参加したとされる。→(『琉球新報』2002-5-12)/写真左から新城栄徳、儀間比呂志氏、高安亀平氏

□中浜万次郎の話ー高安公造氏(71歳)は祖父より聞いたとして次のように語れり
1、万次郎は約半年沖縄に滞在せりと、即ち正月に来り7月に去れり 1、大和人なることは彼等も知れり、土佐人と知れり 翁長の当銘三郎氏の話  1、宿屋は屋号徳門であって当時万次郎が使用したステッキも今に残っているそうだ。徳門の老婆は90歳位であるがその人の話ー言葉も始めは通じなかったが後ではよく通じて諧謔もやるようになった。→眞境名安興「笑古漫筆」

1851年2月 ジョン万次郎、琉球上陸
 同年4月、アメリカ合衆国とメキシコが国境を決定。5月にはイギリスで第一回のロンドン万国博覧会が開かれ、フランスでは12月、ルイ・ナポレオンがクーデター

   
1851年2月 ジョン万次郎、琉球(大度浜)上陸
『球陽 附巻四』〇尚泰王 四年正月初三日、日本土佐国人有りて、杉板に坐駕して摩文仁群小渡村に来到す。此の日、土佐国人三名有りて、杉板一隻に坐駕し小渡村の浜に到る。随ひて来歴を問ふに即ち云ふ、上届丑年正月初五日、我等小船に坐駕し、海に出でて釣魚するの時、陡に暴風に遇ひ、風に随ひて漂流し、経に七日を歴て、纔に辰方無人島に到りて擱礁撃砕し、上岸活命す。該島は、物の食すべき無く擒へて衆鳥を食し、聊か餓莩を免かる。六月に到り、亜米理幹国の討鯨船一隻、該島洋面を駛過するを見る。即ち其の船を招来して、性命を救ふを請ひ、該船に塔駕して、西洋  (略)只万次郎一人頗る亜米理幹文字を知る有り等語と。本年七月、本国に駐箚する倭官四員の離任して回国するの便有るに逢ふ。其れをして接護回籍せしむ。

   
   
ジョン万次郎が上陸した大度浜の宿道

□1851年ージョン万次郎達は、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩や江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。嘉永5年(1852年)に河田小龍が取り調べ報告書「漂巽紀略」を書く。その際に開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩主・島津斉彬がその英語・造船知識に注目した。これが縁で薩摩藩の洋学校(開成所)で英語の講師をしているほか、和洋折衷船の越通船建造にも知識を活用されている。→(ウィキペディア)■儀間比呂志『琉球に上陸したジョン万次郎』(2001-10沖縄タイムス社)

①ジョン万次郎

ジョン万次郎資料館=住所: 高知県土佐清水市養老303 海の駅あしずり 電話:0880-82-3155
日本初の国際人「ジョン万次郎」の足跡。中ノ浜村(現土佐清水市中浜)に漁師の子として生まれ、後に日本人として初めて渡米。帰国後、アメリカで学んだ文化や思想を伝え、龍馬などに多大な影響を与えたジョン万次郎。その生涯を映像やジオラマなどで紹介しており、万次郎直筆の英文字など、万次郎にまつわる様々な史料を展示している。(島袋和幸氏撮影)→島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)2016年5月25日『沖縄の軌跡』第171号「琉球に上陸した{ジョン万次郎}」

雑司ヶ谷霊園 ジョン万次郎墓、「中濱萬次郎記念碑」ー島袋和幸氏撮影


1929年1月15日『沖縄朝日新聞』「島尻郡摩文仁に上陸した幕末の風雲児 中濱万次郎の生涯」


1932年3月『沖縄朝日新聞』山城正忠「戯曲『中濱萬次郎』に就いて」



1991年12月 長田亮一『ジョン万次郎物語』沖縄県ジョン万次郎を語る会/1971年12月 石井研堂『異国漂流奇譚集』(1927年 初版)新人物往来社



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06/08: 琉球誌③

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1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌①陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。
 大山柏ー父・大山巌①公爵は維新の元勲の一人で、日清・日露の両戦役では参謀総長や満州軍総司令官として国運を賭けた大勝負で日本を勝利に導き、晩年に至るまで元老の一人として国政の枢機に接した元帥陸軍大将。母・捨松は、明治初年に初の官費女子留学生の一人として11歳で渡米し、11年後に日本人女性として初めて米国大学の普通科を卒業して学士号を得た。柏はその次男。→ウイキ

1922年9月 大山柏『琉球伊波貝塚発掘報告』→翁長良明コレクション
伊波貝塚 いはかいづかー沖縄県うるま市石川伊波にある貝塚。荻堂(おぎどう)貝塚と並ぶ沖縄先史時代(貝塚時代という)前期を代表する貝塚で、国指定史跡。1904年(明治37)鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)によって発見、調査され、20年(大正9)に大山柏(かしわ)の手で本格的な発掘調査が行われ、その結果は『琉球伊波貝塚発掘報告』(岸文庫所蔵)としてまとめられている。

1889年12月11日『大阪朝日新聞』「琉球の和歌」


写真ー丸岡莞爾 まるおか-かんじ
1836-1898 幕末-明治時代の官僚,歌人。
天保(てんぽう)7年5月28日生まれ。鹿持雅澄(かもち-まさずみ)に国学をまなび,坂本竜馬(りょうま)らとまじわり脱藩して長崎にすむ。維新後,内務省社寺局長などをへて沖縄県知事,高知県知事となる。明治31年3月6日死去。63歳。土佐(高知県)出身。本姓は吉村。字(あざな)は山公。通称は三太,長俊。号は建山,掬月,蒼雨など。歌集に「蒼雨余滴」。(コトバンク)


芝原佐一資料
□琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一が父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

 1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘①の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社②を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』

②六孫王神社
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大城弘明氏撮影
1870年□名妓小三-鳥取藩士松田道之と祇園下河原の大和屋お里との間に、ぎん(鈴木小三)が生まれる。

写真ー名妓小三

1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。1872年9月に琉球藩が設置されると川崎正蔵も戸籍寮の根本茂樹らと来琉し沖縄物産調査を行った。川崎は「日琉間に郵便定期航路を開き、武断政策よりも経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島密に認められた。

1875年9月、日本国郵便蒸気汽船会社解散にともない明治政府は大有丸を琉球藩に下付。11月、郵便汽船三菱会社が琉球航路を開始した。

1876年8月27日の『朝野新聞』に「沖縄は他県からの商人50人、陸軍省派遣の職工138人、女性1人」と報じられた。同年、琉球正史『球陽』の書き継ぎが終わっている。

1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった

1879年5月4日 京都『西京新聞』「琉球ばなし」

1879-5-27 藩王尚泰、東海丸で東京向け那覇港出帆(6-4神戸で2泊)

1880年6月に、郵便汽船三菱会社の貫効丸が琉球、鹿児島・大島、神戸間を運航をはじめた。翌1881年3月に東京上野で開催の第二回内国勧業博覧会に沖縄からも織物、陶器、漆器が出品された。

1881年5月18日に上杉茂憲が沖縄県令として赴任してきた。7月の大阪『朝日新聞』に「沖縄県泡盛酒」の広告が載った。翌1882年の『朝日新聞』の3月「首里城が陸軍省所轄永世保存城と定まる」の記事、6月には「琉球カスリ-西平筑登之」の広告も載った。


1882年11月16日、第1回沖縄県費留学生の大田朝敷、謝花昇、岸本賀昌、高嶺朝教、今帰仁朝蕃が那覇港から平安丸で上京、29日には神戸に寄っている。
1883年4月に岩村通俊が沖縄県令として赴任した。12月には西村捨三が沖縄県令となる。

1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。→1996年6月『大阪春秋』堀田暁生「自由亭ホテルの創業ー大阪最初のホテルー」

1885年2月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し金毘羅宮①参詣。西村は中井弘(櫻洲山人)滋賀県令と計り尚泰に近江八景遊覧にさそう。8月には元彦根藩士で西村と同士であった横内扶が沖縄県七等属として赴任する。9月、郵便汽船三菱会社、共同運輸会社と合併し日本郵船会社となる。1886年3月、山県有朋内務大臣、益田孝、西村捨三らと同行し来沖。


写真ー西村捨三
生年: 天保14.7.29 (1843.8.24) 没年: 明治41.1.14 (1908)
明治期の官僚。父は彦根藩(滋賀県)作事奉行西村又治郎,母は貞。幼君井伊愛麿(直憲)に仕え,藩校弘道館に学んだのち同館国学方教授長野義言(主膳)の推薦を得て藩命により江戸に留学,塩谷宕陰に学んだ。この留学中の放蕩に対し,父が幼名の得三郎を捨三に改めると訓戒したのが名の由来。のち一代限騎馬徒士,藩校教授となる。その間京都周旋方として情報収集に当たり,大政奉還後は朝旨遵奉という藩の方針の下で東山道征討に参加した。明治5(1872)年旧藩主直憲に従い欧米を視察,10年内務省に出仕し,警保局長,土木局長などを歴任した。22年大阪府知事に転じ淀川改修,上水道整備に尽力し,次いで農商務次官のとき平安神宮創建に参画。大阪築港にも貢献した。
(コトバンク・長井純市)


①ことひら‐ぐう 【金刀比羅宮】
香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町にある神社。祭神は大物主神を主神とし、崇徳天皇を配祀(はいし)。海上安全の守護神として信仰される。明治初頭までは神仏習合で、象頭山(ぞうずさん)金毘羅(こんぴら)大権現と称した。琴平神社。こんぴらさん。→コトバンク


写真ー尚泰


「小泉八雲」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1895年、大見謝恒昌が渡米。後に北太平洋鉄道会社に勤める。
1897年11月20日、比嘉統熈、北京丸で横浜出航。12月4日にサンフランシスコ上陸。→1996年4月北加沖縄県人会『沖縄県人サンフランシスコ移住百周年記念誌』

1899年12月、当山久三の斡旋で第一回ハワイ移民。

1901年4月3日、長崎在住の安仁屋政修(琉球新報通信員)渡米。→1903年2月13日『琉球新報』安仁屋政修「アメリカだより」
1902年、湯浅半月(44歳)はアメリカへ図書館事業調査のため旅立った。アメリカではシカゴ大学図書館学校、オルバニー市の図書館学校で貸出の必要性と児童室の必要性を学んだ。1904年、半月は京都府立図書館長に就任。京都府は09年に岡崎公園内に工費15万円を投じ、図書館本館を完成(□→武田五一)。そこには日本最初の児童閲覧室が設けられた。また半月はM・デューイの「十進分類法」を取り入れ「和漢図書分類目録」(美術工芸編、歴史地誌編等10分類全16冊)を刊行した。このときの蔵書は現在、京都府立総合資料館にある。因みに京都府立図書館の一部と、奈良県立図書館(http://www.library.pref.nara.jp/index.html )の建物は移築され今も残っている

1907年9月14日『琉球新報』比嘉統熈「本県人の世界徒歩旅行」

□1952年12月6日『沖縄タイムス』山田有登「50年前の野球ー捕手以外は空手・潟原で最初の米琉試合」
1903年2月25日  アメリカ艦ビッグ・スバーグ号が那覇に寄港、アメリカ水兵と沖縄中学生が潟原で親善野球試合/乗組員が首里城見学の途中、偶然沖縄中学の野球練習を見て、びっくり。翌日、沖縄県を通じて試合の申し込みをした。沖縄中学チームに沖縄野球の父といわれる山田有登選手も参戦、有登によれば「米兵たちは人力車で乗り込んできた。みんな6尺豊かな大男。言葉が通じないので要領を得ず、英語担任の先生が3人がかりでルールの説明を聞き・・・」。沖縄中学チーム対アメリカ水兵の対戦は3日後の28日にも行われた。 

1904年8月、アメリカ人・レブンウォース来沖→1905年『琉球島』刊行。

1905年5月 浦崎康久(浦崎康華の父)移民で渡米するも騙されてメキシコで炭鉱夫。後に脱出しアリゾナ州フェニックスで沖縄人が共同経営する農園に参加していたが1912年11月に腎臓病のため死去。

1905年11月 宮城新昌、アメリカに渡航□1908年ワシントン園芸学校を終えオリンピア牡蠣会社で牡蠣養殖を研究。

1906年、宮古の比嘉財定が第五高等学校を終え東京帝大法科大学に入学した。在学中、柳田國男に出会い、比嘉は柳田に「比嘉村の話」をする。比嘉は10年7月に東京帝大を卒業。農商務省勤務を経て1915年にアメリカ留学。17年にカリフォルニア州立スタリント病院で死去。/小橋川惣吉(小橋川秀男の父)メキシコ炭鉱より逃亡、北米へ(1917年、アリゾナ州フエニックスで秀男誕生)


1984年11月 H・B・シュワルツ著/島津久大、長岡祥三 訳『薩摩国滞在記ー宣教師の見た明治の日本ー』新人物往来社□原書は1908年アメリカで出版。
米国メソジスト監督教会宣教師のH・B・シュワルツが沖縄地区責任者として沖縄・鹿児島間を往復。1907年にシュワルツ一家は那覇区安里に移住する。同年の7月、伊波普猷は那覇区久米の沖縄美以教会で「古宇利島の神話」と題し講演、弟の伊波普成は英文聖書の講義をした。同年12月に本多庸一が来沖すると、伊波普猷は本多の感化を受け禁酒運動に取り組む。

1904年(明治37年)10月12日 -西郷 菊次郎 2代目京都市長に就任
1909年4月『琉球新報』□師範中学旅行生の消息ー4月6日、火曜日、神戸、京都 午前9時半汽車にて神戸駅を発し12時京都に着。直ちに東本願寺に参詣致し建築の壮大な に驚き入り候。これより途中耳塚を右に見立て豊国神社に詣で旧伏見桃山殿の唐門大仏殿、国家安康の大鐘を見て博物館に入り歴史美術上の珍品に知囊を養い三十三間堂を経て桃山御殿に詣で血天井を見。妙法院西大谷を過ぎて清水寺に詣で候・・・。

1908年1月の首里小学校での首里禁酒会発足を皮切りに、2月に松山小学校で美山寛一の禁酒演説会、5月にはシュワルツの娘による英語、聖書の研究会もはじまった。1984年に発行された『薩摩国滞在記ー宣教師の見た明治の日本』(新人物往来社)にはシュワルツ一家の写真がある。1908年にバプテストの善隣幼稚園が那覇区に開園した。同年10月には首里メソジスト教会で禁酒会、伊波普猷、佐久原好伝らが演説をする。クリスマス。メソジスト沖縄中央教会で村井牧師のクリスマス祈祷。伊波普猷の新旧聖書朗読、シュワルツ一家のオルガン合奏でクリスマスを祝う。

1909年8月、伊波普猷は3週間にわたって鹿児島、山口、大阪、京都、奈良の図書館を視察する。そこで伊波は財政的規模を奈良図書館に求め、運営に関しては湯浅半月京都図書館長のアドバイスを受けた。1910年5月、伊波の友人、八重山の岩崎卓爾が図書館に新渡戸稲造『英文武士道』など、漢那憲行が薄田泣菫『二十五弦』ほか、浦添朝忠は『資治通鑑』など700冊を寄贈。6月には末吉麦門冬が『俳句の研究』『蜀山人全集』などを寄贈している。かくして琉球学センターとも云うべき沖縄県立沖縄図書館は8月1日、那覇の南陽館で開館式を迎えた。折りしも8月22日は「日韓併合」があった。沖縄図書館の児童書は「中学世界、少女世界、少女之友、少年之友、日本少年、少年、少女、幼年之友、幼年画報」などがあった。

1909年2月28日『沖縄毎日新聞』「合衆国の東洋政策(4)」連載
1909年3月16日『沖縄毎日新聞』「米国石油販売広告ー紐育スタンダード石油会社① 鹿児島米油組合委託販売所/沖縄県下特約販売店・濱田平畩(那覇区字東市場角)、山下分店(那覇区字東町端)、富士丸支店(那覇区字西八十八番地矢野店隣) 」
①紐育スタンダード石油会社1911年にシャーマン法(反トラスト法)違反で解散を命じられ33の独立会社に解体されるまで、アメリカの石油産業を支配していた巨大トラスト。1897年にはニュー・ジャージー州法人の持株会社として再編成された。しかし、1911年、この持株会社もシャーマン法違反として解散を命じられ、ニュー・ジャージー・スタンダード石油(後のエクソン)、ニューヨーク・スタンダード石油(後のモービル)、カリフォルニア・スタンダード石油(後のシェブロン)はじめ33の独立会社に解体された。[佐藤定幸]→コトバンク

1909年3月17日『沖縄毎日新聞』「オペルク氏の沖縄観察談ー私は瑞典(スウェーデン)人でありまして英語で御話する事は随分困難な業ですけれど其英語は私に取っても外国である。また諸君に取っても外国でありますから同じ者同士で暫く御静聴御願いします・・・」

1909年3月19日『沖縄毎日新聞』「燈用石油の話/(略)世界に於ける石油の主産地ー北米合衆国露西亜ガリシア、ルーマニヤ、東印度諸島印度日本などで此の中で最も盛んなのは合衆国及び露国である北米のペンシルバニヤは實に最初に石油業が発達した土地で此地に石油が多いということは・・・・・」

1909年3月23日『沖縄毎日新聞』迂齊「米国便ー来て見れば聞く程もなし富士の山で米国の文明も故国にて思った程に結構なものには無之候愈々真相を知るに従ひ却て感心ならぬ處も多に有之候・・・・」
1909年4月29日『沖縄毎日新聞』「内外新聞記者恊会発起会」
1909年11月、アメリカ人・ウォーナー①来沖。

1991年5月30日『琉球新報』松島弘明「文化ノート/ウォーナー資料を追え」
1996年5月17日『沖縄タイムス』「ワーナー資料沖縄の民芸品 米博物館が保存」
 ①ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881年8月1日 - 1955年6月9日)は、アメリカの美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされるが異論も多い。マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903年ハーバード大学卒業。卒業後ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣された。1910年にロンドンで開催される日本古代美術展の準備をしていた岡倉らを手伝い、3冊の詳細な出品カタログ『日本の寺とその宝物』の英訳に協力した。帰国後東洋美術史を講義、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長を務めるなど、東洋美術の研究をした。1946年、米軍司令部の古美術管理の顧問として来日。朝河貫一とは親交が深く、数々の書簡を交わしたりウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。→ウィキペディア
○日本各地にはウォナー記念碑が6か所もある。最初の法隆寺の碑から、最後はJR鎌倉駅前の碑。

1898年、那覇の喜屋武元持が酒造原材料仕入部を大阪に設置。小嶺幸之は大阪の漆商鳴神孫七と特約し製漆販売を開始、小嶺は後に広運社の常務になる。教育家・高良隣徳は滋賀師範学校教諭から奈良県立中学校教諭として赴任。1899年4月、在阪の銀行、商船会社、商店などの沖縄に縁故がある人たちが集う懇親会が大阪西長堀の岸松館で開かれた。

へいあんじんぐう【平安神宮】
京都市左京区に鎮座。桓武天皇と孝明天皇(1940年合祀)をまつる。桓武天皇の平安京遷都1100年記念祭に当たり,官幣大社として1895年創建された。社殿は平安京の大極殿,応天門を模したもの。例祭は4月15日。10月22日には神幸祭があり,平安時代より明治維新までの服装・風俗をまね,時代順に行列・供奉するので時代祭と称し有名である。境内の神苑は名園として名高い。→コトバンク
□大阪市港区の天保山公園には大阪港築港の功労者、第六代大阪府知事の西村捨三の銅像がある。西村捨三は彦根藩の出身で、若き日に井伊家第17代直憲に仕えた。西村翁は往時を偲んで、井伊家の庭園にあった名石朝陽岡をもらい受け、自宅の庭に置いていた。昭和32年西村翁の銅像を建設するに当たってこの石もこの地に移されることになった。


写真ー池上四郎ー1877年、池上は警視局一等巡査として採用され、間もなく警部として石川県に赴任した。その後、富山県などの警察署長、京都府警部などを歴任し、1898年からは千葉県警察部長、兵庫県警察部長を務めた。1900年には大阪府警察部長となり、その後13年間に渡って大阪治安の元締めとして活躍した。その清廉で、自ら現場に立ち責任を果たす働きぶりと冷静な判断力は、多くの市民からの信頼を集めた。1913年、市政浄化のため、池上は嘱望されて大阪市長に就任した。財政再建を進める一方、都市計画事業や電気・水道事業、さらには大阪港の建設などの都市基盤を整備し、近代都市への脱皮を図った。御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現を見た。また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。1923年には大阪電燈株式会社を買収し、電力事業を市営化した。また1923年9月に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。(ウィキメディア) 池上の曾孫が沖縄に何かと縁がある秋篠宮紀子さん


1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。



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06/08: 琉球誌②

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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写真左/1999年5月11日沖縄ハーバービューホテルで神坂次郎氏(作家・熊野の生き字引で司馬遼太郎の文学仲間)、新城栄徳。麦門冬・末吉安恭の取材を終えての祝盃。撮影・末吉安允
写真右/1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談司馬遼太郎『街道をゆく6』朝日新聞社
○大阪の都島本通で、篤志でもって「沖縄関係資料室」をひらいていおられる西平守晴氏にもきいてたしかめることができた。西平氏は、「そうです、そんな話があります」といって、南波照間の「南」を、パイと発音した。ついでながら本土語の南風(はえ)は沖縄でも「南」の意味につかう。本土語の古い発音では、こんにちのH音が古くはF音になり、さらに古くはP音になる。つまり花はパナである。八重山諸島の言葉はP音の古発音を残していて、南(ハエ)が南(パイ)になるらしい。西平氏はこのまぼろしの島を、「パイ・ハテルマ」と、いかにもその島にふさわしい発音で言った。

 1158年 太宰大弐に任ぜられた平清盛は、太宰府に赴任することはなかったが、宋商船が運んでくる唐物に強い興味を抱き、やがて宋人を太宰府から瀬戸内海へと招いた。
☆神戸の灘の薬師さんの傍らで長年「国語」の研究に専念していた奥里将建翁、最後のまとめとして1964年「沖縄に君臨した平家」を沖縄タイムスに連載(10-8~12-11)した。□10月11日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」(4)怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」→「琉文21」雑誌『おきなわ』/1926年4月ー奥里将建『琉球人の見た古事記と萬葉』青山書店

1167年 平清盛、太政大臣となる

写真ー重要文化財本堂 昭和大修営落慶記念  昭和四十四年五月十八日 六波羅蜜寺(新城栄徳所蔵)
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
 現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
 源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8,000基が出土した。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。

1260年 英祖王、即位☆麦門冬・末吉安恭は、この時代を「仏教の起源と芸術の揺籃」と称した。
      補陀落僧禅鑑、葦軽船で琉球に漂着、英祖王保護のもと極楽寺(のち龍福寺)を創建
1281年 島津長久ら薩摩国の兵を率いて壱岐にて元軍を攻める。
1372年 1月、楊載、来琉
1377年 琉球国王察度、南山王承察度ら明に使者を遣わし馬、方物を貢す。北山王帕尼芝、明に使者、方物を貢す。頼重法印(真言宗)、薩摩坊津から        来琉。
1402年 足利義満、島津伊久に明を侵す鎮西海賊の取締を命ず。
       明使が北山第に足利義満を訪ね国書・大統暦、賜物を伝える。
1404年  時中、来琉し武寧に皮弁冠服が頒賜される。
1406年 武寧、寨官の子石達魯ら6人を明に遣わし国子監に学ばせる。
1410年 琉球国官生模都古ら2人、明の国子監に入り学を受ける。
1413年 中山王思紹、太勃奇を明に遣わし馬を貢し、寨官の子ウ同志久・周魯毎らを送り国子監で学ばせる
1415年 琉球国山南王汪応祖の世子他魯らを明朝に遣わす。足利義持、琉球国思紹に「りうきう国よのぬし」で書簡を送る。
1418年 琉球国中山王思紹、長史の懐機らを明に遣わす
1425年 柴山(中官)来琉、勅を齎らし巴志に中山王を嗣がせる。「中山門」扁額を掲げる。

1427年 安国山樹華木之記碑

右ー沖縄県公文書館玄関にある安国山樹華木之記□首里王城の威容を増し、合わせて遊息の地とするため、王城の外の安国山に池(龍潭)を掘り、台を築き、松柏・花木を植え、太平の世のシンボルとして永遠の記念とする。

1429年 巴志、三山統一 
1430年 巴志、明帝から尚姓を授けられる
1443年 朝鮮通信使の書状官として申叔舟が来日
1453年 朝鮮国、琉球国使者道安の齎らした日本琉球地図表装
1456年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し大聖寺、天尊殿、相国寺、普門寺、建善寺、長寿寺、天竜寺、広厳寺、報恩寺、大安寺に寄進
1457年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し霊応寺、永福寺、大禅寺、上天妃宮、天妃宮、竜翔寺、潮音寺、万寿寺、魏古(越来)に寄進
1458年 尚泰久王、万国津梁の鐘を正殿にかける。
  
  万国津梁の鐘(沖縄県立博物館・美術館)
      尚泰久王、梵鐘を鋳造し永代院に寄進
      尚泰久王、梵鐘を鋳造し一品権現御宝殿、東光寺に寄進
1461年 島津立久、尚徳の国王即位を祝い太平書を賜う
1466年 琉球国王尚徳の使者芥隠承琥、足利義政に拝謁、方物を献ず。
       □7月28日ー琉球の使者一行が将軍・足利義政に謁見、方物も献上する。
        8月1日ー琉球正使・芥隠西堂から蔭涼軒(季瓊)真蘂に大軸(中国から琉球国王に贈られたもの)、南蛮酒を贈る。(義政時代6度目の琉球人        参洛)。
    

雪舟が描いた琉球人

『自治おきなわ』1996年7月号に私(新城栄徳)は「京都の博物館で『国々人物図巻』を見たことがある。明に渡った雪舟が北京の街で見かけた珍しい人びとを写生したものを弟子が模写したもので、その中に世界の海を駆け回ったイメージに重なる琉球人像がある。」と書いた。明代の類書『万金不求人』に和寇図と共に大琉球國人も載っている。長崎県立美術博物館の正保版『万国人物図』にも琉球人が登場している。多くの絵師たちが好んで万国人物図を画題にしていたようだ。私は雪舟の弟子の絵の写真(琉球人)を琉球新報の岡田輝雄記者に提供。これは1991年9月発行の『新琉球史』(古琉球編)に載った。同様に佐久田繁月刊沖縄社長に提供したものは99年9月発行の『琉球王国の歴史』に載った。

1474年 尚円、島津忠昌の家督相続を祝う
1480年 足利幕府、応仁・文明の乱が終わったので琉球に朝貢船を送るよう島津忠昌に催促させる。
1482年 琉球国尚真、奏して陪臣の子蔡賓ら5人を南京国子監において読書させることを乞う。
1492年 ドイツ人地理学者マルティン・ベハイム、地球儀を作成
1492年 尚真王、先王尚円を祀るため円覚寺建設に着手
1497年 万歳嶺記、官松嶺記を建設。円覚寺禅寺記碑
1502年 朝鮮王季揉から贈られた方冊蔵経収集のため円鑑池に小堂を建設(1621年に弁財天像を安置)
1507年 尚真王、書を島津忠昌に送り修好の意志を伝える
1508年 島津忠治、尚真に書を送り、島津氏の印判(琉球渡海朱印状)を持たない商人を点検し船財等を収公を許す
1510年 尚真王、官生蔡進ら5人を南京国子監において読書を乞う。
1527年 尚清王、智仙鶴翁を遣わし明皇帝の日本宛の国書を齎す。足利義晴、書を尚清に送り日明和与の斡旋を謝す。
1530年 月船寿桂、「鶴翁(智仙)字銘并序」で為朝伝、琉球附庸説に言及。
1531年 『おもろさうし』第一巻、成る
1534年 5陳侃(正史)、高澄(副史)那覇着。7尚清冊封の礼。9冊封使、開洋。10陳侃『使琉球録』著わす

1550年 5月4日ー足利義晴、近江穴太(現滋賀県大津市穴太)にて死去。享年40(満39歳没)。

1556年 島津貴久、尚元王が建善寺月泉を遣わしたことに答書し隣交を求める。
1561年 郭汝霖(正史)、李際春(副史)
1568年(永禄11)9月 織田信長、将軍足利義昭を奉じ上洛、当面の仮御所として義昭は本國寺に入り、信長は清水寺を宿所とした。 
1569年(永禄12) 仮幕府のおかれた本國寺が襲撃にあったことから、信長は義昭のために二条城(二条御所)を築く。
1569年(永禄12年)、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、ルイス・フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている。フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、戦国期研究における重要な資料の一つになっている。その後は九州において活躍していたが、1580年(天正8年)の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。1583年(天正11年)、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後に『日本史』とよばれることになる。→ウィキ


松田 毅一(まつだ きいち、1921年5月1日 - 1997年5月18日)は、日本の歴史学者。香川県高松市出身、大阪市育ち。専門は戦国時代から江戸時代初期の日欧交渉史、特にポルトガル・スペインとの関係史。ヨーロッパ各地(ポルトガル・スペイン・バチカン等)やフィリピン、マカオ等の文書館に保存されている日本関係史料の発見・翻訳・紹介に取り組み、また多数の著書・論文を発表して日本における上記分野の研究の進展に貢献する一方、こうした研究成果の一般市民への啓発・普及、関係諸国との学術・文化交流にも尽力した。→ウィキ

1575年 琉球国の紋船(使僧天界寺南叔、使者金武大屋子)、鹿児島に着く。印判を持たない商船に交易を許したこと、島津使僧広済寺雪芩津興を粗略のことに島津氏に弁明。
1579年 簫崇業(正史)、謝杰(副史)来琉。簫崇業「那覇と首里の二ヶ所で、馬市(mashi)が設けられている。物を売るのはおおむね女-」。
1580年 琉球国尚真、島津義久に九州大半の帰伏を祝い隣交を求める。
1586年(天正14)  豊臣秀吉、聚楽第、方広寺大仏殿造営はじまる。
○国立博物館隣にある豊国神社は、豊臣秀吉死去の翌年の1599年、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。方広寺にあった大仏は、天保年間に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。この大仏は私もよく見にいったが1973年3月28日深夜の火災によって焼失した。


方広寺の大仏

1587年 島津義久、豊臣秀吉に降伏。
1590年 豊臣秀吉、尚寧王に書を送り、全国統一を強調。政化を異域に弘め四海を一家となす志を述べる。
1594年 尚寧王、島津義久に国家衰微のため唐入りの軍役は調達できない旨答える。


1976年2月 神坂次郎『徳川家康ー物語と史蹟をたずねて』成美堂出版
○二百七十年の徳川王国を築いた鼻祖だけあって、家康の史料は膨大である。明治以降に書かれた伝記でさえ(史料や研究書は別にしても)数えてみれば五十余冊ある。しかし、書くときめた以上、手当たりしだい、目に触れるかぎり読み倒してやろうと勇猛心を奮いたたせたのだが、これは軽率であった。なにしろ生身の家康というのは、幕府が神格化し御用学者たちが三世紀にわたって阿諛(おもねりへつらう意)をきそい、目も鼻も弁じぬまでに”神君〟の厚化粧をほどこしてしまったような扁平な人間ではない。その心意は複雑で矛盾にみち、屈折している。・・・

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尚寧王
1602年 徳川家康、陸奥国伊達氏領に船で漂着した琉球人を島津忠恒に送還させる。
1604年 野国総官、渡唐、帰国(05年)のとき蕃薯を持ち帰る。
1605年 本多上野介正純、長崎奉行小笠原一庵に平戸漂着の琉球船の荷物没収を命ず。
1606年 山口駿河守直友、薩摩商人の渡海が琉球出兵の妨げにならないよう分別を促す。
1608年 山口駿河守直友、島津家久に、琉球出兵の準備と、再度琉球国王に家康への来聘を促す交渉を命ず。
1609年 3-4島津軍、琉球出兵で山川湊を出帆。
1609年(慶長14)4月 薩摩軍、琉球侵攻/5月 鹿児島に中山王・尚寧を連れ帰る 
1610年(慶長15)8月2日 島津家久、中山王・尚寧を連れて駿府に参る/8日 島津家久、中山王・尚寧を連れて登城し徳川家康に拝謁/王弟、具志頭王子尚宏、家康に対面後に病死し興津の清見寺に葬られた。/18日 家久と中山王・尚寧に饗応で猿楽、頼宣、頼房が舞う。その間酒宴  
1610年(慶長15)8月25日 島津家久、中山王・尚寧を連れて江戸に参着/28日 尚寧、登城し台徳院(秀忠)に拝謁/9月20日 島津家久、中山王・尚寧を連れて木曽路より帰国
〇大正13年12月 藤田親義『琉球と鹿児島』末吉莫夢「薩摩関係の琉球五異人ー鄭迵謝那利山/薩摩関係の異人として、私は先ず第一に鄭迵謝那親方利山を挙げる。彼は慶長役の時の三司官の一人で、琉球に於いて最も勢力を振い、遂に対薩摩外交を誤り、其身も薩摩に於いて戮された人であるが、琉球の歴史に於いては出色の人物である。」
1611年9月19日 鄭迵・謝名親方利山、斬首

○1983年12月 新里堅進作画(川平朝申解説)『史劇 謝名親方』全教出版
謝名 利山(じゃな りざん、嘉靖28年(1549年/天文18年) - 万暦39年9月19日(1611年10月24日/慶長15年))は、琉球王国の政治家。謝名親方(ウェーカタ)の呼び方で一般に知られる。
 唐名は鄭迵(ていどう)。称号は親方。鄭氏湖城家九世。久米村(現・那覇市久米)出身で久米三十六姓の末裔の一人。父・鄭禄の次男として生まれる。1565年、16歳のとき官生に選ばれて明に留学し、翌年、南京の国子監へ入学する。1572年、帰琉。その後は都通事をへて長史となり、進貢使者として数度渡唐する。1580年、総理唐栄司(久米村総役)となる。 1605年、城間親方盛久を讒言して百姓の身分に貶め、自らは三司官となった。薩摩侵略の際には三重城に陣取り那覇港の防衛を行うも尚寧王の降伏によりともに連行される。その後、薩摩藩から起請文に署名するよう求められるが、ただ一人これを拒否し処刑された。(→ウィキペディア)



○琉球国中山王尚寧起請文(部分・島津家文書)。起請文は戦国時代、忠誠を誓うもの。豊臣秀吉の拾丸(秀頼)への忠節を尽くさせる血判誓紙も烏点の牛王(うてんのごおう)宝印があるので熊野信仰の流れのひとつであろう。
〇熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、古来より多くの人々の信仰を集めました。今なお多くの参詣者が訪れ、熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山の一つ。夫須美神(ふすみのかみ)を御主神としてそれぞれに神様をお祀りしている。伊弉冉尊(いざなみのみこと)とも言われる夫須美神は、万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、縁結びの神様また、諸願成就の神としても崇められている。社殿は、仁徳天皇の御世(317年)に現在の位置に創建され、平重盛が造営奉行となってから装いを改め、やがて、織田信長の焼討に遭ったのを豊臣秀吉が再興した。徳川時代に入ってからは、将軍吉宗の尽力で享保の大改修が行われている。→「那智勝浦観光ガイド」参照





 2008年10月15日~12月21日まで 大阪人権博物館で「アジア・大阪交流史ー人とモノがつながる街」(10月15日~12月21日)と題し展示会があった。見に行って学芸員の仲間恵子さんから『図録』を入手した。中に上田正昭氏が「アジアのなかの大阪ー東アジアと難波津」を執筆されて、完全な「鎖国」の時代はなかった、と説く。仲間さんはアジア・大阪交流史ー人とモノがつながる街と題して「近現代の大阪についても、生野区のコリアタウンや『リトル沖縄』と称される大正区を訪れることで、人と人との交流が生みだす文化に触れることができる。」と強調している。

○アジア・大阪交流史ー人とモノがつながる街・・・・・仲間恵子
○アジアのなかの大阪ー東アジアと難波津・・・・・・・上田正昭
1 大阪の渡来文化

伝王仁墓 - 大阪府枚方市藤阪東町二丁目に王仁の墓が伝えられている。/王仁大明神 - 大阪府大阪市北区大淀中3丁目(旧大淀区大仁町)にある一本松稲荷大明神(八坂神社)は王仁大明神とも呼ばれ、王仁の墓と伝えられていた。また近辺に1960年代まであった旧地名「大仁(だいに)」は、王仁に由来していると伝えられている。→ウィキ
2 朝鮮、琉球からの使節


3 「東洋のマンチェスター」と海を越えた人びと
4 大阪のなかの多文化

2017年4月3日~7月17日 高麗美術館「上田正昭と高麗美術館」 


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Category: 04-書の森
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1856年 琉球を紹介した(翁長良明コレクション)『フランク・レスリー ILLUSTRATED NEWSPAPER』

1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。→1996年6月『大阪春秋』堀田暁生「自由亭ホテルの創業ー大阪最初のホテルー」


2003年10月 大阪府立中之島図書館「道頓堀展」
1889年11月ー松山傳十郎(1866年10月~1935年2月7日)『琉球浄瑠璃』いろは家→「松山傳十郎」


1893年7月 村崎長昶(私立済々中学卒業後沖縄に渡り、沖縄芝居に係る。1894年6月台湾総督府官吏、数年後書店を起こし台湾に永住)・豊好戞郎 『琉球踊狂言』三重新聞社→国会図書館デジタルアーカイブ

□1893年、角座の仕打澤野新七他一名の代理寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。1893年7月『歌舞伎新報』「琉球芝居ー沖縄県琉球には昔より音楽師と称えて一種の歌舞を演奏するもの士族の間に伝えられ居たるところ去る明治22年中いづれも俳優の鑑札を受けて我が役者の如きものとなり其の組5組もあるよしにてこのたび其の一組が大阪角の芝居へ乗り込むことに決定し既に去る2日を以って那覇港を解覧し本日ごろは遅くも到着したる手筈なるがー」
「琉球国演劇」の横断幕があるのが角座。下が角座で配られたもの

「角座」(翁長良明コレクション)

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□沖縄芝居ー1893年に大阪・京都・名古屋で公演
1991年1月、池宮正治琉大教授と電話で大阪の新聞で沖縄関係を調べているとの話をすると、それなら芸能、特に渡嘉敷守良の芝居も心がけて見てくれと示唆された。それで見当をつけて中之島図書館で大阪朝日新聞、大阪毎日新聞を、京都府総合資料館で日出新聞、名古屋では扶桑新聞をめくると次々と沖縄芝居の記事が出てきた。国会図書館にも行き雑誌も見た。

1894年5月 『早稲田文学』第63号 佐々木笑受郎「琉球演劇 手水の縁」




1895年9月 小那覇朝親『古今琉歌集』上卷 沖縄印刷所(宮井悦之輔)

1913年4月25日~11月22日『大阪毎日新聞』菊池幽芳「百合子」

1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。


1914年3月

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1919年ー京都都踊りで琉球太鼓踊りー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り
□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」




上ー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り
□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」

1919年9月14日ー『沖縄時事新報』

1920年5月 『地方行政』小林次郎「沖縄の特殊行政」


1925年11月『沖縄タイムス』
1932年
●山里永吉の戯曲「那覇四町昔気質」が琉球新報に掲載されたのは昭和7年3月で、山里はその後記で「この戯曲は多分13日から大正劇場で上演されると思うが、考えて見ると大正劇場に拙作『首里城明け渡し』が上演されたのが一昨年の今頃、ちょうど衆議院の選挙が終わった当座だったと覚えている。それから昨年の正月が『宜湾朝保の死』、今度の『那覇四町昔気質』と共に尚泰王三戯曲がここに完成した」と述べている。

1930年11月 那覇の平和館で①「百年後の世界(原名メトロポリス)」/「江戸城総攻メ」上映
①『メトロポリス』(Metropolis)は、フリッツ・ラング監督によって1926年(大正15年)製作、1927年に公開されたモノクロサイレント映画で、ヴァイマル共和政時代に製作されたドイツ映画である。
製作時から100年後のディストピア未来都市を描いたこの映画は、以降多数のSF作品に多大な影響を与え、世界初のSF映画とされる『月世界旅行』が示した「映画におけるサイエンス・フィクション」の可能性を飛躍的に向上させたSF映画黎明期の傑作とされている。SF映画に必要な要素が全てちりばめられており「SF映画の原点にして頂点」と称される。→ウィキペディア
□1985年2月 那覇の国映館で「メトロポリス」上映


1930年11月『沖縄朝日新聞』

1935年

旭館


平和館


1936年11月


1937年6月 那覇の旭館で「世界の終り」上映


1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「久高長秀」

1938年2月 那覇の旭館で「巨人コーレム」上映□『巨人ゴーレム』(きょじんゴーレム、Le Golem)は、1936年にチェコで制作されたモンスター・ホラー映画。→ウィキペディア

1938年3月、那覇の旭館で漫画祭、パラマウント映画「ポパイの快投手」「ポパイの動物園荒らし」上映
1938年3月 那覇の平和館で「禁男の家」上映□『禁男の家』( きんだんのいえ、原題: Club de femmes )は、1936年に製作されたフランス映画。1956年に『乙女の館』という作品で再映画化されている。→ウィキペディア

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
1983年、人類館事件の写真を見つけ、その背景を調べはじめて写真史に興味を持った

1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)
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1983年6月5日『琉球新報』新城栄徳「関西資料の散策・人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤さん宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤さんが『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤さんに『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」

1923年12月ー赤琉會(日本労働総同盟予備軍倶楽部)発足
1924年3月ー関西沖縄県人會機関誌『同胞』創刊

大阪人権歴史資料館の学芸員・仲間恵子が1994年6月『季刊・リバティ』に「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号ー関西に生きるウチナーンチュ(沖縄人)の第一歩ー」と題して『同胞』を翻刻、紹介している。2003年3月の『水平社博物館研究紀要』第五号にも仲間は「1920年代の在阪沖縄青年の運動」と題し『同胞』を紹介している。『同胞』は「沖縄県人同胞会」の機関誌として1924年3月に大阪市北区西野田吉野町で発行された。『同胞』は五号を数えると謄写版刷からタブロイド版印刷となった。


1924年5月ー真栄田三益らが中心となって日本労働総同盟予備軍倶楽部(赤琉会)を結成。大阪市電、私鉄の労働争議の応援などに旗を持って参加。大阪天王寺公園でー大阪のメーデーに参加した関西沖縄県人会の活動家。前列右から2人目が上里春生、4人目が眞榮田三益、その後が眞榮田之璞、後列右の旗手は宜保為貞

1925年  前列右から2人目が阿波連之智、4人目が眞榮田之璞、前列左から2人目が浦崎康壮、後列右端が浦崎康慶、3人目が眞榮田三益
真栄田一郎については安仁屋政昭氏が『沖縄大百科事典』に詳細に記しておられる。林世功の一族である。本名は之璞、写真はその墓の前で左から姪の上原美津子、池宮城秀意、瀬長亀次郎、城間得栄(国吉真哲撮影)。右は国家権力により弾圧された真栄田一郎の遺体写真(国吉真哲撮影)。真栄田家・8世は世佐、9世が傳詩、10世が正隆で一郎はその4男。兄に之琛(真栄田勝朗)、之璟、之か、姉の冬子(まかと)は伊波普猷の妻。関西沖縄県人会、沖縄人連盟を組織した真栄田(松本)三益は親戚である。
1933年5月ー『琉球新報』桑江常格□同志前田一郎を悼む/歴史上の一人物としてー(略)同志前田は理論家ではなかった。彼の長所は頭の中で理論をデッチ上げるのではなくして自身の信ずるところを行動において現すところにあった。(略)彼が16、7歳のころから沖縄のアナーキストたちと行動を共にし後にマルクス主義に転向して大正13年から14年にかけての関西沖縄県人会草創期を経て××党沖縄支部結成時代から死ぬまでの彼の行動の中によく現れている。彼がマルクス主義者としての活動は大正14年の春に当時関西沖縄県人会の仕事をしていた真栄田三益の紹介で県人会事務所に来たときから始まる」
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松本(真栄田)三益資料

1927年ー渡口精鴻『呼吸器病の知識ー付肺結核の臓器療法』南江堂
国民新聞 1921.11.17(大正10)「百日咳の世界的新療法」
○百日咳に対する世界的の新療法が警視庁細菌検査所の渡口精鴻氏に依って発見せられた始め動物試験に於て成功したる同氏はそれを自分から自分の家族に試み更に最近に至って済生会病院の豊福博士慶応病院の唐沢博士神田の藁科小児科病院等に於て患者に之を試みたが何れも大なる好成績を挙げていると云うことである新療法とは百日咳に対するアンタゴニスムス(拮抗菌)の発見である・・・・□→神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 衛生保健(3-182)

関西沖縄県人会初代会長・渡口精鴻


1933年5月5日ー大宜味朝徳主幹『南島』(郷友版)□「医学博士・渡口精鴻氏に物を訊く座談会」
渡口精鴻氏の経歴
記者・博士の出生地はどちらでありますかー渡口「那覇泊ですよ明治14年1月20日生まれです」。記者・沖縄県では矢張り県立医学校を御卒業になりましたかー渡口「そうです明治35年卒業と同時に熊本で開業医の試験を受けて医師の免許を受けたのです」。記者・上京しましたのはいつ頃でありましたー渡口「明治42年に上京して約一ヵ年間伝染病研究所と帝国大学の病理教室で実地の研究をしました」。記者・官途におつきになったのはー渡口「明治43年末より大正12年まで青森、香川、神奈川関東庁警視庁茨城において防疫官ならびに衛生技師として就任してきました、その間には赤十字病院の検査部長を兼任していたこともありました。愛国婦人会や看護婦養成所の講師に招聘されたこともあります」。記者・大阪で開業せられたのは何年でしたー渡口「官職をやめて大正12年に大阪で独立開業しましたが研究其の他の都合で大阪を引き揚げて東京に参りました。上京当時は一時青山北町に診療所を開設しましたが大正15年に現在の場所(蒲田区蒲田470)に新築移転してきました」。
大阪の県人会
記者・大阪の沖縄県人会長に就任せられたのは大阪で開業せられた時ですかー渡口「そうです。大阪の県人会は陣容はなかなか堂々たるものです。春秋の会合は一流の公会堂で開催しますが会員の熱心が東京とはちがいます」。記者・東京の県人会と大阪の県人会とどう違いますかー渡口「東京は学生が多いが大阪は勤労者が多い。従って東京は理論が多いが大阪はどっちかと云えば実際運動が多いようです」。記者・只今ほかに公職に御関係がありますかー渡口「出来るだけ御免を蒙りたいと存じますがそれでも医政調査会と日本医師刷新聯盟の委員になっています」。
博士になるまで
記者・あなたは県人中第一番目に博士になられたと記憶していますが学位はいつ得られましたー渡口「大正12年の4月9日東京帝国大学医学部教授会から医学博士の学位を授けられました、論文は『インフルエンザ菌および百日咳菌と他の細菌との関係ー共棲ならびに拮抗作用に就いて』でした」。記者・其の研究のために奨学資金を得られたんですかー渡口「そうです東京帝国大学と横浜医学会から2回受けました、百日咳薬と肺結核の新薬として僕の創製したハイルミンは昭和6年6月内務省国産奨励指定薬にされています」。記者・博士になるまでの苦心談を聞かしてくれませんかー渡口「僕のは苦心と云えば苦心もあったが、防疫官または衛生技師と云う仕事が自然研究せしめたようなもので仕事に一生懸命やったことが僕の研究を大成せしめたと云うのでしょう。伝染病または防疫上研究に都合のよい地位にいたことが主です。医学会には実験報告は47、8回だしました」。
(略)
沖縄救済問題
記者・沖縄救済運動に就いてどう考えますかー渡口「沖縄救済運動も大正10年ごろから叫ばれているが声の大きい割合に、成果は挙がらんようだネーもっと根強い根本的な運動が必要である。それにしても常に当局を鞭撻する政治家がなければならぬと思う、開会中だけj上京し或いは旅費を貰って陳情運動に出てくるようではカラ熱はない。代議士も知事の尻馬にばかり乗っていずにもっと自主的に自己の党を動員して仕事は出来ないもんかネー」。

東京沖縄県人会1933年春季大会ー中央右より渡口精鴻・東京沖縄県人会会長、長嶺大佐、上与那原大佐

1934年

1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

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写真左から城間武雄氏、平良幸春氏、新城栄徳/松島弘明氏
2019年6月4日~9日 沖縄県立博物館・美術館県民ギャラリー 「平良幸春ファミリー展」




2013年5月23日~6月3日 沖縄三越・美術ギャラリー「琉球太田焼窯元・平良幸春一門作陶展」
写真左から新城栄徳、平良幸春氏
ここをクリック「平良幸春一門作陶展出展作品紹介 春奈」

1974年3月23日~6月2日 大阪万博記念公園エキスポランド「大沖縄展」

「沖縄文庫」
会場内の沖縄文庫で沖縄本を販売する新城栄徳。いつも岡本太郎の太陽の塔を見ながら、民博はまだできていない。/このときの陶器コーナーではシーサー造りの名人・島常賀翁と、陶芸家で駆け出しの平良幸春氏とは一緒に陶芸の用具や釉薬などの材料の店、常賀翁のユンタクを聞きながらシーサー造りを2カ月以上観てきた。常賀翁の三線模合仲間の宮城美能留(宮城 稔)沖縄歌舞団団長の宿泊先のホテルに、一緒に見舞いに行った。

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