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 きょう2月17日、安倍首相の基本姿勢を問う集中審議が衆院予算委員会で行われるという。この集中審議で野党が安倍首相を追い込んで、やぶれかぶれ解散・総選挙に追い込むことができなければ、野党が安倍政権を倒せるときは、もう二度とやってこないだろう。なにしろ衆院予算委員会は国会のハイライトだ。おまけに安倍首相の基本姿勢を問う集中審議だ。各党がエースを投入し、質問協力をして安倍首相を追い込めば、安倍首相は窮する。

 それほど安倍政権はウソと矛盾と犯罪的政策にまみれているからだ。たとえば森友学園に対する国有地不当払い下げ問題だ。もしこの安倍夫妻の犯罪的行為を野党が集中審議で徹底的に取り上げるなら、大手新聞も書かざるを得ない。大手新聞が書けば広く国民の知るところとなる。安倍内閣は総辞職に追い込まれること間違いない。

関連〇「日刊スポーツ2月18日」★日本維新の会の木下智彦が質問して朝日が書いたが「これ以上やるな」と“与党的指示”が出て質問は続かない。15日の衆院財務金融委員会では日本共産党の宮本岳志が質問に立ち、国費から埋設物・土壌汚染除去費用として1億3000万円余を支払ったうえ、これとは別に埋蔵物撤去費用の名目で8億円以上を売却額から差し引いており「国にとってはタダで手放したということだ」と追及した。森友学園の資金力の問題があり、9億円相当の土地を、8年後に購入する予定で借りた。その土地に着工後、大量のごみが出た。すると価格からはごみ処分代の8億円が控除されたという構図だ。★財務省理財局長・佐川宣寿や副総理兼財務相・麻生太郎は「国有財産特別措置法で支払いの分割が認められているもの」などと適正を強調するが学校には適用されていないと認めた。しかし名誉校長に首相・安倍晋三夫人・昭恵、校長には改憲運動団体「日本会議」の大阪支部役員・籠池泰典がいる。何らかの政治的配慮があったのではないかというのが見立てだ。問題に対して適正な質問は野党の質問力が問われ、メディアは取材力が問われる。

関連〇「黒猫の短語2月」金正男が暗殺され、マイケル・フリンが更迭され、さらに加えてタレントのカルト集団への出家なんてのまであって、新聞・TVは連日の大騒ぎ。でもねえ、もっと凄いスキャンダルがこの国では進行中で、世が世ならば総理大臣の首が飛ぼうってほどのものなのに、一部を除いてほとんどの新聞・TVはスルーしている。TVのワイドショーには格好のネタなのに、何やってんだか。「メディアがスルーしている時点でホントなんだろう」という身もふたもない意見をどなたかがつぶやいていたのには笑っちまった。

関連〇「しんぶん赤旗2月17日」幼稚園児に「教育勅語」を唱和させることで知られる大阪市の学校法人「森友学園」(籠池=かごいけ=泰典理事長)が開校を予定している私立小学校が、安倍晋三首相の名前を冠した「安倍晋三記念小学院」と命名して寄付を集めていたことが16日、分かりました。籠池氏が本紙の取材に認めました。

(略)籠池氏は大阪府で改憲右翼団体「日本会議」の代表委員をしています。同学園が運営する幼稚園のホームページで籠池氏は「日本民族のための日本民族の憲法を創出し」「民族性を強く押し出す真性・保守の台頭が急がれます」と改憲の必要性を強調。「安倍政権は歴史のキーポイントを握っている重要な政権」と安倍首相に繰り返し期待を寄せています。

関連〇「日刊ゲンダイ」大阪市淀川区の学校法人・森友学園が運営する「塚本幼稚園」が、「よこしまな考え方を持った在日韓国人や支那人」などと記載した“ヘイト文書”を保護者向けに配布していたことが分かった。大阪府は、憎悪表現に当たる恐れがあると問題視し、法人理事長の籠池泰典園長らから事情を聴いている。

 もし野党が今朝5時のNHKニュースを取り上げれば、稲田防衛相のウソ答弁は今度こそ逃げられない。なにしろ南スーダンの反政府軍指導者マシャールがテレビの前で堂々と内戦再開を宣言したのだ。もはや言葉遊びをしているような段階ではない。間違いなく内戦が激化し、自衛隊が内戦に巻き込まれることになる。それでもウソ答弁を繰り返すなら、稲田防衛相の引責辞任と、安倍首相の任命責任は避けられなくなる。

 そして、やはり極めつけはトランプ大統領の迷走だ。ここにきて一気にトランプ大統領の無能さと政権の内部崩壊が露呈してきた。なにしろ北朝鮮のミサイル発射に一言も自分の言葉を発せられなかったのだ。対中政策にしても、中東政策にしても、次々と前言を翻して腰砕けの醜態を演じている。極めつけはフリン補佐官の辞任だ。この問題は根が深い。成り行き次第では、トランプ大統領の対ロシア政策に決定的な打撃を与えるだろう。

 いや、トランプ大統領の命取りになるかもしれない。そうでなくともトランプはサイコパスだ。サイコパスは嫌になったらいつでも責任を放棄する。トランプ大統領ならやりかねない。そう、脳科学者の中野信子教授は発売中の月刊文藝春秋で予言している。そんなトランプ大統領との首脳会談を急ぎ、個人的緊密関係を強調し、日米同盟強化を自画自賛した安倍首相は、間違いなく世界に恥をさらした。

 その事を国会で野党が本気で追及すれば、さすがの安倍首相も進退窮まるだろう。いや、安倍首相のことだから、それでも強弁を重ねて居座るに違いない。その時こそチャンスだ。これ以上開き直き答弁を繰り返すなら国会は機能しないと言って、野党はすべての国会審議をボイコットするのだ。あらゆる法案審議をストップするのだ。そうすれば安倍首相は、国民に信を問うしかない。やぶれかぶれ解散に打って出るしかない。

 国会審議のボイコットは確かに非常手段だ。国民の反発を受けるかも知れない。しかし、いまの日本は、いや世界は、間違いなく非常事態だ。反発する国民は多いだろうが、その一方で喝采を送る国民もまた多いに違いない。そこに賭けるのだ。何よりも、今の野党には失うものは何もない。それどころか野党滅亡の危機だ。反発を恐れるなどという悠長なことを言っている場合ではないのだ。野党はきょう2月17日の国会を日本の政治史上に残る歴史的な国会にするつもりの覚悟で臨むべきだ。さもなければ野党に残された道は自滅しかない。
 

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Posted by: ryubun02
毎日新聞 2/11(土)<日米首脳会談>「同盟と経済関係を強化」 共同声明を発表
安倍晋三首相は10日午後(日本時間11日未明)、トランプ米大統領とワシントンのホワイトハウスで会談した。首相は、両国の経済関係を一層深化させるため、麻生太郎副総理兼財務相とペンス副大統領のもとで分野横断的に協議することを提案し、トランプ氏も同意した。両首脳は、沖縄県・尖閣諸島が米国による対日防衛義務を定めた日米安全保障条約第5条の適用対象だと確認した。
安全保障分野では、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の全面返還には同県名護市辺野古への移設が「唯一の解決策」だとして、日米両政府で協力して取り組むことで一致した。トランプ氏は会見で日本の米軍駐留受け入れに「感謝している」と述べた。/〇もと核弾薬庫があった辺野古の自然を破壊し、新基地をこさえて、オキナワに「戦後百年後」も米軍基地を置くつもりのようだ。

「核はこうして貯蔵されている<辺野古の核弾薬庫>」『週刊ポスト』1973年11月15日号<平野部の”70%„が米軍基地の沖縄>

 今日、2月10日は、1963年(S.38)年、アジアアフリカ連帯会義で4・28沖縄デーが決議された記念日。27度線での海上大会もスタート。以来、57年。変わらぬ軍事基地の島。戦後70年を経て、そのリニューアル再編整備が強行され永久基地化が図られている。その4・28を日本独立の日として祝ったのが歴史オンチのアベだった。
 しかし、世界は忘れてはないし、見ている。アメリカンファーストのトランプ、日米安保第一のアベ立憲主義、人権を知らない、金権第一の最悪コンビ会談次第で、日本は世界の笑いものになる。(T)

1944年10月10日「十・十空襲ー那覇の崩壊」アメリカ軍は、南西諸島全域に大空襲を敢行した。10・10空襲と呼ばれるこの空襲によって那覇市は一挙に炎上し壊滅した。空襲は10日の午前7時の第一次から午後3時45分までの第五次まで延べ9百機におよぶ大規模なものであった。第二次の那覇港攻撃に続いて正午をはさんでの第三次攻撃で垣花町が炎上し、第四次攻撃は那覇市街地に集中し、第五次は全機をあげて那覇攻撃に終始した。低空銃爆撃とともに、多数の焼夷弾を投下したため、市内各所に火災が生じ、それが翌朝まで燃えつづけ、全市域の90%が消失した。

罹災戸数は、15、648戸中11、440戸に及んだ。とくに西本町592戸、貸座敷689戸で、上之蔵町602戸、東町552戸、旭町275戸、久茂地町903戸で全焼、西新町は1、146戸のうち1,130戸が焼失、天妃町は371戸のうち370戸が焼失した。また軍民あわせて150隻の船舶が沈み、また交通機関の破壊をはじめ軍需物資、民需物資の被害は大きかった。住民の死傷者は、死者330、負傷者455であった。この空襲によって那覇市庁舎は焼失し、重要書類もことごとく灰となった。→『写真集・那覇百年のあゆみ』

2014年9月6日~10月29日 那覇市歴史博物館「那覇のまつりと10・10空襲」

「10・10空襲罹災地図」 赤色が被災した範囲

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コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com

2016-11 ひより「作品」

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Posted by: ryubun02
1935年10月30日 阿部金剛、昭和会館参観
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1936年8月『改造』阿倍金剛「琉球記」□私は尚男爵と一緒に此の城を飛行機の上から俯瞰した時は、つくづくさう思ったのである。首里城の一角に先ず大ホテルを建てる。城塞は全部ホテルの庭として手を入れる。諸所に散在する尚侯爵家初め各王族の城跡別荘等を開放してドライブ・ウエイを造り滞留客の散歩観光の目標にすること。既設の海水浴場を増大して設備を完全にし、適宜な場所に競馬場、競犬場、ゴルフ・リンクス等を造り辻近くにカジノを建設する。序に海洋博物館をこしらえるのも、まんざらモナコの真似とばかりは云えない。この太平洋に浮かぶ珊瑚礁には無数の珍魚奇貝も棲息しているのだから。飛行場は既に立派なのが出来ているし、航空路は既に開発されているのだから。・・・
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1937年1月『三田文学』安部金剛「琉球二景」
阿部金剛 あべ-こんごう
1900-1968 昭和時代の洋画家。
明治33年6月26日生まれ。岩手県盛岡市出身。父は内務省官僚であった阿部浩東京府知事の長男。岡田三郎助にまなぶ。フランスでビシエールに師事し,藤田嗣治(つぐはる)らの影響をうける。帰国後の昭和4年二科展に初入選。以後,超現実主義的な作品を発表。昭和43年11月20日死去。68歳。慶大中退。作品集に「阿部金剛画集」。(コトバンク)

阿部金剛 「郷愁」 1932 4号 油彩 個展出品作
阿部金剛全盛期の優品である。キリコの日本での移入を考える上で重要な作品でもある。国立近代美術館の大谷省吾氏が「阿部金剛イリュージョンの歩行者」1999本の友社を出されている。阿部金剛を知る基礎資料の決定版である。書斎絵としては一級の格とセンスがあり、男の書斎にはピッタリな作品である。→「絵のある待合室15 l 平塚市岡崎の平園クリニック l」

1936年1月5日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー七島の荒波くぐり①薩藩へ海上伝令 活躍した”琉球飛船„」
1936年1月8日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー”帳面と矢立„で語学の交換教授③愛嬌者の眞榮平」
1936年1月9日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー”捧げ銃„の敬禮下にぺルリ堂々入城④嘉永6年 黒船來琉す」
1936年1月11日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー関番所設けて 佛人の出入監視⑥米艦去り佛艦來琉」
1936年1月12日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー斉彬公渡琉藩士に軍艦購入の密令⑦密使市来の苦心」
1936年1月14日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー突如、斉彬公薨去で軍艦購入を中止⑧契約解除で芝居」
1936年1月15日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話-琉球側の薩摩党頻りに投獄さる 斉彬の壮図遂に空し」









1936年8月15日『改訂版 日本地理風俗大系 九州地方』誠文堂 新光社(小川菊松)

1936年9月29日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋源一郎「糸満人は果して異人種か」
1936年9月30日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋源一郎「久高島の奇習 午年に貞操試験」(写真ー久高島に残る原始的な風葬)」
1936年10月4日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋源一郎「哀切胸を打つ 与那国島の民謡」

1936年10月23日『琉球新報』喜屋武眞榮(女師附属)「新体操要目と運動会(1)」

1936年11月11日『沖縄朝日新聞』鳥小堀浄(當間諭)・文、西條寛・絵「首里風景ー辨ケ岳/与那原街道を右に、大空につ立ってゐる無電の鉄塔を左に、蝙蝠形に腰を据へて、翠緑に煙る霊嶽!辨ケ岳は首里八景中の筆頭にして、霊地久高島の遥拝所である。舊の八、九月は首里人を始め各郡村から参詣者が、バス車庫の後方から敷き詰められたダラダラ坂を上に下りし、賑やかである。嶽頂よりの眺望は碧海あり連峰あり、眼下 傾斜して広かる西原の画板は素晴らしい」

當間諭さんを検索したら『新旧対照暦』の著者というだけである。その著(1976年)に多和田眞淳氏が「この際、當間君に御願いしたいことは、君の新旧対照暦を駆使し、君の多年蓄積したメモ帳のチツを解き放して、最も我が琉球史の壷所をついた、最も簡明な『袖珍琉球史年表』とでも名づけられる、何時でも何処でも迅速に間に合い、真に役立つような『ポケット年表』を編集してもらいたいことである。」とポケット版の琉球史年表を出されることを當間さんに勧めている。

手元にある當間諭さんの年賀状を出してみると、1979年は大阪市住之江区、1980年、82年は大阪の沖縄関係資料室の西平守晴方になっている。83年から那覇市泊が受け取った住所となっている。『沖縄タイムス』の83年4月に「孫と遊ぶ」、86年10月には「新聞から人物を記録」が記事となっている。當間さんがお元気なころ、よくご自宅を訪ねいろいろな話を聴くのがすきであった。人を指すとき「やっこさん」が口癖であった。書斎には新聞の死亡広告のスクラップ帳が所狭しと並んでいた。
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2004年元旦の『日本経済新聞』に「春秋ーイスラムのヒジュラ暦など太陰暦のほか、さまざまな民族や集団のなかに生き続けてきた西暦と異なる時間を壊して地ならしをしていったのは、鉄道や学校といった仕組みである。情報化の進展がそれをさらに進めて古い時間が失われてゆくのが今世紀だとすれば、何気ない新春の眺めもいとおしくみえる」とある。今は『ポケット年表』も時代遅れとなり携帯電話でカバー出来る時代となった。
1936年12月19日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描①崇元寺」
1936年12月20日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描②首里王城」
1936年12月22日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描③那覇の埠頭」
1936年12月23日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描④赤い屋根」
1936年12月24日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑤泉崎橋」
1936年12月25日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑥萬座毛」
1936年12月26日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑦鹽屋灣」
1936年12月27日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑧海辺の福木」

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Posted by: ryubun02

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沖縄県立図書館出品の「程順則肖像」が見える

1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」①

1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」、写真・ペルリ提督の首里城訪問のジオラマ
1月ー『琉球展覧会出品目録』□永見徳太郎ー琉球女日本男遊楽の図、琉球船競漕の図、琉球人行列/島田佳矢ー琉球木彫聯、琉球木彫額、琉球竹花生、琉球細麻衣(笠、片袖、秋夏模様)、新月型酒入、龍模様花瓶/銘苅正太郎ー東道盆
山村耕花ー麻紅格子衣裳、麻茶地縦格子衣裳、麻紺地蝶梅模様衣裳、麻紺地花笠模様衣裳、麻紺地茄子模様衣裳、麻薄藍地松梅紅葉模様衣裳、木綿薄藍地牡丹鳳凰模様衣裳、木綿白地ドジン、麻風呂敷(三ツ巴に一紋付柳にのし模様)、鼈甲 (廃藩以前婦人使用のもの)、蛇皮線(爪付)、琉球胡弓(弓付)/啓明会ー琉球風俗絵、唐船渡来図、古代紅型裂地(300余年前のもの)、焼物製作に関する証書、紅型型紙図案(15枚)、紅型型紙(11枚)、絣図案(16枚)、絣図案(19枚)、手拭図案(2枚)、墨すり紅型図案(5枚)、風呂敷図案集(2枚)、紅型衣裳(3枚)、古代面 能面(4面)・・・比嘉華山は唐船入港ノ図、尚順は「神猫の絵」、富名腰義珍は唐手軸物、唐手本、唐手写真貼、巻藁(板付)、木刀、十手、唐手術写真、六尺棒などを出品している。①杉浦非水は琉球壺(芳月窯・唐草彫)、琉球壺(南蛮模様彫)を出品。

①杉浦非水 すぎうら-ひすい 1876-1965 明治-昭和時代の図案家。
明治9年5月15日生まれ。グラフィックデザインの開拓者のひとり。地下鉄(昭和2年の開通時)や三越のポスター,たばこのパッケージなどを手がける。図案家の団体「七人社」を設立。昭和10年多摩帝国美術学校(現多摩美大)校長。30年芸術院恩賜賞。光風会会員。昭和40年8月18日死去。89歳。愛媛県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は朝武(つとむ)。(→コトバンク)/日本のデザイン史に燦然と輝くモダンポスターの傑作『三越呉服店 春の新柄陳列会』です。描いたのは、三越の図案部員として次々と傑作ポスターを世に送り出し、「三越の非水か、非水の三越か」と言われるほどの名声を得た近代グラフィックデザインの父・杉浦非水。日本で最初に商業美術という分野を切り拓き、多摩美術学校の初代校長兼図案科主任教授として日本にデザインを根付かせる為に生涯尽力した人物です。(→美の巨人たち)

ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」






1930年8月 改造社『日本地理大系・九州篇 沖縄県』

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 1931年3月に新光社から『日本地理風俗大系』の12巻・九州地方(上)が発刊された。守礼門がカラーで載っている。この本を1987年に安良城盛昭(大阪府立大学教授)氏が沖縄県立博物館に寄贈された。氏のものは父盛英が東京で教師をしていたとき購入したもので氏も愛読し親しんできたものであった。□1929年2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻(写真・守礼門)□伊東忠太「首里城守禮門ー殆ど支那式の三間は牌楼の型の様であるが、また支那式と大いに異なる点がある。その四本の柱を立てて之に控柱を添えた意匠は支那から暗示を得たのであるが、斗栱の取扱い方は寧ろ日本趣味である。中の間の上に当たって、屋根の上に更に一間の第二層の構架が加えられ、その軒下に守禮之邦と書かれた扁額が懸げられて居る。細部の手法は一體に甚だ自由であり、行く処として苦渋の跡を示さない。門の広さは中の間十一尺五寸、脇の間七尺六寸に過ぎぬ小規模のものであるが、悠然として迫らざる風貌強いて技巧を弄せざる態度は誠に平和の感を現すものである」







1933年7月 仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』

1934年4月17日『琉球新報』広告□那覇市東町 明視堂写真部ー佐和九郎『正則写真術』『密着と引伸』『現像の実際』『露出の秘訣』『整色写真の研究』『整色写真術』/三宅克巳『写真随筆 籠の中より』『写真のうつし方』『私の写真』『趣味の写真術』/高桑勝雄『フイルム写真術』『写真術五十講』『写真問答』/宇高久敬『写真の新技法』/霜田静志『写真の構図』/南實『原板の手入』/加藤直三郎『中級写真術』/石田喜一郎『プロモイル印画法』/小池晩人『山岳写真の研究』/金丸重嶺『新興写真の作り方』、金丸重嶺・鈴木八郎『商業写真術』/勝田康雄『人物写真のうつし方』/中島謙吉『芸術写真の知識』/吉川速男『写真術の第一歩』『小形カメラの第一歩』『図解写真術初歩』『私のライカ』『十六ミリの第一歩』/鈴木八郎『写真の失敗と其原因』『写真処方集』『整色写真のうつし方』『引伸の実際』/中戸川秀一『写真百科辞典』/寺岡徳二『印画修整の実際』/斎藤こう兒『撮影第一課』『引伸写真の作り方』『芸術写真の作り方』/額田敏『山岳写真のうつし方』/眞継不二夫『芸術写真作画の実際』『アマチュア写真の修整』/山崎悦三郎『修整の実際』/高山正隆『芸術写真入門』『ベストコダック写真術』/石動弘『小形活動フイルム現像法』

1934年5月5日『大阪朝日新聞 九州朝日』「外人の眼に映じた”ハブの國„ クルート女史の興味を晙る視察談」


1934年5月8日『琉球新報』?
4月、欧州経由でアメリカに帰途、来沖したミス・アン・クルート(大阪東淀川区ミード社会館)が新聞記者に「那覇の児童がスペイン語、英語を知っているのに驚いた、これは海外雄飛の諸産物で若い者がハワイ・ブラジルらに出稼ぎ、そこで生まれた子を故郷沖縄の学校に送り帰すためです」と答える。


1934年7月1日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄バラェティー移民の巻3 全世界に足を 移民群3万7千余 其送金高 何と380万円 糸満人の活動は世界の驚異」
1934年7月3日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄バラェティー唐手の巻4 唐手の応用 護身ダンス 御婦人の危急が立派に救へるナポレオンでさへも舌を巻く 今県外へ素晴らしい進出」
1934年7月4日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄バラェティー園芸作物の巻5 百万円目標に 園芸作物の移出計画」 
1934年9月23日『大阪朝日新聞 九州朝日』「郷土の誇り 琉球並木」

1935年1月23日『大阪朝日新聞 九州朝日』「猫の手も欲しい黒糖の製造期 沖縄農村の初春風景」(写真ー改良型圧搾機)
1935年3月8日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄の模範部落②小湾 古謝」
1935年4月20~24日 下村海南、飯島曼史来沖
□曼史「那覇市長室で進貢船帰国図の六双屏風を見る。百数十年前の琉球画家屋慶名政賀という人の筆で、那覇から首里へかけての鳥瞰図が描いてある。島袋源一郎君がこれを主題にして、進貢船のこと、冊封使のこと、琉球と支那と薩摩の関係など、微に入り細を穿ちて、立板に雨のような弁を揮う。この人、およそ琉球のこと、古今東西を貫き雅俗硬軟を通じて知らずということなし。僕は心ひそかに琉球雑学博士島袋圓斎先生の尊称を奉ることにした。圓斎はいうまでもなくエンサイクロペディアである。」

□海南「沖縄県の教育会に島袋源一郎という御方がある。四百頁の沖縄案内。四百二十頁の沖縄歴史。三百九十頁の国頭郡志の著者である。只著者というだけでない、その著作中の年号でも計数でも全部諳んじてる、まさしく沖縄の活字引である。之れ曼史君が圓斎なる称号を謹呈せる所以である。」「こうした蔡温はエライ人であるが、それらの数多い功績を事や細やかに知悉してる圓齋君が傍についてるのだからたまったものでない。この松並木は、この森林は、この道路は、この港湾は、この水利事業は、この部落の移転は、この何は、この何はと、オール蔡温デーという調子で、ノベツ幕無しに説明がつづく。そこで我ら同人圓齋の号のみを以てしては物足らず、あれは島袋でなくて合財袋だという。イヤそれでは小さすぎる、あれは信玄袋だという。すでに信玄袋とすれば圓齋というより百貨店という方が当ってるなどいうものもあり、結局島袋又の姓信玄袋、通称源一郎、圓齋と号し、又百貨亭主人ということに全員一致にて可決される。その後の道中にて大島に鹿児島に、いつも信玄袋の噂の出でざる日なし、圓齋君果たしてクシャミをつづけつつありしや否や聞まほしけれ、恐惶謹言。」「これだけの特殊の歴史を持つ都市にして郷土博物館の無きは遺憾千万である。幸いに那覇の教育会館には相当集められてある。この上ともあらゆる史料を散逸せぬよう、今の内に博物館の建設に急いでほしいと話した。幸いにもこの企てはかなり熟して、かの首里の北御殿を修理してこれに陳列の予定になってるということであった。」



海南「地名改称運動ー首里の講演にはいろいろの問題にふれたが地名改称にも及んだ。(略)かなり漢字の不規則に悩まされてるところへ、琉球へくるとそれが一層輪をかけてる。北谷は誰でもキタダニとよむ、それがチヤタンという。キタダニからキタタン、更にキヤタン、更にチヤタンとなったという。それならキタダニに戻るがよい。城はグスクという。御宿という字のよみから訛って来たのだという。どうしてもグスクとよみたければ、山城金城という代わりに山楠久金楠久とでも記すがよい。左なくばヤマシロ、カネシロと読むことにしたい。島袋圓齋翁の言によれば国頭はクニガミよりクンガン、更にクンヂヤンとなったのだから、大正8年からクニガミに戻したという。戻せるものならば皆戻すがよい。僕は只単なる理想論を振り廻してるのではない、僕の台湾在職中誰しも異論の無い好い事蹟を残したかといわれたら、それは地名の改称であった。地方自治制の実施と共に州郡街庄何百という地名を大部根こそぎ改めた。発音の上から打狗を高雄に、猛舺を萬崋に、噍吧眸を玉井と改めた。又土地の因縁より葫蘆墩は高砂米の本場だから豊原と、牛罵頭はよい水が湧くから清水というふうに改めた。こうしたことは地名だけではない。人名にもありたい。琉球だけではない、北海道でも屡口にし筆にした。それは内地の凡てにも望ましい。」   
□飯島幡司 いいじま-まんじ
1888-1987 大正-昭和時代の経営者。
明治21年5月12日生まれ。神戸高商教授をへて大阪鉄工所(現日立造船)専務。昭和7年朝日新聞にはいり論説委員となり,のち朝日放送の社長,会長。カトリック教徒として日伊親善につくした。昭和62年1月11日死去。98歳。大阪出身。東京高商(現一橋大)卒。筆名は曼史。著作に「キリスト教の社会観」など。(→コトバンク)
下村海南 1875-1957 大正-昭和時代のジャーナリスト,政治家。
明治8年5月11日生まれ。下村房次郎の長男。台湾総督府民政長官などをへて,大正10年大阪朝日新聞社に入社,のち副社長。昭和12年貴族院議員。18年日本放送協会会長。20年鈴木貫太郎内閣の国務相兼情報局総裁となり,終戦処理にあたった。歌人としても知られた。昭和32年12月9日死去。82歳。和歌山県出身。東京帝大卒。本名は宏。著作に「終戦秘史」など。(→コトバンク)

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1940年 日本民藝協会同人(識名園で)ー2列目右から5人目が島袋源一郎、前列左から2人目が田中俊雄、左端が土門拳から3人目が式場隆三郎、3列目左が山里永吉、右へ3人目が保田與重郎。3列目右2人目が坂本万七、中央が柳宗悦、前が棟方志功(坂本、土門が写っているので、撮影者は𤘩宮城昇であろう)

第三回訪沖
12月31日ー日本民藝協会主催の「琉球観光団」の団長として、三たび琉球に向け、神戸より湖北丸で出帆。団員26名。<民藝協会同人>柳宗悦、式場隆三郎、浅野長量、浜田庄司、船木道忠、佐久間藤太郎、棟方志功、鈴木繁男、田中俊雄 <販売事務>鈴木訓治、佐々倉健三 <写真>坂本万七、土門拳、越寿雄 <映画>細谷辰雄、猪飼助太郎 <観光事業>水沢澄夫、井上昇三 <その他>遊佐敏彦、同夫人、保田与重郎、浜徳太郎、相馬貞三、宮田武義、鈴木宗平、福井右近。船中で、毎夜、琉球に関する講話を行う。

井上昇三(日本旅行協会)/1940年3月ー『月刊民藝』□観光地としての沖縄ー今回、日本民藝協会が主体となって沖縄見学団が組織された際、水沢氏と小生とは観光方面の仕事に協力する目的で参加したのであった。そして幾多の収穫を得て帰ることが出来た。見学の一端は雑誌「旅」に発表する義務があったのだが、それを果たすに際して非常なる困難に逢着したのである。沖縄を琉球と云はぬ様、沖縄県を物珍しく取り扱はぬ様、特異の風俗・言語を他府県と比較したりその差を強調したりしない様等の注意を払ふ必要を感じたのである。他府県の者として沖縄を旅しての印象を正直に記したり、まだ沖縄を知らぬ人々に出来るだけ沖縄に興味を抱かせる様に紹介しようとしたら、恐らく其の筆者は沖縄県民の多大の激怒を買ふに至るのであらうといふ不安があつたのである。

かかる不徹底なる態度で書かなければならなかつた事は私としては誠に不愉快であり、執筆を終わりても其の後味の悪さは日が経過しても薄くならなかつた。所が本誌から原稿を求められて、ここに「旅」には発表し得なかつた部分と、鮮明な態度をとつている本誌に発表するの機会を与へられた事は深く感謝する次第である。

沖縄は気象学、動物学、植物学、言語学、民俗学殊に最近は工藝等の領域に於いては相当の研究がなされ且つ学界には発表せられている様ではあるが、観光学の分野に於いては他の諸学に比して数段遅れている事は否めない。何故かくもこの沖縄県のみ観光的に残されていたのかといふと、他に種々の理由もあらうけれども第一に本州の諸島と余りにも離れていたといふ簡単な理由に過ぎないと思ふ。同じ島でも佐渡の如くに近いと観光的に発展し過ぎてしまふ位にまでなつてしまふのである。この地理的条件は不幸でもあつたらうが他面に発展を伴ふ堕落から免れる幸福もあつたわけである。

次に兎角観光地といふ所では他から来た観光客の好んで見たがる箇所は地元では見せたくない場所が多いといふ問題がある。之は何処でも起こる問題で日本全体としても考慮しなければならないのである。何も沖縄県だけが考へなければならない問題ではないし、何処の府県でもお互い様である。之はもつと気楽に考へて宜しい問題だと思ふ。唯、好意的に観察して貰ふ様に充分なる説明をして納得して行く事は望ましい事である。之は案内記の書き方に依つて相当の効果は挙げる事が可能だらうと思はれる。
以上先ず云ひ難い点を敢て云つておいて本題に入る事としよう。

今回の沖縄の旅ほど、旅は有益であると知つた経験は従来無かつた。百閒も一見に如かざるの真理も充分に知る事が出来た。沖縄県の観光資源の豊富に恵まれていたのには驚嘆した。一月といふ時季に行つた為に特に感じたのかと思ふが、冬季の温暖な事は強味だと思ふ。霜雪を知らぬ土地に育つ植物の見事さ、沖縄全体が温室の如きではないか。寒中に露地で赤々と花の咲いている國が他にあらうか。海の水は空を溶かした様に綺麗だし、海岸の風景は到る処絵の様に美しい。島全体を風致地区として保存したい位だ。口腹の満足せしむる沖縄料理の美味に泡盛の清烈は此の土地で味つてこそ意義がある。加之、目と耳を楽しませるものには民謡と踊りと芝居がある。其の各々に有機的な機関があつて地方色が強くしみ込んで居り、且つ、にじみ出して居る。之等は一つ一つ切り離すべきではない。だから、どうしても沖縄に来られよ、と呼びかけなければいけない。呼びかける以上は相当の自信を以て臨むべきであらう。

観光地沖縄として出来るなれば次の3項目を実行し得たら立派な観光地として自慢出来ると思ふ。現在の社会、経済事情として早急の実現は困難であらうとは思ふが、なるべく其の実現に努力して完成の日の近からむ事を希望する次第である。何でもかんでも作れるなど無理な事を云ふのではない。出来る時にやれる様に常に心掛けておく事が必要なのである。

交通機関の完備 現在の県営鉄道は観光客には利用されていない様である。船は那覇名護間も毎日は通っていない様であるから、どうしても一番頼りにするのは乗合自動車といふ事にならう。そのバスが常に満員であつた事は、時節柄減車の已むなき為でもあつたらうが、もつと運転回数を多くする必要を示すものであらう。バスの能率増進は道路次第であるから、島内の道路網の拡充は他の意味から云つても重要な事業と云へよう。坂の比較的少ない路線は木炭車でも配してみては如何であらうか。一方には遊歩道も欲しいものである。首里と那覇の間は自動車で早々に過ぎ去るには残念な位眺望の良い所がある。殊に首里から那覇へ下りて来る道が良い。私はわざわざ一度人力車で下つてみた。尤も之はバスに乗れなかつたからでもあつたのだけれども、想像以上によい景色に感嘆の声を発した程であつた。道路は全部ペーヴメントとはならなくても今日国頭方面でも自由にバスを通じてる程度のものがあるのだから、其の完成には比較的困難を感じないですむのではないかとも思はれる。そして自由にバスが走り廻れれば申し分ない。

宿泊設備 旅館は現在に於いては余り優秀とは云い難い様に思はれる。旅館の発達しない理由の一に辻の存在が考へられるかも知れない。が、然し、それとは別に切離しても設備の整つた旅館がもう少し欲しい。何も外国人向きのホテルを建てよと叫ぶわけでは決してない。短期滞在の客はいいとして長期滞在の客に対する設備が不完全ではないだらうか。下宿をするといふ事は事実上不可能らしい。この方面の要望は従来なかつたものか、将来の客一に後考を煩したい問題の一である。僅か20数名の団体客が2軒の旅館に下宿しなければならないといふ事は遺憾であつた。せめて30名は一軒に泊まれなくては不便である。

序でに旅館の食事に就いて一言しておく。旅館に泊まる人といへば原則としてその土地の人ではないのであるから、其の土地の料理を出して貰ひたいものである。この事は沖縄だけの問題ではなく、全国的に共通の大問題なのである。某先生が「旅とは米の飯と鮪の刺身と灘の酒の全国的統一である」と云はれるのを聞いた事がある。が現在では白米が7分搗きに代つただけで他は同様である。尤も沖縄では灘の酒より泡盛が幅を利かしているのは僅かな地方差である。旅館では土地で採れるものを土地風に料理して出せ、といふ要望はこの10数年来幾度か叫ばれて来ながら少しも実行されていない。沖縄でも此の例に洩れなかった。沖縄料理を出してくれと特別に注文しても「豚の角煮」が一度出た位のものであつた。もう我々はうんざりしてしまつて、なるべく旅館では朝飯以外に食はない様に努力せざるをえなかつた。郷に入っては郷に従へといふ事もあるのだから、他の土地に来た者には一度は黙つて土地の料理を食はせる。それではいかんといふ客には所謂旅館の料理ー之を標準料理と云つた友人がいたが一寸面白いと思つたーを出せばよい。少なくとも郷土料理か標準料理か何れを希望するか位は聞いて貰ひたい。況や特に注文しても出さないのは言語道断である。古くなつた鮪の刺身を出して特にもてなしたつもりで居られたのではこつちは大迷惑である。聊か脱線したが、沖縄の如く郷土色の豊かで而も美味な料理が残つている所では一層注意して頂きたいと敢えて述べる次第である。

観光地の施設 崇元寺の電柱や旧首里城の龍樋の柵の如き悪例は出来るだけ速やかに改善して頂きたい。将来は棒杭一本、案内板一枚を立てるのにも注意して頂けば結構である。同じ表示板を立てるにしても、風致を破壊する事も出来れば風致を増す事も出来るのである。ぶちこはしは容易だが、其の回復は困難である。例へば万座毛の鳥居の如きである。故に最初の施設が肝要である。ペンキ塗りの棒杭を立てるよりは豊富に産する石材を用いて工夫すれば却つて効果をあげる事さへ出来はしないだらうか。然し徒に風致保存を唱へて住民の生活を犠牲にしてまでも実行せよなどなどわけのわからない事は云はない。ただ何れにしても建てるものであつたら良きものを建てる事にするといふ心掛けは常に失つて頂き度くないのである。

最後に念を押して申上げておきたい事は観光施設の行き過ぎにならぬ様に戒しむ可き事である。観光地として流行した場所で堕落しなかつた土地は先ず無いといつてよい位である。大阪商船の案内書ではないが「観光処女地」沖縄を汚したくないのは県民・観光客共に望む所でなくてはなるまい。尚一言したい事は、沖縄を観光的に発展せしめて一体どうするのか、といふ質問が出るかも知れないので、敢へて述べるならば、之は県の発展、県民の幸福にまで導かれる事だと云ひたいのである。県として最も恵まれたる観光資源を活用して観光客を吸収し、他府県人に金を落させて、而して県として裕福になれば之が県民の幸福にならないものであらうか。妄言多謝(15、2、9)

1940年
1月3日ー正午那覇着。自動車7台で波上宮へ参拝。糸満町へ赴き、白銀堂参拝。魚市場を見る。辻原の墓に参り、6時半より辻の三杉楼で那覇・首里両市、商船会社主催の歓迎会に出席。琉球料理、四つ竹踊、絣掛踊などを観賞。川津、宝来両館に分宿する。


棟方志功「壺屋窯場の図」サエラ(携帯080-1533-3859)所蔵

1月4日ー工業指導所及紅房で、織物と漆器など陳列品を見学。壺屋、郷土博物館、円覚寺、泡盛工場、尚順男爵邸の桃原農園、夜は真楽座を観る。
1月5日ー尚家霊廟玉御殿拝観、ヨードレの墓に詣で、普天間宮、鍾乳洞から車で万座毛、残波岬へ。7時より珊瑚座で「柳先生御一同歓迎特別興行」を観る。
1月6日ー師範学校講堂で空手術を見学。正午で観光日程を終了。
1月7日ー正午、支那料理屋別天閣で一同昼食、民謡を聞く。3時より那覇市役所における座談会に出席。言語問題にふれ一時警察部長と論戦となる。
1月8日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報紙上に、前日の論戦が大きく報道される。
1月11日ー沖縄県学務部、三新聞紙上に「敢えて県民に訴ふ 民藝運動に迷ふな」を発表する。以後、連日賛否両論が報道される。
1月12日ー団体一行は帰り、浜田、外村、坂本、鈴木らと残留する。
1月14日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報に「沖縄県学務部に答ふるの書」を発表。言語問題論争いよいよ沸騰する。
1月18日ー民藝同人に対する地元有志らの感謝会が、午後6時半より三杉楼で催され、浜田、外村、坂本、鈴木らと出席。五、六十人の人々の真情あふれる感謝のもてなしに感銘する。
1月21日ー尚家より借りた「神猫図」を持ち、飛行機で帰京する。この旅行中、坂本、土門と各地を撮影、二千枚にも達する。また文化映画「琉球の民藝」「琉球の風物」の製作の指導を行う。

第四回訪沖
7月24日ー11月開催予定の皇紀二千六百年奉祝事業の「琉球工藝文化大展覧会」準備のため田中俊雄、坂本万七を伴ない、4回目の訪沖に出発。  沖縄では、言語問題論争がなお続いていた。
8月2日ー沖縄県庁で知事渕上房太郎氏と会見し、標準語絶対反対論者と決めつけられた理由の説明を求める。この日「敢えて学務部の責任を問ふ」を琉球新報に載せる。  展覧会への出品依頼に、尚家をはじめ各方面から古作優品が出さ、陶器百点の外、絵画、染織も加わる。
写真撮影は、主として、「琉球風物写真展」(銀座三越)用の風物撮影を行う。  この間、坂本と撮影した海岸の写真が、海洋警備上の秘密を撮したとされ、警察に連行され、坂本は一夜留置された。
8月22日ー浮島丸にて那覇を発つ。
8月24日ー神戸着

1941年7月『茶わん』蘭郁二郎「琉球のぞ記」寶雲舎
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「茶わん」は陶芸愛好家向けの専門誌で、創刊は昭和六年三月。編集発行人は秦秀雄となっているが、実務は小野賢一郎がとりしきっていた。秦に代わって昭和七年五月号から編集発行人として遠藤敏夫の名がクレジットされる。編集部は芝区三田功運町六番地、聖坂を登り切った辺りにあった。(会津信吾「蘭郁二郎の生涯」)



1941年8月『文学建設』蘭郁二郎「琉球ある記」
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蘭郁二郎 らん-いくじろう 1913-1944 昭和時代前期の小説家。
大正2年9月2日生まれ。「探偵文学」同人となりミステリーをかくが,科学冒険小説に転じ,SF小説の先駆者のひとりとなった。海軍報道班員として台湾にわたり,昭和19年1月5日飛行機事故で死去。32歳。東京出身。東京高工卒。本名は遠藤敏夫。著作に「地図にない島」「地底大陸」など。→コトバンク



1942年9月『朝日新聞』「カメラ腕比べー尚謙・護得久朝章」

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Category: 02-関西の沖縄
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2016年9月9日『琉球新報』「あしゃぎ 沖縄資料の奥は深い」

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1963年6月30日『沖縄タイムス』「座談会・関西の住人 大いに語る」

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 1971年9月のある日、私たち「沖青友の会」会員は女性3人、男性4人で機関誌『石の声』八号のガリを徹夜で切っていた。変色した1963年6月3.0日の『沖縄タイムス』3面にわたっての特集「関西の郷土地図」を転載し、主張に「沖縄の禁断の書『さまよへる琉球人』の封を自ら、はがしたように、われわれは自らの心のヤミを見据えよう」と記した。そして偶然のことだが、ガリ切り作業をやっていた嘉陽宗博(沖青友の会会長)の間借り先の、その小さな部屋の番地は、大阪市港区市岡元町で、戦前の関西沖縄県人会本部の近くの番地であった。

 私は『石の声』八号への提言として「僕らは、今の県人会には、大いに不満の点がある。そこで僕らはユニークな機関を創造して行きたい。現時点で実用的なものは、関西沖縄ミニ・シンクタンクであろう」としていて消化不良的な用語を使っているが、要は各種の問題解決のための資料(経験)を蓄積し、すぐ活用できる沖縄青年の「資料センター」を創造していこうということである。 この「資料センター」の考え方が、この「琉文21」の出発点でありプロトタイプといえる。

 『石の声』九号に「沖青年譜」があるので沖青友の会の歩みを紹介する。1969年4月20日に大阪城公園にて50名参加して発足、会長・宮城晃で11月には『石の声』一号を出している。「沖縄子供の国」資金カンパや、女子高生刺傷事件の署名カンパ、1970年6月は仲宗根正順(マンガ家)さん捜しに取り組む。兄弟団体の三和同郷青友会(尼崎)、南風サークル(大正区)との六甲山登山やソフトボール大会で交流。また、映画「水俣病」、「沖縄列島」上映会にも参加した。

 1971年12月11日、沖青友の会会員9名が初めてのテレビカメラのライトを浴び、あがってしまいながらの「関西テレビ土曜イブニングショウ」の沖縄討論に参加。司会は、栗原玲児、上原「最近よく沖縄について語られているけれども、安易な気持ちで語ってもらいたくないですね」、喜納「沖縄が返還されても我々は沖縄解放の闘いを続ける」、三郎「沖縄人としての自立を踏まえて沖縄人としての思想を構築していく」、新城栄徳「沖縄は経済的に自立できるかということを考えた上でなければ沖縄を語る資格はないですね」というと、司会者が「語る資格はあるかないか別として、自分の話で恐縮だけれども沖縄に関する司会をするのは十三回目です」、紀美枝「自らのことも出来へん状態で沖縄に連帯、連帯とそんな簡単に言えるべきもんではない」、比嘉「私達は皆さんが沖縄のことに口に出す場合、日本の歴史の中から、どうして現在の沖縄ができたんか考えてから」などと発言した。


西平守晴/阿氏南山の末裔。『青い海』津野創一編集長は同郷(八重山)。南西印刷の西平守栄は従兄弟。久子夫人の母と川平朝申の母は姉妹。

1972年
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<b>上左・1972年11月ー『青い海』18号所載の『琉球の文化』広告/『琉球の文化』編集発行人の大城精徳は、首里高教師時代に『青い海』津野創一編集長を教えている。
右・1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』所載の『琉球の文化』と『青い海』の紹介。


1972年1月ー『青い海』10号□若者が集う「沖縄関係資料室」の西平守晴氏宅ー西平沖縄関係資料室主宰「柳宗悦という人を皆さんもよく知っていると思う。沖縄の民芸を高く評価した人だが、その人が昭和14年に書いた『琉球の富』の序に次のような言葉がある。<人々は今まで余りにも暗い沖縄を語り過ぎていたのです。私たちは優れた沖縄を語りたいのです。それは私達を明るくし島の人々を明るくさせるでしよう。私達は実に多くの富に就いて語り合いたいのです。沖縄に就いて歎く人々のために、又この島に就いて誤った考えを抱く人々のために、又自国を余りにも卑下して考える土地の人々のために、そうして真理を愛する凡ての人々のために、この一文が役立つことを望んで止まないのです。> この30年も前の文章が、私の今の気持ちを言い当てています。-」

1973年3月 『琉球の文化』第三号<特集Ⅰ 琉球の伝統玩具> 琉球文化社

1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階/関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)


1984年4月 『琉文手帖』創刊
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Category: 04-書の森
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1972年11月 沖縄の雑誌『青い海』比嘉正子「わたしの″女の闘い〟」

比嘉正子・関西主婦連会長
 2011年 10月9日、午後ーあけみとJR永和駅から天満宮に出かける。帰途「天六」に寄る。新京阪ビルの向いにあった北市民館、かつてツタ(淀川善燐館の館長S・F・モランから贈られたツタ、だれからともなく「愛のツタ」と呼ばれた)で覆われていたのが目に浮かぶが、今は建て替えられて大きなビルとなり「大阪くらしの今昔館」などが出来ている。ブログ「十三のいま昔を歩こう」に市民館と梅田周辺の古い写真が載っている。粟国村人会の新里利雄夫妻にも会った。

堀川監獄は1920年に堺に大阪刑務所として移転し、跡地は23年に扇町公園となった。しかし天六・長柄近辺は、短期間に急速に発展したため住宅が密集し、明治末から大正年間当時ともなれば、市南部の長町などとともに長柄・本庄が生活困窮者の居住地域として知られるようになっており、都市の貧困問題が集約的に生起していたのである。
 
市民館の計画は、当初は島村育人(羽衣学園創設者)が、その後は志賀志那人が中心になって進めたが、初代館長には志賀が部長待遇で就任した。当時まだ29歳という年齢からすれば、破格の待遇といえるだろう。この後1935年5月まで北市民館々長として在職した後、社会部長となったが、1938年4月に46歳で現職のまま逝去した。館長在職中は、たとえば銭湯で近隣住民と親しく世間話をしながらニーズ調査をしたことを指して「風呂屋社会事業」と伝えられるように、地域の福祉問題を積極的に把握し、その改善方法を模索し続けていた。市社会事業行政の闊達な雰囲気と志賀館長の人柄は、市民館の事業にも反映し、身上・法律・職業相談、講演会・講習会・図書貸出・娯楽会、町内会・クラブ・諸集会、託児・保育組合、一般診療・歯科診療、授産・信用組合・生業資金融通などの多岐にわたるばかりではなく、実に自由な運営がなされていたようだ。館閉鎖まで14代にわたる歴代館長には、「志賀イズム」としてその伝統が受け継がれたという。(→「月刊ボランティア」ー大阪市立北市民館と志賀志那人)

新城栄徳「比嘉正子」(→1997年1月ー『近代日本社会運動史人物大事典』日外アソシエーツ)
沖縄首里の造り酒屋の渡嘉敷宗重の4女に生まれる(実家跡の都島友の会・渡保育園に渡嘉敷胸像)。女子工芸学校在学中は裁縫が嫌いで、さぼってトルストイを呼んだり、沖縄県立一中の野球の応援に行ったという。同校卒業後、1年間、宮古島の西辺小学校で教壇に立ち、大阪東淀川区十三にあるミード社会館のバプテスト女子神学校に入学。週2回講師としてバイブル社会学を講義に来た河上丈太郎(関西学院教授)に感化され、自由、平等、平和の社会改革思想を持つようになる。

1924「関西沖縄県人会」結成に参加し、そこで比嘉賀盛を知る。賀盛は沖縄県立一中の卒業生。クリスチャンで日曜日は教会へ行き、牧師の比嘉賀秀、伊波普猷らに学んだ。家が貧しいため進学をあきらめ、十五銀行に就職が決まって19年、18歳で上阪。関西沖縄県人会では会計をつとめている。

1924年7月に県人会基金募集のため正子、賀盛、真栄田三益、志多伯克進、上原永盛が代表となって沖縄に帰郷。7月28日に沖縄県民に対し関西沖縄県人会の主旨を知らせるために演説会を開いた。正子は「同胞愛の立場から」、賀盛は「創業時代の県人会」と題し演説した。10月31日には北市民館で関西沖縄県人会臨時大会を開いている。志賀支那人北市民館長、斎藤弔花(1877.年大阪生まれ。謙蔵・謙作、別号に潮居士。国木田独歩と親交があった。1950没、73才)関西日報主筆が講演している。1931年、正子は志賀志那人に誘われて、北市民館で青空保育などを行なった。




志賀志那人 しが-しなと
1892-1938 大正-昭和時代前期の社会事業家。
明治25年9月7日生まれ。大阪基督(キリスト)教青年会主事などをへて,大正9年大阪市主事。市民館(のち北市民館)開設につくし,初代館長。館内に診療室,図書室をもうけ,また金融,保育制度をつくり,近隣の貧困者の生活向上につくした。のち大阪市社会部長。昭和13年4月8日死去。47歳。熊本県出身。東京帝大卒。→コトバンク

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Category: 04-書の森
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1975年6月 沖縄の雑誌『青い海』<特集 詩人・山之口貘の世界>
 2010年3月8日、松下博文(筑紫女学園大学教授)さん、上原実(沖縄コレクター友の会長)さんと海員会館で懇談。9日、沖縄県立図書館に山之口貘の詩の原稿を整理している松下さんを訪ねる。膨大な量である。その中に「ねずみ」もあった。貘さんの13年忌を機に故里那覇にその詩碑をつくろうと1975年に期成会発起人総会が開かれ、6月には「貘パンフレット」ができた。そのパンフの表紙に「ねずみー生死の生をほっぽり出して ねずみが一匹浮彫みたいに 往来のまんなかにもりあがっていた まもなくねずみはひらたくなった いろんな 車輪が すべって来ては あいろんみたいにねずみをのした ねずみはだんだんひらたくなった」が掲載されていた。パンフには佐藤春夫の「山之口貘の詩稿に題す」も載っていた。
□2008年9月『オキナワグラフ』「私の宝ものー上原実」

1997年4月4日『琉球新報』「あしゃぎ/バクさんの詩を見つけ出すーあちこち歩き回っては新しい資料を見つけ出し、研究者たちをあっと驚かす新城栄徳さんがまたまた珍しいものを捜して一人悦に入っている。(略)さて、今回探し出したのは山之口バクの詩。大正14年(1925年)に出た雑誌『沖縄教育』(沖縄県教育会)に2編が収められている。筑紫女学園短大の松下博文さんは『詩集にも収録されてないし、すごい発見ですよ。バクさんの習作の時期をよく表している詩です』とコメントした」。

□又吉康和は1923年10月に『沖縄教育』編集主任になった。編集後記に「私は人間の生活は総てが教育だと、こう広く解釈し、従来取り扱ってきた教育雑誌のように範囲を限らないで、あらゆる方面の材料を蒐集したいと思って居ります」「今般帝都の大震災により中央集権の弊害を痛切に感じた」と記した。また山城正忠を詩歌の選者に迎えて、雑誌の幅を広げている。1924年4月に国吉真哲、山口三路(貘)、伊波普哲、上里春生らは、山城正忠を会長に琉球歌人連盟を発足させた。

□1925年8月『抒情詩』に山之口貘「日向のスケッチ」「コンーニヒリストへの贈物」(1926年12月の又吉康和編集の『南鵬』に転載)、「昼はからっぽである」「夜は妊娠である」。

1925年9月発行の『沖縄教育』は、表紙題字を山城正忠が書き、カットの獅子は山口重三郎(貘)である。又吉康和は編集後記で「山之口貘氏は今般中央の『抒情詩』に日向スケッチ他3篇入選しました。之より琉球詩人がどしどし中央の詩壇に出現せんことを念じます。救世者は政治家でなく、それは詩人と哲人であります」と記し貘に大きな期待をよせている。
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『沖縄タイムス』2003年7月4日

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1951年12月ー琉球新報に送った詩の原稿

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山之口貘の詩集

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1971年9月 沖縄の雑誌『青い海』<特集・山之口貘の詩と青春>

画家 山口三路(山之口貘)
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久米町バプテスト教会「自由絵画展覧会」
写真前列右から山口重三郎(貘)、秋山、鉢嶺、伊佐成功、真栄平錦雪、鉢嶺、喜名セイトン、古謝景明。中列が米須秀亀。後列右から浦崎永錫、饒平名文喬、知念積吉、矢野彩仙、新崎新太郎、山里永吉、野津久保、饒平名知安、前中留吉、渡嘉敷唯選、兼島のスター。
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昭和53年9月『別冊太陽』「近代詩人百人」平凡社(左下に大正11年の作品がある)

1973年5月『サンデー沖縄』山里永吉「壺中の日月」
○当時、沖縄には丹青協会という画家の集団があった。会長格は沖縄師範学校の図画教師西銘生楽で、日本画家の比嘉華山もまだ元気であった。その他に渡嘉敷衣川、金城南海、親泊英繁、野津久保といった人たちで、いずれも那覇若狭町の出身であった。18世紀のころ、彫刻家として著名であった田名宗経も若狭町の出身であったことから考えると、那覇の若狭町はまったく美術家の温床といってもよかった。もともと若狭町の住民は漆芸を家業としている者が多く、職業がらその子弟から多くの画家が輩出したのではないだろうか。私が丹青協会にはじめて絵を出品したのは、中学3年のときであったが、同時に出品したのが浦崎永錫(現・大潮会会長)であった。浦崎と私は同級生で、教室で机を並べていた友人だが、これまた若狭町の出身である。

 その翌年、丹青協会から分離して『ふたば会』という団体ができた。前記の渡嘉敷衣川、野津久保兄弟のほかに島田寛平や知念積吉が参加した。知念積吉はその後夭折したが、当時の沖縄では異彩を放った画家で、琉球音楽史に巨匠としてその名をのこした知念積高(知念ミーハギ)直系の子孫ということであった。その他、山之口貘や新崎新太郎もやはり展覧会仲間であったように覚えているが、後になって貘が詩に転じ、新太郎が書家になったことはご存知のとおりである。展覧会は毎年夏休暇に開催されたから、東京で勉強している先輩たちも、帰郷していたし、そういった人たちからとうぜん新知識が披露された。前に述べた野津久保(渡嘉敷唯尹)は当時、美術学校の日本画専科の学生であったが、私はこの人から歌舞伎の話や寄席などという、つまり江戸趣味といった、当時の田舎中学生にとってはいかにも都会的な、魅力ある話をたっぷり聞かしてもらったものである。

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山口三路「自画像」が見える。

1997年7月ー『貘のいる風景ー山之口貘賞20周年記念ー』山之口貘記念会編集委員会□「編集後記ー新城栄徳氏からは『沖縄教育』に掲載された青年時代の作品をはじめ絵画の資料も提供いただいたが、紙幅や日程の都合で割愛せざるを得なかったことは残念なことであった。」

1990年2月ー『彷書月刊』54号□新城栄徳「沖縄に来た画家たち」弘隆社