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2019年5月 後田多敦(神奈川大学准教授)『救国と真世ー琉球・沖縄・海邦の史志』(株)Ryukyu企画(琉球館)☎098-943-6945 FAX:098-943-6947



2019年5月『月刊琉球』№66 後田多敦「百四十年を耐えた『堅忍因循の気質の土人』」/當間文信「農業の現場からー私の『ドラバタ』はホップ・ステップ・ジャンプ㊤」/しもじけいこ「宮古IN-バブル狂騒曲~住民の暮らし破壊?~」/与那嶺功「沖縄振興ー『明治維新150年』を問う 大東亜・植民政策・ナショナリズム⑩」

 沖縄文化の杜発足に尽力した後田多敦さんが出版舎Muɡen(〒900-0013那覇市牧志1-4-31-2F 電話&fax 098-863-2562)から『琉球の国家祭祀制度ーその変容・解体過程』を刊行した。私は今、ブームというか年中行事的な薩摩侵攻や、琉球処分の話は食傷気味であったので、そういうものとは違う切り口で論を展開しているところに新鮮さがあって読んで違和感がない。
 本書は、琉球国の各所で行われていた祭祀は、琉球社会の共同空間・世界をつくりあげるものだ。家、村落、地域、そして、国。次元は異なっても、祭祀の担い手や場所、おたかべなどをたどれば、祭祀が琉球社会を結びつける紐帯の役割を果たしていたことが分かる。いいかえれば、国家祭祀は琉球社会の一つの時空として結びつける重要な要素であった。(略)琉球国祭祀は過去に確かに存在していた。そして、その記憶がまだ沖縄社会に生きている、とする。これは文学、美術の世界にも当てはまる。


2016年7月 後田多敦『「海邦小国」をめざして「史軸」批評による沖縄「現在史」』出版舎Ⅿugen(〒900-0013 那覇市牧志1-4-31-2F ☎FAX:098-863-2562)

まえがき 「海邦小国」の記憶と現在
 第1章  「海邦小国」をめざして
第2章  「海邦小国」思想の源流
第3章 「海邦小国」を拒むもの 批判論集
     小説「テンペスト」の比喩と歴史像 歴史修正主義批判
     沖縄の批評における「史軸」の重要性 ヤマトに立脚する内外の言説批判
     沖縄とヤマトの歴史は「真逆」である 「冊封儀礼」再現に関する新聞投稿への批判
     「ミスリード」の仕掛け 森宣雄氏の仲井眞知事擁護論批判
     沖縄の歴史文化を否定する動き 二つの住民訴訟の持つ意味
     問われる沖縄の主体性 沖縄の主権を簒奪するヤマトとそれに迎合する沖縄人批判
     「差別」「植民地」をめぐる沖縄知識人の言説 高良倉吉氏批判
第4章 「海邦小国」をめぐる諸相
      (1)沖縄「現在史」
      (2)沖縄人の生きざま

2013年12月27日『琉球新報』「関係者によると、仲井真知事が(辺野古埋め立て)承認を表明する27日の記者会見の発表文や想定問答は、高良倉吉副知事を中心にまとめられている。」
2013/04/28 -アベ 政権は、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日を「主権回復の日」と位置づけ式典を開いた。県民にとって「屈辱の日」とされる4・28に「主権回復」の式典を開くことは「再び沖縄切り捨てを行うものだ」と、県民は怒っているが、仲井眞県政は、その式典に副知事を送り込んだ。○「差別」「植民地」をめぐる沖縄知識人の言説 高良倉吉氏批判)ー副知事だった高良氏は、仲井眞沖縄県知事の名代として式典に参加している。(略)この場の体験は高良氏にとって「差別」を「思い知る場面」ではなかったようだ。氏が歴史家であることを考えれば、これは衝撃的な告白である。/「ミスリード」の仕掛け 森宣雄氏の仲井眞知事擁護論批判(2016年7月 後田多敦『「海邦小国」をめざして「史軸」批評による沖縄「現在史」』出版舎Ⅿugen


1991年4月19日『レキオ』
2013年7月 与那原恵『首里城への坂道ー鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』筑摩書房
○あとがきー(略)鎌倉は、末吉麦門冬との出会いが琉球芸術調査のきっかけとなったけれど、私にも琉球史への目を大きくひらかせてくれた恩人がいる。琉球史家の高良倉吉さんで、沖縄に行くたびに泡盛を呑みながら、愉しい「ゆんたく」(おしゃべり)をさせてもらった。

 今はネット時代である。国家公務員などの経歴は検索すればすぐ分かる。□沖縄県警本部長の村田隆(むらた・たかし)は東大卒。1984年警察庁。警視庁第1方面本部長、警察庁国際テロリズム対策課長などを経て、2009年10月から大阪府警刑事部長。50歳。福岡県出身とある。沖縄県警本部長になったのは警察庁国際テロリズム対策課長の経歴が買われたかも知れない。□松井一郎は、競艇場の照明など電気設備の利権を一手に握っている笹川グループの一員 。競艇利権は、松井知事の父親である元府議会議長の松井良夫元府議から引き継いだもの。 父親の良夫元府議会議長は、知る人ぞ知る故笹川良一の直系の子分だった人物 。父親の良夫元府議会議長は笹川良一払い下げの超豪華なキャデラックを乗りまわしていたぞな、もし。

 

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2019年5月24日 沖縄県立博物館・美術館

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吉田初三郎「日本鳥瞰 近畿東海大圖繪」(大阪毎日新聞大正十六年元旦附録「要塞司令部認可」)

 泊の我が家から、おもろまちの沖縄県立博物館・美術館は15分ぐらいの所にある。ロビーには全国の博物館・美術館のイベント情報チラシが所狭しと並んでいる。中に立命館大学国際平和ミュージアム「儀間比呂志版画展ー沖縄への思いー」もある。日本伝統文化の屋台骨・京都は私が沖縄青年運動に目覚めた地でもあり様々な感懐を抱くものである。上記のチラシは京都関連だけでも、京都国立博物館「南山城の古寺巡礼」や九州国立博物館の「京都妙心寺ー禅の至宝と九州・琉球」「本願寺展ー親鸞と仏教伝来の道」「黄檗ー京都宇治・萬福寺の名宝と禅の新風」などがあり、よく行ったところなのでチラシは部屋の壁に貼って眺めている。( 記 2017年11月)

2016年5月10日 写真-沖縄県立博物館・美術館ー左が小渡照生氏、田名真之氏/2016年5月10日 写真-沖縄県立博物館・美術館ー小渡照生氏①

①小渡有得の二男/2008年9月 小渡有得『小石のつぶやき 或るクニンダンチュ(久米村人)の95年、心の軌跡』琉球新報社○小渡有得略歴ー1913年9月16日、那覇松山町に父邦光、母マカトの3男として生まれる。生家は萬履物小渡商店、道向かいに日秀上人が建てた地蔵堂があったので「ドゥヌメーヌーウドゥグヮー」と呼ばれた。1928年、『日本少年』11月号に「綴方/健ちゃん」を投稿し銀メダル。1931年3月、沖縄県立第一中学校修業。一家をあげて台湾台北千歳町に居住。1937年、基隆市義重町に転居、台湾総督府交通局基隆築港出張所に臨時夜警兼務。1939年、台北市御成町に転居。台湾総督府交通局逓信部工務課・台北電信電話技術官駐在所勤務。6月、臨時招集により台湾第一連隊補充隊に輜重兵二等兵として入隊。(1940年、南寧作戦に参加、欽寧公路警備に就く。1941年、台湾第一連隊補充隊に転属、海南島を経て基隆に帰還。)1943年、台湾総督府交通局逓信部工務課に復職、台中電信電話技術官駐在所勤務、台中市老松町に転居。1943年9月、玉城オトと結婚。1946年11月、具志川村高江洲区に居住。

小渡有得 短歌「雨あがりー雨やみて雫したたる葉がくれに水気ゆたけく熟れし桑の實」「思出ー白壁に小さき馬を黒々と描きし頃よ今はなつかし」→1929年7月 沖縄県立第一中学校学友会『養秀』第三十四号


1932年 吉田初三郎作
新城栄徳「関西日誌2008-5」
 2008年5月4日 午前9時半、あけみと散歩に出かける。司馬遼太郎記念館をのぞくと、竹富島などの映像が放映されていた。近鉄八戸ノ里駅から乗車し東花園駅で下車。12時半に元長栄氏宅に着く。前からお願いしておいた元長氏の「履歴書」をいただいた。氏は1969年8月、沖縄と本土を結ぶ月刊誌『沖縄ジャーナル』を大阪で創刊している。この雑誌は70年に『沖縄ポスト』と改題、10号で休刊。70年9月には元『沖縄ポスト』編集人の座喜味康夫が京都長岡町で『沖縄群像』を出している。偶然なことだが元長氏宅の近くには『青い海』編集デスクであった小渡照生氏も住んでいる。ちなみに『青い海』社長の山城賢孝氏は元長氏の沖縄教員時代の教え子であった。

5月12日 3時ナンバの大阪府立上方演芸資料館に行く。この資料館も大阪のタレント知事のリストラの一つにあげられている。この知事は職員に「一緒に死んでくれ」と相変わらずのパフォーマンスで宮崎県の知事同様テレビにもよくとりあげられその経済効果は十分期待されている。それはさておきこの資料館で私の好きな浪曲「紺屋高尾」を篠田実、富士実、浮世亭雲心坊、東家燕左衛門の節で聞いた。芝居のビデオでは松竹新喜劇の藤山寛美の「紺屋と高尾」を見た。沖縄の歌劇の「染屋の恋唄」も紺屋高尾をアレンジしたものだ。私が沖縄近現代芸能史の源流というノンキなことを調べている最中に中国では大震災が起きていた。

 〇2004年3月ー(財)河川情報センター『災害列島2004-2003年の災害を振り返る』「予測できない」を言い訳にしない。来年は阪神・淡路大震災から10年の区切りを迎える。滅災に向けた真摯な取り組みの新たな出発点であるー想定を超える外力に対してどう備えるか機敏な初動対応は可能か情報は手に入る 受け手の行動は災害から命を守れるのか?
災害は弱いところを突いてやってくる。豪雨と地震、それが同時に訪れることもあり、予想は難しい。しかし、自然界が出すサインは必ずあるはずだ。「予測できない」を言い訳にしない。来年は阪神・淡路大震災から10年の区切りを迎える。滅災に向けた真摯な取り組みの新たな出発点である。
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5月14日 ナンバの日本工芸館に行く。沖縄の漆器展が開かれていた。数十年前になるが同館での沖縄展のおり、三宅忠一館長と儀間比呂志さんが会話しているのを間近で聞いたことがある。この時は、儀間さんとは面識はなかった。

5月15日 沖縄が密約復帰をした日で、戦前の1932年のこの日は犬養首相が海軍将校らによって射殺された国家改造クーデターテロ事件が起きている。同日、京都では葵祭がある。葵祭は何回か見ているから二千円札にちなんで宇治を散策。平等院に寄り「鳳翔館」ができていたので観覧、コンピューターグラフィックスによる彩色復元の平等院の映写はコンピュータ技術を駆使したものだ。また売店で絵ハガキを買い求めた際に、お釣りを二千円札でくれと注文したら二千円札は用意して無いとのことだった。鳳凰堂は何回も見ているので丁度修学旅行生とはちあわせしたので周辺(大書院、浄土院、羅漢堂、頼政の墓、不動堂)、宇治市源氏物語ミュージアムを見た。帰途、萬福寺を見学。

 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社にかかわる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。
□1918年9月 山本實彦『川崎正蔵』 
□1928年10月 『目録』(神戸 川崎男爵家蔵品入札目録)
□1936年2月 『神戸 川崎男爵家蔵品入札目録』
「支那宋、元古画の蒐儲に於いて、世界にその名を知られている川崎美術館は、神戸川崎男爵家の先々代・故川崎正蔵翁が明治23年神戸布引の邸内に建設されたもので、一に長春閣と呼ばれている。これは其当時翁と親交のあった伊藤博文公が命名されたのである。→当社(川崎重工業)の創立は1896(明治29)年10月のことですが、造船業の歴史としては、それより18年前から始まっています。創業者の川崎正蔵が1878(明治11)年に東京・築地に川崎築地造船所を開設したのが、当社の起源です。川崎正蔵は1837(天保8)年、鹿児島の呉服商人の子として生まれました。17歳(嘉永6年)で当時唯一の西洋文明への窓口であった長崎に出て貿易商の修行を積み、27歳(文久3年)のとき大阪に移って海運業を始めましたが、このときは、持船が暴風雨で遭難して積荷とともに海没したため失敗しました。その後1869(明治2)年に、薩摩藩士が設立した琉球糖を扱う会社に就職、1873(明治6)年には、大蔵省から委嘱されて琉球糖や琉球航路の調査を行いました。翌年には日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就任し、琉球航路を開設、砂糖の内地輸送を成功させました。この間に自分の運命を左右するような海難事故に何度も遭遇した正蔵は、自らの苦い体験を通して江戸時代の大和型船に比べて船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋型船への信頼を深めると同時に、近代的造船業に強い関心を抱くようになりました。1878(明治11)年、時の大蔵大輔(現在の次官)であり同郷の先輩でもあった松方正義などの援助があって、東京・築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地を借りて川崎築地造船所を開設、造船業への第一歩を踏み出しました。(→川崎重工業ウェブサイト)

□2005年5月2日ー自宅で去年上六の天地で買った『沖縄アーカイブス写真』(生活情報センター)を見る。関連して、沖縄タイムス出版部が編集し琉球銀行が発行した『あんやたん-沖縄、写真が語る50年』(1995年9月)、『時の謡人の譜・街の紋-山田實写真50年』(2003年1月)を見る。

平凡社の1963年3月の『月刊百科』は「『PR誌』-機能・沿革と現状」、1968年3月の『月刊百科』には勝連哲治「沖縄の経済」が載っている。1970年から日本メール・オーダー社から出はじめた『アルファ大世界百科』と、1972年版の平凡社『世界大百科事典』が手元にある。南方熊楠や末吉麦門冬を単に博覧強記の人として片付ける嫌いがあるが、今はネットの時代である。熊楠や麦門冬が人を喜ばせるために書いた情熱はネット空間でますます輝くであろう。

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2019年2月 『沖縄民権』再刊第1号 沖縄民権の会(〒210-0847 川崎市川崎区浅田3-9-6 座覇光子方 ☎044-355-0073)
〇島袋和幸「『沖縄民権の会』についての思い出」


〇小波津清昇「誇りに思う」/「沖縄民権の会会報『沖縄民権』総目次(抄録)」
2001年4月『民権の火よ永遠にー小波津英興追悼集ー』沖縄民権の会(座覇光子)


1983年6月 古波津清昇『沖縄産業史ー自立経済の道を求めて』文教図書
1990年9月 古波津清昇『起業の心得帖-チャンスを生かせ』ブックボックス壷川店
兵庫沖縄県人会事務所で拓伸商事社長の宮城幹夫氏に出会ったことがある。氏は1940年の沖縄県大阪物産斡旋所所長だった宮城桃幸の子息。


1968年2月城間武松『鐵と琉球』金秀鉄工株式会社/1982年5月『鉄と共に三十五年』金秀鉄工株式会社
又吉真三さんと懇意であった崎間麗進さんは元金秀建設専務、山里銀三氏も金秀建設社長を勤めて居られた。

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5月26日 午後2時~5時 沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)講堂(2階)「戦後うちなー御万人ぬ運動、ちゃーし考げーが-新崎盛暉『沖縄同時代史』(全11巻)読でぃんじゃびたん-」


2019年5月25日(土)18:00~19:30 フォトネシア沖縄講座「粟国恭子:『宮古』をめぐる写真文化史ー終戦直後を中心にー」[場所]〒900-0013 沖縄県那覇市牧志1-3-18 エトワール牧志1F(パラダイス通り沿い) INTERFACE-Shomei Tomatsu Lab.[参加費]500円

5/18(土)17:10-19:45 沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)講堂(2階)「辺野古を止める構想力ー変わりゆくアジアの中で沖縄はどうするのかー」



ジュンク堂那覇店 2019年5月11日 16:00~ 榕樹書林トークイベント「「反復帰論と今日の沖縄」出演:新川明(元沖縄タイムス社長)×川満信一(詩人)×仲里効(社会批評)



ジュンク堂那覇店 2019年5月11日『仏陀の小石』刊行記念トーク&サイン会。著者で芥川賞作家の又吉栄喜、ゲストに歌人・小説家の佐藤モニカ。


5月4日、5日ー沖縄県立博物館・美術館正面入口前「ソテツのおもちゃづくり」


 2019-4月30日~6月23日 沖縄県立博物館・美術館「新収蔵展」


仲嶺貞夫氏(琉球箏曲盛竹会会長)/田名真之氏、金城善氏



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写真・1978年8月ー那覇市一銀通りの琉球書院(琉球文化社)と青い海出版社の看板が見える。

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1974年5月ー『琉球の文化』第五号 星雅彦「安次嶺金正の芸術とその背景」


1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)
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1974年3月23日~6月2日 大阪万博記念公園エキスポランド「大沖縄展」


「沖縄文庫」/ 左が新城栄徳、平良幸春氏(日展会友)
会場内の沖縄文庫で沖縄本を販売する新城栄徳。いつも岡本太郎の太陽の塔を見ながら、民博はまだできていない。/このときの陶器コーナーではシーサー造りの名人・島常賀翁と、陶芸家で駆け出しの平良幸春氏とは一緒に陶芸の用具や釉薬などの材料の店、常賀翁のシーサー造りを2カ月以上観てきた。常賀翁の三線模合仲間の宮城美能留(宮城 稔)沖縄歌舞団団長の宿泊先のホテルに、一緒に見舞いに行った。



『青い海』1974年5月号「大沖縄展3/23~6/2」





1982年3月 『安次嶺金正・画集』/図録『緑の抒情 安次嶺金正展』



1996年3月 『新生美術』11号<特集・安次嶺金正の画業を偲ぶ>


1996年3月 『新生美術』11号 星雅彦「安次嶺金正試論」

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1943年 沖縄県立農林学校40期ー新城安善
1945年3月 沖縄県立農林学校41期―1渡口彦信
1945 沖縄県立農林学校42期―大城精徳、諸喜田達雄


1979年3月 『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社〇1948年8月『沖縄毎日新聞』創刊。写真中央が宮城邦貞社長、その右が与儀清三編集局長、左が松川久仁男業務局長、後列右端が大城精徳

1952年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師就任
1955年3月 大城精徳、第7回沖展に「静物」出品
1956年 津野創一、首里高等学校卒
1956年3月 大城精徳、第8回沖展に「首里風景」出品

1956年9月1日『琉球新報』

首里高等学校同僚

1957年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師退任
1958年   宮城篤正、首里高等学校卒
1958年12月16日 二科会員・井上賢三を迎えて壺屋の料亭「幸楽」で「二科会沖縄支部」発会式。支部責任者・大城皓也。写真会員ー水島源光、山田實、親泊康哲、名渡山愛誠、島耕爾、備瀬和夫、豊島貞夫、永井博明、八幡政光、当真嗣祥、鹿島義雄。絵画会員ー大城皓也、大城精徳、山里昌弘、塩田春雄、大城栄誠、金城俊、榎本正治、友利寛、下地寛清、水田虎雄、安仁屋政栄、松川剛、浦添健、具志堅誓雄


1957年9月 「招待美術展」タイムスホール /1958年10月 第2回 「招待美術展」タイムスホール


1959年5月『今日の琉球』大城精徳「琉米親善」/10月 名渡山愛順「風景」




1960年5月25日スミソニアンへ送る文化財選定委員会-政府会議室 




第1回 美緑会展 /1962年12月 「琉球美術展」琉米文化会館


前列左端が大城精徳/左から2人目が大城精徳
1996年 『沖縄県立博物館50年史』〇大城精徳・主事補・1959年~1968年/学芸課(美術)1969年~1971年


1963年6月『家庭公論』第2号 大城精徳「馬と沼」


大城精徳・表紙絵 1964年2月『今日の琉球』76号「赤えんどうの花」/1961年10月『今日の琉球』48号「真昼の屋良ムルチー」

1965年10月~12月『今日の琉球』大城精徳「アメリカの博物館と美術館」

スミソニアン博物館のフランクA・テーラー館長に琉球絣を贈る琉球政府立博物館の大城精徳(右)、左が八重山琉米文化会館の長田信一、中央が文化人類学課のユージン・ネズ博士
○去る5月16日から8月14日の3か月間、米民政府派遣の技術研修員として、アメリカ各地の博物館や美術館などを八重山琉米文化会館館長の長田信一氏とともに視察してきた。(略)アメリカの博物館は1930年代から急速な発展を遂げ、現在では大小合わせて、全米で4千館近くもあるといわれている。これは、現在のアメリカの人口約2億人とみて、約5万人に一つの博物館という割り合いになる。この中には美術館はもちろん児童博物館や大学付属博物館、それに記念館などが含まれている。というのはアメリカでは資料を所蔵し、その調査、展示および普及教育を行っている施設は、その固有の名称がどうであれ”Ⅿuseum〟と考えられているからである。
○ワシントン市のスミソニアン博物館(The Smithsonian lnstitution)-ここの巡回展示部の主催で、先年、琉球の古文化財がおよそ全米に紹介されたり、また最近では文化人類学室のアジア・ホールに沖縄関係資料陳列ケース(紅型、織物および玩具数点)を新たに加えるなど、沖縄とも関係の深い機関である。筆者はここで4週間の視察研修を受けたが、毎日が驚きの連続であった。(略)スミソニアンは国立になっているが、連邦政府のどの省にも属さず、大統領、副大統領、大審院首席判事、それに大統領の閣僚を会員とする特別な機関である。その運営の最高機関はスミソニアン理事会で、これには副大統領、大審院首席判事、上下両院の議員各々3名、そして国会から任命された一般市民6名の計14名からなっている。一般市民6名のうち、2人は首都ワシントン居住者で、他の4名は各々違った州から任命され同州から2名任命することはできない。アメリカの博物館は公共私立を問わず、ほとんどがこの理事会制度をもって運営されている。
 ○公立の博物館ー代表的なものとして、筆者が訪ねた中ではミルウォーキー公立博物館とオークランド公立博物館がある。ミルウォーキー公立博物館は自然史博物館の性格に、その地方の歴史資料を加えたもので、ここも総工費6百万ドルを投じて1963年4月に新館が落成したばかりである。陳列場以外は殆ど旧館からの移動も終わり、活気に溢れていたが、陳列場の移動は3割程度で、年次計画で1971年までかかるとのことであった。(略)博物館に対する寄付は多くの場合「博物館の友」を通じてなされ、また、この種の寄付に対しては、学校や教会に対するそれと同じように、年間所得の30パーセントまでは免税されるという特典があたえられていた。このような免税制度は、もてる国アメリカよりも、むしろ沖縄のようなところで、絶対に施されるべき性質のものではないかと考えられた。
 カリフォルニア州のオークランド市では、現在歴史博物館と自然科学博物館、それに2カ所に分設された美術館があるが、これらを1カ所にまとめようとやはり6百万ドルの建築費を投じて新館を建設中であった。館長の説明によると、完成のあかつきには博物館活動のみでなく、オークランド市のあらゆる文化活動の中心になる一大文化センターになるということだった。オークランド市はオークランド湾をはさんで、サンフランシスコと向かい合っている人口約40万の都市である。建設の過渡期にある那覇市としては、これまで文化事業面に力を入れる余裕がなかったと思われるが、そろそろ文化面に市政を反映させてもいいころではなかろうか。
 私立のボストン美術館は、中国、日本、インド、メソポタミア、エジプト、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパ諸国およびアメリカの美術工芸品をアメリカで最も多く所蔵している世界屈指の美術館の一つである。今少し具体的にいうと、同美術館の東洋部(岡倉天心と最もゆかりが深い)の収蔵品数が約40万点でアメリカで最大、西洋画部は、12世紀のフレスコ画、14,15,16世紀のパネル画、そして17世紀から今日に至るキャンバス画、総計約2千点、そのうちの印象派の作品数がアメリカで最大、たとえば印象派の巨匠モネーの作品が陳列されているだけでも60余点に及んでいた。(略)同美術館についてどうしても言及しなければならないものに、教育普及活動がある。特に同博物館は、教育活動の先駆者といわれるだけあって、大変な力の入れようであった。
■関連・1997年7月 電通総研『情報ビッグバン・日本の挑戦ー「日本と日本人の未来を描く」フォーラムからの提言』○文化だけが社会づくりの求心力であるとすれば、社会は過去に引きずられてしまいます。社会を新しい変化の側に引き寄せていく求心力は、来るべき社会へのイメージの共有と、次なる変化への合意形成の中から生まれます。/情報ネットワーク社会が、インターネットや携帯電話、多チャンネル放送などによって、その姿を現すにつれ、日本でも海外でも、負の側面が観察され指摘されるようになりました。そのひとつが、社会から孤立した「孤人化」「オタク化」の現象。個人情報がハッカーなどの手によって漏れ、匿名で悪意に満ちたウワサを流し、マネーカード暗証番号の流用などのリスクの問題も出てきた。

 スミソニアン博物館ー1848年、イギリス人の科学者ジェームズ・スミソンが「知識の向上と普及に」と委託した遺産を基金としてにつくられた。スミソニアン協会が運営する19の博物館並びに研究センターの施設群であり、多くはワシントンD.C.の中心部にあるナショナル・モールに設けられているが、ニューヨーク市、バージニア州、アリゾナ州、メリーランド州や海外(パナマのスミソニアン熱帯研究所(英語版))に置かれたものも含まれる。収集物は1億4200万点にも及ぶ。
運営資金はアメリカ合衆国連邦政府の財源及び寄付、寄贈、ミュージアムショップ、出版物からの利益で賄われているため、入場料は無料である。
世界各国の本物の航空機を展示している国立航空宇宙博物館は特に有名で、月の石の展示や、広島の原爆展を企画したことでも知られている(後者は実際には展示できなかった)。他に、国立アメリカ歴史博物館、産業・技術史の博物館や国立アメリカ・インディアン博物館などもある。それら9つの博物館とナショナル・ギャラリー(国立美術館。スミソニアン協会とは別)は、国会議事堂前に展開する広い道路「ナショナル・モール」の両脇に配置され、一帯は広大な博物館地域となっている。国立動物園等はワシントンD.C.の他地域に、クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館、国立アメリカ・インディアン博物館が管轄するジョージ・グスタフ・ヘイ・センターはニューヨーク市にある。これに類する博物館群は他の国ではほとんど例をみず、ドイツのベルリン美術館も複数の美術館、博物館群だが規模が比較の対象にならない。→ウィキ
 カリフォルニア・オークランド博物館(OMCA)ーカリフォルニアの過去・現在・未来を称え、そのハイライトを紹介する心躍るようなギャラリーを備え、参加型のアクティビティ、教育プログラム、コミュニティイベントを行っているこの博物館は、オークランドのレイクメリットに近い中心的な文化施設です。1969年に設立された「人々のための博物館」であるOMCAは、芸術、歴史、自然科学のコレクションが、美しいテラス付きの庭園に囲まれた建物に集結しています。
ミルウォーキーへようこそ!
シカゴから北へ90マイル(145キロ)、五大湖で2番目に大きな美しいミシガン湖のほとりにたたずむミルウォーキー。街並みを楽しく散策できるフレンドリーでクリーンなミルウォーキーには、アメリカ中西部の魅力がぎっしりと詰まっています。印象的な建築物、さまざまなタイプのホテル、全米屈指のレストラン、美しいリバーウォークへと繋がる活気あふれる街角、そして夏中繰り広げられるフェスティバルなど、ミルウォーキーは、気軽にアクセスできるユニークなアトラクションの宝庫です。
 ミルウォーキー公立博物館では、コスタリカの熱帯雨林の展示と、一年中蝶々が舞うバタフライガーデンを探訪してください。世界最大の恐竜の頭蓋骨や、神秘的なエジプトのミイラも注目です。「古きミルウォーキーのストリート(Streets of Old Milwaukee)」をそぞろ歩けば、ガスランプに照らされた石畳の舗道にタイムスリップ。伝統を感じさせるお店や住宅などを目にすることができます。
 ボストン美術館は、1870年に地元の有志によって設立され、アメリカ独立百周年にあたる1876年に開館した。王室コレクションや大富豪のコレクションが元になった美術館と異なり、ゼロからスタートし、民間の組織として運営されてきた点は、ニューヨークのメトロポリタン美術館と類似している。所蔵品は50万点を数え、「古代」、「ヨーロッパ」、「アジア、オセアニア、アフリカ」、「アメリカ」、「現代」、「版画、素描、写真」、「染織、衣装」および「楽器」の8部門に分かれる。エジプト美術、フランス印象派絵画などが特に充実している。2010年には北中南米の芸術を展示するアメリカウィングが増築され、28%の増床となった。ボストン美術館は、仏画、絵巻物、浮世絵、刀剣など日本美術の優品を多数所蔵し、日本との関係が深いことでも知られる。20世紀の初めには、岡倉天心が在職しており、敷地内には彼の名を冠した小さな日本庭園「天心園」が設けられている。→ウィキ


1972年1月 沖縄の雑誌『青い海』9号 大城精徳「ミーチキスーラーサー」と「アッタバジョー」



1972年3月 『琉球の文化』創刊号<特集・琉球の焼物>琉球文化社
□大城精徳/小橋川秀義・図表「壷屋の村(1)」(原稿・翁長良明コレクション)


『琉球の文化』1号~5号
 ネットで『琉球の文化』を検索すると読谷村立図書館蔵書で出てきた。『琉球の文化』は大城精徳元沖縄県立博物館副館長が1972年3月に創刊した。創刊号の特集は<琉球の焼物>、72年9月・第二号は<琉球の染織>、73年3月・第三号は<琉球の伝統玩具・琉球の塗物>、73年10月・第四号は<琉球の芸能・琉球の古武術>、74年5月・第五号は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。私と発行人の大城精徳琉球文化社社長とは、72年に又吉眞三氏の建築設計事務所に大阪の西平守晴沖縄関係資料室主宰と同行し訪ねた折、そこに大城精徳氏が出来たばかりの『琉球の文化』創刊号を持参したときに出会った。
 翌日、安里の琉球文化社事務所を訪ねると意気投合し琉球文化社関西支局を引き受けることになった。このときは私はまだ筆不精で文章を書いたことがない。結局、『琉球の文化』には書く機会がないまま休刊を迎えた。その後、大城精徳も関わっていた『新生美術』には美術史らしきものを書くようになった。今、東京発の「沖縄文化論」がテレビ・雑誌などを通じて沖縄に侵蝕。それらが今、沖縄の新聞紙上を占めている。そういうことを予見し危機感を持っていた大城精徳は「日本人としての誇りを得るために、沖縄人としての誇りを捨ててはいけない」とし日本復帰前に『琉球の文化』を創刊した。その初心に立ちかえりネット上で『琉球の文化』活動を復活し新たに補足・改訂を加え立体的に「琉球の文化」を捉えなおしてみたい。(2010-7-8-15時記)


1976年3月 山口栄鉄『チェンバレン 日琉語比較文典』琉球文化社/1976年5月 山口栄鉄『王堂チェンバレンーその琉球研究の記録ー』琉球文化社


1979年11月『新沖縄文学』43号 大城精徳「工芸のありかたを探るー沖縄工芸界のゆくえ」

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那覇市歴史博物館「那覇の市場」会期:2019-04-26(金) ~ 2019-06-24(月) 古くから琉球・沖縄の台所として栄えた那覇の市場。戦後はその場所を牧志に移し、最近では親しみをこめて「マチグァー」とも呼ばれています。今回の企画展では、現在の公設市場が取り壊されるにあたり、那覇の市場の歴史を紹介します。








2019-4

古塚達朗氏と外間政明氏


2016-3-5「ブラタモリ 那覇は二つある!?」那覇を案内する那覇市歴史博物館 館長の古塚達朗さん。

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05/02: 琉球民謡

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Posted by: ryubun02
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 1964年夏、錦糸町で友和寮の屋上、夜空を見ながらレコードプレーヤーで琉球民謡を聞いていた。今おもうと月並みの民謡であった。以前、東京の美術史家・浦崎永錫さんを訪ねたとき、浦崎さんは「わたしは沖縄にはこだわらない」と言いながらも月並みの琉球民謡レコードを聞かしてくれながら話に応じた。私は1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』10号に「試験管の中の人生」と題し「僕は今、琉球民謡を聞きながらコレを書いているが、『琉球』というカプセルのなかに己の人生のすべてがあり、誰かがいう、『君、琉球というセマイ発想ではアカン!モノは大局的に世界的な発想で見なくチャーアカンデー』余計なお世話である。・・・しかし郷土の民謡はイイネェー。ジーンとくる。・・・自分自身が<石>という、無生物に近づきつつあるという幻想をいだかせるではないか!ヤー。チンボーラー』と記している。






ラジオ沖縄「沖縄復帰記念 琉球芸能大百科 おきなわの詩」儀間比呂志「装画」

儀間比呂志の絵・版画が使われているレコード・CD

1915年8月30日『琉球新報』「琉歌吹込みを聞くー1昨日から石門通り森楽器店主の主催とせる琉球音楽奨励会のレコード吹込みを奥武山公園内城間氏別荘でやっているが昨日吹込みを為すべき音楽家は首里から高江洲氏那覇から城間、伊差川、我謝、池宮城喜輝の諸氏であったー」

1915年9月3日『琉球新報』広告「空前の大提供ー本県家庭の大福音/琉球歌と蓄音器」
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1915年9月3日『琉球新報』「琉歌レコード仕上ー森宗次郎、仝仲太郎、山口全則主催の琉歌レコードは去る31日までに吹込みを終了し1昨日技師等は是を携え上阪せるが該レコードの仕上は多分9月下旬ならんー」

1917年1月 那覇商業銀行 監査役・山城高興、城間恒有、森亀次郎/謝花雲石・島袋石扇「琉球音楽野村流始祖先師顕彰碑」始祖・野村安趙、松村真信、桑江良真、城間恒有、伊差川世瑞、世禮國男

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毛氏古堅盛珍は亀川殿内2代の支流平安名親雲上の長男、1852年生まれ。父の役をつぎ平安名の脇地頭、後読谷山古堅の脇地頭。18歳の頃、弦声の道を安室親雲上に学ぶ。次男盛保。1920年没。1915年、城間恒有別荘でコロンビアレコードに辺野喜節を吹き込む。金武良仁は述懐節を吹き込む。

左に「ナショナル乾電池」広告(1938年6月『琉球新報』)

ーXERAー音楽産業の歴史と発展」/→「クラシカル・ギターを止められないby Enriqueー記録メディアの分類」

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Posted by: ryubun02

2019年5月 俳句同人誌『天荒』63号 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536


2019年1月 俳句同人誌『天荒』「特集・『対馬丸記念館』俳句紀行」62号 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536

2017年5月 俳句同人誌『天荒』57号 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536


編集後記ー◇「共謀罪」を隠した「組織犯罪処罰法改正案」が審議入りした(4月6日)。この法案はデモも犯罪にされ、集まって話し合うだけでも罪にされるおそれがある。反基地、反核、反原発の住民運動も犯罪にされかねない。権力の乱用が危惧される。個人の自由、文学や芸術の自由を侵害する法案には反対の声を上げたい。(建)◇「朕惟フニ、我ガ皇祖皇宗、國ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我ガ臣民、・・・・・」。数年前からゾンビがブームだという。死んだはずの死体が蘇り人々を襲う。教育勅語もその一つ。朕とは天皇のこと。我が天皇家の祖先がこの國を創ったと。最初からウソが書かれている。安倍内閣はこの廃止になった教育勅語を正式に推奨。「戦前」というゾンビの復活である。(武蕉)






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