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上ー饒平名智太郎の本。 下ー饒平名(永丘)智太郎と甥の知念良秀。右ー知念良秀氏(佐倉市の知念宅前で/撮影・新城栄徳)

□→2004年2月28日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網ー沖縄物産に生きた知念氏」□→「琉文21」


□2005年5月『琉球弧の雑誌展』新城栄徳「饒平名智太郎と親泊康永」沖縄タイムス社

東京本郷にあった知念良秀氏経営の「沖縄民芸社」守礼門が印象的だ
□1970年3月『オキナワグラフ』ー知念良秀さん(千葉県佐倉市新町96番地)/わたしが扱っている品数は多いですよ。沖縄産のもの、沖縄に関するものなら何でも、と言ってもいいでしょう。レコード、切手、書籍、漆器、貝彫刻、bべっ甲、カツオ節、パインジュース、絵ハガキ、スライドなどなど。商社なみの取り揃えぶりです。東京郵便切手商協同組合に入っており、琉球郵便切手は沖縄でより安く売る店を自慢にしていますが、切手収集ブームは根強いものがあり、今後も収集家が減ることはないでしょう。復帰のあかつきには琉球郵便も当然廃止されることになるわけで、今のうちに集めておかれるよう宣伝している次第です。最近は発行部数が需要にくらべて少ないようです。またデザイン、色彩ももっと良くしてくれるよう琉球政府に働きかけています。世界には珍しい切手を発行することで国家財政を潤している国もあるほどで、積極的な売り込みに出てほしい。

レコードは20年も30年も昔に上京した人が懐かしがって買いに来たり、集団就職の青少年や学生などが故郷を思い出すよすがに買い求めていきます。沖縄にはいい民謡が数知れずあります。それらをどしどし吹き込んでレコード化させ、シリーズで出せば注目されるでしょう。沖縄物産を売ること、それは私の生きがいです。


知念良秀
2004年2月28日『沖縄タイムス』新城栄徳(うちなー書の森 人の網)ー那覇に住んでいると東京は遠くなる。2002年夏、琉球書院の大城精徳氏から電話があり、「千葉の佐倉におられる知念良秀氏から早めに来てほしいと君への連絡があった」という。台風が接近中だったので東大阪市の自宅に行き新幹線で上京。上野の西郷隆盛銅像に近い駅から佐倉市へ向かう。翌日、台風の風雨の中、みつい夫人運転の車で知念氏と子息宅に行き成田空港地域共生委員会伝承部会調査員の取材に応じた。伝承部会『2002年度調査報告書』に「永丘智太郎氏のご親類であることから、知念氏に昨年7月に聞き取り調査を行った。その際、永丘氏について研究されている新城栄徳氏(那覇市在住)も同席した」とある。知念氏と永丘については1998年5月の琉球新報「東京で活躍した出版人2人/饒平名(永丘)智太郎と親泊康永」で書いた。永丘は1914年、上海の東亜同文書院で学び北京の共同通信英文記者を経て改造記者となり孫文、片山潜らに知遇を得た。

知念良秀氏は沖縄戦で、球部隊の通信兵として激戦地をさまよった。港川で捕虜となりハワイの収容所へ。そして送還され胸を患い金武の保養院から国立佐倉療養所に入所。社会復帰を果たし、1965年、趣味の切手商を経て沖縄物産を手がけ東京本郷で沖縄民芸社を経営する。知念氏は歌誌『九年母』の古い同人。『松田守夫歌集』(1964年)に知念良秀兄と題し「朝明けてつばめ飛び交う街の空日本に君を今日発たしめむ」とある。帰る際に、知念氏は真新しい墓の写真を見せてくれた。それが2003年3月6日享年77歳で亡くなられた氏との別れとなった。氏からおくられた歌「下総に移りきてすでに30余年鉢の蘇鉄は枯れ果てにけり」「故里の梯梧の花の咲く頃に我は行きたし久茂地川辺に」。知念氏は「沖縄物産を売ることが生きがい」と常に語っていた。氏に言われた「東京の沖縄物産史を調べてほしい」が宿題に。最近、関東沖縄物産協会で知念氏と共に活躍した宮城三吉氏(沖東物産)に浦添のご自宅で話を伺った。