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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□携帯090-3793-8179□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。



1972年11月 沖青友の会機関誌『石の声』10号 
新城栄徳□試験管の中の人生ー試験管の中に人生を入れて種々の化学反応を試みるのが作家、あるいは文学者と称する人たちの仕事だと云われている。誰かさんは、カプセルという用語を使用していたが、博物館、美術館、記念館、島、家庭、雑誌などもカプセルといって良いだろう。



平みさを


1949年12月『月刊タイムス』平ミサヲ「青空」

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1992年3月 季刊『脈』第45号□平みさを「じゅり馬行列の復活を!-女権謳歌の先駆者たち」/平みさを『虹』東京図書出版会2004年3月

仲宗根ミサヲが自身から見た『仲宗根源和伝』(1987年)を書いている。ミサヲは1948年、満州から夫と沖縄に引き揚げてきた。49年12月、『月刊タイムス』の懸賞小説に香椎都というペンネームで「青空」を書き入選した。55年1月、『沖縄婦人之友』に「愛と死」、63年の『月刊沖縄』に「小説・落花秘話」、66年の『新沖縄文学』1号に「創作・黒潮怒涛記」を発表した。ミサヲは本名・平良みさを、1918年に羽地村真喜屋で生まれている。馬氏の末裔という。神戸市立第二高等女学校を卒業。

沖縄フリージャーナリスト会議編『沖縄の新聞がつぶれる日』(1994年)に西銘順治元沖縄ヘラルド社長が「私が群島政府から戻って沖縄朝日新聞と改題したあと、新聞社で1952年からミス沖縄を選定するようになった。その担当として平良ミサヲさんが婦人記者として入ってきたが、文学少女が大人になったようなお上品な彼女も最初のうちは記事をどう書いていいか分からず佐久田繁君に手伝ってもらっていた。ミサヲさんは琉球海運の桃原茂太社長秘書だったが、知事選挙で社大党の初代婦人部長を押し付けられた」と書いている。

平良ミサヲは知事選挙後、新聞記者になりたくて沖縄タイムスの上地一史編集長に紹介されたが、のちに婦人運動で活躍する伊波圭子が沖縄婦人記者と鳴り物入りで入社したばかりなので後回しになったようである。ミサヲが琉球新聞記者のとき、新聞社の相談役であった仲宗根源和と愛人関係になった(本人が書いている)。1966年、源和の2番目の妻・錦子が肝臓がんで亡くなると、ミサヲは源和の最後の妻となる。

仲宗根源和を反共の闘士と呼ぶものもいるが、それで論敵・瀬長亀次郎の反米運動が挫折したわけでもない。沖縄産業の育成には貢献したが右翼運動をしたわけでもない。戦前の話になる。源和が東京で第一社という社名で出版活動をしていたときのころ、上原永盛、山川又山、知念松一(元出版タイムス社)らから沖縄写真帳の提案の話をうけていた。最終的に知念松一の提案で実現したのが『沖縄県人物風景写真帖』(1933年8月)である。本写真帖には金城朝永の「沖縄県人著書目録」があり源和の著書『労農露西亜新教育の研究』(弘文社1925年)、『無産者教育読本』(無産者新聞社1926年)もある。

仲宗根源和が最初の妻・貞代と上京したのは1919年3月であった。23年5月、仲宗根源和が手配して近藤栄蔵、高津正道、佐野学をロシアに贈り込み、そのあと、山川均、佐野文夫、赤松克麿、鈴木茂三郎、饒平名智太郎らが共産党中央委員となったが、6月には第一次日本共産党事件で仲宗根源和、徳田球一らが検挙された。25年4月、源和は『労農露西亜新教育の研究』を弘文社から発行する。9月には源和が発行名義人となって『無産者新聞』を創刊する。事務局員が貞代と徳田正次、編集員が徳田球一、佐野学、井之口政雄らで、野坂参蔵らが出入りしていた。このころ、源和は表向きは実業之日本社に在職ということになっていた。26年5月には無産者新聞社出版部(仲宗根貞代)から『無産読本』を発行した。

仲宗根源和は1933年に柳田國男、比嘉春潮の島同人になっている。同人には奥里将建、久志芙沙子、大宜味朝徳、比嘉良篤らも居た。同年、源和は第一社に大南洋社を設け仲原善徳を編集長に『大南洋評論』を発行した。2号の表紙絵は竹久夢二の息子・不二彦である。源和は翌年に、摩文仁賢和『攻防自在護身術空手憲法』を出している。源和は1938年5月に『空手道大観』を沖縄師範学校の一期後輩の新田宗盛の東京図書から出版、1937年3月に沖縄県空手道振興協会(会長・知事、宣伝部長・島袋源一郎、指導部長・屋部憲通)が決定した空手道基本型制定も収録。また1905年の花城長茂が書いた「空手組手」を紹介、すでに空手の名称が使われていたことを強調している。