袋中上人
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1938年3月ー檀王法林寺『袋中上人餘光』/寧王院袋中寺、念仏者
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1936年3月ー檀王法林寺『琉球と袋中上人』/1936年3月ー写真上・正面・信ヶ原良哉僧正、写真下・正面・尚順男爵(1958年再版)
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1988年4月ー京都国立博物館『袋中上人と檀王法林寺』/『琉球神道記』、袋中上人像

袋中上人の資料

1918年5月27付の南方熊楠宛の末吉安恭書簡に「(略)この根抜けざることは、間々聞き候が、何に因し候や。右の袋中上人には、更に『琉球往来記』と申す書これあるやに承り候が、御存知なきや。若し御存知にて候はば、其の本の所在御示し下され度候。沖縄図書館にて琉球に関する書類を集め中に候が、加州金沢の俳人堀田麦水(天明3年63才没)の著書に『琉球属和録』『南島変』『慶長中外伝』(66巻)とあり。御存知なきや。「属和録」は写本にて(欠本)1部沖縄図書館にあれど他はこれなく候。加州金沢の俳人堀田麦水。屈麦水と称す。樗庵、暮柳舎と号、通称池田屋長佐衛門。」新城■麦水というのは角川『俳文学大辞典』に俳諧師・稗史実録作者とある。

1922年4月22日『沖縄タイムス』に莫夢生(末吉安恭)が「詫遊は神舞」と題し次のように書いている。□私は宮古の神舞は(沖縄)本島の上代にあった詫遊の神舞と同じものであると云った。即ち神舞に出づる女人達の扮装の異形なるは袋中のいわゆる龍宮様ではないか。龍宮との関係も宮古の伝説にはよく現れている。あるいはまた宮古の「あやぐ」もこれから出たものであろうとも思う。(沖縄)本島内にある「しのぐ」も、その由来するところはここにあるのではないかと思うのである。

1966年12月10日『琉球新報』大島彦信(浄土宗名越大本山円通寺住職)「大沢文庫と沖縄<7>」□袋中上人は、当時伏見で掛川の城主松平隠岐守定勝の特別の帰依をうけて師権の契約を結んでいるが、その嫡子越中守定綱は後の松平定信であるが、将軍秀忠に随従して特別の信頼を受けて名声がたかかった。時の京都所司代板倉重宗を上人に紹介して特信者としたのもこの定綱である。京都所司代の権威は、当時京都御所ににらみをきかせて他に並ぶものがなかったのである。(略)夢にも考えていなかった上人との対面の機会を与えられて、尚寧王はこれが現実かとばかり感涙し歓喜したことであろう。・・・

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元沖縄都ホテル社長の桑原守也さん、京都西方寺の袋中上人(エイサーの祖)手植えの蘇鉄を前に(新城栄徳撮影) 1994年7月21日、桑原守也さんと連れ立って京都西方寺を訪ねる。住職の北村有信師としばし歓談。頂いた名刺には「うずまさ悟真寺、山城田辺・西方寺、自然幼稚園」とあった。

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京都で琉球民謡を聞く
2011年9月25日13時00分の京都教育文化センターで「琉球民謡伝統協会京都支部三周年芸能発表会」に新城あけみが舞踊で参加するというので、お供で同行する。7時前に自宅を出る。JR河内永和駅から京橋。京阪で三条駅に8時15分着。駅を出て直ぐの檀王法林寺の前で新城あけみを立たせて写真を撮る。この寺はエイサーの元祖といわれる袋中上人によって開かれた400年の歴史を誇る浄土宗の寺。


成道寺(じょうどうじ)について
 大阪市のほぼ中央に位置し、大阪城より南へ三十分、「大坂冬の陣」に真田幸村が陣を張ったところで有名な真田山という上町台地の一番高い  寺町の一角に成道寺はあります。
この成道寺は今から四百年まえ、江戸時代の慶長十六年(1611年) 二月、弁蓮社良定袋中上人によって開創されました。
 その後、宝暦十一年(1761年)六月、大破した堂宇を第十一世郁湛上人が自財を投じて再建しましたが、昭和二十年(1945年)三月、戦災により焼 失し、同二十八年(1953年)に現本堂が再建されました。
 なお、御本尊阿弥陀如来坐像(御身丈九十五センチメートル)と山門は戦災による難をのがれ、現在に至っています。
 当成道寺は大阪唯一の袋中上人開基の寺であり、創建当初から鎮守として主夜天尊が安置され、盗難除の霊験あらたかなので、今日に至るまで参拝者が絶えたことがありません。(成道寺)

袋中上人
 袋中上人は江戸時代前期の浄土宗の学僧です。上人のご生涯は文字どおり、阿弥陀佛におまかせした念佛専修の生活で、布教と著作に専念さ れた在野の学僧です。
 上人は沖縄のエイサーの生みの親としても有名です。上人は念仏をこの地に広めるために、節や振りを付けた「念仏踊り」で民衆にも分り易く説い ていきました。この念仏踊りが後にエイサーに発展していったと言われています。
袋中上人のご生涯
 天文二十一年(1552年)奥州岩城郡(今の福島県)に袋中上人はお生まれになられた。
 七歳のころ叔父の天蓮社のお寺に送られた。上人は賢明で九歳の頃には三経一論(三経(三部経):無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経、一論:往  生論、浄土宗のよりどころとなる経論)の他、多数の経論を暗誦していたそうです。
 上人十四歳、永禄八年(1565年)出家し法名袋中を授かった。齢二十歳のとき大沢の円通寺へ行って大乗円頓戒を受けられ、重ねて比叡山で受  戒なされた。
 上人二十五の春、武蔵の三縁山(東京、芝の増上寺)に入って、勉学に励まれた。宗祖の法流と白旗派の口伝とをすべて伝授され、浄土門を極め られた。その後成徳寺の住職となられた。
 上人五十二歳のとき中国へわたって法を得たいとおもわれ、まず琉球へ渡られた。中国へ渡ろうとなされたが渡ることはできなかった。このとき琉 球の国王は上人の徳を慕って、深く帰依した。そこで、上人を城外の桂林寺の住職とした。琉球には三年間滞在なされた。
 慶長十一年(1606年)帰国し、その後京都三条の壇王法林寺を再興し、東山五条に袋中庵を建立なされた。
 寛永十六年(1639年)正月二十一日享年八十八歳で入滅なされた。