御堂筋の南御堂(真宗大谷派 難波別院)前にはソテツ。御堂筋道路の石碑に刻まれている文字は『此附近芭蕉翁終焉ノ地』とあり、松尾芭蕉の終焉の地と言われている。人生の多くの時間を、旅と、紀行文や俳句の執筆に費やした芭蕉は九州へと向かう旅の途中に立ち寄った大阪で病に伏し、51歳の生涯を閉じたとされている。そして、松尾芭蕉の有名な句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が刻まれた石碑は難波別院境内の中にある。松尾芭蕉辞世の句を刻む石碑には芭蕉(バナナ)の木が傍に立っている。本堂で阿弥陀如来佛を前にして瞑想したつもりが気持ちが良く、つい、うたた寝をしてしまった。別院でパンフ「南御堂と芭蕉」をもらった。善導大師「信心の人はすでに浄土に居(こ)す」。「関西日誌2011-9」

 1914年11月 同人誌『五人』末吉麦門冬「芭蕉の恋ー(略)彼等二人の間に男色の関係のあったといふことは今日から見る程不自然なものではない。鎌倉以来我国には衆道といふことが武家間には非常に盛んであった。足利義政公は  常盤山とはにはさかずいはいはつつじ/春の日数をたづねてもとへ  云々と云はれた。南浦文集に昔々物語を引いて曰く  昔は衆道といふ事有て一四五六、七八の男に生まれ付よきは勿論大躰の生付にても念者といふもの持たぬ若衆は一人もなし。云々(以下略)」

 南方熊楠は麦門冬・末吉安恭からも琉球の男色の情報を得ている。ネットで一々紹介するのは憚れるので割愛する。麦門冬は早婚なのでいわゆる淡いプラトニックで終わってしまった。その分、妻に愛を注ぐことになるが、男色については折々書いている。たとえば1911年1月『沖縄毎日新聞』に書いた東京時代の古手帖には「沖縄の組躍に男色をほのめかしたのに執心鐘入と二童敵討」「伊藤銀月の男色観」、14年11月ー同人雑誌『五人』の「芭蕉の恋」などがそうである。

新城栄徳「木村兼葭堂」
 2007年11月 美術館開館記念『沖縄文化の軌跡』新城栄徳□麦門冬の果たした役割ー大阪の町人学者・木村兼葭堂は大名とも交流があり、幅広い文人ネットワークを形成していた。兼葭堂は1796年には江戸上りの琉球人を見物、また新井白石の『南島志』や、殷元良の「琉球国図」を写本するなど琉球物を愛蔵した。兼葭堂は文人画家の浦上玉堂、池大雅とも親交があった。黄檗宗僧で煎茶道の祖・売茶翁は、大雅、若中とも親しかった。」

□1802年5月から8月にかけて、馬琴は関西に旅行した。太田南畝の紹介状や、山東京伝の書画(売却して旅費に当てる)を受け取った。馬琴は井原西鶴や近松門左衛門、竹田出雲などの遺跡も尋ねているから、江戸文学興隆の祖に思いを馳せたとしても不思議でない。関西の文人と交流した馬琴は、物語ゆかりの名所をめぐり、私的な旅行記『羇旅漫録』に「大阪にはいま、これといった人物がいない。上田秋成は京に住んでいるし、あえてあげれば木村蒹葭堂(琉球大好き人間)くらいだが、それもことしの春1月25日に亡くなってしまった。(略)岡田玉山の画(美人画や挿絵)を珍重するのは出版屋だけで、通人はこれをけなしている。森狙仙は猿の写生に巧みで、そのほか画家はいくらでもいるが、みな京にはおよばない。」と記している。(□→木村剛久「マイブログ海神日和」 )


木村兼葭堂邸跡に於いてー新城あけみ、さやか、江

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木村蒹葭堂の墓、下に『琉文手帖』が見える。

きむらけんかどう【木村蒹葭堂】 1736‐1802(元文1‐享和2)
江戸後期の雑学者。名は孔恭,字は世粛。別に巽斎とも号した。通称は坪井屋吉右衛門。大坂の人。酒造業を営むかたわら,学芸を好み,小野蘭山に本草学を,片山北海に漢詩文を,大岡春卜に絵を学ぶなどした。書画骨董や珍品奇物の収集と考証につとめ,博学多識をもって聞こえた。その一端は《蒹葭堂雑録》に示されている。博識と好事の癖を愛して来訪する者がきわめて多かった。晩年24年間の克明な日記を残しており,それによると地元大坂の人ばかりでなく,大田南畝,頼春水など諸方の名士のほとんどが来訪しており,当代の知識人のサロンの主宰者のような蒹葭堂の立場を伝えている。(→コトバンク)