9月21日付けの『日刊ゲンダイ』にウィキリークスが暴露と題し「2010年に前原誠司(1962年4月生まれ、京都市出身)国交相(兼沖縄担当相)がキャンベル国務次官補と会合したとき、『普天間移設問題で鍵を握るのは北沢防衛大臣だ。なぜなら、普天間の安保上の重要性を判断できる専門知識は防衛省だけが持っている』と話し、当事者だった鳩山首相をタナ上げして、外交交渉の相手に手の内をさらしているのだから世話はない。また『小沢氏は相手によって発言を変えるから気を付ける必要がある』などと注意を促していたという」、その記事のタイトルは、「前原!お前はアメリカの工作員か、やっぱり米国のイヌだった」。

前原誠司の選挙地盤である京都で琉球民謡を聞く
9月25日13時00分の京都教育文化センターで「琉球民謡伝統協会京都支部三周年芸能発表会」に新城あけみが舞踊で参加するというので、お供で同行する。7時前に自宅を出る。JR河内永和駅から京橋。京阪で三条駅に8時15分着。駅を出て直ぐの檀王法林寺の前で新城あけみを立たせて写真を撮る。この寺はエイサーの元祖といわれる袋中上人によって開かれた400年の歴史を誇る浄土宗の寺。
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会場に9時着。新城あけみは準備のため会場に残る。私は午後1時まで会場周辺を散策。大文字山を眺めながら歩くと山伏の総本山、聖護院門跡がある。交通神社、泉徳寺、錦林小学校の塀にゴーヤーがあったが実は破裂し赤くなっていた。平安神宮の前を通って京都府立図書館に寄る。入口に二宮金次郎胸像がある。図書館ではチラシの「府立図書館『岡崎』百年の歩みー湯浅館長編」「府立図書館が所蔵している まるごと一冊、竹久夢二の本」「府立図書館『岡崎』百年の歩みからー岡崎公園編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~通史編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~入門編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~年表・史資料編」などを入手する。

□1910年7月、伊波普猷は関西において比較的規模の狭小なる奈良県立図書館を視察し、湯浅京都図書館長のアドバイスを受けて沖縄県立沖縄図書館の図案を調製し其の筋へ提出したと、新聞に報じられた。私は、2008年5月8日に奈良県立図書情報館を初めて訪ねた。2Fで「Yahoo!」と「Google」の日本、アメリカでのサービス開始時期をみる。いずれも1990年代である。3Fで司書の人をわずらわして同図書情報館の前身で1909年に開館した奈良県立図書館の建物の写真を調べた。建物は戦後も図書館として使われたが、奈良県文化会館・図書館建設にともない。大和郡山城内に移築された。図書情報館の帰途、郡山城を訪ね、旧図書館の建物が今も健在で教育施設になっている。初期のころの奈良県立図書館長は奈良県内務部長が兼任していて、初代館長が小原新三、2代目が川越壮介であった。川越はのちに沖縄県知事となる。伊波普猷がアドバイスを受けた湯浅京都図書館長は湯浅吉郎(半月)といい明治・大正期の一流の文化人であったことは、1998年10月発行の京都府立『総合資料館だより』に詳しい。1909年4月に京都府立図書館の新館が岡崎に開館した。設計者は武田五一で湯浅館長は早くから児童閲覧室を設けていた。

知恩院の国宝の山門(高さ24メートル、幅50メートル、木造の門としては日本最大)が見えるので立ち寄る。知恩院は、全国に7000余の寺院を擁する浄土宗の総本山。法然上人が晩年住まわれ、念仏の教えを説かれた寺という。江戸時代、元和7年(1621)、二代将軍徳川家忠が三門を建立、また寛永16年(1639)に徳川家光公が御影堂を建立するなどし、現在の寺が形づくられている。

午後1時開演。1番目に琉球民謡伝統協会参加者全員の「いちんかりゆし」「鷲ぬ鳥」合奏、2番が京都支部メンバーが「安里屋ユンタ」「安波節」、3番が新城あけみなどの柳豊会・大城奈津子琉舞太鼓研究所の舞踊「いちんかりゆし」。4番が大阪支部による「流れ雲」「ハワイ節」合奏。6番が上間順子琉舞研究所の琉舞「上り口説」などが第一部であった。第二部は大城奈津子琉舞太鼓研究所の舞踊「安里屋ユンタ」「繁盛節」で新城あけみの出番が終わったので4時まで二条通りの古本屋に行き『聖徳太子と四天王寺』(1971年)、1961年の『昴宿』俳句会記録を購入。会場に新城あけみを迎える途中、天理教川原町大教会の大ソテツを撮る。

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右ー新城あけみ

 今日29日は日中国交正常化の日、1972(昭和47)年、日本と中華人民共和国との間の国交正常化共同声明(日中共同声明)の調印式が北京で行われ、田中角栄、周恩来両首相が署名した。靱公園に行くと右翼団体が日の丸を持ち、乳母車の女性で子連れも居て全く緊張感が無い。先頭には大きな日の丸。女性3人を含む50人ぐらいで中国総領事館に行くのであろう。警官が10名余公園入り口に立っていた。右翼団体の活動は実話雑誌などでヤクザ団体(とにかく大阪は彼方此方にヤクザ事務所がある)と共によく紹介されている。日の丸集団と言えば1週間前も中之島公園で百人ぐらいが夫々日の丸の小旗を持ち「花王に対し不買運動を行いましょう」「フジテレビ偏向」を叫んでいた。二つの団体が共通しているのは嫌中、嫌韓だろう。自分の嫌米を棚にあげ言うのもなんだが、反核・反原発という未来志向の運動のほうが健康的である。

ユリ科のヤブランやフイリヤブラン(斑入り薮蘭) の紫色の花が穂状に咲き乱れている靱公園の一角の(財)大阪科技術センター(五代友厚屋敷跡)をのぞいた。入ってすぐのところに原発の宣伝コーナーがまだある。関西原子力懇談会が編集発行している「ルミナス」には小浜市に伝わる伝統工芸とか、若狭のならわし、大半は教えて原子力、エネルギーセミナー、低レベル放射能廃棄物を安全に埋設し、長期にわたって管理することで、人と環境を守り続けます!(最近このテレビ宣伝はやってないな)、先進的な研究に取り組む京都大学原子炉実験所、20億年前にも原子炉があった!などが記されている。ほかに若狭越前マップ、越前若狭、美浜町、おおい町の観光パンフがあった。原発展示場には今も続いている東日本原発大事故 には触れていないが、関西電力の「東京電力福島第一原子力発電所事故等を踏まえた更なる安全性向上対策について」のチラシがある。まあ、とにかくその優秀な科学技術を駆使し一日も早く今だに行方不明の人の捜索が続く東北の原発事故を終息させ、原発や節電の無い明るい未来を作ってほしいものだ。
 


御堂筋の南御堂と北御堂

『此附近芭蕉翁終焉ノ地』

御堂筋の南御堂(真宗大谷派 難波別院)前にはソテツ。御堂筋道路の石碑に刻まれている文字は『此附近芭蕉翁終焉ノ地』とあり、松尾芭蕉の終焉の地と言われている。人生の多くの時間を、旅と、紀行文や俳句の執筆に費やした芭蕉は九州へと向かう旅の途中に立ち寄った大阪で病に伏し、51歳の生涯を閉じたとされている。そして、松尾芭蕉の有名な句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が刻まれた石碑は難波別院境内の中にある。松尾芭蕉辞世の句を刻む石碑には芭蕉(バナナ)の木が傍に立っている。本堂で阿弥陀如来佛を前にして瞑想したつもりが気持ちが良く、つい、うたた寝をしてしまった。別院でパンフ「南御堂と芭蕉」をもらった。善導大師「信心の人はすでに浄土に居(こ)す」。

北御堂(本願寺津村別院)ー本願寺第8代宗主蓮如上人の手により、大坂(明治から大阪)に、親鸞聖人から伝えられた「お念仏」のみ教えを弘めるため、現在の大阪城のあたりに坊舎(後の石山本願寺)が建てられました。1497年のことです。その坊舎を中心にしてまわりに寺内町が形成され、大坂の町は大いに発展していったそうです。しかし、織田信長との長い争いにより、本願寺は生み育てた大坂を離れなければならなくなり、そこで、大坂の門徒はこの地での「お念仏」の灯りをまもるため、天満に近い「楼の岸」に新しい坊舎を建立しました。その後、「津村郷」と呼ばれていた現在の地に移り(津村別院の名称の由来)、津村御坊は「北御堂」と称されるようになり、南御堂(真宗大谷派難波別院。津村別院から南へ約500メートル)とならび大坂のひとびとに親しまれた。津村ホール傍に見事なソテツと巨大な親鸞聖人像が立っている。向かい合う形で蓮如上人像が立っている。善導大師「娑婆に楽ありといえども これ真(まこと)の楽にあらずこれ大苦なり」。

「関西日誌2011-10」
 周りに沖縄出身の弟子もいた与謝野鉄幹・晶子を検索したら与謝野馨ブログ「 私の通ってきた道」(1983-9~1996-5記)「与謝野家の人々」に詳しい与謝野家系図、それを見ると、馨氏は鉄幹の孫になる。同時に内容が今の世相と重大な関わりがあるので妙出する「日本原子力発電は、東京電力をはじめとする9つの電力会社が共同出資して設立された新しい会社です。設立当初から、東海村に日本で初めて原子力発電所を建設するという大仕事を抱えていました。かつて、日本で初めて汽車を走らせたときも外国から技術を導入したわけですが、日本の原子力発電の場合も、イギリスの技術を導入してはじめられています。(略)日本原子力発電株式会社という会社は、実に自由な気風にあふれた会社でした。その会社が原子力発電所の国内第二号炉を建設しようということで福井県の敦賀に用地を取得、アメリカのGEの沸騰水型原子炉を輸入することに決定しました。前号でもご紹介したように、私はその資金調達の仕事を与えられ、アメリカのワシントン輸出入銀行からの借款を担当しました。(略)私は昭和43年、妻・とも子と結婚しました。ちょうど29歳のときでした。そして、ほぼ同時に日本原子力発電(株)を退社し、今の読売新聞の渡辺社長と中曽根事務所の所長をされていた小林克巳さんのお誘いをお受けすることにして、中曽根康弘代議士の秘書となりました」。

この与謝野氏の自伝は世相を反映して当然ネット上で攻撃される。与謝野馨氏と原発の関係は全く知らなかったがネット上では検索すると賑やかである。「暗黒夜考~崩壊しつつある日本を考える~アメリカの思いのままに愚民と化し、むしり取られ、だまされ続ける日本国民への警鐘を綴るー『消費税増税』に『東電擁護』という、アメリカ様や原発利権村とズブズブの”利権政治家”である与謝野馨など、ハッキリ言って『百害あって一利なし』の無用の長物である」「vanacoralの日記ーそれでなくても以前から与謝野氏は、『日本原子力発電』元社員という経歴を生かし、『東電の犬!!』的な主張を繰り返してきました」。

「Everyone says I love you !毎日、泣いて笑って喜んで哀しんでる、かなりラテンの血の濃い、そんなあやつの言いたいことー与謝野馨『原発事故は神様の仕業』 中曽根・小泉・安倍自民党原発推進議員人脈 地下式原発議連のお笑い/原子力発電推進派のドン、中曽根康弘元首相は、故正力松太郎の指揮下で、原子力基本法を1955年(昭和30年)に作った中心人物です。昭和29年にはじめて原子力関連予算2億何千万円か勝ち取ったのも彼。まあ、50年以上も国会議員やって、勲一等なんとかっていう勲章までもらった政界風見鶏、改憲タカ派の悪い奴ですわ、原子力抜きにしても(笑)。小泉と石原あわせたような奴ですな。/正力松太郎という人もタイガースファンの私から言わせればとんでもない悪人(笑)。原子力委員会の初代委員長を務め、のちに『日本の原子力の父』と呼ばれる人物です」。(孫<ひより>を抱っこしながら記す)


谷沢永一『聖徳太子はいなかった』(新潮新書、2004)で聖徳太子は実在の人物ではなかったという説を説いている。そういえば電柱の映画ポスターに北朝鮮の金正日総書記は実は亡くなっていて今のは替え玉だというのがあった。谷沢氏のヒマな本に反論する形で「新しい歴史教科書をつくる会」会長の田中英道氏が『聖徳太子虚構説を排す』というヒマな本を松下幸之助によって創設されたPHP研究所 から出している。論争が悪いとは言っていない。他にすべきことがある、ということである。

松下幸之助は1979年、理想の「無税国家」実現を目指し(財)松下政経塾を設立した。松下政経塾の1期生・ 野田佳彦財務相が民主党の新代表に決定、悲願だった初の首相になったが、マスコミなどから「財務省の言いなり」「増税内閣」と見られている。

JRおおさか東線ができてから布施の自宅から法隆寺が近くになってよく行くようになった。法隆寺は西暦607年に聖徳太子によって建立された。日本仏教の開祖としての聖徳太子をあがめる太子信仰の中心地が、法隆寺の聖徳太子像を安置している聖霊院である。太子信仰だから、いわゆる宗教で、お釈迦さんや聖徳太子が実在したか云々し、科学的に詮索するほうが無粋というもの。個々の情念や芸術的な感覚は尊重しないといけない。

□1971年9月ー『聖徳太子と四天王寺ー聖徳太子 十七条憲法』四天王寺

1991年6月ーNHK歴史誕生取材班『歴史誕生 10』「日出ずる国の天子ー古代東アジアと聖徳太子」(法隆寺)上田正昭「太子の外交ー聖徳太子(厩戸皇子)を中心とする飛鳥朝廷の遣隋外交は有名だが、その実相についてはさらに検討すべきいくつかの問題がある。-」

2003年4月に小学館から『梅原猛著作集』2巻「聖徳太子」の解説は上田正昭①さんである。中で「聖徳太子という人間を世界の中で、主として東アジア全体の歴史の中で考えていこうとする視点」が同書の聖徳太子論をもっとも特徴づけていると、言われる。
①日本の古代史研究の第一人者とされる京都大学の上田正昭・名誉教授が2016年3月13日、持病のため京都府内の自宅で死去した、とNHKが報じた。88歳だった。上田氏は韓国や中国など東アジアとの関係を重視する観点で日本の古代史を研究し、早くから「天皇は百済人の末裔(まつえい)」と指摘した人物で、古代の朝鮮史研究でも業績を残した。その功労により、2009年には韓国政府から勲章を贈られている。→朝鮮日報

梅原氏は1999年の「サミットの沖縄開催を祝す」で沖縄はほぼ全土が米軍の基地となり、戦後の日本は沖縄の犠牲において繁栄したといえる。米軍基地移転の問題がしばしば話題になるが、沖縄に代わって米軍基地を引き受けようとする府県は今のところ見当たらない。沖縄には当分、基地の重荷に耐えてもらうしかしかたがないのであろうか」との言葉に対し他人事に感ずるのは私一人か。米軍基地は原爆も抱えているのだ。

近鉄長瀬の自宅から八尾まで散策したとき穴太という場所に出会った。たしか出口王仁三郎大本聖師の生まれた所も亀岡は穴太であった。聖徳太子の生母(穴穂部間人皇后あなほべのはしひとのひめみこ)は八尾市宮町に鎮座する穴太(あのう)神社近くが成人の地といわれる。厩の前で産気づいて太子を産んだから厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれた。穴太神社は古代氏族穴太氏の一族の祖神を祭る産土神で、境内に残る寺跡はその氏寺であったと考えられる。穴太神社は河内鑑名所記、和漢三才図会に名刹千眼寺として紹介されている。

□丹波の里「穴太寺」を訪れた。由来書によると、「穴太寺(あなおうじ)」は飛鳥時代の705年創建の天台宗の寺で、庭園は府指定名勝、建物は府登録文化財・府指定文化財の由緒ある寺院であるが、ゆっくり勉強させていただいた。この寺院の名である「穴太」の読みから、すぐに大津市坂本にある穴太の地名を連想したが、この地名は三重県東員町穴太、北九州市八幡区穴太、大阪府八尾市穴太駅、阪急園田駅近くの穴太など各地に存在している。(琵琶湖疏水の散歩道)

出口王仁三郎の生地の穴太には小幡神社がある。上田姓で有名な人物に上田主水(円山応挙)日本画家1733~1795 穴太生まれ、産土神の小幡神社に絵馬を奉納。上田喜三郎(出口王仁三郎)宗教家 1871~1948穴太生まれ、産土神の小幡神社で神示を受ける。上田正昭(現役の歴史学者、文学博士)元京大教授、前大阪女子大学長、小幡神社宮司が居る。

聖徳太子の墓は大阪府南河内郡太子町の叡福寺(上の太子)にある。聖徳太子墓を守護するために、推古天皇によって建立され、奈良時代に聖武天皇が大伽藍を整備したと伝えられる叡福寺は、聖徳太子信仰の霊場として発展しました。織田信長の兵火によって、一時は全山が焼失したが、豊臣秀頼の聖霊殿再建に始まり、順次伽藍が再興された。