10・10那覇大空襲の日である。1944年7月のサイパン陥落。10月、アメリカ軍はフィリピンへの進攻作戦を準備。これに先立って、後方の南西諸島から台湾方面に散在する日本軍の拠点を、空母艦載機をもって攻撃した。10日の沖縄の大空襲はこの一環として行われたものとされている。このとき那覇市内の9割が消失して壊滅した。死者は255人以上にのぼった。大阪は翌年45年3月13日から深夜から翌日未明にかけてに最初の大阪空襲が行なわれた。同年3月23日には粟国島空襲、26日には慶良間諸島にアメリカ軍が上陸し沖縄戦が始まった。大阪ではその後、6月から8月にかけて空襲が行なわれた。これらの空襲で一般市民 10,000人以上が死亡したと言われる。それから60数年。未だにアメリカ軍は「トモダチ」としてオキナワ・日本に居座っている。何ら疑問も感じない日米両政府。それを容認する国民の感覚も分からない。今日まで核の傘、原発も容認してきた国民。これからも<しょうがないにゃあ>。

午後から大阪市天王寺区生玉町界隈を見学。法音寺は天王寺区の北部、建物は南面している。新しい本堂だが、古い屋根瓦がよく目立っている。1612年創建。1945年ー大阪大空襲により焼失。戦後再建された。画家上田公長の墓所でソテツもある。浄土宗圓通寺には俳匠の大江丸墓所。ソテツもある。大江は大坂出身。飛脚問屋・嶋屋の主人で、家業上諸国を旅したので、交際がきわめて広く、またたいへん筆まめで、そのうえ長寿でもあったので、残した紀行文や随筆、そして発句などは莫大な数にのぼる。作風としては京都の蕪村派の影響を受けているが、西山宗因や上島鬼貫の模倣をした作品もある。のちに江戸の大島蓼太に私淑し、著書においても蓼太を師として敬っている。

生魂山齢延寺には幕末に私塾・泊園書院を興して活躍した儒者の藤澤東咳・南岳父子や、画家の鍋井克之、名刀鍛冶師の左行秀の墓がある。また、緒方洪庵、斉藤方策と並ぶなにわの3名医のひとり・原老柳ゆかりの老柳観音がある。やがて「いくたまさん」と呼ばれる難波大社 生國魂神社北門入り口に着く。鳥居をくぐって生玉北門坂をのぼる。神社本殿の脇には11社の境内社がある。一番右側の鳥居は「浄瑠璃神社」で、近松門左衛門や竹本義太夫など人形浄瑠璃(文楽)に成立に功のあった『浄瑠璃七功神』をはじめ文楽および女義太夫の物故者を祭神として祀られている。

境内社の1つ「鴫野神社」。大坂城外鴫野弁天島にあった「弁天社」は淀君の崇敬が厚く、後に「淀姫神社」として祀られるようになったが、1877年に現在地に移転された。家造祖神社は、家造の祖神を祀り、建築関係者の崇敬が篤い。鞴神社は、鞴(ふいご)の神・鍛治の神を祀り、製鉄などの金物業界の崇敬が篤い。

境内に井原西鶴像がある。西鶴は1680年、「生玉神社南坊」で一昼夜独吟四千句を興行した。後ろの碑は「南坊」の所在跡を示す石碑、「南坊」は明治初期の神仏分離の折、現在の中央区島之内に移転した法案寺の前身である。「米澤彦八の碑」に京都で露五郎兵衛によって始められた上方落語は、大阪では当社境内を舞台に米澤彦八が広めたとある。「八雲琴の碑」には「二つ緒の八雲の琴に神の世の しらべを移し伝え来にけり」と記され中山琴主(愛媛の人、文政年間出雲大社に参拝し神事を得て完成したと伝えられる、琴は二弦で「八雲琴」)を顕彰。

1496年、本願寺八世蓮如上人が生國魂神社に接して『石山御坊(後の石山本願寺)』を建立したが、1580年、織田信長に屈し灰燼に帰した。1583年、豊臣秀吉が石山本願寺(現在の大阪城の二の丸周辺にあった)跡に大阪城を築城。そのため、神社に社領を寄進し社殿を造営。1585年に現在の鎮座地に遷されたと伝えられている。明治維新の廃仏毀釈によって境内にあった神宮寺が境外へ分散するなど境内は著しく変化したが、1871年、官幣大社に加列された。社殿は(明治45年)『南の大火』、1945年の戦災による消失、1950年の『ジェ―ン台風』による倒壊など幾度も被災と造営を繰り返し、現在の社殿は1956年(昭和31年)に建立されたものである。10月22日から神社参集殿で「出口王仁三郎耀琓展」が開かれるという。

近松門左衛門の墓は菩提寺、尼崎・広済寺と、妻側の菩提寺の大阪・法妙寺に建てられ、共に夫婦の戒名が刻まれた比翼墓である。法妙寺は大空襲で焼失し大東市に再建され、後に墓だけが元の場所に戻された。近松の墓を見て、西鶴の墓がある誓願寺を訪ねる。戦災で本堂も繰りも焼けたため、一時途絶えた時期もあったが、毎年9月には「西鶴忌」が行われる。西鶴の墓は1887年を前後する頃、誓願寺境内の無縁墓に押し込められていたのが発見された。境内には、大坂に於ける私立学問所「懐徳堂」を140年余にわたり経営し、江戸時代大坂の文教の発展に貢献した、中井一族の墓がある。→稲垣國三郎にも『中井竹山と草茅危言』(大正洋行1943)の著がある。

誓願寺門前にプロレタリア文学を経て、転向。西鶴の浮世草子の作風に学んだ「市井事もの」を著し、時代の庶民風俗の中に新しいリアリズムを追求する独自の作風を確立した 武田麟太郎文学碑がある。この文学碑は武田の小説『井原西鶴』の一節が刻まれている。大阪市中央区上本町「東平公園」にある薄田泣菫の『金剛山の歌』の碑。詩は、作者が本長寺に仮住まいしていた頃、散歩の途中、朝日に輝く金剛山を見て、詠んだと言う。薄田泣菫(1877~1945)は岡山県生れ、24歳で大阪に出て文芸雑誌、詩集を刊し、象徴派詩人として名声を得た。 午後ー近鉄布施駅から鶴橋。近鉄駅改札のまん前にある「高坂書店」では数多くの在日コリアン関連の書籍が売られている。いわゆる「嫌韓本」も意外に数多く揃えてあり「マンガ嫌韓流」といった山野某の本もある。私はブックオフで買った山野の本「在日の地図」で、日本の中の在日社会を見つめなおしている。鶴橋商店街はいつも見慣れているが、面白いのは、ガード下にも広がる市場の存在。闇市の世界をそのままに、という風景で八百屋、魚屋、肉屋、乾物屋、そしてキムチ屋、ありとあらゆる韓国食材が揃う、まさに日本の中の朝鮮。大阪の東の玄関口として戦前から発展してきた下町、鶴橋。大阪府は全国で最も在日韓国・朝鮮人が多く、人口は15万人。その多くが大阪市東部の生野区を中心としたエリアに住んでいる。生野区の人口14万人の4分の1に当たる、3万人程度が住んでいると言われる。

明治、大正時代の大阪は、日本の急激な工業化に伴い大量の労働者が必要となり受け入れた。大阪は大大阪となる。現在の生野区や東大阪市、八尾市あたりには、朝鮮半島から出稼ぎをした人間が大勢住む事となった。終戦直後には210万人程度居たと言われている。その多くが京阪神に住んでいた。現在も在日韓国・朝鮮人の人口は60万人程度居るが、今では在日二世・三世がほとんどで、中には帰化をして日本人になっているものも多く、その実態を掴むのは不可能だ。

鶴橋商店街を通っていつもは通らない反対の方向に行く。やがて大阪市生野区弥栄神社に出る。秋祭りの地車(ダンジリ)の手入れの最中であった。傍で子どもらが鐘と太鼓の練習をしていた(→「秋祭り」画像検索)。彌栄神社とはバス道ひとつ隔てて鎮座しているのが御幸森天神宮。仁徳天皇を主祭神とし、昔の東成郡猪飼野村の氏神、天皇崩御の後、この森に社殿を建立し、天皇の御神霊を奉祀して、御幸森と称したという。このバス道がかっては百済川だった。猪飼野は猪甘津と呼ばれ、 百済川には日本最初の橋が架けられたと言う。天神宮に沿って御幸通商店街がある。反対側に韓国式の立派な門、沖縄の守礼門と似かよっている。商店街は東西で3つの区画に分かれており、コリアタウン色が強いのが御幸通中央商店街。ほとんどの店舗がキムチ屋や肉屋、韓国料理店や屋台料理、民族衣装、それに韓国の音楽CDやDVDを売る店舗となっている。この商店街は大阪に永いこと住んでいるが初めて来た。
井原西鶴
西鶴は本名は平山藤五。大阪生まれ。貞門派の俳諧師としてはじめ鶴永と名乗る。『生玉万句』(1673)を契機に談林派に転じ、西鶴と号す。オランダ流と評された前衛精神で1日に2万3500句もの独吟(矢数俳諧)を成功させる一方、浮世草子の処女作『好色一代男』(1682)が評判をよんだこともあり、発展途上の大坂の出版界と並走して二十数編の浮世草子を手掛けた。好色や金銭という装置を通して巧みに世の人心を汲み上げる才能は抜群で、八文字屋本などの後続作に多大な影響を与えた。代表作は『好色五人女』『好色一代女』『本朝二十不孝』『日本永代蔵』『世間胸算用』などがある。
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□西鶴の墓は誓願寺にある。(大阪市中央区上本町西4-1-21)/1979年11月 桝井寿郎『井原西鶴』カラーブックス保育社


□井原西鶴像(大阪市天王寺区・生國魂神社)

末吉麦門冬の甥・佐渡山安治と文通で親交があった森銑三によると、西鶴作であることが明記されているのは『好色一代男』のみであること、また『一代男』とそれ以外の浮世草子の文体の違いなどから、西鶴自身が執筆したのは『一代男』ただ一作のみであり、他は監修であると唱えた。森説は近世文学研究者の間ではほとんど無視されており(後に中村幸彦らによって再評価されたが)、『新編 西鶴全集』(勉誠出版、2000-2007年)『決定版対訳西鶴全集』(明治書院、1992-2007年)でも採用されていない。(→ウィキペディア参照)、また、1910年、沖縄県立沖縄図書館開館にあたって麦門冬は『西鶴全集』『蜀山人全集』などを寄贈した。

□大田 南畝(1749年4月19日~ 1823年5月16日)は、天明期を代表する文人・狂歌師。漢詩文、洒落本、狂詩、狂歌などをよくし、膨大な量の随筆を残した。勘定所幕吏として支配勘定にまで上り詰めたが、一方、余技で狂歌集や洒落本などを著した。唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループを、山手連(四方側)と称した。名は覃(ふかし)。通称、直次郎、七左衛門。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園。狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚先生と称した。1801年(寛政13年)、大坂銅座に赴任し、大坂在住時から「蜀山人」の号を使い始めた。号の由来は、銅の異名を「蜀山居士」と言ったことから。大坂滞在中、物産学者・木村蒹葭堂や国学者・上田秋成らと交流する。(→ウィキペディア参照)



近松門左衛門
井原西鶴(浮世草子)、松尾芭蕉(俳諧)とともに元禄三大文豪として名高い浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門の墓は尼崎の広済寺(→HP)と、地下鉄谷町線「谷町6丁目」下車、谷町筋を南へ 谷町7丁目交差点南へすぐ、ガソリンスタンド手前の狭い道の奥にある。墓は、当初近くの法妙寺境内にあったが、同寺は大東市へ移転し、墓だけは現在地におかれ、押し込まれたようにして残っていた。1980年に整備が図られ、国の指定史跡となった。【広済寺】尼崎市にある日蓮宗の寺(ソテツもある)。957年(天徳1)多田満仲が妙見菩薩を勧請して創建したと伝え、のち荒廃。1714年(正徳四)日昌が堂宇を建立。近松門左衛門の墓がある。俗称、近松寺。(広辞苑第四版)帰途、浄土真宗本願寺派西正寺のソテツを見る。□→「HP・近松のまち・あまがさき」
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近松門左衛門は1653年(承応2年)の生まれで(出生地については諸説あり)、本名は杉森信盛、幼名は次郎吉といい、越前・吉江藩士杉森市左衛門信義の次男として誕生する、。元禄年間を中心として、貞享~享保と約40年間にわたり劇作家として活躍し、1724年(享保9年)に72歳で没した。

京都に移った近松は公家に仕え、その間、浄瑠璃の語り宇治嘉太夫と出会い、彼のもとで浄瑠璃作家の修行を始めます。天和3年(1683)、嘉太夫に書いた「世継曾我」が世評を得、嘉太夫の門下にあった竹本義太夫とも提携するようになりました。貞享元年(1684)、大坂に竹本座を創設した義太夫を祝って書いた「出世景清」を契機として、現実的、個性的描写による浄瑠璃の新生面を開き深化を遂げました。

元禄期後半の約10年間は、上方の名歌舞伎俳優坂田藤十郎との緊密な提携のもと、歌舞伎制作に主たる情熱を注ぎました。代表作として「傾城仏の原」があります。坂田藤十郎のために20数作の歌舞伎狂言を著している。「曽根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は今日に通ずる所も多く、伝統芸能や演劇、映画などの中で再創造され、たくさんの人に感動を与え続けている。

藤十郎が都万太夫座(京都)の座元を引退すると大坂に移住し、義太夫の竹本座専属となって浄瑠璃の創作に専念しました。元禄16年(1703)「曾根崎心中」で大当たりをとって以降、次々と傑作を生み出していきました。「曾根崎心中」については、麦門冬・末吉安恭が組踊談叢で「近松門左衛門が心中の『死ににゆく身をたとふればあだしが原の道の霜一足づつに消えてゆく・・・』まで書いて後をつづけ得ないで困っていると際、来訪した伊勢の俳人涼菟に助言を求めて、『夢の夢こそはかなけれ』とつけて貰った話と似て居る」と書いている。

□岩田涼菟
岩田涼菟(いわたりょうと)1659~1717 本名は岩田正致。通称は又二郎。初号は団友、のち団友斉、元禄十三年頃涼菟と改号した。後、神風館(じんぷうかん)をついでその三世を名乗る。本職は伊勢山の神職。俳諧は芭蕉門下、後世この軽妙な俳風を伊勢派と呼んだ。江戸の其角とは同門の親友。 著書に『皮籠摺』『山中集』『砂つばめ』などがある。享保二年(一七一七年)四月二十八日没。享年五十九歳 (→三重県ゆかりの俳人たち )