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沖縄県立図書館出品の「程順則肖像」が見える

1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」①

1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」、写真・ペルリ提督の首里城訪問のジオラマ
1月ー『琉球展覧会出品目録』□永見徳太郎ー琉球女日本男遊楽の図、琉球船競漕の図、琉球人行列/島田佳矢ー琉球木彫聯、琉球木彫額、琉球竹花生、琉球細麻衣(笠、片袖、秋夏模様)、新月型酒入、龍模様花瓶/銘苅正太郎ー東道盆
山村耕花ー麻紅格子衣裳、麻茶地縦格子衣裳、麻紺地蝶梅模様衣裳、麻紺地花笠模様衣裳、麻紺地茄子模様衣裳、麻薄藍地松梅紅葉模様衣裳、木綿薄藍地牡丹鳳凰模様衣裳、木綿白地ドジン、麻風呂敷(三ツ巴に一紋付柳にのし模様)、鼈甲 (廃藩以前婦人使用のもの)、蛇皮線(爪付)、琉球胡弓(弓付)/啓明会ー琉球風俗絵、唐船渡来図、古代紅型裂地(300余年前のもの)、焼物製作に関する証書、紅型型紙図案(15枚)、紅型型紙(11枚)、絣図案(16枚)、絣図案(19枚)、手拭図案(2枚)、墨すり紅型図案(5枚)、風呂敷図案集(2枚)、紅型衣裳(3枚)、古代面 能面(4面)・・・比嘉華山は唐船入港ノ図、尚順は「神猫の絵」、富名腰義珍は唐手軸物、唐手本、唐手写真貼、巻藁(板付)、木刀、十手、唐手術写真、六尺棒などを出品している。①杉浦非水は琉球壺(芳月窯・唐草彫)、琉球壺(南蛮模様彫)を出品。

①杉浦非水 すぎうら-ひすい 1876-1965 明治-昭和時代の図案家。
明治9年5月15日生まれ。グラフィックデザインの開拓者のひとり。地下鉄(昭和2年の開通時)や三越のポスター,たばこのパッケージなどを手がける。図案家の団体「七人社」を設立。昭和10年多摩帝国美術学校(現多摩美大)校長。30年芸術院恩賜賞。光風会会員。昭和40年8月18日死去。89歳。愛媛県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は朝武(つとむ)。(→コトバンク)/日本のデザイン史に燦然と輝くモダンポスターの傑作『三越呉服店 春の新柄陳列会』です。描いたのは、三越の図案部員として次々と傑作ポスターを世に送り出し、「三越の非水か、非水の三越か」と言われるほどの名声を得た近代グラフィックデザインの父・杉浦非水。日本で最初に商業美術という分野を切り拓き、多摩美術学校の初代校長兼図案科主任教授として日本にデザインを根付かせる為に生涯尽力した人物です。(→美の巨人たち)

ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」






1930年8月 改造社『日本地理大系・九州篇 沖縄県』

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 1931年3月に新光社から『日本地理風俗大系』の12巻・九州地方(上)が発刊された。守礼門がカラーで載っている。この本を1987年に安良城盛昭(大阪府立大学教授)氏が沖縄県立博物館に寄贈された。氏のものは父盛英が東京で教師をしていたとき購入したもので氏も愛読し親しんできたものであった。□1929年2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻(写真・守礼門)□伊東忠太「首里城守禮門ー殆ど支那式の三間は牌楼の型の様であるが、また支那式と大いに異なる点がある。その四本の柱を立てて之に控柱を添えた意匠は支那から暗示を得たのであるが、斗栱の取扱い方は寧ろ日本趣味である。中の間の上に当たって、屋根の上に更に一間の第二層の構架が加えられ、その軒下に守禮之邦と書かれた扁額が懸げられて居る。細部の手法は一體に甚だ自由であり、行く処として苦渋の跡を示さない。門の広さは中の間十一尺五寸、脇の間七尺六寸に過ぎぬ小規模のものであるが、悠然として迫らざる風貌強いて技巧を弄せざる態度は誠に平和の感を現すものである」







1933年7月 仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』

1934年4月17日『琉球新報』広告□那覇市東町 明視堂写真部ー佐和九郎『正則写真術』『密着と引伸』『現像の実際』『露出の秘訣』『整色写真の研究』『整色写真術』/三宅克巳『写真随筆 籠の中より』『写真のうつし方』『私の写真』『趣味の写真術』/高桑勝雄『フイルム写真術』『写真術五十講』『写真問答』/宇高久敬『写真の新技法』/霜田静志『写真の構図』/南實『原板の手入』/加藤直三郎『中級写真術』/石田喜一郎『プロモイル印画法』/小池晩人『山岳写真の研究』/金丸重嶺『新興写真の作り方』、金丸重嶺・鈴木八郎『商業写真術』/勝田康雄『人物写真のうつし方』/中島謙吉『芸術写真の知識』/吉川速男『写真術の第一歩』『小形カメラの第一歩』『図解写真術初歩』『私のライカ』『十六ミリの第一歩』/鈴木八郎『写真の失敗と其原因』『写真処方集』『整色写真のうつし方』『引伸の実際』/中戸川秀一『写真百科辞典』/寺岡徳二『印画修整の実際』/斎藤こう兒『撮影第一課』『引伸写真の作り方』『芸術写真の作り方』/額田敏『山岳写真のうつし方』/眞継不二夫『芸術写真作画の実際』『アマチュア写真の修整』/山崎悦三郎『修整の実際』/高山正隆『芸術写真入門』『ベストコダック写真術』/石動弘『小形活動フイルム現像法』

1934年5月5日『大阪朝日新聞 九州朝日』「外人の眼に映じた”ハブの國„ クルート女史の興味を晙る視察談」


1934年5月8日『琉球新報』?
4月、欧州経由でアメリカに帰途、来沖したミス・アン・クルート(大阪東淀川区ミード社会館)が新聞記者に「那覇の児童がスペイン語、英語を知っているのに驚いた、これは海外雄飛の諸産物で若い者がハワイ・ブラジルらに出稼ぎ、そこで生まれた子を故郷沖縄の学校に送り帰すためです」と答える。


1934年7月1日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄バラェティー移民の巻3 全世界に足を 移民群3万7千余 其送金高 何と380万円 糸満人の活動は世界の驚異」
1934年7月3日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄バラェティー唐手の巻4 唐手の応用 護身ダンス 御婦人の危急が立派に救へるナポレオンでさへも舌を巻く 今県外へ素晴らしい進出」
1934年7月4日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄バラェティー園芸作物の巻5 百万円目標に 園芸作物の移出計画」 
1934年9月23日『大阪朝日新聞 九州朝日』「郷土の誇り 琉球並木」

1935年1月23日『大阪朝日新聞 九州朝日』「猫の手も欲しい黒糖の製造期 沖縄農村の初春風景」(写真ー改良型圧搾機)
1935年3月8日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄の模範部落②小湾 古謝」
1935年4月20~24日 下村海南、飯島曼史来沖
□曼史「那覇市長室で進貢船帰国図の六双屏風を見る。百数十年前の琉球画家屋慶名政賀という人の筆で、那覇から首里へかけての鳥瞰図が描いてある。島袋源一郎君がこれを主題にして、進貢船のこと、冊封使のこと、琉球と支那と薩摩の関係など、微に入り細を穿ちて、立板に雨のような弁を揮う。この人、およそ琉球のこと、古今東西を貫き雅俗硬軟を通じて知らずということなし。僕は心ひそかに琉球雑学博士島袋圓斎先生の尊称を奉ることにした。圓斎はいうまでもなくエンサイクロペディアである。」

□海南「沖縄県の教育会に島袋源一郎という御方がある。四百頁の沖縄案内。四百二十頁の沖縄歴史。三百九十頁の国頭郡志の著者である。只著者というだけでない、その著作中の年号でも計数でも全部諳んじてる、まさしく沖縄の活字引である。之れ曼史君が圓斎なる称号を謹呈せる所以である。」「こうした蔡温はエライ人であるが、それらの数多い功績を事や細やかに知悉してる圓齋君が傍についてるのだからたまったものでない。この松並木は、この森林は、この道路は、この港湾は、この水利事業は、この部落の移転は、この何は、この何はと、オール蔡温デーという調子で、ノベツ幕無しに説明がつづく。そこで我ら同人圓齋の号のみを以てしては物足らず、あれは島袋でなくて合財袋だという。イヤそれでは小さすぎる、あれは信玄袋だという。すでに信玄袋とすれば圓齋というより百貨店という方が当ってるなどいうものもあり、結局島袋又の姓信玄袋、通称源一郎、圓齋と号し、又百貨亭主人ということに全員一致にて可決される。その後の道中にて大島に鹿児島に、いつも信玄袋の噂の出でざる日なし、圓齋君果たしてクシャミをつづけつつありしや否や聞まほしけれ、恐惶謹言。」「これだけの特殊の歴史を持つ都市にして郷土博物館の無きは遺憾千万である。幸いに那覇の教育会館には相当集められてある。この上ともあらゆる史料を散逸せぬよう、今の内に博物館の建設に急いでほしいと話した。幸いにもこの企てはかなり熟して、かの首里の北御殿を修理してこれに陳列の予定になってるということであった。」



海南「地名改称運動ー首里の講演にはいろいろの問題にふれたが地名改称にも及んだ。(略)かなり漢字の不規則に悩まされてるところへ、琉球へくるとそれが一層輪をかけてる。北谷は誰でもキタダニとよむ、それがチヤタンという。キタダニからキタタン、更にキヤタン、更にチヤタンとなったという。それならキタダニに戻るがよい。城はグスクという。御宿という字のよみから訛って来たのだという。どうしてもグスクとよみたければ、山城金城という代わりに山楠久金楠久とでも記すがよい。左なくばヤマシロ、カネシロと読むことにしたい。島袋圓齋翁の言によれば国頭はクニガミよりクンガン、更にクンヂヤンとなったのだから、大正8年からクニガミに戻したという。戻せるものならば皆戻すがよい。僕は只単なる理想論を振り廻してるのではない、僕の台湾在職中誰しも異論の無い好い事蹟を残したかといわれたら、それは地名の改称であった。地方自治制の実施と共に州郡街庄何百という地名を大部根こそぎ改めた。発音の上から打狗を高雄に、猛舺を萬崋に、噍吧眸を玉井と改めた。又土地の因縁より葫蘆墩は高砂米の本場だから豊原と、牛罵頭はよい水が湧くから清水というふうに改めた。こうしたことは地名だけではない。人名にもありたい。琉球だけではない、北海道でも屡口にし筆にした。それは内地の凡てにも望ましい。」   
□飯島幡司 いいじま-まんじ
1888-1987 大正-昭和時代の経営者。
明治21年5月12日生まれ。神戸高商教授をへて大阪鉄工所(現日立造船)専務。昭和7年朝日新聞にはいり論説委員となり,のち朝日放送の社長,会長。カトリック教徒として日伊親善につくした。昭和62年1月11日死去。98歳。大阪出身。東京高商(現一橋大)卒。筆名は曼史。著作に「キリスト教の社会観」など。(→コトバンク)
下村海南 1875-1957 大正-昭和時代のジャーナリスト,政治家。
明治8年5月11日生まれ。下村房次郎の長男。台湾総督府民政長官などをへて,大正10年大阪朝日新聞社に入社,のち副社長。昭和12年貴族院議員。18年日本放送協会会長。20年鈴木貫太郎内閣の国務相兼情報局総裁となり,終戦処理にあたった。歌人としても知られた。昭和32年12月9日死去。82歳。和歌山県出身。東京帝大卒。本名は宏。著作に「終戦秘史」など。(→コトバンク)



1935年6月21日『大阪朝日新聞 九州朝日』「琉球商人の海外雄飛 那覇市の県立図書館で 文献”歴代寶案„発見さる」
1935年7月11日『大阪朝日新聞 九州朝日』「ブラジルの制限を尻目に新天地へ飛躍 南洋ペルー渡航は激増す さすが移民県”沖縄„」

1935年7月13日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(1)裸一貫、度胸の塊り 海底に”ふか„と闘ふ 果敢無雙・琉球の糸満漁夫」
1935年7月14日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(2)転覆するが、浮く 遠洋を”歩く„舟 原始的らしくてまさに流線型 糸満名物の”刳舟„」
1935年7月15日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(3)透きとほる深海に 裸人群像の活躍 謎! 息もつかぬ追込み漁法 泡は悲壮のS O S」
1935年7月16日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(4)女権の町・糸満の珍景 夫婦が濱で取引 亭主の漁獲を女房が買取る 露呈する個人主義経済」
1935年7月17日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(5)荒海稼業の大声 舟唄も奪はれて 衣類を食べる危険線上の勇士 よく稼ぐ女性群」
1935年7月18日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(6)糸満第二世達は 武勇伝の持ち主 我子に腰縄うって海に落す 峻烈な”獅子„」
1935年7月19日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(7)碧眼漁夫が驚いた ”魚„か”人間„か ”一潜り百両„の沖縄漁夫 海外制覇の朗話」
1935年7月20日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(8)深夜の共同耕作に 娘達は松明係り 蘇鉄地獄の汚名そそぐ”古謝„ ユートピア建設へ邁進」
1935年7月21日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(9)女護ケ島に残る 奇習”貞操試験„ めづらしい共有地割 牛馬も犬もゐない 仙境・久高島」
1935年7月22日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(10)人間群と巨獣群が 海上の大闘争 忽ち下る全町総動員令!? 名護湾の海豚狩」
1935年7月31日『大阪朝日新聞 九州朝日』「暴力団検挙続く すでに二百二十名に上る 那覇署の大活動」




1935年10月ー上原永盛『沖縄県人物風景写真大観』

上原永盛(1904年12月23日~1974年1月30日)
1922年、沖縄県立水産学校を卒業した上原永盛は1923年、大阪で労働総同盟予備軍倶楽部に参加。翌24年、20歳で関西沖縄県人会運動に参加、北大阪支部長として活動した。翌年に上原は上京して京浜沖縄学生会結成に委員として参加。26年に東京本郷で「出版新聞社」を経営。日本大学の後輩・兼島兼福も参加、傍ら京浜沖縄県学生会機関誌『南島』も編集発行する。その出版新聞社に与座弘晴も参加、5年在社。1930年に独立し「読書新聞」を創刊する。

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写真ー上原永盛

1932年9月
永盛館出版部(上原永盛)ー東京市麹町区飯田町5ノ35/永盛館書店ー沖縄県那覇市東町4ノ32『琉球レコード民謡集』第1編
□御前風、上り口説、踊りかなよう節、祝節、やきなくふわでーさ節、尾類小風、大願口説、鳩間節、金細工節、伊集早作田節、かでーく節、島尻千鳥節、白保節、本部手間當節、宮古ねー節、たんちゃ節、仲里節、島尻天川、久米阿嘉節、古典劇「手水の縁」、九年母木節、七尺節、さーさ節、むんじゅる節、芋ぬ葉節、喜歌劇「まるみ加那」、千瀬節、伊佐へいよー節、情どや節(宮古ぬー)、月の夜節、伊野波節、しゆらい節、なんだき節、恩納節、謝敷節、四季口説、仲風節、すーりすーらい節、でんさー節、すーらしてー節、稲まづむ節、桃売りあん小節、恋の花節、大兼久節、子守節、述懐節、宮古のあやご、散山節、千鳥節、仲間節、瓦屋節、しょんがねー節
亀鶴踊節(長者大主)ー金武節、早作田節、前の濱節、黒島節、そんぱれ節。
歌劇「百名節」ー茶売節、かまやしなー節、百名節。
松竹梅踊節ー揚作田節、夜雨節、浮島節、東り里節、赤田尾類小風節。
八重山親あんまー 落語、小濱節、しょんがね節。
喜歌劇「尾類馬行列」、花売の縁ー仲間節、金武節、大浦節、大願節、荻堂口説、早作田節、伊計離節、揚七尺節、せんする節、千瀬節、立雲節。
手水の縁ー池道節、通水節、早作田節、仲順節、金武節、千瀬節、仲風節、述懐節、散山節、七尺節、子持節、東江節、立雲節。
辺野喜節、芋ぬ葉節、口説はやし節、御座楽、カギヤデ節、遊ビションガナイ節。
忠孝婦人ーこてい節、大浦節、せんする節。
古典劇「兄弟敵討」-大城こえにゃ節、うりづみごえにゃ節、やらし節、だんじょかり節。喜歌劇「願文」。歌劇「碁打口説」-武富節、中作田節、今帰仁あつちゃ前節、たこうやま節、濱千鳥節、平屋座節、今年前田節、小濱節、八重山しょんがない節。
親あんまー節ー西門節小、髯小そり節、移民行進曲


1934年5月
永盛館書店出版部(上原永盛)/東京市麹町区飯田町2丁目4番地ノ5『琉球レコード民謡集』第2編
□早作田節かきた歌、早作田節、綱引歌、やきなくゎでーさ節、安里節、だんこ節、儀保引節、やーまに、もちつき歌、あん小節、八重山民謡とばるまー節、取りたる金は節、八重山民謡久場山越地節、川良山節、目出度節、鷲の鳥節、大島やんごう節、宮古民謡久場山くいち節、仲里節、八重山民謡安里屋節、端唄さいさい節、久米島はんた前節、宮古民謡子守唄、高那節、文言感違文言、宮古民謡根間ぬ節、宮古節踊あやぐ節、歌劇汀間當節、いりさすね節、宮古ねー節、八重山民謡小濱節、喜劇情の歌、喜劇狂言雑歌笑劇、八重山民謡みるく節、喜歌劇仲直り三良小節、久高まんじゅう節、豆とうま節、国頭さばくい節、喜劇塩屋のぱーぱ、下、歌劇泊あーかー、伊佐へいよー節合奏、口説、中風節、かれき節合奏

伊集のがまく小節、仲順流、茶売節、阿嘉琉歌、返歌、歌劇奥山の牡丹、宮古節合奏、流歌、謝敷節合奏、歌劇九年母木節、恋花節、里前とよー節、道歌、歌劇踊男女組節、伊計離節、加那よー節、歌劇馬山川節、伊佐へいよー節、早作田節、くんぬ節、馬山川節、白保節、歌劇あば小へい節、鶴亀踊節、黒島節、そんばれー節、歌劇踊薬師堂百名節、宮古節、遊びしょんがない節、歌劇波上劇早作田節、川平節、今三人節、遊子持節、よいよい父子、四季口説、宮古民謡改良しょんがない節、とーがね節、せんする節、琉球民謡国頭さばくい節、八重山民謡越地節、御物奉行節、取納奉行節、八重山民謡鳩間節、琉球音楽下述懐節、宮古民謡多良間しょんがない節、前の濱節、与那原節、阪原口説、久米阿嘉節、二上り川平節、南嶽節、御前風

恩納節、こてい節、上り口説、踊くふわでーさ節、花風節、むんじゅる節、芋ぬ葉節、踊天川節、百姓口説、瓦屋節、しょんかない節、踊松竹梅、揚作田節、東里節、赤田尾類小風節、夜雨節、浮島節、泊高橋節、崎山節、大島朝花節、三村踊節、今帰仁あつちゃ前小節、祝ひ節、四ツ竹節、越来節、はとま間節

1935年10月 下村宏・飯島幡司『南遊紀』朝日新聞社