□又吉栄義
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1951年5月16日未明、又吉栄義、大阪市大正区泉尾浜通り4丁目42番地で急逝(享年67歳)

1952年9月21日『球陽新報』「20日、21日に境川の大交会館で琉球芸能鑑賞会、東京の児玉清子らが仲里節、布晒し、もうあしび、伊野波節、作田節、関西芸能会の又吉秀子が諸屯、沖縄芸能保存会関西本部が三味線・琴」


〇2007年9月 東京・沖縄芸能保存会 編『躍 うどぅいー児玉清子と沖縄芸能』新星出版


1953年6月11日『球陽新報』「東京日本橋芳町に開店挨拶ー琉球料亭なは・上江州文子」

1953年12月21日『球陽新報』「大阪市梅田桜橋の琉球料理屋・ゆんたで沖縄民芸品展示会」

1954年2月21日『球陽新報』「芸能保存会関西本部役員ー顧問・豊川忠進、山川宗信、下地玄信、幸地長堅、翁長良孝、宮城清市/相談役・又吉嘉昭、宮平守松/会長・宮里政男/副会長・金城徳次郎、比嘉良助、外間宏裕/監査・宮城政栄、具志堅興盛、西銘春雄/書記・永山盛保」
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1955年1月21日『球陽新報』「摩文仁賢栄氏、東区北久太郎町に糸東流新道場開き」

1955年4月1日『球陽新報』「新川嘉徳氏の公演会」

1955年4月21日『球陽新報』「明治座上演・矢田彌八作・琉球の簪」連載

1955年10月21日『球陽新報』「親泊興照氏、大阪でも沖縄舞踊をひろめる」

1969年1月『沖縄の芸能』邦楽と舞踊社□3、流派と現状 
仲井真元楷「現地における」
石野朝季「本土におけるー『沖縄の伝統芸能は、日本本土で命脈を保っている芸能家の手で保存しないかぎり消えてゆくしかない。さいわい鹿児島には舞踊界の渡嘉敷守良、熊本には野村流音楽の池宮喜輝両師匠(共に故人)が疎開で健在であり、二人を東京に招いて弟子を養成、沖縄に再び平和が甦えるときまで、郷土にかわって伝統保存の担い手になろう』と、1947年春、東京沖縄芸能保存会が伊江朝助、比嘉良篤、戦前沖縄で新聞経営、安富祖流音楽の有数な弾き手でもあった武元朝朗(1953年10月6日没)らの手で結成された。結成翌年の1948年11月には、有楽町の読売ホールで第一回公演。」

1972年2月『青い海』』№10<復帰不安の沖縄>□「優れた沖縄を語りたいのですー若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」、嘉手川重喜「沖縄の歌劇(4)辺土名ハンドーグヮー」


1972年3月 『青い海』春季号 「青い海芸能ー情熱と美の琉舞を大阪の地に  金城康子」
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那覇大綱引きで子息の衣装を整える金城康子さん

1974年6月『青い海』№33<本土の中の沖縄>□霜多正次「ウチナーとヤマトゥ」、津嘉山政栄「大阪・教育の現場から」、高良重一「夜間中学の中の沖縄」、山城昌成「第二の故郷、和歌山で」、金城朝夫「沖縄の東京難民」「大阪沖縄会館ー盛大に竣工祝賀会」「沖縄青年 山口重光君を支援する全国連絡会議ー平尾町46末広荘・山城三郎」「本土在県人会・公共団体・企業一覧」

1975年12月『青い海』№48<沖縄の芸能ー舞踊と音楽>□宮城能造「よもやま芸談」、関西版『仲村米子舞踊研究所第一回発表会、松葉舞踊研究所が五周年記念公演、川田琉球舞踊団として初の関西公演、儀間比呂志新作版画展開かれる」、仲村喬次「武下和平ー島人の心意気を唄う(略)初心が忘れられていくのはテレビの流行歌手たちを見るまでもない。人の心を打たなくなった民謡は、もはや(しまうた)の生命を絶ったもひとしい。」、知念正光(琉装史研究者)「ルポ・東京周辺の沖縄芸能」、崎山任「三味線音楽とアカインコの業績」、「渡嘉敷守良・ある俳優の記録ー芸談、組踊の型」、伊礼正栄「関西の中の沖縄芸能ー悲愴な使命感で、”失われた沖縄”にかわって、ふるさとの伝統と文化を守ろうとした本土の県人たち」

1976年8月『青い海』№55<奄美の民話と伝説を訪ねて>□となきあきら「喜劇の王様・小那覇舞天を偲ぶ」「郷友会めぐり・その2 大阪羽地郷友会」「東京、神奈川で第二回エイサーの夕べーゆうなの会が企画挙行」「大阪の松葉舞踊研究所の大城奈津子ちゃん(小1)と我喜屋みゆきちゃん(中1)が琉球新報主催・第12回琉舞子ども大会で受賞」


1981年12月 沖縄の雑誌『青い海』1月号 上原直彦「昭和にフクバル節あり」
1994年1月 『脈』第48号「普久原朝喜 特集」/1993年10月 『普久原朝喜顕彰碑建立記念誌チコンキーふくばる』同実行委員会(中根章)


1982年6月ー沖縄県人会兵庫県本部(編集委員長・上江洲久)『ここに榕樹ありー沖縄県人会兵庫県本部35年史』□元『青い海』編集長の津野創一が執筆、津野さんは後に県人会機関紙『榕樹』の編集にも携わる。私(新城栄徳)も資料収集に協力した。
□第五回勧業博覧会といえば、沖縄にとっては忘れることのできない人類館事件に結びつく。のちのちの久志芙沙子の筆禍事件や、解放教育読本『にんげん』問題にもつながる。
□1945年11月3日ー尼崎沖縄人連盟結成大会が尼崎中学校で開かれる。会長・大城盛通、副会長・大山朝繁、砂川恵哲、幹事長・赤嶺嘉栄
□兵庫の中の沖縄芸能ー出稼ぎ労働者の中に、琉球民謡界の大御所的存在だった普久原朝喜もいた。いま、関西には古典音楽で野村流古典音楽保存会関西支部と野村流音楽協会関西支部がある。いずれも又吉嘉昭、又吉栄義の指導と努力によるものであり、歴史も古い。民謡の方では琉球民謡協会関西本部がある。(略)県人会活動と文化運動が新たな接点をつくり出していく時期に来たようである。

1985年2月『青い海』№140<21世紀への要石・国際センター>□「新刊案内ー『沖縄の遊廓ー新聞資料集成』、『文人・末吉麦門冬』」



大城豊子師匠
1997年10月 大正区役所ホール「雅びの舞い/八重山民謡・沖縄民謡の集い」大城豊子琉舞研究所
2000年3月12日ーアゼリア大正ホール「第七回 琉球古典舞踊の夕べ」(主催・大城豊子琉舞研究所)

 

伊良波尹吉
2000年7月9日『琉球新報』新城栄徳(書評)ー新里堅進『奥山の牡丹』与那原町教育委員会/私と芝居との付き合いは粟国島で生まれた時からで、私の実家の近隣は首里士族の末裔だと称し集まり実家の隣に「首里福原」という集会所を造った。そこでは毎年旧正月に村芝居が上演され、私の父(新城三郎)も一度だけ「金細工」のモーサー役と二才踊りで出演、母方の伯父(玉寄貞夫)は「伊江島ハンドーグヮー」のカナーヒー役で二度も出演したと当時の記録にある。私の9歳のときには伯父が照屋林助、嘉手苅林昌を粟国に連れてきて民謡ショーを開いたという。

私は家族と11歳のとき、那覇に移り住んだ。那覇劇場、テレビの郷土劇場、沖映演劇と沖縄芝居や舞踊、特に歌劇をよく見るようになった。その間には伊良波冴子の歌劇「泊阿嘉」での思鶴役の美声は歌劇の世界を十分に楽しませてもらった。その兄の伊良波晃は一度だけ沖映近くの銭湯で一緒になった。本書の主人公の伊良波尹吉の息子と娘である。1979年3月、私たち親子は大阪御堂会館で青い海出版社主催の歌劇「伊江島ハンドーグヮー」を見た。ハンドーグヮー役は兼城道子、マチグヮーに伊良波冴子、カナーヒーに伊良波晃、船頭主に真喜志康忠、村頭が大宜見小太郎であった。

前出の歌劇と我如古弥栄作「泊阿嘉」と、尹吉作「奥山の牡丹」「薬師堂」は沖縄の四大歌劇として燦然と輝いている。人生には光があれば影もある。特に芸能はさまざまなヒダがある情念の世界で倫理だけでは捕えにくい文学・芸術と共通するものがある。本書は尹吉の沖縄に生まれたがゆえに歩んだ光と影の人生を鬼才・新里堅進を得て見事に描ききっており、中でも日本帝国の超国家主義への歩みから沖縄戦へのさりげない描写は新里でなくては描けぬものである。

本書は文字通りに与那原が生んだ「沖縄歌劇の巨星・伊良波尹吉物語」で、尹吉の足跡と沖縄演劇界の動きを網羅した詳細な年表、変遷図、関係者の証言とともに21世紀沖縄への贈り物である。
私は「むんじゅる節歌碑建立期成会」で碑文検討委員、記念誌編集委員を担当した。沖縄芸能研究家の宜保栄治郎氏、當間一郎氏、仲宗根幸市氏に原稿を依頼、記念誌に華を添えてもらった。無論、私もコラムを書いた。

2002年5月19日ー大阪厚生年金会館大ホール「沖縄本土復帰三十周年記念・大芸能祭」(主催・大阪沖縄県人会連合会)



2003年10月18日『沖縄タイムス』新城栄徳(書評)宮城正雄『舞台ー関西沖縄芸能とのふれあい』」
 ○ご存知の方も多いと思われるが、関西を代表する県人会に「沖縄県人会兵庫県本部」がある。その機関紙『榕樹』に連載した「関西沖縄芸能とのふれあいー私のかかわった芸能公演メモ」をまとめたのが本書である。私は連載中から機関紙担当の永峰眞名さんに「本になったら貴重な資料になる」と言ったことがある。最近、本書が郵送されてきた。

著者の宮城正雄氏は石川市出身で戦後、すぐ県人会運動に参加、兵庫県本部の経営する「うるま保育園」に労務管理能力を買われて園長。県人会の支部長、兵庫県本部の会長を歴任し、傍ら沖縄芸能公演の演出、舞台監督を務めたことが本書を生んだ。掲載した119件の沖縄芸能公演のうち113件が直接にかかわったものというから驚く。
著者の盟友・諸喜田達雄氏(大阪沖縄県人会連合会会長)は序文で「古里を遠く離れ、住みなれない都会生活を営む沖縄県人の上には、大きな壁がありました。(略)職業のちがい貧富の差を越えて郷土を愛する同志が集まり、お互いに同胞意識を高めてきました。連帯感を深めて行くテレパシーの電流が通じ、今日では世界に類のない沖縄芸能が関西の地にも根強く発展・継承されて来ました」と記し著者の功績を称えている。
木津川が見える京都の飯岡に沖縄のエイサーの元祖とされる袋中上人の墓があり京都三条大橋のたもとには上人が開山した檀王法林寺がある。今でも県人が多い大阪の木津川周辺はヤマトとの芸能交流もした「江戸上り」の通路であった。廃藩置県後、1893年に沖縄の俳優、囃子方で構成する琉球芸能が大阪角座、京都祇園座、名古屋千歳座で公演された。これがきっかけで1919年、京都の「都踊」で琉球の太鼓踊りが人気となった。
県人の側では音楽家・又吉栄義、普久原朝喜、興業の金城南邦、大宜見小太郎らが戦前の関西芸能界で活躍した。本書を基にヤマト、世界との芸能交流史にまで発展することを期待したい。



諸喜田達雄大阪沖縄県人会連合会会長/喜納兼一沖縄県人会兵庫本部会長
2003年11月16日 尼崎アルカイック大ホール「野村流古典音楽保存会創立30周年記念公演」

2004年10月24日ー守口市市民会館「八重山ふるさと芸能祭」(主催・近畿八重山郷友会)

2006年5月14日ー高槻現代劇場大ホール「うりずんの風に舞う」(東京・沖縄芸能保存会・児玉ひろ子琉球舞踊研究所)
 
2008年11月30日ー尼崎アルカイックホール「野村流古典音楽保存会関西支部創立35周年記念公演」
西原の琉球大学の学部校舎の玄関で城間繁教授とよく立ち話をする機会があった。知り合ったきっかけは忘れたが、琉球芸能や工芸にも造詣がふかいことを後に知る。1989年暮れ、沖縄文芸史年表作成のため金武良章翁を訪ね尚球について聞いたことがある。若夏社から1983年に出た金武良章『御冠船夜話』は古波蔵保好、城間繁、米城恵が翁に聞き書きしたもの、私は持参して翁に署名をしてもらった。ついでに弟子の城間繁氏についての近況を聞くと「あれは実に哀れなむん」と首里ぐちで絶句された。翁と態度で城間氏が療養中で悲惨な状況に置かれていることはすぐに分かった。『御冠船夜話』によると沖縄芝居は、首里王府からいただいていた家禄を離れてから芝居小屋での興行をはじめた沖縄芝居の初代の役者たちは、それまでに自分たちが習い覚えた組踊を主に「御冠船」風の芸能を演じて生計を立てていたけれど見物人の入りをよくする必要から、舞台で演じるものに新しい趣向を加えた。いわゆる沖縄芝居ができ歌劇が登場する。同時に世代交替となった。
2009年10月9日、みどり印刷(〒903-0823 那覇市首里大中町1-36 ☎FAX098-884-3702)の石川和男氏を訪ねると、「琉球舞踊阿波連本流関東啓扇会・阿波連とも子琉舞研究所」の新教師免状披露公演のポスターとチラシがあった。みどり印刷で印刷したものだ。沖縄の人が多い川崎市の琉舞公演のポスターを古都・首里、つまり本場で印刷するというのは理にかなっている。新教師の當山薫と米須さやかの披露公演は今年の12月13日(日)の午後1時30分よりJR川崎駅近くの川崎能楽堂で行われる。問い合わせ・予約は090-2646-0256(阿波連)・044-233-2556(米須)まで。
2014年2月 2009年10月14日の琉球新報を見る永峰眞名通信員が兵庫県立歴史博物館で10日から特別展「国宝沖縄・琉球王国の美」が始まったことを紹介している。10日午後には那覇市歴史博物館の志村絵里奈学芸員が「琉球王国尚家関係資料と伝来衣装について」と題し講演した。志村さんは琉球舞踊を阿波連本流啓扇会の阿波連ミネ子師匠に学び、姉とともに西原町で「仲嶺麗子・絵里奈琉舞研究所」(☎098-946-1269)を開いている。


2014年2月26日 『沖縄タイムス』謝花直美「尼崎ぬ琉歌ー沖縄人の経験 宮城正雄さん」   

2016年4月3日 人形劇団かじまやぁ「なにわ人形芝居フェスティバル」にチョンダラーで参加
かじまやぁ美術館情報 ここをクリック「http://kuwa.ti-da.net/


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