松山伝十郎(1866年10月~1935年2月7日)
1889年11月ー松山傳十郎『琉球浄瑠璃』いろは家


松山傳十郎 資料
□1937年10月 『書物展望』石井研堂「琉球浄瑠璃ー前号の、『琉球もの雑本』の記事につれて思い出した[琉球浄瑠璃]の一本を紹介する。[琉球浄瑠璃」は、友人松山いろは氏の著作で、明治22年の発行、四六版92頁、山田美妙序、市川團洲題詞、獨幹放史(大森惟中)跋、その凡例に、『琉球國に、組躍と名づくる歌舞伎狂言あり、其の種類三百以上に達す。而して、其の最著名なるもの五つあり、村原と云ひ、八重瀬と云ひ、忠心身代巻と云ひ、姉妹讐討と云ひ、久志の若按司と云ふ、本書は、則此五大書の一なる久志の若按司を評釈せしものなり』とあり、内容から言えばただ[琉球浄瑠璃」ではなく評釈の二字を冠するのが妥当なようだ。・・・」

1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。

□琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一が父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

1893(明治26)年ー大阪道頓堀角座で琉球太鼓踊り
□1893年7月『歌舞伎新報』「琉球芝居ー沖縄県琉球には昔より音楽師と称えて一種の歌舞を演奏するもの士族の間に伝えられ居たるところ去る明治22年中いづれも俳優の鑑札を受けて我が役者の如きものとなり其の組5組もあるよしにてこのたび其の一組が大阪角の芝居へ乗り込むことに決定し既に去る2日を以って那覇港を解覧し本日ごろは遅くも到着したる手筈なるがー」

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「琉球国演劇」の横断幕があるのが角座。下が角座で配られたもの nullnull
□沖縄芝居ー明治26年に大阪・京都・名古屋で公演
1991年1月、池宮正治琉大教授と電話での話で大阪の新聞で沖縄関係を調べているとの話をすると、それなら芸能、特に渡嘉敷守良の芝居も心がけて見てくれと示唆された。それで見当をつけて中之島図書館で大阪朝日新聞、大阪毎日新聞を、京都府総合資料館で日出新聞、名古屋では扶桑新聞をめくると次々と沖縄芝居の記事が出てきた。国会図書館にも行き雑誌も見た。

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1991年3月23日『沖縄タイムス』「沖縄芝居・明治26年に本土初公演」
私は学者でもないので、紀要代わりに同年3月の沖縄タイムスに「沖縄芝居ー明治26年に本土初公演」を発表した。池宮教授は琉球新報に「沖縄芝居参上ー明治26年/京阪・名古屋公演」を書き92年12月発行の『新琉球史』に収録された。沖縄芝居の大阪公演で販売した『琉球踊狂言』は三重新聞社(津市大門町56番屋敷)から出ている。話は例の如く横道に逸れるが津市から南の方へ行くと玉城町がある。『朝日新聞』を大新聞に育て上げた村山龍平の生まれたところである。後に龍平が亡くなり、村山家は莫大な相続税問題が持ち上がる。それを解決したのが宮古島出身の下地玄信。下地は一軒の豪邸と高級車が贈られた。


□1894年11月15日『日出新聞』「大温習会の下温習ー祇園座の琉球芝居の役者から習った琉球舞を入れー」(太鼓踊り)→1919年3月13日『日出新聞』に記念写真あり。

1900年3月13日『琉球新報』垣花山人□「矯風会の演劇を見るー(略)その幕の長きは夜の長きより長く欠伸数回これを会員に尋ぬるに道具すなわち飾り付けその他都て演題に付添う座敷なり庭園なりの趣きを飾り付ける是を道具方と言う。その幕に従って刀剣なり烟艸入なり下駄なり掛物なり都て携帯品を調度する者を小道具方と言う。矯風会員は此の二役を兼ね演芸をなるには只驚くの外なし故に幕の長引くは当然・・・・・・・」

1902年3月 上の芝居で東洋活動写真會「北清事件、米西戦争実記 その他」上映
1902年4月 上の芝居で「活動大写真會」


1903年3月ー「学術人類館」開館
□伊佐眞一〇過ぎ去った歴史上の事蹟や問題は、それらが過去の時点で完結することなく、つねに現在のありようとの因果関係において考察されていく。使い古されたフレーズでいえば、琉球・沖縄史は伊波にとってたえず現代史との往復作用の対象になったわけである。(略)大阪朝日新聞がはしなくも本音を正直に吐露して報じた人類館陳列の記事ー「内地に近き異人種」との文言を伊波が目にしたかどうかはわからぬが、そうしたヤマトに広く流通する沖縄観は、彼の頭からかたときも離れることはなかった。」
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1903年の大阪ー天王寺・第五回内国勧業博覧会会場付近
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第五回内国勧業博覧会会場
□1903年3月ー山本桃洲(朝日新聞記者)『第五回内国勧業博覧会場内案内記』駸々堂「大阪の西田正俊氏が設置された人類館」
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1903年の大阪ー梅田・中之島付近
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1903年の大阪ー大正区付近

1906年3月『琉球新報』



1906年4月『琉球新報』
      6月 上の芝居・球陽座で「紺屋之染經」上演

1906年4月 上の芝居・球陽座渡嘉敷一派「都踊旭乃影」上演/下の芝居・沖縄座「黒金座主の魔術と北谷王子の傳話」上演


1907年6月 『琉球新報』「尚家会計課ー最新式活動写真売却広告」□浜離宮ニ於ケル東郷大将「ムーア」中将歓迎会実況/宮島の絶景/アルプス山デ汽車ニテ通行中の絶景/日光の建物及瀧/岩崎邸ニ於ケル聨合艦隊歓迎園遊会ノ実況/近衛師団ノ仮装行列/トランプノ奇術/芸者ト鳩・・・

1907年9月 下の芝居・沖縄座で「京阿波根由来記」上演/球陽座で「大新城忠勇噺」上演


1911年11月『琉球新報』□「蔡氏九世忠義録ー尚豊王御即位マデ七場ニ仕組ミ大道具仕掛ニテ開演可仕候ー」


1912年5月『沖縄毎日新聞』「中座 琉球史劇 楚辺暗川ー琉球音楽ノ祖先 赤犬子」


1912年5月20日『琉球新報』

1913年4月25日~11月22日『大阪毎日新聞』菊池幽芳「百合子」


1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。

1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。


1913年10月15日ー那覇の香靄座、大阪杉本商会特約で活動写真常設館「パリー館」開設


パリー館「アルジェリア カンタラの風景」



1914年3月1日ー那覇区字東仲毛で「常設活動写真帝国館」開館

1914年3月 那覇の常設活動写真帝国館で「百合子」上映


1914年4月 「米国海軍水雷演習」


1914年6月『琉球新報』



1914年10月『琉球新報』


1916年6月16日『琉球新報』

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1919年ー京都都踊りで琉球太鼓踊りー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り
□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」



1923年9月1日 関東大震災
この年 普久原朝喜、来阪

1924年2月 関西沖縄県人会結成
1926年10月 沖縄県大阪物産斡旋所設置
1927年3月 宮城清市、来阪
1929年4月4日 照屋林助、大阪で生まれる

1935年5月 大正区沖縄県人会結成(宮城清市会長)
この頃、嘉手苅林昌来阪
1935年8月 『関西沖縄興信名鑑』刊
1937年 大里喜誠、彦根高等商業学校(現滋賀大学)卒業
1937年7月25日 『大阪球陽新報』創刊/8月 親泊康永、大阪球陽新報東京支局長
この頃 知名定繁、来阪し普久原朝喜に民謡、又吉栄義に古典音楽を学ぶ
1938年3月 大阪球陽新報主催「書画展覧会」都島幼稚園。山城正忠来阪
1939年5月30日 大阪港区市岡会館で沖縄生活更新協会大阪後援会結成。会長・豊川忠進、幹事・眞栄田勝朗、宮城清市、金城清英、浦崎康慶、上間義夫
1939年10月15日『大阪球陽新報』「3月21日午後6時開演ー戎座(福島3丁目)平良良勝一座美好座ー貞女と孝子、道輪口説、鳩間節、もどり駕、ハンドー小」

1939年12月1日『大阪球陽新報』「14日・市岡会館で本社主催ー演劇と舞踊の夕ー組踊・執心鐘入」

1940年2月1日『大阪球陽新報』「2月10日より戎座ー戎座扇子家玉四郎一座・伊集、野村、良順、蘭繁合同ー日支風雲録、八重山アカハチ、上リ口説、花風、仲里節、鳩間節、下リ口説、萬歳、下千鳥節、いりしな節、天川、戻リ駕、その他数番」

1940年3月1日『大阪球陽新報』「2月15日から梅田映画劇場で日劇ダンシング・チームによる”楽しき日劇”上演、琉球おどり」

1940年4月1日『大阪球陽新報』「伊波南哲原作・八重山レビウ、3月に横浜宝塚劇場で上演、4月1日から20日間丸の内日本劇場で上演」

1940年6月1日『大阪球陽新報』「戎座の陣容強化ー5月1日旗上興行以来、比嘉正義、多嘉良朝成・カナ子夫妻、我如古彌栄・やす子親子等16名の一座」

1940年10月15日『大阪球陽新報』緑葉生「日劇に於ける新垣澄子の踊り」「24日・西区岡島会館ー関西球陽会後援ー島晴美舞踊公演ー琉球民謡に新しく振付けした花笠踊、美しき風景、ふるさとの唄3種は鳩間節、ションガネ、瓦屋節、浜千鳥節を取材新作したもの」「戎座の郷土芝居に仲井間盛良加入」

1940年11月8日『沖縄日報』

1941年5月7日ー舞踊家・玉城節子、那覇辻町で生まれる。3ヶ月目に父・友盛の仕事で大阪へ。(1946年、帰沖し石川市に住む)