1971年1月 新垣恒篤『新編風土記ー首里城(周辺)』花城清用〇多和田真淳「序文」/稲福盛武「祝 発刊について」
〇虎頭山ー西森から東に続く連峰を、虎頭山と呼称している。虎頭と云う名称は、古老の話に依れば、石虎山(東部)に有る大岩は虎の頭に似ているから、其の名が生まれたと云う事で、又虎峰とも呼称している。其の虎峰山の北方には石虎山天慶院が有ったらしい。古図には為仙とあるから隠居寺であったと思うのであります。私等(恒篤)は小学時代に毎年先生と共に、此の虎頭山に、西森に又は弁の嶽にと遠足したものである。其の当時は松の大木が繁茂して、到る処涼しい風がそよぎ、松の下で「カーサ弁当」を食べる事が、一番楽しみとしたものであります。又先生が昔の琉歌を説明した事を、記憶に思い起こす事が有りますから紹介しましょう。
琉歌(虎頭山)-1、虎頭、松やまぬ 松ぬ葉の数に かきて、願やびら 首里ぬう果報
        2、虎頭やま出ぢる 秋の夜のお月 曇り無ん御代の かがみさらみ
2の歌は、虎頭山は旧7月迄は御月様は、東の弁の嶽から十五夜に鏡の如く揚がるのであるが、旧の八月十五夜に揚がる御月は平和な、即ち曇りも無く、東の虎頭山の方から、鏡の如く拝まれるとの意なり


新垣恒政 大正六年1917 醫院 臺南醫院 醫官補
新垣恒政 大正七年1918 醫院 臺南醫院 醫官補
新垣恒政 大正八年1919 醫院 臺北醫院 醫官補→「台湾総督府職員録系統」


新垣恒政宛の手紙と、新垣恒政『医療宣撫行』東亜公論社 昭和15

新垣恒政 『南十字星』 東亜公論社 昭和17
新垣恒政 『海外発展と衛生問題 : 特に伯剌西爾の衛生に就て』 外務省通商局 昭和8→「Webcat Plus」