友人のFBを見ると、〇日本常民文化研究所では2019年度より共同研究「便所の歴史・民俗に関する総合的研究」を立ち上げました。便所の歴史と民俗の多様性はもとより、糞尿は「土」そのものとの観点をふくめ、建築史、人類史、社会学、環境学などさまざまな立場から、面白く、大真面目に考えようとする研究体です、とある。私の手元に関連する本として1932年発行、李家正文『厠(加波夜)考』六文館、1934年発行、金城朝永『異態習俗考』成光館書店だが、金城の本は最初は六文館から出ている。

1932年ー李家正文『厠(加波夜)考』六文館、1933年ー金城朝永『異態習俗考』成光館書店/李家正文「厠神の系図」、金城朝永「琉球の厠は、その墓と共に最も特色のあるもので、一般の農家でも家は茅葺でも両者は石造の立派なものである。」


2014年10月26日 沖縄県立博物館・美術館「神奈川大学常民文化研究所非文字資料研究センター『日本近世生活絵引』奄美・沖縄編」

 1927年3月3日、澁澤栄一は自らが組織した日本国際児童親善会長として日本と米国の人形交換につとめた。3月25日には沖縄にも青い目の人形がアメリカから贈られてきた。小学校47校に分配した(沖縄女子師範附属小学校と首里第二尋常小学校は同一の学校だが2つ貰っている)。
関連〇「公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センター」ブログ
関連〇「ツトムさん家の写真日記/第1013回 日米交換人形 ミス群馬と青い目の人形」


1933年12月 澁澤敬三『祭魚洞雑録』郷土研究社
〇南島見聞録ー(略)首里市長仲吉朝助氏も、親しく同氏の研究にかかる地割制度の話を二時間以上も講義して下さった。同氏は農大実科を出られてから琉球各地を農政課の官吏として巡廻され、其の間集められた資料亦極めて豊富で、而も今となっては再び得難いものが多かった。此の内琉球産業資料は美濃判で二千枚以上の大部であるが、自分は同氏に御願いし、同氏の物故後は図書館長真境名安興氏の御尽力によって四部の謄写を了し、二部は図書館へ、二部は当方に取り寄せた。いつか折もあったら、仲吉氏の此の資料に基づいて立論された論文と共に、世間の学者に此の貴い資料を利用して頂きたいと思って居る。折角そんな考えで居たのに、当の仲吉さんに死なれたのは何としても残念でたまらない。仲吉さんと真境名さんと、それから元図書館長をしていた伊波(普猷)さんとは三人仲の良い学者で、愛郷の念熱烈なものがあり、仲吉さんは主として経済史的に、真境名さんは歴史上から、伊波さんは言語学並びに文学上から、新古の琉球の為に萬丈の気焔を挙げて居られる。右の三方の如きは琉球に生まれ琉球を愛し、琉球を研究して居られる学者である。同時に他方外来者として柳田国男氏とか、八重山の岩崎氏とか、前述の田村氏とかは、又自郷の人々の鼻には既に解らなくなって居る香を嗅ぎ出す、特殊な機能を働かしつつ同じく南島研究に尽力されて居る。結局内外両方面からの研究が完成された時、真の琉球研究が出来上がるのであろう。

1935年11月 岩倉市郎『喜界島生活誌調査要目』(アチックミユーゼアムノート第六)、1936年6月『民具蒐集調査要目』(アチックミユーゼアムノート第七)

1961年9月 澁澤敬三『犬歩当棒録』角川書店
〇九百二十五万六千人の心/沖縄戦災校舎復興後援会会長就任のいきさつー昭和二十八年の初夏でありました。東京在住の仲原善忠氏が郷土の新崎盛敏氏及び沖縄教職員会会長屋良朝苗氏を伴い、以前からお親しく願っていた金城朝永氏の東道で拙宅にまいられ、皆様方も御覧になったと思われる、見るも無残な戦災校舎の写真帳を示されながら、真剣そのものの顔色で私に後援会の会長就任を求められました。

しぶさわけいぞう【渋沢敬三】 1896‐1963(明治29‐昭和38)
近代の実業家。東京の生れで,渋沢栄一の孫。東京帝国大学経済学部卒業後,横浜正金銀行に入るが,のちに第一銀行に移る。1944年には日本銀行総裁に就任し,第2次大戦後は幣原(しではら)喜重郎内閣の大蔵大臣となるなど経済界の指導者として活躍した。一方,大学在学中から穂積陳重,石黒忠篤,柳田国男などの影響を受けて,文化の基層を,支配階級を除いたごく普通の庶民すなわち常民の文化に求め,とくに漁業関係の社会経済史料に注目した。
 〇にほんじょうみんぶんかけんきゅうじょ【日本常民文化研究所】1925年渋沢敬三により設立された,民具・民俗資料の収集・研究,漁業・水産史の研究を中心とした民間研究所。初め,渋沢邸(東京深川)の物置の2階に生物の標本,郷土玩具などの民具を集め,同好の士と研究をはじめたことから,アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)と名づけられた。42年,官憲の干渉・詮索が著しくなったため,英語の研究所名から日本常民文化研究所と改称された。この間,収集された膨大な民具は,77年に開館された国立民族学博物館にすべて寄贈され,設立の基礎となった。


 1926年、渋沢栄一の孫・渋沢敬三が石黒忠篤と台湾から来沖。沖縄県沖縄図書館で仲吉朝助の『琉球産業資料』を複写、これは後に小野武夫によって『近世地方経済史料』に収録される。渋沢は案内役をつとめた沖縄県殖産課長・田村浩の著『琉球共産村落之研究』を岡書院から出版させた。同行した石黒は石黒忠悳の息子、妻は穂積重陳の娘で渋沢栄一の孫娘。渋沢敬三は南方同胞援護会(現・沖縄協会)の初代会長で、また東洋大学名誉学位第1号でもある。


1951年ー南方熊楠全集 全12巻 乾元社版 / 南方熊楠 澁澤敬三編 ミナカタ・ソサエティ



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粟国島の実家隣りの與那太郎さんの遺族を門真市に訪ねた。子息も故人になったようである。門真市立歴史資料館を見学すると、常設展に「『幣原家』の足跡を訪ねて」があった。幣原喜重郎は第44代内閣総理大臣で「日本国憲法改正草案要綱」を発表し現代日本の礎を築いた。兄の坦は1899年に『南島沿革史論』という沖縄通史を発表。28年、台北帝国大学総長。晩年は門真で過ごした。東恩納寛惇とも親交があった。駅近くに松下電器歴史館も見学。先日、東成区大成を歩いていたら「松下幸之助起業の地」の表示があったので見学した。福島区大開には松下電器創業の家跡がある。守口市にはSANYO MUSEUMがある。

幣原坦(1870年9月18日~1953年6月29日)
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 明治・昭和期の文部官僚。教育者。東大卒。東京教育大教授、文部省視学官、広島高師校長、文部省図書局長歴任。台北帝大総長・名誉教授。敗戦後枢密顧問官。幣原喜重郎は弟。昭和28年(1953)歿、84才。 →コトバンク
古在由重は農芸化学者・古在由直と、作家・清水紫琴の次男として東京府(現・東京都)に生まれる。兄・由正は東洋史学者・幣原坦の次女・澄江と結婚している。農芸化学者・古在豊樹は由重の息子であり、天文学者・古在由秀は由重の甥(由正・澄江夫妻の長男)にあたる。東京帝国大学卒。1932年、戸坂潤らと唯物論研究会を設立し、1933年および1938年の二度、治安維持法違反で検挙される。出獄後は上智大学でカトリック文献の翻訳や、四王天延孝の回教協会に勤務して、戦時下を過ごした。
1984年、原水爆禁止運動において原水協と日本共産党の意に反する行動を取った吉田嘉清が除名された事件があった。古在由重は吉田を擁護し、翻意を促す党の使者との面会を拒否したため、反党行動を正当化して居直ったとして、党から除籍された。そのため、死去時に日本共産党中央機関紙『赤旗』には古在の死亡記事が掲載されず、また党員に古在の葬儀への参列を禁じた。(→ウィキ)


1972年12月第21刷 古在由重『哲学史』青木書店/1968年7月 『現代の眼』<特集・沖縄ー奪還の思想的拠点> 古在由重「”働くもの〟から”見るもの〟へ?」