泊の我が家から、おもろまちの沖縄県立博物館・美術館は10分ぐらいの所にある。ロビーには全国の博物館・美術館のイベント情報パンフが所狭しと並んでいる。中に立命館大学国際平和ミュージアム「儀間比呂志版画展ー沖縄への思いー」もある。原爆の図丸木美術館学芸員・岡村幸宣の日誌(2010/4/19)に「那覇について最初に訪問したのは、沖縄大学。小図録に寄稿して下さった沖縄大学法経学部の若林千代先生に、ご挨拶に伺いました。ちょうどお昼時だったので屋嘉比収先生の研究室に案内され、そこで若林先生ら数人の方とお弁当を食べることに。そこには沖縄の近現代文化史を精力的に調査されている新城栄徳さんもいらっしゃいました。新城さんはネット上で「琉文21」と題する研究報告をされている民間の沖縄文化研究者。「ワタシは大学の先生の使う言葉(業界用語)はわからんヨ」とニッコリ笑う」と紹介されているように、ワタシは理論より自分の情念に忠実でありたい。
 日本伝統文化の屋台骨・京都は私が沖縄青年運動に目覚めた地でもあり様々な感懐を抱くものである。上記のチラシは京都関連だけでも、京都国立博物館「南山城の古寺巡礼」や九州国立博物館の「京都妙心寺ー禅の至宝と九州・琉球」「本願寺展ー親鸞と仏教伝来の道」「黄檗ー京都宇治・萬福寺の名宝と禅の新風」などがあり、よく行ったところなのでチラシは部屋の壁に貼って眺めている。

新城栄徳「関西日誌2008-5」
 2008年5月4日 午前9時半、あけみと散歩に出かける。司馬遼太郎記念館をのぞくと、竹富島などの映像が放映されていた。近鉄八戸ノ里駅から乗車し東花園駅で下車。12時半に元長栄氏宅に着く。前からお願いしておいた元長氏の「履歴書」をいただいた。氏は1969年8月、沖縄と本土を結ぶ月刊誌『沖縄ジャーナル』を大阪で創刊している。この雑誌は70年に『沖縄ポスト』と改題、10号で休刊。70年9月には元『沖縄ポスト』編集人の座喜味康夫が京都長岡町で『沖縄群像』を出している。偶然なことだが元長氏宅の近くには『青い海』編集デスクであった小渡照生氏も住んでいる。ちなみに『青い海』社長の山城賢孝氏は元長氏の沖縄教員時代の教え子であった。


2016年5月10日 写真-沖縄県立博物館・美術館ー左が小渡照生氏、田名真之氏/2016年5月10日 写真-沖縄県立博物館・美術館ー小渡照生氏

①小渡有得の二男/2008年9月 小渡有得『小石のつぶやき 或るクニンダンチュ(久米村人)の95年、心の軌跡』琉球新報社○小渡有得略歴ー1913年9月16日、那覇松山町に父邦光、母マカトの3男として生まれる。生家は萬履物小渡商店、道向かいに日秀上人が建てた地蔵堂があったので「ドゥヌメーヌーウドゥグヮー」と呼ばれた。1928年、『日本少年』11月号に「綴方/健ちゃん」を投稿し銀メダル。1931年3月、沖縄県立第一中学校修業。一家をあげて台湾台北千歳町に居住。1937年、基隆市義重町に転居、台湾総督府交通局基隆築港出張所に臨時夜警兼務。1939年、台北市御成町に転居。台湾総督府交通局逓信部工務課・台北電信電話技術官駐在所勤務。6月、臨時招集により台湾第一連隊補充隊に輜重兵二等兵として入隊。(1940年、南寧作戦に参加、欽寧公路警備に就く。1941年、台湾第一連隊補充隊に転属、海南島を経て基隆に帰還。)1943年、台湾総督府交通局逓信部工務課に復職、台中電信電話技術官駐在所勤務、台中市老松町に転居。1943年9月、玉城オトと結婚。1946年11月、具志川村高江洲区に居住。

5月12日 3時ナンバの大阪府立上方演芸資料館に行く。この資料館も大阪のタレント知事のリストラの一つにあげられている。この知事は職員に「一緒に死んでくれ」と相変わらずのパフォーマンスで宮崎県の知事同様テレビにもよくとりあげられその経済効果は十分期待されている。それはさておきこの資料館で私の好きな浪曲「紺屋高尾」を篠田実、富士実、浮世亭雲心坊、東家燕左衛門の節で聞いた。芝居のビデオでは松竹新喜劇の藤山寛美の「紺屋と高尾」を見た。沖縄の歌劇の「染屋の恋唄」も紺屋高尾をアレンジしたものだ。私が沖縄近現代芸能史の源流というノンキなことを調べている最中に中国では大震災が起きていた。

5月14日 ナンバの日本工芸館に行く。沖縄の漆器展が開かれていた。数十年前になるが同館での沖縄展のおり、三宅忠一館長と儀間比呂志さんが会話しているのを間近で聞いたことがある。この時は、儀間さんとは面識はなかった。

5月15日 沖縄が密約復帰をした日で、戦前の1932年のこの日は犬養首相が海軍将校らによって射殺された国家改造クーデターテロ事件が起きている。同日、京都では葵祭がある。葵祭は何回か見ているから二千円札にちなんで宇治を散策。平等院に寄り「鳳翔館」ができていたので観覧、コンピューターグラフィックスによる彩色復元の平等院の映写はコンピュータ技術を駆使したものだ。また売店で絵ハガキを買い求めた際に、お釣りを二千円札でくれと注文したら二千円札は用意して無いとのことだった。鳳凰堂は何回も見ているので丁度修学旅行生とはちあわせしたので周辺(大書院、浄土院、羅漢堂、頼政の墓、不動堂)、宇治市源氏物語ミュージアムを見た。帰途、萬福寺を見学。

2012年5月 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社にかかわる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。
□1918年9月 山本實彦『川崎正蔵』 
□1928年10月 『目録』(神戸 川崎男爵家蔵品入札目録)
□1936年2月 『神戸 川崎男爵家蔵品入札目録』
「支那宋、元古画の蒐儲に於いて、世界にその名を知られている川崎美術館は、神戸川崎男爵家の先々代・故川崎正蔵翁が明治23年神戸布引の邸内に建設されたもので、一に長春閣と呼ばれている。これは其当時翁と親交のあった伊藤博文公が命名されたのである。→当社(川崎重工業)の創立は1896(明治29)年10月のことですが、造船業の歴史としては、それより18年前から始まっています。創業者の川崎正蔵が1878(明治11)年に東京・築地に川崎築地造船所を開設したのが、当社の起源です。川崎正蔵は1837(天保8)年、鹿児島の呉服商人の子として生まれました。17歳(嘉永6年)で当時唯一の西洋文明への窓口であった長崎に出て貿易商の修行を積み、27歳(文久3年)のとき大阪に移って海運業を始めましたが、このときは、持船が暴風雨で遭難して積荷とともに海没したため失敗しました。その後1869(明治2)年に、薩摩藩士が設立した琉球糖を扱う会社に就職、1873(明治6)年には、大蔵省から委嘱されて琉球糖や琉球航路の調査を行いました。翌年には日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就任し、琉球航路を開設、砂糖の内地輸送を成功させました。この間に自分の運命を左右するような海難事故に何度も遭遇した正蔵は、自らの苦い体験を通して江戸時代の大和型船に比べて船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋型船への信頼を深めると同時に、近代的造船業に強い関心を抱くようになりました。1878(明治11)年、時の大蔵大輔(現在の次官)であり同郷の先輩でもあった松方正義などの援助があって、東京・築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地を借りて川崎築地造船所を開設、造船業への第一歩を踏み出しました。(→川崎重工業ウェブサイト)

□2005年5月2日ー自宅で去年上六の天地で買った『沖縄アーカイブス写真』(生活情報センター)を見る。関連して、沖縄タイムス出版部が編集し琉球銀行が発行した『あんやたん-沖縄、写真が語る50年』(1995年9月)、『時の謡人の譜・街の紋-山田實写真50年』(2003年1月)を見る。

平凡社の1963年3月の『月刊百科』は「『PR誌』-機能・沿革と現状」、1968年3月の『月刊百科』には勝連哲治「沖縄の経済」が載っている。1970年から日本メール・オーダー社から出はじめた『アルファ大世界百科』と、1972年版の平凡社『世界大百科事典』が手元にある。南方熊楠や末吉麦門冬を単に博覧強記の人として片付ける嫌いがあるが、今はネットの時代である。熊楠や麦門冬が人を喜ばせるために書いた情熱はネット空間でますます輝くであろう。



新城栄徳「関西日誌2011-10」
 私の本格的な古本屋巡りは1965年から始まっている。何ぼネット時代と言ってもこの身に染み付いた古本屋巡礼の快楽は、バーチャル(仮想空間)なネット世界では絶対に味わえないものだ。第一、歩くことによって運動にもなる。古本屋がどんな場所にあるのか訪ねるのも楽しみの一つである。本、新聞もネットで読めるとよく若い人は言うが、持ち時間が余り無い初老には馴染む気力も体力も無い。

午前10時に布施の自宅を出て、JR永和駅から乗り大阪天満宮に行く。電車賃は170円、那覇市内バス210円より安い。天満宮で「天神さんの古本まつり」(大阪古書古書研究会主催)がある。天気も良く参拝客も多い。5冊1000円コナーで、W・A・スウォンバーグ/木下秀夫『アメリカ新聞界の巨人・ピュリツァー』(早川書房1978)、小糸忠吾『超大国米国ソ連のマスメディア』(理想出版社1981)、高橋康雄『物語・萬朝報』(日本経済新聞社1989)、木村愛二『読売新聞・歴史検証』(汐文社1996)、雑誌は『人物往来』「昭和重大事件の真正報告ーあの時の証人は語る」1955年の復刻版を買った。
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100円コーナーで、『醍醐寺の研究』(飛鳥園1930)は中にチラシ「出雲大寺薬師」や長崎、大宰府天満宮近くの飲食店の箸袋が挟まれていた。平凡社発行(1929~31)『世界美術全集』21巻、27巻、別巻「宗教図像篇」、最後の巻には週刊朝日チラシ「ワーナー・ブラザース映画『百萬長者』/フエアリイランド/秋の画廊」「日本古墳と安南の墳墓」「古代朝鮮文化の粋」「古今東西女性美名作物語ー上野府美術館」(数点の戦前の新聞切り抜き)が挟まれていた。新村出『広辞苑』(岩波書店1960)、雑誌は、『話の特集』第191号(1981-12)には今話題の島田紳助らの「とことんやったれ!ツッパリ漫才爆走中」が載っている。たしか今の琉球新報社長の富田詢一氏もかつて『話の特集』編集部にいたことがある。『芸術新潮』「ナチスが捺した退廃芸術の烙印」(1992-9)、「悪趣味のパワー」(93-6)、「天災と闘った美術」(95-5)、「『東寺』よ開け!」を買った。

天満宮を天六方面に行けば末広町の「成正寺」がある。入口に「中斎大塩平八郎墓所」の石碑がたっていて、奥にソテツがある。。東の方も散策。天満東寺町の龍海寺(緒方洪庵墓所がある)に寄る。ここは門が来るたび閉まっている。『大阪春秋』(2006-10)にT・M生が「寺町と掃苔ー著名人の墓碑は文化遺産」を書いていて「それよりも緒方一家といえば、いまも家運隆盛で良識ある優秀な方ばかり(略)戦後緒方家の墓地を整備なさったとき、無縁となられた中家の墓域ぐらい購入されて洪庵先生と並べて眠らせてあげれば、洪庵もさぞかし喜ばれたと思うのですが残念です。京都で襲われ、大阪の仮病院で切断された、大村益次郎の大腿骨は彼の希望通りに洪庵墓の片隅に葬られたのは幸せでありました。(略)無縁墓から取り出してあった天游の墓は、洪庵の墓所の西塀のところに、新たに造られた妻の海上氏の墓と並べて、平成9年に適塾記念会によって墓地が新設されています」と紹介している。

□→洪庵の墓の画像を検索したら、文京区で葬儀屋さん(沖縄大好き人間と自称されている)を営んでいる人のブログに「緒方洪庵のお墓は、金子商店と同じ文京区の高林寺様にございます。(略)亡くなった洪庵の遺体は東京駒込の高林寺に埋葬され、遺髪は大阪天満の龍海寺の墓に納められています。」と。目からウロコがおちた感じだ。考えてみれば洪庵は江戸で亡くなっているから墓が東京にあることは自然ではある。


大阪天満宮と記された石碑の右傍に「西山宗因向栄庵跡」の石碑がある。宗因がここに庵を結んで形式主義偏重から脱却し自由で軽妙な作風の談林派総帥として俳諧の新しい世界をひらいた。門下に西鶴、鬼貫、来山らがいた。

□橋本宗吉は大坂蘭学の祖と言われた。一番弟子に天游が居る。宗吉と共に大坂蘭学を盛り立てた人物の一人として著名である。宗吉は大阪に医院と学塾を兼ねた私塾である絲漢堂を開き診療と教育活動に務める。天游も自らも絲漢堂で学ぶかたわら35歳で私塾・思々斎塾を開き、緒方洪庵、億川百記らを輩出。天游の死後、その遺志を継いだ洪庵の代には江戸蘭学を越え日本一の蘭学の地として大坂蘭学は栄えることになった。

□適塾とは、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が1838年瓦町に開いた蘭学の私塾。正式には適々斎塾という。適々塾とも称される。緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来。1845年に過書町(現在の大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入し移転。1846年に大村益次郎が入門。1855年に福澤諭吉が入門。現在の大阪大学と慶應義塾大学の源流の1つとなった。

□適塾の主な門下生
足立寛(慶應義塾長、陸軍軍医学校校長)、石田英吉(男爵、海援隊隊士)、岡田摂蔵(幕臣、第2代慶應義塾長)大鳥圭介(明治後学習院院長。駐清公使。男爵)、大村益次郎(「村田良庵」と言う名で入塾。日本近代陸軍を創設)、岡本周吉(慶應義塾初代塾長、東京盲亞学校創立者)、佐野常民(日本赤十字社初代総裁。伯爵)、杉亨二(統計学者)、手塚良仙(漫画家・手塚治虫の曽祖父)、橋本左内(若くして安政の大獄で処刑)、花房義質(初代岡山市長の端連の長男/子爵、枢密顧問官/法学博士、統計学者で初代内閣統計局長、第一回国勢調査を担当した花房直三郎は弟)、福沢諭吉(慶應義塾の創立者、明六社発起人、日本学士院初代会長)、箕作秋坪(明六社会員、三叉学舎の創立者。東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦なども三叉学舎で学んだ)。