私たちの京都沖縄青年グループ(都沖青)は京都三条河原町にある松田祐作さん経営「琉球料理・守禮」に連絡所を置き、表札や名簿も作ってもらった。近くの三条大橋で鴨川を渡るとエイサーの元祖、袋中上人が開創した檀王法林寺がある。1983年の『琉球新報』に私は関西資料の散策と題し次のように書いた、「人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店・守禮の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤が『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤に『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」。地元2紙は「人類館写真見つかる」を大きく報じた。


 1970年12月、私は京都鳴滝にある沖縄学生たち(同志社大・立命館大)の借家のひとつ、山口浤一さんの部屋に居た。沖縄から帰ったばかりの山口さんの婚約者が興奮さめやらぬ口振で語る「コザ騒動」の話を学生たちと聞いていた。沖縄学生たちの機関誌は、1964年、京都在学沖縄県学生榕樹の会『がじゅまる』、65年、同志社大学大学沖縄県人会『珊瑚礁』、67年、関西沖縄県学生会『新沖縄』などがあった。京都丸太町の古書店で『立替え立直し』を買う、梅棹忠夫・上田正昭の対談「出口王仁三郎における変革の思想」が載っていた。上田正昭は何かと大本には縁がある。当時、京都で発行されていた『日本のなかの朝鮮文化』の執筆常連でもあった。沖縄との関わりも深い。私も朝鮮文化社にはよく遊びに行き、編集室奥の部屋で鄭詔文さんのコレクション、李朝の白磁などの陶器を見せてもらったりした。このコレクションが後の高麗美術館とつながる。
 前出の『立替え立直し』の発行は亀岡の大本本部天恩郷で、ちょうどそこには沖縄から金城ひろこが奉仕活動に来ていることを京大付属病院保健課の大城敬人の紹介で訪ねた。都沖青の一環で亀岡の渡文や大本亀岡本部はよく訪ねた。本部から離れたところに王仁三郎の生地瑞泉郷がある。大本本部の大本資料室で王仁三郎の沖縄訪問時の資料、王仁三郎扮する七福神や神々の写真パネルを見た。王仁三郎手製の楽焼の茶碗も見た。本部では茶道、八雲琴の演奏なども聴いた。
 1972年1月の『青い海』9号には儀間比呂志×岡部伊都子「対談 沖縄のこころを語る」が載っていて儀間が、ボクは大和の差別を告発する人たちは、自らも過去において先島に対して犯してきた過ちを認めて、被害者であると同時に加害者でもあったふうに考えないといかん、と思うのです。岡部ー本土の内でも世界の各国でも、被差別者が差別者となっていくことが多い。それは差別をつくる仕組みのせいでもありますね。だから「差別をつくるしくみ」と闘わなくては。(略)儀間ー沖縄を愛するんだったら、沖縄に住んで仕事をすべきだ、共に苦しみを味わうべきだという考え方があります。ボクなんかも、大阪という安全地帯にいて沖縄を描いている、だから君は沖縄を売りものにしている半沖縄人だというレッテルを貼るんですね。と述べる。

 1972年3月25日 『人民』 「又吉一郎豊見城村長に聞くー京都に見る革新行政・蜷川虎三知事とは、2時間にわたってお話する機会がありましたが、学生時代に糸満に調査に来られたお話や、府民本位で府政をすすめていることなど、たいへん感動することばかりでした。」
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蜷川虎三資料

蜷川虎三 にながわ-とらぞう 1897-1981 昭和時代の経済学者,政治家。
明治30年2月24日生まれ。昭和14年母校京都帝大の教授。23年初代中小企業庁長官となるが,25年吉田茂首相と衝突して辞任。同年社会党公認で京都府知事に当選,以後連続7選。「憲法を暮らしの中に」をかかげ,教員の勤務評定反対,減反政策反対など独自の府政を推進した。昭和56年2月27日死去。84歳。東京出身。著作に「統計学研究」など。(コトバンク)


1973年12月 福木詮『沖縄のあしあと1968-72年』岩波書店、福木が、あとがきで表紙・函に掲げた版画は、儀間比呂志氏が版画風土記『沖縄』に発表された作品であるが、同氏は快く掲載を許されたばかりでなく、とくに本書のために原画に筆を加えられた。心からお礼を申し上げたい。


 沖縄県護国神社の鳥居には日本民主同志会・松本明重とある。かつて1971発行の平良盛吉『関西沖縄開発史 : 第二郷土をひらく 』を援助し日本民主同志会本部名で発行していた。松本は世界救世教外事対策委員長、祇園すえひろ会長だが、沖縄に関わり、「京都の塔」「小桜の塔」などに碑を建てている。松本は東本願寺紛争にも名が出てくる。相対する西本願寺、第22世門主の大谷光瑞は、戦前の沖縄新聞に、「光瑞来沖か」と云う記事を見たことがあるが、結局来なかったようである。その代わりというか弟の大谷尊由が1918年2月に来沖し相当に歓迎されたようである。 




1979年12月 三宅忠一『日本の陶磁14 民窯』保育社
 「元祖スエヒロ」という「しゃぶしゃぶ」の店を経営している大阪日本工芸館長の三宅忠一である。館長は金光教本部のある岡山県玉島出身で、館長もその信仰に篤い。この人も沖縄民芸振興などに力を入れていた。私は難波の日本工芸館はよく行くところで、ここで館長と親しく熱心に会話する儀間さんを見た。このときは儀間さんも館長も面識はないので挨拶はしなかった。1973年、通産省が企画した第一回沖縄民芸振興展を日本民芸協団(三宅忠一理事長)の主催で東京、大阪、福岡で開催した。74年の第二回展の小冊子の表紙は儀間の版画「赤瓦の屋根の下で織物をしている女性」で、「表紙のことば」としてその解説も載っている。75年「紅型染色の城間栄喜父子」、76年「沖縄ガラス」、77年「琉球玩具」、78年「シーサー」も同様である。

沖縄展(那覇市民会館中ホール)のチラシ