「沖縄文庫」/ 左が新城栄徳、平良幸春氏(日展会友)
会場内の沖縄文庫で沖縄本を販売する新城栄徳。いつも岡本太郎の太陽の塔を見ながら、民博はまだできていない。/このときの陶器コーナーではシーサー造りの名人・島常賀翁と、陶芸家で駆け出しの平良幸春氏とは一緒に陶芸の用具や釉薬などの材料の店、常賀翁のシーサー造りを2カ月以上観てきた。常賀翁の三線模合仲間の宮城美能留(宮城 稔)沖縄歌舞団団長の宿泊先のホテルに、一緒に見舞いに行った。



『青い海』1974年5月号「大沖縄展3/23~6/2」

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1952年7月21日『球陽新報』「1周年記念祝賀行事ー第三部 島晴美先生」/1974年ーエキスポランド「大沖縄展」案内パンフ(表紙の踊りは島晴美さんの娘)




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太陽(太郎)の塔の前でポーズするさやか

旅する仮面

本展に特別協力しているのが国立民族学博物館。
1970年1月、梅棹忠夫氏らが中心となって『季刊人類学』が発刊された。私も早速購入したが、これらの出版活動が1974年6月の「国立民族学博物館」設立につながる。開館当初は私も月に一度は通い、『季刊民族学』、『月刊みんぱく』などを購入した。月刊みんぱく85年1月号には手塚治虫がエッセー「アマゾンの日系一世たち」を書いている。
3月14日大阪万博開催

梅棹忠夫「万博の準備段階で、岡本太郎さんから『太陽の塔の下に、世界の民族資料を展示したい』と提案がありました。太郎さんはパリ大学で民族学を勉強していた。泉靖一とわたしは『日本万国博覧会世界民族資料調査団』を組織しました」            

岡本太郎「万国博のチャンスに世界中から民族資料を集めた。将来、博物館が出来るとき一つの核になるように、泉靖一、梅棹忠夫両教授に頼んで、蒐集団を組織した。泉さんはすでにない。が梅棹さんはじめ、さまざまの分野の専門家たちがその後もねばり強い努力を続けて、ついに民族学博物館の実現にこぎつけた。世界と無限の交流をする場所。ここでは研究者も一般のピープルも人間存在の意味の、なまなましい暗示を受けるだろう。日本文化にとってうれしいことだ。」 

琵琶湖は関西の「水がめ」だが、また関西の人間の将来も左右する命の源でもある。ネット検索すると「ブログ 琵琶湖疏水の散歩道」が出てきた。たまたま「穴太」の地名を引用させてもらったが、運営されている方は80歳。しかもネット上で記事が少ない話題を発信するといわれる。まさに若者の発想である。最近はテレビでも島田紳助の親友・橋下大阪知事の批判を始めているが何のことはない。ネット上ではすでにある事無いこと言いたい放題、匿名(若者)で批判が展開され賑やかだ。若者は古い価値観を押し付けられることには反発する。今や世界で、若者がネットで、アラブでは民主化、ニューヨークで資本主義の在り方を問うデモを繰り広げている時代である。

ネットに関連して、1988年7月『みんぱく』に梅棹忠夫館長と奥野卓司の対談がある。奥野氏が「1970年代にアメリカではパソコンと言えば反体制文化と結びついていたね、ドロップアウトしたままになった人達もたくさんいる」と述べている。これは、反体制は自由や解放への道であると同時に逃避や閉塞の道でもある。ということでもある。

今の若者は一部では「オタク」と自称する。オタクとほぼ同義語として「マニア」というのがある。特定のモノに拘り社会的評価を全く気にしない人は嘗てマニアと呼ばれた。マニアにも様々な人がいる。特定のモノを収集するものを、コレクションマニア(収集家・コレクター)、美術品マニア・カーマニアといったような様々なモノを収集する人もいる。これがモノにかかわらず私みたいに「情報」に指向した収集も存在する。オタクは1980年代からアニメ、SFファンの間で使われたという。それ以前は似た言葉として「ネクラ」があった。また「オタク市場向け商品」が商売として成り立っているために、ニッチ(隙間市場)な分野も色々に生まれている。彼らの持つ知識を呼称して「オタク趣味」といっている。ネットでオタクの部屋の画像を見る。パソコンとフィギュア、ポスター、コミックと、清潔感があって整理整頓も行き届いていた。



小学館『大日本百科事典』


講談社『大図典』