2018年2月1日『沖縄の軌跡』第180号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)





1929年8月11日『沖縄朝日新聞』親泊朝省「滞郷雑感」

2015.03.18 みどり風通信ー大本営陸軍報道部部長 親泊朝省
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英エコノミスト誌がまとめる世界平和度ランキング(2014年)で日本は162ヶ国中8位、アジア では堂々の1位だ。紛争が無く治安の良い社会で暮せることを誇りに思う。一方で日本の「報 道の自由度」は180ヶ国中61位となっている。NGO「国境なき記者団」が調査した15年のラン キングが2月に発表され、日本は前年の59位からさらに落ちて過去最低となった。ランキング は報道の自由に対する侵害や検閲の度合いなどを評価する。日本は09年17位、10年11位と 世界でもトップクラスの国だった。当時、省庁の会見を記者クラブ以外にも解放したのが理由 とされている。ところが12年は53位へ急降下した。東日本大震災後、原発事故の取材で情報 が制限されたのが理由だ。国境なき記者団の報告は「フリーランスの記者は政府、東京電力 の記者会見への出入り、情報へのアクセスを禁じられている」と批判する。さらに特定秘密保 護法の施行が追い打ちをかけた。国の都合だけで情報が隠され、私たちは何が秘密なのか さえ知ることもできない。日本の報道の自由は黄信号といえる水準だ。その上、自衛隊「文官 統制」廃止、さらに海外派遣への道を開こうと政権は前のめりになっている。秘密に包まれ知 らない間に国の行方が誤っていたとしたら、報道の自由の大切さは市民にとっても重要なもの だ。・・・・と結んでいる。 以上は、3月8日付け琉球新報の『金口木舌』全文である。


去る大戦で7年間従軍し、ニューギニア近くのソロモン群島、ブーゲンビル島から生還し、15 年前、82歳で没した私の父は「終戦直後、大本営、陸軍報道部長の首里大中町(みどり印刷 の所在地)出身の親泊という大佐が自決し夫人と子供二人も殉死した」と語っていた。気には なっていたのだが、そのままにほっていた。今、日本のメディア(NHKはじめ日経・朝日・毎日・読売・産経の大手メディア)は政権の圧力 を受けジャーナリズムの本旨(主権者たる国民に本当の事を知らせ、いろいろな価値観に基ず く議論の場を提供する)事をしていない、そればかりか政権と一体となって政権に都合の良い 方向に国民を誘導さえしていると思う。(平成の大本営である。)

その矢先、「大本営陸軍報道部部長 親泊朝省」について書かれた澤地久枝著『自決 こころの法廷』という本に出会い、親泊朝省(おやどまり ちょうせい)を調べ紹介するレポートを書 こうと思い立った。最早「戦前のようだ」などと悠長な事を言っている事態ではない。大本営とは、日清戦争から、太平洋 戦争までの戦時中に設置された日本 軍の最高統帥機関であり、天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令として発令する最高司令部としての機能を持った。 太平洋戦争末期の敗色が濃厚にな るにつれて、さも戦況が有利であるか のような虚偽の情報が大本営発表と して流し続けられたことから現在では 権力者が自己の都合の良い情報操 作をして虚偽の情報を発信することを揶揄した慣用として「大本営」「大本営発表」という表現 が用いられている。 具体的には、当初はほぼ現実通りの発表を行っていたが、一般的にはミッドウェー海戦の頃 から損害矮小化発表が目立ちはじめ、不適切な言い換えが行われるようになり、敗戦直前に は勝敗が正反対の発表すら恒常的に行われたことから、現在では「内容が全く信用できない虚飾的な公式発表」の代名詞となっている。ジャーナリストの清澤洌は、「空襲の被害や内容について政府は一切発 表しない。ただ幾ら打ち落としたというだけだ。・・・誰かがその打ち落としたものを総計すれば 米国の造ったB29 よりも遥かに多くなっているといった(『暗黒日記』Ⅲ、3月12日の項)と書い ている。現在の内閣府世論調査発表もこれにあたらないか。

親泊朝省の生い立ち
 明治36年、父朝擢(ちょうたく)、母ウシの長男として生まれた。朝擢は明治8年首里(大中) で生まれ、同38年、沖縄県人として初めて大宜味(おおぎみ)尋常小学校の校長になったこと で知られている。それ以前には、沖縄の小学校長はすべて本土の人間が任命されていた。 大宜味尋常小のある大宜味村塩屋の地で幼少期を過ごした朝省は県立一中へと進学する、 そして2年後の4月、熊本陸軍幼年学校に入学が許可され(一中を中退して)熊本へと旅立 つ。それ以来、沖縄に帰る事はほとんど無かった(幼年学校時代も後の陸軍士官学校時代も 夏の休暇は宮崎市出身の親友、菅波三郎の自宅ですごしていたという。後に菅波三郎の妹 英子と結婚する。)

 思えば、首里大中町出身とはいっても、それは父朝擢の生まれた「本籍地」なのであり、そ こで暮したのは一中時代の2年間にすぎない。一中での親しい友人は居たのだろうか?どち らかといえば「ひ弱な」印象の少年時代のエピソードを見るに付けその思いはつのる。彼の故 郷への想いとはどのようなものだったのだろう?自ら沖縄出身であると語ることは無く、彼を知 る人達の多くが「沖縄の出身であるらしい・・・」と他人からの伝聞によりそれを知ったという。 『自決 こころの法廷』より。

 県立一中から海軍兵学校に進み少将となった漢那憲和(退役後に衆院議員)や、同じく一 中から海軍軍医学校に進み少将(医学博士)の上与那原朝珍(うえよなばる ちょうちん)。 彼は地元沖縄でも珍しい姓名であったが、むしろそれを誇りとして生きた。(当時、日本本土 で活動する沖縄県人で、異風に聞こえる沖縄特有の姓を大和風に替えるという風潮があった という)県出身の高級軍人の中でも上の二人と親泊は異なる系譜に属していたと思わざるを得ない。

 紅顔可憐、小柄な美少年だった幼年学校時代、機械体操が苦手、走り幅跳びも人並みに 跳べなかった。同様の落語組一同は校舎の周回走をさせられるが、「ひ弱い親泊」は青くなっ て途中で列外に出る。親泊は特別扱いで怖い三年生も黙認する。他の生徒が列外に出ると、 「コラッ貴様は親泊と違う」とどやされて列に戻されたという。竹刀(しない)も重げだった親泊が やがて騎兵科へ進んだことは皆を驚かせた。 陸士時代の親泊は、町を歩くと女学生が一斉に振り返る美男子だったという。体も鍛え、騎 兵科を首席で出るだけの好成績もあげる。幼年学校5年、陸士の予科、本科4年を経て軍人ら しい青年へ脱皮した。

幼年学校とは、幼年時代から幹部将校候補を純粋培養する為に設けられた陸軍の全寮制 の教育機関。旧制中学1年~2年修了程度に受験資格を与えた。陸軍中央幼年学校を東京 に1校、陸軍地方幼年学校を、仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本に各1校を設立。地方幼 年学校で3年間学び卒業すると、中央幼年学校に2年間学び、地方・中央で5年間の修業年 限となった。By wiki.