2001年10月 儀間比呂志・神谷良昌『絵物語 琉球に上陸したジョン万次郎』沖縄タイムス社

写真右から神谷良昌氏、儀間比呂志氏、オーストラリアのカイリー・クラークさん




○ジョン万次郎の子孫が来県するのは初めて。万次郎から四代目の中濱博さん(73)=愛知県=は「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている。来ることができてとてもうれしい」と感激した表情で語り、高安家五代目の高安亀平さん(72)も「感無量だ」と喜んだ。万次郎は糸満市大度に上陸。琉球王府により、翁長の親雲上(ぺーちん)だった高安家に約5カ月間、収容された。外出は禁じられていたが、夜は地域住民と交流し、綱引きなどにも参加したとされる。→(『琉球新報』2002-5-12)/写真左から新城栄徳、儀間比呂志氏、高安亀平氏

□中浜万次郎の話ー高安公造氏(71歳)は祖父より聞いたとして次のように語れり
1、万次郎は約半年沖縄に滞在せりと、即ち正月に来り7月に去れり 1、大和人なることは彼等も知れり、土佐人と知れり 翁長の当銘三郎氏の話  1、宿屋は屋号徳門であって当時万次郎が使用したステッキも今に残っているそうだ。徳門の老婆は90歳位であるがその人の話ー言葉も始めは通じなかったが後ではよく通じて諧謔もやるようになった。→眞境名安興「笑古漫筆」

1851年2月 ジョン万次郎、琉球上陸
 同年4月、アメリカ合衆国とメキシコが国境を決定。5月にはイギリスで第一回のロンドン万国博覧会が開かれ、フランスでは12月、ルイ・ナポレオンがクーデター

   
1851年2月 ジョン万次郎、琉球(大度浜)上陸
『球陽 附巻四』〇尚泰王 四年正月初三日、日本土佐国人有りて、杉板に坐駕して摩文仁群小渡村に来到す。此の日、土佐国人三名有りて、杉板一隻に坐駕し小渡村の浜に到る。随ひて来歴を問ふに即ち云ふ、上届丑年正月初五日、我等小船に坐駕し、海に出でて釣魚するの時、陡に暴風に遇ひ、風に随ひて漂流し、経に七日を歴て、纔に辰方無人島に到りて擱礁撃砕し、上岸活命す。該島は、物の食すべき無く擒へて衆鳥を食し、聊か餓莩を免かる。六月に到り、亜米理幹国の討鯨船一隻、該島洋面を駛過するを見る。即ち其の船を招来して、性命を救ふを請ひ、該船に塔駕して、西洋  (略)只万次郎一人頗る亜米理幹文字を知る有り等語と。本年七月、本国に駐箚する倭官四員の離任して回国するの便有るに逢ふ。其れをして接護回籍せしむ。

   
   
ジョン万次郎が上陸した大度浜の宿道

□1851年ージョン万次郎達は、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩や江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。嘉永5年(1852年)に河田小龍が取り調べ報告書「漂巽紀略」を書く。その際に開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩主・島津斉彬がその英語・造船知識に注目した。これが縁で薩摩藩の洋学校(開成所)で英語の講師をしているほか、和洋折衷船の越通船建造にも知識を活用されている。→(ウィキペディア)■儀間比呂志『琉球に上陸したジョン万次郎』(2001-10沖縄タイムス社)

①ジョン万次郎

ジョン万次郎資料館=住所: 高知県土佐清水市養老303 海の駅あしずり 電話:0880-82-3155
日本初の国際人「ジョン万次郎」の足跡。中ノ浜村(現土佐清水市中浜)に漁師の子として生まれ、後に日本人として初めて渡米。帰国後、アメリカで学んだ文化や思想を伝え、龍馬などに多大な影響を与えたジョン万次郎。その生涯を映像やジオラマなどで紹介しており、万次郎直筆の英文字など、万次郎にまつわる様々な史料を展示している。(島袋和幸氏撮影)→島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)2016年5月25日『沖縄の軌跡』第171号「琉球に上陸した{ジョン万次郎}」

雑司ヶ谷霊園 ジョン万次郎墓、「中濱萬次郎記念碑」ー島袋和幸氏撮影


1929年1月15日『沖縄朝日新聞』「島尻郡摩文仁に上陸した幕末の風雲児 中濱万次郎の生涯」


1932年3月『沖縄朝日新聞』山城正忠「戯曲『中濱萬次郎』に就いて」



1991年12月 長田亮一『ジョン万次郎物語』沖縄県ジョン万次郎を語る会/1971年12月 石井研堂『異国漂流奇譚集』(1927年 初版)新人物往来社


下の資料は真喜志康徳氏に中濱武彦氏が贈ったもの。

中濱武彦(なかはまたけひこ)
1940(昭和15)年4月、ジョン万次郎こと中濱万次郎の三男・慶三郎の孫として兵庫県西宮市に生まれる。神奈川県立鎌倉高校卒業後、東京ガス株式会社に奉職。ジョン万次郎の曾孫として、曾祖父について精緻に史料にあたるとともに、多くの関係者に直接取材を重ね、世界40ヵ国以上を訪れて「旅のエッセイ」を発表している。
マサチューセッツ州は、日本とのゆかりも深い場所です。古くは、幕末に活躍したジョン万次郎がボストン南部のフェアヘブンで生活しました。情緒的な指揮でボストン市民に愛された小澤征爾も、30年近くをボストン交響楽団で過ごしています。マサチューセッツ州は、アメリカ建国の歴史を色濃く残しています。イギリス本国の植民地政策に反発した人々が反旗を翻し、レキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が勃発。そして、アメリカ合衆国発足へと歴史が動いていきます。
フェアヘブン
ボストンから約1時間南下したニューベッドフォード湾沿いにあり、かつては捕鯨船が行き交っていた港町。ここは日本とアメリカの架け橋となったジョン万次郎(中浜万次郎)ゆかりの地です。万次郎トレイルでは、彼の足跡をたどることができます。スタート地点となるミリセント図書館には、万次郎に関する書物や日本刀などのコレクションが展示されています。そのほか、万次郎とホイットフィールド船長が通った旧ユニタリアン教会、船長の家、万次郎が一時ホームステイしたイーベン・エイキンの家、英語を習ったアレン姉妹の家、ホイットフィールド家の墓、通った公立学校オールド・ストーン・スクール、航海術などを学んだ私立高等学院ルイス・バートレット・スクールなどを巡ります。船長の家は、2009年5月にホイットフィールド・万次郎友好記念館としてリニューアルしました
ミリセント図書館
ミリセント図書館の一番奥の左側にあるThe Rogers Roomは、ジョン=万次郎の部屋としても知られています。入り口を入ったすぐ左横にあるガラスケースには万次郎の写真や日本刀など(写真左)が収められています。実はこの刀には隠されたストーリーがあります。1918年に万次郎の長男・東一郎氏がフェアヘブンに刀を寄贈しました。この贈呈に際して、当時のウィルソンアメリカ大統領がロードアイランド州ニューポート軍港の司令官を式典に出席を依頼し、さらにマサチューセッツ州副知事が演説をするほどりっぱな贈呈式が行われました。この刀は日本との戦争中にも展示されるほど大事にされていましたが、1977年に盗難にあってしまいます。現在展示されているのは、その後Seton Hall 大学の菊岡博士によって盗難にあった刀の代わりとして寄贈されたものです。ロジャースルームには他にも万次郎ゆかりのものとして、フェアヘブンの画家・Arthur=Monizが描いた万次郎と恩師・ホイットフィールド船長の絵(下の写真参照。この絵は絵葉書にもなっています)や万次郎を救出したジョン=ハウランド号の絵などがあります。またここを訪れた日本人から送られた焼き物や日本人形などがいっぱい飾られています。


ホイットフィールド船長の家
ウイリアム・ホイットフィールド船長が、万次郎を歓迎して住ませた家。万次郎が、アメリカに住んだ最初の日本人ということになる。また、この出会いが、今日に見られる日米間の友好関係の基盤になっていると言えよう。





2006年11月 『宜野座通男全集 4巻』「琉球におけるジョン万次郎」