琉球の絵師・慎克凞と阿嘉宗教
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左、1990年7月18日『沖縄タイムス』/右、1988年7月4日『琉球新報』

 1875年(明治8)年に来琉した河原田盛美の『琉球紀行』に「写真は既に垣田孫太郎なるもの創めたれとも之を内地に輸送せさるは亦全き利を得るに至らさるなり」とあり、垣田という鹿児島商人の手によって沖縄での写真屋は始められたが短命であったようだ。79年3月25日、琉球処分官・松田道之、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部、巡査160人余、熊本鎮台分遣隊400人来琉。島袋盛敏が「私の家は当蔵町のアダニガーお岳の下にあったが、仲宗根嶂山家も名護から引き上げてお岳の傍らに来た。私の隣人になっていたのである。そうして嶂山翁の長男真吉君と私は大の仲良しになり、毎日行ったり来たりして遊んだものだ。嶂山翁は初め沖縄県庁の役人や分遣隊の士官達の求めに応じて、絵を売り生活しておられたとのことであるがその需要がなくなったので、名護の教員になられたのであろう。しかし教員も長く続かず再びアダニガーお岳の傍らに落ちつかれたものと見える」と述べているように、当時の画家の友寄喜恒、阿嘉宗教、佐渡山安豊、麻有信・儀間親雲上、兼城昌興、比嘉華山などは沖縄県庁や分遣隊の士官達の求めに応じて首里城や沖縄風俗絵を描いていたようだ。

仲里コレクション「友寄喜恒」
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司馬江漢写(?)


兼城昌興



 笑古漫筆には琉球美術史の史料も豊富である。私は置県後の画家、阿嘉宗教を見出して子孫を訪ねた。作品の「首里那覇鳥瞰図」も沖縄県立博物館、沖縄県立図書館、那覇市史編集室に所蔵されていることを確認した。同時期の画家、友寄喜恒の逸話も豊富である。(略)琉歌人として柳月庵、漢詩人・郷土研究家としての笑古の真境名安興を、伊波普猷は1924年刊行の『琉球史料目録』で「真境名安興氏は図書館開館当時から今日に至るまで、多大な貢献をされたばかりでなく、今その目録の公刊に当たり、序文を物して史料蒐集の経緯を審にされた。特に記してその労を謝する。(真境名安興)氏の名は恐らく郷土研究の続くかぎり記憶されるであろう」と記している。

1991年5月ー『山学校』№1□新城栄徳「絵図資料と首里城」
精細を極めたる『首里城正殿実施設計報告書』という資料があって、その中に「絵図資料」があるので、巷の沈潜したる首里城正殿の色彩、いわゆる「赤黒論争」と、大龍柱の「正面向き」、「向き合う」とかの論争を横目で見ながら思いつくまま述べてみよう。
 絵図資料の頁の左側「首里那覇港図」は、19世紀に描かれたもので、正殿、南殿、北殿、奉神門の屋根が連なって簡略化されている。正殿前の画廉と向拝部分は割と丁寧に描かれ大龍柱は向き合っている。右側の「首里那覇鳥瞰図」と「琉球王府首里那覇之図」の作者は同一人物で阿嘉宗教と言って友寄喜恒と同時代の画人である。


金城安太郎「王朝時代の那覇港風景」

 うつくしい日本のイメージとしてステレオタイプであるが「ゲイシャ、富士山、桜」が浮かび世界的にも古くから著名である。イギリスのカメラマン)ハーバート・G・ポンティングが明治時代に『この世の楽園 日本』という写真集を発行し「ゲイシャ」を紹介している。私は小学4年生のときに粟国島から出て那覇安里の映画館「琉映本館」の後にある伯母宅に居候していた。だから東映時代劇の総天然色映画は小学生ということで映写技師にも可愛がられ映写室でフィルムの切れ端を貰って遊び、映画は殆どタダで見た。東映時代劇には「ゲイシャ、富士山、桜」がフルに取り込まれていた。特に京都を舞台にした片岡知恵蔵(日本航空社長の植木義晴は息子)や市川歌右衛門(俳優北大路 欣也は息子)主演「忠臣蔵」や「新撰組」も見た。片岡や市川が顔で演技するのは今の世代は理解できるであろうか。美空ひばりが歌いながら男役もこなし縦横に活躍していた。

討ち入りを決意した大石内蔵助が、一力茶屋で豪遊したという話や、幕末には大和大路通りに営業していた「魚品」の芸妓、君尾が志士たちを新撰組の目から逃れさせたことは有名だ。近藤勇の愛妾と言われた深雪太夫(お幸)も。明治時代には「加藤楼」のお雪が、アメリカの実業家ジョージ・モルガンと結婚し、現在なら1億円ともいわれる高額で身受けされたことも伝わる。ほかに芸妓幾松(いくまつ)として維新三傑・桂小五郎(後の木戸孝允)の妻「木戸松子」も有名。西郷隆盛が奄美大島に流されたおり、愛加那(あいかな)との間にもうけた子供西郷菊次郎(後に京都市長)がいる。同じく妹に大山誠之助(大山巌の弟)の妻となる菊子(菊草)がいる。何れも明治の元勲たちは青春時代は明日も知れぬ身なので、愛人の出自には拘らない様であった。似たタイプに大田朝敷がいる。大田は連れあいに旅館を運営させている。旅館と似た業種に「料理屋・飲食店」がある。

1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。1872年9月に琉球藩が設置されると川崎正蔵も戸籍寮の根本茂樹らと来琉し沖縄物産調査を行った。川崎は「日琉間に郵便定期航路を開き、武断政策よりも経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島密に認められた。この年に名妓小三が鳥取藩士松田道之(後の琉球処分官)と祇園下河原の大和屋お里との間に生まれている。





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1879年2月 渡邊重綱『琉球漫録』小笠原美治

1893年6月1日に笹森儀助が陸奥丸で那覇港に着く。港には朝日丸、信濃丸も停泊。西村浅田五三郎方に投宿
1894年5月ー笹森儀助『南島探検』
□漢那氏曰く那覇3千の娼妓なるものは各間切より出ずる所概ね年齢は9歳より13,4歳以下の女児とす當初上等は大凡身売代は金160圓位にして以下は7、80圓に至る一昨年頃は国頭地方より該地間切にて両3名を出したるも今日は一人も有るなし而して中頭島尻両地方より出すものは本間切美里19ヶ村30人位越来間切10ヶ村60人位読谷山16ヶ村北谷10ヶ村中城23ヶ村浦添14ヶ村具志川15ヶ村西原、佐敷、大里、南風原、眞和志、小禄、豊見城諸間切より最多く出すものとす但し人身売買禁止の令發せらしより其名目を改めたるも内実は依然旧を改めず」

現時点で見られる沖縄写真屋の最初の広告は、1895(明治28)年の『袖珍沖縄旅行案内』所載の「岩満写真場ー那覇東村上の倉」で後の上之倉写真館である「那覇東村上の倉・岩満写真場「写真ー琉球絶景の眞趣を穿つは写真なり弊店写真中優等なる者は首里城、中城殿、師範学校、崇元寺、波の上、墓所、辻遊廓、市場、通堂浜、那覇市街、吾妻館、奥武山、港口、三重城中島海岸、蓬莱山なり琉球の眞景を知り度き人は続々御注文を乞う」とある。この沖縄旅行案内には旅店遊廓及び割烹店も紹介されている「遊廓ー辻を第一とし中島渡地之に次ぐ辻にて」有名なるものは荒神の前大福渡名喜伊保柳香々小新屋染屋小等とし又内地芸妓を養ひ宴会の席に侍せしむる所を通堂とし辻中島渡地を通じて貸座敷631戸娼妓1442人芸妓辻9人中島4人又通堂の貸座席兼割烹店は東屋芸妓21人を有し常盤芸妓9人小徳芸妓10人海月3人合計46人」、演劇場は「本演芸場中毛演芸場壬辰座及び首里演芸場等なり開場は毎日午后2時より6時半より12時迄木戸銭は晝四銭夜三銭場代とてはなし」とある。同書発行5年前の1890年『沖縄県統計』を見ると写真師のところに那覇2人となっている。




1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図会』東陽堂
『風俗画報』は1889年に創刊された。出版元の東陽堂は1876年、東京日本橋で吾妻健三郎によって創業された。後に吾妻と同郷(山形米澤)の縁で渡部乙羽が入社する。乙羽は後に出版社博文館の婿に入るまで『風俗画報』に健筆を揮った。1889年には沖縄県七等属の石沢兵吾が東陽堂から『琉球漆器考』を刊行した。

「料理屋・飲食店」の歴史をみる。1879年5月4日の『西京新聞』は「那覇に料理店、茶店の向は一ヶ所もなし」とある。料理屋、芝居は警察の管理下にあるので統計がある。1889年、那覇の料理屋ー海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤などがある。90年、料理屋・飲食店ー那覇39軒、首里6軒。91年、料理屋・飲食店ー那覇63軒、首里9軒、名護2軒、渡久地1軒。92年、料理屋・飲食店ー開業48軒、廃業15軒。93年、寺内某が来県、料理屋「東家」(後の風月楼)の協力をえて琉球芝居の俳優、囃子方らを雇い関西興行をなす。94年3月9日『国民新聞』「沖縄農民は4食にして唐芋と云う甘藷、豆腐、味噌汁および豚肉らはその常食にして魚類、米、粟、豚脂に揚げ たる麦粉らこれに次ぐ。そのほか蘇鉄、椰子あり。料理には大概豚脂を用ゆ」、料理屋・飲食店ー那覇144軒、首里47軒、宮古10軒、八重山6軒。95年、料理屋・飲食店ー那覇171軒、首里62軒、宮古14軒、八重山8軒。96年、台湾領有で那覇の主な料理屋、台湾に移る(いろは亭、玉川屋などは残る)。99年、名護に料理屋5軒、仕出屋2軒。那覇南洋堂「食パン」販売。宮里松、大門前通りで蕎麦屋を開業(日本そば)。1900年、那覇「りん寿司」改良すしを始める。楢原鶴吉「東家」を譲り受け、大阪より料理人を雇いいれる。那覇「鶴屋」練羊羹・カステラ・メリケン粉販売。那覇「住吉屋」牛すき焼き8銭、鳥すき焼き12銭、すし7銭。那覇「紅屋」茶碗蒸し、すし、かまぼこ、牛肉、鳥肉販売。01年12月、高等女学校及師範学校女子講習科が料理科を新設し和洋の料理法を実習、費用は自弁。02年4月9日、福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑下りに「支那そばや」開業。 

太田朝敷とジュリ芝居
真境名由康がある座談会で「初めは、全部女、女郎のいい年頃の、それ達がやっているんですよ。雑踊りなんかやって、肉襦袢ですね。あれ着けて、裸みたいでやったような話がありますね。あの時に、ちょっと変わった話がありますよ。その時に、太田朝敷さんが、そこの事務員で、庶務会計で、それがもう妙な話ですよ。警察方面との交渉とか、いちいち太田先生が引き受けてやっておったそうですよ。いろいろ首里の方々から苦情を言われて終い、『あんたはジュリの使い者になって』と叱られて、それから東京に行くようになったそうですよ。」「それじゃ、私はおいとまして、皆の言葉に従って東京に行き、研究して来るからと言って、手元から太田先生は謝礼を受け取って計算もせずに、すぐお菓子を買わして、皆に配分して、別れをしたと云う話が残っています。」と証言。大田は1900年4月 『文芸倶楽部』の「琉球の遊廓」で、「本誌第六巻第四編にある、琉球遊女の写真中、立姿のものは、辻の香々小と云う妓楼の、乙と云うて、頗る付の美人だ、或る内地の歴々が彼女を見て、流涎三千丈であったというが、これは強ち無理でもない、で彼の写真を見るにつけて、日本中外に類のない、琉球遊廓の状態が、ありありと胸に浮かぶのだ、そこで三つ四つかわりたる風習を書く気になった。・・・」と述べている。
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2011年11月15日『琉球新報』

1903年3月ー「学術人類館」開館

1910年8月9日ー馬山丸で第2観光団(70人余)の一人、松村梅叟(京都市立絵画専門学校生徒)来沖
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1908年5月 菊池幽芳『琉球と為朝』

1910年5月15日ー『日本及日本人』第573号 碧悟桐「那覇での社会問題として第一に指を屈せられるべきものは辻遊郭である」
麦門冬と河東碧梧桐
1984年12月発行の『琉文手帖』「文人・末吉麦門冬」で1921年以降の『ホトトギス』の俳句も末吉作として収録した。これは別人で熊本の土生麦門冬の作品であるという。土生麦門冬には『麦門冬句集』(1940年9月)があった。1910年5月、河東碧梧桐、岡本月村が来沖したとき、沖縄毎日新聞記者が碧梧桐に「沖縄の俳句界に見るべき句ありや」と問うと「若き人には比較的に見るべきものあり其の中にも麦門冬の如きは将来発展の望みあり」と答えたという。

1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」
華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽①とか雪舟②とか趙子昂③とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代もあったがそれはすぐに或事情の為に打ち消されてしまったがそれでも猶私にはこれ等の名家の残した作物に対する憧憬崇重の念はやまない。何とかしてこれ等の名画を私の手に入れて、私がそれと日夕親しまれるようになって見たいと思ったこともある。今でもやっぱり思っている。・・・

麦門冬が、私は華国翁と同じ字というのは首里は儀保村のことである。1960年10月の『琉球新報』に中山朝臣が「麦門冬作の『儀保の大道や今見れば小道、かんし綱引きゃめ儀保の二才達』を紹介。儀保は平地に恵まれ『儀保大道』は首里三平でも自他共に認められた大通りであった。この村の二才達(青年達)は総じて磊落、飲み、食い、歌い、踊り傍若無人の振舞で鳴らしたものである。したがって儀保村の綱引きは道路と二才達の心意気に恵まれて荒っぽい綱として有名だったという」。朝臣は11月にも麦門冬が那覇泉崎で愛妻を失って『無蔵や先立てて一人この五界に、酒と楽しみることの恨めしや』も紹介している。サンシンをひくジュリの狂歌には仲浜政摸の「尾類小たが弾ちゅる三味線の音や客すかち銭小(じんぐわ)とてんとてん」がある。遊女よしやの歌「新はぎの御船に嘉例吉の乗り主、夜べの夜はらし波も静か」と夜船する処女航海を、すらすらと歌としている。(中山朝臣1960年)

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1912年1月8日『琉球新報』「遊廓富者物語(1)」/「謹告・琉歌集、本月15日までに代金引換 富川盛睦」
1912年1月9日『琉球新報』「風月愛子さんの手練(上)

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1912年1月17日『琉球新報』「美人投票規定」
1912年1月18日『琉球新報』「美人投票得点」
1912年1月19日『琉球新報』「美人投票得点」「当選美人へ寄付ープラチナ引伸ー1等2等3等各1枚宛 久米 吉村写真館/名人画帳 某氏」
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1912年1月20日『琉球新報』「美人投票得点」
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1912年2月3日『琉球新報』「美人投票得点」「本社美人投票賞品」
1912年2月29日『琉球新報』「美人投票本日締切り」
1912年3月2日『琉球新報』「美人投票ー賞品目録」
1912年3月4日『琉球新報』「美人投票の状態」「尾類馬」
1912年3月8日『琉球新報』「本日の尾類馬」
1912年3月9日『琉球新報』「昨日の尾類馬」