1995年12月ー『沖縄県図書館協会誌』創刊号 〇編集委員ー生沢淳子、國吉綾子、桑江明美、新城栄徳、田名洋子、中野徹、長嶺智子、本郷清次郎
〇『琉文手帖』を作っている過程で図書館人に顔見知りが多い、それで編集委員を頼まれた。先ず『沖縄県図書館協会誌』の宣伝広報のため、『沖縄タイムス』の金城美奈子さんに「県内出版事情」、『琉球新報』の松島弘明氏に「整理部って何?」、東京の島袋和幸氏には「私と図書館」、八重山の上江洲儀正氏に「図書館・資料館案内まっぷ」を書いてもらった。図書館史の資料紹介として島袋全発「南窓雑記」、島袋盛敏「縦横雑音録」を戦前の新聞から転載した。

1998年12月ー『沖縄県図書館協会誌』第4号 新城栄徳「近代沖縄の雑誌ー総目次と解説①『沖縄公論』『沖縄新公論』『郷土雑誌 沖縄』『海邦』」/上間常道「随想:本との出会い 編集者の場合」
2000年3月ー『沖縄県図書館協会誌』第5号 新城栄徳「近代沖縄の雑誌ー総目次と解説②『月刊琉球』」
2003年12月ー『沖縄県図書館協会誌』第7号 新城栄徳「近代沖縄の雑誌ー総目次と解説③『文化沖縄』」
 
2004年12月 『沖縄県図書館協会誌』第8号 新城栄徳「麦門冬と県立図書館と私」
○去った11月25日は、沖縄タイムス主筆・末吉安恭(麦門冬)の命日で没後80年にあたる。その日の『沖縄タイムス』に琉球学の開拓者としての麦門冬を紹介した。ここでは麦門冬と沖縄県立図書館と、私との関わりを述べる。私は「ソテツの島」とも呼ばれている粟国島で、石垣と福木に囲まれて育った。近隣の殆どが首里の末裔だという。だから我が家の隣りには「首里福原」という集会所がある。
 それはさておき、小学4年のとき、叔母が病死、祖父が日射病で死去。那覇の父の呼び寄せで家族全員が那覇に移住した。安里の伯母宅、親類の寄宮、楚辺などに住み、泊に定住し「ソバ屋」を始めた。その頃の那覇はトラックやバスが砂ぼこりや排気ガスをばら撒いて走っていて、その側を馬車がノンビリと馬糞を落とし散水しながら歩く。さながら西部劇映画の風景だ。泊界隈は空き地が多くカエルやクモをよく捕まえて遊んでいた。上之屋の外人住宅に行き(金網を潜って)同世代の子供とジェスチャーで会話しながらパチンコを作ってあげたりした。プラモデルの戦車や航空母艦、菓子などを簡単にくれた。プロレスごっこなどし楽しく遊んだ。
 中之橋が出来ると前島は近くになり国際通りも近くなった。それまではよく首里の図書館、博物館に行った(学校をサボって)。首里図書館は、今の沖縄県立図書館の前身で館長は末吉安久、常駐していたのが嘉手納宗徳氏であった。そこでは日本歴史人物事典から挿絵入りで字も分からぬままに写していた。小学生が今頃ここに居るのはおかしいと嘉手納氏に説教された。安里の琉映本館では東映時代劇、貸本屋では漫画・劇画をよく見た。ウチナー芝居の那覇劇場は母に連れられて歌劇や琉舞が好きになる。
 中学生になると、休み時間はいつも学校図書館で過ごしていたので、上級生の図書委員長(書店の娘)に委員をさせられた。委員になると教師用や館内用の本も借りられるので良かった。委員会議というのがあるが義務ではないので出た記憶がない。図書委員バッジは今もある。私の息子や娘は大阪で生まれ育ったが、中学は私と同じこの学校である。さて中学生になると新聞もよく見る。『沖縄タイムス』『琉球新報』に記事は結果的に反米感情を煽る事件記事で溢れていた。
(略)
 沖縄県立沖縄図書館長の伊波普猷がスキャンダルもあって上京しようとする中、末吉麦門冬の友人たちは、麦門冬をその後継図書館長にと運動していた。山里永吉の叔父にあたる比嘉朝健もその一人であった。その朝健の案内で、沖縄政財界に隠然たる力を持つ尚順男爵を訪ねた。かつて、麦門冬が閥族と攻撃した当人である。朝健の父・次郎と尚順は親しかった。朝健に引っ張られる形で尚順邸を訪ねた。史筆・漢詩人で知られる麦門冬である。漢詩人の尚順は、琉球料理で歓待し、長男・尚謙に酌をさせるなどの好意を示し麦門冬が語る郷土研究の情熱に、その館長就任に力を尽くすと約束した。が、麦門冬の水死でそれらが無に帰す。
 後年、首里図書館に麦門冬の蔵書が寄贈された。尚順はその本の山を見て、微醺を帯びた麦門冬を想いだし漢詩を作っている。
  数奇閲歴麦門冬/俳句和歌一代宗/万巻遺書填巨館/猶留眼底半酣容 麦門冬遺書寄贈首里図書館詩中及此(昭和11年11月9日『沖縄日報』)



2005年5月ー沖縄タイムス「琉球弧の雑誌展」図録
屋部憲次郎書

2005年5月ー沖縄タイムス「琉球弧の雑誌展」図録 新城栄徳「末吉麦門冬<」/b>



2005年5月ー沖縄タイムス「琉球弧の雑誌展」図録

2005年5月ー沖縄タイムス「琉球弧の雑誌展」

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左から金城竹治氏、大城立裕氏
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