null当時の合羽橋(暮らしの手帖)

上野駅は北国(雪国)の玄関口で周辺には高村光雲作の西郷隆盛銅像や、朝倉文夫作の「生誕の像」(同じものが那覇市役所広場にある)がある。ところで、金山喜昭『日本の博物館史』を見ると、江戸後期に開かれた同好者たちによる物産会(本草会)はモノを集めて公開する、出品物を記録・刊行していく点で博物館の源流だとしている。官僚主導の日本の近代博物館と違って近江の木内石亭の「奇石会」、大坂の木村 蒹葭堂「貝類・鉱物」を例に物産会は横並びの同好のサークル活動だったとしている。

高村光雲作の西郷隆盛と犬の像

明治政府は1867年に「神仏分離令」を布告。そのために全国で廃仏毀釈が行われ古文化財の破壊を招いた。71年になって太政官は「古器旧物保存ノ布告」を出す。やがてそれが国粋主義や美術富国論の勃興へとつながる。前出の『日本の博物館史』には鈴木重雄により1924年に設立された「遠野郷土館」を、個人の趣味や愛好的な色彩ではなく、国策に従う郷土教育ではなく「日本歴史のどの頁に吾々の共鳴する点がありますか」とし、「個」の確立を目指した点を特に述べている。

私は東京浅草で中華料理店の出前持ちをしたことがある。店は合羽橋近くにあった。自転車で浅草中走り回った。大半が「バクチ場」で入口まで持って行くと玄関で組員が受け取る。銭湯に入ると全身刺青(伝統芸術)の初老の人が大半であった。浅草から上野は近い。上野公園はもともと寛永寺の境内で1873年に宮内省管理、77年には第一回内国勧業博覧会が開かれ美術館も設けられた。82年に上野動物園、博物館。87年に美術学校・音楽学校などが開設、移築された。1924年、皇太子御成婚記念で東京市に下賜され恩賜公園として一般に開放され科学博物館、美術館などが出来て日本有数の芸術文化の森となった。→合羽橋「かっぱ橋道具街」。大阪には「千日前道具屋筋商店街(せんにちまえどうぐやすじしょうてんがい)がある。ー大阪市中央区難波千日前にあるアーケード商店街。飲食店などで用いる業務用の調理器具や什器を扱う店が密集している。

1957年12月 岩井弘融『暴力 日本のやくざ』平凡社
1963年3月 岩井弘融『病理集団の研究ー親分乾分集団研究ー』誠信書房
□第1篇 博徒・的屋集団
  第2篇 土建・港湾・炭鉱等における親分乾分関係
  第3篇 壮士・院外団・右翼
  第4篇 パースナリティと集団性格

岩井弘融ー佐賀県出身。東京帝国大学卒。東京都立大学助教授、教授、大正大学教授、東洋大学教授。1989年、定年、名誉教授。代表的な著作に『病理集団の構造』や『犯罪社会学』などがある。2013年8月4日、急性肺炎のため死去。94歳没。→ウィキ

1958年10月 磯村英一『性の社会病理ー日本の売春にみるもの』大日本雄弁会講談社
1961年12月 磯村英一・木村武夫・孝橋正一『釜ケ崎/スラムの生態』ミネルヴァ書房

磯村英一 いそむら-えいいち 1903-1997 昭和-平成時代の社会学者。
明治36年1月10日生まれ。磯村春子の子。東京市役所(のち都庁)勤務をへて,昭和28年都立大教授となる。41年東洋大教授,44年学長。アメリカ都市社会学にまなび,行政経験をいかして日本の都市社会学の確立につくす。同和対策協議会会長などもつとめた。平成9年4月5日死去。94歳。東京出身。東京帝大卒。 →コトバンク


1962年6月  大橋薫『都市の下層社会ー社会病理学的研究』誠信書房
大橋薫-福島県田島町出身で、会津中学、浦和高校を経て1942年(昭和17年)に東京帝大へ進む。翌年に学徒出陣し、石垣島で終戦を迎える。階級は陸軍少尉。 復学後東京大学文学部、同大学院で社会学を専攻し、大学院退学後大阪市立大学に講師として採用され、家政学部助教授に進む。明治学院大学の社会福祉学系大学院開設に際して招聘を受け[10]、文学部助教授、教授を経て1966年(昭和41年)に社会学部教授となる。担当は社会病理学。→ウィキ



藤田 五郎(ふじた ごろう、1931年11月2日 - 1993年12月11日)は、極道出身の小説家。任侠小説を主に書いた。自伝的要素を含む「無頼 ある暴力団幹部のドキュメント 」は後に「無頼」シリーズとして渡哲也の主演で映画化された。 1975年に映画化された「仁義の墓場」でも知られる。1993年、東京都中央区内のホテルでビニール袋をかぶり窒息自殺した。→ウィキ


1980年10月 藤田 五郎『任侠百年史』笠倉出版社/1983年8月『月刊実話ニッポン』「人物クローズアップ ”人斬り五郎〟銀座に遊ぶ」
映画ー1965年11月 那覇 沖映本館「血と掟」(安藤昇)


①空手家・赤嶺嘉栄
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写真ー前列左から友寄英彦実行委員長、平良良松那覇市長、比嘉佑直保存会長。後列左から備瀬政太郎経民部長、前田武行助役、稲嶺成珍助役、赤嶺嘉栄審判長。→2001年12月 『那覇大綱挽』那覇大綱挽保存会
空手の人物事典や上地流の本を見ると赤嶺嘉栄が出てくる。沖縄人連盟史関連にも名前が出てくる。その沖縄人連盟では赤嶺が中心となりヤクザ鴻池組系井上組に抗議している。また又吉世喜(1975年)や喜舎場朝信(1977年)の葬儀に、宮城嗣吉と共に友人代表のひとりに名をつらねている。また赤嶺の葬儀のとき友人代表のひとりとして東京の万年東一の名がある。万年は横井英樹銃撃事件で知られる安藤昇の親分である。
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写真ー赤嶺嘉栄
万年東一の名刺/安藤組組織図、上の方に万年東一の名がある。








1983年8月『琉球新報』新城栄徳「落ち穂ーオキナワの少年」

東京時代の座右の書

 左の本の表紙の「さざれ石」写真を見て京都のさざれ石を見た。→日本国歌にうたわれている「さざれ石」とは、ちいさな石という意味です。さざれ石は年とともに大きく成長し、岩になると信じられている神霊の宿る石です。 国歌の原典は「古今和歌集」にも詠まれた生き石伝説「さざれ石」です。下鴨神社の「鴨の七不思議」の中に、「泉川の浮き石」や「御手洗の神石」伝承が残っており、石に宿る神聖な力をを現しています



 ある日、新橋駅近くの沖縄屋に行く途中で赤尾敏の演説があった。私は前のほうで聞いていた。終わると赤尾が街宣車から降りてきて一人一人にハガキ大の名刺を配り始めた。私も貰った。これが切っ掛けで右翼を調べ始める。もとより協調性が無いので団体活動は好きではない。だから左右の団体とも無縁であった。後に右翼研究卒業の意味で、このとき集めた右翼(児玉誉士夫著作)資料は那覇の前島にあった日思会(金城武夫事務局長)にあげると返礼に金城氏、会員5人が御馳走してくれた。
 1984年6月ー親戚の経営する泊サンワホールで赤尾敏の演説会を聞きに行った。この爺さん、まだ生きて居たかというのが実感であったが、さすがに老獪な人物、沖縄県民の複雑な気持ちは分かっているようで『皆さん、天皇陛下万歳をお願いします』と申し訳なさそうに云うていた。